村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2013年04月

4月26日深夜の「朝から生テレビ」(「激論!ネット世代が日本を変える?!」)を見ていたら、堀江貴文さんが「安倍さんは戦争をやりたいんですか」と田原総一朗さんに質問していました。田原さんははっきりとは答えなかったと思いますが、ホリエモンの素朴な質問には考えさせられました。
 
安倍首相はかねてから憲法改正、自衛隊の国防軍化、集団的自衛権行使の容認を主張していますが、閣僚が靖国神社の春季例大祭に参拝したことが中国、韓国から批判されると、「尊い英霊に尊崇の念を表する自由を確保していくことは当然のことだ」「わが閣僚はどんな脅しにも屈しない」と強い調子で国会答弁をしました。ホリエモンの質問はこれらを踏まえたものです。
 
中国と韓国が日本の閣僚の靖国参拝や歴史認識発言に抗議してくるのはいつものことですが、「わが閣僚はどんな脅しにも屈しない」とは強烈な言葉です。高支持率を背景に強行突破をはかるつもりかと思いましたが、その後、アメリカ政府が非公式に懸念を伝えたということが報道され、とたんにトーンダウンしてしまいました。
靖国参拝だけでなく、「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う」と国会で述べたことがアメリカの勘に触ったのでしょう。
もっとも、安倍首相はそれで反省するかと思いきや、4月27日、幕張メッセで開催されたニコニコ超会議2を訪れ、自衛隊ブースに陳列された戦車に軍服を着て乗り込むというパフォーマンスをしました。ホリエモン発言はこのパフォーマンスの前ですが、「安倍さんは戦争をやりたいんですか」と聞きたくなるのももっともです。
もちろんホリエモン発言は、安倍首相個人のことだけではなく、いわゆる改憲勢力全般についての疑問でしょう。
 
もっとも、改憲反対派についてもいろいろ疑問があります。
たとえば改憲反対派は、安倍首相らは日本を「戦争のできる国」にするつもりだとして批判しますが、この理屈はへんです。日本には自衛隊があり、自衛権もあるという憲法解釈が定着しているので、すでに「戦争のできる国」になっているからです。あえてこの表現を使うなら、安倍首相らは日本を「自衛戦争以外の戦争のできる国」にするつもりだ、とでもいうべきでしょうか。
 
また、改憲反対派は戦争反対の理由として、戦争がいかに悲惨であるかということをいいます。これはもちろん第二次大戦の記憶に基づいています。しかし、今想定される戦争は、たとえば尖閣諸島周辺での局地的な戦争です。長期の総力戦はまったく想定されませんから、あの戦争のことを持ち出して戦争反対を叫んでも、今の若い人にはまったく説得力がないでしょう。
 
それはともかく、ホリエモンの疑問に戻りますが、安倍首相自身は戦争がやりたいのでしょうか。
安倍首相の言動を見ると、明らかに戦争の方向に進んでいこうとしています。
しかし、本人に聞くと、間違いなく「戦争はやりたくない。平和を望んでいる」というでしょう。
で、それは嘘ではないと思います。
戦争はやりたくないが、戦争を恐れず、いつでも戦争をやるぞという態度でいたい――安倍首相の心理を表現すると、こういうことになるでしょう。
 
この心理は男ならわかるのではないでしょうか。喧嘩をやりたいわけではないが、喧嘩を恐れず、いつでも喧嘩してやるぞという態度でいたい――こう思っている男は多いはずです。
というのは、実生活で少しでも弱気なところを見せると、人にあなどられて損をすることが多いからです。
逆にいうと、つねに肩をいからせて喧嘩が強そうな態度をしていると、得をすることが多いということになります。
たとえば、みんなが列をつくって並んでいるところに横から割り込んできた男がいれば、普通は注意します。しかし、その男が怖そうでたくましい男であれば、なかなか注意できません。
こういう利益があるので、たいていの男は、いつでも喧嘩してやるぞという気構えでいるのです。
 
こういう男たちが政治をやると、当然いつでも戦争をやるぞという構えの国家をつくることになります。
 
それに加えて、人類の戦争の歴史というものがあります。
戦争考古学によると、人類が戦争をするようになったのは農耕をするようになってからです。農耕社会では、収穫期には半年から一年分の収穫物が貯蔵されますから、命の危険を冒しても戦争によって収穫物を奪おうという者が出てきたわけです。それに対して環濠集落もつくられるようになりました。
戦争に強い集団は戦争に弱い集団を滅ぼすか取り込みます。こうして戦争に強い文化が人類にはびこっていきました。
たとえば戦争に志願すると賞賛され、戦争を忌避すると軽蔑され非難されます。戦死者には名誉が与えられます。靖国神社も戦死者に名誉を与える装置です。
こうした戦争文化がつねに戦争の危険性を高めることになります。
 
戦争を恐れない姿勢を示す者同士のチキンレースは、戦争を望まなくても戦争の崖を転落してしまうことになるかもしれません。
 
「安倍さんは戦争をやりたいんですか」と質問したホリエモンは、もちろん戦争をするのはバカバカしいという考えです。「前に朝生に出たとき、尖閣なんか中国にやってもいいじゃないかと言ったら、金美齢さんにメッチャ怒られた」とも言っていました。
 
ちなみにこのときの朝生は、ネット世代ということで、若いパネラーばかりでした。ネット世代というとネット右翼という言葉があるように右翼的な人が多いのかと思ったら、ぜんぜんそうではなく、私の印象では、基本的にみんな安倍首相の好戦的な姿勢には疑問を持っていたようです。
 
(そのときのパネラー)
飯田 泰之(明治大学政治経済学部准教授、37
 荻上 チキ(評論家、「シノドス」編集長、31
 乙武 洋匡(作家、東京都教育委員、37
 駒崎 弘樹(NPO法人フローレンス代表理事、33
 慎 泰俊(NPO法人Living in Peace代表理事、31
 津田 大介(ジャーナリスト、メディア・アクティビスト、39
 経沢 香保子(トレンダーズ()代表取締役、39
 古市 憲寿(社会学者、東京大学大学院博士課程、28
 堀江 貴文(SNS()ファウンダー、40
 堀 潤(市民ニュースサイト「8bit News」主宰、元NHKアナ、35
 TOKYO PANDA(カリスマファッションブロガー、上海在住、29
 
尖閣なんか中国にくれてやってもいいというホリエモンの発言は、国益を考えたらむしろ妥当なものです。
というのは、今では戦争をやることそのものが国益に反するからです。
 
昔は戦争に勝てば戦利品、奴隷、領土、植民地など、大きな利益を手にすることができました。
しかし、今は戦争に勝っても、なんの利益も得られません。せいぜい中国に尖閣は日本領と認めさせることぐらいです。
 
逆に不利益はきわめて大きいものがあります。
短期の局地戦であっても、戦火が上がった瞬間に株価は大暴落します。そして、中国は日本の最大の貿易相手国ですから、貿易の一時的停止と、そのあとの反日不買運動などによる長期の停滞を考えると、経済的に大損失が発生します。もちろん中国側もほとんど同じです(だからこそ長期の総力戦など考えられないのです)
それに加えて、自衛隊員と中国軍兵士の人的損害も当然あるはずです。命の尊さを考えれば、これがもっとも大きい問題かもしれません(しかし、他人の命などどうでもいいという考え方もあります。だからこそ人類は戦争をしてきました)
 
