村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2013年07月

民主党はどうすれば再生できるのでしょうか。
それには民主党政権の失敗について分析することが先決ですが、私の見るところ、まともな議論は行われていません。
民主党なんかどうでもいいという人もいるでしょうが、日本維新の会やみんなの党や共産党に期待するにしても、民主党政権の失敗の理由を理解しておくことは必要です。
 
なぜ民主党政権の失敗の分析が行われないかというと、鳩山由紀夫氏や菅直人議員の個人の言動についての議論が現在進行形で行われていて、それがじゃましているからです。こうした議論ももしかして誰かに操作されているのかもしれません。
 
たとえば、鳩山由紀夫氏が中国で尖閣諸島について「盗んだものは返すのが当然」と発言したような報道がありましたが、これについては「日本報道検証機構Gohoo」が「注意報」を出しています。
 
鳩山氏「盗んだものは返すのが当然」見出し要注意
《注意報1》 2013/7/7 07:30
時事通信は、627日付で「尖閣『盗んだものは返すのが当然』=鳩山元首相、中国でも発言」の見出しをつけ、鳩山由紀夫元首相が27日、中国の清華大学主催のフォーラムに出席した際の尖閣諸島に関する発言を報じました。この見出しだけを見ると、「盗んだものは返す」という表現がカイロ宣言の引用であることが伝わらない上、あたかも鳩山氏が尖閣諸島を中国に返すべきとの自らの考えを表明したかのように認識される可能性があります。しかし、記事本文で引用された鳩山氏の発言内容や各紙の報道も踏まえると、鳩山氏は「日中それぞれに言い分がある」と言及し、中国側の立場にも一定の理解を示してはいるものの、中国に返還すべきとの考えを表明したわけではないとみられます。
(中略)
なお、当機構が調査したところ、時事通信が見出しにつけた「盗んだものは返すのが当然」というフレーズは、インターネット上で一人歩きして拡散し、主要紙のニュースサイトでも「尖閣について『中国から盗んだものは返さねばならない』と発言した鳩山由紀夫元総理」と書かれた外部執筆者の記事を確認(MSN産経ニュース76日付記事)。時事通信の見出しがきっかけで、日本の元首相が尖閣諸島を中国に返還すべきとの考えを表明したという誤った事実認識が内外に広まる可能性があります。
 
「日本報道検証機構Gohoo」はかなり信頼性のあるサイトではないかと思いますが、この「注意報」が出たあとも、鳩山氏への非難はやみません。
そういうことに影響されないようにして、冷静に民主党政権を振り返ってみましょう。
 
鳩山内閣は普天間基地問題で、辺野古に新滑走路を建設するという「日米合意」ではなく、「国外県外」への移設を目指しましたが、結局うまくいきませんでした。このつまずきで民主党政権は大幅に支持を失ってしまいました。このことをまず検証しなければなりません。
 
「国外県外」を目指したことは間違っていません。「日米合意」は、沖縄県民の圧倒的反対があるので、いまだに辺野古の測量すらできず、ほとんど実現は不可能な状況です。
 
とはいえ、「国外県外」が失敗に終わったのは事実です。
なぜ失敗に終わったかというと、その半分の原因はアメリカにあります。アメリカがグアムなど海外移設を受け入れれば解決した問題だからです。
そして、もう半分の原因は、日本の外務省、防衛省、マスコミ、国民にあります。外務省、防衛省の官僚ががんばってアメリカと交渉し、マスコミと国民がアメリカはけしからんと声を上げれば、アメリカは譲歩したでしょう。
もちろんそうならなかった責任は最終的に鳩山内閣にあります。要するに鳩山内閣の力不足です。アメリカを動かし、官僚を動かし、マスコミを操作し、国民世論を喚起する力がなかったのです。
 
そして、菅内閣は原発事故対策の不手際を責められました。これも民主党政権が支持を失った大きな理由です。
 
しかし、考えてみれば、大きな津波で全電源が喪失してしまうような原発をつくってそのままにしていたのは自民党政権ですし、事故が起こったときにまず対策に当たる専門家は東電であり原子力安全・保安院であり原子力安全委員会であり通産省です。それらがまともに機能しませんでした。
 
『検証東電テレビ会議』(朝日新聞出版、共同執筆)と『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書)を執筆した朝日新聞の奥山俊宏記者が「SYNODOS」というサイトのインタビューで、大震災直後の状況についてインタビュアーとこういうやりとりをしています。
 
原発事故と調査報道を考える
奥山俊宏(朝日新聞記者)×藍原寛子
―― 東電のテレビ会議の映像は、当時の菅首相や民主党の議員に対する論評、官邸内の動きなどが緊張感なく話し合われている312日夜の場面から始まります。12日午後1112分には、都内の本店の対策本部は一部の社員を残して「解散」してしまっています。炉の内と外、福島と東京、東電の本店と原発サイトでは、あまりにも温度差があり過ぎると思います。被災者からすると本当にやりきれない思いですが……。『検証 東電テレビ会議』でもこのあたりは書かれていますが、なぜ、312日夜、東電社内はあんな空気だったのでしょうか。
 
12日夜に武黒一郎フェローが画面の前でずっと話をしている場面ですよね。1号機の原子炉建屋の爆発の7時間ほど後の場面です。原子炉に水が入り始めて峠を越えたといったような、あののんびりした雰囲気は、東電の危機感のなさが感じられて確かにショックで、残念です。
 
あの時間帯は、3号機の原子炉が制御不能に陥ろうとしていたころです。2号機はまだ冷却ができていて、4号機も無事だったころです。やるべきことがもっとあったのではないか、もっといい対応をすれば、抑え込むことができたのではないか、ましな結末があったのではないかと痛切に感じます。少なくとも2号機、3号機、4号機は救えていたはずです。
 
東電の本店がいかに無能で無策であったかというのがこれを読めばわかります。
 
原子力安全・保安院や原子力安全委員会の無能ぶりも今さらいうまでもないでしょう。
 
その中で孤軍奮闘したのが菅首相です。専門家たちが無能であることをすぐに見抜き、自分の個人的な人脈から専門家を探し、現地へヘリコプターで飛んで視察し、東電本店に乗り込んで撤退を阻止しました。ハリウッド映画ならヒーローの大活躍として描くところです。
また、菅首相は浜岡原発の運転停止を要請して運転を止めました。浜岡原発は東海地震の予想震源域にあり、もし事故が起これば東海道が分断されてしまいます。そのリスクを考えれば運転停止は当然です。
 
つまり、菅首相の原発事故対応はたいへんすばらしいものでした。
ヘリコプターの視察によってベントが遅れたとか、海水注入を止めようとしたとか批判されていますが、それはどちらも推測に基づく批判です。
かりにその批判が正しいとしても、小さな問題です。菅首相を批判する人たちは、より大きな問題を引き起こした東電を批判しないために菅首相を批判しているのです。
 
ただ、そうした批判に対処する能力に欠けていたとはいえます。これは鳩山首相も同じです。橋下徹氏の十分の一でもいいので反論能力があればよかったのですが。
 
以上のことを踏まえると、民主党再生の方向は明らかでしょう。
よりパワーアップした鳩山、菅を生み出すことです。
普天間基地問題は解決しなければなりませんし、原発も停止しなければなりません。その実行力のある政治家が必要です。
 
今、民主党再生を議論している人たちは、民主党を箸にも棒にもかからない、どうでもいい政党にしようとしているように思われます。
そんな政党にしても国民が支持するはずありません。
 
よりパワーアップした第二、第三の鳩山、菅を生み出すことしか民主党の再生はありません。

参院選で自公が大勝し、一方野党は内紛などで機能不全に陥っています。これでは安倍政権のやりたい放題になるのではないかと懸念する向きもありますが、そう簡単にはいきません。たとえば、8月15日の靖国神社参拝についてこんなニュースがありました。
 
