村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2013年09月

ニール・ブロムカンプ監督の「エリジウム」を観ました。
ニール・ブロムカンプ監督といえば「第九地区」で強烈な印象を残しました。今までのSFにはなかった発想の映画でした。
 
SFはもともと英米を中心に発達してきたジャンルです(あと旧ソ連とフランスが少しあるぐらい)。ですから、どうしても英米的な発想になってしまいます。宇宙人といえば、高度な知性を持った神に近いような存在か、一方的な侵略者か、あるいは人類と対等な知性を持った存在かということになります。ところが、「第九地区」では、宇宙人がゲットーに囲われた差別される存在として描かれたのです。
 
こんな発想が可能だったのは、ブロムカンプ監督が南アフリカの人だからでしょう。巨大宇宙船に乗ってやってきた宇宙人ですから、それなりの知性を持っているはずなのに、地球では差別されてしまう理不尽さは、ブロムカンプ監督が間近に見てきたアパルトヘイトへの実感でもあるでしょう。
 
「第九地区」の次回作である「エリジウム」もまた、英米を中心とする文明社会への強烈な批判となっています。
 
(「エリジウム」オフィシャルサイトのストーリー説明)
舞台は2154年、人類は二分化されていた。エリジウムと呼ばれる、汚れ無き人造スペースコロニーに住む富裕層と、人口過剰で荒廃した地球に住む貧困層とに。地球の住民は、蔓延する犯罪と貧困から逃れようと必死だった。この二極化した世界の平和の架け橋となる唯一の人物、それはマックス(マット・デイモン)だ。平凡な彼には、エリジウムになんとしても行かねばならない理由があった。不安定な状態の中、デラコート長官(ジョディ・フォスター)と強硬な軍隊に立ち向かうという危険な任務を彼は仕方なく受け入れる。自分の命はもとより、地球上の全人類の未来のために!
 
要するにこれは極限の格差社会が舞台になっているわけです。エリジウムには、そこに入るだけでどんな病気やケガも治ってしまう医療ポッドがありますが、地上の貧困社会ではかなり低レベルの医療しかありません。この極端な差は現実的でないような気がしますが、今のアメリカではお金がないためにまともな医療が受けられない人がいて、そういう人にとっては、この極端な差のほうにリアリティが感じられるのかもしれません。
 
主人公のマックスは、今は工場で働いていますが、前はやり手の自動車泥棒でしたし、周りの人間も犯罪者みたいな連中ばかりです。バスに乗るときや工場に入るときには徹底的な持ち物検査が行われています。
一方、エリジウムといわれるスペースコロニーでは、富裕層が優雅な生活を送っています。
 
今のアメリカでは、ゲーティッドシティといって、壁に囲われた富裕層の住む町がふえています。一方、壁の外の一般社会や貧困社会では、犯罪対策として監視や取り締まりや厳罰化が進行していますし、学校ではゼロ・トレランスといって、厳格な規則と厳罰によって生徒を管理するというやり方がふえています。これらが極限まで進行したのが「エリジウム」で描かれる社会というわけです。
 
ブロムカンプ監督は旧来のSF映画を批判する意図を明確に持っているに違いないということが、ジョディ・フォスターのキャスティングからうかがわれます。ジョディ・フォスターは「コンタクト」というSF映画で正義の科学者役を演じていましたが、この映画ではエリジウムの防衛省長官の役で、不法移民を冷酷に殺してしまう悪役です(ちなみに「コンタクト」の原作は一流の科学者でもあったカール・セーガンのベストセラー小説)
 
また、この作品にはロボット警官が出てきて、銃を撃ちまくって人を殺します。SFにはアイザック・アシモフ(この人も作家で科学者)の有名なロボット三原則というのがあり、ロボットは人を殺さないことになっています。もちろんロボット三原則はすっかり過去の遺物です。アメリカはロボット兵器をどんどん開発しています。
 
昔、アポロが月に到達したとき、現実がSFを超えたとよく言われましたが、ロボット兵器の登場は、現実がSFを悪いほうに超えてしまったわけで、古いSFファンとしては複雑な心境です。
 
私はどうしても社会批判とかSF的価値という観点からこの映画を見てしまいますが、実際のところはほとんどアクション映画といってもいいぐらい派手なアクションの多い映画ですから、普通に見て楽しめるでしょう。
ただ、どんどん敵を倒していく爽快感みたいなものはあまりありません。主人公はきわめて劣悪な環境で生活していて、敵との戦いも不利な状況で、絶望の崖っぷちで戦っているようなものだからです。
 
ストーリーはかなり荒っぽいといえます。たとえば、そんな極端な格差社会をどうやって打破するのかというところなど、かなりご都合主義です。
 
ともかく、今年3月に公開された「クラウドアトラス」もそうでしたが、正義のヒーローが活躍するだけの単純な映画ではなく、社会批判を含む映画がハリウッドでつくられるようになったのはうれしいことです。
 
 
ところで、この映画をやっていた映画館で、トム・ハンクス主演の「キャプテン・フィリップス」という映画の予告編をやっていました。ソマリア沖で海賊に襲撃された船の船長の活躍を描いた映画で、「オバマ大統領も感動した勇気の実話」というキャッチコピーがあります。
この映画では海賊は完全な悪役として描かれているようです。しかし、ソマリアの海賊にもそれなりの事情があるのです。そもそもはアメリカがソマリアの内戦に中途半端に軍事介入して(「ブラックホーク・ダウン」という映画に描かれています)、その結果、崩壊国家になってしまったのです。
「エリジウム」では主人公は元自動車泥棒ですし、仲間たちも犯罪者です。勧善懲悪の図式では、悪人の側に立った映画です。
ブロムカンプ監督がこの海賊事件を描いたら、まったく別の物語になるのではないかと思います。それを見てみたいものです。

アルバイト店員が悪ふざけ行為の写真をネットにアップして炎上する事件は、さまざまな問題をあぶりだしましたが、そのひとつは、日本人の過剰な潔癖性です。
バイト店員が冷蔵庫に入ったというだけで、その店を閉鎖してしまったところもありました。これはそのチェーン店本部の判断ですが、そう判断させるような世間の反応があったともいえます。つまり、少しでも不潔なイメージのある店には行きたくないという人が多いのでしょう。
 
清潔であることは快適ですし、感染症の予防にもなりますから、人類は文明の進歩とともに清潔さを求めてきたといえるでしょうが、いつの間にか一線を越えて、今では清潔さを求めるためにかえって不幸になっているような気がします。
 
たとえば、「発言小町」に次のような投稿がありました。
 
 
便器の中で換気扇フィルターを洗う彼  おりみなと 2013911 21:18
 
 30代、独身です。
お付き合いしている彼氏がうちに遊びにきた時のことです。
マンションで一人暮らしの私。浴室の換気扇フィルターなんて高くて手が届かないし面倒だしで、掃除したことがなかったのですが、高身長の彼氏が「掃除してあげる」と言い出しました。
「ありがとう!」と大感謝しながらお任せして、私は夕食の準備にとりかかっていると、
 
トイレの方から物音が、、
 
彼、水洗トイレの中で換気扇フィルターを洗っていたのです。
じゃぶじゃぶと、、
 
正気を失う私、
キョトンとする彼。
 
彼曰く、「きちんと掃除してるんだから別に綺麗だ。排水口とかの方がよっぽど不潔」と。
「大腸菌とか嫌じゃん!」と私が主張しても「気にしすぎだ」と言って取り合ってくれませんでした。
 
 
彼は優しくて大好きなのですが、あまりにも違う感覚に、今後同棲や結婚など視野に入れていくことに自信を失っています。
彼は私の方が非常識だと言わんばかりの勢いです。
 
私のほうがずれていますか?
皆さん、どう思われますか??
 
