村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2014年01月

日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」の第3話が1月29日に放映されましたが、番組提供のスポンサー8社はすべてCMを自粛したということです(番組提供ではないのか、数社のCMは見られました)。最後まで放映されるか危ぶまれますし、あだ名で呼ぶシーンを少なくするなど、ドラマの内容が変更されるという話もあります。
これはまさに表現の自由の侵害であり、知る権利の侵害です。特定秘密保護法に反対した人たちがここで黙っているとすれば、おかしな話です。
 
それにしても、児童養護施設側の手口は悪質というしかありません。
 
「明日ママ」見て女児が自傷行為か
 全国児童養護施設協議会は29日、日本テレビの連続ドラマ「明日、ママがいない」の放送を見た児童が不安を訴えるなど実際に悪影響が出ているとして、新たな抗議書を日テレに送った。
 
 協議会によると、放送を見た女子児童が自傷行為をして病院で手当てを受けたり、別の児童がクラスメートから「どこかにもらわれるんだろ」とからかわれたりした。
 
 協議会は20日に抗議書を送付したが、22日の第2回放送でも子どもをペットと同列に扱い、恐怖心で子どもを支配するなどの表現が多く見られたと指摘。抗議書では「子どもたちを苦しめる事例が報告されている。人権に配慮した番組内容に改善するよう要請する」とし、2月4日までに文書で回答するよう求める。
 
 
これを読むと、女子児童が自傷行為をしたのはドラマを見たからだといわんばかりですが、施設の人間がほんとうにそんな決めつけをしていたら、その人間は児童の心理がわかっていないといわざるをえません。
 
そもそも児童養護施設がそこにいる児童の代弁者や代理人のようにふるまうことが根本的に間違っています。
これは老人ホームがそこにいる老人の代弁者や代理人になれるかを考えてみればわかるでしょう。
 
老人ホームでは、しばしば高齢者虐待が発覚して問題になります。虐待はしないまでも、十分なサービスや介護がなされていない施設はいっぱいあります。
有料老人ホームの場合は、入所者やその家族はさまざまな施設を見比べて、いいと判断したところに入所するわけですが、それでもサービスが悪いとか、職員の態度が悪いとか、虐待があるなどの問題が出てきます。
児童養護施設の場合は、実質的に子どもは選べないわけですから、もっと問題があっておかしくありません。発覚しない虐待はいっぱいあるはずです(普通の家庭にもあるわけですから)
 
そういうことを考えれば、児童養護施設は子どもの代弁をする資格がないどころか、むしろ子どもと利益相反関係にあるとさえいえるでしょう。
つまり、児童養護施設にとって都合のよい子どもは、虐待や手抜きのケアでも文句をいわない子どもです。
子どもが主体性を持って意見を表明するようになると施設は困るでしょう。
 
そういうことを考えると、児童養護施設協議会が「明日、ママがいない」の番組つぶしを狙うのは、ある意味合理的な行動でもあります。
というのは、「明日、ママがいない」は、子どもが主人公で、子ども目線から子どもやおとなを描くドラマだからです。
 
子ども目線からおとなを見るとどうなるでしょう。当然、「よいおとな」と「悪いおとな」がいます。そして、「よい施設」と「悪い施設」も見えるでしょう(このドラマにはひとつの施設しか出てきませんが、施設の子が見ると比べることができます)
 
今回の第3話には、「魔王」というあだ名の三上博史扮する施設長が子どもに対して「出ていけ!」とどなります。児童養護施設協議会はそんなことはありえないというのかもしれませんが、絶対にないとはいえません。いや、感情に任せて「出ていけ!」とどなってしまうのは、むしろ十分にありそうなことです。
理想的な施設しかドラマに登場させてはいけないとなれば、まともなドラマはつくれません。
 
日本では精神病院の出てくるドラマや映画はめったにありません。外国では、「カッコーの巣の上で」みたいな社会派映画だけでなく、精神病院を舞台にしたB級ホラーもいっぱいあります。
このままでは日本では児童養護施設を舞台にしたドラマや映画はつくれないということになってしまいます。
 
ともかく、施設と子どもは利益相反関係にあるということを認識しないと、この「明日、ママがいない」というドラマを巡る問題を正しく理解することができません。
ほんとうは施設の子どもの意見がどんどん出てくるといいのですが、今の世の中はそういうふうになっていません。
ただ、施設出身者の意見は出てくるので、こうした記事もあります。
 
『明日、ママがいない』 施設出身者から劇中の子供に共感も
 ドラマ『明日、ママがいない』(日本テレビ系)は児童養護施設を舞台に、子供目線で描かれているが、初回放送時から存続が危ぶまれるほどの賛否が巻き起こっている。
 