安倍首相:終戦記念日の靖国参拝見送りへ 中韓に配慮
毎日新聞 20130725日 0230
 安倍晋三首相は8月15日の終戦記念日に靖国神社を参拝しない意向を固めた。複数の政府関係者が明らかにした。
 
 参院選で与党が圧勝し政権基盤を強化した首相は、領土や歴史認識問題などで悪化した中国、韓国との関係改善に取り組む方針で、両国とのあつれきがさらに広がらないよう配慮する。
 
 首相は2006〜07年の第1次安倍政権時代、靖国神社に参拝しなかった。このことを、昨年の自民党総裁選の際には、「痛恨の極み」と述べており、第2次政権での対応が注目されている。
 
 首相はこれまで、「国のために戦った方々に敬意と尊崇の念を表し、冥福を祈るのは当然だ。一方、そのこと自体が外交問題に発展する可能性がある中で、行く、行かないを申し上げるつもりはない」(21日のNHK番組)などと明言を避けてきた。
 
 首相周辺は「首相は賢明な判断をされるだろう。(政権の)先が短いなら別だが、3年間ある。思いを果たすときは来る」と指摘。別の政府関係者も「8月は参拝のタイミングではない」と語った。
 
 与党内にも、8月の参拝を自重するよう求める声が出ている。公明党の山口那津男代表は21日、テレビ朝日の番組で、「外交上、問題を起こしてきたテーマなので、賢明に対応することが大切だ。歴史の教訓は首相自身がよくご存じだ」と述べた。
 
 ただ、安倍内閣は参拝の判断を各閣僚に委ねており、閣僚が終戦記念日に参拝する可能性はある。また、首相は4月の春季例大祭で真榊(まさかき)の奉納にとどめたことから、首相の支持基盤の保守層からは10月17〜20日の秋季例大祭での参拝に期待が高まることも予想される。中韓両国は秋季例大祭での首相の参拝も警戒しており、関係改善は見通せていない。【鈴木美穂】
 
政権基盤が強化されたのですから、靖国参拝を強行してもよさそうなものですが、意外な早さで諦めてしまったようです。
まだ参拝見送りを正式に決定したわけではありませんが、こういう記事を書かせて、靖国参拝への期待を冷ましておいて、最終的に参拝見送りを明らかにしようということなのでしょう。
 
見出しには「中韓に配慮」となっていますが、安倍首相はもともと中韓に配慮するような人ではありません。ですから、これはアメリカから要請されての決定ではないかと推測されます。
というのは、これまでも同じパターンが繰り返されているからです。
  
今年の靖国神社の春季例大祭に閣僚が参拝したことが中韓から批判されると、安倍首相は国会で「わが閣僚はどんな脅しにも屈しない」と強い調子で語りました。ところが、その後、アメリカ政府が非公式に懸念を伝えたという報道があると、とたんにトーンダウンしてしまいました。
また、安倍首相は国会で「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と答弁しましたが、これもアメリカで問題になると、その後はなにも語らなくなってしまいました。
安倍首相は村山談話の見直しや河野談話の見直しにも意欲を見せていましたが、今はそうした主張もまったく封印しています。これも中韓に配慮してというよりも、アメリカの意向に従ったものでしょう。
 
たまたま7月27日の朝日新聞にアーミテージ氏のインタビューが載っていました。これを読むと、安倍政権の動きがアメリカの意向に沿ったものだということがわかります。
 
「首相が最も力を注ぐべきは経済」 アーミテージ氏語る
 【ワシントン=山脇岳志】知日派として知られるリチャード・アーミテージ元米国務副長官が、朝日新聞のインタビューに応じた。
(中略)
 経済改革と首相の持論である憲法改正には、共に大きな政治力が必要だが、アーミテージ氏は、経済改革を優先すべきだとの考えを示した。「アベノミクス」の成長戦略にあたる「第3の矢」の政策は、まだ途上にあるとして、そこに注力することが必要だとした。
 
 今後、日本では集団的自衛権の行使容認に向けての議論が大きなテーマとなるが、近隣諸国には警戒感も強い。この点について「日本が、(戦争責任などの)歴史問題で修正主義をとらず、未来志向であるのとセットであれば大丈夫だろう」との見方を示した。
 
 安倍首相が「侵略の定義は定まっていない」と国会で答弁したことについては「あのコメントはしてほしくはなかった。ただ、用意をせず答えたものだと思うし、もう一度聞かれたなら、きっと違う答えになったと思う」と語った。
 
 中国、韓国などの反発が予想される中、首相が8月15日の終戦記念日に向けて靖国神社に参拝するかどうかについては「首相自身の判断だ」とした。ただ、個人の思いや宗教的理由からの追悼と違い、政治家としての行動となると少し異なった色合いも帯びると指摘した。
 
 「靖国神社に参拝すれば、むろん、第2次大戦で犠牲になった多数の日本人兵士に思いをはせる。ただ、(国内外の)すべての犠牲者について思いをはせる時間も、あってよいと思う」と述べた。
 
アーミテージ氏は露骨な言い方は避けていますが、アーミテージ氏の望むことと安倍政権のやっていることが一致していることは明らかです。
 
たとえば、安倍政権はとりあえず、憲法解釈で禁じられている集団的自衛権の行使容認へ向かって検討を進めていくという方針のようですが、これが私には不思議でした。憲法9条を改正すれば、憲法解釈を変更するなどという面倒なことをする必要はないからです。それに、現行憲法で集団的自衛権の行使が容認されたら、憲法改正をする必要性がひとつなくなってしまいます。憲法改正を目指す安倍首相にとってはかえって不利です。
しかし、アーミテージ氏は集団的自衛権の行使容認は望むが、憲法改正は後回しにしたほうがいいという考えです。安倍首相はその考えに沿って行動しているとすれば不思議なことではありません。
 
マスコミは安倍首相が危険な方向に行くときは公明党の存在が歯止めになるというようなことを書いていますが、公明党にそれほどの力はないと思います。それよりも、ほんとうの歯止めになるのはアメリカでしょう。
つまり今は、アメリカが安倍政権にとって最大野党のようになっているのです。
 
では、今後日本において最大の政治課題になるであろう憲法改正について、アメリカはどう考えているのでしょうか。
アーミテージ氏はあまり乗り気でないようですし、おそらくはアメリカ政府全体の意向もそうではないかと思われます。
なぜなら、憲法9条改正は日本の核武装への道を開くことになるからです。
日本の核武装はアメリカにとってなによりも困ることです。日本はパールハーバーを不意討ちし、さらには自爆テロのモデルになったカミカゼアタックを始めた国です。核抑止力というのは、相手が合理的な判断をするだろうという前提で成り立っていますが、日本はアメリカにとってはかつて狂気を発した国ですし、いつまた狂気を発するかわからない国です。
 
もちろん安倍首相は核武装する気はありませんし、アメリカに歯向かう気もありません。しかし、石原慎太郎氏や橋下徹氏のように、極右で反米の言動をする政治家がすでに出てきています。安倍首相がいくら親米でも、将来のことを考えると、アメリカは日本に憲法改正はしてほしくないはずです。
 
選挙で大勝した安倍政権も、アメリカに逆らうことはできません。
 
日本のことは日本人が決めるなどと考えたら大間違いです。いちばん重要なことはアメリカが決めるのです。
 
では、安倍首相がどうしても憲法改正したいとすれば、どうすればいいでしょうか。
それは簡単なことです。憲法改正案に非核条項を入れておけばいいのです。そうすればアメリカも安心して憲法改正に賛成することができます。
 
もっとも、安倍首相ら日本の改憲勢力は非核条項を入れるつもりはないでしょう。
 
そこに改憲反対勢力のつけ込む余地があります。改憲反対勢力のほうから非核条項を入れるべきだという議論を起こせばいいのです。
日本で非核条項を入れるか否かという議論が起こり、その結果非核条項が入らなかったとなると、アメリカはますます日本の核武装への警戒心を高めることになります。
つまり、非核条項を入れるべきだという議論をすると、改憲勢力の核武装への野心をあぶり出し、結果的に改憲を阻止することができるというわけです。
 
