村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2013年08月

このニュースは取り上げるかどうか悩んだのですが、私のほかにこういう観点から取り上げる人がいないかもしれないので、取り上げることにします。マンガ家の郷田マモラさんが暴行、強制わいせつ、傷害の罪で起訴され、有罪判決(懲役3年、執行猶予3年)を受けたというニュースです。
本人が罪を認めたので判決には問題ありませんが、逮捕・起訴するほどの事件だったのかという疑問が残ります。
 
そもそもの事件はこのようなものでした。
 
人気漫画家の郷田マモラ被告、強制わいせつで起訴
死刑制度を扱った漫画「モリのアサガオ」などの作者として知られる漫画家、郷田マモラ(本名・上之郷守)被告(50)が、女性にわいせつな行為をしたなどとして警視庁に逮捕され、東京地検立川支部が強制わいせつなどの罪で起訴していたことが15日、分かった。郷田被告は2度にわたって女性に野球の硬式ボールを投げつけて脅し、わいせつな行為を働いたり、突き飛ばしたりして、けがを負わせたという。
 死刑制度や裁判員制度など深淵(しんえん)なテーマを扱う社会派漫画家が、強制わいせつで逮捕、起訴されるという驚くべき二面性を見せた。
 
 起訴状によると、郷田被告は今年4月21日ごろ、東京都国分寺市内の郷田被告の事務所内で、女性の頭部に硬球を投げつけて脅し、わいせつな行為をした。5月12日にも同じ女性に硬球を投げつけ、突き飛ばして2週間のけがを負わせたとされている。
 
 警視庁小金井署が逮捕し、東京地検立川支部が6月25日と7月12日に暴行と強制わいせつ、傷害の罪で起訴した。
 
 郷田被告と女性との関係は明らかにされていないが、郷田被告とは面識があったとみられている。
 
 捜査関係者によると、4月のときはボールを女性の頭部に投げつけたあと「怒りで仕事が手につかない。どうしてくれるんや」と脅し、わいせつ行為に及んだという。
 
 5月には同じく女性の顔にボールを投げつけ、胸を突き飛ばして転倒させたのち、頭を蹴るなどしたという。女性は頬などに全治約2週間のけがを負った。
 
 郷田被告は、女性監察医が主人公の「きらきらひかる」や、裁判員裁判をテーマにした「サマヨイザクラ-裁判員制度の光と闇」などの作品があり、社会派の漫画家として知られる。2007年には死刑囚と刑務官の交流を描いた「モリのアサガオ」で文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞した。
「きらきらひかる」は1998年にフジテレビ系でドラマ化。「モリのアサガオ」は10年にテレビ東京系でドラマ化され、現在は再放送中。テレビ東京広報部は「放送休止は考えておりません」としているが、「(起訴に関しては)コメントを出す立場にないので、差し控えさせていただきます」と話すにとどめた。
 
 
このあと、8月20日に初公判があり、郷田さんは起訴内容を認め、27日に懲役3年執行猶予3年の有罪判決が言い渡されました。
郷田さんは起訴内容を認めたとはいえ、わが国の刑事裁判の有罪率は99.9%といわれますから、事実関係で争うと、反省がないと見なされて実刑判決になる可能性が大です。そのあたりのことは郷田さんは十分に承知しています。そのため、本当は事実関係で争いたかったが諦めたということも考えられます。
  
「モリのアサガオ」は刑務官と死刑囚の物語です。単純に死刑制度反対を訴える作品ではないようですが、死刑囚を人間として描くだけで十分に死刑制度に対する疑問を喚起することになります。
そして、今回調べると、「漫画アクション」に「あしゅらみち-冤罪-」を連載中だったということです(逮捕後中断)。これはタイトルの通り、冤罪事件を扱ったものと思われます。
つまり郷田さんは、死刑制度や冤罪事件を追及するマンガ家で、司法当局にとっては好ましくない存在だったということになります。
 
別の新聞記事によると、逮捕されたのは6月5日だということです。
つまり、現行犯逮捕ではありません。
4月21日に最初の行為があり、512日に二度目の行為があり、6月5日に逮捕されているということは、被害の女性が警察に訴え出たということでしょうか。
全治2週間のケガというのはそれほどのケガとは思えません。また、逃亡や証拠隠滅の恐れもそれほどあるとは思えません。つまり、通常は逮捕するケースではないはずです。
また、暴行、強制わいせつ、傷害の三つの罪で起訴されたのも、きびしいように思えます。
 
もっとも、新聞記事だけではわからない、ひじょうに悪質な事件なのかもしれません。だったら、逮捕・起訴は当然ということになります。
少なくとも女性が警察に訴えたくなるようなことがあったのは事実でしょう。
 
ということで、このニュースを取り上げるかどうか迷ったわけです。
 
しかし、小さな事件を警察・検察が大きな事件にしたということは十分に考えられます。
この事件によって、死刑制度反対を訴え、冤罪事件を追及するマンガ家に大きなダメージを与えることに成功したからです。
 
昔は雑誌「噂の真相」が警察や検察の問題を追及していましたが、「噂の真相」なきあと、警察・検察を追及するメディアがほとんどなくなったといっても過言ではありません。
そこで、このブログだけでもと思って取り上げてみました。
 

「集合知」という言葉がありますが、ネット内の議論を見ていると「集合バカ」という言葉のほうがぴったりくることが多いようです。
どうしてネットにはバカが多いのかということが知りたくて、「ネットのバカ」(中川淳一郎著)という本を読んでみましたが、ここにはいろいろなバカのことは書かれていますが、なぜそのようにバカになるのかという分析は書かれていません。どうやら著者は、ネットのバカはリアルのバカと同じというふうにとらえているようです。
そこで、私なりにネットのバカを分析してみたいと思います。
 
私の見るところ、リアルよりもネットのほうがよりバカ度がアップしています。
たとえば、橋下徹大阪市長の「慰安婦制度は必要」発言のとき、一般社会の世論は圧倒的に批判的で、日本維新の会も明らかにそれが原因で票をへらしましたが、ネット内では橋下発言を擁護する意見がかなりありました。
麻生太郎財務相の「ナチスの手口に学べ」発言のときも、本人はすでに発言を撤回して謝罪しているのに、麻生財務相の“真意”を勝手に想像して擁護する意見がかなりありました。
 
こうした傾向は、「集団極性化」という概念で説明できるということを前に書いたことがあります。
「集団極性化」というのは、同じ傾向の人が集団になって議論すると、より極端な結論に導かれやすいということをいう心理学用語です。
 
インターネットは世界に通じているとはいいながら、大多数の日本人は日本語のサイトばかり見ていますから、国内のインターネット上の議論というのは、もっぱら日本人同士がやっているわけです。そのため、他国のことよりも自国の利益追求の方向にどんどん傾き、さらにはタカ派的主張に傾いていきます(私はこれを「愛国バイアス」と呼んでいます)。こうしてネット内には右翼的主張がはびこることになります。
 
慰安婦問題も、ネット右翼が完全に議論を間違った方向に持っていっています。橋下市長はそれを真に受けて、国際的に恥をかいてしまいました。
 
 
では、最近騒がれている、コンビニや外食チェーンでバイトがおバカな写真をアップして炎上するという事件はどう説明できるでしょうか。
 
この事件については、私はおバカ写真をアップするバイトはそれほど問題と思いません。若者は昔からこうしたおバカをやっていたものですし、おバカをすることによって経験値を上げるというプラス効果もあります。
問題はむしろ、それを炎上させるほうにあります。こちらのほうこそ真のおバカです。
たぶん一般社会の人たちは、これらのバイトをそれほど非難しないと思います。
 