アメリカはイラク戦争とアフガン戦争に一応勝った形になっていますが、膨大な戦費を使ったのに得たものはほとんどありません。
これが現代の戦争の実態です。
 
ホリエモンに限らず、まともな感覚を持った人ならわかることです。
ところが、安倍首相など日本の右翼的な人たちはこうした現代の戦争の実態が見えていません。いまだに意識が第二次大戦にとらわれているからでしょう。そのため靖国参拝や「侵略の定義」発言などで国益を損ねています。
もし戦争になったら、もっと国益を損ねることになります。
 
安倍首相や右翼的な人たちは、第二次大戦へのこだわりを捨て、現代の戦争を直視した政治をしなければなりません。

なにか凶悪な犯罪が起きると、マスコミは容疑者の人物像を明らかにしようと、容疑者の家の近所の人に取材しますが、たいていはこんな言葉が返ってきます。
「ちゃんと挨拶をするし、いい人ですよ」
 
ちゃんと挨拶する人はいい人――こんな常識が世の中にはあるようです。
しかし、もういい加減その常識の間違いに気づいてもいいはずです。
 
私は前回の「挨拶とはなにか」という記事で、挨拶をいちばんたいせつにしている集団はヤクザと軍隊だと書きました。今回はその続きです。
 
私が会社勤めをしているときに聞いた話ですが、ある支社の入っているビルの管理人さんがひじょうに丁寧な挨拶をする人で、支社のみんなは感じのいい人だと思っていたのですが、あるときその管理人さんが暴力団関係者であるとわかり、みんなぞっとしたということです。
暴力団というと、荒っぽい態度で、礼儀などわきまえない人のようなイメージがありますが、その話を聞いて、私は考え直しました。そういえば、股旅ものの映画では渡世人にとって挨拶の口上はきわめてたいせつなこととされますし、「仁義なき戦い」シリーズを見ていると、親分が車で組本部だか邸宅だかに出入りするときなど、子分がずらりと門の前に並んで送迎します。ここまでていねいな挨拶をする組織はほかにないでしょう――と言いかけて、思い出しました。たまたまある警察署の前を通りかかったとき、警官が入口の前にずらりと並んで誰かの出迎えをしていました。キャリア官僚が赴任してくるかなんかだったのでしょう。ヤクザと警察は似ているかもしれません。
 
挨拶をいちばんたいせつにする集団は、ヤクザと軍隊(と警察?)だと言いましたが、その次にくるのは芸能界、そして武道と格闘技の世界でしょう。
 
芸能界もきわめて挨拶をたいせつにする世界です。ヤクザと近いと言ってしまえばそれまでですが、浮き沈みの多いアナーキーな世界ですから、それに秩序を与えるのは結局のところ暴力です。そして、暴力を制御するために厳格な挨拶や礼儀が必要とされるのです。
 
最近、ビートたけし(北野武)さんの評価がやけに高くなって、“ビートたけしいい人伝説”みたいなものがよく聞かれます。たとえば、若手芸人が飲んでいた店にたまたまビートたけしさんがきたとき、いつのまにか若手芸人の分の会計まですまして帰っていったみたいなことです。
しかし、ビートたけしさんはフライデー襲撃という暴力事件を起こしていますし、彼の監督した映画を見ると、激しい暴力衝動のある人だということがわかります。暴力衝動とバランスをとるために挨拶や礼儀が必要なのでしょう。
 
渡哲也さんもきわめて礼儀正しい人であるという話をよく聞きます。ちょっと検索したところ、「龍が如くの声優陣顔合わせの時、釘宮が座っている渡哲也に挨拶したところ、わざわざ立ち上がって『渡哲也です、声優業に不馴れなので何分至らない点もありますが宜しくご指導お願いします』とお辞儀され、感激の余り泣いた」という話がありました。渡哲也さんもビートたけしさんもどちらも石原軍団、たけし軍団という「軍団」と名のつく集団を率いています。体育会系の集団を率いていくのは、半端なことでは務まらないでしょう。
 
和田アキ子さんは芸能界に入って挨拶を教えられたおかげでまっとうな人間になれたとして、芸能界の後輩に常日ごろから挨拶のたいせつさを説いていますが、酔っ払うとよく人を殴るという話があります。
 
武道や格闘技の世界でも挨拶や礼儀がきわめてたいせつにされています。これは試合や練習のときに闘争心をかきたてるため、それを日常に持ち込まないように必要とされるのでしょう。
しかし、武道や格闘技の人たちは、武道や格闘技をやれば礼儀が身についてよい人間になれると信じています。いや、一般の人たちの多くも信じているかもしれません。
しかし、最近の柔道界やちょっと前の相撲界のことを考えてみればわかりますが、武道や格闘技をやる人がいい人間であるということはありません。
 
私は園児に剣道を教えている幼稚園を知っています。剣道を通して礼儀が身につくということを売りにしているのですが、まったく無意味なことだと思います。小さな子どもは礼儀以前に学ぶべきことがいっぱいあります。
 
挨拶や礼儀は所詮はうわべです。誰でも型を身につければできます。
むしろ悪い人ほどうわべをよくしようとする傾向があります(うわべがよいから中身が悪いということではありません。両方よい場合ももちろんあります)
 
たとえば芸能人の場合、人の前では愛想よくふるまっていて、楽屋に戻ったとたん鬼のような顔をしてマネージャーや付き人に当たるという人がいますが、挨拶や礼儀はこうした人にとっては便利な道具です。
 
人間はよくも悪くも、ありのままを見せて生きていくのが基本です。
そのような生き方をしてこそ、悪いところを直していけるのです。
うわべを飾っていると、悪い中身を直す動機がなくなってしまいます。
 
沢尻エリカさんは、映画の舞台挨拶のインタビューに対して不機嫌な態度で「別に」という言葉を連発し、世の中から大バッシングを受けました。
不機嫌になったのはなにかの理由があったのでしょう。それを隠さずにありのままに見せたのは、沢尻エリカさんが自分を飾ることをしない人だからでしょう。それはむしろ沢尻エリカさんの魅力です。
 
人間は機嫌のいいときもあれば悪いときもありますが、ありのままの姿で生きていければ幸せです。
挨拶や礼儀を重視するのは間違った方向です。
ちゃんと挨拶する人はいい人――などという認識は論外です。

ネット上で人気ブロガーのやまもといちろう氏とイケダハヤト氏が対立し、対面での論争が行われたということが「BLOGOS」というサイトで紹介されていましたが、私は2人がどうして対立し、なにについて論争しているのかがわからなかったので、まったく無視していました。
しかし、その後「BLOGOS」に紹介されていたイケダハヤト氏のブログ記事がひじょうにおもしろく、感心しました。ただ、こういうことを書いているからやまもといちろう氏と対立したり、ブログが炎上したりするのかとも思いました。
 
