村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2013年06月

タレントのローラさんの父親が詐欺容疑で国際手配になったというニュースがありました。ローラさんが人気のタレントであるだけに注目度が高いのは当然ですが、その報道のしかたを批判する声が上がっています。
 
ローラさんの父親を国際手配 海外療養費詐取の疑い
 知人の男が海外で入院したように装って療養費をだまし取ったとして、警視庁は、バングラデシュ人のジュリップ・エイエスエイ・アル容疑者(53)について詐欺容疑で逮捕状を取り、25日発表した。捜査関係者によると同容疑者はタレントのローラさんの父親。現在バングラデシュにおり、警視庁は国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配した。
 
 組織犯罪対策1課によると、ジュリップ容疑者は2009年12月、知人のバングラデシュ人の調理師の男(45)=同容疑で逮捕=と共謀し、調理師が母国で約1カ月入院したと偽って世田谷区役所に国民健康保険の海外療養費を申請し、87万5千円をだまし取った疑いがある。
 
 調理師は「(ジュリップ容疑者から)もうけ話があると誘われた」などと供述しているといい、同課はジュリップ容疑者が療養費を詐取する方法を教えたとみている。
 
この記事に対する疑問は、容疑者がローラさんの父親であるということを書く必要があるのかということです。
この記事は容疑者がローラさんの父親であるということを前面に出しているので、そうした疑問が起きにくくなっています。もしこの記事が、「バングラデシュ人を国際手配、海外療養費詐取の疑い」という見出しで、記事の末尾に「なお、ジュリップ容疑者はタレントのローラさんの父親である」と書かれていたら、多くの人が末尾の一行は必要ないのではないかと考えるでしょう。
 
これは朝日新聞の記事がたまたまそうなっていたということではありません。ブロガーの木走正水さんが主要紙の記事の見出しがみな同じであるということを指摘しています。
 
 
朝日新聞】ローラさんの父親を国際手配 海外療養費詐取の疑い
 
【読売新聞】ローラさんの父、不正受給指南…詐欺容疑逮捕状
 
【毎日新聞】ローラさん:父親に逮捕状 海外療養費詐取の疑い
 
【産経新聞】ローラさんの父親に逮捕状 海外療養費詐取の疑い 警視庁 被害1千万円以上か
 
【日経新聞】ローラさんの父親国際手配 国保で87万円詐取容疑
 
つまりどの新聞も、「海外療養費の詐欺事件」を報じるというよりも、「ローラさんの父親に詐欺容疑」ということを中心にして報じているのです。
これはどう考えてもおかしな報道のしかたです。
もちろんローラさんとローラさんの父親は別人格ですし、ローラさんが犯罪に関与したということはまったく示されていませんし、ローラさんは有名人であっても公人ではありません。
 
もちろんこれは、警察がこのような形で発表し、マスコミがそのまま記事にしたということでしょう。
なぜ警察がこのような形で発表したかは定かではありませんが、自民党の片山さつき議員が前から海外療養費制度の不備を指摘していて、今回のローラさんの父親の報道があると、すぐに自身のブログでこの報道にからめて制度問題を論じていますから、もしかしてそういう政治的な意図があって世間の注目を集めようとしたのかもしれません。
 
警察の意図はともかく、新聞各社が警察発表をそのままの形で記事にしたのにはあきれてしまいます。容疑者がローラさんの父親であることを記事に書く必要があるのか、見出しにまで書く必要があるのかという疑問はなかったのでしょうか。
マスメディアは批判能力を喪失して、警察や検察の判断にすっかり依存しているのではないかといわざるをえません。
 
それにしても、警察とマスメディアがこうした報道をしたことにはそれなりの理由があります。それは警察官僚や新聞記者の差別意識です。
 
私がこの新聞記事を読んだとき最初に思ったのは、「バングラデシュ人だから書いたな」ということでした。ローラさんの父親がアメリカ人やイギリス人なら、こうした記事はなかったでしょう。
東電OL殺人事件のときにネパール人のゴビンダ・マイナリさんが逮捕され、犯人に仕立て上げられましたが、これもネパール人であることが大きな要素だったと思います。日本人の多くはネパール人に差別意識を持っていますし、ネパールは小国ですから、ネパール政府に抗議されてもたいしたことはありません。
バングラデシュは小国とはいえないかもしれませんが貧国ではありますし、日本人の多くはネパール同様に見下していると思います。
 
それから、ローラさんが所属する芸能事務所はきわめて小さなところです。ウィキペディアによると、「主な所属タレント」には4人の名前しかなく、ローラさんが筆頭になっています。
マスメディアが力のある大手芸能事務所所属のタレントに弱いことは周知の事実です。これまでマスコミからバッシングされたタレントはほとんどの場合、弱小事務所の所属です。
 
それから、ローラさんは歌手でも俳優でもなく、もっぱらバラエティ番組に出演するタレントです。このことも大きな要素であると思います。
警察官僚や新聞記者の多くはバラエティ番組をほとんど見ないと思います。見ないのはいいのですが、自分の子どもがバラエティ番組を見ていると怒ったりしているのではないかと思います。つまりバラエティ番組は低俗であるとして見下しているのです。こういう人はバラエティタレントも見下しているはずです。
 
ですからローラさんは、お父さんがバングラデシュ人で、弱小芸能事務所所属で、バラエティタレントであるということで、マスメディアがひじょうにたたきやすい存在であるわけです。
警察や新聞社は、これをきっかけにローラさんへのバッシングを起こさせようとしたというといいすぎかもしれませんが、バッシングが起きてもしかたがないという「未必の故意」はあったのではないでしょうか。
 
ところが、必ずしもそうはなっていません。ネットには「父親が容疑者になってもその子どもに責任はない」という声がけっこうありますし、テレビのコメンテーターで警察の発表がおかしいのではないかと指摘する人もいます。
 
片山さつき議員は自身のブログで、「おそらく彼女自身は関与していないでしょうから、それを芸能界がどう判断するかでしょうが」と書いています。
 
自分の判断を書かずに、芸能界の判断にゆだねるとはおかしな話です。芸能人バッシングに便乗するという得意技()を発揮したかったのでしょうか。
 
ともかく、立場の弱い芸能人をバッシングするのではなく、「親の行為に子どもの責任はない」という正論が聞かれるようになったとは、日本も進歩したものだ――といいたいところですが、たぶんそういうことではないでしょう。
これは要するに、たまたまローラさんが魅力的で、しかも無邪気で憎めないキャラクターであるために、ヘイトスピーチのパワーに打ち勝ってしまったということではないでしょうか。
 
警察や検察とマスメディアが結託して、国民の差別意識に便乗したときのパワーというのは、まだまだあなどれないと思います。

最高視聴率40%を獲得した評判のドラマ「家政婦のミタ」をレンタルショップで借りて見ました。家族のドラマだということで興味があったからです。
少し前には「マルモのおきて」が家族のドラマとしてヒットしましたが、これは育児ノイローゼの母親抜きで子どもたちが幸せを求める物語であるところが新しいと思いました。「家政婦のミタ」にもなにか新しさがあるのではないかと思ったのです。
 
「家政婦のミタ」というタイトルはもちろん市原悦子さん主演の「家政婦は見た」のパロディですし、キャラクター設定にもパロディ精神がいっぱいです。たとえば、ミタさんは後ろに人が立つのを嫌いますが、これはもちろん「ゴルゴ13」です。また、持参のカバンから、必要なものが魔法のようになんでも出てくるのですが、これは「メリー・ポピンズ」と同じです。
 