 
水洗トイレの便器で換気扇フィルターを洗うという発想にインパクトがあります。コンビニのアイスクリームの冷凍ケースに入るというのに似ている気がしました。どちらもなかなか思いつきません。
 
便器で換気扇フィルターを洗うというのはなかなかいい方法のように思えましたが、この投稿者は今後つきあっていく気をなくしそうですし、この投稿に対するコメントは、95%ぐらいが「ありえない」というものです。5%ぐらいが「だめなことを論理的に説明できない」とか「豪快だ」ということを書いていますが、それでも結論は「自分にはむり」というものです。
つまり100%近くが否定的なのです。
 
私がこのことで思い出したのは、小学生のころ、「便所の水はきたない」と言われていたことです。
小学生ですから、喉が渇くと、学校や公園のトイレの手洗い場の水道の水を飲む子がよくいました(昔はあまり水飲み場もなかったので)。それに対しておとなは、「便所の水はきたない」と言って、やめさせようとしました。
「便所の水」といっても水道の水です。私は子どもながらに、水飲み場の水も台所の水も便所の水も同じではないかと思いました。父親が理系の人間で理屈っぽかったことの影響もあったかもしれません。
 
厳密に言うと、トイレの空気には大腸菌がトイレの外よりも多く漂っているかもしれませんが、蛇口のすぐ下に口を持ってきて水を飲むのですから、ほとんど関係はないはずです。
 
換気扇フィルターを便器の中で洗うのも似たようなものです。きたない気がするだけです。大腸菌は多少多いかもしれませんが、気になるなら、仕上げに風呂場か台所の水道の水ですすげばいいのです。
 
とはいえ、「便所の水はきたない」という心理は十分に理解できます。他人の排泄物というのはつねに伝染病の可能性があるので、接触したくないというのはおそらく本能的なものです。そこから便所にまつわるものすべてを避けたいという心理が出てくるのでしょう。
 
私も大きくなってからは便所の水を飲んだりはしません(高校の部活で水飲み禁止だったときに隠れて飲んだぐらいです)。上履きと下履きを区別するのと同じような感覚で、飲む水と飲まない水を区別しています。
 
ですから、投稿者が彼氏の換気扇フィルターを便器の中で洗うという行動に引いてしまったのも理解できます。
しかし、彼の行動も理解できます。
汚れた換気扇フィルターを、たとえば風呂場で洗えば、風呂場の床が汚れてしまい、その後始末がたいへんです。便器で洗うというのはうまいやり方です。さっきも言いましたが、気になるなら最後に風呂場か台所ですすげばいいのです。
 
彼は進んで換気扇の掃除をしてくれる人間です。たぶんトイレ掃除もいとわずにしてくれるでしょう。少なくともこの点に関しては、明らかに好ましい人間だと思われます。
 
男女の相性に衛生感覚は大きな要素です。彼が週に1度しか風呂に入らないのでがまんできないというのであれば、別れてもしかたないでしょう。しかし、換気扇フィルターの掃除なんて年に1回か2回でしょうから、そんなことで別れていては、せっかくのいい男を取り逃がしてしまいます。
 
清潔さを求めるのは、感染症を防ぐために進化の過程で形成された本能からきていると思われますが、性行為というのはその本能に反しています。性行為は感染症の危険を伴うからです(それに、性器と尿道はほとんど一体ですし、肛門もすぐ近くだし)。ですから、恋愛感情が生じるとともに、その相手には清潔を求める本能が消滅します。また、赤ん坊に対する母親も清潔を求める本能が消滅します。だからこそ人類は子孫を残すことができてきたのです。
 
ですから、この投稿者も、もう少しつきあって恋愛感情が高まっていれば、彼の同じ行動が「不潔」ではなく「たくましい」とか「かわいい」とかのプラスの評価に変わっていたかもしれません。
今からでも、そのままつきあって愛情が高まれば気にならなくなる可能性があります。少なくとも、彼のたったひとつの行動を理由に別れるのは愚かなことだといえます。
 
ともかく、不潔を気にしていたらセックスもできないし子育てもできません。
ですから、「潔癖と愛情は反比例する」という法則があるといえます。
「愛は不潔を乗り越える」といってもいいでしょう。
 
夫の下着は分けて洗濯機に入れるという妻がいます。夫の下着は箸でつまむという話もあります。これはもちろん夫への愛情のなさを意味しています。夫を愛していればこんなことはありません。
 
愛情がないから潔癖になるということがある一方で、潔癖だから愛情がなくなるということもあるはずです。彼の換気扇フィルターを便器で洗うという行動に愛情が冷めてしまうというのもその一例です。
 
ですから、潔癖な母親というのはあまり子どもを愛していないのではないかということになります。少なくとも、子どもの側はそうとってしまってもおかしくありません。
そうして育てられた子どもは、異性関係に消極的な“草食系”になりがちだと思います。
また、子どものアトピーは、幼児期にあまりにも清潔な環境で育てたために発症するのだという説もあります。
 
あまりにも潔癖な人は、下の世話を伴う老人の介護もできないということになります。
 
ですから、これからは潔癖ではなくむしろ“不潔への耐性”を育んでいく必要があります。
 
“不潔への耐性”がない人は、なにかの災害が起こったときの被災生活でも困ってしまうでしょう。
 
冷蔵庫にバイト店員が入ったというだけで店を閉めてしまうというのは、どう考えても過剰反応です。
これを機会に、潔癖よりも“不潔への耐性”を育てる方向に転換したいものです。 

前の東京オリンピックがあったのは私が中学2年生のときですが、子ども心にもおかしいと思ったのが聖火リレーというやつです。
「聖火」といっても、火に違いのあるわけがありません。聖火リレーの途中でトーチの火が消えた場合、マッチやライターで火をつけ直したらなにがいけないのか。同じ火ではないかと思いまし。
とはいえ、そんなことは誰だってわかっているわけです。わかっていながらやっているのだから、こんなことはおかしいと主張するのもおとなげないということになります。
それでも、なにかもやもやとした気分が残るのも事実です。
 
そうしたところ、聖火リレーが初めて行われたのは1936年のベルリンオリンピックだということを知りました。つまりこれは、麻生太郎財務相の言葉を借りれば「ナチスの手口」なのです。ナチスのオカルト趣味に由来するということがわかって、納得がいきました。
近代オリンピックといいながら、近代的合理主義とは相容れないオカルト趣味がまぎれ込んでいたのです。
 
京都の八坂神社では、大晦日から元旦にかけて、神前の火を参拝者が火縄につけて持ち帰り、その火で雑煮をつくる「おけら参り」という風習があります。これなどまさに「聖火」ですが、あくまで宗教的なことです。
宗教と関係ないはずのオリンピックに「聖火」が存在するというのは、やはり妙なことだといえます。
オリンピックは世界的な行事なのですから、政教分離にならって、“スポ教分離”が行われていいはずです。
 
とはいえ、聖火リレーはオリンピックを盛り上げるのにはなかなか有効なイベントだといえます。
最近は国体でも聖火リレーが行われています。
といっても、国体の場合は「聖火」とはいわず「炬火」(きょか)といいます。
オリンピックの聖火はギリシャのオリンポス山で採火されますが、国体の炬火は適当な場所で採火されるようです。
ちなみに今年の国体は東京都で9月28日から行われますが、炬火の採火イベントは各区市町村で行われ、それぞれの火を炬火リレーで集めて、その火で開会式において炬火台に点火することになります。
どうやって採火するかというと、木の摩擦熱を利用するまいぎり(舞錐)方式で行われるということです。
 
ところで、最近のオリンピックの聖火リレーは世界的規模で行われていましたが、2008年の北京オリンピックのときは、中国のチベット弾圧に抗議する運動で聖火リレーが妨害され、そのためIOCは世界規模の聖火リレーは廃止し、主催国内のみで行うことを決定しました。
ですから、次の東京オリンピックでの聖火リレーは国内だけとなるわけです。
 
しかし、オリンピック憲章で「オリンピック聖火とは、IOCの権限の下にオリンピアで点火された火をいう」と規定されているので、おそらくIOCの役員が火のついたランプかローソクをかかえて、飛行機に乗って運んでくるのでしょう。なんだかバカバカしいことです。
 
なぜギリシャのオリンポスで採火しないといけないのでしょうか。
 
ヨーロッパにはギリシャ文明至上主義みたいなものがあります。それがヨーロッパ文明至上主義につながり、植民地主義、アメリカの黒人奴隷制などにつながっていったのです。近代オリンピックもその流れをくんでいます。
 
また、国際オリンピック委員会(IOC)の委員の配分はヨーロッパに偏っています。
ウィキペディアの「国際オリンピック委員会委員一覧」によると、次のようになっています。
 
20126月現在、IOC委員の数は111名。
ヨーロッパ(EOC) - 47
アジア(OCA) - 24
パンアメリカン(PASO) - 20
アフリカ(ANOCA) - 15
オセアニア(ONOC) - 5
 
人口比率を考えると、アジアの委員の数は圧倒的に少ないですし、経済力を考えるとアジアとパンアメリカンの委員の数が少ないことになります。
“スポーツ力”とか“スポーツ水準”によって委員が配分されているのだという説があるかもしれませんが、ロンドンオリンピックのメダル獲得数はアメリカが1位、中国が2位です。
つまり、どう考えてもIOC委員の配分はヨーロッパに偏りすぎています。
 