ステーキハウスのブロンコビリー足立梅島店は、バイト店員が冷蔵庫に入る写真をアップしたことによって閉店が決まり、本社はバイト店員に対して損害賠償請求を検討しているという報道がありました。しかし、バイト店員が冷蔵庫に入ったことは、そのあとを雑巾で拭いておけばすむ話です。もし閉店の決定がやむをえないものだとすれば、損害賠償請求は、ネットで騒いで炎上させた者たちに対してするほうが筋が通っています(現実には不可能でしょうが)
 
ネットには、このようにくだらないことで騒ぐ人たちがたくさんいます。
たとえば、イタリア・フィレンツェの大聖堂に女子短大生が落書きをしたために大バッシングが起き、短大生がイタリアまで謝罪しに行って涙を流すということがありましたが、実際のところは、この大聖堂には落書きがいっぱいあり、謝罪されたイタリア側が驚いてしまいました。
また、若い女性タレントがテレビで万引きしたことを告白し、何度も万引きしたためにその店がつぶれてしまったといったために、その女性タレントが大バッシングを受けてタレント活動休止に追い込まれるということもありました。
 
個人がネット上で大バッシングされるということの最初は、イラクで日本人3人が人質になった事件だったかもしれません。これは政治問題がからんでくるので少し事情が違いますが、バッシングされる基本的な構造は同じだと思います。
 
このようなバッシングや炎上事件に共通しているのは、バッシングされるほうは“リア充”だということです。
おバカ写真をアップするバイトは、とにかくバイトをしているということで社会的に活動していますし、さらに、おバカ写真を喜んで見てくれるに違いない友だちがいます。これだけでリア充だといってもいいでしょう。
イタリア旅行をしたり、イラクにボランティアに行ったりするのも、それだけでリア充といってもいいでしょう。タレント活動をしているのももちろんそうです。
 
これに対して、ネットで非難の書き込みをしている人たちは、圧倒的確率で“非リア充”だといってもいいでしょう。
そもそも現実社会に生きがいがある人は、ネットにそれほど熱心に書き込みをしません。リアルで満たされないものをネットで得ようとする人たちが熱心に書き込みをするのです。そういう人たちは数はそれほど多くなくても、書き込みの頻度が高いのでネット内の論調を左右する力を持っています。
 
そうした非リア充にとって、リア充はリア充だというだけで攻撃対象になります。そのためバイト炎上事件が多発するのです。
 
つまりこれは、リア充に対する非リア充の反撃というふうに理解できます。
 
 
それから、これは不良同士の抗争というふうにとらえることもできます。
 
家庭や学校に適応できない子どもは、盛り場などで仲間とつるみ、不良になります。これを私は「行動化する不良」と呼んでいます。暴走族などもそうです。
 
一方、家庭や学校に適応できないため、不登校になり、引きこもりになる子どもがいます。これを私は「引きこもり系の不良」と呼んでいます。
実際には引きこもりにならず、学校に行き、就職していても、社会に適応するのに精一杯で、一歩間違うと引きこもってしまいそうな人間もやはり「引きこもり系の不良」です。
 
こうした「引きこもり系の不良」はネットで熱心に書き込みをし、しょっちゅう互いにののしり合っています。これは「行動化する不良」がよく喧嘩するのと同じです。
 
「行動化する不良」と「引きこもり系の不良」はテリトリーが違うので通常は接点がありません。しかし、ネット上におバカな写真をアップしたりすると、それが接点となって「引きこもり系の不良」が「行動化する不良」を一方的に攻撃することになります。
 
これまで「行動化する不良」は認識されてきましたが、「引きこもり系の不良」はほとんど認識されてきませんでした。そのため不良といえば「行動化する不良」のことでした。
しかし、ネットが普及するとともに「引きこもり系の不良」の存在がだんだんと認識されてきました。一部には「ネット右翼」という名前がつけられましたが、おバカ写真をアップするバイトを攻撃するのは右翼と関係ありませんから、これはやはり「引きこもり系の不良」というべきでしょう。
 
非リア充や「引きこもり系の不良」が攻撃的な書き込みをし、しかもその数が多いために、ネットは「集合知」よりも「集合バカ」が目立つ場になったのだと思います。

コンビニや外食チェーンなどでバイトの若者がアイスクリームの冷凍ケースに入るなどの写真をネット上にアップして炎上するという事件が相次いでいます。これについて私は、若者はおバカなことをして多様な経験を積んで成長するのだから、おとなは寛容であるべきだということを書きました。
 
おバカは若者の権利
 
この中で私は、私の出身地である京都では学生がバカをやったりハメを外したりすることに寛容だということを書きました。ただ、書いたあとで、なぜ京都にはそういう伝統があるのかということと、なぜ最近の世の中はそれと逆になっているのかということが気になっていました。
そうしたところ、アメリカ在住の作家冷泉彰彦氏がアメリカの若者のおバカ文化について書いておられて、これがなかなか明快に若者のおバカとおとなの対応の関係を説明していたので、ここで紹介させてもらいます。
 
若者の「悪ふざけ」がエリートの特権である社会とは?
 この夏、日本では「バイトの悪ふざけ」というニュースが何度も大きく報道されていました。アメリカから見ていると、この「悪ふざけ」のカルチャーについて、日米の間には大きな違いがあり、色々と考えさせられたのも事実です。
 
 まずアメリカの方ですが、若者の「悪ふざけ」というカルチャーはかなり確立されています。一般的には「プランク(プラクティカル・ジョーク=目に見える行為としての冗談)」と言われるもので、社会のあちこちに存在していますし、多くの場合は大人社会は「寛容」です。
 
 いろいろな例がありますが、日本でも有名なものとしては、メジャーリーグの「新人選手」が、ある時期に女装などの妙な格好をさせられるという「伝統」があります。「ルーキー・ヘイジング」とか「ルーキー・ラギング」と言って、例えば昨年は川崎宗則選手が妖精の扮装をさせられたりして、かなり定着したカルチャーと言えるでしょう。
 
 また、アメリカの各大学には「プランクの伝統」があります。特に有名なのが、MIT(マサチューセッツ工科大学)で、単なる「プランク」ではなく工科大学ならではの技術力を見せながらのジョークを展開することになっており、「MITのハッキング」という名の伝統になっています。
 
 例えば「グレート・ドーム」と呼ばれる建物のドーム状の屋根の上に、突如として「消防車」とか「アポロの宇宙船」を出現させてアッと言わせるとか、ピアノを校舎の二階から中庭に落としてぶっ壊すなど、豪快な「悪ふざけ」をやるわけです。
 
 この種の「プランク」というのは、大学ごとに色々あり、男女共学になる以前のプリンストンでは一部の寮の新入生が裸になってストリーキングをさせられるとか、多くの場合は新入生に「通過儀礼」としてやらせたり、あるいは「エイプリル・フール」とか「ライバル大学とのフットボールの試合」などに合わせて「ネタ」になりそうなことをやるわけです。
 
