みのもんた氏の謝罪会見がいろいろな波紋を広げていますが、それにしても、みのもんた氏もずいぶんと嫌われたものです。それまでは“視聴率男”としてもてはやされていたわけですから、まさに天国と地獄です。
そのきっかけは次男が窃盗未遂で逮捕されたことですが、これは結局起訴猶予になったとの報道がありました。もしこの事件なり逮捕なりがなかったら、次男も普通に日テレ勤務を続けていたでしょうし、みのもんた氏もなんのバッシングも受けずにテレビ出演を続けていたでしょう(セクハラ疑惑は別にありますが)。
とはいえ、みのもんた氏が20歳すぎの次男の行為についての自分の責任を認めたということは重要です。これは「教育責任」という言葉で表現するのがわかりやすいでしょう。
では、みのもんた氏にはどんな「教育責任」があったのでしょうか。10月26日の記者会見の全文起こしから引用してみます。
【質疑含む完全版】みのもんた氏記者会見 全文文字起こし 10/26(土)
確かにあの子は私の子です。
しかし、成人して大人になって社会人になったはずなのに家庭をもったはずなのに、
こんなことをしでかす、どこかが子育ての中で何か間違っていたんじゃないのかな
不完全な形で世の中に送り出してしまったのか、
だとしたら父親としての責任があるなと思い至りました。
親子の縁は切れない、間違いなく我が子だ、
どこかが狂って社会に送り出したのだ
その責任は父親である私にあります。申し訳ありません。
これが親の責任を認めた部分です。
これについてはいまだに「20歳すぎた子どもの行為に親の責任はない」と主張する人がいますが、行為というのはその人の人格から生じるものですから、行為と人格は切っても切り離せません。親が子どもの人格形成に関与していたなら、子どもが何歳になっても親の責任はあります。
ところで、「20歳すぎた子どもの行為に親の責任はない」という表現は20歳未満の子どもの行為には親の責任があると認めているようですが、現実にはそれすらも認めていません。たとえば、子どもが非行で少年院送りになった場合、親がなにか責任を取るということはありません。本来なら、子どもが非行をした場合は、親(保護者)も子どもといっしょに更生プログラムを受けるべきです。しかし、現実には少年法の厳罰化は、少年だけを対象にして、保護者は対象になっていません。こんなおかしな法体系ができるのは、無責任な親が法律をつくっているからです。
つまりこの世の中は、無責任な親がやり放題をする世の中なのです。
で、みのもんた氏の「教育責任」ですが、みのもんた氏の教育のどこが間違っていたのでしょうか。氏は質疑応答でこんなことを語っています。
[質問者]
あの先ほどみのさんがね、あの子育てが間違っていたのかな
問題があったのかなって、今日のラジオの番組でも、自分の生き方を見せてきた。
その生き方が間違っていたのかなという風に仰っておりましたけれども
今ご自身間違っていたとしたら、具体的にどんなところが間違っていたのかという風に
思っていらっしゃいますか?
[みのもんた氏]
ちょっと厳しすぎたのかなと思いました。育て方が厳しすぎたかなと思いました。
[質問者]
例えば具体的にどんなところが厳しかったんでしょうか。
[みのもんた氏]
お小遣いにしても合宿にしても、大変厳しかったようです、僕は。
何十万も与える人もいるかもしれませんが、私は女房の決めたとおりの額しか
渡しませんし、悪いことやったときには悪いことやったと。
いけないことかもしれませんが、私は殴るタイプなんです。
嫌なら出て行け。そういうタイプの父親です。
それが僕は父親としてのええ格好しの悪い結果に繋がったなと、
何か起きても分からなければ分からないようにしちゃおうと、
親父に分からないようにという道に繋がったんじゃないかと思います。
何でも話せる親じゃなかったみたいです。
[質問者]
殴ったのはいくつくらいまで?
