村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2013年03月

シリーズ「横やり人生相談」です。今回は趣向を変えて、相談ではなく回答のほうを俎上に載せることにします。
 
朝日新聞の「悩みのるつぼ」という人生相談コーナーで美輪明宏さんが回答者を務めています。
美輪さんといえば、昨年末の紅白歌合戦で「ヨイトマケの唄」を熱唱し、大きな反響を呼びました。
「ヨイトマケの唄」は長らくテレビで聴くことはできませんでしたが、私はラジオの深夜放送で何度も聴いたことがあります。聴くたびに涙があふれてきます。ここには戦後日本人の原点があると思います。
こんな名曲がテレビで聴くことができなかったのは、「土方」という言葉が差別語だからということのようです。しかし、この歌は差別される側の人間を描いているわけですから、この歌を排除することが差別です。
 
しかし、今の時代に聴くと、ちょっと違うなと思うところもあります。それは学校や教育や出世に対する考え方です。
その部分だけ引用します。「僕」が小学校でイジメられて帰ってきて、母ちゃんが働いている姿を見たところです。
 
なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
  息をはずませ 帰ってはきたが
  母ちゃんの姿 見たときに
  泣いた涙も忘れ果て
  帰って行ったよ 学校へ
  勉強するよと言いながら
  勉強するよと言いながら
 
あれから何年経ったことだろう
  高校も出たし大学も出た
  今じゃ機械の世の中で
  おまけに僕はエンジニア
  苦労苦労で死んでった
  母ちゃん見てくれ この姿
  母ちゃん見てくれ この姿
 
(歌詞すべてを読む場合はこちら)
「ヨイトマケの唄」歌詞
 
この歌は母の愛を歌ったものだといえますが、ここでは母と子の触れ合いはありません。いや、実はこの歌詞の全文を読んでも、母と子の触れ合いは描かれていません。ただ、働く母の姿があるだけです。
しかし、この母は働いて子どもを育て、大学にまで行かせました。それが愛だということでしょう。
そして、子どもは母の期待に応えて勉強し、エンジニアになりました。それによって子どもは幸せになり、子どもを幸せにするという母の願いは成就しました。
 
つまり、子どもによい教育を受けさせることが親の愛であり、子どもにおいてはよく勉強してよい学校に行くことが幸せの道であるという考え方なのです。
これは昔は広く共有された価値観です。とくに貧しい境遇から抜け出すにはこれしかないといってもよかったでしょう。
 
今、同じ考えを持っている人がいると困ります。もう時代が違うからです。
しかし、美輪さんは昔のままの考えなのかもしれません。
朝日新聞の「悩みのるつぼ」の「夫が家庭に向き合いません」という相談に対する美輪さんの回答を読んで、首をかしげてしまいました。「母の愛」についての認識に問題がありそうです。
 
美輪さんの回答を全文紹介するので、相談のほうを要約することにします。
 
相談者は40代の女性で、50代の夫と4歳の子どもがいます。子どもはかわいいし、産んでよかったと思っていますが、夫は「子どもがほしい」とずっと言ってきたのに、子どもができても生活をまったく変えません。週末に数時間子どもと遊ぶくらいです。子どもの世話を頼むと、怒りながら「母親らしくない、仕事を辞めればいい」などと言います。こんな夫に気持ちが冷めてしまい、このままどんどん不満がふくらんでいきそうです。どう気持ちの折り合いをつけていけばいいでしょうか、という相談です。
 
これに対する美輪さんの回答の全文は次の通りです。
 
■結婚とは「えらいこと」です
 
 若いころから勝手気ままに生きてきたから、子どもをもうけても、「生活習慣病」が顔を出すのでしょう。
 
 よく結婚式で「おめでとう」と言いますが、まったくおめでたくないと思います。「えらいことしましたね。大丈夫ですか」というのが私の思いです。結婚というのはもちろん良いこともありますが、たいへんなこと。たとえ血がつながっていても、2人以上の人間が一つ屋根の下に暮らすのはしんどいのですから、まして他人となれば「努力」「忍耐」「あきらめ」の連続以外の何ものでもありません。
 
 結婚式というのは「決別式」。夢と自由に別れを告げ、今日から夫や子どものため、現実に取り組むという覚悟の儀式です。だからウエディングドレスの白は「死に装束」だと、私は常々言ってきました。
 
 あなたの夫は50代。子育ては妻に任せ、外では遊び、家では尊厳が保てないから、黙っているというような、戦前から大正、明治、江戸の世界に生きている人ですね。今は家事や育児に積極的な「イクメン」がメディアをにぎわす時代ですから、いっそう夫に対する恨みも募るのでしょう。でも昔の時代感覚の人としては典型で、普通です。そんな夫を選んでしまったわけだから自業自得。今さらブツブツ文句を言っても始まらない。理知を働かせて生きていく方法を考えましょう。
 
 相談者は子どもに対する愛情が希薄ではないですか。子の寝顔を見て、子守歌を歌っていますか。母子のコミュニケーションに子守歌は欠かせません。良い意味でトラウマになるまで歌いましょう。子どもの顔を見ていれば、たいへんな思いをして産んだ想(おも)いや頼るものもない、あわれな子どもを守ろうという気持ちが出てきます。自分のことばかり考えるエゴイストの根性は捨てなければなりません。
 
 世間には優しく礼儀正しい若者が出てきています。ゴルフの石川遼君、野球の斎藤佑樹君……。親による立派な教育の結果であることは間違いありません。
 
 あなたに苦労があればあるほど、立派な作品になる。母子家庭だと覚悟を決めて、4歳の子どもとどうやって明るく楽しく暮らすのか、考えてみましょう。家に帰ったら、明るい色の服を着て、静かで優しい音楽をかける。あなたの優雅なマリアのような姿を見て、仲間に入れてくれと夫の方が寄ってくる可能性もありますから。
 
結婚についての認識は、私も美輪さんとかなり似ています。
私は幸せな夫婦というのをほとんど見たことがありません。新婚1、2年の夫婦を別にすれば、ほとんどの夫婦は仲が悪いか冷めているかのどちらかです。私がこれまでに見てきた夫婦の中で幸せそうな夫婦は1組か2組ぐらいです。
ただ、結婚が「努力」「忍耐」「あきらめ」の連続だとは思いません。仲良くするノウハウさえ身につければ、幸せな結婚生活を送ることができます(もちろん私はたいへん幸せな夫婦生活を送っています)
 