そのブログ記事はこちらです。
 
「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」
 
イケダハヤト氏の主張は、挨拶は絶対に必要なものではない、それを強要してくる人間は不愉快だ、「挨拶をしろ」という説教には「俺に対して礼儀を忘れるな」という意識が透けて見える、世の中には挨拶が苦手な人もたくさんいる、挨拶ができなくても人間的な価値が落ちるわけではない、というものです。
 
私はこの主張に基本的に共感しますが、この記事に対するコメントの九十何%が反対のものです。
しかし、イケダハヤト氏はそれぐらいでめげる人ではありません。すぐさま次の記事で、自分のメッセージは「挨拶のできないやつは人間的にダメだという偏狭な価値観は捨てるべきだ」というもので、それは間違っているとは思わないし、現に共感してくれる人もいるということを書いておられます。
 
自分がおかしいと思うことは、他の誰かも必ずおかしいと思っている」
 
もっとも、この記事に対するコメント欄も圧倒的に反対の声で埋め尽くされています。
 
イケダハヤト氏の主張はインパクトがあります。これはかつてテレビ番組で高校生が発して大きな反響を呼んだ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけに似ています。
イケダハヤト氏の「なぜ挨拶はそんなにたいせつか」という問いかけに、多くの人が感情的な反応をしてしまっています。コメント欄の反論を読んでも、ほとんどまともなものはありません。
 
とはいえ、イケダハヤト氏も自分の感性に依拠して主張しているだけですから、反対派を論理的に説得することはできません。
そのため、この対立が議論によって深化していくということはないでしょう。
 
もっとも、それは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけに誰も答えられなかったのと同じです。
「なぜ人を殺してはいけないのか」も「挨拶はそんなにたいせつか」もどちらも倫理学の範疇に属する問題ですが、倫理学は学問として機能していないので、こうした問いに答えはありません。マイケル・サンデル教授の教室も、もうみんな気がついているでしょうが、白熱するばっかりで、答えは出てきません。
 
しかし、私には「科学的倫理学」(人間は利己的性質をもとに道徳をつくり出し、道徳を武器に互いに生存闘争をしているという考え方)があるので、ちゃんとした答えが出せます。
ここでは「科学的倫理学」の立場から、挨拶とはなにかについて書いてみましょう。
 
 
挨拶をいちばんたいせつにしている集団はなんでしょうか。
それは間違いなくヤクザです。その次は軍隊です。
ヤクザほど挨拶や礼儀や冠婚葬祭のつきあいをたいせつにする人たちはいません。股旅ものの映画を見ると、「お控えなすって」で始まる挨拶の口上をどれだけ立て板に水で言えるかでヤクザとしてのランクづけがされていたようです。なぜヤクザが挨拶をたいせつにするかというと、彼らが悪人だからです。悪人という表現があいまいなら、彼らは生い立ちからの不幸な人生によって、暴力的であると同時に、人と信頼し合う関係が持てなくなった人たちだと言い換えましょう。ですから、互いに本音でつきあうことができません。本音を隠すために挨拶や礼儀が絶対に欠かせないのです。
 
軍隊においては、最初に敬礼の仕方を徹底的に教えられ、上官への礼を欠くときびしく罰せられます。彼らは悪人ではありませんが、兵隊同士が本音でつきあうと厭戦気分が広がりやすくなり、上官の理不尽な命令に黙って従う気にもならなくなりますから、それを防ぐために厳格な挨拶が求められるのです。
 
つまり挨拶とは、人と人が本音でつきあったり、心の交流をしなくてもいいようにするためのアイテムなのです。
なぜそんなものが必要になるかというと、われわれはみなそれぞれに悪人だからです。
挨拶は「偽善の仮面」ということもできます。ちゃんと挨拶をすれば、とりあえず誰でもいい人のように見えます。
 
挨拶は本能に起源があります。たいていの動物は、相手に敵意がないことを示したり序列を確認したりするための決まった動作や鳴き声を持っています。猫は群れない動物ですが、互いに鼻をくっつける、愛猫家が「鼻キス」と呼ぶ挨拶をします。
ただ、人間の挨拶は本能のレベルをはるかに超えたものになっています。
 
「心のこもった挨拶」などというものはありません。「心のこもった風の挨拶」があるだけです。
挨拶はきちんとすればするほど心から離れていきます。
ですから、子どもや若い人の素朴で稚拙な挨拶には心が感じられることがあります。
 
挨拶は社会生活を営む上で必要なものです。ヤクザ社会で出世するには挨拶が欠かせないように、カタギの社会でも出世するにはそれなりに挨拶が欠かせません。
が、挨拶は「偽善の仮面」ですから、それをかぶることによって素顔が劣化していく可能性があります。仮面があれば、素顔をよくする努力を怠るのが人情です。
 
ところが、多くの人は挨拶を身につけることによって「よい人間」になれると信じています。これはまったくバカバカしい勘違いです。自分が偽善者であることに気づかない人がこういう勘違いをします。
そして、こういう勘違いをしている人は、子どもにむりやり挨拶や礼儀を教えようとします。
たとえば、知人が子どものためにお菓子やオモチャなどの手土産を持って訪ねてきたとき、親は子どもに対して「ありがとうは?」などと言って、感謝の言葉を強要します。しかし、もし子どもがそのお菓子やオモチャをありがたいと思っていないなら、それは嘘をつくように強要していることになります。
そんな愚かなことをするのは、親が知人に対していい顔をしたいからであり、またその知人も子どもが礼を言わないとたいてい不愉快になるからです。つまり悪いおとなが子どもを自分たちの世界に引き込もうとしているのです。
もちろん子どもは嘘をつくよう強要されるのは不愉快です。子どもはそんな「偽善の仮面」なしに子ども同士つきあっていくことができます。
 
つまりおとなの世界の偽善は、子どもの世界と接触するときに摩擦を起こします。この摩擦をおとなはむりやり子どもを制圧することで解消してきたのです。
 
しかし、このときの不快感はどのおとなの記憶にも残っています。
挨拶は苦手だという人が少なからず存在するのも当然です。
 
今回、イケダハヤト氏が挨拶を強要してくる人は不愉快だとブログ記事に書き、それに対して多くの人が感情的に反発したのは、挨拶を強要された子どもとおとなの関係が再現したものだといえるでしょう。もちろんイケダハヤト氏が子どもの側で、多くの人がおとなの側です。
 
イケダハヤト氏は子どもの感性をもとに主張することが多い人なのかと察せられます。そして、そのことが多くの“おとな”の反発を買うのでしょう。
 
これまで文明は、子どもをおとなが制圧することで発展してきました。そのため非人間的な文明になってしまいました。
これからは子どもの感性に基づく主張を実現することで文明を人間的なものにしていかなければなりません。
「おとなの主張」はむしろ社会を悪くするだけです。
その意味でもイケダハヤト氏の主張は大いに意義のあるものだと思います。
 
ところで、われわれおとなにとって挨拶はとりあえず「必要悪」として受け入れるのがいいと思います。
ですから、今後挨拶は縮小する方向に持っていくのが正しいことになります。
子どもに挨拶を強要するのは愚かなことです。むしろおとなが子ども同士のつきあいを見て学ぶことが必要です。