確かに近代オリンピックは古代ギリシャに起源があるとされ、もともとヨーロッパ的なものですが、今では全世界的なイベントになったのですから、ヨーロッパ偏重は改めなければなりません。
ただ、委員の配分というのは既得権益ですから、そう簡単に変えられないでしょう。そこで、日本はとりあえず聖火の採火場所はギリシャのオリンポスではなく主催国内で行うべきだと主張すればいいのではないでしょうか。
日本の場合、国体の方式を見習って、富士山頂とか高天原とか原爆ドームとか知床とか、いろんなところで聖火の採火式を行い、それを聖火リレーして、それぞれの火をひとつにまとめて開会式で点火するというやり方が盛り上がると思います。
 
採火をギリシャのオリンポスでやらないということについては、ヨーロッパなどの委員が反対するでしょう。そのときにはオリンポスでの採火は「ナチスの手口」だと主張すると、言い分が通りやすくなるのではないでしょうか。
 
また、東京オリンピックの2年前に韓国の平昌で冬季オリンピックが行われるので、韓国と日本が共闘してオリンピックのヨーロッパ偏重を是正していくのがいいでしょう。共通の目標があると、日韓友好も進めやすくなります。
開会式の入場行進でギリシャが先頭に立つという習わしも、欧米人以外には無意味なことですから、やめてもらいたいものです。
 
日本が韓国や中国とうまくやっていけないのは、実は日本が欧米に対してものが言えないからです。日本が欧米に対して植民地主義を反省しろと言えるようになれば、自然と日本は韓国や中国とうまくやっていけるようになります。
とりあえずオリンピックの聖火を取り上げて、欧米に対してものを言う練習を始めるのがいいのではないでしょうか。

みのもんた氏の次男(31)が窃盗未遂容疑で逮捕され、みのもんた氏はTBS系の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」の出演を自粛すると発表しましたが、これについて論争が起きています。
みのもんた氏の次男が実際に犯罪行為をしたのかは今の時点でわかりませんし、みのもんた氏はほかに女子アナへのセクハラ疑惑もあって、問題は複雑です。ただ、今論争の的になっているのは、親は31歳にもなった子ども(あるいは20歳以上の子ども)の行為に責任があるのか、ということです。
 
ちょうど「週刊現代」10月5日号が「大論争 みのもんたは責任を負うべきか、否か」という記事を掲載していて、何人もの有識者の意見が紹介されていますが、ほとんどの人は親に責任はないという意見です。「大論争」という記事のタイトルに引かれて読んだ人は肩透かしを食います。
とはいえ、世の中にはみのもんた氏をバッシングする意見が多いので、世の中では「大論争」が起きているのも事実です。
 
ただ、みのもんた氏は芸能人であり、かつ報道番組の司会者でもあるので、その点は「親は20歳以上の子どもの行為に責任を負うべきか」という一般的な問題と分けて論じなければなりません。
たとえば、三田佳子さんの次男が覚せい剤取締法違反で逮捕されるということがありましたが、そのときに、みのもんた氏は三田佳子さんの「親の責任」を追及したかもしれません。また、ほかの出来事でも、芸能人の道義的責任を追及したかもしれません。だとすると、みのもんた氏が今回責任を追及されてもしかたがないということになります。
 
ですから、みのもんた氏も「みのもんたの朝ズバッ!」(及び「みのもんたのサタデーずばッと」)の出演を自粛すると発表したのです。ほかのバラエティ番組などは自粛しないということです。
 
つまり、みのもんた氏は報道番組出演を自粛したこと以外、なにも責任を取っていないのです。そして、そのことを批判する人は、「週刊現代」の記事もそうであったように、ほとんどいません。
 
では、世の中で「大論争」が起こっているように見えるのはどういうことかというと、例によってネットでの匿名の批判と週刊誌による暴露報道が盛り上がっているからです。みのもんた氏の次男の過去の行状とか、テレビ局にコネ入社だったとか、みのもんた氏の高収入とか豪遊ぶりとか、セクハラ疑惑とか、批判のネタにはこと欠きません。
しかし、有識者などはほとんどが「親は20歳以上の子どもの行為に責任はない」という意見のようです。
 
「親は20歳以上の子どもの行為に責任はない」というのは社会通念です。
ということは、逆にいえば「親は20歳未満の子どもの行為に責任がある」ということになるはずですが、実際そうなっているでしょうか。
 
子どもが野球をしていて、ボールがどこかの家の窓ガラスを割った場合、子どもに賠償能力がないので、親が代わりに賠償することになります。これは常識です。
また、小学校5年生の起こした自転車事故で被害女性が今もいわゆる植物状態となっているケースで、神戸地裁は7月4日、少年の母親に対して9500万円の損害賠償を命じる判決を下して、話題となりました。これも子どもの行為の責任を親が負った(負わされた)例です。
 
しかし、これらはいわゆる民事です。
刑事については、親に責任が負わされることはありません。
 
子どもが万引きをした場合、親がその店に謝罪して弁償するということはありますが、親の刑事責任が問われているわけではありません。
 
近年、少年の起こした犯罪は厳罰化傾向にありますが、20歳未満の少年の犯した罪が懲役10年に匹敵するとなれば、親が少年の代わりに10年服役することになるはずです。少なくとも民事ではそういう論理で判決が出ています。
あるいは子どもと親が5年ずつ服役するということがあってもいいはずですが、もちろんそんな話は聞いたことがありません。
 
光市母子殺害事件では、犯行当時19歳だった少年について、被害者遺族の本村洋氏がマスコミで大いに語ったこともあって世論は厳罰を要求し、最高裁で死刑判決が確定しました。しかし、このとき少年の親の責任を問う声はありませんでした。母親はすでに自殺していましたが、父親は少年を小さいころから虐待していたのです。
 
(これについて私は「光市母子殺人事件・死刑囚の真実」という記事を書いています)
 
20歳未満の少年が犯罪をした場合、親は免責され、少年だけが刑務所や少年院に入れられ、ときには死刑になるというのが現実です。
 
つまり、親が子どもの行為の責任を取るのは、20歳未満の子どもの場合で、しかも民事など限られた部分だけです。子どもが20歳以上になれば、親はいっさい免責されます。
 
これは“バカ親天国”というべきでしょう。子どもがたとえ殺人者になっても親は罪を問われないので、バカ親のやりたい放題です。
 
もっとも、これに対しては、「子どもは親と別人格なのだから親の責任が問われないのは当然」という反論があるでしょう。
確かに親と子は別人格ですが、親は子どもを立派な人格の人間にするべく教育・しつけをしてきたはずです。その結果、立派な人格にならなかったら、その責任は誰にあるのでしょうか。
当然、子どもではなく親にあるはずです。
これは「教育責任」という言葉で表すことができるでしょう。
 
親が子どもに、規則や法律を守る、人に迷惑をかけないといったことを教育し、その結果、子どもが規則や法律を破り、人に迷惑をかけるおとなになったら、親の「教育責任」が問われることになります。
 
「教育責任」は、子どもが20歳以上になればなくなるというものではありません。むしろ逆で、子どもがおとなになったときに生じるものです。子どもが小さいうちは、「まだ教育の途中ですから」という言い訳が通用します。
 
日本では1995年に「製造物責任法」が施行され、製造物の欠陥によって損害が生じた場合は製造者の責任が問われることになりました。
しかし、「教育責任法」はいまだ存在しないので、親は子どもを思いやりのある人間にしたい、人に迷惑をかけない人間にしたい、東大に入れたい、音楽家にしたい、医者にしたい、巨人の星にしたいなどと好き勝手に教育目標を掲げて教育し、その結果、ろくでもない人間になったり、犯罪者になったりしても、「親と子どもは別人格。20歳すぎれば親に責任はない」という言い訳が通用して、いっさい責任は問われません。
 
これはどう考えてもおかしな理屈ですが、有識者も誰もこのことを指摘しません。
なぜかというと、有識者もたいてい親であり、かつ社会的ステータスもみのもんた氏に近く、自分の責任が問われるようなことにはしたくないからです。
 
「教育責任」ということを考えた場合、みのもんた氏は子どもの教育をしてきたでしょうから、当然責任を問われることになります(氏の次男が犯罪行為をするようなだめな人間であるということが前提ですが)
そして、どのように教育してきたかということが明らかになれば、世の親にとって他山の石となるでしょう。
 