 熊本市の慈恵病院の蓮田太二院長は「養護施設の子供や職員への誤解、偏見を与え、人権侵害だ」と厳しく批判した。
 
 児童養護施設の出身者に取材すると、実際の施設とはほとんど異なる設定だとの声が多数上がる一方で、施設出身者たちの間では劇中の子供たちの目線には共感できるという意見は少なくない。
 
<実際と違うところがあるけれど、里親のことをママと呼べないのは、本当のことです。他にもお金持ちのところへひきとってもらいたいのも本当です>
 
<ドラマに出てくる子役達の演技を見て共感できる部分があって昔の自分と重なって見えました。本当に感動しました>
 
 同ドラマのホームページには施設出身者という視聴者からこんな書き込みが寄せられているが、その点に関して、名古屋市内の児童養護施設に勤務した経験を持ち、現在は、教員や施設職員、地域ボランティアと連携し、障がい児や児童養護施設・里親・ファミリーホームなどの支援を行うNPO法人「こどもサポートネットあいち」の理事長・長谷川眞人さんは言う。
 
「施設で育った子供たちの感想は、私と違ってドラマに出てくる子供たちに賛同していました。自分たちも入所した当時、施設の職員に気を使ったり、顔色をうかがったりしたことがあるから、理解できるそうです」
 
 施設出身者や里子など社会的養護の当事者が、互いに支え合い、当事者の声を発信する『日向ぼっこ』の代表理事を務める渡井隆行さんも、施設での生活をこう振り返った。
 
「施設での生活は慣れない間は怖かったですよ。何も理解できないまま“ここで暮らすんだよ”と言われるままに連れて行かれましたから。ドラマでの“新人”真希と同じで、DVの環境の中で育ってきたあの子は、その環境が当たり前で、お母さんが好きだから帰りたいと思って、まさに同じ気持ちでした。
 
 あとドラマでも描かれていましたが、子供ってすごい大人を見ていて、職員のことも品定めしてるんですよ。この人は信用できるのかって。例えば、短大卒の20才の人が職員で入ってきたら、“子育て経験も一人暮らしの経験もないのに、何をぼくたちに教えてくれるのかな?”って。親と離れて暮らしてきたぼくたちは今も昔も生きるのに必死なんですよ」
 
※女性セブン201426日号
 
 
日本テレビは全国児童養護施設協議会がこのように強硬に番組つぶしに出てくるのは誤算だったでしょうが、理不尽な圧力に屈せずに筋を貫いてほしいと思います。

NHK会長に就任した籾井勝人氏は125日、就任会見を開き、慰安婦問題について「この問題はどこの国にもあったこと」「ヨーロッパはどこでもあった。ドイツやフランスにはなかったと言えるのか。なぜオランダには今も飾り窓があるのか」などと述べました。
 
このあとの記者とのやり取りはこうです。
 
――証拠があっての発言か。
 
 慰安婦そのものは、今のモラルでは悪い。だが、従軍慰安婦はそのときの現実としてあったこと。会長の職はさておき、韓国は日本だけが強制連行をしたみたいなことを言うからややこしい。お金をよこせ、補償しろと言っているわけだが、日韓条約ですべて解決していることをなぜ蒸し返すのか。おかしい。
 
 ――会長の職はさておきというが、公式の会見だ。
 
 では全部取り消します。
 
――取り消せない。
 
 
NHK会長として会見をしているのに、個人的な意見を述べてしまったわけで、公私の区別がついていないわけです。
 
これは日本の右翼の特徴です(籾井勝人会長は安倍首相のお友だちの輪の1人です)
 
要するに、個人的な利益追求と国益追求の区別がついていないのです。そのため、たとえば日韓における慰安婦問題に個人的な性差別意識を持ち込むということをしてしまいます。
そうした議論を繰り返しているうにち日本の右翼の議論はガラパゴス化して、国際的にまったく通用しないことになっています。
 
しかし、日本にいると、それがなかなかわからないようです。そのため橋下徹大阪市長は、慰安婦問題でのおバカ発言が世界的に批判されて、その結果、国政での存在感を失ってしまいました(国際社会から相手にされない政治家は国政でも重要な地位につけないのは当然です)
 
