村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2013年12月

安倍首相の靖国参拝にはびっくりしました。まるで自爆攻撃のようです。安倍首相の行動を肯定する国は世界にひとつもありません。
なぜこんな愚かな行動をしてしまったのかについていろいろと考えてしまいました。
 
ところで、「国のために戦って亡くなった方を国の指導者が追悼するのは当然だ」という意見がありますが、これはまったく的外れです。誰も追悼することに反対しているのではありません。靖国神社に参拝することに反対しているのです。終戦記念日に政府主催の全国戦没者追悼式があるので、追悼はそのときにしているはずです。ほかにパフォーマンスをしたいなら、千鳥が淵戦没者記念墓苑に行けばいいのですし、これまでに国立追悼施設をつくるという手もあったわけです。
 
靖国神社はずっと軍国主義に利用されて、今も軍国主義肯定、大東亜戦争肯定の史観を持った施設です。A級戦犯を合祀したことで、そのことは国際的にも隠しようがなくなりました。安倍首相の靖国参拝を肯定する国がないのは当然です。
 
私は、安倍首相の靖国参拝の前から日本の政治の世界に妙な力学が働いている気がしていました。というのは、特定秘密保護法に反対する朝日新聞の論調が突然イケイケになったからです。
 
朝日新聞が特定秘密保護法に反対するのは不思議ではありませんが、それまで安倍批判は控えていたのに、急にせきを切ったように特定秘密保護法批判、安倍批判の記事が紙面にあふれたので、読者である私はびっくりしました。
朝日新聞だけでなく毎日新聞、東京新聞もよく似た論調であるようです。
 
マスメディアがこれだけ思い切った批判ができるということは、背後になにかの支える勢力があるに違いありません。人間もメディアも力学に従って動くものです。
 
私が最初考えたのは、官僚組織でした。
特定秘密保護法は警察官僚の権限を拡大しますが、一般の官僚にとってプラスのことはなにもなく(今でも都合の悪いことは十分に秘密にできているので)、懲役最高10年というマイナスがあるだけです。特定秘密保護法はジャーナリズムを萎縮させるとよくいわれますが、もっと萎縮するのは官僚です。ですから、警察以外の官僚組織が特定秘密保護法をきっかけに安倍政権に反旗をひるがえしたので、朝日新聞などがイケイケになったのかと思いました。
 
それと、もうひとつの可能性は、アメリカが反安倍政権の態度を固めて、朝日新聞などがひそかにそれと連携しているのではないかということです。安倍政権があまりにも右翼的で、中国、韓国とうまくやっていけないことにアメリカがキレたのではないかと思いました。
 
それにしても、朝日新聞の安倍政権批判は、「安倍政権は戦前のような日本にするつもりだ」とか「自由にものもいえない時代がくる」といった昔ながらの批判で、こういう批判で効果があるのかなと思っていたら、安倍政権は防衛費の増額、共謀罪創設の検討、韓国軍への銃弾提供、そして靖国参拝と、朝日新聞の批判の通りのことをしてきました。
たとえていえば、朝日新聞が昔ながらのやり方で定点射撃をしていたら、ちょうど弾の当たる位置に安倍政権が動いてきたという格好です。
 
いや、これは皮相な見方です。
正しくは、たとえば高射砲で高空を飛ぶ飛行機を撃つときは飛行機の動く先を狙って撃つのと同じで、朝日新聞は安倍政権の動く先を読んで、そこに向けて批判の弾を撃っていたのです。
 
安倍首相は靖国参拝後、「恒久平和への誓い」と題した談話を発表しましたが、同時に談話の英訳文も発表しました。事前に準備がされていたことがわかります。そして、参拝と同じ日に在日米国大使館も「米国政府は失望している」という声明を発表しました。
ということは、安倍政権とアメリカ政府は事前にいろいろとやり取りをしていたのでしょう。その過程で、アメリカは安倍政権に愛想をつかし、そのことを知った朝日新聞などマスコミが一気に安倍政権批判を始めたというのが真相ではないでしょうか。
 
もちろん安倍首相はアメリカに逆らおうという気持ちがあったわけではありません。朝日新聞はこう書いています。
 
 
27日、首相官邸で記者団の取材に応じた首相自身もこう語るだけだった。「戦場で散った方々のご冥福を祈って手を合わせる。世界のリーダーの共通の姿勢だ。そのことを理解してもらうよう努力したい」
 
 説明を尽くせば、靖国参拝を米国は理解してくれる――。安倍晋三首相はそう思っていた節がある。
 
 「靖国参拝の問題は、米国人の立場に置き換えて考えてもらえればと思う」
 
 5月、首相は外交評論誌「フォーリン・アフェアーズ」のインタビューを受けた。首相はそこで、米大統領が戦没者を追悼するアーリントン国立墓地を引き合いに、現職首相が靖国に参拝する正当性を主張した。南北戦争の南軍の兵士も埋葬されている同墓地への追悼が奴隷制度の肯定に当たらないとする米大学教授の指摘を引用し、「靖国参拝も同様の議論ができる」とも訴えた。
 
 だが、首相の主張は米側に受け入れられなかった。
 
靖国神社はあくまで軍国日本を肯定する思想の施設ですから、アーリントン墓地とは違います。
 
これまで日本の右翼政治家は、軍国日本を肯定していると思われると具合が悪いので、靖国神社参拝を外国における戦死者追悼と同じだとごまかしてきました。安倍首相はこのごまかしを自分で信じ込んでしまったのでしょう。「自分の嘘にだまされる」とはこのことです。
 
安倍首相はこれまで、集団的自衛権行使容認、日本版NSC設置、辺野古移設推進などでアメリカに忠勤を励んできたので、アメリカはわかってくれると思ったのでしょうが、それはまさに日本人的な“甘えの構造”です。
  
安倍首相の靖国参拝で明らかに安倍政権の潮目は変わりました。アメリカの支持があるときの日本のマスコミの政権批判は強力です。「安倍首相は自分の信条のために国益を損ねた」という批判に安倍首相はどこまで耐えられるでしょうか。

「メタ認知」という言葉があることを最近知りました。
NHKの「探検バクモン」の「Oh No! スーパーブレイン 」という脳科学を扱った回でやっていました。そのときは、「自分の姿をビデオで見るような感覚」という説明でしたが、私がいいたいことは、もしかして「メタ認知」という一言で表現できるのではないかと思いました。
 
ネットで調べると、こういう説明になっています。
 
メタ認知(ウィキペディア)
メタ認知(メタにんち)とは認知を認知すること。人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。それをおこなう能力をメタ認知能力という。
 
メタ認知の概要(奈良教育大学)
メタ認知の「メタ」とは「高次の」という意味です。つまり、認知(知覚、記憶、学習、言語、思考など)することを、より高い視点から認知するということです。メタ認知は、何かを実行している自分に頭の中で働く「もう一人の自分」と言われたり、認知についての認知といわれることがあります。
 
