村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2013年11月

特定秘密保護法案が1126日、衆院本会議で可決され、参院に送付されました。
今になって反対運動が盛り上がっていますが、手遅れかもしれません。
 
私はもちろん特定秘密保護法案に反対です。これまでこのブログで取り上げなかったのは、「特定秘密保護法案はけしからん」というような当たり前のことを書いてもしょうがないからです。
ただ、ここにくると、いろいろと書きたいことも出てきました。
 
根本的なことをいえば、民主党政権から自民党政権に変わったのがよくなかったのです。民主党政権をささえるか、少なくとも自民党に大勝させなければ、こんなことにはなりません。
しかも民主党のイメージダウンがはなはだしいので、自民党政権はかなり長期にわたって続きそうです。そのため、特定秘密保護法案に反対の声が強くても自民党は平気です。
 
ですから、民主党政権の失敗を正しく総括して、再び政権交代の可能性があるようにすることが根本的な対策です。
 
民主党政権の失敗を分析するのは簡単にはできませんが、象徴的なことをひとつ取り上げてみます。
 
復興予算を復興以外のところに流用していたことが問題になったことがありました。これは民主党政権下のことだったので、これも民主党政権のイメージダウンになりました。
実際のところは、災害復興特別予算を復興以外のところに流用するのは、これまでもずっと行われてきたのです。民主党政権下で初めて明らかになったにすぎません。
そして、民主党政権下で初めて明らかになったのには理由があります。私はそれを朝日新聞の記事で読みました。朝日新聞のサイトでは公開期間をすぎていましたが、検索してみると、あるブログにその記事が紹介されていました。
孫引きになりますが、一部を引用します。
 
 
復興予算流用 透明化したから失態見えた 三輪さち子記者 201211月3日
これは数少ない政権交代の意義だ。
 
 流用問題が明るみに出たのは、民主党政権が導入した「行政事業レビュー」の過程で情報が公開されていたからだ。きっかけとなった報道も国会審議も、もととなる情報は誰でも見られる。民主党が無駄遣いをなくすためにつくった仕組みで、自らの失態をさらしたことになる。
 
 行政事業レビューとは、省庁が自らの事業を評価する仕組みで、予算編成の概算要求前におこなう。どんな団体にお金が流れたか、目標に対して成果は何%だったかなど、省庁のホームページで公開する。行政刷新会議の事業仕分けで取り上げるのはごく一部の事業だが、これは国の約5千事業すべてが対象になる。自己点検を透明化し、無駄遣いを防ぐ狙いだ。
 
 取材した当時、私には意義が感じられなかった。役所が自分たちで仕分けをして、本当にチェックしたと言えるのか疑問だった。復興予算の流用が問題になって初めて、予算の中身を透明化する重大さに気づかされた。
 
 
つまり、民主党政権が情報公開のルールをつくったので、役所が復興予算を勝手に流用するという実態が初めて見えたのです。
ですから、復興予算の流用が明らかになったことについては、民主党政権はみずからの成果として誇ることもできたのではないかと思います。少なくとも、流用については謝罪する一方で情報公開の成果を誇るというやり方はできたはずです。
民主党政権はつくづく下手だったと思います。
 
「行政事業レビュー」は安倍政権のもとでも続けられています。
 
内閣官房「行政事業レビュー」
 
5000を超える国のすべての事業について、事業の内容や資金の流れがウェブ上で公開されているというのは、考えてみれば画期的なことです。たとえば防衛省の「戦車」の項目を見ると、「120mm戦車砲砲座付き」の値段まで書いてあります。
しかし、「行政事業レビュー」のことも、それがウェブ上ですべて公開されていることも知らない人が多いのではないでしょうか。
 
特定秘密保護法案が成立すると「行政事業レビュー」にどう影響するのかわかりませんが、官僚がこうした情報公開の流れに逆行するためにつくったのが特定秘密保護法案であることは間違いないでしょう。
そもそもは、日本は「スパイ天国」であるというプロパガンダのもとでスパイ防止法案が提出されましたが、廃案となりました。そして、民主党政権下で尖閣諸島での中国漁船と海上保安庁の巡視船の衝突ビデオが流出したとき、それを理由に今回の特定秘密保護法案のようなものが画策されました。そして、今回はアメリカとの情報共有を理由にして特定秘密保護法案が提出されたというわけです。
自民党政権下でも民主党政権下でも画策されてきたということは、結局のところ官僚が必要とする法律だということでしょう。
そして、自民党は官僚依存の政党ですから、今回衆議院を通過するところまできたというわけです。
 
このように考えると、特定秘密保護法案に反対する人たちの言い分には少しずれたところがあります。
たとえば、「メディアが捜査対象になる」とか「一般市民も捜査対象になる」といったことが反対理由に挙げられますが、たいていの人は自分が警察の捜査対象になるとは思っていないので、そういう人には訴える効果がありません。
 
また、「治安維持法と同じだ」とか「戦前の暗い時代に逆戻りだ」とかもいいますが、これは論理に飛躍があります。
というのは、特定秘密保護法を推進している人たちは、「戦前に逆戻りさせよう」と思ってやっているわけではないからです。自分たちにとってつごうの悪いことを隠したいと思ってやっているだけです(それが結果的に戦前に逆戻りすることになる可能性はありますが)
それに、多くの一般の人も「こんなことで戦前に戻ることはないだろう」と思っているでしょう。
 
要するに「不都合なことを隠したい官僚」という敵にターゲットを絞っていないので、反対の論理に説得力がないのです。
 
その点、橋下徹大阪市長のほうが明快です。
 
「都合の悪いもの隠す」橋下氏、特定秘密30年後公開は「最低限必要」
産経新聞 1119()1423分配信
 
 国の機密を漏らした公務員らの罰則を強化する特定秘密保護法案をめぐり、日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は19日、政府が秘密を指定できる期間を最長30年とし、範囲を防衛関連に限定するなどの維新の主張について「情報は原則公開だということを考えれば、最低限必要だ」と述べた。市役所で記者団の取材に答えた。
 