物語は、母親が亡くなって父親と4人の子どもが暮らす阿須田家にミタ(三田灯)という家政婦が派遣されてくることから始まります。
ミタさんはあらゆる家事を完璧にこなすスーパー家政婦ですが、まったく無表情で、絶対に笑顔を見せません。頼まれたことはなんでもやり、殺人を頼まれたら実際に人を殺しかねない不気味さがあります。
阿須田家の父親は、妻と子を捨てて不倫に走った男で、今も子どもの愛し方がわかりません。そのため阿須田家は崩壊状態です。しかし、ミタさんの完璧な家事能力と予想外の行動の連続で、阿須田家はしだいに立ち直っていきます。そして、ドラマの後半は、ミタさん自身の問題になっていき、ミタさんが笑顔を取り戻すか否かが焦点になります。
 
どうしてこのドラマがヒットしたのでしょうか。理由はいろいろあると思います。
たとえば、このドラマでは現実にはありえないようなことが次々と起こるのですが、ミタさんのキャラクター設定がしっかりしていて、周りの人物も少しずつ現実離れした過剰なキャラクターになっているので、なんとなく納得してしまいます。もちろんミタさんを演じる松嶋菜々子さんの存在感も大きな要素です。
その結果、ファンタジーとリアルの中間のような不思議な感じになっています。
 
父親は不倫をして妻を自殺に追いやり、子どもをどう愛すればいいかもわからない、夫としても父親としてもだめな男です。しかし、不思議と不快感がありません。本人なりに誠実なところがあり、演じる長谷川博己さんが甘い雰囲気のイケメンであることも大きいでしょう。
 
そして、過剰にドラマチックなストーリーの中で「家族の再生」が果たされるということが、人気になったいちばんの理由ではないかと思われます。
 
ただ、「家族の再生」といっても、4人の子どもは実はなにも変わりません。むしろ父親や、亡くなった母親の妹である叔母(相武紗季)や、母方の祖父(平泉成)、さらにはミタさんが変わることによって「家族の再生」が果たされるのです。
 
家族や家庭のたいせつな機能のひとつに、子どもを教育するということが挙げられます。しかし、阿須田家には子どもを教育する機能がまったくありません。
母親はすでに亡くなっています。父親は子どもの愛し方がわからず、子どもを教育したりしつけしたりするという意識もありません。子どもを心配してしばしば訪ねてくる叔母は、きわめてドジな性格で、子どものためになることがなにひとつできません。祖父は極端に頑固な性格で、子どもから拒否されています。
そして、ミタさんは家政婦ですから、自分から家族関係に関わろうとせず、子どものしつけもしません。なにか命令されたときに「承知しました」というのがミタさんの有名な決め台詞ですが、なにか意見を求められたときに「それはあなたが決めることです」というのももうひとつの決め台詞です。
 
高校2年生の長女(忽那汐里)はクラブの先輩とつきあって、外泊したりしますが、誰からもとがめられません。そして、先輩に裏切られ、傷つきますが、当然ながら自力で立ち直ります。もし家庭に“教育機能”があれば、外泊は禁止され、裏切られて傷つくこともないかもしれませんが、経験して成長することもできません。
 
“教育機能”のない阿須田家は、家事を完璧にこなすミタさんがいることによって、子どもにとっては理想の環境になったのです(もしミタさんがいなかったら、家事をめぐるごたごたによって家族の崩壊が加速したでしょう)
そして、子どもが主導して父親や周りの人間を変えていきます。
というか、子どもと触れ合うことでおとなが変わっていきます。
 
脚本を書いた遊川和彦さんは「女王の教室」も書いた人です。どこまで意識的かわかりませんが、教育やしつけはおとなも子どもも幸せにしないということがわかっているようです。
 
 
教育やしつけのないほうが家庭は幸せになるというのが私の考えです(将来のことは別ですが)
 
幸せな家庭の典型が「サザエさん」でしょう。カツオやワカメはサザエさんの子どものように見えますが、実は弟妹なので、サザエさんはカツオやワカメを教育したりしません。それは波平とフネの役割ということになりますが、すでに成人して一家の主婦となったサザエさんが防波堤になって、ほとんどその役割を果たすことはありません。そのためサザエさん一家はとても幸せに見えるのです。
 
宮崎駿アニメも、どの作品をとっても子どもが主体的に行動するものばかりです。
 
その正反対のものが「巨人の星」でしょう。星家は飛雄馬にとってまさに教育地獄です(のちに一流選手になることである程度報われますが)
 
家族をめぐるドラマを見ると、いろいろなことを考えさせられます。
しかし、中にはなにも考えない人もいるでしょう。たとえば、「家族は、互いに助け合わなければならない」という改憲草案を書く人たちは、家族についてなにも考えない人たちに違いありません。

自民党の憲法改正草案には「家族は、互いに助け合わなければならない」というくだりがあり、これは憲法に道徳を持ち込むものだとして批判の声が上がっています。
ここでは2人の意見を紹介しておきます。
 
96条改正は「憲法破壊」 小林節氏、自民草案も批判
9条改正が持論の憲法学者、小林節慶応大教授が17日、都内の日本記者クラブで講演し、改憲の発議要件を緩和する96条改正は「憲法の破壊だ」と断じた。自民党の改正草案についても「法で道徳を強制し、安易な海外派兵の道も提案している」と厳しく批判した。
 
 小林教授は「憲法は国家権力を縛るものであって(改正に高いハードルを課す)『硬性』となるのは当然」と主張。
 
 自民案には「家族は互いに助け合わなければならない」との条文があるが、小林教授は「『家族は仲良くしなさい』と命じる法律をつくれるようになってしまう。法は道徳に踏み込むべきではない」と訴えた。
 
 
自民改憲草案に河野氏異論=道徳持ち込むべきでない-衆院憲法審
 13日の衆院憲法審査会で、自民党の河野太郎氏が同党憲法改正草案に対し異論を唱えた。草案が「家族は互いに助け合わなければならない」と明記していることについて、河野氏は「道徳を憲法の中に持ち込むべきではない」と指摘した。
 河野氏は「家族が助け合うのは、そうあるべきだろう」とした上で、「道徳は個人に任せられるものだ」と述べ、憲法で条文化することには反対の立場を示した。 
 河野氏の主張に対し、同じ自民党の衛藤征士郎氏は「ちょっと違うのではないか」と批判したが、共産党の笠井亮氏は「非常に共感する。自民党内にもいろいろな意見があると思った」と語り、河野氏を援護した。(2013/06/13-17:05
 
 
一般国民も憲法に道徳を持ち込むことには批判的であるようです。「Yahoo!みんなの政治」では、次のアンケートを実施中で、現時点の結果はこうなっています。
 
自民党の改憲草案の第24条には、「家族は、互いに助け合わなければならない」と記されています。最高法規に道徳を書きこむことに賛否がありますが、「家族の助け合い」を憲法に書きこむべき?
 
書きこんだ方がいい   14% 
書きこまない方がいい   84% 
その他   1% 
 
 
つまり、憲法に「家族の助け合い」などの道徳を持ち込むことには圧倒的に反対の声が多いということです。
 
一方、安倍政権は「道徳の教科化」も推進しています。これについての「Yahoo!ニュース」のアンケートはこうなっています。
 
政府の教育再生実行会議が「他者への理解や思いやり、規範意識」などを育むために「道徳」の教科化を提言、文部科学省が教科化する時期の前倒しを検討しているそう。あなたは「道徳」の教科化に賛成? 反対?
 