身近なことでは、録音した自分の声を聞くといったこともメタ認知でしょう。自分のゴルフのスイングをビデオに録って、フォームの矯正をするといったこともそうです。
もちろんレコーダーやビデオなしにメタ認知は可能です。自分で自分の考えや感覚を客観的に認識すればいいわけです。
 
しかし、この説明だけではメタ認知の価値がよくわからないかもしれません。というのは、もし人間の認知が正しければ、メタ認知などどうでもいいことだからです。
 
ここで「認知バイアス」という言葉を持ってくるとわかりやすいでしょう。
「認知バイアス」は直訳すると「認知の偏り」ということになりますが、人間はもともと正しい認知ができない傾向があるということです。たとえば、「都合のよい事実しか見ない」「権威者の言葉を信じる」「隣の芝生は青い」「成功は自分の力、失敗は他人のせい」「損失の痛手は利益の喜びより大きい」といったことは誰にでもあります。ですから、どうしても「メタ認知」が必要なのです。
 
たとえていえば、人間はもともと色メガネをかけて生まれてきているのです。ですから、自分がどんな色メガネをかけているかを知って、頭の中で色を補正しなければ、世界を正しく見ることができないことになります。
 
生まれてきたときに、どんな色メガネをかけているかは、その人の個性によって少しずつ違います。さらに、それぞれの人生によっても違ってきます。つまり生まれつきの色メガネに、人生経験からくる偏見の色メガネが重なって、一人一人の見る世界が違っているので、私たちはつねに人と認識が違って争うことになります。
 
自分がどんな色メガネをかけているかを知って、頭の中で色を補正すれば、世界の正しい認識が得られることになります。
 
古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」という言葉が刻まれていたということですが、これはメタ認知と同義の言葉でしょう。
中学か高校のころに「汝自身を知れ」という言葉を知った私は、これこそが哲学の最終目的だと思いました。自分自身を知ることが世界を知ることだからです。
 
ところが、思想家や哲学者は「汝自身を知れ」という言葉を無視して、もっぱら世界について考えてきたようです。
最近になって、心理学、脳科学、行動経済学、進化生物学などにおける実証的、科学的研究によって認知バイアスの存在がどんどん明らかになるとともに、「汝自身を知れ」つまりメタ認知の重要性がわかってきました。
 
メタ認知という言葉は知らなくても、自然とメタ認知のできている人もいれば、できていない人もいます。
たとえば、宮崎駿監督は、自分の中に戦争好きの部分があることを認識して、戦争好きの部分と平和主義の関係を考えて「風立ちぬ」をつくりました。私も戦争映画が大好きで、自分の中に戦争好きの部分があることを認識しています。
一方、自民党の石破茂幹事長は軍事オタクですから、戦争好きの部分があるに違いないのですが、そういう自分を批判的に見ることができないので、口では平和をいいながら戦争好きの政策を進めるということをしています。安倍首相も同じです。
 
また、嫌韓の人は、韓国についていろいろと論じますが、もしメタ認知ができていれば、自分が嫌韓なのはどうしてなのか、韓流好きの人と自分とどこが違うのかというふうに考えを進めていくことができるでしょう。
 
道徳教育を強化するというのも、メタ認知のできない人の考えることだと思います。人物評価重視の大学入試にするというのも同じです。
 
今問題になっているさまざまなことは、メタ認知の欠如で説明できるのではないかと思います。
 
そして、私が思うに、究極の認知バイアスは「自分は正しい」という思い込みです。
「自分は正しい」という思い込みは、「相手が悪い」という認識と一体になっています。つまり「自分は正しい(相手が悪い)」という認識です。
 
そして、探せば相手の悪いところはいくらでも発見できるので、「自分は正しい(相手が悪い)」という認識はどんどん強化されていきます。
これが夫婦喧嘩から国家間の戦争までの原因です。
 
ここでメタ認知ができれば、「自分は正しい(相手が悪い)」という思い込みを持っているのは相手も同じであるということに気づき、ほんとうに正しいのはどちらかというふうに思考を進めることができます。
 
メタ認知あるいは「汝自身を知れ」は、やはり哲学の最終目的だと思います。

今年を振り返ると、大阪市立桜宮高校バスケットボール部キャプテンが顧問教師に体罰を受けたあと自殺したことがきっかけで、学校運動部とスポーツ界における体罰問題がクローズアップされたことが印象に残ります。
従来、体罰については賛否両論があり、どちらかというと体罰賛成論のほうが優勢だったと思います。しかし、初めに自殺者ありきということが議論を方向づけたようで、それまでテレビでも体罰賛成論をぶっていた橋下徹大阪市長も反対派に豹変し、体罰反対の世論が形成されました。
 
しかし、盛り上がりが急だっただけに、一過性のもので終わる恐れもあります。
もともと体罰是か非かは倫理学上の問題で、人間性善説と人間性悪説のどちらが正しいのかと同様に、いくら議論しても結論が出ない性格のものです。そうすると、次第におとなにとって都合のよい結論へと導かれる傾向があります。
 
そうしたところに、「ハフィントン・ポスト」に注目するべき記事を見つけました。これはちゃんとした学術的な研究結果ですから、一般のマスコミでも取り上げてもよさそうですが、どうやら「ハフィントン・ポスト」以外では取り上げられていないようです。
 
 
「幼少期の体罰」は将来の問題行動につながる:実証研究
悪いことをした子供に、平手打ちやお尻を叩くなどの体罰をすると、その子供がのちに問題行動を始めるリスクが高まる、という研究結果が発表された。
 
研究者らは、米国に住む1933組の親のしつけの習慣を、その子供たちが幼少期後半になったときの行動と比較して分析した。
 
この研究では、母親の57%と父親の40%が3歳の子供を叩いたことがあり、52%の母親と33%の父親が5歳の子供を叩いたことがあると回答した。
 
5歳の子供に対する母親の体罰は、たとえ回数が少なかったとしても、その子供が9歳になったときに問題行動(外在化行動:攻撃的な言葉使いや行動)を起こす頻度の高さに関係していた。体罰のおかげで、幼少期前半の子供の行動が管理できていたにもかかわらずだ。
 
5歳の子供を父親が頻繁に叩いていた場合は、その子供が9歳になったときに受けた語彙能力テストの点数の低さに関係していた。
 
論文の主著者で、コロンビア大学大学院社会福祉学研究科のマイケル・J・マッケンジー准教授はこのように解説する。「体罰をすれば、体罰には効果があるという手応えをすぐに得られる。だが、教育の目標は、子供が将来、自らをコントロールできるようにすることだ。その点において、体罰には効果がない」
 