  橋下氏は特定秘密指定の妥当性をチェックする第三者機関の設置も主張した上で、「行政機関がきちんと秘密を取り扱うような組織ではない。都合の悪いものを隠すのは人間のさがで、特に権力機構になればそういう動機は強まる」と指摘した。
 
また、自民党の村上誠一郎議員や、みんなの党の造反議員も主張は明快です。
 
「拙速」「官僚統制強化」4議員造反 秘密保護法案
201311262337
26日の特定秘密保護法案の衆院採決で自民党の村上誠一郎氏が退席した。与党と修正協議し賛成に回ったみんなの党からも反対・退席する議員が出た。
村上氏は記者団に「米国には第三者監視機関があるのに、日本はない。一番ひどいのは(秘密の指定期間が)最長60年。俺たちが生きている間に正しいかどうかも判断できない。問題がいっぱいある。政治家として法案に自信がもてない」と語った。
 
 みんなで修正協議を担当した井出庸生、林宙紀の両氏は起立採決で着席して反対した。採決後の記者会見で井出氏は「政府が国民に足かせをつけるような法案。こうした法律は最小限であるべきで極めて慎重な運用が求められる」と反対の理由を述べた。林氏も「結局、官僚統制強化法。みんなの党是に逆行する。党内議論がまったく尽くされていない」と語った。
 
 みんなの江田憲司前幹事長は採決前に「強行採決に抗議して退席します」と手書きの紙を党幹部に手渡して退席した。記者団に「法案が少しでも官僚支配を助長するような恐れがあるなら、懸念を払拭(ふっしょく)するのが我が党の責務だ。ギリギリの決断で退席がベストだと判断した」と語った。
 
マスコミは官僚依存なので、官僚批判をほとんどしません。また、左翼は国家権力全般は批判しても官僚批判はあまりしません。そのため反対理由が妙に被害者意識に訴えるものになったり、戦前回帰という大げさなものになったりするのでしょう。
 
民主党政権は脱官僚依存を目指して失敗しましたが、結局のところ、官僚と戦わない限りなにごとも前に進みません。
 
私としては、特定秘密保護法案が通ると行政のミスやムダが隠され、行政改革や公務員制度改革ができなくなるということを訴えたほうが効果的ではないかと思います。

高畑勲監督のアニメ「かぐや姫の物語」を試写会で観ました。
 
宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観たあとなので、どうしても比較してしまいます。
こちらのほうがわかりやすく、素直に感動できます。というか、空を飛ぶことが好きで戦争の道具をつくってしまった男の物語にはどうしても素直には感動できないというべきでしょうか。
 
しかし、「かぐや姫の物語」がわかりやすいかというと、そうではありません。ストーリーは「竹取物語」と基本的な部分は同じですが、考えてみればもとの「竹取物語」がなんとも不思議な物語ですから、「かぐや姫の物語」もすっきりとは割り切れません。
というか、いろんなとらえ方が可能で、人によって解釈も違ってきそうです。
 
水彩画のような絵は美しく、観ていて飽きるということがありません。
とはいえ、2時間17分は少し長く、もう少し短くできる余地があったと思います。
 
最初、かぐや姫は竹取の翁と媼のもとで、自然豊かな田舎で育ちます。シカ、イノシシ、キジ、カエル、バッタなどの生き物に囲まれ、近所にはいっしょに遊ぶ子どもたちがいますし、木のお椀などをつくる木地師の一家もいます。定住しない木地師は被差別民だったという話もありますが、この田舎には差別というものがありません。
やがてかぐや姫は成長し、都に住むことになります。都は田舎とはうって変わって、貴賎と貧富が最大の原理である社会です。
つまり自然とともに生きる生活と、文明化され貴賎と貧富に支配される生活とが対比されます。自然の描写に力が入っていることから、高畑監督の狙いもここにあるではないかと想像されます。
 
そして、もちろんのこと男と女の物語でもあります。
かぐや姫は高貴な男たちの求愛を、無理難題をいってはねつけます。かぐや姫は「男を徹底的に拒む女」なので、フェミニストから高く評価されたりします。
ちなみにかぐや姫の声優をやった朝倉あきさんは、インタビューで「いちばん好きなセリフはなんですか」と聞かれて、「『私は誰のものにもならない!』です」と答えていました。
原作では拒んだ挙句に月の世界に帰っていくのですが、「かぐや姫の物語」では幼なじみとの恋が描かれます。色恋がまったくないのでは今の観客は納得しないので、これは当然の改変でしょう。
しかし、この恋の比重はそれほど重くありません。
 
それよりも重いのは、かぐや姫と育ての親との関係です。
竹取の翁と媼はかぐや姫を赤ん坊のときから育て(かぐや姫は成長が早く、1年で初潮を迎えます)、翁はかぐや姫に、高貴な人間になるような教育を授け、結婚相手を探して玉の輿に乗せようとします。しかし、かぐや姫は教育されることは好きではないし、結婚もしたくありません。ただ、媼はかぐや姫の理解者で、都の屋敷の一角に、田舎と同じような暮らしのできるところをつくります(マリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿の一角に田舎そのままの庭をつくったことが思い出されます)
 
教育や結婚を巡る親子の葛藤はあっても、翁と媼にとってかぐや姫を赤ん坊から育てたことは喜びであり、かぐや姫にとっても幸せな記憶です。
そして、この幸せは田舎暮らしと結びついています。
田舎では、子どもは野山で自由に遊んでいます。いくら騒いでも誰にも叱られません。
今の時代、親は子どもが騒ぐと、静かにしなさい、行儀よくしなさいと叱ります。そうすることでよい人間にしようと思っているのですが、実際のところはイジメをする人間やヘイトスピーチをする人間になるのがオチです。
 