賛成 68.3% 71,515
反対 25.9% 27,111
どちらとも言えない/わからない 5.8% 6,144
 
こちらは多くの国民が賛成しています。また、明確に反対の意見を主張する有識者もあまりいないようです。
 
つまり、多くの国民は「憲法に道徳を持ち込むことには反対だが、教育に道徳を持ち込むことには賛成である」ということになります。
一般社会のことと、家庭の中や学校の中のことは別だ、という考え方なのでしょう。
しかし、これは明らかにダブルスタンダードです。
こういうダブルスタンダードでいるから、自民党が憲法の中に道徳を持ち込んできても、明快な反対理由を示すことができないのです。
 
その点、私は一般社会はもちろん、家庭内にも学校内にも道徳を持ち込むことに反対しているので、一貫しています。
なぜほかの人が私のように明快な立場に立たないのか不思議です。
 
ダブルスタンダードの人は要するに、「自分が道徳を説教されるのはいやだが、子どもに説教するのはいい」という考えなのですが、これは明らかに自分勝手なおとなの考えです。
 
 
道徳は無用の存在であるどころか、世の中に害をもたらす存在だ、というと驚かれるでしょうか。
しかし、それは簡単にわかることです。
 
テレビ朝日で放送されていた「ショナイの話」というトーク番組に元阪神タイガースの通訳という人が出たことがあります。その人によると、新入団の外人選手が日本野球に適応できるか否か、すぐに判定できる場合があるそうです。
外人選手が来日すると、通訳は空港に迎えに行きます。そして、空港からタクシーに乗ると、初来日の外人選手は日本の道路が左側通行であることにたいてい驚くそうです。中にはパニック状態になる選手もいるといいます。
そのとき、「different way」という言葉を使う選手は、日本野球に適応して活躍することが多いが、「wrong way」という言葉を使う選手は、日本野球になじめず、活躍できないことが多いというのです。
というのは、「different」というのは単に「違う」という意味ですが、「wrong」は「間違っている」「正しくない」という意味ですから、アメリカのやり方が正しくて、日本のやり方は正しくないと思っているわけです。
もちろん、日本のやり方が正しくないと思っている選手は、なかなか日本の野球のやり方に適応できず、活躍もできません。
 
wrong」は「bad」ほどではありませんが、道徳的な意味があります。ものごとを道徳的にとらえるとだめになるという例です。
 
世の中にはいろいろな決まりごとがありますが、これは交通ルールのようなものだと考えればいいのです。あいさつや礼儀作法もそうです。これを道徳だと考えると不幸になります。
 
家庭の中でも同じです。
結婚というのは、まったく別の環境で育った男女がいっしょに暮らすことです。それぞれの家のやり方というのがありますし、地域による違いというのもありますから、最初は相手のやり方にとまどうことがいっぱいあるはずです。そのとき、「相手のやり方は間違っている。自分が正しい」と思うと、喧嘩になります(喧嘩にならない場合は相手が譲ったわけですから、相手に不満が残ります)
そうした道徳的思考を排して、単に「different」だと認識すれば、喧嘩にはならないはずです。
 
ですから、私は前から「家庭に道徳を持ち込むな」といっています。
 
子どもと接するときも同じです。親が道徳的な目で子どもを見ると、親も子どもも不幸になってしまいます。これは具体的な例で示してみましょう。「発言小町」という掲示板からの引用です。
 
もうすぐ3歳女児のいじわる  おむすび  2013228 22:59
 はじめまして。
今回我が家の娘のことでご相談させて頂きます。
 
娘はもうすぐ3歳になり、下の子は今お腹の中にいます(安定期)。
平日週2~5日で、同じ年齢の子供つながりの友達とお弁当を持って公園やら児童館やらに遊びに行ってます。
2歳になったくらいから、人に対してわざとツンツンすることが時々あり、
「○○ちゃん(ばあちゃん、じいちゃんなど色々)のこと好かんっ。」などと憎まれ口を叩くようになりました。
それと同時に、自分がしたことに対しての相手の反応を観察するようになったのか、
色んなことをしたり言ったりするようになりました。
その一つがいじわるです。
 
明らかに自分より小さい、もしくは自分が勝てそうな相手にやっています。
こっそりと、大人にばれないように、通せんぼをしてみたり持っているものを取ってみたり…
表情を見ていると悪いことをしている自覚はありそうです。
でもやるのです。
 
私は見つけ次第すぐに叱りに行きます。
理由を聞いてみたりもします。
何かの腹いせに(私がかまってくれないとか)やっているのかもと思い、
厳しく言い聞かせるだけでなく抱っこで説明してみたり、
その日の朝にできたことをもう1回褒めてあなたはやればできる子だと言ってみたりします。
でも多くを語りませんし、話をはぐらかすことも多いです。
たまにのって張り切ってくれるんですが、私の手前、喜ばせようとしている感じでもあります。
 
生まれてくる下の子に意地悪することに関しては私が目を光らせるのみですが、
この春幼稚園に入り、親の目が届かなくなるのでかなり心配になってきました。
私の接し方が間違っていたのか、悶々と考える日々です。
やはり私が満たしてやれてないのでしょうか。
 
これは親も子も不幸です。なぜ不幸になっているかというと、親が「道徳の目」で子どもを見ているからです。
「親バカの目」で子どもを見ていれば、親も子も幸せになれるのですが。
 
 
ともかく、自民党は憲法にも学校にも道徳を持ち込もうとしています。
自民党の憲法改正草案は、“説教オヤジの憲法”です。
 
誰でも自民党のオヤジから道徳を説教されたくないはずです。
しかし、自分が人に道徳を説教していては矛盾です。
「自民党のふり見て我がふり直せ」というところです。

7月の参院選からネットでの選挙運動が解禁されることになりましたが、これによって政治の劣化がさらに進んでしまう可能性があると私は思っています。
 
ネット内の世論は、一般社会の世論としばしばかけ離れています。たとえば橋下徹大阪市長の「慰安婦制度は必要」発言について、一般の世論は批判的で、日本維新の会の支持率も下がっていますが、ネット内では橋下氏支持の声が多数あります。こうした声をまに受けると政治が間違った方向に行くことになります。
 
なぜネット内の世論がへんなのかについて私は、「バカが集団になるとバカが増大する」と書いたことがあります。しかし、これは品のない表現です。「天声人語」が同じようなことを書いていましたが、こちらはさすがに品のいい表現です。
 
「天声人語」
 こんな経験はないだろうか。あるテーマについて、同じような意見を持つ何人かで話し合いをする。すると、みんなの意見がだんだんと極端な論に傾いていく▼たとえば、歩道を走る自転車を取り締まるべきだと思っている人々が集まって「そうだ、そうだ」と言い合ううちに、「断固、厳罰に処せ」の大合唱になる。こうした現象を「集団分極化」というそうだ▼ネット上でもしばしば起こる。たしかに激しい攻撃や差別、憎悪の噴出をよく目にする。ネットの匿名性はこの傾向を強めやすい。ネットは「過激主義の温床になっている」(キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』)
(後略)
 