児童虐待を防止するための団体NSPCCのフィリップ・ノイーズは、次のように語る。「証拠が示している通り、叩くことは効果的な罰し方ではなく、このような形でつらい過去を経験した子供たちにとっては特に、悪い前例を作ることになる。体罰は、暴力を振るうことが答えなのだと子供たちに教え、子供とその保護者の信頼関係を損なうのだ」
 
現在、米国では親による体罰は基本的に合法であり、どの程度の体罰が制限されるかは州によって異なっている。だが、ドイツやスペインなど欧州の20カ国では、親による体罰を禁じている。
 
英国では、親が子供を叩くことは違法ではないが、「妥当な体罰」の規則が2004年に定められており、どのような身体的な罰も、子供の肌に跡を残すようなものであってはならないとされている。
 
今回の研究は、「脆弱な家庭と子供の幸福についての研究」と題された、米国の中規模から大規模な20の都市に住む子供たちを対象にした長期的な出生コホート研究に基づいている。この研究では、子供が3歳と5歳の時点における保護者からの体罰に関する報告内容が、子供が9歳のときの外在化行動および語彙理解力と併せて評価された。
 
[The Huffington Post UK(English) 日本語版:佐藤卓、合原弘子/ガリレオ]
 
 
これはまさに実証研究によって体罰是か非かについて結論を出しているので、画期的だと思いました。
これまでは、体罰をするおとなは「これは子どもの将来のためだ」といい、子どものときに体罰をされたおとなは「体罰のおかげでまともな人間になれた」といい、本人がそういっているということで、なかなか否定できませんでした。
 
しかし、これは客観的な研究です。体罰を受けた子どもの主観は関係ありません。
初めて体罰否定論の正しさが客観的に証明されたことになるのではないでしょうか。
 
教育の世界でこうした実証的な研究が行われるようになると、たとえば道徳教育の効果なども客観的に評価できるようになるはずで、教育の世界は大きく変わるのではないでしょうか。
 
もっとも、よく考えると、そう単純なものではないかもしれません。
 
たとえば、この研究では「問題行動(外在化行動:攻撃的な言葉使いや行動)」というものを否定的にとらえています。しかし、「攻撃的な言葉使いや行動」を肯定的にとらえる価値観もあるはずです。それを「男らしい」と評価したり、兵隊になる適性があると評価したりすると、体罰肯定論につながってしまいます。
 
また、この記事に対するコメントの中にこのようなものがありました。
 
 
「統計では因果関係までは説明できない」
という初歩中の初歩で、この記事は裏が取れていない。
 
つまり、この統計にカウントされている被体罰児童が
「もともと悪い子だったから体罰をされた」
のか、
 「体罰をされたから悪い子に育ったのか」
の判別はデータからはできないということだ。
 
 
このコメントは「もともと悪い子」がいるという考えに立っています。当然、「もともとよい子」もいるという考えでしょう。
「もともと悪い子」に体罰をすると「よい子」になると考えているのか、このコメントをした人に聞いてみたい気がしますが、倫理学上の問題ではこの程度のいい加減さはありふれたことです。
道徳教育を強化するべきだと考えている人たちもどういう子ども観を持っているのか聞いてみたいものです。
 
 
ともかく、倫理学や教育学の世界はでたらめがまかり通っています。
しかし、こうしたでたらめは実証的、科学的な研究によって次第に払拭されていくはずです。今回の記事のような研究が進んでいくことを期待したいものです。

安倍内閣は1217日の閣議で「国家安全保障戦略」を決定しました。
 
安倍首相がここまで“戦争好き”であるとは思いませんでした。国家安全保障会議(日本版NSC)設置、特定秘密保護法可決、集団的自衛権行使容認、海兵隊に近い水陸機動団設置などを次々に打ち出し、一方、外交面では日中首脳会談をせず、中国周辺の国ばかり訪問しているので、中国人が日本は中国との戦争準備をしていると受け取っても不思議ではありません。
 
中国のニュースサイト「環球網」が実施した調査で、「日本はアジア最大の脅威だ」とする専門家の主張に賛同を示した中国人は98%に上ったということです。
 
もちろん多くの日本人は、日本から中国に戦争を仕掛けるということはありえないことだと思っていますが、過去に日本は中国に繰り返し戦争を仕掛け、広大な面積を占領していたこともあったわけですから、その記憶がある限り中国人が心配するのもむりからぬところです。
 
過去の記憶に縛られているのは、安倍首相など日本のタカ派も同じです。
「国家安全保障戦略」には「愛国心」も盛り込まれました。これが戦前の感覚を引きずっていると思います。
 
ただ、マスコミは「国家安全保障戦略」に「愛国心」を盛り込んだことを批判しますが、その批判の仕方があまりにも紋切り型です。
たとえばこんな具合です。
 
 
「朝日新聞」
 今回の国家安全保障戦略(NSS)には、「我が国と郷土を愛する心を養う」という文言が盛り込まれた。NSSはその理由を、「国家安全保障を身近な問題としてとらえ、重要性を認識することが不可欠」と記す。
 
 国の安全保障政策が、個人の心の領域に踏み込むことにつながりかねない内容だけに、NSSに「愛国心」を入れることには、与党内にも慎重論があった。
 
 
「高知新聞」
「愛国心」を養う必要性を盛り込んだことにも違和感を覚える。安保政策への国民の理解を高めるとの理由からだが、あえて心の問題に踏み込まなければならないほど国民が国や郷土を思う気持ちは弱いのか。
 
 
「北海道新聞」
NSSは安全保障を支える社会基盤強化策として「わが国と郷土を愛する心を養う」と記した。
 
 また、国民一人一人が安全保障の重要性を深く認識することが不可欠だとして、高等教育機関でこの問題を教えることや、国民の意識啓発を打ち出した。
 
 首相は国防体制強化には国民の「愛国」意識高揚が欠かせないと考えているのだろう。個人の内心に踏み込み、憲法が保障する「思想および良心の自由」に抵触しかねない。
 
 
どの記事も「個人の心に踏み込む」ということで批判しています。まるで記者は他紙の記事を見て自分の記事を書いているみたいです。こういうものに説得力はありません。
 
これと同じことは「特定秘密保護法」に対する批判記事についても感じました。マスコミは「国民の知る権利が侵害される」ということ繰り返しましたが、私たちは「知る権利があってよかった」と思ったことがほとんどないので、説得力がありません。河野太郎議員が指摘したように、「特別管理秘密」というのが行政によって勝手に設定されているので、もともと私たちの知る権利は侵害されていたのです。そのことをまったく報道しないで、「特定秘密保護法」が出てきたときだけ国民の知る権利を持ち出すのでは、説得力がなくて当然です。
 