安倍政権にとっての最大野党はアメリカであるということを認識すれば、アメリカを利用して安倍政権をコントロールしようという発想が出てきます。
改憲案に非核条項を入れるべきだという議論は、やってみる価値があるのではないでしょうか。

私は前に、小選挙区制だと二大政党制ではなく一大政党制になるはずだと書いたことがありますが、ほんとうにそうなってしまいました。
小選挙区制は優勢な党が総取りにできるという制度ですから、一大政党制になるのが自然です。アメリカやイギリスが二大政党制なのは、そうなるような文化風土があるからです。日本にそういうものはなく、むしろ「長いものには巻かれろ」という国民性ですから、どうしても一大政党制になってしまいます。
 
選挙制度というのは一長一短で、どれがよいとはなかなか決められません。それなのに最終的に小選挙区制(正確には小選挙区比例代表並立制)にしたのは、二大政党制がいいということになったからです。なぜ二大政党制がいいということになったかというと、結局のところアメリカやイギリスに対するコンプレックス、とりわけアメリカに対するコンプレックスからではないでしょうか。
 
対米コンプレックスや対米従属は、日本の政治を理解するときの最大のキーワードです。
 
たとえば、日本維新の会は「首相公選制」を公約に掲げていますが、これはアメリカの大統領制に対するコンプレックスでしょう。日本は長年議院内閣制でやってきたのですし、イギリスだってそうなのですから、首相公選制などというへんな制度にする必要はないと思われます。
「官邸主導」ということもよくいわれますが、これもやはり首相官邸をホワイトハウスのようにしたいということでしょう。
 
また、「道州制」ということもよくいわれます。これは日本維新の会だけでなくみんなの党も公約にしています。道州制にしたらなにがどうよくなるのかわかりません。やはりこれも対米コンプレックスではないでしょうか。
 
安倍内閣は「国家安全保障会議」の設置を目指しています。これは別名「日本版NSC」といわれるように、アメリカのNSC(National Security Council)を模したものです。日本にはすでに「安全保障会議」があるのですから、わざわざ「日本版NSC」をつくる理由がよくわかりません。安全保障に関してはアメリカのほうが進んでいるという、やはり対米コンプレックスでしょうか。
 
ちなみに1992年に「証券取引等監視委員会」という機関がつくられましたが、これは「日本版SEC」といわれるように、やはりアメリカの組織を模したものです。
 
また、日本は先進国では珍しく死刑制度を維持している国ですが、これもアメリカの真似としか考えられません。
 
きわめつけは「日本版海兵隊」の構想でしょう。こんな報道がありました。
 
自衛隊に海兵隊機能整備=新大綱へ中間報告-防衛省
 新たな防衛計画大綱の策定に向け、防衛省がまとめた中間報告の概要が24日、分かった。自民党が6月に出した提言に沿って、離島防衛のための「海兵隊的機能」を整備する方針を明記。一方で、提言にあった「敵基地攻撃能力」については具体的な言及を避けた。省内検討委員会の委員長を務める江渡聡徳副大臣が26日、小野寺五典防衛相に報告する。
(後略)
 
旧日本軍には「海軍陸戦隊」というのがありました。上海事変などで活躍しています。日本の伝統を無視して「海兵隊」などという言葉を使うのは情けない限りです。ちなみにウィキペディアによると、中国や台湾では今でも「海軍陸戦隊」という言葉を使っています。
もっとも、アメリカの海兵隊というのは世界でも特殊なものですから、この場合は「海兵隊」という言葉がふさわしいのかもしれません。しかし、今ではアメリカでも海兵隊というのは時代遅れと見なされています。なんでもアメリカの真似をすればいいというものではありません。
 
今の日本人は、アメリカのものがなんでも優れているという感覚はないと思います。これは日本の政治家と官僚における特殊な感覚ではないでしょうか。
 
私は宮崎駿監督の「風立ちぬ」を見て、あのころはなんでも欧米の真似をしていたのだなということを改めて思いました。
日本の海軍はイギリス式で、陸軍はドイツ式でした。そのため海軍と陸軍は水と油みたいになってしまいました。
帝国憲法はドイツ式ですし、郵便制度はイギリス式です。
要するに明治以来の日本は、何でも欧米から学んで取り入れていたのです。それが政治家と官僚の習い性となって、今も残っているのではないでしょうか。
 
もっとも、昔はイギリス、ドイツ、フランスなどから、いちばんよいと思われるものを取り入れていました。
今はもっぱらアメリカから取り入れています。
 
優れた組織や制度なら取り入れていいのですが、二大政党制のようなものは、国民性とか国の文化風土とかにかかわってきますから、うまく取り入れられません。一神教と善悪二元論の国と、八百万の神がいて「善人なおもて往生すいわんや悪人をや」という国ではぜんぜん違います。
今の選挙制度は、対米従属しか考えない政治家や官僚の失敗作ではないでしょうか。
 
ところで、対米関係においては、「年次改革要望書」というものがあり、日本が毎年アメリカから出される要望に応え続けてきたというのは、知る人ぞ知るですが、今回調べてみると、「年次改革要望書」は鳩山政権のときに廃止されていました。
鳩山由紀夫氏が徹底的に叩かれる理由と、安倍政権が集団的自衛権などでアメリカへの忠勤に励む理由がわかった気がします。

参院選は自公が圧勝し、安定多数獲得という結果となりました。予想通りとはいえ、うんざりする結末です。
 
政・官・財の鉄のトライアングルに、民主党が入りそこねてはじかれてしまったということがすべてでしょう。
マスコミはそういうことは書きません。マスコミも今はトライアングルの一角で、鉄の四角形を形成しているからです。
 
また、「色の白いは七難隠す」といいますが、安倍政権にとっては「景気がよいのは七難隠す」という格好になったのも幸運でした。
 
鉄の三角形、四角形はさらに強化され、このまま日本は原発再稼働に見られるように惰性のまま進み、財政危機をさらに深めていくのでしょうか。
 
 
今回の選挙も、若者の低投票率が議論になりました。おとなたちは若者に投票させようと考えているようです。そのためにこんなことも行われています。
 
若者へ、お得な「センキョ割」 投票後押し、広がる企画
【川口敦子】参院選の投票率アップを後押ししようと、投票した人が商品の割引などのサービスを受けられる取り組みが各地で広がっている。これまでの商店街や商工会に加え、IT企業も参入。投票率向上へ学生団体による試みも始まった。
 
 「センキョ割でーす。143店舗でお得でーす」。19日夕、横浜市中区の横浜中華街。浴衣姿の女性らが観光客たちに「『センキョ』で得する夏が来ます」などと書かれた袋入りの割りばしを配った。
 
 投票所で看板やポスターと一緒に自分の姿を撮影し、横浜市を中心に神奈川県内の居酒屋など143店舗で写真を見せると、サービスが受けられる仕組みだ。生しらす1品が無料になる飲食店や、料金2割引きのネイルサロンなど様々。対象は20~35歳で、投開票日の21日から8月4日まで有効だ。
 
 企画したのは横浜市に拠点を持つウェブ制作会社「ワカゾウ」(本社・東京都)。会社に利益は出ないが、予備校講師を兼ねる佐藤章太郎社長(40)が、若者に選挙に関心を持ってほしい、と後押しする。発案した社員の渡辺実穂さん(27)によると、割りばしには「選挙割引」と「政治と若者の橋渡しを」という二つの意味を込めた。「『投票以外で政治に関わる道があったなんて』と喜んで参加してくれた店がたくさんあった」
 
ボランティアで割りばし配りをした上智大1年の守月(もりづき)綾花さん(18)は「若い人に政治に関心を持ってもらうのに貢献できたらうれしい」と話した。
 
 このようなサービスは、10年ほど前から始まったとされる。2004年の参院選から始めた早稲田商店会(東京都新宿区)では、投票所で選挙管理委員会が発行する投票済証を店に示せば、サービスが受けられる。同商店会の担当者は「学生が『自分たちの一票で変わるとは思わない』と話しているのを聞いて危機感を覚えた」と振り返る。
 
(後略)
 
若者の投票率が低いのは、今の政治が若者にとって魅力的でないからです。魅力がないのをそのままにして、投票率だけ上げようというのはおかしな発想です。政治を若者にも魅力あるものにしようという発想でないといけません。
 
朝日新聞の社説も若者に投票を呼びかけましたが、これが実に気持ちの悪い文章です。こういう文章を書いているから、若者の新聞離れが進んでしまうのです。
わざわざ読むほどのものではありませんが、一応張っておきます。
 
選挙と若者―投票すれば圧力になる
 そこを行くリクルートスーツの君。きょうは参院選の投票日だって知ってた?
 