親子関係でむずかしいのは、親離れ子離れですが、かぐや姫の場合は、月からの迎えがくるので必然的に親離れ子離れができてしまいます。翁と媼も、なにしろ竹の中から授かった赤ん坊ですから、そうした別れは予感していたと思われます。これはむしろいい形の親離れ子離れであるかもしれません。
 
そもそもなぜかぐや姫は月から地上にやってきたのかという疑問がありますが、それについては結末で説明らしいものがあります。また、「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーの説明にもなっているのかもしれませんが、私はあまり腑に落ちませんでした。ネタバレになるので具体的には書けません。
 
月の世界は超越的な世界です。地上は、愛することや別れることのある人間(生き物)の世界です。これもまた対比になっています。
 
自然と文明、男と女、親と子、天上と地上という重層的な構造の物語ですが、高畑監督の意図は、たとえば赤ん坊であるかぐや姫がカエルの動きをまねてハイハイをし、立ち上がるというシーンを見ても明白です。
 
ただ、へんに冷静な気分で見てしまったなあという思いがあります。
その理由を考えると、普通観客は主人公に感情移入して映画を観るものですが、かぐや姫はその存在そのものが謎で、なにを考えているのかよくわからないので、なかなかかぐや姫に感情移入できないということがあると思われます。
そのため物語に深く入っていけないのです。
ただ、それによって物語全体を鳥瞰することになり、人間についていろいろ考えてしまうという効果もあります。
 
宮崎駿監督の「風立ちぬ」は、宮崎監督の主人公に対する思い入れが深く、そのため矛盾もありますが、いろいろ考えさせられる作品です。
高畑勲監督の「かぐや姫の物語」は、高畑監督の思い入れは特定の人物ではなく物語全体にあると思われ、そのためにいろいろ考えさせられます。
いろいろな意味で対照的な作品です。

宮内庁の風岡典之長官は1114日の記者会見で、天皇、皇后両陛下が亡くなられた際の葬儀について、両陛下の意向を受け、火葬を導入し、墓に当たる陵を小規模化すると発表しました。
 
私がこのニュースを聞いて思うのは、天皇陛下は自分の葬儀についても自分だけでは決められず、最終的に宮内庁が決めるのだなあということです。
実は両陛下はもっと前から簡素な葬儀を望んでおられたのです。
次の1年半前のニュースでそのことは明らかになっています。
 
 
天皇皇后両陛下の「火葬検討」は費用抑えるためと専門家指摘
 426日、羽毛田信吾宮内庁長官は定例会見で、宮内庁は天皇皇后両陛下のご意向を受け、両陛下がご逝去の際、皇室の伝統である大がかりな“土葬”ではなく、一般的な“火葬”を検討していることを発表した。さらに両陛下は、お墓にあたる陵(みささぎ)の小規模化も望まれているという。
 
「両陛下が、生前のうちから葬儀について、ご意思を伝えられること自体が極めて異例のことです。今回の陛下のご意向は、“遺言”ともいえるものなのではないでしょうか」(宮内庁関係者)
 
 明治時代を迎えると、天皇は“神”として崇められるようになり、明治天皇は古代の天皇と同じように陵(古墳)が京都に造られ、埋葬された。この方式は大正天皇、昭和天皇にも踏襲されることとなり、各々東京・八王子市に陵が造られた。また、明治以降のそれぞれの皇后も、天皇の陵の隣りに別の陵を造り、安らかに眠られている。
 
 このような方式に両陛下が異を唱えられたわけだが、それが、なぜいまこのタイミングで発表されたのか。それには、両陛下の強い信念がある。両陛下が即位されて以降、ずっと大切にされてこられた“すべては国民とともに。国民のために”という思いだ。
 
 振り返れば、1989年に昭和天皇が崩御されたとき、その大喪は極めて大がかりなものであった。皇室に詳しい静岡福祉大学・小田部雄次教授はこう話す。
 
「葬儀に当たる“大喪の礼”には国家元首をはじめとして、使節、大使など世界164か国の人々が参列したため、警備にも約25億円が割かれました。また棺を“葱華輦(そうかれん)”という巨大な輿(こし)で運び、東京・八王子市に約30億円をかけて造られた武蔵野陵に埋葬されました。結果、葬儀に使われた費用は約100億円と莫大なものとなったんです」
 
 ちなみに2000年に亡くなられた昭和天皇の后である香淳皇后の武蔵野東陵建設の費用は約18億円だった。質素倹約を大切になさる両陛下は、国民のためにも葬送そのものを簡素化することを考え始められたという。
 
「近年の日本経済の低迷による貧困層の拡大や東日本大震災で苦しむ被災者を間近でご覧になり、“自分たちの葬送に多額の費用をかけるわけにはいかない。国民に負担は強いられない”とお考えになられたのではないでしょうか」(前出・小田部教授)
 
 常に弱者の心に寄り添われてきた両陛下だからこそ、今回の異例ともいえる発表に至ったのだろう。
 
※女性セブン2012524日号
 
 
つまり宮内庁は1年半前に「検討している」と発表し、今回やっと「決定した」と発表したのです。
しかも、この記事を読むと、両陛下は昭和天皇や香淳皇后の葬儀を見て、そのときから葬儀の簡素化を考え始められたようです。
おそらくそのころから宮内庁も検討を始めたはずです。そして、1年半前にほぼ実施の方向が決まったので「検討している」と発表したのでしょう。「検討している」と発表しながら、のちに「検討した結果、やめました」と発表するのはみっともないので、そんなことにはならないはずです。
 
とはいえ、「検討している」と発表してから最終決定まで1年半かかるのは、長すぎる気がします。その前から数えると、もっとかかっているわけです。
両陛下としては、高齢の自分はいつ死ぬかわからないので、その前に決めておきたいという気持ちがあるはずなのに、宮内庁の役人はいつもながらのお役所仕事ぶりです。
 