 つまり、こうした「若者の悪ふざけ」というのは、アメリカの場合は「エリートのカルチャー」になっているのです。MITが正にそうです。では、どうしてプランクが伝統になっていて、社会から「寛容な」姿勢で認められているかというと、そうした「逸脱」が「未知の状況に対応する」という「リーダーに相応しい判断力やイマジネーション、コミュニケーション能力」を鍛えることになるからです。
 
 MITの「ハッキング」の場合ですと「持ち上げた消防車(実は巨大な模型)」など、グレート・ドームに設置したイタズラについては、大学当局へ「キチンとした解体マニュアル」を届けるとか、ぶっ壊したピアノは「見事に修復する」という「カッコいい解決」も合わせて伝統になっているわけで、そこにはある種の「自律的なモラル」という美学もあるわけです。
 
 反対に、アメリカの場合は最低賃金スレスレで働かされている外食産業や、流通の現場などには「プランク」の伝統はありません。若者であっても、契約に縛られる中で生活のために時給で働かなくてはならない世界では、基本的に「逸脱」が禁じられているのです。日本とは違って、多少は寛容性がある場合もありますが、エリートの世界の堂々とした「プランクの伝統」のようなものはありません。
 
 教育現場についても同じです。貧困層が多く、犯罪や犯罪被害の発生率の高い学区の高校では、厳格な持ち物検査が行われたり、少しでも汚い言葉を使ったら停学になるなど、窮屈な環境があります。それは、エリート大学生による「ユーモア溢れるプランク」のカルチャーとは対極の世界です。その鮮やかな対比は、正に格差社会の反映だと言えるでしょう。
 
 勿論、今回の日本の「バイトの悪ふざけ」というのは、全くほめられたものではありません。例えば、流通や小売のチェーン本部が、事件の起きた店舗を「閉鎖」するしかないというのも、ある意味、現代という時代では仕方がないように思われます。というのは、消費者の「企業化されたチェーンが提供する厳格な管理に裏打ちされた安心感」への「期待を裏切る」ことが企業のブランドへの決定的なダメージになるという危機感を否定するのは難しいからです。
 
 そうではあるのですが、いわゆる「下積み」の若者の中に「100%屈服した従順さ」以外の何かがあるというのは、アメリカの息苦しさに比べれば、どこか「一息つく」感じがあるのも事実です。将来が約束された若者には「プランク」を行う自由がある一方で、生活のために日々の仕事に追われる若者には自由がないという閉塞した格差社会よりは、まだどこか救いがあるように思われるからです。
 
 そう考えると、改めて浮かび上がってくるのが、日本のエリート階層の特殊性です。そこには「プランク」どころかユーモアの感覚も、アドリブのコミュニケーション能力も欠落した硬直化したカルチャーがあるように思います。
 
 例えば、今回の事件の舞台となった「企業化された外食や小売のチェーン」に関して言えば、「ギリギリの企業努力」で、「画一性とお値打ち感」を演出し、消費者にそのような期待を持たせてきたのは、チェーン本部のエリート官僚組織であったわけです。今回の閉店騒動だけでなく、ここ20年の日本の小売やサービス業界の「デフレ傾向」というのも、彼等の「バカバカしいまでに真面目」な経営姿勢が作ってきたものだとも言えそうです。
 
つまりアメリカでは、エリートの若者と下層の若者とではまったく別の扱いをされているということです。
 
考えてみれば日本でも、昔の学生はエリートでした。学生がたとえば酔っ払って高歌放吟して通りを練り歩いても、エリートだからということで大目に見てもらえる面が多々あったでしょう。京都にはとくに三高、京大というエリート校があり、そうした伝統が今も受け継がれているのかもしれません。
あと、京都にはほとんどの宗派の総本山があって、そこに修行や学問をする若い僧が全国から集まっていましたが、こうした若い僧のことを「学生=がくしょう」といいます。あるいはそのころからの伝統なのかもしれません。
 
しかし、日本ではエリートと非エリートとの線引きは、アメリカほど明確ではありません。私自身も、エリートと非エリートを区別するという発想はありません。ですから、若者一般について、おバカは許されるべきではないかと考えました。
 
しかし、エリートと非エリートを区別しないと、別の結論もありえます。つまり、若者一般についておバカは許されないという考え方です。
日本人の大多数はこの考え方のようです。
 
しかし、こうした考え方が日本の経済をだめにしてきたのではないかと冷泉氏は指摘していますし、私も同じ考えです。
 
また、アメリカでは若者がおバカをするのは、リーダーにふさわしい能力を身につけるのに必要だからという考えのようです。
こういう発想も私にはありませんでした。私の考えでは、おバカをするのは多様な経験を積むためで、それはリーダーに限らず人間に必要なことです。
 
ただ、日本には一般市民と芸術家や芸能人を区別する発想はあります。
たとえば芸術家や芸能人の場合、風狂、無頼、放蕩といったことがむしろ評価されて、妻子がいても女遊びをするといったことが一般市民よりは許されていました。
品行方正な生活をする作家より、女遊びをしたり、ギャンブルに狂ったり、裏社会に踏み込んだり、借金をして女房に逃げられたりしている作家のほうがおもしろいことを書けるはずですから、こうしたダブルスタンダードはある程度理解できることです。
 
しかし、最近は芸術家や芸能人についても一般市民と同じモラルが求められる傾向があるように思えます。少なくともテレビのワイドショーなどはむしろ芸能人にきびしく当たっているようです。
 
どうして日本はおバカを許さない社会になってきているのでしょう。
これについてはいろいろな理由が考えられて、とうていここでは書ききれませんが、ひとつだけ、学校教育の影響を挙げておきます。
 
日本の学校はたいてい細かい校則があり、まじめに勉強することが求められて、おバカを許容する余地はまったくといっていいほどありません。
冷泉氏は、アメリカでは貧困層が多く犯罪率の高い学区の学校では窮屈な環境があると書いていますが、日本ではほとんどの学校がそのようになっているのです。
自分がおバカであることを許されなかった人間は、他人がおバカであることを許すことができず、ネット上でおバカを見つけると炎上させてしまうのです。
 
こうした学校は長年にわたる自民党政権がつくってきたものです。
こうした学校を出た人間は、ブラック企業にも適応しやすくなっています。
ブラック企業に適応するような人間がおバカを攻撃して炎上させていると考えると、おバカ騒動の本質が見えてくると思います。

松江市の教育委員会が中沢啓治のマンガ「はだしのゲン」を図書室の「閉架」に移動させ、子どもが自由に閲覧できないよう要請していたことに対して議論が巻き起こっています。
その議論の中に「子どもの知る権利の侵害だ」という声があるのは画期的なことです。子どもを「権利の主体」と見なすのは、子どもの権利条約の精神でもあります。子どもを「権利の主体」と見なせば、たいていの教育問題も解決の方向が見えてくるはずです。
 
ところで、松江市の教育委員会が「はだしのゲン」の閲覧制限をしたのは、原爆による残酷シーンがあるためだと思っている人が多いのではないかと思いますが、それは誤解です。毎日新聞の社説によると、閲覧制限のいきさつはこのようなものでした。
 