 まだ内定がとれないんで、投票に行く余裕がない?
 
 君が「なんとか、正社員に」って必死になるのは当然だ。就職したとたん、年収は正社員と非正社員との間で平均80万~160万円の差がつき、年齢が上がるにつれどんどん広がる。
 
 90年代以降、正社員への門は狭まるばかり。最近は大卒男子でも4人に1人は、初めて就く仕事が非正規だ。
 
 そうなると、職業人として鍛えられる機会が少なくなる。伸び盛りの若いころ、その経験をしたかどうかは大きい。
 
 「とにかく正社員に」という焦りにつけいるブラック企業もある。「正社員」をエサに大量採用し、長時間のハードな労働をさせ、「使えない」と見切ればパワハラで離職に追い込んでいく。
 
 「若い頃はヘトヘトになるまで働かされるもんだ。辛抱が足りない」なんて言う大人もいるけど、まったく的外れ。
 
 非正規もブラックも、若者を単なるコストとして扱う。会社の目先の利益のために。人を長期的に育てていこうという意識はない。
 
 おかしいよね、こんな人材の使いつぶしが横行する社会は。
 
 しかも団塊世代と違って君たちの世代は数が少ない。一人ひとりが目いっぱい能力を磨いて働き、望めば家庭をもち子どもを育てられる。そうしないと、日本の将来は危ういに決まってる。声をあげなきゃ。
 
 こんな試算がある。
 
 20~49歳の投票率が1%下がると、若い世代へのツケ回しである国の借金は1人あたり年約7万5千円増える。社会保障では、年金など高齢者向けと、子育て支援など現役世代向けとの給付の差が約6万円開く。東北大の吉田浩教授と学生が、45年にわたるデータを分析した。
 
 もちろん因果関係を証明するのは難しい。でも、熱心に投票する高齢者に政治家が目を向けがちなのは間違いない。
 
 どの党や候補がいいか分からないし、たった一票投じたって意味ないって?
 
 こう考えたらどうだろう。政治家は、有権者の「変化」に敏感だ。票が増えれば、そこを獲得しようと動くはず。
 
 前回の参院選の投票率は、60~70歳代が7割以上、20歳代は4割以下だった。でも低いからこそ上げやすい。上がれば政治家はプレッシャーを感じる。
 
 さて、投票に行ってみようって気になったかな。
 
この文章が気持ち悪いのは、若者を完全に見下しているからでしょうが、それにしてもここまで気持ち悪い文章はなかなか書けるものではありません。
 
おとなたちがこのように若者に投票を呼びかけるのは、「呼びかけてもどうせ投票しないだろう」と思っているのに加えて、「かりに若者が投票したところで自分たちが困ることはない」という思いがあるからでしょう。
 
昔は若者に投票を呼びかけるということは、20歳になった若者に投票権があることを啓蒙すること以外には、ほとんどありませんでした。
むしろ逆に、若者が投票することは多くのおとなにとって不都合なことでした。
 
五十五年体制の初期のころは、社会党など革新政党は若者の党でした。
60年安保の当時、私は小学校5年生でしたが、担任の先生がクラスのみんなに支持政党について質問しました。すると、自民党支持で手を挙げたのは1人だけで、それ以外の全員が社会党支持でした。担任の先生はそれを見て、複雑な顔をしていました。おそらくこの子どもたちがおとなになったころは社会党政権ができるだろうと思ったのでしょう。
 
念のために昔の社会党が若者の党だったことについて根拠を示しておきます。
 
55年体制期の政治意識に関する一考察
一年齢階層と政党支持について一
 
 20歳から30歳代まで含めると,1965年には自民党支持者の44%が20
39歳の年齢層であったのに対して,社会党支持層については全体の3分の2
近い64%が2039歳の年齢層であった。この当時の社会党はまさに将来の
日本を担う“青年の政党”であった。それが1985年になると,自民党が37
%に対して社会党が43%と接近する。すなわち,社会党はこの20年間ですっ
かり“青年の政党”の特徴を失ったことがわかる。
 
社会党が若者に支持されていたときに、若者に向かって投票しようと呼びかけるのは、社会党に伸びてほしい人たち以外にいるはずありません。
 
今、若者に投票の呼びかけが行われているのは、保守・革新の区別がなくなって、若者が支持したくなる政党がなくなったからです。
いわばおとなの余裕の現れです。
 
かつては、「山が動いた」の土井たか子党首の率いる社会党が若者の支持を集め、郵政改革を訴える小泉純一郎党首の率いる自民党が若者の支持を集めたことがありましたが、いずれも一時的現象に終わりました。
 
ですから今、若者の投票率が上がるとすれば、「世代間格差解消」を重要政策に掲げる政党が出現したときでしょう。
 
しかし、なかなかそういう政党は出てきそうにありません。それは、若者世代の人口が少ないということもひとつの理由ですが、もうひとつ、選挙権に年齢制限があることも理由です。
 
たとえば、30歳をターゲットにした政策があるとします。その政策は30歳の支持を得るだけでなく、31歳や32歳、29歳や28歳の支持も得るでしょう。単純化して、30歳をターゲットにした政策は、40歳から20歳までの支持を得るとします。そうすると、20歳をターゲットにした政策は、30歳をターゲットにした政策の半分の支持者しか得られないことになります。これでは効率が悪いので、どの政党も20歳をターゲットにした政策は打ち出せないことになります。
 
選挙権の年齢制限をなくせば、政党は若者向けの政策をもっと打ち出すようになるでしょう。教育改革についても、ほんとうに子どものためになる政策が出てくるはずです。
 
選挙権の年齢制限を撤廃するとは、0歳から選挙権があるようにすることです。政治に関心を持つようになる年齢は人それぞれですから、選挙権は何歳からと決めるべきではありません。
昔は黒人や女性や税金を多く払わない人には選挙権がありませんでしたが、今ではそうした制限はなくなっています。唯一残っているのが年齢制限です。これが撤廃されるのは今や時間の問題です。
 
ヨーロッパでも若者の失業率が高いなど、若者が不当に迫害されています。こうした状況を改めるには、選挙権の年齢制限の撤廃が早道です。
 
もっとも、選挙権の年齢制限撤廃には反対する人も多いでしょう。そうすると、これが政治の大きな争点になります。
こういう争点なら、若者もおのずと政治に関心を持つようになるのではないでしょうか。

試写会で宮崎駿監督の「風立ちぬ」を見ました。
おもしろかったし、見てよかったと思いました。しかし、物足りなさも感じました。試写会では上映終了と同時に拍手が起きましたが(7月13日、よみうりホール)、私自身は拍手しませんでした。
 
ゼロ戦を設計した堀越二郎という実在の人物の人生に、堀辰雄の「風立ちぬ」というフィクションのラブロマンスを合体させた、異色のつくりの物語です。
タイトルは、ポール・ヴァレリーの詩を堀辰雄が訳した「風立ちぬ、いざ生きめやも」からきています。「いざ生きめやも」は「生きねばならない」という訳もあります。自身も肺結核を病んでいた堀辰雄の、生きるのが困難な中でも生きていこうという意志の表現かと思います。
 