菅官房長官もおバカ発言をしました。1月20日の記者会見で、伊藤博文を暗殺した安重根の記念館が中国のハルビン駅に開設されたことに抗議し、「安重根は死刑判決を受けたテロリストだ」と述べたのです。
安重根の記念館ができたことに抗議する必要があるのかも疑問ですが、「テロリストだ」といえば反発されるのはわかりきっています。安重根は韓国にとっては民族独立の英雄だからです。
「死刑判決を受けたテロリスト」というのは日本だけで通用する論理です。日本の右翼メディアにずっぽり浸かったために、橋下大阪市長と同じに、それが国際的にも通用すると思ってしまったのでしょうか。
 
そして、安倍首相もこのところおバカ発言を連発して、国際社会に波紋を広げています。
 
安倍首相はダボス会議に出席したとき、各国メディア幹部との会合において、中国メディアから「戦争犯罪者を英雄だと思っているのか」と質問され、「そこ(靖国神社)にはヒーローがいるのではなく、戦争に倒れた人々の魂があるだけ」と答えました。
 
これには日本の右翼もびっくりでしょう。
靖国神社にいるのは「英霊」です。これは一般的な「霊」とは違って、「英雄の霊」ということです。
たとえば「肉弾三勇士」の英霊もいるのですから、それだけでも「ヒーローがいるのではなく」というのは間違っています。
 
このとき安倍首相は「国のために戦った人に手をあわせるのは、世界のリーダーの共通の姿勢だ」とも語っています。
「手をあわせる」という表現は間違っているとして、要するに靖国神社は無名戦士の墓と同じようなものだといいたかったのでしょう。そのためヒーローはいないと、靖国神社をおとしめるようなことをいってしまったのです。
 
「外国のリーダーも無名戦士の墓などに訪れるのだから、日本のリーダーも靖国神社に参拝するのは当然だ」というのが、右翼が国内で反対派に対して行っていた主張です。安倍首相はそれを外国人にわかるようにいおうとして、「ヒーローはいない」などというへんなことをいってしまったのでしょう。
 
安倍首相はまた、このように語りました。
 
 安倍首相は「日本と中国が尖閣諸島を巡り武力衝突する可能性はあるか」との質問に、「軍事衝突は両国にとって大変なダメージになると日中の指導者は理解している」と説明。そのうえで「偶発的に武力衝突が起こらないようにすることが重要だ。今年は第1次世界大戦から100年目。英国もドイツも経済的な依存度は高く最大の貿易相手国だったが、戦争は起こった。偶発的な事故が起こらないよう、コミュニケーション・チャンネル(通信経路)をつくることを申し入れた」と述べた。
 
今の日中関係を第一次世界大戦前の英独関係にたとえたことが世界に衝撃を与えました。
 
この安倍首相の発言については、通訳が英独関係の説明に「我々は似た状況にあると思う(I think we are in the similar situation)」という言葉を付け加えたので、それが誤解を招いたという説がありますが、安倍首相も似た状況にあると思って英独関係をたとえに持ち出したのですから、通訳は間違ってはいません。むしろ練達の通訳というべきでしょう。
なぜ通訳が自分なりの言葉を付け加えたかというと、安倍首相が第一次世界大戦前の英独関係を持ち出したことに、その場の人たちが怪訝な顔をしたからでしょう。
つまり、安倍首相は当たり前のことをいっているつもりでしたが、外国人には当たり前ではなかったのです。
 
日本の右翼は戦争についての知識を誇る傾向があります。麻生財務大臣の「ナチスの手口に学べ」発言もそうですが、自分たちは平和ボケした左翼とは違うんだといいたいのでしょう。
 
海外のメディアは、安倍首相が武力衝突の可能性について「もちろんない」などといわなかったとして、戦争の可能性があるという報道をしています。
安倍首相は「偶発的な事故が起こらないよう、コミュニケーション・チャンネル(通信経路)をつくることを申し入れた」と語ったことで十分だと思ったのかもしれませんが、戦争を始める側はつねに「われわれは平和への努力をした」ということを口実にするのですから、この言葉はむしろ逆効果です。
 
安倍首相はダボス会議に出席して、日本への投資を呼び込もうとしたのでしょうが、戦争の可能性を示唆してしまっては失敗でした。
 
 
右翼は自分の主張を通すためにごまかしの論理を使い、そのうちそのごまかしの論理に自分もだまされるということを繰り返してきました。
その最たるものが日米安保条約の解釈です。
日米安保条約はもともと、日本がアメリカに基地を提供し、アメリカは日本の防衛義務を負うということで双務的な条約ですが、国内に安保反対勢力が強いので、右翼は「安保条約があるから日本は防衛費が少なくてすみ、そのおかげで経済成長をしてきた」というふうに、安保条約は日本にとって利益だと宣伝してきました。
これは方便として国内でいっている限りは問題ないのですが、おそらく自民党の政治家などがアメリカに対しても、半ばリップサービスでいうようになったのでしょう。いつのまにかアメリカで日本の安保タダ乗り論が広がってしまい、日本は思いやり予算をアメリカに支払うなど、さまざまな面で不利益をこうむってきました。
 