若者が生きにくい時代です。
おとなが若者を抑圧するのはいつの時代も同じですが、最近はとりわけネットの中で、若者自身がおとなの論理を身につけて、若者を抑圧する側に回っているケースが多い気がします。
たとえば、暴走族などの不良をDQNといってバカにしたり、、心の病んだ人を「メンヘラ」といってバカにすることがよく行われますし、「自分探し」をする若者をバカにする言説もよく見られます。
ほんとのおとなは若者を抑圧しても、いちいち若者をバカにすることはないと思います。
若者をバカにするのは同じ若者だからに違いありません。
 
私はこういう若者を“プチおとな”と名づけたらいいのではないかと思っています。
 
「見た目は子ども、頭脳はおとな」は名探偵コナンですが、こちらは「言うことはおとな、心は子ども」というわけです。
 
“プチおとな”が出現したのは、尾崎豊の「15の夜」という曲の「盗んだバイクで走り出す」という詞が否定的に語られるようになったころからではないかと思います。
 
「15の夜」は尾崎豊の作詞作曲で、改めて読むと若者の心情をみごとに描いたすばらしい詞だと思います。
 
「15の夜」の詞全文はこちら。
 
しかし、これを否定する側の論理ももちろんわかります。バイクを盗むのは犯罪だからですし、無免許運転も犯罪です。
 
しかし、そもそもなぜ15歳だと運転免許が取れないのかという問題があります。現にこの詞の主人公はバイクの運転ができるのですから、免許が取れないというのは不当です。
それに、16になれば免許を取ってバイクに乗れるようになるかというと、たぶんそうはいきません。多くの高校では当時、「三ない運動」(高校生に運転させない・買わせない・免許を取らせない)というのが行われていたからです(その後、違法判決、違憲判決があって、今「三ない運動」はなくなっているはずです)
ですから、当時はバイクに乗りたければ盗まなければならない状況にあったのも事実です。
 
また、この詞の中には「校舎の裏煙草をふかして」というのもあります。これも犯罪ですが、20歳未満の喫煙を法律で禁止する理由がありません。喫煙は健康によくないことですから、禁止するなら年齢に関係なく禁止するべきです。
 
世の中には喫煙や運転免許に年齢制限があり、これは当たり前のことと思われていますが、尾崎豊の鋭い感性はこれが若者への差別や抑圧にほかならないことを見抜いていました(若者に選挙権のないことが究極の差別です)
ですから、若者であればこの詞に共感できるのが普通で、バイクを盗むのは犯罪だなどといってこの歌を否定する反応が出てくるほうがおかしいのです。
 
で、そういうおかしな反応をする若者を“プチおとな”と呼んで、普通の若者と区別することにすればいいのではないかと思ったわけです。
 
では、なぜ“プチおとな”が出てきたのかというと、おとながあまりにも若者を抑圧しすぎたからではないかと思います。
最近は反抗期のない子どもがふえたという説がありますが、少なくとも中学高校において教師や親や社会に対して反抗的な態度をとったことがないという若者がふえているのは事実でしょう。私はこれは、高校入試や大学入試で内申書が重視されるようになって教師の権力が強くなったせいではないかと思っています。
 
抑圧がなくなったから反抗もなくなったというのならいいのですが、抑圧が強くなりすぎて反抗が押しつぶされているのなら大問題です。
 
昔の若者のヒーロー、たとえば石原裕次郎、赤木圭一郎、小林旭、浜田光夫などはみな不良を演じていました。「理由なき反抗」のジェームス・ディーンもそうです。
実際のところ、不良になれた若者はそんなに多くありませんでしたが、自分の中に不良への憧れがあることは否定しませんでした。だからこそ銀幕の不良スターに憧れたのです。
 
今の“プチおとな”は、自分の中に不良への憧れがあることまでも否定してしまっているようです。
これは自分で自分の人間性を否定しているのと同じです。
“プチおとな”は見よう見まねでおとなの論理を振り回すことはできますが、自分の中の人間らしい感性を抑圧しているので、創造的な仕事はできないはずです。
 
尾崎豊は「卒業」という曲で「この支配からの卒業」と歌いましたが、“プチおとな”は本来の若者の姿へと「再入学」する必要がありそうです。

英才教育とか早期教育というと音楽と切っても切り離せません。モーツァルト神話というのがあって、モーツァルトは父親から早期教育を受けて才能を開花させた、だから、早期教育をするとモーツァルトみたいになれる――という非論理的なことが信じられているようです。
 
私は幼少期にバイオリンを習っていました。私は1950年生まれですが、この世代では周りにバイオリンだのピアノだのを習う子どもはほとんどいませんでした。
私は小さいころ、夜店で買ったラッパなど音の出るもので遊ぶのが好きだったらしく、両親はこの子は音楽の才能があるに違いないと思って、バイオリンを習わせたわけです。最初に行ったバイオリン教室では、先生は私が小さすぎて教えるのはむりだと思ったようで(4歳ぐらいだった?)、聞いているだけでよいというやり方でした。
その後、個人レッスンを受けるようになり、小学生5年生ごろまで続けていましたが、結局まったくものになりませんでした。自分で練習しないのでうまくなるわけがありません。本人にやる気がないと、なにを習わせてもだめだというよい例です。
 
両親は教育熱心で、ほかにも水泳教室、柔道教室に通わされました。習いごととは違いますが、ボーイスカウトにも入っていました。
当時、家の近くには学習塾はありませんでした。私が中学になったころに、かなり離れたところにようやくできました。もし近くに学習塾があったら、それも通わされていたかもしれません(当時、子どもの習いごとはソロバンか書道ぐらいで、学習塾というのはなかったのです)
 
あとで調べたのですが、私が子どものころすでにバイオリンの早期教育法である「スズキ・メソード」がかなり普及していました。両親もその考え方に影響を受けたのでしょう。
 
しかし、私はバイオリンの早期教育を受けた結果、バイオリンがものにならなかっただけでなく、クラシック嫌いになってしまいました。いや、音楽もあまり好きではないかもしれません。
 
私の1歳上の兄はきわめて音楽が好きで、ジャズとロックのレコードをいっぱい集めていました。私は兄がいたおかげでアメリカンポップスやビートルズを人並みに聞いていました。
私には音楽の才能はなかったでしょうが、もしバイオリンを習っていなければ、もっと音楽を楽しむ人生を送れていたような気がします。
 
私の数年あとの世代にはピアノなどを習っていた人がいっぱいいます。もっともピアノを習ったからといって、それが人生に役立っているという人はあまりいないようです。日本の家庭にはたくさんの高価なピアノがむだなスペースを占拠しています。
 
ピアノだのバイオリンだのを習っても、それを職業にできる人はわずかしかいません。“情操教育”という言葉がありますが、音楽を習った人の“情操”がどうなるのかわかっていないのではないでしょうか。
私の考えでは、小さい子どもには、童謡や子ども向けアニメの主題歌や「おかあさんといっしょ」で歌われるような、つまり子ども自身が好きな歌が合っているのです。クラシック音楽というのはもっとも子どもに合わない音楽です。子どもにクラシック音楽を学ばせるのは、子どもに足し算引き算ではなくいきなり高等数学を教えるようなものです。
 