市教委がこのような判断をしたきっかけは、松江市議会に昨年8月、1人の市民から「誤った歴史認識を子供に植え付ける」と学校の図書室から撤去を求める陳情があったことだ。市議会は、過激な部分がある一方で、平和教育の参考書になっているとの意見があり、陳情を不採択にした。だが、独自に検討した市教委は「旧日本軍がアジアの人々の首を切るなど過激なシーンがある」として小中学生が自由に持ち出して読むのは適切ではないと判断した。
 
1人の市民の陳情によって動かされたというのも妙な話ですが、要は旧日本軍が残虐なことをするシーンがあるからだめだということなのです。
旧日本軍は残虐なことをまったくしなかったから事実に反するという考えなのか、たとえ事実でも描いてはいけないという考えなのかわかりませんが、いずれにしてもおかしな考えです。
しかし、こうしたおかしな考えの人が少なからずいることは事実です。
 
私が問題だと思うのは、こうしたおかしな考えに名前がついていないことです。
私たちは名前がついていないものはなかなか認識することができませんし、それについて考えたり批判することもできません。
ですから、ここで名前をつけたいと思います。
 
たとえば次の新聞記事の中に、名づけるヒントがあります。
 
「教科書法」自民が検討 南京事件など念頭「学説未確定の事項は確定的に記述しない」
 自民党の「教科書検定の在り方特別部会」は25日、検定の見直しに向けた「中間まとめ」を安倍晋三首相(自民党総裁)に提出した。南京事件などを念頭に「近現代史で学説が未確定の事項は確定的に記述しない」としている。「教科書法」(仮称)の制定を視野に検討を続けるという。
 
 部会は4月以降に6回開催。主な教科書出版会社3社の社長や編集責任者らから、南京事件や慰安婦問題の記述の根拠を聴き取るなどして検討を続けてきた。中間まとめでは、現行の教科書について「自虐史観に強くとらわれるなど教育基本法の趣旨に沿っているのか疑問を感じるものがある」「領土問題で我が国の主張が十分に記述されていない」と指摘した。
(後略)
 
この中に「自虐史観」という言葉があります。「自虐史観」を批判する人たちの頭の中には別の史観があるはずです。それはどのような史観でしょうか。
 
もともと「自虐史観」ということをいいだしたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」をつくった藤岡信勝氏だと思われます。
藤岡信勝氏はもとは共産党系の教育学者ですが、ソ連・東欧圏の崩壊で思想転向し、これまでのマルクス主義史観あるいは唯物史観を捨てて、「自由主義史観」を提唱しました。
「自由主義史観」の立場からすると、旧日本軍が残虐行為をしたなどという考えは「自虐史観」ということになるわけです。
 
しかし、最近は「自由主義史観」という言葉は使われなくなりました。もともとマルクス主義史観ないし唯物史観に対してつくられた言葉ですから、マルクス主義史観や唯物史観という言葉が使われなくなるとともに「自由主義史観」という言葉も使われなくなったのだと思われます。
そして、その結果、「自虐史観」という言葉だけあって、「自虐史観」を批判する側の人たちの史観には名前がないというおかしなことになってしまいました。
 
このようになったのは、「自虐史観」という言葉で批判される側の人たちの思想的怠慢でもあります。批判されたら、反論しなければなりませんが、そのときに相手の考えに名前をつけるという当たり前のことをしなかったのですから。
 
では、「自虐史観」を批判する人たちの頭の中の史観に名前をつけるとすれば、なにがいいでしょうか。
それは「自尊史観」しかないと思います。
 
「反自虐史観」では名づけたことになりませんし、「愛国史観」では「自虐史観」と対比できません。
 
「自分の考えは『自尊史観』ではない」と主張する人もいるでしょうが、「自虐史観」と批判される人たちも「自分の考えは『自虐史観』ではない」と考えているので、それはどちらも同じです。
「自尊史観」というネーミングには悪意が込められていないので、拒否する理由もないはずです。
 
「自虐史観」と「自尊史観」という言葉を対比させると、正しい史観というものがおのずと見えてきます。
 
自国の悪いところばかりを並べる「自虐史観」もいけないし、自国のいいところばかりを並べる「自尊史観」もいけない。よいところも悪いところもありのままに見つめる史観こそ正しいということがわかるはずです。
 
自民党の「教科書検定の在り方特別部会」の人たちや「はだしのゲン」を批判する人たちは、「自虐史観」と同じように「自尊史観」もいけないということに気づくべきです。

今年の8月15日は、韓国の国会議員が訪問しようとするなど、靖国神社周辺は例年以上に騒がしかったようです。
結局、安倍内閣としては、首相は靖国参拝をせず(私費で玉串料を奉納)、3閣僚が参拝しただけでした。
 
毎年繰り返される靖国参拝を巡る騒動ですが、考えてみると、8月15日というのは靖国神社にとってはなんの行事もない普通の日にすぎません。
ですから、この騒動は「靖国問題」ではなく「8月15日問題」と見なしたほうがいいのではないでしょうか。
つまり8月15日で終わったあの戦争をどうとらえるかについての対立がこの騒動を生んでいるのではないかと思うのです。
 
「勝敗は兵家の常」「勝敗は時の運」というのが戦争の勝敗についての昔からの一般的な考え方で、勝ったほうは領土や奴隷や賠償金を取っても、そこに善悪や正義はありません。ヨーロッパの騎士道や日本の武士道などはその典型です。しかし、アメリカ人は、自分たちは「神の国」「正義の国」という意識があって、戦争のとらえ方がまったく違います。第一次世界大戦の戦後処理にウィルソン大統領が戦争責任の概念を持ち込み、第二次世界大戦の戦後処理ではアメリカが主導してニュルンベルク裁判と東京裁判を行います。そして、日本では戦争指導者がA級戦犯として裁かれ、国の根幹をなす憲法も変えられます。
 
つまり勝者が敗者を犯罪者として裁くというのは、アメリカの特殊な考え方なのです。これは先住民の虐殺と黒人奴隷の労働の上に建国されたという特殊な事情からきているものと思われます。今もアメリカでは1年間に25人のうち1人が逮捕され、100人のうち1人が刑務所の中に入っていますし、ハリウッド映画にもアメリカ人の考え方が反映されています。
 
アメリカが世界史的にも特殊な裁く国であるということをとらえていないと、東京裁判の意味が見えてきません。
今回調べてみると、第一次大戦と第二次大戦は総力戦であったために戦争責任が問われるようになったという説が一般的なようですが、総力戦だから戦争責任が問われるという理屈は成り立たないと思います。
 
ちなみに中国は先の戦争において、アメリカとは対照的に“許す国”でした。蒋介石も毛沢東も賠償請求権を放棄しましたし、中国大陸の日本軍兵士は基本的に裁判にかけられることなく帰国できました。
中国人は昔から数限りなく戦争をしてきましたから、今は勝ったからといって敗者にきびしく当たると、敗者もいずれ国力を盛り返し、そのときに復讐されるということを学んでいるのです。
これは中国人に限らず人類に共通する“歴史の知恵”というべきものです。“歴史の知恵”がないアメリカ人が特殊なのです。
 
ともかく、日本は戦争に負けたために不当に犯罪国として裁かれ、それは当然日本人には屈辱ですから、国力が回復するとともに、この屈辱をすすぎたいという気持ちが生まれてくるはずです。
しかし、複雑な事情があって、必ずしもそうはなりませんでした。
 