外遊したり、外国からの賓客に会ったり、国内各地の式典に出席したりというのは、天皇陛下の意志ではなく、基本的に宮内庁の判断で決められているはずですし、それは当然のことのように思えます。
しかし、葬儀の仕方は天皇家の問題ですから、天皇陛下ご自身の判断か、天皇家一族の家族会議で決めていいはずです。
たとえば通産省に勤めている役人が自分の葬儀のやり方について、通産省に自分の意向を伝えて、認めてもらう(認めてもらえないこともある)なんていうことがあるわけありませんが、天皇家はそういう状態にあるわけです。
 
天皇家の行事には伝統としきたりがあるから勝手に決められないのは当然だという意見もあるかもしれませんが、天皇家の伝統としきたりは天皇家がつくってきたものです。決して宮内庁がつくってきたものではありません。国政に関与しない限りは天皇家で決めていいはずです。
葬儀の簡素化ですから予算の問題もないはずです。
 
ただ、宮内庁としては予算が減るから渋ったということはあるでしょう。予算をより多く獲得したいのが役所の本能だからです。
宮内庁の決定が遅れたのも、天皇陛下と宮内庁の暗闘があったからかもしれません。
 
ともかく、このニュースで明らかになったのは、天皇陛下にも意志があるということです。
そんなことは当たり前だといわれるかもしれませんが、私の見るところ、ほとんどの人が「天皇の意志」をないと思い込んでいるか、ないことにして物事を考えています。
おそらくかつての神格化の影響で、天皇が人間であるという認識がないのでしょう。
そのため、天皇制についての議論はいつもへんなことになってしまいます。
たとえば山本太郎議員の手紙手渡し問題にしてもそうです。
 
山本議員の行為を「天皇の政治利用」だといって批判する人がいますが、「天皇の意志」の存在を考えれば、山本議員に「天皇の政治利用」のできるわけがありません。「天皇の政治利用」ができるのは、宮内庁、政府、与党など「天皇の意志」を無視して天皇を動かしうる者だけです。
 
また、山本議員の行為を「失礼」だといって批判する人がいます。確かに一介の参議院議員が天皇陛下に直接手紙を渡すというのは失礼かもしれませんが、ほんとうに失礼か否かは天皇陛下自身がどう感じたかによって決まります。つまりここでも「天皇の意志」をないことにして議論がなされています。
天皇陛下自身は脅迫された山本議員の身を案じるなど、山本議員の行為をそれほど非礼とは思っていないようです。
 
では、山本議員の行為は、多少失礼である以外に問題はないのかというと、そんなことはありません。山本議員は手紙によって陛下の心を動かし、陛下が反原発や反特定秘密保護法案の発言をしてくれることを期待したのでしょう。これは「天皇の政治介入」を期待したということで、これは批判されないといけません(この点については左翼のほうが強く批判するはずです)
ただ、陛下はちゃんとした判断力を持っておられる方ですから、「政治介入」などされるはずはないのですが。
 
一方、山本議員は手紙によって天皇陛下に理解してもらおうとしたわけで、「天皇の意志」を認めていたことになります。
山本議員の行為について議論している人たちはいっぱいいますが、「天皇の意志」を認めている人はどれだけいるでしょうか。
山本議員がいちばんの“尊皇”であるかもしれません。
 
天皇が人間である以上意志があり、政治的な考えも持っていて当然です。
たとえば、将棋棋士で当時東京都教育委員であった米長邦雄氏が園遊会で天皇陛下に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけたとき、陛下はすかさず「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と返されました。これもひとつの政治的な考えの表明です。
このときもし陛下が「そうですか」と返したり、あるいは黙っていても、米長氏の発言を肯定したと受け止められて、はやり政治的意志を表明したことになります。
また、昭和天皇は、靖国神社にA級戦犯が合祀されてから靖国参拝をやめましたが、これなども政治的意志の表明になっています(参拝を続けても政治的意志の表明になります)
 
今上天皇はたいへん立派な方ですが、2代先、3代先にへんな天皇が出現して、ヘイトスピーチをして戦争の危機を高めるなどということがないとはいえません。
天皇が人間である以上、そうした可能性を考えておかねばなりません。
 
そもそも立憲君主制は、王制を残しつつ民主制を実現するという矛盾した制度ですから、いつその矛盾が表面化するかわかりません。
立憲君主制においては、王制の要素は次第に縮小していくのがいいはずです。
 
そうしたことを考えると、自民党の憲法改正草案が天皇を元首と規定するのは時代に逆行するものです。
それに、天皇陛下は天皇の元首規定に反対される可能性が高く、ここでも「天皇の意志」が無視されています。

日本のネット言論には独特の傾向がありますが、これはほとんど2ちゃんねるの傾向からきているのではないかと私は考えています。
そして、2ちゃんねるの傾向は、ほとんどが2ちゃんねるの創始者で元管理人のひろゆきこと西村博之氏の思想傾向からきているのではないかと私は考えています。
ですから、2ちゃんねるとは「ひろゆきの脳内ワールド」だということを前に書いたことがあります。
では、西村氏の思想傾向とはどのようなものかというと、従来の右翼左翼というような単純な概念ではとらえられず、よくわからないというのが実情です。ただ、2ちゃんねるの傾向イコール西村氏の傾向と見なしておいて間違いはないはずです。
 
そして、その証拠となるようなことが西村氏から発信されました。西村氏からアグネス・チャンさんへの公開質問状です。
 
 
アグネス・チャンさんへの公開質問状
 こんにちは。西村と申します。
 
アグネスさんが、下記のページに書いていることに、どうしても理解出来ないことがあり、お答え頂きたく、公開質問状という形で書かせて頂きました。
 
 
「今一番大事なのは、子供達の為に私たちもできることを考える事です。」
 
と仰られていますが、アグネスさんが募金先にあげている日本ユニセフ協会は、2012年度、募金の81%しか、ユニセフ本部に送っていません。
 
一方、ユニセフ親善大使をされている黒柳徹子さんは、募金の100%をユニセフ本部に送っているそうです。
 
 
子供のためを思えば、100%をユニセフ本部に送っているユニセフ親善大使の黒柳徹子さんを薦めるべきではないでしょうか?
 