私はこれを読んで「集団分極化」という言葉を初めて知りました。しかし、検索してみると、同じ意味で「集団極性化」という言葉もあります。ヒットするのは「集団分極化」が約4万件、「集団極性化」が約94万件ですから、「集団極性化」という言葉のほうが一般的なようです。
 
この「集団極性化」はどんなことでも起こりうるのでしょうが、いちばん極端に現れるのが右翼化、国家主義化の場合です。
人間はもともとほかの動物と同じく、完全に公平であるよりは少し利己的にふるまうように生まれついていますが、利己的なふるまいは周りと摩擦を起こすので、日常的には利己的なふるまいを抑えています。しかし、国益を追求するべきだという議論を国内でしている場合は、「集団極性化」がもろに起こってしまいます。
とくに日本人はもっぱら日本語で表記されたサイトにアクセスするので、インターネットは世界に通じているとはいいながら、国境で閉じられた世界になってしまっています。
中国や韓国でも事情は同じでしょう。
英語のサイトは世界に開かれていますから、アメリカ人などの場合はまったく違うはずです。ヨーロッパの場合も、各国の言葉が互いにかなり似ているので、日本ほど国境で閉じられてしまうことはないのではないでしょうか。
 
ですから、インターネットのおかげで日本と中国と韓国はこぞって右傾化し、対立を深めることになっています。
 
橋下氏は日本のインターネットで行われている議論が世界に通じると勘違いして「慰安婦制度は必要」発言をしてしまったのでしょう。ネットが政治を劣化させたいい例です。
 
それから、安倍首相もネットの議論のやり方に影響されているようです。
 
ネットの議論というのは、慰安婦問題のような大きな問題はうまく扱えません。簡単に結論が出ないからです。そのため議論が多くの人にとって都合のいい方向にどんどん流れていくことになります。
反対に、誰かがツイッターで問題発言をしたというような小さな問題は、すぐに結論が出るので、多くの人が飛びついてきて盛り上がります。
最近の安倍首相の議論のやり方は、こうした小さな問題を追及することに傾いています。
 
たとえば民主党の徳永エリ議員が閣僚の靖国参拝に関して国会で「拉致被害者が落胆してます」と発言したことに対して、「どなたがそれを言ったのか」と反論し、自身のフェイスブックでも徳永議員を批判しました。これは徳永議員の発言にも問題があるかもしれませんが(個人名を公にしろと追及するほうにも問題があります)、所詮は小事です。総理大臣があとになってまでフェイスブックで追及するようなことではありません。
しかし、ネットではこうした言葉の端を取り上げて相手をやりこめ、勝った負けたと騒ぐのが常態となっています。安倍首相は自分もそのまねをしたのでしょう。
 
また安倍首相は、田中均元外務審議官に外交方針を批判されたことにフェイスブックで反論し、それを民主党の細野豪志幹事長に批判されると、さらに細野幹事長に反論するということをしています。
外交方針について議論するのは大いにけっこうなことですが、安倍首相は田中氏の批判に対して直接反論するのではなく、田中氏の過去の行動を持ち出して、田中氏に「外交語る資格なし」と個人攻撃をしたのです。
相手の過去の言動を持ち出して反撃するというのは、夫婦喧嘩ではよくあることですが、総理大臣がやったというのは驚きです(こんなことをしているから昭恵夫人とうまくいっていないのでしょうか)
 
小さな問題を取り上げたり個人攻撃をしたりするのは、ネットの議論の傾向なので、安倍首相は自分もそれをやれば受けると思ったのでしょう。しかし、それを喜ぶのは、国民全体からすればごく一部の人たちだけです。
 
ちなみに安倍首相は、徳永議員を攻撃するときも細野幹事長に反論するときも、「民主党は息を吐くように嘘をつく」といっています。よほどのお気に入りのフレーズのようです。
 
しかし、「息を吐くように嘘をつく」というのは、厳密な出典は知りませんが、「朝鮮人は息を吐くように嘘をつく」という形で、もっぱらヘイトスピーチとして使われていたフレーズです。
もちろんこれは人格攻撃の言葉ですから、まともな議論に使う言葉ではありません。
 
安倍首相にはまったくネットリテラシーがないようです。
そのため私たち日本人は、平気でヘイトスピーチをする首相をいただくことになってしまいました。

日本が人権後進国であることは世界的に有名であるようです。
国連拷問禁止委員会で日本政府代表が「シャラップ!」と叫んだというニュースがありました。
国連拷問禁止委員会といえば、橋下徹大阪市長の「慰安婦制度は必要」発言が問題になっているとき、「日本の政治家や地方の高官が事実を否定し、被害者を傷つけている」とする勧告を出したところです。今回も慰安婦問題が取り上げられ、それに対して日本政府代表がブチ切れたのかと思ったら、それとは別の問題でした。
 
日本の大使が「シャラップ!」=国連拷問禁止委で暴言
  ジュネーブで5月に開かれた国連拷問禁止委員会で、日本政府代表として出席した上田秀明人権人道担当大使が「シャラップ(黙れ)!」と発言、各国の出席者をあぜんとさせた映像がインターネットの動画サイトに投稿されている。アフリカの島国モーリシャスの代表の批判に大使が反論した際、会場から苦笑が漏れ、怒りのあまりの暴言だった。
 日弁連代表団の一員として会場にいた小池振一郎弁護士によると、モーリシャス代表は、取り調べ時に弁護士の立ち会いを認めない日本の司法制度を「中世のものだ」と批判。これに対し大使が「この(刑事司法)分野で日本は最も先進的な国の一つだ」と反論したところ、笑い声が起きた。
 「シャラップ」は、公式の場にふさわしくない粗暴な表現。騒ぎを受けた11日の衆院法務委員会で、民主党の階猛氏が質問したのに対し、阿部俊子外務政務官は「発言に関しては必ずしも適切ではないと考えている。大使には口頭で注意した。大使も反省の意を表している」と答弁した。
 拷問禁止委員会は、1984年の国連総会で採択された拷問禁止条約に基づき開かれている。日本は99年に条約に加入。各国に対する審査が数年おきに行われ、2007年に続き2度目となる日本に対する審査が5月21、22の両日開かれた。上田大使の発言は22日に行われた。 (時事)(2013/06/14-19:31
 
日本の司法官僚が日本を人権後進国にしているのだということが、このニュースを見るとよくわかります。
 
自民党と官僚は長年にわたって権力の座にあぐらをかき、そのため国民の人権を統治のじゃまと見なすようになったというのが私の考えです。それは自民党の憲法改正草案を見てもわかります。自民党と官僚のために日本は人権後進国になってしまいました。
 
しかし、人権軽視主義者の頭の中をのぞいて見ると、もうひとつの要素が見えるはずです。
それは「戦争」です。
 
橋下徹大阪市長の「慰安婦制度は必要」発言は、女性の人権を軽視した発言ですが、見方を変えれば戦争を重視した発言です。
つまり、戦時下では兵隊の士気を高めることがなにより重要であって、そのためには女性の性を利用することも許されると考えているのでしょう。
人権と戦争を天秤にかければ、戦争のほうが重い。それは決して人権を軽視しているわけではなく、戦争が重すぎるのだ、という理屈です。
 