すぐに冷戦が始まったために、右翼は反共を優先させて、必然的に親米になりました。
ですから、反米は左翼の専売特許になりました。しかし、その左翼も、戦時中は政府に弾圧されていましたから、政府の指導者を裁いてくれたということで東京裁判を歓迎しました。
 
右翼はアメリカに憲法を押しつけられたといいながら親米になり、左翼は反米でありながら東京裁判や平和憲法を歓迎するという複雑な図式になっています。
 
冷戦が終わっても、右翼は親米をやめません。惰性が続いているということもありますし、アメリカの日本支配がより巧妙になったということもあるでしょう。
左翼は反米である理由を失いました。
また、アメリカは世界で唯一のスーパーパワーになり、アメリカに反抗するのはますます困難になりました。
ということで、冷戦後はますます日本は親米国家、あるいは従米国家になっています。
 
そのため、日本人は東京裁判は不当だと思いながら、アメリカはけしからんということがいえません。「パール判事はすばらしい」とはいいますが、「パール判事以外の判事はけしからん」とはいいません。
また、「オスプレイ配備はけしからん」とはいいますが、「オスプレイ配備を強行するアメリカはけしからん」とはいいません。
ひじょうに屈折した心理状態にあるわけです。
 
そうした心理状態のはけ口になっているのが中国と韓国です。
日本人は中国と韓国にだけは強くいえます。アメリカにいえない分までいっているような状態です。
南京虐殺や慰安婦問題などは、本来は日本が文句をいえる筋合いではないのですが、中韓の言い分のアラ探しをして文句をいっています。
政治家が靖国参拝をするのは政教分離の点からも問題ですが、靖国参拝について中韓から文句をいわれると、それへの反発のために靖国参拝賛成の声が強くなります。
そうして毎年8月15日になると、日本と中韓の間で騒ぎが起こるというわけです。
 
問題は、アメリカに対して「勝者が敗者を裁いた東京裁判は不当だ」とか「欧米の植民地主義は不当だ」ということがいえない日本にあります。
これをいえずに、代償行為として中韓にいっていても、問題を混乱させるだけです。
 
先住民虐殺と奴隷制の上に建国されたアメリカこそ植民地主義を生み出した悪の帝国であり、アメリカにいかに反省させるかということが人類史における最大の課題です。
ところが、日本はそれに逆行したことをしています。オリバー・ストーン監督が日本に文句をつけるのもそのためです。
 
靖国問題は日本と中韓の間の問題ではなく、むしろ日本とアメリカの間の問題ととらえるべきです。
安倍首相が今年靖国参拝を行わなかったのは、もちろんアメリカの意向があったからです。アメリカにものがいえない国は、中韓にもものをいうことができないというのが現実です。

安倍首相が首相公邸に引っ越さないのは公邸に幽霊が出るからだという話があります。政治の世界には珍しいおもしろネタです。8月14日の朝日新聞に、お盆だからか、夏枯れのせいか、公邸の幽霊話についての記事がありました。
 
首相公邸、幽霊出るの? 首相「怖いから一緒に…」
【山下龍一】お盆前の東京・永田町で、首相公邸に幽霊のうわさが流れている。安倍晋三首相が公邸に移らない理由に挙げたためだ。政治家同士の「会談」なら珍しくないが、公邸の幽霊話も真夏の「怪談」のように浮かんでは消えている。
 
 先月30日夜、首相が自民党幹部を公邸に招いた食事会。「首相が公邸に入らないことを心配している人がいる」と語りかけた脇雅史参院幹事長に、首相はこう応じた。
 
 「怖いから一緒に住みましょうよ。幽霊がいるから嫌なんですよ」
 
 同席者が「他の首相もお化けが出るといっていた」と混ぜっ返し、掘りごたつのある和室はしばし幽霊談議に花が咲いた。
 
 いまの公邸は1929年に首相の仕事場である官邸として建てられ、小泉政権の2005年から居住する公邸となった。だが、安倍首相は知人らを食事に招くものの、就任7カ月が過ぎても入居していない。15分ほど離れた自宅から官邸に通い続ける理由としてささやかれているのが、幽霊のうわさだ。
 
 官邸時代には犬養毅首相が暗殺された5・15事件や、2・26事件の舞台になった。官邸を襲撃した青年将校らが玄関でたき火をした跡や弾痕が残っているとされる。ライト風とされる様式を基調とし、建築文化的評価も高い。ただ、重厚なだけに昼間も薄暗く、静かだ。今月3日に見学した小学6年生の男児は「夜になると幽霊が出そう。薄暗くて不気味だった」と話した。
 
 実際、羽田孜元首相の綏子夫人は対談で、隣接していた旧公邸に「庭に軍服を着た人たちがたくさんいるというんです」と暴露。現公邸についても野田佳彦前首相は「幽霊が出るらしいよ」と漏らした。5月には野党議員が「引っ越さないのは幽霊のためか」とただした。
 
 これに対し、安倍内閣は「承知していない」とする政府答弁書を閣議決定。首相自身は6月に出演したテレビ番組で、幽霊のうわさを「都市伝説だ」と一蹴した。
 
 一方、公邸の使い勝手の悪さを指摘する声もある。首相は周囲に「広くて落ち着かない」と漏らす。官邸スタッフの評判も「壁が白っぽく、無理やりパーティションで仕切った感じだ」と芳しくない。政府高官は「万一の場合はヘリで移動できる。公邸に住まなくても問題ない」と話している。
 
安倍首相はプライベートな場では幽霊話をしても、テレビ番組など公の場では否定しています。幽霊がいるなどと公言すると、バカにされることがわかっているからでしょう。
 
では、「英霊はいると思いますか」と質問すると、どう答えるのでしょうか。
誰かぜひ質問してほしいものです。
 
政治家は生きている人間を幸せにすることをもっぱら考えるべきです。幽霊にしろ英霊にしろ、あるかないかわからないものを政治の世界に持ち込んでもろくなことはありません。宗教家やオカルト研究者に任せるべきです。
 
もっとも、私たちが超自然的なものをまったく否定して生きているかというと、そうではありません。お墓参りをしたり、肉親の遺品に特別な感情を持ったりするのは、なにか霊のようなものの存在を前提としています。
というか、身近な人が死んだときに、なかなか思いを断ち切ることができないので、そうした感情を霊によってつじつまを合わせているとでもいったほうがいいでしょうか。
 
去年の全国戦没者追悼式での横路孝弘衆議院議長のあいさつも「戦没者のみたまの安からんことを心よりお祈りして、追悼の言葉といたします」と締めくくられています。
 
「みたま(御霊)」という言葉は宗教的といえば宗教的です。しかし、特定の宗教や宗派と結びついてはいません。
「英霊」はそうではありません。靖国神社(と護国神社)の専有物です。
乃木神社には乃木希典と妻が祀られていますが、乃木神社のホームページを見ると、「御夫妻の御霊をお祀りし」と書いてあって、「英霊」という言葉は使われていません。
 
ところが、安倍首相は「英霊」という言葉の意味がぜんぜんわかっていないようです。「週刊新潮」における櫻井よしこ氏のインタビューでこんなふうに語っています。
 
やはりお国のために一生懸命働き、尊い命を失った英霊たちに国のトップが崇敬の念を表明するのは当然のことで、どの国のリーダーもそうしています。
 
「英霊」に崇敬の念を表明するのを「どの国のリーダーも」しているというのは、むちゃくちゃな言い方です。靖国神社を冒涜しているともいえます。
 
「英霊」という言葉を使ったり、靖国神社に参拝したりするのは、あくまでも靖国信仰に結びついています。戦死者を追悼するなら、千鳥が淵に参拝してもいいですし、8月15日の全国戦没者追悼式に出席することでも十分ですし、そもそも家で一人でもできます。
 