[みのもんた氏]
中学校の二年くらいまで殴ってました。
みのもんた氏の認識では、きびしすぎたのがよくなかったということです。
もっとも、これに対して週刊文春は11月7日号の「みのもんた『バカヤロー!』会見の大嘘」という記事で、次男は南青山に豪邸を建築中で、むしろみのもんた氏は甘やかして育てていたということを書いています。
だいたい世の中の認識は、「甘やかすのはよくない、きびしくするのはよい」というものですから、そういう認識にそった記事です。
みのもんた氏はコネ入社もさせていたようですから、その点でも甘やかしていたことになります。
しかし、甘やかすのもきびしくするのも、ベクトルは逆ですが、だめなことでは同じです。
よく過保護な親に、過保護はよくないと指摘すると、「じゃあ突き放せばいいんですね」という答えが返ってきますが、この親にとっては「過保護」か「突き放す」かの二者択一になっているわけです。
世間の教育観も、「甘やかす」か「きびしくする」かの二者択一になっています。
しかし、実際は、「甘やかす」のでもなく、「きびしくする」のでもなく、「普通に愛情を持って接する」というのが正しいわけです。
叱るのはよくない、ほめて育てるべきだということもよく言われます。世の中には子どもを叱る親が多く、ほめる親は少ないので、こうした主張に説得力があります。
しかし、「叱るよりほめろ」というのは、アメとムチのたとえで言えば、ムチの比率を少なくしてアメの比率を高くしろと言っているのと同じです。どちらにせよアメとムチで子どもを操作しようとしているわけで、子どもに愛情を持って接する態度ではありません。
おそらくみのもんた氏は次男に対して、お金などの面では甘やかし、個々の行動の面ではきびしくするというやり方だったのでしょう。どちらの面でも次男は親の愛情を感じることができませんでした(お金を出すことはみのもんた氏にとってはなんでもないことで、「お金ですます」という感覚だったのでしょう)。
みのもんた氏と次男の関係がどのようなものであったかは、次のやりとりからうかがわれます。
[質問者]
保釈中ですけども、今現在もお話はされてないと。
[みのもんた氏]
一度だけ自宅に会いに来ました。
[質問者]
そのときにはどのようなお話をされたのですか。
[みのもんた氏]
何も喋りませんでした。顔だけ見て五分で出ました。
[質問者]
謝罪の言葉とか何かなかったですか?親に対して。
[みのもんた氏]
彼からはありました。僕からは何も喋っていません。
[質問者]
それは感情が、どういう?
[みのもんた氏]
彼は正座して、板の間で、玄関口で僕の顔を見てごめんなさいと、
何か言いかけましたけど、僕は無視して、顔だけ見て出ました。
好意的に解釈すると、普段は親子関係は良好なのだが、次男が事件を起こしたためにこんなに冷却したのだということになりますが、実際のところは、もし普段の親子関係が良好なら、逮捕・保釈という出来事の直後こそいっぱい話し合うことがあるはずです。
つまりみのもんた氏は昔から、殴るタイプで、嫌なら出ていけというタイプの父親ですから、親子関係が良好であるわけないのです。
私がみのもんた氏で覚えているはの、お昼の「おもいッきりテレビ」という番組の生電話での悩み相談コーナーで、悩みを持った相談者にきびしい言葉を浴びせかけている姿です。そして、そうしたきびしさが視聴者に受けていたようです。
週刊文春も、みのもんた氏のきびしい面は批判せず、お金に甘いところだけ批判しています。
しかし、正しくは、きびしい面とお金に甘い面の両方を批判するべきでしょう。
みのもんた氏と次男との親子関係の問題が次男の窃盗未遂という行為にどう結びついたのかはわかりません。しかし、親子関係に問題があったのは事実でしょう。ですから、みのもんた氏は責任を認めたのです。
みのもんた氏が親の責任を認めたということは、今後さまざまな影響を及ぼすのではないかと思います。少なくとも、「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」というような身勝手な主張は通らないことになります。
もっとも、子どもがいくつになっても親に責任があるというのはおかしいと考える人もいるでしょう。それももっともなことです。親と子は別人格だからです。
ですから、最初から、つまり子どもが小さいときから、子どもを一個の独立した人格として尊重して接すればいいのです。そうすれば「親と子は別人格」といって、子どもの行為の責任は子どもが負うべきだと主張することができます。
そして、子どもの人格を尊重する親なら、子どもが何歳になっても子どものためになる行動ができるはずです。