この物語も、生きるのが困難な時代を背景にしています。映画が始まってすぐに関東大震災が起きます。震災からの復興と、不況の中で、堀越二郎は飛行機の設計技師として仕事を始めますが、日本は完成した試作機を飛行場に運ぶのに牛で引っ張るという後進国です。ゾルゲらしい人物が出てきて、日本の未来について不吉な予言をします。
 
とはいえ、そうした時代背景についての説明はほとんどなく、映像で示されるだけです。当時の暮らしなどが丁寧に描かれ、それを見るだけでもおもしろさがあります。
 
実在の人物の物語ではありますが、夢のシーンが頻出します。夢の中で堀越二郎は飛行機に乗って空を飛び、尊敬するイタリア人設計技師と何度も会話をします。そのため半ばファンタジーのような印象があります。
 
夢のシーンで出てくる飛行機は、「風の谷のナウシカ」やその他の作品で出てきたものに似ています。それを見ると、宮崎監督はずっと同じ夢を追いかけてきたのだということがわかります。
 
宮崎監督は飛行機や空を飛ぶことに異様なこだわりを持っていて、航空オタクないしは飛行オタクであるといえます。マンガ・アニメオタクであることももちろんです。
その宮崎監督が堀越二郎に自分を重ね合わせたのはある意味当然です。堀越二郎は飛行機が好きですが、自分はパイロットではなく、ただ飛行機の設計をするだけです。ひたすらケント紙に図を描くことは、宮崎監督がマンガを描くことに共通するでしょう。
 
ですから、この映画は宮崎監督のオタク趣味全開の“宮崎駿ワールド”になっています。
そのため、悪い表現では「自己満足」になりかねないところがあります。
もっとも、今や国民的アニメ作家の宮崎監督ですから、自己満足に走ったからといって誰も非難しないでしょう。
私自身、今回の「風立ちぬ」もそうですが、宮崎監督の作品であれば無条件で見にいきます。
 
ただ、この作品については、十分におもしろかったとはいえ、なにか物足りなさを感じたのも事実です。
いつもの宮崎作品にある感動がこの作品にはなかった気がするのです。
ヤフーレビューを見ても、同様の感想が多数あります。
 
その理由はなんなのかについて考えると、結局、堀越二郎が設計したのはゼロ戦だということに行き着きます。
堀越二郎は、よい飛行機をつくりたいという純粋な思いで、恋人や家族や周りの人たちにささえられ、困難を乗り越えて、その夢を実現します。普通、主人公が困難を乗り越えて夢を実現すると、観客は感動するものですが、ゼロ戦となると話は違います。
ゼロ戦は名機とされますが、そのためにかえって戦争が悲惨さを増したということが考えられます。もしゼロ戦がポンコツ機だったら、日本はもっと早く戦争に負けて、被害が少なかったかもしれません。
そのため素直には感動できないのです。
原爆をつくった科学者の物語があったとして、それに感動できないのに似ています。
 
もし堀越二郎が素晴らしい旅客機をつくり、そのために多くの人が安価に飛行機旅行を楽しめるようになったとすれば、観客は堀越二郎の夢の実現に素直に感動することができたでしょう。
 
堀越二郎は実在の人物ですから、そんなストーリーにするわけにはいきません。
だったら、「ライト兄弟物語」でもよかったはずです。ライト兄弟は子どものころから機械が大好きで、そんな重いものが空を飛ぶはずがないと周りからバカにされながらも、動力飛行を成功させます。そのおかげで今日の航空機の発達があるわけですから、「ライト兄弟物語」は、ジブリらしく子どもも楽しめる、十分感動的な物語になったはずです。
 
しかし、宮崎監督は堀越二郎に思い入れがあって、ライト兄弟に思い入れはないでしょうから、やはりそうはいきません。
 
宮崎監督の思い入れがある分、いい作品になっていることも事実です。
宮崎ファンは、よくも悪くも“宮崎駿ワールド”として受け入れるしかありません。

女性の教育の重要性を訴えたためにタリバンに銃撃されて世界的に有名になったパキスタンの少女マララ・ユスフザイさんが7月12日、国連本部で演説をしました。7月12日はマララさんの16歳の誕生日で、国連はマララさんをたたえてこの日を「マララ・デー」と名づけたということです。
 
テレビのニュースでマララさんが演説する様子を見ましたが、演説の内容は別にしても、堂々たる態度と歯切れのいい英語で演説する姿にびっくりしました。とても16歳のものとは思えません
もちろん演説の内容もすばらしいものです。演説の全文はこちらで読めます。
 
マララさんタリバン銃撃乗り越え国連演説全文「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、1本のペンでも世界を変えられる」
 
日本では国際社会に通用する人材、つまり国際人を育てなければいけないといわれていますが、マララさんはまさに国際人の手本のような人です。マララさんについて知れば、どうすれば国際人を養成することができるかわかるのではないでしょうか。
 
マララさんはタリバンに銃撃されて重傷を負ったことで世界的に有名になりましたが、それ以前から目立った活躍をする人でした。先の演説全文を紹介した記事から引用します。
 
 
マララ・ユスフザイさんは1997712日、北部山岳地帯のスワート地区(マラカンド県)に生まれた。父親のジアウディンさんは私立学校を経営する教育者で、マララさんもこの学校に通い、医者を目指していた。
 
同地はイスラム保守勢力が強く、07年には反政府勢力パキスタン・タリバーン運動(TPP)が政府から統治権を奪い、09年まで実効支配している。イスラム過激派 のTPPは女性の教育・就労権を認めず、この間、200以上の女子学校を爆破したという。
 
091月、当時11歳だったマララさんは、英BBC放送のウルドゥー語ブログに、こうしたタリバーンの強権支配と女性の人権抑圧を告発する「パキスタン女子学生の日記」を投稿。恐怖に脅えながらも、屈しない姿勢が多くの人々の共感を呼び、とりわけ教育の機会を奪われた女性たちの希望の象徴となった。
 
同年、米ニューヨーク・タイムズも、タリバーン支配下でのマララさんの日常や訴えを映像に収めた短編ドキュメンタリーを制作している。11年には、パキスタン政府から第1回「国家平和賞」(18歳未満が対象)が与えられ、「国際子ども平和賞」(キッズライツ財団選定)にもノミネートされた。
 
 
父親が学校経営者だということですから、マララさんも生まれつき知的能力が高かったと想像されます。さらに、父親は多くの女子学校が爆破される中で学校経営をしていたのですから、それは命懸けのことだったでしょう。マララさんは父親を見て、その生き方を学んだはずです。
そして、11歳のときからブログが注目され、ニューヨーク・タイムスにとりあげられ、パキスタン政府から賞をもらうなど、すでに“国際人”になっていたのです。
まさに「ローマは一日にして成らず」です。国連であれだけの演説ができる“国際人”になったのには、それなりの経緯があったのです。
 
15歳のときにタリバンに銃撃されて重傷を負ったことでさらに世界中から注目されます。ウィキペディアの「マララ・ユスフザイ」の項目によると、潘基文国連事務総長やヒラリー・クリントン米国務長官や世界各国から銃撃を非難する声が上がったということです。また、マララさんの傷はきわめて重く、命が危ぶまれたことから、世界中から医療を初めとする支援の手が差し伸べられました。
 
マララさんが国連で堂々と演説できたのは、世界からの支援に対して応えなければならないという思いがあったからでもあるでしょう。
 
このように考えると、マララさんはあまりにも特別で、参考にならないと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。むしろ、誰でもがマララさんになれるチャンスがあるということがわかります。
 