こういう考え方は幅広く見られます。
たとえば今、元CIA職員のエドワード・スノーデン氏がアメリカ国家安全保障局による個人情報収集を暴露して問題になっています。これは明らかに人権侵害であると思われますが、やっているほうは「テロとの戦争」を遂行している以上やむをえないという考えでしょう。
キューバにあるアメリカのグァンタナモ刑務所では拷問など人権を無視した取り調べが行われていますが、これも「テロとの戦争」ということで正当化されてしまっています。
 
自民党の憲法改正草案には、現行憲法では「公共の福祉」となっているところが「公益及び公の秩序」と書き換えられています。なぜこの書き換えをするのかというと、戦争をするときには「公の秩序」を維持することがたいせつだという考えがあるからでしょう。
 
橋下氏に限らず右翼やタカ派は、戦争のためには人権無視もやむをえないと考えています。
つまり「戦争対人権」という図式を描きます。
しかし、これは「戦争イコール人権無視」という図式でとらえたほうがわかりやすいでしょう。
戦争に限らず暴力、レイプ、体罰などはすべて人権無視の行為です。
橋下氏や石原慎太郎氏はもともと体罰肯定論者です。そして(戦時下の)レイプも肯定します。戦争も肯定します。
彼らは「戦争という非常時のためにやむなく人権を無視する」というかもしれませんが、正しくは「日ごろ人権を無視するから戦争が起こる」のです。
 
アメリカが勝手に個人情報を収集したりグァンタナモ刑務所で拷問をしたりするからテロが起こるのです。
 
人権はすべての根底にあるものです。
ですから、「戦争対人権」という図式は戦争を持ち上げすぎています。
人権無視から暴力、体罰、レイプ、戦争が生まれるというふうにとらえるのが正確です。

トルコでエルドアン首相の退陣などを求めるデモ隊と警官隊が衝突して、騒ぎが拡大しています。
独裁国や経済危機の国でこうしたことが起こるのはわかりますが、トルコは民主主義国ですし、経済も好調です。どうしてこんなことになるのでしょうか。
 
そもそもの発端は、イスタンブールのタクシム広場に隣接するゲジ公園をとりつぶして再開発する計画が持ち上がり、反対派が公園内で座り込みを始めたことです。それがどういうわけか全国的なデモに拡大しました。
その理由としては、現政権が酒類の夜間販売禁止などイスラム色の強い政策を進めていることや、エルドアン首相が独裁色を強めていることなどが挙げられています。
確かにそういう理由もあるのでしょう。しかし、それだけが理由だとすると、弱すぎると思います。
 
私はトルコの騒ぎについての新聞記事の中にキーワードを見つけました。それは「祭り」であり「解放区」です。
 
反政府に染まる広場 集う市民、無料の食料配布所 トルコデモ
 
 反政権デモが広がるトルコの最大都市イスタンブール中心部を4日朝、歩くと、街全体としては平静を保っていた。一方で、デモ隊が占拠するタクシム広場とその周辺だけが、独特な空気に包まれている。思い思いの旗や看板が掲げられ、食料配布所もできて、さながら「反政府祭り」の雰囲気だ。
 
 この日朝、広場の隣のゲジ公園の芝生や植え込みには、大勢の人が寝転がっていた。弁護士のブラック・ソフォールさん(30)は5日前から無料の「食料配布所」を開き、こうした人たちに「朝食」を配っている。近所の人たちから寄付されるパンや牛乳などを集め、大学生ら数十人のボランティアで運営している。ソフォールさんはエルドアン首相の辞任までは求めていないというが、それでも「公園の木を切らせてしまうと、政府に屈したことになってしまう」と訴える。
 
 野宿を続ける市民らは、口々に「政府への不満」を語り合う。野宿5日目の美術大学生のエズギ・エルクムラシュさん(28)は、強権的な首相への反発から、市民らの抗議に「反政府色が強くなってきている」と感じている。「運動がどこに向かうかは分からない。でも、ここに居続けないと私たちの思いも守れない。今はそれだけ」
 
 この1週間、毎日公園のゴミ拾いをしているというゴズデ・アクスさん(14)とギゼン・カラマンさん(14)は中学生だ。学校を休んでいるが、両親も認めているという。「勉強になる。こんな機会はない」
 
 デモ隊は広場周辺で進んでいた渋滞緩和のための地下道路建設工事も止め、フェンスが倒されていた。一方で周辺のホテルや商店は営業を続けている。観光客の姿もあり、通りはいつもの慌ただしさだった。
 
 (イスタンブール=前川浩之)
 
 
 
■白煙の中、逃げ惑う人々
 
 催涙ガスの白煙のなかを逃げるデモ隊、炎上する警察車両――。イスタンブール中心部のデモ拠点、タクシム広場は11日朝、騒然とした状態に陥った。
 
 「ボーン、ボーン」。「ドーン」。広場周辺に展開した警官隊が一斉に大量の催涙ガス弾を発射すると、にらみ合っていたデモ隊はちりぢりになって逃げ惑った。「マスクはないか」「落ち着け」。呼びかけが交錯する。足をけがしたり、目を押さえたりした人が次々に隣接するゲジ公園に駆け込んだ。
 
 1日にデモ隊が占拠して以降、事実上の「解放区」となってきた広場で事態が一気に動いたのは午前7時半ごろ。主要道に十数カ所も築かれたバリケードを越えて、ヘルメットや盾で重装備した警官隊数百人が、放水車や重機なども動員して広場の要所に展開した。
 
 
つまりここで起こっているのは、チュニジア、エジプト、リビアなどに広がった「アラブの春」の遅いバージョンです。
「遅すぎた春」という言葉がありますが、この場合は遅すぎるということはないので、「遅い春」といっておきます。
 
革命騒ぎ、つまり解放のための戦いというのは、たいへんな高揚感があります。あらゆる祭りの中の最高の祭りだといえるでしょう。
そして、この祭りは高揚感があるだけに伝播しやすいのです。
 
たとえば、60年代末の全共闘運動は最初、学費値上げ反対闘争とか学生処分反対闘争とかが各大学でほそぼそと行われていたのですが、日大で当局の不正経理に抗議する運動がたいへんな規模で盛り上がり、それがきっかけで全国規模で大学闘争が盛り上がったのです。
そして、当時はアメリカでベトナム反戦運動が盛り上がっていたので、それと共鳴し、それがさらにフランスに影響を及ぼして五月革命といわれる運動になるなど、ヨーロッパ各国にも広がりました。そして、政治的な意味はまったく違うのですが、中国では紅衛兵運動が起き、そのスローガンの「造反有理」は世界の若者の共通のスローガンにもなりました。
 
革命の高揚感が国境を超えるという最初の例は、アメリカ独立戦争とフランス革命の関係に見られます。1783年にアメリカはイギリスとの戦いに勝利して独立を勝ち取りますが、それに影響されたフランス民衆は1787年にフランス革命を始め、アメリカ独立宣言に影響されてフランス人権宣言を採択します。
 
また、日本の米騒動は1918年、富山県の女性たちが立ち上がったことがきっかけで起きますが、その前年の1917年にロシア革命の二月革命と十月革命が起きています。米騒動にロシア革命の影響が大きかったことは明らかでしょう。
 
こうした革命運動が盛り上がるためには「解放区」の存在が重要です。権力の及ばない「解放区」があってこそ革命の高揚感が得られるのです。
全共闘運動では大学をバリケード封鎖して、そこを解放区にしました。フランスの五月革命では、学生街のカルチェラタンが解放区になりました。フランス革命のときは、映画「レ・ミゼラブル」でも描かれましたが、道路がバリケードで封鎖され、街路や広場が解放区になりました。「アラブの春」でもデモ隊が広場を占拠するなどして解放区を出現させました。
そして、今回のトルコではタクシム広場が解放区となっていたようです。
 