相談者の夫は自分勝手な人のようです。こういう人を変えるのは容易なことではありません。
しかし、夫との関係は諦めて、子どもの教育を生きがいにしなさいという美輪さんの回答に賛成することはできません。
 
子どもの教育を生きがいにする母親はけっこう幸せであるかもしれません。しかし、子どもは不幸です。自分の人生を母親に奪われてしまったようなものだからです(美輪さんが「作品」という言葉を使っているのも気になるところです)
 
それに、子どもは必ずおとなになります。そうすると、母親は生きがいがなくなって不幸になってしまいます。
母親の多くは、その不幸を回避するために子どもの自立を阻み、いつまでも自分に依存させようとします。そのため、引きこもり、パラサイト、マザコン、非婚などの問題が生じています。
 
こうした問題が生じるのは、「ヨイトマケの唄」の時代とは違うからです。貧しい時代には子どもをいつまでも自分に依存させようとする親などいませんでした。
また、「ヨイトマケの唄」の母親は、働くことに精一杯で、あまり子どもにかまっていられなかったでしょう。今の専業主婦の母親は十分な時間がありますから、どうしても過干渉になってしまいます。
それに、今は大学を出たからといってよい将来が約束されているわけではありません。
 
そういうことを考えると、子どもを育てることを生きがいにしなさいという美輪さんの回答に賛成することはできません。
 
もっとも、それに代わる回答は簡単に示せません。
先ほども書いたように、自分勝手な夫を変えるのは容易なことではないからです。
あえて回答するなら、「夫との関係がうまくいかないことは、友人など周りの人との関係で補いなさい。子どもを生きがいにするのは自立を阻む恐れがあるので、ほどほどにしなさい」ということでしょうか。
 
それにしても、貧しい時代には愛が見えやすかったといえます。
今は働く母親はいっぱいいますが、そこに「ヨイトマケの唄」のような愛があるかどうかわかりません。

人によってまったく評価の分かれる映画です。難解という声もよく聞きます。しかし、きっといい映画に違いないという直感があって見にいったら、やはり傑作でした。
 
監督は「マトリックス」のウォシャウスキー姉弟と、「ラン・ローラ・ラン」のトム・ティクヴァ監督の3人です。ウォシャウスキーの姉は「マトリックス」を撮ったときは男性でしたが、性転換して女性になった人です。こういう人は差別主義的人間観に縛られないとしたもので、そのよさがこの作品に出ています。
 
六つの時代のそれぞれの物語が同時並行的に描かれます。最初のうちは多少とまどいがありますが、物語の主題がしっかりしているので、見ているうちにどんどんわかるようになっていきます。
ただ、人によっては物語に入っていけないかもしれません。そうなると見ているのが苦痛でしょう。なにしろ172分の映画です。
 
トム・ハンクスなど主な役者が一人何役もやっています。私の場合、その予備知識がなかったので、ほとんどわかりませんでした。しかし、予備知識がある人でも、半分以上わからないのではないでしょうか。特殊メイクなどでまったく別人になっているからです(エンディングで明かされます)
一人何役もするのは、輪廻転生を意味すると同時に、人間はみな同じだという思想でもあるでしょう。
 
私の理解するところによれば、この映画は階級、階層、格差からの解放を主題とした映画です。
原作はベストセラー小説だそうですが、「ウォール街を占拠せよ」とか「われわれは99パーセントだ」といったスローガンが叫ばれた時代に合わせた小説だと想像できます。
また、福島の原発事故を踏まえていることも明らかです。新型の原子炉が開発されていて、石油メジャーが原発事故を起こす陰謀をしています。未来の人類は「崩壊」のために原始時代のような生活をしています。「崩壊」が新型原子炉の事故なのでしょう。日本では原子力ムラ、アメリカでは石油メジャーが人類の未来をもてあそんでいるというわけです。
 
映画の冒頭は19世紀の奴隷契約の物語です。若い作曲家は権威ある老作曲家に支配されています(「クラウドアトラス」というのは若い作曲家の曲の題名です)。どの時代だったか忘れましたが、弱肉強食の思想が語られます。現代では老人が施設に閉じ込められています。未来の韓国ではクローンの女性が奴隷としてサービス業に従事しています。つまり階級、階層、格差というわけです。
映画の最後では、支配的な父親に娘が決別を宣言します。親と子の関係も支配であるととらえられているのが、私の思想と同じなので、個人的にうれしいところです。
 
私は私なりの価値観で見てしまいます。ほかの人にはほかの人の見方があるでしょう。
私にとっては「レ・ミゼラブル」が革命の映画であるのと同じに、「クラウドアトラス」も革命の映画です。未来の韓国でクローン女性が革命家とともに戦うシーンもあります。社会主義思想はなくても革命はありえます。
 
この映画では韓国の未来都市ネオ・ソウルが重要な舞台となっています。これまでSF映画にはもっとも未来的な都市としてトウキョウが出てくることが多かったのですが、その座をソウルに奪われてしまったのは日本人としては少々残念なところです。
 
いわゆるネトウヨは、そうした韓国の扱い方が気に食わないこともあって、この映画をずいぶん攻撃したということです。
しかし、ネトウヨが気に食わないのはそれだけではなく、この映画が革命映画であることもあるでしょう。格差社会に抗議するのではなく、生活保護叩きや在日叩きをしている人には、この映画は受け入れられないはずです。
 
SFマインドも随所に見られて、SFファンにはうれしいところです。
また、欧米のこの手のSFは、最終的には「永遠の愛」みたいなキリスト教的価値観がドーンと出てくるのがほとんどですが、この映画にはそれがありません。
ブルース・ウィリスみたいなヒーローが人を殺しまくる映画ばかりでなく、こうした深みのあるエンターテインメント映画が見られるのはたいへんうれしいことです。

朝日新聞とベネッセが共同で行った小中学校保護者意識調査によると、土曜日も授業をする「週6日制」に賛成の回答が80.7%にのぼりました(「完全週5日制」に賛成は17.9)
こういう調査結果を見ると、「親は子の幸せを願っている」という常識がもはや通用しないと思わざるをえません。
 