今回の「国家安全保障戦略」でも同じことがいえます。すでに教育基本法に愛国心が盛り込まれ、道徳教育の教科化が推進されるなど、国家が「個人の心に踏み込む」ということが行われているのですから、今さら「個人の心に踏み込む」などと批判しても、こちらの心には響きません。
今回の場合は、「今まで『個人の心に踏み込む』のは教育現場だけだったが、これからは一般社会でも行われることになった」とか、「これまで愛国心教育は児童生徒が対象だったが、これからはおとなも対象となった」というのが正確な表現です。
 
それから、見る角度を変えると、「安全保障や軍事の分野にも心の問題が持ち込まれた」ということになります。
これはまさに戦前のやり方です。
 
盧溝橋事件のあった1937年、第一次近衛内閣は「国民精神総動員運動」を始めました。軍事と国民の精神を結びつけることを国策として行ったのです。そして、戦いが劣勢になるにつれて国民精神に求めるものが大きくなり、最後は竹槍訓練にまで行き着きます。
また、軍事と精神を結びつけることは、軍の作戦の劣化も招きます。「大和魂」や「必勝の信念」があれば勝てるということで、無謀な作戦が実行されます。
特攻作戦もこうした精神主義がもたらしたものでしょう。
 
安倍首相ら日本のタカ派は、戦前の日本のあり方に対する反省がないので、また同じことを繰り返してしまいます。
それに、「国民精神総動員運動」というのは総力戦の時代のやり方です。安倍首相らはどういう戦争を想定しているのでしょうか。短期戦の勝敗に国民の愛国心は関係ありません。
現代の戦争は兵器の性能と兵員の技能が決定的に重要なのですから、「国家安全保障戦略」を策定する以上は、精神主義ではなく合理主義に立ってやってもらいたいものです。
 

最近、週刊誌が嫌韓記事を載せるのが目につきます。これまで嫌韓の論調はネット内であふれていましたが、週刊誌にも伝染した格好です。
「週刊新潮」と「週刊文春」の最近の号で嫌韓記事がトップ記事になっているものを挙げると、こんな具合です。
 
「週刊新潮」
20131219日号 反日「韓国」の常識と非常識 弟は覚醒剤で5回摘発! 妹は詐欺で有罪! 身内に犯罪者「朴槿恵(パククネ)」大統領孤独の夜
 
2013125日号 大新聞が報じない「韓国」の馬脚 「朴槿恵(パククネ)」大統領を反日に染め上げた父の捏造教育
 
20131128日号 「朴槿恵(パククネ)」大統領の父は「米軍慰安婦」管理者だった!
 
「週刊文春」
20131219日号 日本人は知らない 韓国マスコミが突いた朴槿恵大統領の「急所」
 
2013125日号 「中韓同盟」10の虚妄
 
20131121日号 韓国の「急所」を突く!
 
これだけ嫌韓記事が続くということは、読者の反応や売上げもいいということなのでしょうか。
 
急に嫌韓記事がふえたのは、朴槿恵大統領がかたくなな反日姿勢を取っているということが直接の理由かと思いますが、今の日本にとって韓国あるいは日韓関係はそれほど重要なこととは思えません。
 
そもそも日韓にはイデオロギーというか思想的な対立はありません。竹島問題や慰安婦問題はありますが、中国や北朝鮮の存在を考えると、日韓関係は強化したほうが得策であるのは明らかです。
ですから、ネットで嫌韓を叫んでいる連中はバカというしかありません。
 
とはいえ、嫌韓を叫ぶ連中にも嫌韓を叫ぶ理由があるわけです。
私の考えでは、学校の中でイジメるかイジメられるかという関係を生きてきた人間が、自分にもイジメることができる存在として韓国を“発見”したのが嫌韓の始まりです。
それ以前は、北朝鮮がそういう対象としてありましたが、拉致問題が風化するとともに韓国がとって替わったわけです。
 
だいたいネットで熱心に書き込みをするような人間は、リアルではイジメられやすいタイプです(リアルでイジメられたのでネット書き込みに熱心になるという理屈もありますが)
そして、自己評価の低い人間も、自分より下の人間を見つけてイジメるという傾向があります(自己評価の高い人間は自分より上の人間を見つけて憧れ、目標にします)
つまり、自己評価が低くて、リアルでイジメられてきたような人間がネットで嫌韓を叫んでいるというのがこれまででした。
 
しかし、週刊誌まで嫌韓に走るとなると、日本人全体のメンタリティが変わってきたのではないかということになります。
つまり日本人全体に、イジメられた被害者意識と低い自己評価を持った人間がふえてきたのではないかと想像されます。
 
そういえば、「やられたらやり返す。二倍返しだ!」というドラマがはやりましたが、これなどイジメられた人にとりわけ受けそうです。
 
日本と韓国は旧宗主国と旧植民地の関係です。先輩と後輩、教師と生徒みたいなものです。
高度成長期とバブル期は、日本にとって最大の外交問題は日米経済摩擦で、韓国のことなど眼中にありませんでした。
今でも、韓流ドラマや家電などを別にすれば、あらゆる面で日本のほうが韓国よりも上です。
 
嫌韓記事を読んで喜んでいる日本人は、たとえていえば、旧植民地を批判する記事を読んで優越感にひたるイギリス人とか、メキシコの内情を書いた記事を読んで喜んでいるアメリカ人みたいなものです。
後輩をバカにする先輩、生徒をバカにする教師といってもいいでしょう。
 
週刊誌の嫌韓記事を読んで喜んでいる日本人は、自分自身の姿を客観的に見直してみるべきです。

特定秘密保護法が成立しましたが、余震が続いています。
 
石破茂自民党幹事長は記者会見で「特定秘密を報道機関が報じた場合はなんらかの方法で抑制される」といいましたが、のちに「公務員は罰せられるが、報道した当事者は処罰の対象にならない」と発言を訂正しました。やはり石破幹事長は特定秘密保護法のことがろくにわかっていなかったということがわかりました。
 
安倍首相は臨時国会の閉会を受けて12月9日に記者会見し、特定秘密保護法について「私自身がもっと丁寧に時間をとって説明すべきだったと反省している」と述べました。なぜ丁寧に説明することができなかったかというと、やはり安倍首相も特定秘密保護法のことがろくにわかっていなかったからでしょう。
 
特定秘密保護法は情報公開についてなんの配慮もない欠陥法律です。そして、そのことをごまかす意図なのかどうかわかりませんが、きわめてわかりにくい法律です。
法案をつくった官僚は、政権側にもマスコミにも法案の概要を説明しますが、法案の欠陥や問題点は説明しません。マスコミや日弁連などが法案を読み込んで問題点をあぶり出すのに時間がかかり、それが反対運動の盛り上がりの遅れにつながりました。
 