 
さて、私からの質問は、1点です。
・募金額の100%をユニセフ本部に送っている黒柳徹子さんの振込先口座を紹介しないのはなぜですか?
以上となります。
 
ご多忙だと思いますので、ご回答を頂けなくても構いませんが、子供のためを思えば、子供により多くのお金が送られる手段を、影響力のあるアグネスさんに御紹介頂けると信じております。
 
よろしくお願いします。
 
 
この公開質問状については、すでにいろいろな批判が出ています。
まず、日本ユニセフ協会という団体(公益財団法人)と黒柳徹子さんという個人を同列に並べるのはおかしいのではないかということです。
また、黒柳徹子さんはユニセフ本部に任命された親善大使ですが、アグネス・チャンさんは日本ユニセフ協会大使です。それぞれの募金口座が別であるのは当たり前です。
それに、アグネス・チャンさんが黒柳徹子さんの口座を募金先として紹介するには、アグネス・チャンさんが黒柳徹子さんを完全に信頼していなければなりませんが、2人の関係についてなにも知らないはずの西村氏が口を出すことではありません。
 
また、日本ユニセフ協会は国連からの財政支援を受けず募金と政府の拠出金によってまかなわれているので、募金から活動資金に回る分があって当然です。19%という額が妥当なのかどうかわかりませんが、かりにすべての募金が黒柳徹子さんに集中すれば、日本ユニセフ協会の活動資金が足りなくなってしまいます。
 
もちろん日本ユニセフ協会が完全にまっとうな団体であるかどうかわかりません。日本赤十字社についてもいろいろな噂があります。だいたい権力とか権威というのは腐敗するもので、ユニセフも十分に権威です。
 
もし日本ユニセフ協会に問題があるなら、ユニセフ本部にも問題のある可能性があります。国連の現地職員が援助物資と引き換えに難民の少女に性的虐待を行っていたとか、国連平和維持軍の兵士が現地の女性をレイプしたとかいうニュースもありました。西村氏が日本ユニセフ協会に募金することが問題だと思うなら、黒柳さん経由で100%ユニセフ本部に募金することも問題と思わなければいけないはずです。
 
このように西村氏はまったくよけいなところに首を突っ込み、論理的にも破綻しています。
 
では、なぜ西村氏はよけいなところに首を突っ込んだかというと、標的が「アグネス・チャンさんの募金活動」であったからでしょう。つまりこれを批判することは「偽善」をあばく「正義の行為」のように見えるのです。
 
もちろんアグネス・チャンさんの行為が「偽善」だといっているわけではありません。すべての慈善行為は「偽善」に見えるものです。
 
2ちゃんねるでは、子どもが難病になって手術に膨大な費用がかかるので親が子どものために募金を求めるといったケースについて、この親は金持ちなのに募金を求めるのはけしからんというスレが立てられて“祭り”になることがよくあります。2ちゃんねらーは募金だの慈善だのが嫌いなのです。
そして、それは西村氏と同じだということが今回の公開質問状でわかりました。
 
西村氏が2ちゃんねるを創始して長年運営しているうちに、西村氏と同じような人間が集まってきて、2ちゃんねるの独特の傾向が生まれたのです。
 
偽善を批判することは、偽善をなくして真の善を目指す行為のように見えますが、実は偽善をなくして真の悪を目指す行為であるかもしれません。
どちらであるかは、偽善を批判する人の日ごろの行動を見ればわかります。
 
西村氏は多くの民事訴訟で敗訴し、多額の賠償金を支払うよう裁判所から命令されていますが、まったく払っていません。
そうした人間がユニセフの募金がよりうまくいくようにと願って公開質問状を出したとは思えません。
となると、公開質問状はアグネス・チャンさん個人に対する攻撃ではないかと思われます。
巨悪を攻撃するのではなく弱い者を攻撃するというのも2ちゃんねるのひとつの特徴です。
 
そもそも裁判所の命令に従わないような人間が公的な発言をすることも問題です。
わが身のことは棚に上げて他人を攻撃するというのも2ちゃんねるのひとつの特徴です。
 
やっぱり2ちゃんねるは「ひろゆきの脳内ワールド」なのだなということを改めて思います。

小泉純一郎元首相が1112日、記者会見し、「原発即時ゼロ」を主張しました。
原発ゼロを主張する人は世の中に山ほどいますが、さすがに小泉氏は主張の仕方がうまいなあと感心させられました。
 
普通の人は、原発反対の理由として、安全性の問題を第一に挙げます。その次はコストでしょう。建設から廃炉までに膨大なコストがかかる一方、最近はシェールガス革命で火力発電のコストが低下しています。
しかし、小泉元首相はそうしたことには目もくれず、高レベル放射性廃棄物の最終処分場はどうするのかという一点に絞っています。
ここが小泉元首相のうまいところです。
 
安全性の問題は複雑です。専門家の意見を参考にしなければなりませんが、原子力ムラ寄りの専門家がいっぱいいますし、データにしてもそのままは信用できません。ですから、安全性について議論していくと、いつまでたっても結論が出ません。コストの問題も同じです。
その点、最終処分場の問題は明快です。あるのかないのかだけです。
 
フィンランドは地下520メートル、フランスは地下480メートルのところに最終処分場を建設中です。
日本でも「地下300メートル以上の安定した地層内に埋める」ということで候補地を公募していますが、まったく決まりません。そもそも日本に「安定した地層」があるのか疑問です。
 
2011年には、日米が共同でモンゴルに最終処分場をつくる計画があると報道されたことがあります。しかし、結局立ち消えになったようです。多額の経済援助を約束することでモンゴル政府は説得できるかもしれませんが、国民の賛成は得られないでしょう。
 
ちなみにアメリカも最終処分場がなく、核廃棄物をロケットに載せて打ち上げ、太陽に落下させるということまで計画したそうです。もちろん計画は中止になりました。打ち上げに失敗したら悲惨です。
 