学校週6日制、8割賛成 公立小中の親、教育格差6割容認 朝日新聞社・ベネッセ調査
 
もっとも、授業時間をふやすことが子どもの将来の幸せになるのだという理屈で親は自分を正当化するのでしょう。
しかし、労働と余暇もそうですが、勉強と遊びにもバランスがあります。勉強時間をふやせばいいというものではありません。
学校を週6日制に戻すなら、労働環境も週6日労働制に戻してもいい理屈です。長く働けば日本経済のためになりますし、本人も経済的に潤うはずです。
しかし、本人はいやだと言うでしょう。
子どもも同じことです。学校週6日制はいやだと言うでしょう。
 
ここには自分のことは自分で決めるという原則がありません。
親も教師も文部科学省も子どものためを考えてやっていると言うでしょうが、子どもの意志を尊重するのがほんとうの子どものためです。
 
ところで、朝日新聞とベネッセの共同調査はなぜ保護者だけを対象にして子どもを対象にしなかったのでしょうか。
いや、これは朝日とベネッセだけのことではありません。これまで文部科学省、中央教育審議会、臨時教育審議会、教育再生国民会議などが教育改革について論議してきましたが、その議論に役立てるために保護者や教員を対象にアンケートが行われたことはあっても、小学生や中学生や高校生を対象にアンケートが行われたことは一度もないはずです。
 
子どもにアンケートしても回答が信用できないからという理屈はありません。というのは、イジメや体罰などの事実関係を把握するためのアンケートは行われ、その結果は信用されているからです。
つまり、事実関係については子どもの声を聞くが、子どもの意見や要望は聞かないというのがこれまでの大人のやり方です。
 
これは明らかにおかしなことです。日本も批准している「子どもの権利条約」は「子どもの意見表明権」を規定しているからです。国を挙げて子どもの意見を無視しているのは条約違反です。
 
 
ところで、朝日新聞とベネッセの共同調査の結果が発表されたのと同じ日の朝日新聞教育欄に、ちょうど参考になる記事が載っていました。高校生に政治や社会の問題について意見を言わせるという授業が行われているという記事で、そこから大阪府立緑風冠高校の教諭佐藤功(52)の授業の部分だけ引用します。
 
(教育あしたへ 先生の挑戦:4)改憲・竹島、直球で議論 考える主権者育てる
 佐藤には定番の手法がある。新聞記事やビデオで説明し、意見を書かせる。自分の考えは述べない。生徒の声のいくつかを選び、賛否に分かれて紙上討論を重ねる。
 橋下徹が大阪府知事時代に主導した府教育基本条例案を取り上げた一昨年秋の授業でも、この手法を使った。当時の条例案は学力テストの学校別の結果公表や、保護者による校長、教員の評価を盛り込んでいた。生徒は書いた。
 「他国との競争に勝たないといけない。学力向上は必要」「『格差を受け入れてでも秀でた者を育てる必要がある』というのはおかしい」
 多くの生徒の賛意を集めた意見は「一番影響を受ける高校生に話もせずに条例案を通そうとするのが、一番意味不明」だった。
 「では、実際に条例を作った人に聞いてみよう」と佐藤が昨年企画したのが、大阪維新の会の府議と条例の内容を懸念する教師とのシンポジウムだ。高校生からも意見が出た。「学校評価を僕らがやっちゃダメなんですか?」
 
大人よりも子どものほうがよほどわかっています。
 
大人だけで教育改革を議論していても、これまでがそうだったように絶対にうまくいきません。
女性の生き方を男性だけで議論して決めようとしても絶対うまくいかないのと同じです。
 
いや、これは奴隷制にたとえたほうがいいかもしれません。
奴隷農場の農園主は奴隷の待遇について頭を悩ましたでしょう。あまりに悪い待遇では奴隷の働きが悪くなりますし、よい待遇にすると利益が少なくなります。そんなとき、農園主同士で話し合うことはしたでしょうが、奴隷に要望を聞くことはしなかったでしょう。一度要望を聞くと、奴隷がどんどん要望をエスカレートさせてくるかもしれないからです。
 
今、子どもに教育についての要望を聞かないのも、今の教育制度は子ども奴隷制みたいなものだからです。
 
教育改革を議論するなら、まず子どもの意見表明権を尊重して、さらに子どもを人間として尊重する制度にしていかなければなりません。

シリーズ「横やり人生相談」です。今回は赤ん坊と夫との関係についての妻からの相談です。
たいていの物事は、過去にさかのぼらないとよく理解できません。たとえばひとつの夫婦喧嘩にしても、ずっと過去からのいきさつがあるわけです。イスラム過激派のテロにしても、その原因をさかのぼっていくと少なくともイスラエル建国にまでたどりつくはずです。尖閣諸島や竹島の帰属問題も、歴史的な事実をすべて踏まえていないと判断できません。
しかし、赤ん坊であれば、その過去を問う必要はありませんから、簡単に判断できるはずです。
 
 
子供がなつかないと拗ねる夫   憂鬱母さん 2013317 2:35
 0歳8ヶ月の子供がなつかないと夫が拗ねています。
「俺は一生懸命働いているし、子供に出来るだけの事はしているのに子供がなつかない。」と言います。
一生懸命働いてくれています。しかし、定時の日もたくさんありますし休みもあります。
仕事から帰宅し即テレビを付け趣味の小一時間トレーニング。終わればビール片手にテレビとインターネット。合間に子供を抱っこします。テレビをつけず絵本を読んでやる、オモチャで遊んでやる。15分でも散歩に連れていくなどすれば良いのにと私は思うのですが。しかし夫は「俺は仕事で疲れているからそんな体力ない。」と言います。夫の接し方がまず子供にはもの足りないのだと思うのですが。もちろん母親が絶対一番な時期でもあるので夫がさみしく思う気持ちもわかります。しかし夫の≪ながら関わり≫にも原因があると思いませんか?
子供と父親の関わり。皆さんのご家庭ではいかがですか?
 