自民党の国会議員から反対の声が上がらないのは情けないという声もありましたが、自民党の国会議員もよくわかっていなかったのでしょう。朝日新聞に書いてあることをそのまま信じることも立場上できませんし、では、自分で法案を読み込んで理解するかというと、そんな面倒なことは誰もしたくありません。
 
ところが、自民党の河野太郎衆議院議員が、法案成立後というタイミングですが、自身のブログに特定秘密保護法賛成論を書き、「BLOGOS」というサイトで紹介されたので、私も読みました。
河野太郎議員は反原発で、行政改革にも熱心で、自民党に置いておくのは惜しい政治家です。今回のブログの記事もなかなか説得力がありました。私は一瞬、特定秘密保護法賛成に宗旨替えしようかと思ったぐらいです。
 
河野太郎公式ブログごまめの歯ぎしり「特定秘密保護法について」
 
いろいろと勉強になるので、実際に読んでいただきたいと思いますが、一応ここで河野議員の賛成論の中心的な部分を要約しておきます。
現在は、秘密にするべき情報は、「特別管理秘密」として、法律に基づかず、明文化された規則もなく、各省庁でばらばらに指定され、期間の上限も定められていない。しかし、特定秘密保護法が成立すると、行政だけではなく大臣、副大臣、政務官という政治家が関与して「特定秘密」として指定され、期限も定められ、明文化された規則に従って運用される。特定秘密保護法が成立しないと、今の「特別管理秘密」がずっと続いていくことになるが、それがいいとは思えない――これが河野議員の主張です。
 
私は河野議員のブログを読んで初めて、行政の中で「特別管理秘密」なるものが指定され、運用されていることを知りました。こうしたことはマスコミはほとんど報道していないと思います。マスコミはもっぱら政治のことばかり報道して、行政がなにをやっているかを報道しないので、われわれは全体像を認識することができません。
 
で、河野議員の主張に思わず納得しそうになったのですが、よく考えると、河野議員の主張にはおかしなところがあります。
河野議員は、特定秘密保護法によって「特定秘密」が指定されるようになると、「特別管理情報」の制度はなくなるという前提で主張しています。しかし、これは河野議員の勘違いではないかと思います。
 
つまりここに特定秘密保護法の欠陥があるのです。特定秘密保護法には「特定秘密以外の情報は原則すべて公開する」とか「特定秘密以外に秘密を設けてはならない」という規定はありません。
ですから、特定秘密保護法によって「特定秘密」が指定される一方で、従来の「特別管理秘密」もそのまま存続していくことになるはずです。
 
「屋上屋を架す」という言葉がありますが、「『特別管理秘密』に『特定秘密』を架す」というのが特定秘密保護法です。あるいは、「秘密を入れた金庫の中にまた金庫をつくる」というたとえのほうがいいかもしれません。
 
従来の金庫は懲役1年だが(国家公務員法・地方公務員法の守秘義務違反)、中に新しくつくった金庫は懲役10年だから、それなりに意味があると主張する人がいるかもしれませんが、実は米軍に関わる情報を収集・漏洩する者は懲役10年という法律(刑事特別法・日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法)がすでにあるということを軍事ジャーナリストの田岡俊次氏が指摘しています。
 
日本に「スパイ防止法」がないは誤り 焦点ボケの「特定秘密保護法」は古色蒼然
 
欠陥法律である特定秘密保護法の罠に、石破幹事長だけでなく河野議員もはまってしまった格好ですが、それでも河野議員は「特別管理秘密」というものがあるという貴重な情報を提供してくれました。
 
しかし、「特別管理秘密」の範囲というのもよくわかりません。
2001年から施行されている情報公開法に基づいて行政機関に情報公開請求をすると、黒塗りばかりの書類が出てくるという話はよく聞きます。これは「特別管理情報」なのか、それともその外側にもっと秘密が設定されているのでしょうか。
 
こうした秘密の指定・運用の実態をすべて踏まえた上で特定秘密保護法の必要性を主張してもらいたいものです。

猪瀬直樹東京都知事が徳洲会グループから5000万円を受け取っていたことが問題になっていますが、これは検察特捜部が徳洲会グループの選挙違反を摘発したことから出てきた情報です。普通、選挙違反の捜査は警察の領分で、特捜が手がけるのは異例です。特捜は、厚労省の村木厚子局長に対する冤罪事件、フロッピーディスク改ざん事件、小沢一郎氏に対する裏金捜査の不発などで続けざまにミソをつけて信頼を失っていましたから、これは「特捜のリハビリ」だということをいう人もいます。
で、今のところは特捜の狙い()通りにマスコミは踊ってくれています。猪瀬都知事の金銭問題は別にして、徳田毅衆議院議員や徳洲会の選挙違反はそれほど騒ぐ問題かと思います。
 
それはともかく、私は徳田虎雄徳洲会前理事長の姿をテレビニュースで見て、その存在感の強烈さに圧倒されました。
 
徳田虎雄氏は筋萎縮性側索硬化症という難病で、体を動かすこともしゃべることもできず、人工呼吸器につながれて生きています。この病気は脳の機能にはほとんど影響がないらしく、徳田虎雄氏は文字盤を目で追うことで意志表示をし、それで徳洲会グループの指揮を取っていたそうです。
体が動かず、しゃべることもできないのに、なおかつ徳洲会グループを支配することができたのは、徳田虎雄氏の「人間力」みたいなものが強烈だったからでしょう。
「人間力」という言葉はいい意味で使われることが多いので、ここは「動物力」といったほうがいいのかもしれませんが。
 
医大を出たとはいえ貧しい家に生まれた徳田虎雄氏が一代で日本最大の病院・医療事業グループを築くことができたのは、本人によほどの能力があったからでしょう。
この場合の能力は、もちろん知力、体力も含みますが、それ以外に、対人関係において人を圧倒する力があったからではないかと思われます。
私が人生の過程でもし徳田虎雄氏と出会っていたら、この人は敵にしたくない、この人とは争いたくないと思ったでしょう。こうした人は言いだしたら聞かないので、もし対立したらこちらが折れるしかないからです。その代わり、味方になると心強いですが。
 
特捜が狙うのはほとんどがこうしたタイプの人間であるようです。
 
たとえば小沢一郎氏も徳田虎雄氏と同じ雰囲気を持っています。
小沢一郎氏は二代目政治家なので出自は恵まれていますが、2年間浪人しても東大に入れず、司法試験にも失敗しているので、エリート層とは立場が違い、頑固さや押しの強さでのし上がったようなところがあります。細川連立政権のときは、新党さきがけや社会党に対してあまりにも強引な態度を取り、結局連立政権の崩壊を招きました。
 