 
子どもがおとなになっても親の「教育責任」が問われるという考え方に納得のいかない人もいるでしょう。
というか、誰でも自分の子どもの行為であっても、自分の責任は追及されたくないでしょう。
だったら、子どもを教育しなければいいのです。
もちろん、子どもが生きていくために必要な知識などは教えなければなりませんが、子どもの人格、性格、人間性には触れなければいいのです。
そうしたら、「親と子どもは別人格」と主張することができますし、子どもがどんな人間になっても、かりに犯罪者になっても、親に責任はないことになります。
実に簡単な理屈です。
 
そもそも、落ち着きのある子にしたいとか、強い子にしたいとか、嘘をつかない子にしたいとか、勉強には意欲的で遊びには意欲的でない子にしたいとかいうのはすべて親の邪心や利己心であって、子どもの人格形成のさまたげです。どんな子であれそのまま受け入れるのが親の愛というものです。

前回の「気恥ずかしい『おもてなし』」という記事を書いたあと、いろいろと考え直すことがありました。
 
その記事で、滝川クリステルさんがプレゼンで言った「おもてなし」という言葉に違和感があると書きましたが、そのときは自分自身が国際感覚のない人間なので、もしかして自分の感じ方がおかしいかもしれないという気がして、歯切れの悪い書き方になってしまいました。しかし、よく考えてみると、やはり「おもてなし」という言葉をプレゼンで打ち出すのはへんです。
 
そもそも日本人は外国人と接するのが苦手です。親切心はあっても、シャイな上に英語が下手なのです。英語で道を聞かれると逃げてしまう人もいるぐらいです。庶民的な飲食店や商店も外国人に対応できない場合が多いと思います。「おもてなし」を期待した外国人がたくさん来日すると、多くの日本人が困ってしまいます。そういう意味で、「おもてなし」の言葉や、それを外国人にアピールするクリステルさんの姿に違和感を覚えてしまうのです。
 
それに、わざわざ日本語の「おもてなし」という言葉を使ったのは、外国人の持つゲイシャ・ガールのイメージや、映画「ショーグン」の島田陽子さんのイメージなどを利用しようという狙いがあったのではないでしょうか。つまり外国人の持つ日本人のイメージに合わせているわけで、そういう意味では、長友選手がお辞儀パフォーマンスをするのに通じるものがあり、それも不愉快に感じる理由だと思います。
 
ですから、私が「おもてなし」に違和感や恥ずかしさを覚えたのは、それなりに正当性があると思います。
 
 
それから、私は1964年の東京オリンピックの経験を念頭にいろいろ考えたのですが、さすがに50年近くたつと世の中変わってしまいます。なにが変わったかというと、昔の東京オリンピックのときは日中も日韓も国交回復以前だったので、中国や韓国からの来訪客はほぼゼロでした。ほかのアジアの国も貧しかったので、ゼロに近かったでしょう。要するにオリンピック観戦にくる外国人のほとんどは欧米人だったのです。
そのため私は、オリンピックにくる外国人というとどうしても欧米人を連想してしまいました(クリステルさんらのプレゼンも主に欧米人を意識したものでした。IOC委員は欧米人が多いからです)
 
しかし、2020年の東京オリンピックに来る外国人は、圧倒的に中国韓国を中心とするアジア人になるはずです。
ちなみに今年の1月から7月までの訪日客の国別ランキングは次のようになっています。
 
韓国 26.3%
台湾 21.3%
中国 11.4%
米国 7.9%
香港 7.1%
 
7年後にはもっとアジア人の比率がふえているはずです。
ですから、「おもてなし」の対象も、ほとんどアジア人になるのでした。
 
ともかく、2020年の東京オリンピックは、2018年に韓国の平昌で行われる冬季オリンピックと併せて「アジアの時代のオリンピック」と位置づけられるでしょう。
ですから、日本はオリンピックのためにも中国韓国との関係改善をはからねばなりませんし、すでにそういう動きも出ています。しかし、これは嫌韓・嫌中の人にはがまんができないようです。
 
 
日韓が五輪で「全面協力」の報道、18年冬季と20年夏季 ネットでは「ふざけるな!」と大荒れ「祭り」に
 
   日本と韓国が2018年に韓国の平昌(ピョンチャン)で開催される冬季五輪と、20年の東京オリンピックで成功に向け「全面協力」を行うと2013910日に報道された。
 
   ネットではこの報道に対し批判が渦巻いていて、掲示板「2ちゃんねる」では「ふざけるな!」「韓国に食い物にされるだけ!」などといった書き込みが大量にあふれ盛大な「祭り」に発展している。
 
冬季オリンピック2度開催の日本は韓国にノウハウを提供
 
   共同通信などによれば、日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長と韓国オリンピック委員会(KOC)の金正幸会長が1399日にブエノスアイレスで会談し、18年の冬季五輪と20年の夏季五輪を成功させるため全面的に協力することで合意した、と報道した。日本は冬季オリンピックを2度開催しているためそのノウハウを韓国に提供。韓国は12年のロンドン五輪で日本の倍近い金メダルを獲得した実績があり、両国の選手の交流を進めることで日本選手の実力アップを図ることなどが狙いだと書いている。
 
   両国の政治的関係がしっくりいっていない現状はあるが、スポーツは別で、むしろこうした協力は、
 
「両国の関係を好転させることができると確信する」
 
と韓国の金正幸会長が述べているのだ。
 
   朝日新聞も同日付の社説で、五輪は「平和の祭典」だから外交関係が揺れる中国や韓国ともわだかまりなく交流できる雰囲気作りは欠かせないし、18年には平昌で冬季五輪があるからこの好機を逃さずに官民挙げての友好をめざしたい、と手を取り合って互いのオリンピックを成功させようと呼びかけている。
 
   ところがネットでは、朝日新聞の社説とJOCKOCの「全面協力」の記事について大反発が起こっていて、掲示板「2ちゃんねる」の「祭り」に発展。JOCや共同通信、東京都庁、文部科学省の電話番号やついったーアカウントを晒して「抗議をしよう」など大荒れの状況だ。
 
韓国では今も「東京五輪は中止させるべき」と言っていると反発
 
   ネットには、
 
「日韓戦で日本人が韓国人から暴行受け続けている。今回も五輪招致で妨害受け、いままでの借金もかえさない連中に、なに媚売ってんだ!」
 「韓国は東京五輪をボイコットするんじゃなかったの?あれだけ妨害活動しておいて、今でもクサしているじゃないか」
 「竹田会長はバカですか?後ろからバットで殴ってきた国となに協力なの??」
 「また金を融資してもらい、ほとぼりが冷めたら反日を繰り返すだけの連中。その前に仏像を返せ」
 
などといった書き込みが出ている。
 
   また、東京オリンピック開催が決まった1398日から韓国内で「東京五輪は中止させるべき」「世界各国にボイコットさせよう」などといった呼びかけが起こり、福島第一原発の汚染問題を皮肉った東京五輪を蔑むようなパロディポスターが作られているとネットで取りざたされ、いくつもの写真がアップされている。夏季オリンピック開催地の決定直前に韓国は、東京電力福島第1原発の汚染水漏洩問題を理由にし、日本の8県から水産物輸入を全面的に禁止すると発表したことなども、「全面協力」を否定する感情を生んでいるようだ。
 
   もっとも韓国政府は東京開催の決定を受け、劉震竜(ユ・ジンリョン)文化体育観光相が下村博文文部科学相に祝電を送り、また、李丙ギ(イ・ビョンギ)駐日韓国大使も岸田文雄外相に五輪開催決定を祝うメッセージを送ったと報道されている。
 
ともかく、嫌韓嫌中の人にはこれから逆風が吹きそうです。日本は中国や韓国にオリンピックをボイコットされては困りますし、できるだけたくさんの客に来てもらわなければなりません。嫌韓嫌中の主張は、「オリンピックを成功させたくないのか」と反論されるとやりにくくなります。
 
「おもてなし」の言葉は嫌韓嫌中の人たちにこそ有効かもしれません。

2020年夏季オリンピック開催地が東京に決まりました。
私はイスタンブールがいいと思っていたので、残念です。トルコでのオリンピック開催は初めてですし、イスラム圏初、中東初でもあるので、歴史的な意義があったはずです。
また、経済効果をいうなら、失業率の高いスペインのマドリードのほうが東京より効果的なはずです。
 
私が東京開催を歓迎しない理由はほかにもあります。私は64年の東京オリンピックと70年の大阪万博を経験していますが、その経験からいやな予感がしているのです。
そして、その予感は早くも現実のものになろうとしています。
 