ある程度の生まれつきの知的能力は必要だと思われますが、あとはすべて環境がマララさんをつくったのです。信念のある親の生き方、おそらくは知的な家庭環境、学校、そして、ニューヨーク・タイムス、パキスタン政府、世界中の支援者などとの関わりを通じてマララさんは信念と自信を獲得し、世界に発信できる人間になっていったのでしょう。
マララさんほどではなくても、外国人と交流する経験を積み重ねていけば、誰でもある程度“国際人”になれるということです。
 
ですから、日本で“国際人”を養成しようと思ったら、若者が外国人と触れ合う機会を持てるようにし、また海外留学などに行きやすくすればいいのです。また、おとなたちが“国際人”としての手本となればいいのです。
これは当たり前のことですが、現実には無意味なことが多く行われています。たとえば、自分はまったく“国際人”でないおとなが若者に向かって「国際人になりなさい」とか「英語の勉強をしなさい」とかいっているのです。
 
また、朝日新聞の「天声人語」はマララさんについてこのように書いています。
 
 若くして歴史に残る存在となってしまったことの重さはいかばかりかと思う。しかし、この少女ならその重さを正面から受け止め、力に変えていくのではないか、とも思わされる。国連での演説はそれほど感銘深いものだった。
 
 
この書き方は、「この少女」(マララさん)を特別の存在と見なしています。特別な存在であるマララさんなら重い経験を受け止められるというのです。
しかし、実際は逆ではないでしょうか。マララさんは重い経験をしたから特別な存在になれたのです。
 
人間は基本的にみな同じです。
これは前回の記事「吉田昌郎元所長は英雄か」でも書いたことです。
吉田元所長は普通の人間です。たまたま責任者として事故処理の最前線にいたために英雄的な行動をしただけです。
 
私の考えでは、誰でもマララさんのような“国際人”になれるし、誰でも吉田元所長のように英雄的にふるまうことができます(能力による違いはありますが)
 
マララさんは演説でガンジーにも言及しています。
ガンジーは「一人に可能なことは万人に可能である」といっています。
もちろんこれはガンジーのような国家の指導者になれるという意味ではなく(それには能力が必要です)、ガンジーのように非暴力の哲学で行動することができるという意味です。
 
私はマララさんのように国連で堂々と演説することもできないし、英語もできないし、あんな立派な内容のことも話せませんが、それは私がマララさんとはまったく別の人生を歩んできたからです。
このように考えると、自己肯定感を持てますし、マララさんにも共感することができて、いいことずくめです。

福島第1原発所長として原発事故処理に当たった吉田昌郎氏が亡くなられました。事故がなんとか収束したのは、吉田氏以下現場で命懸けの作業に奮闘されたみなさんのおかげです。ご冥福を祈るとともに、改めて感謝したいと思います。
 
吉田氏の働きを賞賛するのはいいのですが、なんか的外れなほめ方をする人もいて気になります。
たとえば、報道ステーションに出演したジャーナリストの門田隆将氏は、吉田氏にインタビューして「死の淵を見た男」というノンフィクションを書いた人ですが、「国のため」とか「大義」だか「本義」だかという言葉を使って吉田氏をたたえていました。
 
門田氏のブログを見ると、「『本義に生きた』吉田昌郎さんの死」というタイトルの文章を書いています。
「本義」とはなにかというと、このようなことです。
 
海水注入を中止しろ、という官邸と東電本店の両方からの命令を無視し、敢然と海水注入をつづけ、原子炉の冷却を維持するという「本義」を忘れなかった吉田さんの存在に、私は今も東京に住み続けている一人として、心から感謝している。
 
海水を注入して原子炉の冷却を維持するというのは、「正しい対策」というべきで、「本義」などという大げさな言葉を使うところではありません。
 
人が命懸けの行動をするときには、「国のため」とか「本義」といった言葉がふさわしいという考えがあるのかもしれませんが、それは違うと私は思います。
 
吉田氏自身は、インタビューでこのように語ったことがあるそうです。
 
「ここで働いているほとんどの人が福島、浜通りの人。
 彼らも避難民で家族が避難している。
 浜通りを何とかしたい気持は、作業員みんなが持っている。」
 
つまり身近な、具体的な人を思い浮かべて、「その人たちのため」と思うことで命懸けの行動が可能になったと思うのです。
普通の人間は、「国のため」とか「本義」とか「大義」という抽象的なことのために命を懸けることはできません。
 
特攻隊員は「お国のため」や「天皇陛下のため」に死んでいったことになっていますが、本人の心の中では、「自分が敵航空母艦を沈めたら、その分日本人の命を救うことができる」というように、具体的に命を救うことを思い描いて自分の死を納得させていたと思います。
 
 
私は、どんな凶悪な犯罪者も非難しないという思想を持っています。自分と同じ人間と見なしているからです。
したがって、どんなすばらしいことをした人も、実は賞賛しません。自分と同じ人間と見なしているからです。
 
多くの人は、決死の作業をした人をほめたたえますが、私の考えでは、実はそれほど特別なことではありません。
たとえば、チェルノブイリの事故のときも多くの作業員が命懸けの作業をしましたし、ソ連のK―19という原子力潜水艦が原子炉の事故を起こしたとき、8人の決死隊が作業をし、8人全員が被曝により死亡するということもありました。
原子炉の事故は深刻化すると多数の人が死に、環境も汚染され、いわば全人類に影響しますから、その分作業員も必死になるのです。
ですから、福島第1で吉田氏以下の作業員が命懸けの作業をしたのも、いわば当たり前のことです。
 
こういうと、吉田氏や多くの作業員をおとしめているように思われるかもしれませんが、そうではなく、人間は誰でも本来そういう素晴らしさを持っているものだといいたいわけです。
 
これは進化生物学からも説明できます。
「私は2人の兄弟か8人の従兄弟のためなら死ねる」といった生物学者がいますが、もともと人間は、自分の生存と同時に子孫の繁栄のために行動しており、子孫の繁栄のために自分の命を犠牲にしても不思議ではないのです。
 
これは当たり前のことだと思うのですが、多くの人はまったく逆のことを考えています。
つまり、人間は放っておくとわがままになるので、道徳教育によって奉仕や自己犠牲の精神を教えなければならないというのです。
いや、こんなことを考えているのは一部の愚かな政治家ぐらいかもしれませんが。
 
逆のことといえば、本店の命令を無視して海水注入を続けた吉田氏の判断への評価もそうです。
あのとき海水注入を続けないと、原子炉の爆発で周辺への影響はもちろん自分たちの命すら危ない状況だったのですから、誰でもそうしたでしょう。それを「本義」などといってほめたたえるのはバカげています。
それよりも、自己保身のために官邸の意向を忖度したり、海水注入による経済的損失を計算したりして海水注入中止を命令した東電本店の愚かさを批判するべきです。
 
批判するべきを批判せず、その代わりにほめるべきでないものをほめるという一種の逆転現象が起きています。
 
原子炉事故という過酷な状況において、直面している吉田氏以下の作業員は人類のために正しい判断をし、離れたところにいる東電本店やジャーナリストは自分のために都合のいい判断をする。
これも人間のひとつの姿です。

参院選の期日前投票が行われていますが、職員が間違った投票用紙を渡したために投票が無効になるというニュースがありました。選挙のたびにこうしたニュースがあり、頭の中を素通りしていくのですが、今回のこの記事には引っかかってしまいました。
 
 
期日前投票で用紙交付ミス
新潟市選管、9人の投票無効の見込み
 
 新潟市選挙管理委員会は6日、中央区役所東出張所(蒲原町)で同日、参院選の期日前投票をした有権者9人に、選挙区と比例代表の投票用紙を間違えて手渡すミスがあったと発表した。9人は比例代表の用紙に選挙区の候補者名を、選挙区の用紙に比例代表の候補者名などを記入したとみられ、投票は無効になる見込み。
 
 市選管によると、期日前投票は選挙区を投票した後に、比例代表の用紙を手渡す仕組み。用紙を1枚ずつ取り出す機械が選挙区用と比例代表用に2台あり、臨時職員が用紙を入れ間違った。
 