ちなみに全共闘運動は、1969年8月に施行された大学臨時措置法によって大学への警察力導入が可能になり、バリケードが次々と撤去されて解放区が失われたことで急速に衰退しました。
 
私の考えでは、今回のトルコの騒動は、トルコの民衆が革命の高揚感を味わうことを主目的としてやっています。そのためデモの目的というのもはっきりしないのではないでしょうか。一応エルドアン首相の退陣を求めているようですが、公正な選挙で選ばれた首相ですし、ある程度の支持率もあるようですから、無理筋な気がします。
 
ともかく、革命の高揚感はたいへんなもので、私は全共闘運動のときにこれを体験したので、それから10年ぐらいは抜け殻のような感じでした。しかし、人生においてそうした高揚感を味わえたのは幸せなことだと思います。
ですから、私としては今回のトルコの運動も応援しています。
 

株価の乱高下が止まりません。「週刊現代」最新号は「恐怖のアベノミクス相場/素人は退場すべし」というタイトルですし、「週刊ポスト」は「どこよりも早い!アベノミクス大反省会」です。ついこの前まで買い煽りの記事を書いていたのに、その豹変ぶりにあきれてしまいます。
もっとも、一般のメディアが株価について悲観的な記事を書くと、そこで株価は底を打つという経験則があります。今回はどうでしょうか。
 
私は2005年から8年間株式投資をしてきましたが、その経験からいうと、株式投資をするにはプラス面とマイナス面があります。
 
マイナス面は、私の場合、とにかく収支がトータルでマイナスであることです。
株式投資を始めた翌年にライブドア・ショックがあり、2008年にはリーマン・ショックがありました。右往左往してよけいに損失を拡大しました。最近、アベノミクス効果でかなり取り戻したと思ったら、また損をしてしまいました。
もちろん同じ投資環境でも利益を出している人がいます。しかし、一般論として、経験の少ない人が利益を出すのはひじょうにむずかしいと思います。というのは、経験の少ない人はどうしても感情のままに売買することになり、そういう人は経験あるプロに負けてしまうからです。
株式市場というのは、将棋でいえば、駒の動かし方を覚えたばかりの初心者と、羽生善治、渡辺明、谷川浩司らのトッププロが入り混じって戦う場です。
 
それともうひとつのマイナス面は、株価の動きが気になって、本業がおろそかになってしまうことです。
誰でも会社勤めなどの本業があって、そのかたわらで投資をすることになるはずですが、最近のように株価が乱高下し、午前中は上がっていたのに午後になると大きく下げるといったことがあると、勤務時間中にも携帯やスマホで株価のチェックをしたくなるでしょう。そうすると仕事に集中できません。
 
最初から長期ホールドするという方針を決めておけば、短期の値動きはそれほど気にならないでしょう。しかし、それでも株価が上がればうれしいし、株価が下がれば気分が落ち込みます(値動きの少ない投資信託でも基本的に同じです)。つまり感情的エネルギーがそちらに取られてしまい、やはり本業に向けるエネルギーが少なくなってしまうのです。
ほとんどの人において、投資に力を入れるよりも、本業でのスキルアップに努めたほうが収入をふやすことができるはずです。
 
株式投資をやってプラスになったことというのは、必然的に経済について勉強し、経済についての知識がふえたことでしょうか。しかし、これもほんとにプラスになったかどうかよくわかりません。
というのは、経済というのは奥が深くて、どこまで学んでもきりがありません。アベノミクスについても専門家の評価が分かれるように、学んでいけば“真理”に到達できるというものでもないのです。時間のむだとまではいわなくても、やはり本業に集中したほうがいいのではないかという疑問は残ります。
 
では、ほんとうにプラスになったことはなにかというと、自分を知ることができたということです。
株式投資をやることで、人間はいかにお金に振り回される動物かということがよくわかりましたし、自分の行動や感情がいかに不合理であるかということもわかりました。
 
私は株式投資を始めた最初、トヨタ株を買ったり、人気がなくて割安なまま放置されているいわゆるバリュー株を買ったりしていましたが、当時は新興市場のIT企業などがどんどん値上がりしていました。私の持っている株はほとんど値動きがないので、つまらなくなり、よく値上がりしている株に買い換えていきました。するとどんどん成績がよくなり、ある株などは、私が買った翌日にストップ高になり、自分は株の天才かと思いました。初心者なのでかえってそのときの相場環境にうまく適応できたのです。
200512月には、私の持ち株は月間20%値上がりしました。
月間20%が複利で続いていくと計算すると、その利益は膨大なものになります。私は人生設計を変えなければならないと思いました。
ところが、2006年1月にライブドア・ショックが襲い、私はライブドア株こそ持っていませんでしたが、私の持っていた新興企業株は軒並み急落しました。
 
冷静に考えてみれば、月間20%の利益が複利で続いていくなどということはあるわけないのですが、自分のことになると冷静に考えられなくなるのです。
 
また、たとえば持ち株が値上がりし、このあたりで利益確定したほうがいいと思うのですが、前に持ち株を売ったあと、その株がさらに上がるのを見たときの「損した」という苦痛の感情が忘れられず、売りどきを逃してしまうということがあります。それから、持ち株が値下がりし、さらに下げそうだから売ったほうがいいと思うのですが、売って損失が確定するのがいやで売ることができず、さらに値下がりして、結局“塩漬け”株にしてしまうということもあります。
これらのことは誰でもが経験することです。これで損したまま市場から退場してしまう人がいっぱいいます。
 
私は自分自身のこうした不合理な感情に直面して、自分自身について考え直す機会を得ました。その際、経済における不合理な行動について研究する行動経済学という学問が役に立ちました。
最近、行動経済学は一種のブームで、本もいっぱい出ています。
 
ともかく、株式投資をすることで、お金に振り回される経験をして、自分自身の不合理な感情に気づいたというのがいちばんのプラス面です。
 
お金に振り回される経験をしたおかげで、今ではそれほどお金に振り回されなくなりました。
また、行動経済学の考え方をほかの世界にも応用することで、考え方の幅が広がりました。
たとえば、尖閣諸島や竹島などの領土問題は国益に直結しているだけに切実な問題ですが、領土問題にこだわるためにより大きな国益を失っているということもいえるわけです。また、慰安婦問題なども、「謝罪したくない」という不合理な感情に振り回されて損失を招いているものだといえます。
 
なにごともやればそれなりに学ぶことがあります。しかし、株式投資の場合、金銭的な損失をこうむる可能性があるので、やらなければよかったということもありえます。
証券業界は「貯蓄から投資」といったことをいいますが、これはカモをふやす戦略だともいえます。
中途半端な気持ちでやると損をします。まったくやらないか、徹底してやるかのどちらかだと思います。

日経平均株価が下げ止まりません。
株価はいろんな要素で動くので、そのことに一喜一憂するのはバカバカしいことです。
しかし、これまで株価が上げてきたのはアベノミクスの正しさの証明のように受け止められてきました。とすると、株価が下げると、アベノミクスは間違いだったということになってもいいはずです。
 