もっとも、安倍首相がしたいのは、追悼することでも慰霊することでもなくて、戦死者の霊を持ち上げるパフォーマンスをすることなのでしょう(幽霊を信じていないのですから英霊も信じていないはずです)。
もちろんそれは、今後あるかもしれない戦争において、わが軍兵士が少しでも死を恐れずに戦えるようにしたいからです。
軍の最高指揮官としては見上げた心がけですが、そういう世俗的、利己的な意図で靖国参拝をしていることがわかると、みんな白けてしまいます。
 
今年の8月15日は、安倍首相は靖国参拝をしませんでしたが、この機会に「英霊」と「兵士の命」についての認識を深めてほしいものです。
 

新大久保で在特会などが反韓デモや“お散歩”などをやって、「韓国人を殺せ」などと叫んでいるのに対抗して、「レイシストをしばき隊」なる団体が登場し、「お前らこそ死ね」などと叫び返しています。私は表面的にしか知りませんが、「ヘイトスピーチをもってヘイトスピーチを制する」というやり方は間違っているだろうなと思っていました。
 
そうしたところ、8月10日の朝日新聞に「レイシストをしばき隊」主宰の野間易通氏のインタビューが載っていました。
 
(インタビュー)ヘイトスピーチをたたく 「レイシストをしばき隊」野間易通さん
 
これを読むと、やはり根本的に間違っているとは思いましたが、ある程度理解できることもあります。というか、ここにある問題は、世の中に起きているほとんどすべての問題と共通していると思うのです。
その部分を引用します。
 
――デモに抗議するにしても、他にやりようはないのですか?
 「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』といった理路整然とした口調では、たとえ正論でも人の心に響かない」
 「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方がおかしい。むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに直接怒りをぶつけたい、という思いの人々が新大久保に集まっています」
 
確かにこれまで左派の人たちは、決まりきった形でしか主張してきませんでした。たとえば、「平和はたいせつだ」とか「憲法9条を守れ」とかです。しかし、こうした形の主張は、とりわけネット内ではひじょうに不利です。
つまり「平和」とか「憲法9条」というような守るべき価値観を表明すると、あとは反対派から攻撃されるだけになります。
「攻撃は最大の防御」という言葉があるように、戦いにおいては基本的に、守るよりも攻めるほうが有利です。とりわけ論争においてはそうですし、ネット内の論争においてはさらにそうです(私もこのブログにおいて、「平和はたいせつだ」とか「憲法9条を守れ」といったことを主張するのではなく、もっぱら戦争勢力の考え方を批判したり、改憲案を批判したりするようにしています)
 
2ちゃんねるでも昔は、平和主義や護憲主義の立場で論争をする人たちがいましたが、圧倒的に不利な体勢になって、消滅してしまいました。その代わりに今では、右翼的な主張をする人たちを「ネトウヨ」と罵倒する人たちが台頭しています。
つまり右翼的立場からヘイトスピーチをする人たちと、そういう人たちを「ネトウヨ」と決めつけてヘイトスピーチする人たちと、二極分化しているわけです。
 
そして、2ちゃんねる内で二極分化しているのと同じことがリアルの世界で起こって、在特会と「レイシストをしばき隊」が出てきたというわけです。
 
 
それから、野間易通氏のインタビューで気になったのが、氏が「正義」という言葉を使っているところです。
 
――デモ隊もしばき隊も「どっちもどっちだな」という印象を受けます。
 「彼らも僕らも普通の市民。日本社会の多数派、マジョリティーです。それが罵倒し合う光景だけ見れば、確かに『どっちもどっち』です。だが、そこで見落とされているのは、彼らが社会の少数派、マイノリティーを攻撃しており、僕らがそれに反対しているということ。民族差別を楽しむ人と、それに怒っている人のどちらに正義があるか。それは明らかでしょう」
――しばき隊は「正義の味方」ですか。
 「しばき隊の素行もデモ隊に劣らず悪く、決して『善』ではない。レイシストとの対決は『悪対悪』とさえ言えますが、それでも『正義』は疑いの余地なく僕らの側にある」
 
人権派が「正義」という言葉を使うことはめったにないと思います。というのは、「正義」はむしろ人権を抑圧する道具に使われることがあるからです(たとえば死刑制度を考えてみればわかると思います)
 
そうすると、野間易通氏の思想の根底にあるのはなにかということになります。
「ミイラとりがミイラになる」という言葉があるように、「レイシスト狩りがレイシストになる」ということになっているのではないでしょうか。
 
野間易通氏は「しばき隊も在特会も『両方とも消えればいい』とか言う人がよくいるが、実はその通り」とも語っていますが、実際にそううまくいくでしょうか。
最近、「やられたらやり返す。倍返しだ」という言葉がはやっていますが、もし実際にそんなことをしたら倍々ゲームで戦いは拡大していきます。
 
ヘイトスピーチをなくす道は、「正義」だの「報復」だのという概念を超えたところにあるはずです。

ローソンのアイスクリーム冷蔵ケースに男性が入って寝そべるという写真がフェイスブックに掲載され、炎上するという出来事がありました。その後、バーガーキングの店員がバンズの上に寝そべるとか、ほっともっとの店員が冷蔵庫の中に入るとか、丸源ラーメンの店員が冷凍食材を口にくわえるとか、類似のケースが次々に起きています。
 
まったく愚かなことです。
愚かなというのは、ネットで炎上させるほうです。「ウェブはバカと暇人のもの」という書名を地でいっています。
写真をアップするほうは、基本的には普通の若者です。名前をさらされて、職場で処分されたりして、気の毒なことです。
 
「そんな写真をアップしたら炎上するに決まってるだろう。バカじゃないか」という声があります。ツイッターのことを「バカ発見器」といったりもします。しかし、それをバカだと思うのは、ある程度ネットの経験があり、炎上のメカニズムがわかっている人です。ネットの初心者ならわからなくて当たり前です。経験者が寄ってたかって初心者をバカにするのは、ネットの世界だけの現象です。
 
むしろ私は、炎上する側の若者を積極的に評価してもいいぐらいに思っています。
 
そうしたところ、有名ブロガーのHayato Ikedaさんが炎上する側を擁護するような記事を書きました。しかし、Hayato Ikedaさんの言い分は、おバカな店員は安い給料なんだからしかたがない、という論理です。これは私の考えとは違います。
 
Hayato Ikedaさんの記事はこちらで読めます(ローソンの寝そべり写真なども見られます)
 
おバカな従業員は「安さ」の代償
 
私の論理は、おバカな店員は若いんだからしかたがない、というものです。
若者はバカなことをするのが自然な姿です。むしろバカなことをしない品行方正な若者はよくありません。
 