滝川クリステルさんはブエノスアイレスのIOC総会で行った最終プレゼンで、「おもてなし」という言葉で東京のよさをアピールしました。「おもてなし」を発声する部分はニュースでよく取り上げられましたが、その全文を紹介します。
 
 
東京招致委最終プレゼン全文 滝川クリステル
 
 東京は皆様をユニークにお迎えします。日本語ではそれを「おもてなし」という一語で表現できます。
 
 それは見返りを求めないホスピタリティの精神、それは先祖代々受け継がれながら、日本の超現代的な文化にも深く根付いています。「おもてなし」という言葉は、なぜ日本人が互いに助け合い、お迎えするお客さまのことを大切にするかを示しています。
 
 ひとつ簡単な例をご紹介しましょう。もし皆様が東京で何かをなくしたならば、ほぼ確実にそれは戻ってきます。例え現金でも。実際に昨年、現金3000万ドル以上が、落し物として、東京の警察署に届けられました。世界を旅する7万5000人の旅行者を対象としておこなった最近の調査によると、東京は世界で最も安全な都市です。
 
 この調査ではまた、東京は次の項目においても第1位の評価を受けました。公共交通機関。街中の清潔さ。そして、タクシーの運転手の親切さにおいてもです。あらゆる界隈(かいわい)で、これらの資産を目にするでしょう。東洋の伝統的な文化。そして最高級の西洋的なショッピングやレストランが、世界で最もミシュランの星が多い街にあり、全てが、未来的な都市の景観に組み込まれています。
 
 私が働いているお台場は、史上初の“ダウンタウン”ゲームズを目指すわれわれのビジョンの中心地でもあります。それは都心に完全に融合し、文化、生活、スポーツがユニークに一体化します。ファントレイル、ライブサイト、チケットを必要としないイベントが、共有スペースにおいて多くの競技会場を結び、素晴らしい雰囲気を創り出します。
 
 来訪者全てに生涯忘れ得ぬ思い出をお約束します。
 
 
私はこのプレゼンにひじょうに違和感を覚えます。気恥ずかしいといったほうがいいでしょうか。
 
プレゼンですから、日本のよさをアピールするのは当然ですが、事実をゆがめるのはよくありません。たとえば、「もし皆様が東京で何かをなくしたならば、ほぼ確実にそれは戻ってきます」というのは表現が大げさです。また、「最近の調査」を根拠としているとはいえ、「タクシーの運転手の親切さ」についても疑問が残ります。東京のタクシーの運転手には無愛想な人が多く、あまり道路を知らないし、しばしばカーナビに打ち込むのが下手です。それに、「おもてなし」とはいっても、どこの国や民族にも客人を歓待する文化があるもので、日本にだけ特別なものがあるように言うのは思い上がりです。
 
つまり、ここに表現された日本は、日本人にとっても違和感があると思うのです。
 
ちなみに、安倍首相のプレゼンにも同じ問題があります。原発事故について、「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は港湾内で完全にブロックされている」というのは、明らかに事実をゆがめています。
 
もともと日本人は日本のよさを世界にアピールするのが苦手です。よくいえば謙虚、悪くいえば自信不足からきているのでしょう。それでもアピールしなければならないとなると、へんに大げさになったり、的外れになったり、さらには相手に合わせすぎたりして、日本人自身が違和感を覚えることになってしまうのだと思うのです。
 
この違和感の例としては、イタリアのインテルに所属するサッカーの長友佑都選手がゴールしたときにするお辞儀と合掌のパフォーマンスを挙げるとわかりやすいでしょう。
Jリーグの選手は、ゴールしたときにお辞儀なんかしません。なぜ長友選手はあんなことをするのか。それは相手に合わせすぎなのでしょう(ほかの日本人サッカー選手や大リーグの日本人選手にもお辞儀パフォーマンスをする人がいます)
つまり、「外国人が日本人とはこのようなものだと思う日本人」を演じているのです。
イタリアでプレーするスペイン人選手は、ゴールをしたときに闘牛士のパフォーマンスをすることはないはずです。
 
とにかく、日本人は世界にアピールするのが下手なので、オリンピックのような国際的な大事業をするとなると舞い上がってしまって、妙に恥ずかしいことをする可能性が大なのです。
 
たとえば、前の東京オリンピックのときには「東京五輪音頭」、大阪万博のときには「世界の国からこんにちは」という曲が大ヒットしました(どちらも三波春夫の歌で知られていますが、「東京五輪音頭」は何人かの歌手の競作)
どちらの歌もひじょうに恥ずかしい歌です。当時の私はこれらの歌を何度も聞かされてうんざりしました。
もっとも、ヒットしたのですから、恥ずかしいと感じない人も多いのでしょう。
恥ずかしいか否か、それぞれで判断してください。
どちらの歌も1番の歌詞だけ引用しておきます。
 
「東京五輪音頭」
作詞:宮田隆 作曲:古賀政男
 
ハァー
あの日ローマで ながめた月が
ソレ トトントネ
きょうは都の 空照らす
ア チョイトネ
四年たったら また会いましょと
かたい約束 夢じゃない
ヨイショコーリャ 夢じゃない
オリンピックの 顔と顔
ソレトトントトトント 顔と顔
 
 
「世界の国からこんにちは」
 作詞:島田陽子 作曲:中村八大
 
こんにちはこんにちは 西のくにから
 こんにちは こんにちは 東のくにから
 こんにちは こんにちは 世界のひとが
 こんにちは こんにちは さくらの国で
一九七〇年のこんにちは
 こんにちは こんにちは 握手をしよう
 
 
ちなみに、映画「20世紀少年」三部作(堤幸彦監督)で春波夫という歌手が「ハロハロ音頭」という歌を歌うシーンがあります。これは明らかに「東京五輪音頭」と「世界の国からこんにちは」のパロディですが、あの恥ずかしい感じをうまく表現しているので、これも1番だけ引用しておきます。
 
 
「ハロハロ音頭」
 
よいしょ!
 
ハロー ハロー
えぶりばでぃ
世界中の
 
ハロー ハロー
えぶりばでぃ
皆々様よ
 
2015年の ハロハロで
踊れ皆の衆
 
ハロー ハロー
えぶりばでぃ
皆々様よ
 
こんにちは こんばんは
こんにちは こんばんは
こんにちは こんばんは
こんにちは こんばんは
 
 
なぜこれらの歌が恥ずかしいかというと、あまりにも軽薄で能天気だからということでしょうか。
来たるべき2度目の東京オリンピックでも、同じような軽薄な歌が巷に流れるかと思うと、それだけでうんざりしてしまうのです。
 
また、これから「おもてなしニッポンキャンペーン」のようなものが大々的に行われて、外国人客が来たらこのようにお迎えしましょうみたいなことを連日言われるに違いなく、それもうんざりすることです。
 
外国人客に東京名物としてもんじゃ焼きをアピールしようという動きがすでにあって、これにも困惑してしまいます。東京はおそらく世界でいちばんおいしいものが揃っている都市です。なぜもんじゃ焼きを外国人に勧めないといけないのでしょうか。
ここで思い出したのが、95年にアジア太平洋経済協力会議(APEC)が大阪で開かれたとき、当時の横山ノック知事がやたらにタコ焼きをアピールしたことです。大阪もおいしいものがいっぱいあるのに、なぜタコ焼きなのでしょう。
もんじゃ焼きやタコ焼きを勧めることが「おもてなし」であるとはとうてい思えません。
もしかして「おらたち日本人はもんじゃ焼きやタコ焼きレベルの国民でごぜえますだ」という卑下した気持ちからでしょうか。
 
とにかく、日本人が日本を外国にアピールしようとすると、なぜか妙なことになって、私は気恥ずかしくなってしまうのです。
 
これは「国際性のない日本人がむりをして国際性を出そうとする姿」がみっともないということではないかと思います。
 
こういうと私が国際性のある人間のようですが、そうではありません。自分に国際性がないので、そういう自分の姿を見てしまうのが恥ずかしいのです。
 
しかし、考えてみると、私に国際性がないために、たとえばクリステルさんのプレゼンを恥ずかしく感じてしまうのかもしれません。国際性のある人にとっては、クリステルさんのプレゼンは当然のことで、「東京五輪音頭」も「世界の国からこんにちは」も少しも恥ずかしくない歌なのかもしれません。
 