 投票が始まった午前8時半から午前9時半ごろまでに、誤った用紙を受け取った男性6人、女性3人が投票した。有権者からの指摘を受け、ミスが発覚した。
 
 用紙は選挙区が黄色、比例代表が白の用紙で識別できるようになっている。当時、東出張所の投票所には正職員1人と臨時職員4人が勤務し、マニュアルに基づき複数の職員で入れ間違いがないか確認したが、気付かなかった。
 
 公職選挙法では、有権者1人が投票できるのは1票に限ると規定されており、投票用紙の再交付はできない。中央区選管は投票者の自宅を回って説明し、謝罪した。
 
 市選管の委員長は「有権者の一票の権利を無効にしてしまい、心からおわびします」とコメント。再発防止に向け、複数の職員によるチェックを徹底するとしている。
 
 
この記事のなにに引っかかったかというと、「公職選挙法では、有権者1人が投票できるのは1票に限ると規定されており、投票用紙の再交付はできない」というところです。
この規定によって投票が無効になるということのようですが、役人のミスで有権者が権利を行使できないということがあっていいはずありません。これはなにかがおかしいと思いました。
 
ところで、神奈川県でも同じようなミスがあって、それはこんな記事になっています。
 
 
2013参院選:あすのかたち 投票用紙誤交付 6人分無効の可能性−−山北 /神奈川
 毎日新聞 20130707日 地方版
 
 山北町選挙管理委員会は6日、同町役場1階の参院選期日前投票所で、有権者2家族6人に対し、比例代表と選挙区の投票用紙を誤って逆に交付したと発表した。6人は比例代表で全員が、選挙区でうち4人が誤った用紙で投票し、これらの投票は無効になる可能性があるという。
 
 同選管によると、比例代表の用紙に選挙区候補者名、選挙区用紙に比例代表の政党名簿登載者名か名簿届け出政党名を記載して投票した場合は無効となる。2家族目の1人が用紙の誤りに気がついた。選管は開票日の21日に判断するが、無効になる可能性が高いという。【澤晴夫】
 
 
こっちの記事だけ読んでいたら、たぶん頭の中をすり抜けていったでしょう。というのは、投票が無効になる根拠がとくに示されていないからです。
前の記事は、なまじ公職選挙法を持ち出したために引っかかってしまいました。
 
選挙権というのは国民にとって、神聖とはいわないまでもきわめて重要な権利です。役人のミスによって奪われていいはずがありません。
しかも、その権利が奪われる根拠に法律が持ち出されるというのもおかしなことです。
そこで、公職選挙法を確かめてみました。
 
公職選挙法
 第六章 投票
 
(選挙の方法)
第三十五条 選挙は、投票により行う。
 
(一人一票)
第三十六条 投票は、各選挙につき、一人一票に限る。ただし、衆議院議員の選挙については小選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに、参議院議員の選挙については選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに一人一票とする。
 
一人一票なのは当たり前のことですし、選挙区と比例区がある場合は一人二票になるのも当たり前のことです。
「一人一票に限る」と書いてありますが、その一票が無効であれば、再投票するのは当然の理屈です。この条文から、再投票してはいけないということは読み取れません。
 
本当なら用紙が違っても、その投票を有効とすればいいのですが、それについてはこんな規定がありました。
 
(無効投票)
第六十八条  衆議院(比例代表選出)議員又は参議院(比例代表選出)議員の選挙以外の選挙の投票については、次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする。
一  所定の用紙を用いないもの
 
2  衆議院(比例代表選出)議員の選挙の投票については、次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする。
一  所定の用紙を用いないもの
 
3  参議院(比例代表選出)議員の選挙の投票については、次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする。
一  所定の用紙を用いないもの

これでは無効にせざるをえないかもしれません。
しかし、一度の投票が無効であれば、二度目の投票が認められていいはずです。
というか、有権者には再投票する権利があるはずです(もし公職選挙法やなにかの法律で再投票が禁じられているとすれば、その法律は違憲になるはずです)。
 
おそらく役所が再投票を認めたくないのは、「前例がない」「作業が面倒だ」というお役所的発想からではないでしょうか。
そして、その根底にあるのは、国民の投票権に対する軽視です。
 
そもそも期日前投票制度が実施されたのは2003年からです。それまでは、投票日に投票に行けない人は不在者投票をするしかありませんでしたが、不在者投票の際には不在事由を書面ないしは口頭で説明しなければなりません。つまり、投票権を行使するというより、不在者投票を役所に認めていただくという形になっていました。そのため不愉快な思いをしたという人も少なくなかったようです。
 
役所が国民の投票権を軽視しているから、役所のミスによって国民の投票権が奪われるなどということがまかり通っているのです。
 
そして、もうひとつの問題は、マスコミがそのことにまったく無批判であることです。
 
今年の3月、成年後見人がついた者は選挙権を失うという公職選挙法の規定は違憲だとする東京地裁の判決があり、マスコミはこのことをかなり大きく取り上げました(政府は一旦控訴しましたが、のちに取り下げて判決が確定)
大きく取り上げたのは、選挙権のたいせつさがわかっているからでしょう。
 
ところが、その同じマスコミが、役所のミスによって選挙権が奪われるという事態にはまったく無批判です。
なぜその投票が無効になるのかについて納得のいく説明のない記事を書いています。おそらく役所の発表のままに書いているのでしょう。
新聞記者は、役所の発表のとき、「役所のミスで投票が無効になるのはおかしいのではないか」「再投票はどうしてできないのか」などと質問はしているのでしょうか。
 
私も今回初めて疑問を持ったので、あまり偉そうなことはいえませんが、役所のミスによって投票権が奪われるということが当たり前のように報道されているのは、マスコミが役所と癒着して国民を軽視していることの現れではないかと思います。
 

「反省だけならサルでもできる」という言葉があります。これはもちろんサル回しのサルが反省のポーズをすることからきていますが、あのサルは反省のポーズをするだけで、反省をしているわけではありません。ですから、正しくは「反省のポーズだけならサルでもできる」というべきです。
「反省だけならサルでもできる」という言葉が広く流布しているのは、「反省」と「反省のポーズ」の区別もできない人が多くいるからと考えられます。世の中の「反省」についての認識はこの程度のものです。
 
それだけに読まれるべき価値があるのが、岡本茂樹著「反省させると犯罪者になります」(新潮新書)です。
 
 
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内容(「BOOK」データベースより)
犯罪者に反省させるな―。「そんなバカな」と思うだろう。しかし、犯罪者に即時に「反省」を求めると、彼らは「世間向けの偽善」ばかりを身に付けてしまう。犯罪者を本当に反省に導くのならば、まずは「被害者の心情を考えさせない」「反省は求めない」「加害者の視点で考えさせる」方が、実はずっと効果的なのである。「厳罰主義」の視点では欠落している「不都合な真実」を、更生の現場の豊富な実例とともに語る。
 
 
 
タイトルには少しむりが感じられます。「反省させると犯罪者になりやすくなります」というふうに読み替えておけばいいでしょう。
 
著者の経歴が少し変わっています。中学・高校で英語教員として勤めたあと、大学院に行って博士課程を修了し、現在は立命館大学産業社会学部教授、臨床教育学博士です。決められたレールの上を歩む人生から、ある時点で自分の判断で歩む人生へと、路線変更したのでしょう。こういう人だから常識にとらわれない発想が出てくるのだと思います。
 
著者は中学・高校で教員をしていたとき、「生徒指導」の仕事もしていました。たとえば生徒が飲酒、喫煙、万引きなどの問題行動を起こしたとき、停学などの処分をしますが、その間に生徒に反省文を書かせます。その反省文がちゃんと書けていれば、処分を解除します。そうしたことなどが「生徒指導」です。
反省文を書かせるというやり方は、全国どこの学校でも行われているそうです。そういえば、前ワタミ会長の渡辺美樹氏が理事長を務める郁文館夢学園で生徒に原稿用紙100枚の反省文を書かせていて、そのため退学者が相次いでいるというニュースもありました。
 