ですから、「最終処分場はどうするのだ」と言われると、原発推進派はまともに答えられません。専門家がむずかしいことを言ってごまかすということもできません。ですから、小泉元総理はそこを突いたのです。
 
最終処分場が決まらないということは、原発反対派もほんどの人が知っているはずです。しかし、そのことを主要な反対理由にする人はあまりいませんでした。というのは、中間貯蔵所にずっと貯めておけば、問題の先送りができるからです。よくわかりませんが、数十年、もしかして100年以上先送りできるかもしれません。
ですから、安全性やコストの問題のほうが重要と判断していたわけです。
 
しかし、小泉元首相の判断は違いました。
大衆を動かすには、むずかしい安全性やコストの問題を議論するよりわかりやすい最終処分場の問題だけを議論したほうがいい――。
おそらく小泉元首相の判断が正しいのでしょう。
 
 
それから、小泉元首相は安倍首相に的を絞りました。
 
原発推進勢力は電力業界、財界、通産省、原子力の専門家、マスコミなど巨大ですが、小泉元首相は「安倍首相が決断するだけで原発ゼロは実現できる」と主張します。こう言われると、もちろん安倍首相にもプレッシャーでしょうが、大衆も乗りやすくなります。
というのは、人間は基本的に勝ち馬に乗りたいので、「敵は強大だが、がんばって勝利しよう」というよりも、「あとひと押しで勝利できる」といったほうがいいわけです。
 
かつて「郵政民営化が構造改革の本丸」と的を絞り、「郵政民営化さえすればすべてうまくいく」という夢を見させて大衆を動かしたのとまったく同じ手法です。
しかし、今回は「原発ゼロにすればすべてうまくいく」というような夢を見させるわけではありません。「原発ゼロ」が夢であり目標であるわけですから、今回の小泉元総理の手法に文句をつける必要はないと思います。
 
人間はなにか判断するときは総合的にしなければなりませんが、大衆を動かすときにはワンイシューに絞って訴えるという小泉総理のやり方は、政治家に限らず誰もが学ぶべきことかもしれません。

「天声人語書き写しノート」が2011年4月の発売以来、累計200万部に達したそうです。
この「ノート」は、ページの上段に「天声人語」の切り抜きを貼り、下段のマス目にその文章を書き写すというものです。
写経というのがありますが、その「天声人語」版といったところでしょうか。
しかし、写経には宗教的な癒し効果のようなものがあるでしょうが、「天声人語」を書き写すことにどんな効果があるのでしょうか。
 
漢字を覚える効果はあるでしょうが、今漢字を覚える必要性がそれほどあるとは思えません。
読むだけよりも書いたほうがより深く理解できるということはあるでしょうが、その時間をより多くの記事を読むことに使ったほうが生産的なはずです。
まさか「朝日新聞崇拝教」信者にとって「天声人語」はお経のようなものだなんていうことはないでしょう。
 
朝日新聞のテレビCMで新聞販売店の店主らしいガッツ石松さんが「ノート」を使っているシーンがあります。そのCMを見ると、書き写しをする理由がわかります。
 
朝日新聞CM はじめる男篇(30秒)
 
ガッツ石松さんは若い男とこんな会話を交わします。
 
「なにやってるんですか」
「勉強だよ、勉強。この年になってさ、急に勉強したくなってさ」
「へえー、なんの勉強ですか」
「人生勉強」
(中略)
「形から入るタイプでしょう」
「うん、そうそう」
 
「勉強」と「形」がキーワードです。
誰でも「勉強」したい気持ちを持っています。しかし、なにをどう勉強すればいいのかよくわからないし、むずかしいことはしたくない。そこで「勉強」の「形」をすることで手っ取り早く達成感を得ようという人にとって、「天声人語書き写しノート」はとても便利なアイテムとなっているのでしょう。
 
「ノート」は1冊で1カ月分です。「ノート」専用の保存ボックスも売られていて、12冊が保存できます。書き終えた「ノート」を見ると、達成感が得られます。
また、書き写すときに時間を測ると、だんだん速く書けるようになることが確認できます。
 
もちろん「天声人語」を書き写すことにはいろいろな効果があると思います。「天声人語」の多くは時事ネタですから、時事問題に自然と興味がわいてくるかもしれません。また、書き写すという単純作業には、たとえば編み物などもそうですが、一種の癒し効果があると思われます。
それに、「天声人語」がコラムとしてひじょうにレベルの高いことは間違いありません。たとえば読売新聞に同様のコラムとして「編集手帳」がありますが、はっきり言ってかなりの差があります。
 
とはいえ、ただ書き写すだけの作業をもって「勉強」とするのはどうなのでしょうか。
お手本通りに書き写すことは「習字」であっても「書道」ではありません。
ガッツ石松さんの年齢になって、ただ書き写すだけの「勉強」をしているのにはどうしても疑問があります。
 
これはやはり日本の学校がつくりだした問題ではないかという気がします。
つまり日本の学校は、「みずから学ぶ人間」をつくるよりは「勉強しなければならないという意識を持った人間」をつくりだし、また、「創造的」であるよりは「お手本通り」にする人間をつくりだしているのです。
 
「天声人語書き写しノート」には日本の教育の問題点が集約されています。

山本太郎議員が園遊会で天皇陛下に手紙を渡したことが大きな問題になっています。
山本太郎議員といえば反原発の象徴的存在ですから、原発推進派の人たちはここぞと山本議員批判をしますし、反原発派の人たちは山本議員擁護に回る傾向がありますから、よけいに議論が激化するのでしょう。
私は反原発派ですから、山本議員に甘くなる傾向がありますが、自分なりの観点からこの問題について書いてみます。
 