いずれにせよ、7年後の東京オリンピックは、日本国民全員があまり大騒ぎせず、できるだけ平常心で迎えてほしいものだと思っています。

宮崎駿監督が長編アニメーションからの引退を表明しました。
残念ではありますが、72歳という年齢では仕方がないのかなという思いもあります。
 
考えてみれば、宮崎作品があるとないとでは、私の人生はかなり色合いの違うものになっていたでしょう。宮崎作品は私にとってそれぐらい大きな存在です。
 
「風の谷のナウシカ」は封切り当時、劇場で7回観ました。最後は新橋のガード下の小さな映画館まで行きました。テレビでも3回ぐらい観たでしょうか。
 
宮崎作品は日本テレビで繰り返し放映されて高い視聴率を稼いでいますから、みんな繰り返し観ているのでしょう。
 
繰り返し観られる映画というのはめったにあるものではありません。それだけでも宮崎監督の偉大さがわかります。
 
私にとって「ナウシカ」は別格として、あと「天空の城ラピュタ」と「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」の評価が高いです。
興行的には「もののけ姫」からぐんとアップし、「千と千尋の神隠し」で頂点に達しますが、私としてはあまり評価していません。
作家としての名声は年とともに上がっていきますが、もっとも重要な作品は若いころの作品であるというのは、作家としての宿命みたいなものです。
 
とはいえ、最後の作品となった「風立ちぬ」もかなりの水準に達しており、いろいろなことを考えさせられました。
私は「風立ちぬ」の映画評をすでに書いています。
 
「風立ちぬ」映画評
 
ただ、これを書いたあと、考え直すことがありました。
 
このブログにときどきコメントをくださる小春日和さんが「風立ちぬ」の感想をご自身のブログに書かれたので、それに対して私もコメントを書いたのですが、その中にこういう部分があります。
 
「震災、戦争、結核という死のイメージの中で物語を進行させるというのが宮崎監督の狙いだと私は思いました」
 
これはそのときの思いつきを書いたのですが、そのあともう少し考えがまとまったので、それを書いてみたいと思います。
 
 
私たちの発想はどうしてもステレオタイプになります。戦争と平和、国家と個人、生と死といった図式で考えてしまいがちです。しかし、宮崎監督は、空を飛ぶことが大好きな人なのです。
ですから、この映画は「空と地上」という図式でとらえるとうまくいくのではないかと思いました。
 
地上には震災、戦争、結核、死があり、一方、空には夢、希望、平和、生があるというのがこの映画の基本図式です。
映画の冒頭で震災が描かれるのも、この図式を明確にするためです。
空の場面はつねに明るい色調で、地上の場面は多くは暗い色調で、コントラストがはっきりしています。
 
堀越二郎の設計する飛行機は、地上と空をつなぐはずのものです。
また、丘の上でイーゼルを立てて絵を描いている菜穂子、ベランダで紙飛行機を受け止める菜穂子は、堀越二郎にとって空につながる存在です。
 
これまでの宮崎作品にこのような図式はありません。それは当然で、これまでの宮崎作品はすべてファンタジーだったからです。
この作品は、現実をベースとした物語で、ファンタジー的な要素はすべて主人公が眠っているときに見る夢の中に押し込められています。しかし、その夢の中の部分がかなり大きく、しかも印象的なため、まるで夢と現実、空と地上の二重構造のように見えるのです。
 
それでも、この作品はあくまでファンタジーではなく現実をベースにした物語で、「空を飛ぶことを夢見た男」を描いたものです。
もちろん「空を飛ぶことを夢見た男」は堀越二郎であると同時に宮崎駿でもあります。
 
そして、「空を飛ぶことを夢見た男」は最後にどうなったかというと、自分のつくった飛行機はすべて地上に醜い残骸をさらします。戦争を止めるナウシカは現実の世界には現れません(それに、たぶん菜穂子は死んでしまっています)
つまり現実の前に「空を飛ぶことを夢見た男」の夢は破れたのです。
 
ここで私が思い出したのは、樹村みのりという少女マンガ家の「贈り物」という作品です。
子どもたちが山で遊んでいると、ホームレスのおじさんがやってきて、いっしょに遊ぶようになります。おじさんは子どもたちに「きみたちがほんとうに真理をのぞみ生きるなら世界は天国みたいに美しくなるんだよ」などと、哲学的で、夢のあることを語り、子どもたちはおじさんを尊敬するようになります。とはいえ、子どもたちはおじさんが食べ物をあさったり、おとなたちからさげすまれていることも知っています。やがておじさんは「天国への切符」を君たちに贈るからねと言い残して、その土地を去っていきます。子どもたちが期待して指定された場所を掘ると、そこにあったのは、「きっぷ」と書かれた、ただのガラス片でした。
そして、子どもたちは理解します。あの人が残したのは、「天国への切符」ではなく、「夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならないことへの切符」だったと。
 
私がこの作品で忘れられないのは、「夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならないこと」というフレーズです。
そして、このフレーズは、「風立ちぬ」のテーマを表現しているのではないでしょうか。
 
ちなみに、樹村みのりには「翼のない鳥」という、空を飛ぶ夢を持った少年の人生遍歴を描いた作品もあります。
 
また、ユーミンと並び立つ歌姫、中島みゆきも「この空を飛べたら」や「かもめはかもめ」など、空を飛ぶ夢を繰り返し歌っています。
宮崎監督はテーマ曲をユーミンではなく中島みゆきにするべきではなかったでしょうか――というのはもちろん私の勝手な意見です。
 
樹村みのりも中島みゆきも、現実の世界に立って、「空を飛べない悲しみ」を描いています。
しかし、宮崎監督はずっとファンタジーで「空を飛べる喜び」を描いてきました。
似ているようで、両者の立ち位置は違います。
 
しかし、「風立ちぬ」はファンタジーではなく、現実の物語です。となると、「空を飛べない悲しみ」をより深く描かなければならないはずです。
しかし、地上の飛行機の残骸シーンはごく短い時間しか描かれず、しかも唐突に出てくる印象があります。
そして、すぐに空を飛ぶシーンになってしまいます(ここで初めてゼロ戦が登場します。作中で堀越二郎が設計していた、主翼の折れ曲がった飛行機は九試単座戦闘機です)
 
宮崎監督はファンタジー体質が強すぎて、現実の世界の「空を飛べない悲しみ」を深く描くよりも、「空を飛べる喜び」を描くことに傾いてしまったのです。
 
私は「『風立ちぬ』映画評」において、「戦争と平和」という図式でとらえて、堀越二郎のつくったのが戦争の道具だったから感動が薄いのではないかと書きました。そういう面もあると思いますが、「空と地上」「ファンタジーと現実」という図式でとらえて、現実の「空を飛べない悲しみ」の描き方が浅いから感動が薄いと見なしたほうがより正しいような気がします。
 
 
宮崎監督は引退会見において、「子どもたちに、この世は生きるに値するんだと伝えるのが仕事の根幹になければならないと思ってやってきた」と語りました。
私が「この世は生きるに値するんだ」と学んだのが宮崎駿、樹村みのり、中島みゆきの3人なので、この3人をまとめて論じてしまいました。

アメリカがシリア攻撃をするか否かが現在の国際政治の焦点になっています。米ソの綱引きのおかげで安倍首相は9月5日、サンクトペテルブルクのG20の場でプーチン大統領、オバマ大統領と相次いで会談することができました。
ここは国際社会で日本のプレゼンスを高めるための絶好のチャンスです。
というか、国際社会も日本からの発信を望んでいるに違いありません。
 
たとえば、アメリカのマリー・ハーフ副報道官が「一般人に対する無差別の化学兵器の使用は国際法違反」とシリア政府を非難したのに対して、ロイターの記者が「アメリカが核兵器を使用し、広島、長崎で大量の市民を無差別に殺害したことは、あなたの言う同じ国際法への違反だったのか」と質問し、これに対して各方面から賞賛の声が上がったそうです(ハーフ副報道官はとくに答えず)
 
広島、長崎が取り上げられているのですから、日本からなんらかの発信があっていいはずです。
しかし、日本の有力政治家がこれについてなにか言ったという話はありません。
 
とはいえ、誰も発言できないのもわかります。これは戦後日本のタブーみたいなものだからです。
本音では、原爆投下は最大級の戦争犯罪で非人道的行為だと言いたいのですが、それを言うと日米関係にヒビが入ってしまうので言えないわけです。
東京裁判でA級戦犯が裁かれたのも同じです。内心は不満なのですが、アメリカや国際社会に対してそれを言った有力政治家はいません。
反米左翼なら言えますが、親米保守は絶対に言えないわけです。
せっかくオリバー・ストーン監督が来日して、「日本を降伏させるのに原爆投下は必要なかった」と語っても、政治家からの反応は皆無のようです(マスコミの反応も薄いといえます。マスコミも基本的に親米です)
 