反省させる方法として、ロールレタリングというものもあります。これは、架空の形で「自分から相手へ」「相手から自分へ」の手紙を書いて、往復書簡を繰り返すうちに自分自身の内面を見つめたり、他者を理解しようとしたりする心理技法で、今ではすべての少年院で行われているそうです。
これはもともと少年院で法務教官を務めていた和田英隆という人が、義母が引き受けを拒否したことがきっかけで荒れ始めた少年に対して、原稿用紙を渡して「自分の思っていることを母親に対して書いてみなさい」といったところ、少年は母親に対する不満や怒りを思い切り書いてきて、そして落ち着きを取り戻したということがあったそうです。それをきっかけに和田らが研究してつくりだした技法です。
ですから、もともとは心の中の不満や怒りを吐き出すことの要素が大きかったのですが、今はもっぱら「被害者の立場」に立って反省させることが主眼となって、形骸化してしまっていると著者はいいます。
 
企業ではなにか失敗や不祥事を起こした者が始末書を書かされることがあります。始末書は反省文と同じようなものでしょう。日本には反省文を書かせるという文化があるのかもしれません。
 
著者は現在、刑務所において受刑者の更生プログラムを実践しています。その経験からも著者は「犯罪者に反省させてはいけない」という信念を強めます。
 
私も基本的に著者の考えと同じです。ですから、私が本書の内容を紹介すると、自分の考えが入り混じってしまうおそれがあるので、本書の重要と思われる部分を書き写しておきます。
 
 
重大な犯罪が起きたとき、新聞やテレビのニュースで、「まだ容疑者は反省の言葉を述べていません」「残虐な事件を起こしておきながら、まったく反省している様子はありません」といった言葉をよく耳にします。こうした報道を聞くと「あんなひどいことをしたのに、反省していないなんて、なんてひどい奴だ」「絶対に許せない」と怒りを覚えたことのある人は多いのではないでしょうか。
しかし、これまで述べてきたように、自分が起こした問題行動が明るみに出たときに最初に思うことは、反省ではありません。事件の発覚直後に反省すること自体が、人間の心理として不自然なのです。もし、容疑者が反省の言葉を述べたとしたら、疑わないといけません。多くの場合、自分の罪を軽くしたいという意識が働いているか、ただ上辺だけの表面的な「反省の言葉」を述べているにすぎません。そのように考えると、犯罪を起こした直後に「反省の言葉」を繰り返す犯人(容疑者)は、反省の言葉を述べない犯人よりも、「より悪質」という見方ができます。
 
受刑者は、例外なく、不遇な環境のなかで育っています。親からの虐待、両親の離婚、いじめの経験、貧困など、例を挙げればキリがありません。受刑者は、親(あるいは養育者)から「大切にされた経験」がほとんどありません。そういう意味では、彼らは確かに加害者ではありますが、「被害者」の側面も有しているのです。被害者だからと言って、人を殺したり覚醒剤に手を染めたりすることはけっして許されることではありません。しかし支援する立場になれば、加害者である受刑者の、心のなかにうっ積している「被害者性」に目を向けないといけません。このことが分かれば、最初から受刑者に被害者のことを考えさせる方法は、彼らの心のなかにある否定的感情に蓋をしてさらに抑圧を強めさせることになるのは明らかです。したがって、まずは「加害者の視点」から始めればいいのです。そうすることによって、「被害者の視点」にスムーズに移行できます。受刑者が「被害者の視点」を取り入れられる条件は、「加害者の視点」から始めることと言えます。
 
自己理解が得られれば、受刑者は自分の心の奥底に否定的感情があることに気づきます。彼らが真の「反省」に向かうためには、自分の心の奥底にあった否定的感情を吐き出す必要があります。否定的感情を吐き出すことは、受刑者にとって、とても苦しい作業となります。本来ならば、今さらみたくもない過去の自分の「心の痛み」と直面するわけですから、できるのなら避けて通りたいものです。しかし、ここを乗り越えない限り、他者の「心の痛み」にまで思いが至りません。そこで支援者の支えが必要となります。自分を支えてくれる支援者がいることによって、受刑者は自分の内面の問題と向き合う勇気を持てるのです。受刑者が自分の否定的感情を吐き出して自分の心の痛みを理解すると、自分自身が殺めてしまった被害者の心の痛みを心底から感じるようになります。ここにおいて、ようやく受刑者は、真の「反省」のスタート地点に立てるのです。
 
 
著者はさらに、「しつけ」の問題を指摘します。これについては、第4章の見出しを列記することにします。
 
第4章 頑張る「しつけ」が犯罪者をつくる
りっぱなしつけが生き辛さを生む
「しつけ」がいじめの一因に
「尾木ママ方式」ではいじめを減らせない
いじめ防止教育は「いじめたくなる心理」から始める
「強い子にしよう」というしつけ
早く「大人」にしようとすると危ない
「ありのままの自分」でいてはいけないというメッセージ
「しっかりした親」の問題
 
 
私は前に、今の社会は犯罪者を刑務所に送り込む「入口政策」にばかり関心が向いて、刑務所を出た犯罪者を更生させる「出口政策」がおろそかにされているということを書いたことがあります(「少年犯罪の厳罰化を逆にすると」)
 
著者は「出口政策」において正しい認識を示しておられる数少ない人の一人です。
正しい認識というのはつまり、犯罪者はきわめて不幸な人生を歩み、多くの場合幼児虐待の被害者で、その心のケアをしなければ更生できないということです。
 
この認識を示しておられるのはほかに、多くの死刑囚との面談などをしている長谷川博一氏などがおられます。
 
神戸児童連続殺傷事件の犯人「酒鬼薔薇」を更生させるために、医療少年院において、犯人の少年は親の愛情を感じていなかったとして「育て直し」が行われたということですが、これも同じ認識によるものでしょう。
 
また、「レ・ミゼラブル」なども、犯罪者を更生させるのは厳罰ではなく寛容な心に触れることであるという認識をもとにした物語で、それゆえに感動があります。
 
とはいえ、こうした正しい認識は、天動説が信じられている世の中での地動説みたいなもので、なかなか世の中に受け入れられません。
 
そうした中で、著者の岡本茂樹氏は受刑者の更生プログラムの実践経験を通して主張しておられるので、説得力があります。
できれば、著者の更生プログラムを受けた受刑者の再犯率と、ほかの更生プログラムを受けた受刑者の再犯率と、なんの更生プログラムも受けなかった受刑者の再犯率がデータとして提示されるとより説得力があるのですが、今の段階ではそこまでいっていないようです。
 
人間は本能的に、自分に害のありそうなものは遠ざけたい、消し去りたいと思います。
ですから、不潔なゴミは遠くに捨てたり、川に流したり、土に埋めたりしてきましたし、工場のばい煙は高い煙突で遠くに飛ばしてきました。しかし、地球環境が問題になると、ゴミはできる限り捨てるのではなくリサイクルするものになりました。
 
しかし、人間はいまだ犯罪者に対しては、本能のままに遠ざけたい、消し去りたいと思って、刑期を長くし、死刑をふやそうとしています(とくに日本はそうです)
 
ゴミはリサイクルするのに、なぜ犯罪者をリサイクルしようと思わないのでしょうか。
 
犯罪者をゴミにたとえるとはけしからんといわれそうですが、ほんとうにけしからんのは犯罪者をゴミ以下の扱いにしていることです。
犯罪者も自分と同じ人間であるということが当たり前の認識になってほしいものです。
 
 
ところで、一週間余りブログの更新をしませんでしたが、これは海外旅行(マレーシア)に行っていたためです。
以前は、海外旅行に行くのでしばらく更新はしないと予告していましたが、これは空き巣に狙われる可能性があるということなので、今回は事後のお知らせとしました。ご了承ください。

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