 
この相談は掲示板「発言小町」に載ったもので、これに対するレスは、夫の態度を批判するものがほとんどです。ごく少数、妻に対して、夫と子どもといっしょに遊ぶようにすればという助言があります。子どもが悪いという意見はひとつもありません。
 
子どもが悪くないのは当たり前のことです。となると、夫が悪いということになります。子どもになついてほしければ、夫が態度を改めるしかありません。
しかし、この夫は自分が悪いという認識を持つことができません。「俺は一生懸命働いている」などという子どもには関係のないことまで持ち出して、自己正当化をはかろうとしています。かといって子どもが悪いと決めつけることもできず、その結果「拗ねる」という子どもっぽい態度に出ているわけです。
 
そして、妻のほうも夫がよくないに違いないという認識はあるものの、断定するまでにはいたっていません。そのためこの相談を書き込んだわけです。
 
こうした相談が書き込まれるということは、「子どもは悪くない」という認識が世の中で完全に共有されるまでにはいたっていないということでしょう。
 
その理由としては、ひとつには子ども自身が発言できないということがあります。そのため、世の中はおとなの(自分勝手な)言い分ばかりがあふれることになります。
 
その結果、どういうことが起こるかというと、子どもがなつかないということを理由に子どもを虐待する親が出てきます。
これは義理の父親のケースが多いようです。つまり妻の連れ子が自分になつかないということで、それは自分が悪いわけではなく、子どもが悪いと考えて虐待してしまうのです。
もちろん実の父親や母親が虐待するケースもあります。母親の場合、「子どもがかわいくない」ということが虐待の理由になります。
「子どもがかわいくない」のは、自分の認識の問題ではなく、子どもの問題だと考えてしまうのでしょう(客観的に見ると、かわいい赤ちゃんとブサイクな赤ちゃんがいますが、まともな母親なら自分の赤ちゃんは必ずかわいく見えるはずです)
 
ともかく、「子どもがなつかなかったから」ということを理由にした虐待事件がしばしば起こるのは、「子どもは悪くない」という認識が社会に共有されていないからでしょう。
今回の相談のように、実の父親と8カ月の子どもの関係であれば、悪いのは子どもではなく父親であることがはっきりします。
 
子どもが2歳、3歳になって、言葉がわかるようになると、親は「子どもが悪い」という認識を正当化しやすくなります。子どもが親の言いつけを聞かない、食べ物をこぼした、夜泣きする、片付けをしない、だらしない、わがままだなどということが虐待の理由になります。
しかし、子どもが言葉を理解するようになったからといって、親と子どもの関係になにか本質的な変化が生じるということはありません。ただ、親が子どもを虐待する理由を言葉で表現しやすくなるだけです。
 
世の中のさまざまな出来事は、すべて過去につながっているので複雑ですが、赤ん坊に限っては、過去がないので単純です。
「赤ん坊は悪くない」ということが社会の共通認識になれば、それだけで幼児虐待はかなり少なくなるはずです。
 
また、赤ん坊を基準にものごとを考えると、世の中を悪くしているのは誰かということもわかってきます。

東大が推薦入試制度を導入することを決めました。「教育改革は、すればするほど悪くなる」というのが私の持論ですが、この改革はどうなのでしょうか。
 
数時間の面接も…東大推薦入試「多様な人材を」
東京大は15日、2016年度入試から推薦入試を導入すると発表した。2次試験の後期日程は廃止する。
 
 現在の東大には、受験学力は高くても学ぶ意欲が乏しい学生が目立つため、視野の広い意欲的な学生を獲得したいという。推薦入試は国立大82校のうち、13年度入試では76校が導入済みで、東大は最後発となる。
 
 定員は100人程度。受験生は11月に、高校までの活動実績を書いた願書や高校の調査書、学校長の推薦状などを提出する。各高校が推薦できるのは1~2人。1次選考を通った受験生は12月頃に面接を受ける。1月の大学入試センター試験で一定の水準を満たせば、2月に合格となる。推薦入学者には、大学院の授業の聴講が許可されるなどの特典がある。
 
 東大は各学部で求める学生の基準を公表し、それぞれの教員が面接する。「授業の内外で、幅広く学び、問題意識や深い洞察力を真剣に獲得しようとする人」が大原則。ボランティアなど体験活動の成果も、入学後にやりたい学問や研究との関連性を問うという。
 
 受験生の資質を吟味するため、面接は数時間に及ぶことも想定している。
 
 記者会見した佐藤慎一副学長は「従来のテストで把握できない資質や、優れた人材を発掘し、多様な人材を採りたい」とした。
 2013316  読売新聞)
 
前に東大が国際化のために9月入試を打ち出したときは、かなり激しい賛否両論がありました。しかし、今回の推薦入試制度導入については、あまり議論がないように思います。推薦入試制はすでに国立大も含めて多くの大学で実施されていますから、当たり前のことという感覚なのでしょう。
 
しかし、高校推薦というのは高校の先生の価値観が入りますし、大学での面接では面接官の価値観が入ります。つまり、よくも悪くも高校や大学の先生の価値観で入学者を選ぶというのが推薦入試制度です。
防衛大学校とか神学校とか、一定の価値観で選ばざるをえない学校もありますし、一般の私立学校にしてもそれぞれの価値観があるでしょう。
しかし、東大の場合、この記事を読むと、「視野の広い意欲的な学生」「授業の内外で、幅広く学び、問題意識や深い洞察力を真剣に獲得しようとする人」を選ぶのが目的のようです。
「視野の広い意欲的な学生」「授業の内外で、幅広く学び、問題意識や深い洞察力を真剣に獲得しようとする人」というのは、誰もがそういう人を求めますし、誰もがそうありたいと思いますから、価値観としては当たり前のものです。
国立の総合大学ですから、そんな変わった価値観があるはずもありません。
 
そうすると、面接官の“眼力”でたとえば「意欲的な学生」を選ぶことになりますが、入学希望者のほうも「意欲的な学生」を演じますから、これもけっこうたいへんなことになります。
 
さらに問題なのは、面接官の価値観で選ぶことになりますから、「多様な人材」と逆に、同じような人材ばかりが選ばれることになりかねないことです。
これは就職活動をする学生がみんな「リクルートスーツ」を着ているのを見ればわかります。面接官の価値観に合わせて服装を選ぶと、ああなってしまうのです(個性的な服装をすれば受かりやすいとなれば、みんな個性的な服装をするはずです)
面接官は、自分は広い視野を持った人間だと思っているかもしれませんが、実際はそうではないということです。そして、没個性の人間ばかりを採用する日本の企業は、あまり創造的な事業展開ができていません。
大学の面接においても、同じことが起こる可能性が大です。
 