とはいえ、クラシック音楽の世界では早期教育を受けた者しかやっていけません。これはもうクラシック音楽の世界が間違っているとしかいいようがありません。つまり間違った早期教育によって間違った音楽が成立しているのです。
いや、オーケストラの採算が取れないことを考えると、もはや成立しているとはいえないかもしれません。
今ではクラシック音楽よりロックなどのマーケットのほうがうんと大きくなっています。
親が子どもの将来を考えるなら、クラシックではなくロックの早期教育をするべきではないかとイヤミを言いたくなります。
 
ともかく、私は自分の経験から、子どもが学ぼうとする前に教える早期教育はよくないことだと考えるようになりました。
そして、普通の学校など教育のほとんどは、子どもが学ぼうとする前に教えており、これもよくないことに違いないと考えるようになりました。
 
「教育された自分はほんとうの自分ではない」というのが私の考えです。

ちょっと驚いたニュースがあったので、このブログで取り上げようと思ったのですが、よく読むとニュースの信ぴょう性に疑問があるので、これまで寝かせてきました。しかし、それなりに価値のあるニュースだと思いますし、「疑問のあるニュース」にもおもしろみがあるかと思って、ここで紹介します。
 
駐留部隊:米女性兵士の3割、軍内部でレイプ被害 
毎日新聞 20130319日 0230
 米英軍主導の侵攻から20日で10年を迎えるイラクや国際部隊の駐留が続くアフガニスタンに派遣された米女性兵士延べ28万人の3割以上が、上官らから性的な暴行を受けていたことが分かり、米国内で「見えない戦争」と問題視されている。連邦上院の軍事委員会で13日、「軍内性的トラウマ(MST)」と呼ばれる心的ストレスに関する公聴会が初めて開かれた。新たな被害を恐れ沈黙を余儀なくされてきた被害者は「風穴が開いた」と歓迎している。
 
 カリフォルニア州図書館調査局が昨年9月に発表した実態調査によると、イラクとアフガニスタンに派遣された女性兵士の33.5%が米軍内でレイプされ、63.8%が性的いやがらせを受けたと回答した。国防総省も問題を認めている。軍内での性的暴力は2010年だけで、男性の被害も含め推計1万9000件にのぼる。
 
 上院公聴会で議長を務めたバーバラ・ボクサー議員は「被害申告が出ているのは17%にすぎない」と指摘。「この問題の公聴会を開くのに10年もかかった。変革の第一歩だ」と意義を強調した。
 
 イラク戦争中の03年にクウェートに派遣された前後に米国内基地で上官から性的暴力を受けたコーリン・ブッシュネルさん(39)は、公聴会をインターネットの生中継で見ながら「草の根運動で長年取り組んできたことがようやく公に明るみに出た」と興奮した。証言する予定だったが心的外傷後ストレス障害(PTSD)のため断念。議長の言葉に救われた思いがした。
 
 クウェート派遣前に男性上官からレイプされ、帰還後に女性上官から性的暴力を受けた。「上官を訴えても自分を助けてくれる人がいると思えなかった」。精神的なバランスを崩し、06年に退役。2人の子供がいる家には帰れず、5年近くホームレス生活を続けた。「自分が恥ずかしく、行く場所がなかった」
 
 05年のイラク派遣中に変死した女性米兵ラベナ・ジョンソンさんの両親が、自殺と断定した軍に「殺害された」と異議を唱えていることを知った。ジョンソンさんの遺体には、殴られ、レイプされたと見られる痕が残っていた。下士官時代のつらい記憶と重なり「彼女の無念を伝えるのが使命」と感じた。昨年夏から3カ月、全米12州の退役軍人組織を巡る行脚に出た。
 
退役軍人庁の11年の統計によると、ホームレスの女性退役軍人のうち39%が軍内性暴力の被害者だ。市民団体「女性兵士行動ネットワーク」によると、10年に退役軍人庁のPTSD認定基準が緩和されたが、MSTは申請の32%しか認められていない。全体平均は53%だ。
 
 米国防総省は1月、直接戦闘地域への女性派遣を禁ずる規定の撤廃を発表した。ブッシュネルさんは女性の戦闘任務参加を歓迎しつつ、「今ですら性暴力の告発は難しい。最前線で公正な判断ができるのだろうか」と不安を語った。【ロサンゼルス堀山明子】
 
イラクとアフガニスタンに派遣された女性兵士の33.5%が米軍内でレイプされたというのは驚くべき数字です。
よく反戦的なことを主張する人に対して、「外国の軍隊が攻めてきて妻や娘がレイプされてもいいのか」ということを言いますが、自国の軍隊の中でレイプされていては冗談にもなりません。
 
そもそも軍隊というのは非人間的な組織ですから、そういうことがあってもおかしくないとは思うのですが、33.5%はさすがに多すぎるのではないか、もしかしてセクハラもレイプのうちに数えているのではないかと思って記事を読み直してみると、いくつも疑問が出てきました。
こうした調査は、何人を対象に調査して、そのうち何割の回答を得たかが問題で、調査対象に偏りがなく、その数が多いほど調査結果に信頼性が持てることになりますが、この記事にはそれがまったく書かれていません。また、調査がアンケート形式によるのか面談形式によるのかも書いてありません。レイプ被害というのは人に知られたくないことですから、どういう形式の調査かは重要な問題です。調査の主体がカリフォルニア州図書館調査局だというのも不思議です。
とにかく何人に調査したかがわからないので、「33.5%が米軍内でレイプされ、63.8%が性的いやがらせを受けたと回答した」という数字にもあまり信ぴょう性がないことになります。
 
また、「軍内での性的暴力は2010年だけで、男性の被害も含め推計1万9000件にのぼる」というのは、誰による推計なのかはっきりしません。文脈からして国防総省による推計のような感じですが、カリフォルニア州図書館調査局による推計かもしれず、よくわからない文章です。
 
ほかの新聞が同じことを書いていれば、それと比較することができますが、どうやらこのことを記事にしたのは毎日新聞だけらしくて、そのこともこの記事を疑わしくしています。
 
とはいえ、上院で公聴会が開かれたと書いてあるのはその通りでしょうし、議長を務めたバーバラ・ボクサー議員が「被害申告が出ているのは17%にすぎない」と発言したというのも事実でしょう。
また、「イラク戦争中の03年にクウェートに派遣された前後に米国内基地で上官から性的暴力を受けたコーリン・ブッシュネルさん(39)」についてのことや、「05年のイラク派遣中に変死した女性米兵ラベナ・ジョンソンさんの両親」についてのことも事実でしょう(こういうことでデタラメを書くとは思えません)
とすると、カリフォルニア州図書館調査局による「33.5%が米軍内でレイプされ、63.8%が性的いやがらせを受けた」という発表だけが、調査対象の数や回収率が書いてないので疑わしいということになります。
 
なぜ調査対象の数や回収率が書いてないのでしょうか。紙面が限られているので省略したのかもしれませんが、書けない事情があったのかもしれません。というのは、この調査には軍の協力が得られなかった可能性が大きいと思います。そのため、そうした数字を発表できなかったということも考えられます。
 
ともかく、こうした軍内部の不都合な実態というのは隠されるのが当たり前で、めったに表面に出てきません。その意味でこの記事にはそれなりの価値があると思って紹介することにしました。
 