鈴木宗男氏は貧しい家に生まれ、拓殖大学卒業ですが、その強引な性格で自民党の七奉行の1人にまでのし上がりました。
 
堀江貴文氏はサラリーマン家庭の生まれで、東大文学部に進みますが、麻雀、競馬、アルバイトにのめり込み、結局大学は中退しています。IT企業経営者としてプロ野球球団買収、テレビ局買収を仕掛け、衆院選にも出馬します。世間を騒がせ、摩擦を起こしても強引に突き進む性格です。
 
こうした人間は誰にも止められません。止めることができるのは検察だけです。
 
もちろん検察は、強引で頑固な人間は誰でも止めるわけではありません。なにか目的があって止めるわけです。
 
小沢一郎氏はもちろん政治の世界を大きく変えようとしていましたし、鈴木宗男氏は外務省に対して大きな力を振るっていました。堀江貴文氏は“小泉改革の尖兵”というべき立場で衆院選に出馬しました。
これらにおいて検察は“官僚支配体制を守る”という目的で動いたのではないかと想像されます。
 
そこで思い出されるのが、小泉改革の時代に猪瀬直樹都知事が担った役割です。小泉内閣が行った道路公団民営化はそもそも猪瀬都知事のアイデアで、猪瀬都知事は小泉首相の意を受けて道路関係四公団民営化推進委員に就任し、道路公団民営化を中心になって推進しました。
副知事時代には、原発事故後の東電の値上げ申請に対して待ったをかけ、経営改革を迫りましたし、今も都営地下鉄と東京メトロの経営一元化を目指しています。
さらに、週刊誌情報によると、猪瀬都知事は周りの人から嫌われているようです。強引で頑固な性格なのかもしれません。
 
とすると、検察は猪瀬都知事のやろうとする改革をつぶすために、徳洲会の選挙違反を摘発し、猪瀬都知事の裏金情報をリークしたのかもしれません。
 
ともかく、民主党政権の成立と崩壊を経験した私たちは、政治の世界は政策本位で動いているのではないということを知ってしまいました。
政治の世界で力を発揮するのは、強引で頑固な性格の人間です。鳩山由紀夫氏も菅直人氏もそういう性格の人ではありませんでした。
 
安倍首相もそういう性格の人ではありません。ですから、官僚支配から脱することはできませんし、真の改革もできません。
 
ただ、菅義偉官房長官は高卒後集団就職で上京し、働きながら法政大学法学部(夜間)を卒業したという経歴ですし、強引で頑固な性格が前面に出ています。つまり検察から狙われるタイプの人間です。今のところ菅長官が検察から狙われる理由はありませんが。
 
ともかく、政治の世界は政策本位ではなく人間本位で見たほうがいろんなことが見えてきておもしろいものです。

特定秘密保護法案が12月6日深夜、参議院本会議で可決され、成立しました。
反対運動は終盤になってから盛り上がりましたが、遅すぎました。
これも推進派の計算のうちでしょう。スパイ防止法案は反対運動が高まったために廃案になったので、今回は時間的余裕を与えない作戦だったと思われます。
そして、こうした作戦が可能だったのは、特定秘密保護法案がきわめて難解につくられていたからです。
 
私はブログを書いている立場から、できるだけ原資料に当たるように心がけているので、特定秘密保護法案の全文に目を通そうと思いましたが、あまりにも難解でぜんぜん頭に入ってきません。しかも、法案全体が長いので、これを理解するのは至難の技だと思いました。
法律というのはだいたいむずかしい言い回しになっているものですが、この法案は特別で、わざとむずかしくしているのではないかと思いました。
 
【特定秘密保護法案全文】
 
特定秘密保護法4党修正案の全文
 
[特定秘密保護法(秘密保全法) 資料]
 
どんなふうにむずかしいか、適当なところを一箇所だけ選んで引用してみます。
 
4 行政機関の長は、指定をした場合において、その所掌事務のうち別表に掲げる事項に係るものを遂行するために特段の必要があると認めたときは、物件の製造又は役務の提供を業とする者で、特定秘密の保護のために必要な施設設備を設置していることその他政令で定める基準に適合するもの(以下「適合事業者」という。)との契約に基づき、当該適合事業者に対し、当該指定をした旨を通知した上で、当該指定に係る特定秘密(第八条第一項の規定により提供するものを除く。)を保有させることができる。
 
5 前項の契約には、第十一条の規定により特定秘密の取扱いの業務を行うことができることとされる者のうちから、同項の規定により特定秘密を保有する適合事業者が指名して当該特定秘密の取扱いの業務を行わせる代表者、代理人、使用人その他の従業者(以下単に「従業者」という。)の範囲その他の当該適合事業者による当該特定秘密の保護に関し必要なものとして政令で定める事項について定めるものとする。
 
法案のほとんどがこの調子で書かれているので、なかなか全体を理解することができませんし、どこに問題があるのかを把握することもできません。
新聞社が捜査の対象になるとか、一般人も処罰されることがあるといったことは、かなりあとになってから指摘されるようになりましたが、それはこの法案全体がわかりにくくなっているからではないかと思います。
森雅子特定秘密法案担当大臣は弁護士出身ですが、それでも自信なさげな態度で、官僚に教えられながらの答弁だったのは、法案が複雑すぎてよく理解できていないからではないかと思われます。
 
「報道ステーション」で朝日新聞の政治部の記者がいっていましたが、この法案をつくったのは内閣調査室と警察の官僚だそうです。
日本では、文系でいちばん優秀な人は東大法学部から官僚になりますが、その優秀な頭をまったく逆方向に使っているのはなさけない限りです。
 
こうした法案をつくるときは、「情報公開の原則」と「特定秘密の指定」という相反する概念の折り合いをどうつけるかがいちばん肝心なところで、ここに明快な線が引ければすっきりした法案がつくれるはずですし、そういうところに優秀な頭脳を使ってほしいものです(ツワネ原則がそういうことを定めているはずです)
しかし、官僚の頭に「情報公開の原則」という概念がないので、「行政機関の長」が自由に秘密を指定できるという法律になってしまいました(今になって第三者機関をつくるかどうかという話になっています)
 
この法案に賛成している人は、政治家、官僚の「行政機関の長」とその下の役人を信頼している人なのでしょうが、おめでたいというしかありません(あるいは政治家、官僚と利益を共有している人なのでしょう)
 
 
しかし、法案に反対している人も、その反対理由を明確に示しているとはいえないようです。そのため一般の人に対する説得力がありません。
たとえば、2ちゃんねるにこんな書き込みがありました。
 
スパイやテロリストじゃなければ、反対する理由がないんだよね
だから一般人は反対せず、マスゴミが騒ぐだけ。
 
池上彰氏のニュース解説はわかりやすいので定評がありますが、特定秘密保護法案についてこんなふうにいっています。
 
池上彰 秘密法案は「情報独占=権力」
2013126
 
 ジャーナリストの池上彰氏(63)が6日、都内で、ビジネス誌「日経WOMAN」が今年活躍した女性を表彰する「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2014」のゲスト審査員を務め、特定秘密保護法案について“解説”した。
 