高校での推薦や内申書についても同じようなことがいえます。高校の教師に評価されるような生徒はみんな優等生タイプでしょう。
 
これは大学や高校の教師や企業の面接担当者がよくないということではありません。人間が人間を評価すると、どうしてもそうなってしまうのです。
 
ですから、ほんとうに「多様な人材」を採ろうとすれば、ペーパーテストだけで選ぶのがベストです。そうすれば選ぶ人間の価値観は関係なくなります(ペーパーテストも限定された「学力」しか測れないという問題がありますが、それでも人間が人間を評価するよりはましです)
その代わり「へんな人間」や「困った人間」も大学に入ってくることになりますが、そうした人間を排除しようとすると、結局「多様な人材」を集めることはできなくなってしまうのです。
 
私の考えでは、高校入試や大学入試で内申書重視が行われるようになってから、中学や高校で教師の力が強くなり、校内暴力などの問題はなくなりましたが、生徒は抑圧され、イジメが増加しました。
教師の目を気にしていると、生徒はのびのびとすることができませんし、意欲や創造性もなくなってしまいます。
これこそが今の学校教育の最大の問題ではないかと私は思います。
 
ちなみに私の高校時代は、大学入試に内申書はほとんど評価されませんでしたから、教師にどう見られても入試の本番で力を発揮すればいいのだということで、気楽な学園生活が送れました。
 
東大までが推薦入試制度を取り入れると、ますます高校生活が抑圧的なものになってしまいます。
また、東大の評価も下がってしまうことが予想されます。これまで東大生といえば、少なくとも試験でいい点を取る頭のよさがあると見なされていました。しかし、推薦入試で入った学生もいるとなると、世間の人の東大生に対する尊敬の念が薄れてしまうと思います。
 
東大の推薦入試制度導入も、「教育改革は、すればするほど悪くなる」という一例です。

安倍内閣は3月12日、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が主権回復した4月28日に政府主催の記念式典を開くことを閣議決定しました。これは自民党の公約であり、安倍首相のかねてからの持論でもあります。
 
これに対して反対の論調のマスコミが多いようですが、反対の理由はもっぱら、サンフランシスコ平和条約が発効した日は沖縄が切り離された日でもあり、沖縄にとっては「屈辱の日」であるからというものです。
これは反対の理由としては弱いと思われます。日本国全体の問題と沖縄の問題とでは、重さがぜんぜん違うからです。
どうしても沖縄の問題が重要であると思うなら、沖縄返還が実現した1972年5月15日にちなんで5月15日を主権回復の日として祝うべきだと主張してもいいはずですが、そういう主張は見たことがありません。
 
私は安倍首相の思想信条にはかなり反対の立場ですが、サンフランシスコ平和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」として祝うことにはかなり賛成です。
というのは、日本は対米依存という宿痾をかかえていて、そこから抜け出すきっかけになるかもしれないと思うからです。
 
たとえば、TPP交渉に参加するに当たって日本の交渉力のなさが言われますが、これも多分に日本人の対米依存心理のなせるわざです。日本人が独立国としての自覚を深めると、対外的な交渉力も強くなることが期待できます。
 
また、これは中国や韓国に対する日本人の態度にも影響すると思われます。
韓国では8月15日を日本から独立した「光復節」として祝いますが、日本人が「主権回復の日」を祝うようになると、韓国人が「光復節」を祝う心情にも共感できるようになるのではないでしょうか。中国における9月3日の「戦勝記念日」も似たようなものです。
 
多くの国は独立記念日や解放記念日や建国記念日を持っていて、国民が国家意識を持つことの役に立っています。日本の場合は2月11日の建国記念の日(紀元節)がありますが、これは明治政府がいい加減な計算で決めたもので、国民にとってはなんの実感もなく、上から与えられたものでしかありません。
その点、サンフランシスコ平和条約が発効した日というのは、占領状態を脱して独立した日ですから、「日本の独立記念日」という実感が持ちやすいはずです。
 
私は今の時代に国家意識は時代遅れになっていると思っていますが、国家意識を脱するためにも一度は正しい国家意識を持つ必要があると思います。今の日本はアメリカによる半占領状態が継続していますから、「主権回復の日」は大いに意味があることになります。
 
「主権回復の日」に反対のマスコミが多いのは、まさに日本がアメリカの半占領状態にあるからです。日本のマスコミはアメリカ従属意識がめちゃくちゃ強いのです。「主権回復の日」はアメリカの反発を買う恐れがあるので反対だと書くわけにいかないので、沖縄の問題を持ち出して反対していると考えられます。
 
また、日本の右翼勢力もアメリカ従属意識がひじょうに強く、親米を通り越してほとんどアメリカへの売国勢力と化しています。
たとえば、日本はサンフランシスコ平和条約に調印した同じ日に日米安保条約にも調印しています。つまり、占領体制から安保体制に移行したわけです。そして、日米行政協定(現日米地位協定)もサンフランシスコ平和条約と同時に発効しています。日米地位協定は米軍に治外法権を与えるもので、日本を半占領状態にするものです(このあたりの事情は孫崎享著「戦後史の正体」に詳しい)
ところが、日本の右翼は憲法はアメリカの押し付けだと言いますが、日米地位協定はアメリカの押し付けだとは言いません。
 
ともかく、日本の右翼はアメリカに従順で、その分、中国と韓国に傲慢になるという困った性質を持っていますが、「主権回復の日」は日本の右翼やマスコミにとって対米関係を考え直すきっかけになるものと思われます。
 
それにしても、安倍首相は集団的自衛権行使などで対米従属を進める一方、「主権回復の日」を政府行事とするわけで、安倍首相の中に対米関係についての矛盾があります。
アメリカは普天間基地辺野古移設の日米合意見直しや東アジア共同体を唱える鳩山政権を反米と見なしてつぶしにかかりましたが、安倍政権については困惑しているのではないでしょうか。