私は株式投資をしているのですが、このブログで今年1月7日の「『アベノミクスは』バブルを生む」という記事でこんなことを書いています。
 
とはいえ、またバブルの時代が始まるのかもしれません。
しかし、これがバブルだとわかっていればそれなりに対処することができます。株は空売りすることができますし、日経平均先物もありますから、上昇過程では買いポジション、バブルがはじけてからは売りポジションを取れば、往復でもうけることができます。
 
昔のバブルのとき、私の知人で株をやっている人がいて、いつも景気のいい話をしていました。しかし、こういう人はバブルがはじけたとき、バブルがはじけたということに気づかず、安くなった株を割安だと思ってどんどん買っていました。信用取引をしていた人は全財産を失ってしまうということもありました。
 
過去から学んで、同じあやまちを繰り返さないようにしたいものです。
 
偉そうなことを書いていましたが、結局のところ同じ過ちを繰り返しています。
私はこれはバブルだと思いつつ、日経平均でいえば2万円ぐらいまでいってもおかしくないと思っていました。ですから、1万6000円直前で失速したのは予想外で、逃げ遅れてしまいました。
 
そして、前回6月4日の「安倍首相の『的外れ』」という記事ではこんなことを書きました。
 
ところで、株価が急に失速した理由について、私はアベノミクスの第三の矢である成長戦略が期待外れであるからではないかと考えています。マーケットは「異次元の金融緩和」に続いて「異次元の成長戦略」が出てくると期待していたのでしょう。しかし、今まで発表された成長戦略に目新しいものはありませんでした。
(中略)
これからもたいした成長戦略は出てこないと想像され、それで株価が下げているのではないでしょうか。
 
これを書いたときは、5日に安倍首相が成長戦略の第三弾を発表するので、そのあと株価は下げるだろうが、それで悪材料出尽くしになって、そこから反転して上がるだろうと考えていました。
しかし、5日に下げたのは予想通りでしたが、6日も下げ、本日の7日も下げそうです。
 
このように私の予想はぜんぜん当たりません。
いや、半分ぐらいは当たるのですが、半分は当たりません。
ですから、予想屋としては平均的です。
 
私が株式投資を始めたのは2005年でした。そのときは、日本政府の財政赤字はひどいので、政府はいずれインフレにして借金を帳消しにしようとするだろうと予想して、つまりインフレ対策として株式投資を始めたのです。
しかし、実際のところはそれからずっとデフレですから、予想はまったく外れています。
しかも、株式投資を始めた翌年1月にライブドアショックが起きたので、タイミングとしては最悪でした。
 
ですから、私は自分の能力をわきまえて、これまで株価について言及したのは、今紹介した2回の記事だけです。
これからもこのブログは、善悪、正義という倫理を中心に、政治社会や人間心理について書いていくつもりです。
 
もっとも、株価の予測がしにくいのは、ある程度やむをえないことでもあります。
昔、株価は企業業績を先取りしたもので、日経平均株価は日本経済の動きを先取りしたものと考えられていました。
いや、今も基本はそうなのですが、マネーの流通量が昔よりもうんとふえたので、投機的な動きの要素が大きくなりました。ですから、いわゆるアベノミクス効果で株価が上がってきたのも投機によるものだったともいえるのです(現在下がっているのも同じです)
 
つまり、株価の動きを実体経済のバロメーターと考えて、株価が上がるからアベノミクスは正しいというふうには判断しにくい時代になっているのです。
アベノミクスを評価するなら、株価や為替の動きではなく、GDP成長率や失業率などの実体経済の動きで評価しなければなりません。
 
これはものすごく当たり前のことなのですが、みんな株価の上昇に浮かれて忘れてしまっていたのではないでしょうか。
 
 

5月23日に日経平均株価が千円以上も暴落し、これはそれまでの急激な上昇に対する一時的な調整かと思われましたが、そのあともかなりきつい下げが続いています。「アベノミクスの終わり」という声もあります。
 
流通・小売業界には「売上はすべてをいやす」という言葉があるそうですが、政治の世界でも「経済成長はすべてをいやす」という言葉があっていいはずです。アベノミクスがうまくいっている限り、ほかのことがすべてだめでも、許されるような感じがありました。そのため、安倍首相が好きではない私も、このところ安倍首相への批判を控えてきました。
今後の株価のことはわかりませんが、安倍首相についていいたいことがたまっていたので、これを機会に吐き出してしまいたいと思います。
 
 
安倍首相は国会答弁で「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」といいました。これについて私はこのブログで、「侵略の定義に関する決議」が国連総会でされているので間違いだと批判したことがあります。しかし、安倍首相はその後も、「学問的なフィールドにおいてさまざまな議論がある」と述べて、「定義がない」論を譲りません。橋下徹大阪市長が「慰安婦制度は必要」発言をしたのは、記者に安倍首相の「侵略の定義はない」論についてどう思うかと問われ、その流れでよけいなことまで言ってしまったわけで、安倍首相も罪つくりなことです。
 
それにしても、侵略の定義がないとなれば、未来の「国防軍」はどんなときに自衛権を発動するのかと安倍首相に聞いてみたいものです。たぶん「学術的な定義はなくても実際的に判断できる」というのでしょうが、だったらその実際的な判断で日本が侵略したか否か答えればいいわけです。
ちなみに村山富市元首相は安倍発言について「おかしな話だ。武力で敵国に乗り込めばそれが侵略であって、その他の表現はない」と明快に述べています。
 
過去の戦争にはいろいろありますから、中には学術的に侵略か否か定まっていないものもあるかもしれません。安倍首相はそのことを言いたかったのでしょうか。しかし、安倍首相が侵略か否かについて問われたのは、日中戦争か真珠湾攻撃以来の戦争についてですから、侵略の定義など関係なしに答えられます。
 
侵略であることを認めたくないために「言葉の定義」を持ち出すのはみっともない限りです。
ちなみに安倍首相は、慰安婦問題についても、強制性を認めたくないために「狭義の強制性」と「広義の強制性」という議論をしています。
 
 
安倍首相は日本の集団的自衛権の行使を可能にすることに熱心です。
日本が攻撃されたときにアメリカが日本を守るのに、アメリカが攻撃されたときに日本がアメリカを守らないのは「片務的」であり、これを「双務的」にしなければならないという考えです。
しかし、もともと安保条約というのは、日本がアメリカに基地を提供し、アメリカは日本を守るということで「双務的」なのです。だからこそ両国が納得して締結したわけです。
集団的自衛権の点で「双務的」にするならば、基地提供の点でも「双務的」にしなければなりません。つまりアメリカ本土に、日本にある米軍基地に匹敵するだけの自衛隊基地をつくらなければならない理屈です。
アメリカ本土に自衛隊基地をつくる意味はありませんから、日本で米軍が専有している土地(の価値)に匹敵する土地を日本政府が専有して、治外法権にし、トヨタの工場をつくるとかカジノをつくるとか、日本政府が自由に使えばいいわけです。
これこそが真の「双務性」です。
 