ちなみに炎上したケースは、実害がないものがほとんどです。
バーガーキングでバンズの上に寝そべったケースは、発注ミスのために大量に余ったバンズで、廃棄するものだったそうです。もしそれがほんとうなら、なんの問題もありません。
冷凍食材を口にするのは、衛生上の問題がないではありませんが(虫歯菌など)、ほとんどないといっていいでしょう。ただ、写真を見た人はそうとう不快になりますが、あくまで気分の問題です。
冷蔵庫に入るのも、衛生上の問題があるとはいいますが、ほとんどありません。普段腕や頭を突っ込んだりしているのですから、それと大して変わらないはずです。
 
アイスクリームの冷蔵ケースに寝そべるのは問題がちょっと複雑です。
衛生上の問題は、アイスクリームは容器に入っていますから、ほとんどないはずです。ただ、容器が変形したり、ガリガリ君が割れたりすることがあるでしょうが、それは客に売らないようにすればいいわけです。
そうすると店に損害を与えることになりますが、これをやったのは店のオーナーの息子だという話があります。そうだとすれば、これも問題ないことになります。
 
要するに実害はほとんどないので、やっているほうも罪の意識がなく、ただおもしろがってやっているはずです。
 
そう、「おもしろがる」というのがこの種の出来事のキーワードだと思います。
おもしろがるからフェイスブックやツイッターに写真をアップして、炎上してしまうわけです。
 
「おもしろがる能力」というのは、若さの属性です。年を取ると、「おもしろがる能力」がどんどんなくなっていきます。
 
おそらく「おもしろがる能力」がいちばん盛んなのは幼稚園とか小学校の年齢でしょう。これは「好奇心」と並んで、人を発達させる原動力です。
子どもが積み木を積んだり、落書きしたり、鬼ごっこしたりするのは、「おもしろがる能力」があるからです。
 
20代の若者にも「おもしろがる能力」は十分にあって、彼らはいろんなことをやって、笑ったり盛り上がったりするわけで、そうして経験を積んでいきます。
 
おもしろがる能力の少なくなったおとなは、なんであんなバカなことをするのだといって若者を批判します。
あと、若者でもおもしろがることを禁じられて育ってきた者も彼らを批判します。
 
「バカをする」というのはある意味、常識の枠を壊す創造的な行為です。ここから新しいものが生み出されるのです。
 
私は京都の出身ですが、京都には大学が多く、学生もたくさんいます。そして、京都の人は昔から、学生がバカをやったりハメを外したりすることに寛容です(最近は変わってきているかもしれませんが)
これは大学が京都にとってはたいせつな“産業”であるということもあるかと思いますが、こうした風土と、京大が多くのノーベル賞受賞者を出したこととは無関係でないはずです。
 
私は、ローソンのアイスクリーム冷蔵ケースに男性が寝そべっている写真を見たとき、ひじょうに驚きました。自分にはとても思いつかないことだったからです。
おそらく多くの人にとってもインパクトがあったのでしょう。だから、類似のケースが連続して騒がれることになったのだと思います。
 
人が思いつかないことを思いつくというのは、それだけですばらしいことです。こうしたことには素直な賛辞を贈るべきです。
 
ところが、ほとんどの人が彼ら若者にきびしい意見をいっています。
最近の日本の企業がイノベーションや魅力的な新製品を生み出せなくなったのは、こうした若者のバカを許せない人たちのせいだと思います。

麻生太郎財務相は「ナチスの手口に学べ」発言をすぐさま撤回しましたが、そのあとになっても発言を擁護する人がいます。
麻生発言はかなり支離滅裂ですから、発言の“真意”を都合よく解釈して擁護することは可能ですが、その解釈が正しいか否かは証明のしようがありません。麻生財務相本人も、発言を撤回した以上は、それ以上語ることはないでしょう。
 
では、なんのために擁護するのかというと、マスコミは発言の“真意”を正しく伝えていないという、マスコミ批判が目的のようです。
たとえば次の「産経抄」がその典型です。
 
8月3日[産経抄]
久々にぎょっとした。朝日新聞など一部メディアが繰り広げている「麻生太郎副総理ナチス発言」祭りに、である。きのうの朝日新聞を見ると、1、2面と政治、社会面、それに社説まで動員しての大騒ぎである。
 
 ▼麻生氏は7月29日、都内で開かれたシンポジウムで「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気がつかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね?」と発言した。確かに字面だけをみれば、あたかもナチスの手法を称揚しているようにみえる。
 
 ▼在米のユダヤ系人権団体が「どのような手法がナチスから学ぶに値するのか」と非難したのもうなずける。しかも、ナチスは憲法を改正も制定もしておらず、形の上でワイマール憲法は戦後まで存続していた。
 
 ▼首相経験者であり、しかも政権の柱である副総理として軽率極まりない。ただ、彼の肩を持つ義理はないのだが、前後の発言を詳しく点検し、当日会場にいた記者や傍聴者の話を聞くと、だいぶ様子が違う。
 
 ▼討論者の一人として参加した麻生氏は「(憲法改正は)喧噪(けんそう)の中で決めないでほしい」と改正積極派が多い聴衆に向かって何度も繰り返している。「ナチス発言」も彼特有の皮肉な口調で語られ、場内に笑いも起きたという。ある傍聴者は、「ナチスをたたえているようにはとても聞こえなかった」と話す。
 
 ▼朝日新聞などが、シンポジウム翌日に一行も報じていないのが何よりの証拠である。野党は召集された臨時国会で追及する構えだが、麻生氏はすでに発言を撤回している。麻生発言を奇貨として「改憲派=ナチス支持者」の印象操作をしようとしているのは誰か? ナチスが得意だったプロパガンダ(宣伝戦)に乗せられてはならない。
 
産経新聞は改憲派ですから、自分たちに都合の悪いことを書かれたために、誤報だのプロパガンダだのといっているとしか思えません。
 
いろんなブログを紹介するサイト「BLOGOS」を見ても、麻生発言擁護と、マスコミ批判の意見が目立ちます。
 
しかし、これまでマスコミは安倍政権に対してきわめて好意的でした。たとえば、6月に北アイルランドで行われたG8サミットにおいて安倍首相はオバマ大統領と会談することができませんでした。これなど、マスコミは「安倍首相はオバマ大統領に嫌われた」などと書き立ててもいいところですし、もしそうしていれば安倍内閣の支持率は10ポイントは低下していたでしょう。しかし、実際はマスコミは安倍首相のイメージダウンになるようなことはまったく書きませんでした。
今回、マスコミが珍しく安倍政権に逆風になることを書いたからといって、そのときだけ批判するのでは、ご都合主義の批判になってしまいます。
 
マスコミ批判というのはインターネットのたいせつな役割ですが、こんなご都合主義の批判がいっぱいあったのでは、ほんとうの批判が埋もれてしまうので、かえって害悪です。
 
私もマスコミ批判をしますが、それはたとえばマスコミが官庁の発表をそのまま垂れ流しにするとか、既得権益者に有利な記事を書くとか、差別的な書き方であるとか、なんらかの建設的な方向への批判であるつもりです。単に自分の考えと違うから批判するということはありません(発想の出発点に自分の考えと違うということはありますが)
 
では、今回の麻生発言批判の報道の仕方はどうかというと、最初は当然の報道の仕方だと思っていました。しかし、どのマスコミも同じように書き、しかもかなり派手に書いているということで疑問が生じました。
 
麻生発言があったのは、7月29日でした。その直後は、マスコミはほとんど批判報道をしていませんでした。しかし、ユダヤ人組織のサイモン・ウィーゼンタール・センターが抗議声明を出したことで日本のマスコミは8月2日にいっせいに批判記事を書いたのです。
 