今日で大震災からちょうど2年です。
思い返せば、あの日から1年ぐらいは私も平常心ではなかったと思います。ネガティブなことばかり考えて、毎日の生活を楽しむゆとりがありませんでした。しかし、2年たった今は、ほとんど以前と変わらない暮らしができています。
とはいえ、被災地の人々はまだたいへんな状況ですから、自分だけ生活を楽しんでいるのも薄情なことです。
もっとも、薄情といえば、日本全体がそうかもしれません。世の中は「安倍バブル」に浮かれ、原発事故の悲惨さも忘れたかのように原発推進に戻ってしまいました。
 
2年たって「元の木阿弥」という言葉そのままになっています。
 
総選挙で自公政権に戻ってしまったのが「元の木阿弥」です。政権交代はしかたなかったにしても、自公が強くなりすぎ、かつ民主党が負けすぎて、次の選挙で政権交代の起こる可能性がほとんどなくなってしまいました。政権交代の危機感のない政治がだめになるのはわかりきったことです。
 
なぜ民主党がこれほどまでに支持を失ったかについては、右翼勢力と既得権益勢力の大きな力が働いていたといわざるをえないでしょう。
たとえば、民主党政権下では、尖閣諸島沖で中国漁船と海保の巡視艇が衝突したときのビデオを公開しないのはけしからんと非難の大合唱が起き、ビデオを流出させた海保職員が英雄扱いされるほどでした。中国と対立しているときに政府批判をするというのは愛国者としてあるまじき行為ですが、日本の愛国者というのはその程度のレベルです。
で、安倍政権下になると、中国の海洋監視船などが連日尖閣諸島周辺を航行し、また中国政府は尖閣対応を強化するために「国家海洋委員会」を新設するなどしていますが、日本のマスコミはいたって冷静な報道で、民主党政権下とは大違いです。
もっとも、安倍政権は中国軍による射撃管制用レーダー照射を公表し、中国に一泡吹かせて、日本国民も溜飲を下げたということもあると思われます。しかし、中国はこれ以降、安倍政権との敵対姿勢を強めています。中国との関係はこれから問題になるでしょう。
 
管政権の原発事故対応もずいぶんと批判されましたが、もし自公政権下で原発事故が起こっていたとすれば、もっとひどいことになっていたでしょう。管首相は東電と原子力安全保安院がどうしようもない無能組織であることをすぐに見抜いて対応しただけましです(東電でも吉田所長以下の現場はよくやったと思いますが)
 
ともかく総選挙で安倍政権が成立し、原発再稼働の方向になりました。しかし、その論理はいい加減です。
たとえば、現在日本で唯一稼働している大飯原発ですが、活断層の上にあるという説と、それは活断層ではなく「地滑り」だという説の両方があるので、科学的には結論が出せないという状況にあります(「地滑り」説の専門家は原子力ムラのために主張しているだけのような気がしますが)
しかし、両論があるからといって稼働を続けているのはへんです。ある食品に発がん性があるという説とないという説の両論がある場合、科学的に結論が出ていないからといってその食品を食べ続ける人はいないでしょう。安全性に疑問がある以上、稼働停止するのが当然ですが、当然のことが行われていません。
原子力ムラの利権恐るべしです。
 
原発を再稼働するべきか否かは、安全性、コスト、核廃棄物処理、電力事情、地球温暖化などあらゆる要素を勘案して総合的に判断しなければなりませんから、私がここで中途半端なことを書いても意味がないでしょう。ですから、ひとつのことだけ指摘しておきます。
 
今、原発再稼働を主張する人たちはみな、「再稼働が現実的だ、現実主義的な判断だ」と主張します。
しかし、原子力発電というのは昔、現実主義的ではなく理想主義的なものでした。原子力発電は「第三の火」と言われ、これによって人類は無尽蔵のエネルギーを手に入れて、限りなく進歩していけるバラ色の技術だったのです。
しかし、今では原発を指して人類の理想だとか理想主義的だとかいう人はいません。原発推進派ですら、原発は現実主義的だといいます。
ということは、原発はなければそれに越したことはないという認識のはずです。
つまり原発の評価は誰の認識においても、すでに地に落ちているのです。
 
原発を再稼働させたい人は、目先の利益だけを考えているに違いありません。
 
原発事故という過酷な現実を経験しても何も学ばない人たちがいっぱいいることにはあきれてしまいます。

3月4日の夜のニュース番組を見ていた人はびっくりしたでしょう。安倍総理が突然アカペラでわけのわからない歌を歌う映像を目にしたからです。
この日、来日したIOC評価委員会のメンバーを前に安倍首相がスピーチをし、その中で東京オリンピックにまつわる思い出の歌を歌ったのです。
 
その歌とスピーチはここで見られます。
 
安倍首相IOCに熱唱アピール ノーカット
 
このところ安倍首相の政権運営は絶好調です。TPP交渉参加の方向は決まりましたが、反対派は沈黙しています。日銀総裁人事についても、麻生財務相は明らかに元財務次官の武藤敏郎氏を推す意向で、安倍首相と衝突するのではないかと思われましたが、すんなりと黒田東彦氏でまとまりました。なにしろ野党が弱体なので、党内がまとまれば怖いものはありません。
 
では、安倍首相はどんどん自信を深めているかというと、そうは見えませんでした。
私はテレビで安倍首相を見るたびにその表情に注目していましたが、いつも浮かない顔に見えました。おそらくお腹の調子がよくないのに違いないと私は推測していました。
安倍首相は常温の水が入った水筒を持ち歩き、国会の委員会の質疑中にも何度も席を外してトイレに行っていたということですから、その推測には十分根拠があります。
 
ところが、4日のスピーチで歌ったときは、明らかに浮かれた表情になっていました。いったい安倍首相になにがあったのでしょうか。
 
そう思って調べてみると、理由がわかりました。安倍首相は2日と3日は休暇を取っていたのです。
 
安倍首相:山梨の別荘で休息
 毎日新聞 20130303日 東京朝刊
 安倍晋三首相は2日、山梨県鳴沢村の別荘に入った。3日まで滞在し、公務は入れずに趣味のゴルフなどを楽しむ予定。妻の昭恵さんも現地で合流した。年明け以降、アルジェリア人質事件、国会審議、2回の海外出張などほぼ休みなく働いてきた首相にとって、つかの間の休息になる。
 
 週明けから国会で13年度予算案の審議が本格化し、中旬には次期日銀正副総裁人事案の採決も控える。周辺は「飛ばしにこだわるゴルフで気分転換したいのでは」と首相の気持ちを代弁した。【飼手勇介】
 