 可決を急ぐ与党に対し、「議論は必要」と語った池上氏。小学校3年生から同法案について「教えて欲しい」と手紙を受け取ったといい、「情報を独占して力を持ちたい人がいるためにこのようなことが起こっています。情報を公開して判断するのが民主主義。可決されても声を上げていくことが大切です」と返信したと打ち明けていた。
 
 なお大賞は、2020年東京五輪招致に貢献したパラリンピック陸上走り幅跳び・佐藤真海(31)が受賞した。
 
池上彰氏の言葉は確かにわかりやすいですが、それでも肝心のところを「情報を独占して力を持ちたい人」とぼかしています。
一般のマスコミの反対論はもっとぼかしているので、さらに説得力がありません。
マスコミは官僚依存体質ですから、官僚批判ができないのです。
特定秘密保護法案の成立を許してしまったのも、マスコミにとっては自業自得というところかもしれません。
 
 
特定秘密保護法案が成立すると日本は戦前のような暗い時代になってしまうと心配する人がいますが、私はそれほどのことにはならないと思います。
私が高校生のとき、「建国記念の日」が制定され、これは紀元節の復活で戦前のような社会にするつもりだということで反対の声が上がり、私の高校では民青系の生徒が同盟登校を呼びかけるということがありました(当時の京都では共産党の勢力が強大でした)。しかし、結局のところ建国記念の日によって日本が戦前の社会のようになったということはほとんどないと思います。
「海の日」が制定されたときも、この日は明治天皇が汽船明治丸で横浜に帰着した日にちなんでいるということで、やはり戦前的なものの復活につながるという反対の声がありましたが、今になってはただの国民の祝日でしかありません。
 
安倍首相ら一部の政治家には戦前回帰の思想傾向があると思いますが、そういう方向に国民の意識を動かすことはできないと思います。
 
私は、特定秘密保護法案は官僚・役人の利益を守る法案で、国民の利益と相反するのでよくないと思っていますし、今後はそういう観点から改正を目指すべきだと思います。

自民党の石破茂幹事長が特定秘密保護法案反対の大音量のデモをブログで「テロと変わらない」と批判しました。これに批判が殺到すると、石破幹事長はブログで「お詫びと訂正」を発表し、テロに関する記述を取り消しました。しかし、その後の記者会見での発言を見ると、ほんとうに反省しているか疑問です。
 
普通の人は、こうした愚かな発言を見ると、批判して、抹殺したいと思います。これは、きたないゴミは早く捨ててしまいたいと思うのと同じです。しかし、今はリサイクルの時代です。きたないゴミでも、それについてよく知れば、再利用の方法もわかりますし、発生を防ぐ方法がわかることもあります。石破発言についても、よく知れば、われわれにとって役立つものになるかもしれません。
 
とりあえず「石破茂オフィシャルブログ」の記事で、テロ批判の部分と、そのお詫びの部分を張っておきます。
 
20131129 ()
今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
 
 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。
 
 
201312 2 ()
お詫びと訂正
 
 石破 茂 です。
  
  整然と行われるデモや集会は、いかなる主張であっても民主主義にとって望ましいものです。
  一方で、一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います。
  「一般市民に畏怖の念を与えるような手法」に民主主義とは相容れないテロとの共通性を感じて、「テロと本質的に変わらない」と記しましたが、この部分を撤回し、「本来あるべき民主主義の手法とは異なるように思います」と改めます。
 
 自民党の責任者として、行き届かなかった点がありましたことをお詫び申し上げます。
 
 
石破幹事長が撤回したのは、テロに関する部分だけで、デモ批判の部分は撤回していないようです。それは、12月2日午後の記者会見でもわかります。
 
石破氏再びデモ批判 「民主主義と異なる」
2013122 1400
 
 自民党の石破茂幹事長は二日付の「おわびと訂正」と題したブログで、特定秘密保護法案や原発再稼働に反対する国会周辺などでのデモを「テロ」と例えたことについて、表現を撤回し「党の責任者として、行き届かなかった点があったことをおわび申し上げる」と陳謝した。
 
 十一月二十九日付の「テロと本質的には変わらない」との表現は取りやめた代わりに、「本来あるべき民主主義の手法とは異なる」と重ねて指摘。デモを批判する姿勢は変えなかった。
 
 石破氏は二日午後に国会内で記者会見し、当初のブログ内容について陳謝。その上で、「整然と行われるデモや集会は民主主義にとって当然必要だと思うが、一般市民に畏怖の念、恐怖の念を与えることは、どんな主義主張であれ、やっていいとは思わない」と重ねて批判した。
(後略)
 
 
石破幹事長は特定秘密保護法案賛成の立場ですから、反対派のデモの主張を批判するのは当たり前のことですが、石破幹事長はデモのやり方を批判しています。これはデモの否定ひいては民主主義の否定と解釈されても仕方ありません。どうやら石破幹事長の脳内で混線が起きているようです。
 
すべての始まりは、石破幹事長の脳内に生じた「恐怖」です。
石破幹事長は大音量のデモに対して「恐怖」を感じたのです。
そして、石破幹事長は「恐怖」イコール「テロ」と考えました。「テロ」はもともと恐怖ないしは恐怖政治という意味で、恐怖で人を支配しようということですから、この発想はそれほど間違っていません。
ですから、石破幹事長はこのようなデモはテロと本質的に変わらないといったのです。
 
石破幹事長は2日の記者会見でも「畏怖の念、恐怖の念」という言葉を使っていますから、デモに対して恐怖を感じたのは間違いないでしょう。
 
石破幹事長が体験した議員会館の外のデモがどの程度の大音量であったのかわかりませんが、大音量のデモに恐怖を感じたというのが不思議です。
普通の人は、大音量のデモに対して、「迷惑」だとか「不快」だとか思うことはあっても、「恐怖」を感じることはないはずです。
東京都心では日常的に右翼の街宣車がそれこそ大音量で主張をがなり立てたり音楽を流したりしながら走り回っていますが、誰もいちいち「恐怖」を感じたりしません。
 
不意に大音量、たとえば爆発音とか物が壊れる音が鳴り響いたら、誰でも恐怖を感じるでしょうが、それはなんらかの危機を暗示するので当然です。しかし、デモ隊の発する音に恐怖する理由はありません。
 
石破幹事長はデモ隊が議員会館に乱入してくるとでも思ったのでしょうか。
あるいは軍事オタクだけに音波兵器でも連想したのでしょうか。
 
結局のところ、石破幹事長はデモ隊の「大音量」に恐怖したのではなく、デモ隊の「主張」に恐怖したのではないかと思われます。
つまり、石破幹事長は特定秘密保護法案を推進する立場にいながら、実は特定秘密保護法案の正しさに自信がなく、反対派の「主張」を聞くと、「良心の呵責」を感じてしまうのです。その「良心の呵責」を石破幹事長は「恐怖」と思ったのです。
 