このユダヤ人組織がどうして麻生発言について知ったのかは不明です。日本の一部のメディアが報じていたのかもしれませんし、独自のルートで知ったのかもしれません。
 
ユダヤ人組織が抗議したことで日本のマスコミが動くというのは不思議ではありませんが、その動きがあまりにも大きすぎて不自然な気がします。
 
日本のマスコミは、警察、検察、裁判所に弱いという特徴を持っていますが、もうひとつ、アメリカに弱いという特徴も持っています。
孫崎享著「戦後史の正体」には、60年安保のときに日本の新聞はアメリカの圧力を受けて「七社共同宣言」を出して安保闘争を終息させたと書いてありますが(その先頭に立ったのが朝日新聞です)、日本がアメリカに従属する国になってしまったのにはマスコミの働きが大きかったと思います。
つまり要所要所で日本のマスコミはアメリカの意を受けて日本の進路を変えてきたと考えられるのです。
これは陰謀論と見分けがつきませんが、私はかなり当たっていると思っています(たとえば沖縄の基地問題にしても、マスコミは世論が反米の方向に行くようには絶対にしません)
 
今回、マスコミが大々的に麻生発言批判をしたのは、背後にアメリカの意向が隠れている可能性があります。
アメリカは安倍政権が改憲に動くのを阻止すると決めて、そのために麻生発言を利用したのでしょう。
アメリカは日本が集団的自衛権を容認するのは歓迎するが、改憲はさせたくないということなのです。
現に安倍政権もその方向で動いていますが、麻生発言が集中砲火を浴びるのを見て、さらに改憲を先送りにすることにしたのではないでしょうか。
 
今回、日本のマスコミはいっせいに同じ方向に動きました(「産経抄」だけ空気が読めていませんでした)
それを批判するブロガーも、マスコミの動きの原因が読めていないので、的外れな批判しかできていません。
 
 
ところで、麻生財務相は改憲には批判的な立場であるようです。もしかして、改憲を阻止するためにあえてナチス発言をし、みずからそれをユダヤ人組織に通報していたとすれば……ま、これは完全な陰謀論ですが。

麻生太郎財務相が「ある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていたんですよ。あの手口学んだらどうかね」と発言しました。
問題になったために発言を撤回しましたが、撤回すればいいというものではありません。
 
それにしても、突っ込みどころが多すぎて、どこをどう批判すればいいのか困ります。麻生大臣の頭の中をのぞいてみたい気分です。
橋下徹大阪市長は「ナチスドイツを正当化した発言では決してない。国語力があれば、すぐ分かる」と擁護しましたが、これは国語力で理解できる種類の問題ではありません。政治と心理学(と脳科学?)の問題でしょう。
 
詳しい発言内容はこちらで読めます。
 
麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細
 
全体として麻生大臣が、憲法改正は静かな中で行うべきだということを述べているのは明らかです。
そして、進歩的なワイマール憲法下でヒトラーが出てきたといいます。これは麻生大臣に限らず改憲派が好んで口にすることです。ヒトラーが出てきたのは、ワイマール憲法のせいではなく、第一次大戦の戦後処理がドイツにとって屈辱的なものであったことが最大の要因ですが。
ただ、ここでワイマール憲法とヒトラーに言及したことがあとにつながってくるのでしょう。
 
ちなみにこの発言があったのは、公益財団法人「国家基本問題研究所」(桜井よしこ理事長)が主催する討論会においてです。会場の聴衆もおそらくはタカ派色の濃い人たちで、麻生大臣にとっては“ホーム”という意識があったかもしれません。
 
麻生大臣は、靖国参拝についてわーわー騒ぐ日本のマスコミを批判します。マスコミが騒ぐから中国や韓国も騒ぐのだというわけです。「あの手口を学んだらどうかね」という発言はその流れで出てきます。
ですから、麻生大臣に好意的に解釈すると、この発言はわーわー騒ぐマスコミに対する皮肉ともとれます。騒ぐマスコミは静かなナチス以下だということをいいたかったのかもしれません。
しかし、国語のテストでそう答えると、間違いなくバツです。
なぜなら「手口」という言葉を使っているからです。これはもちろんナチスが改憲した「手口」のことです。マスコミは改憲するつもりはないのですから、その「手口」を学ぶはずがありません。これはやはり改憲勢力に向けていった言葉と解釈するしかありません。
 
ナチスを正当化するのもひどいことですが、日本の改憲勢力にナチスの真似をしろといっているのですから、もっとひどいことかもしれません。
 
事実誤認もあります。靖国参拝についてマスコミが騒ぐから中国や韓国も騒ぐのだということは、かつて安倍首相もいったことがありますが、事実は、1978年に靖国神社がA級戦犯を合祀し、1980年に自民党が参院選の公約に「公式参拝」「国家護持」を掲げたことで政治の争点となり、1985年8月15日、中曽根康弘首相が「公式参拝」を公言して玉串料を公費から支出して参拝したことでさらに騒ぎが拡大したのです。つまり自民党が仕掛けて騒ぎを起こし、静かに参拝する環境をみずからなくしているのです。
 
「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった」というのも変ですが、これも好意的に解釈すれば、憲法そのものは変えなかったということをいいたかったのかもしれません(ナチスは全権委任法というのをつくって憲法を骨抜きにした)
 
ここで冷静になって考えると、戦後日本がやってきたことは、憲法そのものは変えずに解釈改憲を積み重ねて自衛隊を強化するという手法です。これはまさにナチスの「手口」に似ています。
つまり戦後の自民党政府はずっと静かに憲法の骨抜きをはかって成功してきたのですが、ここにきて路線転換して改憲を目指すことにしたために騒ぎが起きているのです。マスコミが騒ぎを起こしているのではなく自民党が起こしているのです。
 
そして、今回の麻生大臣の発言によって、さらに騒ぎが拡大してしまいました。「ナチスの手口に学べ」という発言は、世界中から警戒されるものです。もちろんアメリカからもさらに警戒されるでしょう。
これで改憲は事実上不可能になったのではないかと私は思います。
 
国内の政治では野党が弱体化してしまいましたが、その代わりを“ガイアツ”がしてくれるという皮肉な展開です。
 
 
ところで、改憲派の多くは軍国日本を正当化したいという思いを持っています。
そのため、当時の侵略を侵略と認めず、外国から歴史修正主義として批判されたりします。
慰安婦問題にしても、謝るしかないものですが、軍国日本がやったことですからむりやり正当化しようとして、ドツボにはまってしまいます。
 
東京裁判は正当性が疑われるものですが、軍国日本を批判するのは、東京裁判とは無関係です。当時の軍は満州事変も支那事変も勝手に起こし、暴走を続けた挙句に大敗北して、日本人に塗炭の苦しみを味わわせたのです。これを批判しないなど日本人としてありえないことです。
 
軍国日本を正当化する人は、当然同盟国であったナチスドイツも正当化しようとします。麻生大臣の発言は、そういう意味で必然的に出てきたものだといえます。
 
今回の麻生大臣の発言をきっかけに、改憲派もナチス批判の立場は確認したことと思います。
改憲派が次にするべきことは、軍国日本を批判するのか正当化するのか、立場をはっきりさせることです。

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