2日と3日、完全休暇を取ったことでお腹の調子がよくなり、それで4日にはしゃいでしまったというわけです。
実にわかりやすい人です。
 
逆に言えば、今の安倍首相にとって障害はお腹の調子だけということでもあります。
マスコミも安倍首相にはきわめてやさしいと言えます。
たとえば先の訪米も、アメリカとの絆を確かめたということになっていますし、森元首相が安倍首相の特使として訪露し、プーチン大統領と話し合ったことも外交の前進ということになっています。
しかし、プーチン大統領は領土問題について「引き分け」という言葉を使い、島の面積を二等分するという考えを持っているようです。かつて鈴木宗男氏が国会議員のときに二島返還論を述べたら大バッシングにあってしまいましたが、それと比べると大違いです。
また、中国や韓国との関係修復もまったく進んでいませんが、そのことも問題とされません。
 
なぜマスコミ(と国民)がこのように安倍政権に甘いかというと、やはりアベノミクスが一応うまくいっているからでしょう。
 
私はかつて「『アベノミクス』はバブルを生む」という記事を書いたことがあります。
 
今も考えは変わっていません。金融緩和や公共投資では実体経済はよくならず、株や土地が高くなる資産バブルを生むだけだと思います(アベノミクスの第三の矢である成長戦略はうまくいくわけないと思っています)
とはいえ、バブルがどのようにして生成するのかを見届けたいという思いもあります。
 
週刊誌の見出しには「安倍バブル」という言葉が踊っています。
しかし、みんなが「これはバブルだ」と思っている間はバブルではありません。
しかし、どんどん株価が上がり、景気もよくなってくると、どんどん警戒心が薄まり、みんなが「日本経済は完全に復活した」「これが日本経済の実力だ」と考えるようになります。これがバブルです。
果たしてそんなときがくるのか、どのようにしてくるのかを見てみたいものです。
 
私は一応株式投資をしているので、うまくやればその過程でもうけることができます。
同じことを考える人が多くて、今ネット証券は新規口座開設ラッシュだそうです。
 
おそらく日本人のほとんどがバブル期待に胸をふくらませているのではないでしょうか。
それまで安倍首相のお腹がもってほしいものです。

政府の教育再生実行会議は「道徳の教科化」などを盛り込んだ提言を安倍首相に対して行いました。また、下村博文文部科学大臣は小中学生対象の副教材「こころのノート」を全面改訂した上で来年4月から活用する方針を明らかにしました。道徳教育の強化が安倍内閣の方針です。
 
しかし、道徳教育が効果を上げると信じている人がどれだけいるでしょうか。ほとんどの人はまったく信じていないか、半信半疑というところでしょう。
実際のところ、道徳教育に熱心なのは、ごく単純な思考力を持った人たちです。
 
たとえば、森田健作千葉県知事がそうです。森田知事は千葉県道徳教育推進委員会を発足させ、その提言を受けて13年度をめどに県立高校に道徳の時間を導入するということです。森田知事は若いころに主演した青春ドラマ「おれは男だ!」の直情径行な主人公そのままに今まで突っ走ってきたようです。
それから、森喜朗元首相もそうです。森元首相はもともと文教族の議員で、森内閣時代には教育改革国民会議を発足させ、そこで「奉仕活動の義務化」などが提言されていますし、森元首相自身、「教育勅語にはいいところもあった」などと発言しています。
安倍首相が道徳教育に熱心になったのは森元首相の影響もあったことと思われます。
 
橋下徹大阪市長も道徳教育の強化には賛成の立場です。これは別に橋下市長の信念というわけではなく、安倍首相へのアピールと、今はこの立場のほうが受けるだろうという計算からでしょう。
 
道徳教育強化については、一般の人は冷ややかな目で見ていると思われますが、右寄りの人たちだけは熱心です。
ということは、左寄りの人たちは道徳教育に反対ということになります。しかし、実は右寄りの人たちも左寄りの人たちも、そんなに考え方が違うわけではありません。
というのは、左寄りの人たちは、平和教育や人権教育には熱心だからです。
 
敗戦直後、軍国主義の教科書に墨が塗られ、変わって平和主義の教育が始まりました。
軍国主義の教育も平和主義の教育も、子どもたちをおとなの思想に染めてしまおうという点では同じです。
 
共産主義国ではもちろん、子どもを共産主義思想に染めることにきわめて熱心でした。ナチスドイツでも軍国主義日本でも、子どもをナチズムや軍国主義思想に染めることに熱心であったことは同じです。
 
そして、今も同じことが行われています。「道徳教育」や「平和教育」や「人権教育」などと名前が変わっただけです。
 
ユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という有名なくだりがあります。しかし、「平和のとりで」という矛盾した言葉を見てもわかるように、平和教育というのはユネスコでも日本国でもうまくいきません。
 
思想や価値観の教育というのはどんなものであれ、おとなの愚かさを子どもに植え付けるだけです。
 
では、どうすればいいのでしょうか。
これは体罰を例にとるとわかりやすいでしょう。
 
森田健作千葉県知事は、体罰についてこのように語っています。孫引きですが、あるブログから引用します。
 
次世代教育、まずは道徳から」
高校時代にいい先生がいたなあ。僕が通ったのは東京の私立の男子校でね。1年だったか2年だったか、クラスの仲間が悪さをして、全員で担任から説教を受けた。その最中に、身長が185㌢もある運動部の大きな男が「先公ってのはいい商売だ。言いてえこと言えるんだもんな」と言った。担任は「なにい―?」と叫んで、そいつのところへ飛んできた。身長が20㌢ぐらい低かったけれど、跳び上がってビンタを食らわした。
 
説教の後で「何で抵抗しなかった?」と聞いたら、そいつは「動けなかったんだ」と。その時に思ったよ。教師が心底から教え子のことを思ってぶん殴ったのか、その時の気分で殴ったのか、生徒には分かるもんだって。仲間はあの場で、自分を思ってくれる担任の愛情に打たれて動けなかったんだな。
 
体罰の善しあしはあるが、教育と言うのは「技術」じゃない。全身全霊で生徒にぶつかっていくことですよ。文部政務次官を2度務めましたが、あの時の経験から今もそう思っている。僕が先生でも、恐らくひっぱたくだろうな。その時には尻をたたきます。顔はその人の「看板」だからね。
 