意外とありそうでないのが反教育論の本です。
教育批判、学校批判の本はいっぱいありますが、それらはたいてい「よりよい教育」を実現しようという立場です。教育そのものへの懐疑や否定の立場に立つ本はめったにありません。
 
「反教育論」(講談社現代新書)の著者の泉谷閑示さんは変わった経歴の人です。東北大学医学部を卒業したあとパリ・エコールノルマル音楽院に留学し、現在は精神科医として働く一方で舞台演出や作曲家としての活動も行っているということです。
私が思うに、医者と音楽家というのは「親がむりやり子どもにやらせたい二大職業」です。本人はその気がないのに医学部に行かされている人と、才能もないのにピアノやバイオリンをやらされている子どもが日本にはいっぱいいます。そのふたつの職業をやっている人は世界でも希でしょう。
そういう立場の人だからこそ書けた本ということがあるのかもしれません。
 
泉谷さんは職業柄、うつ病や神経症患者など、人生に行き詰った人々に多く接するうちに、彼らのある傾向に気づきます。
 
彼らは、幼少時からこまごまと大人たちに世話を焼かれ、大小にかかわらず先回り的にあらゆる危機や失敗につながる障害物を除去され、「お受験」のために幼児教育の塾に通わされ、それ以外の時間も各種「習い事」で埋め尽くされ、休日でさえもレディメイドな娯楽の予定がびっしり組まれていたといった生育史を持っていることが多い。
 
このように育てられた彼らは「優秀な」大人になるが、真の思考力や即興性が育っていないので、マニュアルの存在しない状況になると機能不全になってしまうというわけです。
 
著者は古今東西の名著からさまざまな言葉を引用しながら反教育論を展開していきますが、次の言葉が教育の間違いをいちばん端的に指摘しているのではないでしょうか。
 
二十世紀の人たちは大きな勘違いをしてしまった。それは、「人間が育っていくためには学習が大切だ」というのを、「人間を育てるには教育が大切だ」と思い込んでしまったことだ。(動物行動学者日高敏隆の言葉)
 
「学習」は好奇心の発露に基づいて自発的に行われるもので、そこには知的探求の喜びがありますが、「教育」になると、砂をかむような受動的作業になってしまいます。
もし人間の「脳」だけに注目すれば、あるいは人間を機械のようなものだと見なせば、自発的に学んだことも受動的に教えられたことも同じになるかもしれません。しかし、人間は機械ではなく、「心」という野性原理を備えた存在ですから、受動的なことばかり強いられていると「心」が病んでしまうというわけです。
 
著者は音楽家でもあるだけに、音楽教育において「早期教育」や「基礎教育」がかえって深刻なダメージを生んでしまうことを警告します。パリの音楽院に来ている日本の留学生の多くは、他国からの留学生よりも高い技術水準を備えているが、その演奏には、音楽を心から愛しているとか、演奏することに喜びを感じているとかいったものがなく、音楽というよりも「音楽の死体」ともいうべき音の連なりになってしまっているといいます。
 
著者の主張は明快ですが、今の世の中にこうした考え方をする人はほとんどいません。そのため著者がこの主張を展開するにはそれなりの勇気がいったことと思います。古今東西の名著から言葉を引用するのも、権威に頼りたい気持ちが多少あったのかもしれません。
 
また、新しい考え方だけに、未熟というか、わかりにくいところもあります。
たとえばこの本には「猿の思考から超猿の思考へ」というサブタイトルがついていますが、これだけ見てもなんのことかわからないでしょう。そして、中身を読んでも、あまりよくわかるとはいえません。
 
著者は野性原理を象徴するものとして狼を持ち出し、その対極にあるものとして猿を持ってきます。ここでの猿は、動物としての猿ではなく、猿真似、猿知恵というときの猿です。これがわかりにくいといえます。動物としての狼と、文化的イメージとしての猿を対比しているからです。
そして、「超猿」という言葉を持ってきます。これはニーチェの「超人」からきた言葉です。
それらのことを踏まえると「猿の思考から超猿の思考へ」という言葉の意味がわかるはずですが、ニーチェの思想に無関心か否定的な人には、やはりよくわからないでしょう。
私自身は、反教育論を展開するのにニーチェを持ってくる必要はないのではないかと思います。
 
この本には数学者の岡潔の言葉が何度も引用されていて、私はそれを読んで感心したので、図書館から岡潔の本を借りてきました。しかし、それを読むと、岡潔の考えは決して反教育論的なものではありませんでした。
たとえば、岡潔は詰め込み教育を批判して、寺子屋式の教育がいいと言います。寺子屋式の教育とはなにかというと、論語の素読を、内容はわからなくても百回ぐらい繰り返させることだというのです。
岡潔は寺子屋の教育を誤解しています。寺子屋はあくまで実用の教育をするところですから、論語の素読などはしません(それは藩校のことでしょう)
それに、素読を百回やらせるというのも、子どもに受動的な作業をやらせることで、自発的な学習を阻害する行為です。それに、百回読めばわからないことがわかってくるというものでもないと思います。
詰め込み教育はバカバカしいものですが、論語百回の素読も同じくらいかそれ以上にバカバカしいものだと思います。
 
この本にはエーリッヒ・フロム、ヘルマン・ヘッセ、バートランド・ラッセルらの言葉も引用されていますが、これらの人も教育に根本的な懐疑を持っていたということはないと思います。教育の愚かな部分を批判しただけではないでしょうか。
 
教育の根本的な否定は、今手探りでなされている最中ですが、著者の泉谷閑示さんは大きな仕事をしたと思います。
 
今、学校教育も家庭教育も明らかに機能不全に陥っています。これは「大人の教育」が「子どもの学習」を圧倒しているからです。ですから、対策としては、「大人の教育」をゆるめ、「子どもの学習」を回復させることです。
ところが、ほとんどの人はもっと教育を強化しなければならないと考えて、事態をさらに悪化させています。
 
最近は、知識の詰め込みだけでは足りず、道徳の教科化によって道徳の詰め込みまでしようとしています。愚かさもきわまった感じです
 

「一票の格差」問題で違憲判決や選挙無効判決が相次いで、格差是正が政治課題となっていますが、これについて朝日新聞の投書欄におもしろい意見が載っていました。
選挙区によって有権者の一票の重みが違うなら、それに合わせて国会議員の一票の重さも変えたらいいというのです。たとえば先の総選挙において、千葉県第4区は高知県第3区より有権者数が2.42倍多かったのですが、そうすると千葉4区選出の国会議員は高知3区選出の国会議員よりも、衆院本会議や委員会での一票の価値を2.42倍にするというわけです。こうすれば有権者の一票の価値は国会内において同一となります。
 
このやり方のすぐれている点は、選挙区の区割り変更や定数の増減という面倒なことをいっさいせずに、数字の操作だけで有権者の一票の価値を同じにできることです。
その代わり、国会内に一票の重い議員と軽い議員がいることになって、議員に序列ができますし、ある法案が通るかどうか票読みをするとき複雑な計算を強いられることになりますが。
 