もし石破幹事長が特定秘密保護法案の正しさに自信を持っていて、かつ“愛国政治家”だったら、デモ隊が声高に反対を叫べば叫ぶほど「一千万人といえども我行かん」という心境になったはずです。
 
「良心の呵責」というのは、特別な精神の働きではなく、人間であれば誰にでも備わっているものです。
人間は自分が正しいと思えば力が湧いてきますし、正しくないと思えば自信のなさそうな態度になります。
石破幹事長や森雅子特定秘密保護法案担当大臣の言動を見ていればわかりますし、安倍首相の言動にも自信はうかがえません。
 
デモ隊の音声に「恐怖」する石破幹事長を見るだけで、特定秘密保護法案がどんな法案かわかります。

安倍首相は保守主義者ということになっています。
といっても、今は保守主義者だらけです。右翼は右翼を名乗るのがカッコ悪いので自分は保守主義者だといいますし、中島岳志北海道大学公共政策大学院准教授など、どう見ても左翼ではないかと思える人まで、保守主義者を名乗っています。
 
保守主義とはなにかというと、むずかしくいえばいくらでもむずかしくなりますが、いちばん単純にいうと、古い制度を守ろうとする思想です。
 
そうすると、古い制度とはなにかという問題が出てきます。
フランス革命のときは旧体制を守ろうとするのが保守主義で、社会主義思想が出てきたときは資本主義体制を守ろうとするのが保守主義です。
しかし、今の日本においては、いろいろな立場の保守主義があります。
それについて考えるのにいい手がかりが朝日新聞の「天声人語」にありました。
 
(天声人語)明治日本がどう見える?
20131140500
明治の初期のころの庶民はたいそう機嫌がよかったらしい。いつもにこにこして、晴れ晴れしかった。大森貝塚の発見で知られる米国の博物学者エドワード・モース(1838~1925)が『日本その日その日』に書き残している▼3回にわたり滞日した。日本は子どもたちの天国だと、モースは繰り返し強調する。大切に注意深く扱われ、多くの自由を与えられつつ、自由を乱用はしない。その笑顔からして、彼らは〈朝から晩まで幸福であるらしい〉とまで書く▼偏見に曇った眼鏡よりは共感に満ちたバラ色の眼鏡を。そう信じたモースの記述はくすぐったい感じもするが、失われた時代の貴重な証言だ。彼は膨大な収集品も残した。火鉢や箱枕から店の看板や大工道具まで、暮らしの中の身近な品々である▼それらが里帰りしている。両国の江戸東京博物館で開かれている「明治のこころ」展である。品物だけではない。当時の日本の姿をいきいきと捉えたスケッチやガラス原板写真も数多い。いまだ文明開化の波の及ばぬ市井の日常がよみがえる▼赤ん坊をおぶった子らがにらめっこをする一枚に頬が緩む。障子紙をぼろぼろにしたイタズラ小僧たちも笑いを誘う。小林淳一(じゅんいち)副館長に聞くと、やはり子どもをめぐる展示に力を入れたという。いじめや虐待が絶えない今の世相が念頭にあった▼明治日本がただの異空間と映るか、それとも懐かしさやつながりを感じるか。見る側の機嫌のよしあしを占ってくれそうな試みである。
 
 
モースに限らず、幕末から明治初期に日本を訪れた欧米人は、とりわけ日本の子どもがたいせつにされていることに驚いたようです。また、子どもだけでなく、おとなの庶民も幸せだったようです。
 
こうしたことは次の本にも詳しく書かれています。
 
「逝きし世の面影」(渡辺京二著)平凡社ライブラリー
 
明治初期の庶民が幸せだったということは、明治維新以降、人々はどんどん不幸になっていったということになります。
明治維新以前の日本と明治維新以降の日本では、別の国といえるほどに違ってしまいました。
ですから、保守主義といっても、明治維新以前の日本に立脚するものと、明治維新以降の日本に立脚するものとではまったく違うことになります。
 
それから、明治維新以降の日本といっても、たとえば司馬遼太郎が「坂の上の雲」で描いたころの日本と、昭和の軍国主義化した日本とも大きく違ってしまいましたから、ここでも保守主義はふたつに分かれることになります。
 
安倍首相を初めとする多くの保守主義者は、軍国主義の日本に立脚しています。ですから、従軍慰安婦問題はなんとかなかったことにしたいし、侵略も言葉の定義が云々ということでごまかしてしまいたいわけです。

 
同じ保守主義者といっても、軍国主義日本に立脚している人と、軍国主義以前に立脚して、自由民権運動や大正デモクラシーなども視野に収めている人とではまったく違います。
 
そして、さらに違うのが明治維新以前の日本に立脚している人です。
「天声人語」にあるように、江戸時代の名残りのある明治初期の人々はいつも機嫌よくニコニコしていたようです。しかし、明治も中期以降になると、たとえば夏目漱石のように、みんな不機嫌になってしまいます。
となると、明治維新以前の日本に立脚するという立場があるのは当然です。むしろこれがほんとうの保守主義というべきでしょう。
 
しかし、そういう人はほとんどいないのが実情です。
多くの人は、明治時代の日本を伝統的な日本と思って、それ以前の日本を頭の中からまったく排除しています。
 
たとえば先日、アメリカのキャロライン・ケネディ駐日大使が信任状奉呈式のために馬車で皇居に入ったということがニュースになりました。馬車を使ったということが伝統的なやり方のように報道されましたが、明治以前の日本には馬車というものが存在しないので、あれは西洋式のやり方です。
日本の伝統的なやり方をするなら、牛車でやらないといけません。日本の皇室ないしは宮内庁は日本の伝統をないがしろにしています。
馬車に乗っているところなど外国のマスコミにとってはまったく珍しくありませんが、ケネディ大使が牛車に乗っているシーンなら、いかにも日本的だということで外国からも注目されたことでしょう。
 
これから日本が国際社会で存在感を持つためにも、日本人はなにが日本の伝統かということを正しく把握しないといけません。
 
それにしても、幕末から明治初期の日本人が機嫌がよくニコニコしていたということは、近代とか進歩というものについて根本的な見直しが必要になり、これを考えると否応なしに思想が深化していきます。
私などこれをつきつめて、文明の発祥のところまで行き着きました。
 
もっとも、「天声人語」は、「見る側の機嫌のよしあしを占ってくれそうな」ことと締めくくっています。「思想」ではなく「機嫌」の問題にしていることが巧みで、「天声人語」が万人受けするコツはこれかと思いました。
 

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