道徳教育に熱心な人というのはだいたいこういう考えの持ち主なのでしょう。こんな人に道徳教育をされたのでは子どもはかえって悪くなってしまいます。
そして、おとなにはこういう考えの人が多いことは事実です。体罰に賛成か反対かというアンケートをすると、かなりの割合で賛成論者がいます。
桜宮高校での体罰事件を見てもわかりますが、高校生でもすでに体罰肯定論になっている人がいます。
 
では、体罰について正しい考えの持ち主はどこにいるのでしょうか。
それはもっと小さい子どもです。
たとえば小学生を対象に、「体罰を受けたり見たりしたことはありますか」というアンケートが行われることはあります。
しかし、小学生を対象に、おとなと同じように「あなたは体罰に賛成ですか反対ですか」というアンケートが行われたことはないはずです。
このアンケートを行い、おとなのアンケート結果と比較すれば、体罰について正しい考えを持っているのは誰かということが一目瞭然になるはずです。
 
そう、体罰については、おとなよりも子どものほうが正しい考えを持っているに違いないのです。
 
ですから、体罰についての道徳教育をするなら、子どもがおとなにするのが正しいやり方です。
体罰に限らずどんなことでも、人間としてのあるべき行いについては子どもの判断が正しいものです。ですから、戦争するか否かについても、子どもに判断を仰げばいいのです。おとなが子どもに平和教育をするのは筋違いです。
 
子どもがおとなに道徳教育をするというのは、そう簡単にはできないかもしれませんが、とりあえずおとなが子どもに道徳教育をするという愚かなことだけはやめるべきです。

人を礼儀知らずとかマナーをわきまえないとかいって非難する人は、その人自身がろくでもない人だというのが私の考えです。
もっとも、こんなことをいうと、ほとんどの人は日常的に人を礼儀知らずとかマナーをわきまえないとかいって非難しているので、総反発を買ってしまいそうです。
そこで、実例を示してみましょう。東京都では保育所不足が深刻で、杉並区の待機児童をかかえた母親らが行政に異議申し立てをしましたが、これについて2月27日付朝日新聞朝刊東京版に「杉並・保育園問題、区議ブログに批判殺到」という記事が載りました。
その区議ブログは次のどちらでも読めます。
 
BLOGOS
一抹の忸怩なき待機親に一抹の疑義あり
 
田中ゆうたろうブログ
一抹の忸怩なき待機親に一抹の疑義あり
 
このブログのさわりの部分だけ引用しておきます。
 
私は、今のこの不況を本質的に打破するためにも、女性力を思い切って爆発させることは必要だと考えている。仕事と子育てを真に両立できる社会を創らねばならないと強く願っている。だが、それゆえにこそ、「子育ては本来は家庭で行うもの」という基本中の基本を忘れるべきではないと痛感する。一抹の遠慮も忸怩の念もなく、声高に居丈高に「子供を持つなということか」「現状のおかしさに気付いて」などと世を恨むかのような態度は、それこそどこかおかしい、どこか的を外している。「お願いです。私達の子育てをどうか手伝って下さい」、これが待機親に求められる人としてのマナー、エチケットというものではなかろうか。
 
 
この田中裕太郎区議は、仕事と子育ての両立を考えている人のようです。となれば、異議申し立てする母親たちと同じ立場に立ってもいいはずです。
しかし、それはタテマエで、本音のところは男権主義的な考えなのでしょう。そのため、女たちが集団で行政に抗議してくるということががまんならなかったに違いありません。また、田中区議は幼稚園の主事を務める教育畑の人で、そのため人に道徳を説くということも普通のことと思っているのでしょう。
そこで、行政に文句をつけてくる母親たちを「声高に居丈高に」「世を恨むかのような態度」と決めつけ、「人としてのマナー、エチケット」を説いてしまったというわけです。
 
ここでのマナー、エチケットはまさに人を非難・攻撃する道具となっています。
 
ただ、田中区議の誤算は、自分は政治家で、マナー、エチケットを説いた相手が有権者であったことです。政治家対有権者という関係では、有権者のほうが優位です。そのためブログには批判が殺到してしまいました。
 
もしこれが夫と妻の関係であったらどうでしょうか。夫が妻に対して優位に立っているときは、「お前はマナー、エチケットがなっていない」「夫に対する感謝が足りない」などという主張がそのまま通ってしまいます。
 
 
また、電車内でベビーカーを利用することについてマナー論議が起きたことも記憶に新しいところです。
一般乗客にとって、満員電車にベビーカーで乗り込んでこられるのは確かに迷惑なことです。ですから、ベビーカーの利用をやめろという主張があるのは不思議なことではありません。ただ、これはあくまで利己的な主張です。
利己的な主張がいけないというのではありません。むしろみんなが利己的な主張をすると、問題がはっきりと見えてきます。
 
「こんな満員電車にベビーカーで乗ってくるな。どうしても乗りたければ子どもを抱っこしろ」
「いちいちベビーカーを畳んで抱っこするのはたいへんなのよ。それぐらいのスペースは空けなさいよ」
 
こうしてお互いに利己的な主張をぶつけ合って、妥協点を探ればいいわけです。
 
ただ、一般客のほうが多数で、ベビーカー利用者が少数であるという問題があります。そのため多数派有利の結論に導かれがちです。
その結果どうなるかというと、「ベビーカー利用者はマナーを守れ」という主張が通り、「ベビーカー利用者に対して一般客はマナーを守れ」という主張は退けられてしまいます。
これがつまりベビーカーのマナー問題の本質です。
 
田中区議のブログ発言や、電車内ベビーカー問題について考えると、人に対してマナーを説くというのはどういうことかわかるのではないでしょうか。
 
ちなみに私は、人の行為を迷惑に感じたときは、マナーを説いたりせず、「その行為はやめてもらえませんか」とやんわりと頼みます。これは相手の思いやりに期待するやり方です。
一方、マナーを説くというのは、圧力をかけて相手を動かそうとすることですから、相手と衝突する恐れがありますし、少なくとも相手を不愉快にすることは間違いありません。
どちらが世の中をよくするかは明らかではないでしょうか。

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