これをいざ実現しようとすると、いろんな反対理由が挙げられて困難でしょうが、発想の転換で問題を解決するところがおもしろいと思いました。
 
そうしたら同じ朝日新聞に、同じ発想で世代間格差を解決しようという提案が載っていました。これもなかなか興味深い提案ではないかと思います。
 
余命別選挙のススメ? 高齢化社会の平等に一石 
【塩倉裕】余命の長さに応じて一票の重み付けを変えるべきではないか。そんな改革案が月刊誌で提起された。名付けて「余命別選挙制度」。少子高齢化による社会構造の変化を踏まえ、「平等とは何か」を問う提案だ。
 
 実験経済学を専門とする竹内幹(かん)・一橋大学准教授(38)が、寄稿「高齢者と将来世代、どちらを重視するか?」(中央公論4月号)の中で発表した。
 
 「一人一票」という通常の発想からひとまず離れ、余命が長い人たち(若年層)には余命の短い人たち(高齢層)よりも重い票を持たせる、という案だ。
 
 「年間二兆円の『子ども手当』がバラマキ政治だと批判されても、年間五〇兆円の年金がバラマキだといわれることは少ない」と竹内さんは書いた。そして、その原因は日本政治が「シルバー民主主義」になっているせいだ、と。
 
 少子高齢化で国政選挙では、人数の多い高齢層の発言力が強まり、政治家もその層の意向を重視する傾向が進んだ。逆に若年層はますます少数派になり、その声が政治に反映される可能性は低くなっている。
 
 現状は「世代間の搾取」であり、本来ならば「将来を生きる若者の声や、将来世代を実際に育てている育児中の親の声がより強く反映されるべき」ではないのか。それが提案の動機だ。
 
 記事には制度の詳細は書かれていない。具体的にはどういう仕組みなのか。
 
 「地域ごとに分けている今の『選挙区』に代わって、まず年齢層ごとの選挙区を設ける。たとえば『20代選挙区』『60代選挙区』といった具合です」と竹内さんは語った。
 
 「そのうえで、余命の長い世代の選挙区、つまり若年の選挙区には、議員数を手厚く配分する。そうすれば、若年世代の意見をより強く政治に反映できる」
 
 余命が長い人は余命の短い人より重い「一票」を持てる。それは、平等の原則に反しないのだろうか。
 
 「確かに短期的には一人一票ではないが、生涯にわたって見れば一人一票の原則は保たれます。前期は重く、後期は軽くなるから。若いときの一票の方が重いので、早く亡くなっても投票権で損することはない」
 
 記事の後段に竹内さんはこう書いていた。「極端な提案であることは承知しているが、現状のシルバー民主主義も同じくらいに極端な高齢者優遇であることを忘れないでいただきたい」
 
世代間格差を解決するのに、この提案はまさにグッドアイデアです。
それに、若い世代のほうが年寄り世代よりも世の中のことを真剣に考えるので、若い世代が重い票を持つのは合理的でもあります。
 
世代間格差は大きな問題ですが、今のマスコミは中高年の世代が支配していますから(いつの時代もそうですが)、その問題の大きさがあまり認識されていません。それに、若い世代はその格差を解消する手段を持たないために無力感に陥っているように思われます。一部の若者が生活保護叩き、在日叩き、反韓デモをやったりするのは、自分たちの問題を解決できないという無力感からではないでしょうか。
 
もっとも、選挙制度を決めるのはやはり年寄り世代が中心なので、この提案も実現することはなさそうですが。
 
私は選挙権の年齢制限を廃止しろと主張していますが、こちらのほうが実現の可能性はあるのではないかと思います。というのは、一票の重みを変えろという主張よりは、「選挙権の年齢制限は人権侵害だ」という主張のほうが説得力があると思うからです。
 
たとえば、成年後見制度を利用した人は選挙権がなくなるという公職選挙法の規定は違憲だとする判決が、3月14日、東京地裁で言い渡されました(その後、安倍内閣が控訴)
選挙権の重みというのは多くの人が認識していることと思います。
だからこそ、どんな高齢者であっても選挙権はありますし、知能障害者にも精神障害者にも選挙権はあります。
ただ唯一、未成年者には選挙権がないのです。
未成年者に選挙権がないとする合理的な根拠はありません。政治のことがわからない幼児は投票に行きませんから、選挙権を奪う必要はありません。何歳から政治に関心を持つようになるかというのは個人差がありますから、選挙権は何歳からと決める必要もありません。ゼロ歳から選挙権を持つことにしてなんの問題もありません(子どもの投票行動が保護者に支配されてしまうという問題はありえますが、それは知能障害者にも介護されている老人にもありうることです)
昔は黒人に選挙権がなかったり、女性に選挙権がなかったりしましたが、今選挙権がないのは未成年だけです。これが差別でなくてなんでしょうか。
 
選挙権の年齢制限がなくなれば、世代間格差の問題も教育問題も一気に解決するはずです。
 
ただ、選挙権の年齢制限は憲法に根拠があります。
 
日本国憲法第15条3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
 
もっとも、これはあくまで「成年者による普通選挙を保障する」であって、「未成年者の選挙を制限する」ではないので、未成年者に選挙権を与えても憲法違反にはなりません。
もちろん選挙権はすべての人に保障されるのが本来の姿ですから、改憲論議をするときには、なぜ未成年者には選挙権が保障されていないのか、これは差別ではないのかということを議論してもらいたいものです。

最近、自民党の改憲案における人権感覚がおかしいのではないかとか、安倍首相が高名な憲法学者の芦部信喜氏の名前を知らずに改憲を論じているのはどうなのかといったことが話題になっています。
自民党に限らず右翼の人権感覚がおかしいのは今に限ったことではありません。「人権よりも国権」というのが右翼思想の本質だからです。
また、権力者や既得権益者にとっては、一般国民の人権などないほうが都合がよいわけです。とくに自民党は長年権力の座にあって、権力者的思考法がしみついていますから、人権感覚がおかしいのも当然でしょう。
 
そこで、自民党の「憲法改革草案」がどんなものかと思って調べてみると、草案の中の「前文」を読んであきれてしまいました。人権問題はほかの人に任せて、私はこの「前文」を取り上げてみたいと思います。
 
文章を批判するとき、よく「悪文」という言葉が用いられますが、悪文には個性や特徴があり、しばしば思いあまって悪文になっているとしたものです。この「前文」には特徴もないし思いもありません。「駄文」という言葉が適切でしょう。
 
自民党の「日本国憲法改正草案」
(前文)
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。
 
 
これは草案だから、これから推敲するのだというかもしれませんが、推敲でよくなるレベルではありません。「仏つくって魂入れず」といいますが、魂がないのです(仏もない?)
 