安倍首相は安保条約の「双務性」と「片務性」を理解していないのではないでしょうか。
 
 
安倍首相は4月に硫黄島を訪問しましたが、そのときのことをフェイスブックにこんなふうに書きました。
 
硫黄島を訪問しました。
慰霊追悼式を行い、駐留している自衛隊員を激励する為です。
 
亜硫酸ガスと熱気、水の無い状況とも戦いながら、遠く家族の幸せを祈りつつ、祖国を護る為尊い命を捧げられたご英霊に感謝と尊崇の思いを込めて手を合わせました。
 
これを読んだ私は、「英霊」に「ご」をつける言葉づかいはスルーするとして、硫黄島に英霊がいるのかと思ってびっくりしました。
英霊というのはすべて靖国神社にいるものだと思っていたからです。
だからこそみんな「靖国で会おう」と言ったのです。今も硫黄島などあちこちの戦没地にいたら、互いに会えないではないですか。
 
もっとも、「霊」なのだから、物理的な空間に縛られず、どこにでもいるのだという考えもあるでしょう。
だったら、英霊に尊崇の念を表すのにわざわざ靖国神社に参拝する必要はないことになります。千鳥が淵でもいいですし、自宅でもどこでもいいわけです。
 
そもそも中国や韓国が問題にしているのは、戦没者を慰霊することではなく、閣僚が靖国神社に参拝することなのです(もちろんこれは国内的にも政教分離の点で問題です)
靖国に参拝せずに英霊の慰霊が行えるなら、これで問題は解決します。
 
安倍首相には、英霊のいる場所について改めて問いただしてみたいものです。
 
あと、つけ加えると、戦没者遺族には靖国神社を信仰していない人もいっぱいいます。総理大臣として硫黄島の慰霊式に出席したのですから、そのとき英霊という言葉を使ったら、納得いかない遺族もいます。「英霊」という言葉はあくまで特定宗教の言葉です。
 
 
ところで、株価が急に失速した理由について、私はアベノミクスの第三の矢である成長戦略が期待外れであるからではないかと考えています。マーケットは「異次元の金融緩和」に続いて「異次元の成長戦略」が出てくると期待していたのでしょう。しかし、今まで発表された成長戦略に目新しいものはありませんでした。
 
規制緩和など大胆な成長戦略を打ち出そうとすれば、抵抗勢力とのバトルが必至です。しかし、そうしたバトルが演じられているという報道はまったくといっていいほどありません。産業競争力会議のメンバーである竹中平蔵教授の発言なども聞こえてきません。
 
本来なら安倍首相が先頭に立って指揮しなければならないはずですが、安倍首相はモンゴル、ロシア、トルコなどを訪問し、東京にインド首相を迎えたりして、もっぱら外交に時間をさいています。ということは、これからもたいした成長戦略は出てこないと想像され、それで株価が下げているのではないでしょうか。
といって、これからどうなるかはわかりません(投資は自己責任で)
 
それにしても、経済政策を別にすれば、安倍内閣がやってきたことで評価できることはほんとになにもないと思います。

橋下徹大阪市長の「慰安婦制度は必要」発言以来の騒動を見て改めて思ったのは、日本人の人権意識の低さです。
 
橋下氏は外国人記者の追及をかわすために、“にわか人権屋”に大変身しましたが、それまでは人権を軽視する発言を繰り返していました。それが問題視されるどころか、逆に人気のもとになっていたと思われるぐらいです。
ネットの掲示板やブログなどでも人権を軽視・無視・否定する発言のほうが、人権を重視する発言よりも圧倒的に多いように思われます。
たまに人権重視の発言があると、それは「加害者の人権ばかりが守られて、被害者の人権が守られていないのはけしからん」という発言だったりします。この発言は、被害者の人権を重視しているようですが、実際は被害者はすでに死んでいるので、結局は加害者の人権を否定する発言です。
 
このように人権を軽視する風潮があるのはおそらく世界でも日本だけではないかと思います。
そのため慰安婦問題でも、韓国はどんどん世界に発信しているのに、日本は世界に対してまったくなにもいえません。
 
日本人の人権意識があまりに低いので、死刑執行を初めなにかことがあるたびにアムネスティから文句をつけられますし、今回の橋下氏の慰安婦発言については、国連の拷問禁止委員会からも文句をつけられました。
 
慰安婦問題、国連委が勧告 「日本の政治家が事実否定」
【ジュネーブ=前川浩之】国連の拷問禁止委員会は31日、旧日本軍の慰安婦問題で「日本の政治家や地方の高官が事実を否定し、被害者を傷つけている」とする勧告をまとめた。橋下徹大阪市長らの最近の発言を念頭に置いたものとみられる。日本政府に対し、こうした発言に明確に反論するよう求めている。
(後略)
 
日本人の人権意識はどうしてこんなにだめになったのでしょうか。
私が思うに、そのひとつの理由は自民党教育の“成果”です。学校で人権のたいせつさが教えられず、逆に子どもはきびしい校則や体罰など人権侵害を体験してしまいます。自分の人権が守られなかった人間が人の人権を守ろうとしなくなるのは当然の帰結です。
 
それともうひとつの理由は、日本の法務・司法・警察組織が人権を軽視してきたことです。これら組織は死刑制度の存続をはかり、冤罪を生む自白偏重主義を改めようとせず、取り調べの可視化にも反対しています。
そもそも「法の支配」は人権と切っても切り離せないもので、法律の専門家は人権意識が高いはずですが、日本では司法組織が人権を軽視しているので、その影響が広く社会に及んでいます。
 
自民党も官僚組織も国民の上に君臨するという意識で長く政治・行政を行ってきましたから、国民の人権はむしろ政治・行政のじゃまという感覚なのでしょう。
たとえば、コラムニストの小田嶋隆氏が書いておられたので知ったのですが、自民党の世耕弘成参院議員が生活保護給付水準の見直しに関して「週刊東洋経済」にこんな文章を書いていたということです。
 
見直しに反対する人の根底にある考え方は、フルスペックの人権をすべて認めてほしいというものだ。つまり生活保護を受給していても、パチンコをやったり、お酒を頻繁に飲みに行くことは個人の自由だという。しかしわれわれは、税金で全額生活を見てもらっている以上、憲法上の権利は保障したうえで、一定の権利の制限があって仕方がないと考える。この根底にある考え方の違いが大きい。
 
小田嶋氏は人権を「スペック」と見なす思想に驚いておられますが、天賦人権説からすれば、人権の制限を主張する世耕氏は自分を「天」にも匹敵する存在だと思っているのでしょう。
自民党の人権感覚は恐ろしいもので、自民党の憲法改正草案にもそれが出ています。
 
民主党政権はいろいろ問題がありましたが、少なくとも人権感覚では自民党よりはうんとましだといえます。
そして、これはなによりもたいせつなことです。
 
安倍政権はこれまで経済再生をうまくやるのではないかということで国民の期待をつないできましたが、株価や長期金利の動きがあやしくなってきました。もし経済再生がうまくいかなかったら、安倍政権のいいところはひとつもないということになります(私の価値観ですが)
 
人権思想というのは「思想の中の思想」みたいなものです。もし人権思想がなければ、現代に奴隷制を復活させようという主張が出てきたときに反対することができません。
自民党が「全国統一テストをやって平均点以下の者は奴隷階級にする。愛国者なら国のために奴隷になって働け」といいだしたら、日ごろ人権を蔑視する発言をしている自称愛国者はどうするのでしょうか(現在の非正規雇用もすでに奴隷制に近いものかもしれません)
 
ネットで人権を蔑視する発言をしている人たちは、自分は進歩派の欺瞞をあばくというカッコいいことをしていると思っているのかもしれませんが、実際のところは自民党と官僚組織に洗脳されているだけです。

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