ところで、シリア政府軍はほんとうに化学兵器を使用したのかという問題があります。
国際ジャーナリストの田中宇氏は、シリア内戦は今年に入ってから政府軍優位に展開しており、このタイミングで政府軍が化学兵器を使用するとは考えにくい、反政府側の謀略ではないかという説です。
(無実のシリアを空爆する  2013年8月28日   田中 宇)
 
本当のところはわかりませんが、かりにシリア政府軍が化学兵器を使用したとしても、アメリカがシリア空爆をするのが正しいということにはなりません。これについては、潘基文国連事務総長が9月3日の記者会見で、「武力行使は、国連憲章に基づく自衛権の発動か、国連安全保障理事会の承認がある時のみ合法」と明快に述べています。
 
国連安保理決議なしに他国を攻撃するのは国連憲章違反です。そういう意味ではイラク戦争も国連憲章違反でした。
 
アメリカの主張は、化学兵器が使用されたのになにもしないでいると、化学兵器の使用が許されたことになり、今後化学兵器が使われやすくなるというものです。
これは厳罰主義みたいなものです。悪いことをしたのに罰しないでいると、どんどん悪がはびこってしまうという論理です。
子どもが悪いことをしたら罰しなければいけないという論理でもあります。
 
私はそういう論理にはくみしないのですが、世の中には子どもが悪いことをしたら罰しなければならないと考える人がほとんどです。そういう人はアメリカの主張を否定できないでしょう。
 
ちなみに日本が支那事変を始めた当初は、すぐに国民党政府は降伏すると思っていたのですが、そうはならずに泥沼化します。そうなると、国民はなんのために戦争をしているのか疑問を持つようになります。そのときに考え出された理屈が「暴支膺懲」というものでした。つまり、「支那はけしからんから懲らしめる」というものです。
 
アメリカの理屈はすでに昔の日本が使っていたものです。
また、当時の日本軍は中国で化学兵器も使っていました。
ここで日本がなにか発信すれば、それはまさに「経験者は語る」ですから、説得力があるはずです。
安倍首相は戦車に乗って喜んでいる場合ではありません。
 
ところで、アメリカのシリア攻撃があるとすれば、巡航ミサイルに加えてB52やB2ステルス爆撃機を使って行われるようです。
巡航ミサイルで攻撃する場合、アメリカ側の人的損害はいっさいありません。B52やB2を使う場合は、シリアはソ連製の対空ミサイルを持っているということなので、撃墜される可能性がありますが、それでも死亡者は爆撃機の乗組員の数を越えることがありません。
つまりアメリカは自軍の損害はわずかで相手に圧倒的な損害を与えられるわけです。
 
ですから、これは非対称的な戦争です。
というか、戦争とは呼べないような気がします。
おとなが子どもをムチ打つのに近いでしょうか。
 
とにかく、アメリカ軍の損害は極小で大きな戦果を挙げることが約束されているのですが、国際世論はもちろん、アメリカ国内の世論もシリア攻撃には否定的です。
もちろんイラク戦争のときに大量破壊兵器があるといっていたのになかったということが影響しているのでしょう。しかし、それはシリア政府軍が化学兵器を使ったということをちゃんと説得すれば払拭できるはずです。
 
私が思うに、アメリカ人も一方的な攻撃に疑問を持つようになったのでしょう。
将棋の格言にも「うますぎるときは注意せよ」と言います。
一方的に勝利しても、負けたほうは黙っていません。
軍事的に勝てないのなら、それ以外の方法を使います。つまりテロです。
軍事施設を狙うことがむずかしいなら、民間人を狙います。
 
アメリカ人も一方的な軍事的勝利はテロという形で返ってくるということを理解してきたのではないかと私は思います。
 
そういうことを踏まえると、オバマ大統領がシリア攻撃の意向を表明したことについて安倍首相が「大統領の重い決意の表明と受け止めている」と述べたことは、国際世論からもアメリカ人の思いからもかけ離れたもので、対米追随しかない日本の政治家の無様な姿をさらしたものと言わざるをえません。

ネット内の世論は一般社会の世論よりバカになるのはなぜかということをこのところ考えています。
 
ネットにおける「集合バカ」の代表的なものにネット右翼がありますが、私は前からネット右翼という名称に疑問を持っていました。右翼思想とは違う気がしていたからです。
そうしたところ、「ネットのバカ」(中川淳一郎著)という本の中に、ネット内の「“愛国者”たちは基本的に『韓国・中国を極端に嫌う人』と言い換えることができる」という記述があり、納得がいきました。
やはり彼らは右翼ではなく、単なる「嫌韓・嫌中の書き込みをする人」なのです(数としては嫌韓のほうが圧倒的に多い)
 
もちろん嫌韓・嫌中と右翼思想は別です。
そもそも好き嫌いは思想ではありません。ピーマン嫌いが思想でないのと同じです。
 
中国は共産党一党支配の国ですから、嫌中は反共思想すなわち右翼思想からきているようにも見えます。しかし、ベトナムは同じく共産党一党支配の国ですが、私は嫌越(嫌ベトナム)の書き込みはまったくといっていいほど見たことがありません。
また、北朝鮮は社会主義の国で、日本は拉致問題を解決するためにも韓国と連携して北朝鮮に対峙する必要がありますから、嫌韓の人はむしろ北朝鮮への利敵行為をしていることになります。
ですから、嫌韓嫌中の人は右翼思想とはまったく関係ないといってもいいでしょう。
 
ネットにおける嫌韓は、2002年の日韓共同開催のFIFAワールドカップにおいて、韓国人観客が日本代表にブーイングを浴びせるなどしたことがきっかけで起こったとされていますが、もとはといえば、日韓併合以来の韓国人・朝鮮人への差別意識からきていることは明らかです。
私は1950年生まれですが、私の子どものころというと、朝鮮人と精神病者への差別が二大差別で、毎日のようにそれこそヘイトスピーチをしていました。ですから、最近まで「チョーセン」という言葉から差別的響きが抜けませんでした。
もっとも、そうした差別を口にしていたのは小学校低学年まででした。高学年になると、多少は分別がついてきたのか、世の中の空気が変わってきたのか、そんな露骨に差別的発言をすることはなくなったと思います。
それでも日本人一般に、韓国人・朝鮮人に対する差別意識が根強く存在しているのは間違いありません。
 
しかし、そうした昔からの差別感情なら年配者のほうに強くあるはずです。最近のネットにおける嫌韓感情は若い人中心ですから、理屈に合いません。
「冬のソナタ」がNHKのBSで初めて放送されたのが2003年4月ですから、ネットで若い人が嫌韓に走る一方で、中年女性が韓流ブームに走り始めたわけです。
 
嫌韓に走る若い人は、結局のところ、教育の失敗の産物です。
 
「『集合バカ』の研究」という記事で書いたことですが、もう一度繰り返しておきます。
家庭や学校に適応できない子どもは、盛り場などで仲間とつるみ、不良になります。これが「行動化する不良」です。もう一方で、家庭や学校に適応できないために引きこもりになる子どもがいます。学校に行き、就職はしても、引きこもり一歩手前という者もいます。これを私は「引きこもり系の不良」と呼んでいます。
「引きこもり系の不良」は「非リア充」でもあります。こうした人たちがネットでヘイトスピーチをするのです。
 
「引きこもり系の不良」や「非リア充」は当然、国際社会で活躍するタイプではありません。異文化に適応するというたくましさがありません。海外旅行をしてもその国からなにも学ぶことができず、「海外に行って日本のよさがわかった」などといったりします。
 
そのように外国の異文化を受け入れることができない者でもなんとか受け入れられる国があります。それが韓国であり、中国です。
 
私はこれまでかなり海外旅行をしてきましたが、最初のうちはヨーロッパ、オーストラリア、カナダなど欧米系の国ばかり行っていました。初めてアジアの国に行ったのはベトナムで、その次が韓国でした。
韓国に行ったときの最初の印象は、日本とあまりにも似ているということでした。町並みは、看板がハングルであることを別にすれば、ほとんど日本と同じです。山など自然の風景も似ています。人の顔も服装も似ています。
それから中国に行きましたが、中国も日本に似ています。
世界の中でいちばん日本に似た国が韓国で、その次が中国だと思います(台湾と北朝鮮も近いかもしれません)
 