私が園遊会で天皇陛下に手紙を手渡すという山本議員の行動に最初に思ったのは、「そんな発想があったのか」という驚きでした。
これは、バイト店員がアイスクリームの冷凍ケースに寝そべった写真を見たときの驚きに似ています。
どちらも私にはまったく思いつかないことです。
おそらく多くの人にとっても同じでしょう。
そして私は、人が思いつかないことを思いついた人は、ただそれだけで評価することにしています。
大げさにいえば、こうしたことが人類を進歩させるからです。
 
普通の人や、天皇制を重んじている人は、天皇陛下に自分の手紙を渡すということは恐れ多くてできません。
反天皇制主義の人は、どこかで反天皇制のビラをまくかもしれませんが、天皇に会う機会があったとしても、手紙を渡してなにかを理解してもらおうとは思いません。
ですから、日本人には天皇に手紙を渡すという発想がないはずなのです。
少なくとも毎日、新聞の政治面を読んでいて“政治的常識”を身につけた人にはありえない発想です。
 
では、山本議員はなぜ思いついたのでしょうか。多くの人は「パフォーマンスだ」「目立ちたいためだ」と考えているようです。
しかし、結果的に批判のほうが多いので、パフォーマンスとしては逆効果です。
 
私の考えでは、山本議員は単に“政治的常識”に欠ける人なのです。天皇陛下についても、「話のわかってくれそうなおじいちゃん」みたいな認識だったのでしょう。それで手紙を渡してしまったのです。
 
ですから、「天皇陛下をバカにしている」とか「天皇陛下を尊敬していない」という批判も少し違います。山本議員は、天皇陛下を人間的に信頼していたわけです。
 
山本議員は、思いついたことは後先を考えずにすぐ行動に移す人のようです。俳優の立場で反原発発言をして、一時は仕事を干されたこともあります。
 
山本議員のような常識のない人間は政治家にふさわしくないという声が上がっています。しかし、常識のない人間だからいいということもあるのです。現に山本議員の行動は、沈滞した政治の世界に活気をもたらしています。
とりわけ「天皇の政治利用」ということについて議論が深まったのはいいことです。
 
私はもちろん「天皇の政治利用」には反対です。しかし、それ以前に「天皇の官僚利用」に反対です。
 
日本は官僚支配の国です。明治時代の初めこそ元勲や藩閥が国を支配していましたが、その後は帝大、陸士、海兵卒の学歴エリートである官僚が国を支配するようになりました。
官僚支配というのは、政治任用が徹底しているアメリカを例外として、どの国でもあるものですが、日本はとりわけ強いように思われます。
 
最初、山本議員が天皇陛下に手紙を手渡したときの様子は、このように報道されました。
 
園遊会で山本議員は、出席者の列から外れた反対側から陛下に手紙を渡した。陛下はいったん受け取り、後ろにいた川島裕侍従長にすぐに渡された。
 
これを読むと、陛下がみずから手紙を侍従長に渡したかのようです。しかし、そのときの映像を見ると、そうとはいえません。
 
(YouTube)前代未聞! 山本太郎 手紙を天皇陛下へ直接手渡す!
https://www.youtube.com/watch?v=gygY5q7ourA
 
 
陛下は受け取ったあと、体を右に向け、そのとき侍従長が手を出して手紙をつかみます。陛下は手をまったく動かしていません。
侍従長が手紙を「取り上げた」というといいすぎかもしれませんが、陛下自身が「手渡した」わけではなく、あくまで侍従長のほうが手紙を取ったのです。
 
手紙はそのあとどうなったかというと、宮内庁によって“没収”されてしまったようです。
 
山本議員の手紙、陛下に渡らず…宮内庁次長
山本太郎参院議員(無所属)が秋の園遊会で天皇陛下に手紙を手渡したことについて、宮内庁の山本信一郎次長は5日の定例記者会見で、「園遊会という場で国会議員が手紙を差し出すのはふさわしくない」と述べた。
 
手紙は同庁の事務方が預かり、陛下に渡っていないことも明らかにした。
 
山本次長は「園遊会は各界で活躍したり、功績を挙げた方を招いて接せられる場で、そういうことをすべきでないのは常識の問題」と指摘した。今後の皇室行事への影響について「一般化して考えるのは難しいが、行事や催しが円滑に開きにくくなる」との懸念を示した。手紙の中身については「私信なのでコメントを控える」とした。
20131160013  読売新聞)
 
「私信」と言いながら勝手に“没収”するとは信じられないことですが、それよりも問題なのは、宮内庁次長という役人が国会議員の行動を批判していることです。
明白な法令違反だということなら批判することも許されるかもしれませんが、「ふさわしくない」とか「常識の問題」と言っているので、法令違反を指摘しているわけではありません。
 
役人が政治家を批判するということは、それこそ政治的常識ではありえないことです。
なぜそんなことが公然と行われるかというと、宮内庁の役人は皇室の権威を背負っているからです。
これは「天皇の官僚利用」と言うべきではないでしょうか。
 
戦前、政友会と民政党が対立しているのに乗じて、軍官僚は統帥権を盾に国政を掌握しました。「統帥権を盾に」ということはまさに「天皇の官僚利用」ということです。
 
歴史を振り返ると、「天皇の政治利用」によってなにか大きな問題が生じたということはないはずです。しかし、「天皇の官僚利用」によって日本は軍国主義となり、破滅への道を突き進んだのです。
ですから、私たちが真に警戒するべきは「天皇の政治利用」ではなく「天皇の官僚利用」なのです。
 
民主党政権は「政治主導」あるいは「脱官僚依存」を目指しましたが、そのときの政権と官僚との戦いの過程でも「天皇の官僚利用」が見られました。2009年、天皇陛下と中国の習近平国家副主席との会見が急遽設定されたとき、羽毛田信吾宮内庁長官は記者会見を開き「二度とこういうことがあってはならない」と政権批判をし、小沢一郎幹事長が「辞表を出してから言え」とやり返すという一幕がありましたが、羽毛田長官の批判は民主党政権に大きな打撃となりました。
 
