作家である村田基が究極の思想である「科学的倫理学」を武器にさまざまな問題を切りさばいていくブログです。
昨今、体罰論議が盛んですが、「科学的倫理学」の観点から見れば、体罰問題も簡単に理解できます。
暴力には2種類あります。社会秩序を維持・強化する方向の暴力と、社会秩序を破壊・改革する方向の暴力です。「体制側の暴力」と「反体制側の暴力」ということができます。
ただ、「体制側の暴力」は通常「暴力」と呼ばないのです。そのため議論が混乱してしまいます。
たとえば、当時の仙谷由人官房長官は国会答弁で自衛隊のことを「暴力装置」と呼び、批判を浴びました。軍隊や警察を「暴力装置」と呼ぶのは反体制側である左翼や学術の世界の一部ではあることですが、体制側つまり一般社会ではそんな呼び方はしません。その呼び方を採用するか否かは、その人の立場によることで、どちらが正しいということではありませんが、官房長官という体制側の人間がこの呼び方をするのは不適切です。仙谷氏もそのことを自覚して、のちに訂正・謝罪しました。
人が人を殴るのは一般に「暴力」といいますが、親が子どもを殴るのは「暴力」とはいいません。「体罰」「しつけ」などといいます。つまりこれは社会秩序を維持・強化する方向の暴力だからです。
反対に子どもが親を殴るのは、社会秩序を破壊・改革する方向の暴力ですから、そのまま「家庭内暴力」と呼びます。
子どもが親に暴力をふるうというのは、どうやら日本以外にはほとんどないもののようですが、それはともかく、世の中の価値観が変わり、親が子どもを殴ることも暴力であるという認識が生じてきました。また、配偶者間の暴力も暴力であると認識されるようになってきました(以前は「夫婦喧嘩で手が出る」などといって、「暴力」とはいわれませんでした)。
しかし、日本では子どもから親への暴力を「家庭内暴力」と呼ぶことが定着しているので、親から子への暴力、配偶者間の暴力も「家庭内暴力」と呼ぶと混乱してしまいます。そこで、親から子への暴力、配偶者間の暴力は「ドメスティック・バイオレンス」「DV」と呼んで区別するのが一般的です。
生徒が教師を殴ったり、学校内の備品を壊したりするのは、社会秩序を破壊・改革する方向の暴力ですから「校内暴力」といいます。しかし、教師が生徒を殴るのは、社会秩序を維持・強化する方向の暴力ですから、「体罰」といいます。
「暴力」という言葉には悪い意味しかありませんから、こうした言い分けが行われるわけです。
生徒が教師を殴っては学校が成り立ちませんから、「暴力」と呼んできびしく対処することになりますが、教師が生徒を殴る分には、殴られた生徒が傷つくだけで、学校の秩序にはむしろプラスですから「体罰」と呼んで、文部科学省も世間一般も保護者すらも問題にしません。生徒がケガをしたり、死んだり、自殺したりしたときに問題になるだけです。
私たちは言葉を使って思考しますから、こうした「暴力」と「体罰」の使い分けを理解していないと、思考も議論も混乱してしまうことになります。
「体制側の暴力」と「反体制側の暴力」を、どちらが正しいということは抜きにして、比較してみます。
「体制側の暴力」は権力者に支持され、また混乱を嫌う一般の人にも支持されるので、増大する傾向があります。
一方、「反体制側の暴力」はちょっと発生しただけで、寄ってたかってつぶされる傾向にあります。
また、体制内に暴力的傾向を多く持つ集団は、そうでない集団よりも戦いにおいて強い傾向があります。暴力団同士の抗争や、国家間の戦争を考えればわかるでしょう。そのため体制側の暴力はさらに強化されていきます。
一部のスポーツや格闘技においても、暴力的傾向は有利に働く場合があり、強いチームや強い選手は暴力的傾向を持っている場合が多くなります。
こうして「体罰」などの暴力的傾向は社会秩序の中に根深く存在することになりました。これを排除するのは容易なことではありません。とくに権力者は本気で「体罰」退治に取り組もうとはしません。
たとえば、自民党は「いじめ防止対策基本法案」の原案をまとめましたが、教師による体罰もいじめと見なすということで、わけがわかりません。いじめ防止法をつくっていたら、急に体罰問題が浮上してきたので、あわてて押し込んだということでしょう。反対の声が強いので、たぶん変更されるでしょうが、体罰についてまじめに考えていないのは明らかです。
橋下徹大阪市長も、「体罰」に焦点を絞るのではなく、「桜宮高校の伝統」を槍玉にあげているので、本気で「体罰」禁止に取り組むつもりはないようです。
ところで、私たちは「体罰」にどう対処するべきかということですが、「科学的倫理学」は現実がどうであるかを説明するだけで、私たちがどうするべきかを教えるものではありません。それは各自で考えてください。
ただ、人間性というのは生まれながらに決まっています(どう決まっているかは省略します)。体罰を受けるのは誰でも不快です。体罰をするほうも、その行為自体は不快なはずです。ただ、体罰によって大きな利益が上がれば、体罰をしたくなる人は出てくるでしょう。また、体罰をされても、スポーツで強くなりたいと思う人も出てくるでしょう。
ですから、現実問題として学校内やスポーツ界で体罰を禁止する場合、こうした体罰志向みたいなものがあることを考慮しないとうまくいかないと思います。
ところで、私自身は、体罰などするほうもされるほうもまっぴらごめんです。