「日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか」(黄文雄著)という本があります。私は読んだことがありませんが、タイトルだけでもおかしいと思います。国際性がまったくなく、日本と中国と韓国しか眼中にないようです。しかし、ネット右翼はこうした本が好きなのでしょう。
 
アメリカはキリスト教の価値観を中心とした国で、しかも多様性があるので、日本人にとってひじょうに理解しにくい国です。東南アジアの国も日本とはかなり違います。その点、韓国と中国はきわめて理解しやすい国です。というか、多くのネット右翼にとって唯一理解できる国が韓国なのでしょう。
 
理解できるといっても、好きにならずに嫌いになるところに、「引きこもり系の不良」の心の弱さが現れています。韓流スターを追いかけるおばさんのたくましさがありません。
 
嫌韓というのは、ただ隣人が嫌いというだけのことですが、嫌韓の人は自分を愛国者や右翼と思って正当化しています。
そのためネットの書き込みも声高で、さらにはフジテレビや花王にデモをかけたりします。
 
それにしても、フジテレビにデモをかけるのは意味不明です。フジテレビが韓流番組を多く流しても、それは経営判断のうちですし、日本の国益を損なうことでもありません。
要するにネット右翼は、フジテレビや花王は世間の評判を気にするから、自分たちのデモがいちばん効果的な相手だと思ったのでしょう。つまり勝てる相手を探して喧嘩をしたというわけです(勝てませんでしたが)
 
こうした発想は、学校でのイジメるかイジメられるかという体験からきているのでしょう。つまり「イジメる側になりたい」ということです。「学校からイジメをなくしたい」ということではないのです。
 
いわゆるネット右翼、すなわち嫌韓嫌中の人を観察していると、日本の教育がいかにダメかがわかります。

インターネットは集団で個人を攻撃するときに威力を発揮するツールのようです。
「ネットのバカ」(中川淳一郎著)という本を読んでいたら、中国の「時計兄貴」の話が書いてありました。交通事故の現場でニヤニヤと笑っていた役人が妙に立派な時計をたくさん持っていると指摘する声が出て、ネットユーザーがみんなでこの役人が登場する写真を確認していくと、毎回高級な腕時計をしていることがわかり、そのため「時計兄貴」というあだ名がつき、12億円もの不正蓄財をしていることもわかって、その役人は更迭されたそうです。
「交通事故現場で不謹慎な笑顔」「高級な腕時計」というネットユーザーが食いつきやすいアイテムがあったからでもありますが、ネットが「社会正義」を実現した一例ということです。
 
しかし、こうした例はまれでしょう。とくに日本では集団で弱者を攻撃するという場合がほとんどのように思われます。
 
お笑い芸人の母親が生活保護を受給していた問題では、税金のむだ使いを追及するという点で多少は「正義」の要素がありましたが、最近のバイト店員炎上事件では、追及するほうに「正義」の要素はほとんどありません。
多くの人は、フェイスブックやツイッターを仲間内でやりとりするツールとして使っているはずです。そういうところに入り込んで、仲間に受けようとした写真を勝手に多数の人の目にさらすのは、むしろネットマナー違反、ネチケット違反ではないでしょうか。
 
ただのバイト店員を個人攻撃しても世の中がよくなるものでもなく、これは学校にあるイジメと同じようなものです。
 
とはいえ、こうしたことを多くの人が行っているのは事実です。なぜこうなるのかという理由はいくつもあると思いますが、そのひとつに学校教育の問題があるはずです。
学校ではどうでもいい細かい校則で子どもを縛りつけています。そうした中で育った人間は、他人が常識やルールから逸脱するのを見ると攻撃したくなります。
 
学校は昔から子どもを縛りつけてきたのではないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。いや、学校や教師は子どもを縛りつけようとしてきたのですが、子どもの側が違いました。
 
たとえば、夏目漱石の「坊っちゃん」を見てみましょう。「坊っちゃん」は漱石自身が若いころ旧制松山中学に赴任した経験に基づく小説とされていますから、ここには当時の中学校の実態がかなり反映されているはずです。
 
「坊っちゃん」に出てくる中学生(今の中学1年生から高校2年生までに当たる)は、今の中学生、高校生とかなり違います。
 
坊っちゃんが赴任して最初の授業の日のことです。2時間目の最後に、一人の生徒が「ちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし」と、できそうもない幾何の問題を持って迫ってきたので(坊っちゃんは数学の教師)、「この次教えてやる」と急いで引き揚げたら、生徒たちは「わあ」とはやし立て、「出来ん出来ん」という声が聞こえてきます。
 
ある日、そば屋で天ぷらそばを食べ、翌日教室に入ると、黒板いっぱいの大きな字で「天麩羅先生」と書いてあり、みんな坊っちゃんの顔を見て「わあ」と笑います。「天麩羅を食っちゃ可笑しいか」と言うと、生徒の一人が「しかし四杯は過ぎるぞな、もし」と言うので、「四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんか」と言い返します。そして、次の教室に行くと、黒板に今度は「一つ天麩羅四杯なり。但し笑うべからず」と書いてあるので、「こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ」と言うと、「自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もし」と言い返す生徒がいます。そして、次の教室に行くと、「天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなり」と書いてあります。
 
それから4日後に、団子屋で団子を食うと、黒板に「団子二皿七銭」と書いてあります。また、人のいない温泉で泳いでいると、温泉場に「湯の中で泳ぐべからず」と張り紙をされ、教室に行くと、例のごとく黒板に「湯の中で泳ぐべからず」と書いてあります。
つまり生徒たちは坊っちゃんに関する情報をインターネットさながらに素早く共有して、ことあるごとに坊っちゃんをからかってくるのです。
 
そして、宿直の日に布団の中に五、六十匹のイナゴを入れられ、大騒動になります。
夜中に寄宿生を集めて、「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」と言うと、「そりゃ、イナゴぞな、もし」とやり込められます。
そのあとのやり取りはこんな具合です。
 
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
 「誰も入れやせんがな」
 「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
 「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
 「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
 「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
 
(引用は「青空文庫」の「坊っちゃん」から)
 
生徒を相手にむきになる坊っちゃんのキャラクターもおもしろいのですが、生徒も相手が教師だからといってぜんぜん負けていません。
 
明治時代の学校というと、教師は威厳をもってきびしく生徒を指導し、生徒も教師を敬っていたというイメージがあるかもしれませんが、実際はぜんぜん違います。
そもそも江戸時代の寺子屋は、先生にとって子どもは月謝を払ってくれるお客さんですから、きびしい指導なんかできるはずがなく、子どもたちは遊びながら学んでいたのです。
明治になって近代学校ができたからといって、そんなに急に変わるはずがありません。
 
「『学歴エリート』は暴走する」(安富歩著)という本によると、学校で教師がきびしく生徒を指導するようになったのは、軍国主義の影響です。それまでの普通の体操が「兵式体操」中心に転換し、1925(大正14)の「陸軍現役将校学校配属令」によって教育現場に軍人が入ってきて、学校の雰囲気が変わるのです(現在の「竹刀を持った体育教師」のイメージは当時学校に入ってきた下士官からきているそうです)
 
こうした軍国主義的学校は、戦後民主主義の時代でかなり変わったはずです。石坂洋次郎の小説「青い山脈」などがその時代の雰囲気を伝えています。
 
しかし、それからの長い自民党政権によって、また軍国主義的学校に戻ってきたというのが私の考えです。
とくに内申書重視と推薦入学制度の普及で、生徒が教師に反抗できなくなったのが決定的だと思います。
 
今の学校で、生徒が先生の布団にイナゴを入れるような「悪ふざけ」ができるとは思えません。もしやったら生徒はひどくつらい立場に立たされてしまうでしょう。
そして、そういう学校で育った者たちが、バイト店員が冷蔵庫に入るなどの「悪ふざけ」を見つけては炎上させているというわけです。
 
教師が生徒を上から指導しようとするのは、今も昔も同じです。しかし、昔の生徒は教師をバカにして、心の中でその指導をはね返していたのです。そのため、生徒は自尊心や自己肯定感を維持することができました。
今の生徒は教師の指導に押しつぶされています。
 
「坊っちゃん」の学校では、生徒たちは坊っちゃんをからかうことでストレス解消ができていたので、生徒同士のイジメもほとんどなかったのではないでしょうか。
 
イヴァン・イリイチという思想家は、学校の価値観で社会がおおわれることを「学校化社会」と名づけました。
たまには「坊っちゃん」を読み返して、今の社会がいかに異常な「学校化社会」になっているかを考えてみるのもいいかもしれません。

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