そして、マスコミは、このように官僚が天皇の権威を利用することをまったく批判しません。
 
ちなみに羽毛田信吾氏は7年間という異例の長きにわたって宮内庁長官を務めました。退任のときに朝日新聞にインタビューが掲載されましたが、そのインタビューは雅子妃のことについてはまったく触れていませんでした。そのころ国民が天皇家についていちばん知りたいのは、雅子妃の適応障害はどうなのか、いつ公務に復帰できるのかということだったのですが。
 
雅子妃は外務省にいるときは元気に働いておられました。なぜ宮内庁の管理下にいると適応障害になるのか不思議です。そして、それを追及しないマスコミも不思議です。
 
「天皇の政治利用」はいけないとされているので、官僚は天皇の権威を独占的に利用しています。
これは結局、政治主導がいつまでたっても実現できない大きな原因になっています。
 
私は、天皇家のあり方は宮内庁ではなく天皇家一族の人たちと国民が決めるべきだと思います。ここでも「官僚主導」からの転換が必要です。
 
山本議員はいわばトリックスターです。たった一人でも無鉄砲な行動力で古い体制を揺さぶります。こういう政治家も必要です。
 
手紙はおそらく山本議員に返却されることになると思われますが、誰がどのような理由で天皇陛下に読ませなかったかを説明してもらいたいものです。

謝罪会見をしたのに、みのもんた氏への批判はかえって強まっているようです。
しかし、その批判は的外れなものばかりのように思えます。
 
たとえば週刊文春は、みのもんた氏が次男のために南青山の一等地に2億円の豪邸を建てているということで批判しています。しかし、これは批判されることでしょうか。
みのもんた氏自身は鎌倉の豪邸に住んでいて、これが17億円だと報道されています。だとすれば、次男に2億円の家を援助するのは普通のことに思えます。というか、なんの援助もせず、次男が自分の収入だけで普通の家に住んでいれば、みのもんた氏は薄情と批判されかねません。
もっとも、「子孫に美田を残さず」という考え方からすれば、みのもんた氏のやり方はよくないことになりますが、「子孫に美田を残さず」という考え方が絶対正しいわけでもありません。自分に多額の収入があれば一族に恩恵を与えるやり方のほうが普通です。
 
結局、週刊文春の批判は、金持ちに対するやっかみでしかないと思われます。
 
みのもんた氏はキャスターとして他人の不祥事はきびしく批判してきたのだから、自分の不祥事で批判されるのは当然だという主張もあります。あるいは、自分のことは棚に上げて他人を批判してきたのはけしからんという主張も似たようなものでしょう。
これは筋の通った批判のように見えますが、こうした批判は本来、次男の不祥事がなくても成立するものです。
人間は誰でも叩けばホコリが出るものです。ですから、キリストが「汝らのうち罪なき者、石持てこの女を打て」と言ったとき、その場にいたパリサイ人は誰も石を投げなかったのです。
ところが、現代の日本では、みのもんた氏も一般の人もみんなが石を持って投げつけています。みのもんた氏の場合は、たまたま次男の不祥事が発覚したにすぎません。
みのもんた氏が番組をやめたあと、後任のキャスターがみのもんた氏と同じようにきびしく人を批判したとしたら、今みのもんた氏を批判している人はどうするのでしょうか。きっと後任のキャスターといっしょになって石を投げつけるのでしょう。今みのもんた氏に石を投げつけているように。
 
みのもんた氏はセクハラについても批判されています。セクハラが事実だとすれば、これは確かに重大な問題です。
ただ、今の時点では、セクハラの被害者が訴え出ていません。もちろん局アナと大物芸能人という関係で訴え出ることができないのだということは十分に考えられます。しかし、被害者の訴えがないというのはセクハラ成立の最大の要件が欠けているわけですから、あくまで“セクハラ疑惑”にとどまります。
 
このように考えると、みのもんた氏への批判は的外れか決め手を欠いたものばかりのようです。
 
とはいえ、みのもんた氏が“無実”であるというわけではありません。確実に“有罪”であると思われることがひとつあります。
それは、次男に対する体罰です。みのもんた氏は会見の中で、「私は殴るタイプなんです」と言っています。「殴ったのはいくつくらいまで?」という質問に対して、「中学の二年くらいまで殴ってました」と答えています。
これは「任意の自白」ですから、“有罪”と見なしていいはずです。セクハラが“疑惑”にとどまるのとは違います。
 
中学の二年まで殴っていたということは、次男の体が大きくなって一方的に殴れなくなったからやめたということでしょう。反省してやめたというのではなさそうです。
 
大阪市立桜宮高校で体罰を受けた生徒が自殺して以来、マスコミはスポーツ界の体罰についてはきびしい姿勢で追及しています。
みのもんた氏の場合は、家庭内の体罰です。いや、「体罰」といわずに「暴力」といったほうがいいでしょう。ドメスティックバイオレンスです。マスコミはドメスティックバイオレンスは追及しないのでしょうか。
 
みのもんた氏は「私は殴るタイプなんです」と、タイプという言葉を使っています。つまり、子どもを殴ったことを個人的行為ととらえるのではなく、暗に自分と同じタイプの人間がいるだろうと言っているわけです。そして、当然マスコミの中にも同じタイプがいるので、マスコミはこの問題を追及しないのでしょう。
 
みのもんた氏が番組を降板したのは、直接には次男の不祥事が原因です。とすると、次男に対して暴力をふるっていたことはいちばんに取り上げるべき問題のはずです。
また、番組キャスターがDVをしていたということももちろん大きな問題です。これでは学校運動部の体罰問題の追及もできませんし、幼児虐待の問題などの追及もできないはずです。
さらにいうと、石原慎太郎氏や橋下徹氏などタカ派政治家は体罰肯定論者である傾向があって、DVは政治的立場とも関連しています。DVの過去のある人間を政治的発言のできるポストにつけてきたテレビ局も批判されるべきです。
 
ともかく、みのもんた氏のDVを批判せず、的外れの批判ばかりしているマスコミは倫理観がマヒしているといわざるをえません。
 

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