想像するに、自民党の部会で議論したことを寄せ集めて、党の職員が文章にまとめたというところでしょう。
 
たとえば冒頭、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち」とありますが、これを読んだ人はなんの感想も持てないでしょう。どんな国でも、ある長さの歴史があり、固有の文化を持っていますから、文章そのものに意味がありません。
それに続いて「国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」とありますが、これも天皇()の特徴やよさを述べていません。しかも、多分にトートロジーのきらいがあります。
 
この段落は本来、日本のすばらしさを謳い上げて、日本人が自国に誇りを持てるような文章になっていなければいけません。たとえば、「日本は中国や欧米の文化を取り入れつつ、和を尊重し、自然と調和する独自の文化をつくりあげた」みたいなことです。哲学者の梅原猛氏ぐらいの方に書いていただかないといけません。
天皇制にしても、神話の時代から一貫して続いている、今や世界でも希なものだと自慢しなければいけません(南北朝の問題があるので「制度として一貫している」などとレトリックに工夫して)
 
「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており」というのも、事実をそのまま述べているだけで、「それがどうした」と言いたくなります。また、「世界の平和と繁栄に貢献する」というのも、ありえない表現です。「世界の平和と繁栄に貢献する決意である」とか「世界の平和と繁栄に貢献することを誓う」などとなっていなければなりません。
 
また、「平和主義」を言った次の段落で「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」とあるところが、この「前文」というか改憲草案のキモでしょう。平和主義と武力保持を両立させるレトリックが必要ですが、ここにはなんの工夫もありません。
たとえば、「我が国は世界の恒久平和を希求するものであるが、国際社会の現状はいまだその理想から遠く、やむなく我が国は云々」みたいなくだりが必要でしょう。
 
それから、この「前文」にはなぜ以前の「前文」を全面的に書き換えたのかを説明ないし示唆するものがありません。これではどう連続しているのか(連続していないのか)がわかりません。
「我が国は敗戦と占領によって奪われた国家の誇りを取り戻すために」などの表現が必要でしょう。
 
要するにこの「前文」は、なんの思いもこもっていない、箸にも棒にもかからない駄文です。
なぜそんな駄文になってしまったのでしょう。それは本音を書いていないからです。
「わが国はほかの国とはぜんぜん違う優れた国だ」
「他国にあなどられないために堂々と武力を持ちたい」
「占領時代に植え付けられた自虐的心性を一掃したい」
こういった本音を隠しているので、うわべをとりつくろっただけの文章になってしまうのです。
また、いろんな考え方の人に配慮したために、当たり障りのない文章になってしまったのでしょう。いろんな人に配慮して案をまとめるというのは自民党の得意芸ですが、それでは訴求力のある文章にはなりませんし、憲法前文にふさわしい格調も出てきません。
憲法を変えるよりも、自民党のそういう政治体質を変えるほうが先決でしょう。
 
参考のために現在の憲法前文も張っておきます。
改めて読んでみると、たとえば「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」というくだりなどに、世界に向けてこの憲法を発信していこうという気迫がみなぎっています。
ふたつの前文を読み比べてみると、戦後六十余年が経過して、日本人の精神はここまで弛緩してしまったのかということがよくわかります。
 
 
日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

最近テレビを見ていて、東京海上日動のCMが気になります。父親が高校生の娘を毎日軽トラックで学校へ送っていき、卒業式の日に娘が「父さん、今日までありがとう」と言うCMです。
 
通常の60秒バージョン
 
娘の視点からの特別バージョン
 
なにが気になるかというと、この父と娘にほとんど会話がないのです。
 
「学校どうだ」
「普通」
 
「今度の試合出れそうか」
「知らない」
 
こんな調子です。
それでいて最後は、
「でも、それはかけがえのない時間だった」
ということになります。
 
ほとんど会話が成立していないのに、それが「かけがえのない時間」か、と突っ込みたくなります。
 
もっとも、たいていの家庭の父親と子ども(中高生ぐらい)の会話はそんなものかもしれません。
私の場合も、父親から「最近、学校はどうだ」と聞かれると、決まって「別に」と答えていました。
「勉強してるか」
「別に」
「そのテレビおもしろいか」
「別に」
こんな調子です。
 
当時はなぜ自分が「別に」しか言わないのかわかりませんでしたが、今思うと、父親と普通に会話していくと、決まって説教されたりバカにされたりという展開になるので、それを避けるために「別に」と言っていたのでしょう。
「別に」なら会話が発展しません。
東京海上日動のCMで娘が「普通」と言っているのも同じでしょう。
 
前回の「『ヨイトマケの唄』から遠く離れて」という記事で、「ヨイトマケの唄」には働く母の姿は描かれているが、母と子の触れ合いは描かれていないということを指摘しましたが、親と子の望ましい関係というのは美輪明宏さんにも描けなかったのでしょう。
 
なぜ描けないかというと、親と子の会話はほとんどの場合、親からの命令、指示、説教、警告、批判、解釈、分析、激励、助言になってしまうからです。
こうした会話は一方的で、子どもは不愉快になってしまうので、会話が続きません。
命令や説教や批判がよくないのはわかりやすいでしょうが、激励や助言もいけないというのはわかりにくいかもしれません。私はこれを親業(おやぎょう)訓練の本から学びました。
 
(親業訓練における話し方についてはたとえば次のサイトなどを参考にしてください)
聞き方と話し方 トマス・ゴードン博士の親業訓練講座(P.E.T.
 
今ではまともな親子の会話がどんなものであるかをわかっている人がほとんどいないので、そうした会話が描かれることもありません。
 
住宅のCMなどには仲のよさそうな親子が描かれますが、イメージだけで、「親子の仲のよい会話」というのはほとんどないのではないでしょうか。
 
皮肉なのはソフトバンクのCMです。白戸家の人々を描くCMが大人気で、長く続いていますが、お父さんが犬です。
「家政婦のミタ」や「マルモのおきて」などの人気ドラマも、欠損家庭を舞台にしています。
 
例外なのはアニメの「サザエさん」です。これは理想的な家庭を描いたものといえるでしょう。
「サザエさん」の主人公はサザエ、カツオ、ワカメの3人兄弟で、波平とフネの両親は教育やしつけという意識がほとんどないので、おとなであるサザエさんはもちろんですが、子どもであるカツオとワカメものびのびとやりたいことをしています。
 
そのため、テレビを見る子どもは「サザエさん」を単純に楽しんでいるでしょうが、おとなは「サザエさん」について複雑な思いがあるに違いありません。
つまり、理想の家庭というのは自分にはなかったということを意識せざるをえないのです。
 
「サザエさん症候群」という言葉があります。日曜日の夕方に放映される「サザエさん」を見ると、翌日からまた仕事をしなければならないという現実に直面して憂鬱になることをいいます。「ブルーマンデー症候群」の別名とされます。
しかし、「笑点」もその少し前に放映され、「サザエさん」以上に多くの人が視聴していますが、「笑点症候群」という言葉はありません。また、「大河ドラマ」や「日曜洋画劇場」(これは最近終了しましたが)も日曜の定番の番組ですが、これを見て憂鬱になるという話は聞きません。
 
ということは、「サザエさん」を見て憂鬱になるのは、翌日の仕事のことを思うからではなく、「サザエさん」そのものに憂鬱になる原因があるというべきでしょう。
「サザエさん」を見ていると、自分が育った家庭や今営んでいる家庭は「理想の家庭」から遠く離れているということを認識せざるをえず、それで憂鬱になるのです。
 
その点、東京海上日動のCMは、「理想の家庭」から遠く離れた家庭を「理想の家庭」であるとごまかしています。
「サザエさん」を見て憂鬱になった人は、このCMを見るといいかもしれません。所詮はごまかしですが。

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