最近は中国と韓国が国際発信力を強めているので、日本の右翼のおバカ発言は格好の餌食です。
日本の右翼はもうちょっと賢くならないといけません。

日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」が施設の子どもへの偏見や差別を生むとして抗議の声が上がり、放送を中止するべきか否かが議論になっています。
 
このドラマは脚本監修が野島伸司、脚本が松田沙也です。私が野島伸司という名前で思い出すのは「家なき子」です。大ヒットドラマだったので、私は数回見たことがありますが、そのとき、現代にこんなことはありえないと思いました。安達祐実さん演じる小学生の主人公は、公園だか空き地だかに置かれた土管の中で寝泊りをしているのですが、戦前や終戦直後ならありえても、今の時代なら福祉の網に引っかかるはずです。
今回は児童養護施設を舞台にしたドラマだというので、また福祉制度について時代錯誤の設定になっているのではないかと想像しました。
 
しかし、ドラマを見ないことにはなにもいえません。そうしたところ、火曜日深夜に第1話の再放送があったので録画し、水曜日に放映された第2話と続けて見ることができました。
というわけで、このドラマが放送中止しなければならないほど問題があるのかどうか、自分なりに判断したことを書いてみます。
 
ことの発端は、熊本市の慈恵病院が開いた記者会見でした。
 
 
ドラマ「赤ちゃんポスト」でBPOに申し立て
122 2149
 
日本テレビ系列で放送されているドラマの中で、いわゆる「赤ちゃんポスト」に預けられていた子どもを「ポスト」と呼ぶなどの内容が、児童養護施設で暮らす子どもたちを傷つけるおそれがあるとして、熊本市の病院がBPO=放送倫理・番組向上機構に、こうした表現をやめるよう求める審議の申し立てを行いました。
 
日本テレビ系列で放送されている「明日、ママがいない」というドラマでは、主人公の女の子が、いわゆる「赤ちゃんポスト」に預けられていたことを理由に、「ポスト」というあだ名で呼ばれています。
熊本市で「赤ちゃんポスト」を運用する慈恵病院は、こうした内容やドラマでの施設の職員の対応が、児童養護施設の子どもや職員などを傷つけるおそれがあるとして、BPO=放送倫理・番組向上機構の放送人権委員会に、こうした表現をやめるよう求める審議の申し立てを行いました。
慈恵病院の蓮田健産婦人科部長は記者会見し、「ドラマの内容はフィクションであったとしても子どもを傷つける可能性があり、改めてほしい」と述べました。
一方、日本テレビは、「当社としてコメントする段階ではないと考えております」とするコメントを出しました。
 
 
第1話の前半に、グループホーム「コガモの家」というのが出てきます。ここが物語の舞台ですが、昔風の孤児院のイメージというのでしょうか。モグリというか、無認可の施設の雰囲気が漂っています。
 
しかし、ウィキペディアの「児童養護施設」の項目を見ると、こういう記述がありました。
 
グループホーム(地域小規模児童養護施設)
2000年から制度化されたもので、原則として定員6名である。本体の児童養護施設とは別の場所に、既存の住宅等を活用して行う。大舎制の施設では得ることの出来ない生活技術を身につけることができ、また家庭的な雰囲気における生活体験や地域社会との密接な関わりなど豊かな生活体験を営むことができる。2009年度は全国で190箇所(1施設で複数設置を含む)
 
ですから、グループホーム「コガモの家」の設定はそんなにおかしくないようです。
 
ただ、施設長(三上博史)が杖をついて足を引きずって歩く不気味な雰囲気の男で、いきなり子どもの頭をバシッとたたいたり、「お前たちはペットショップの犬と同じだ」などと暴言を吐いたりします。また、子どもに水の入ったバケツを持って立たせるという体罰もします。このあたりが施設関係者の神経を逆なでしたものと思われます。
 
しかし、こういうことはあってはいけないことですが、現実にあることは十分に考えられます。かつて船橋市の児童養護施設「恩寵園」でひどい虐待が行われ、社会問題になったことがあります。立派な施設ばかりとは限りません。
 
「ポスト」というあだ名の子が芦田愛菜ちゃんです。天才的な演技で、びっくりします。
私は「ポスト」というあだ名をつけられてイジメられる役回りかと想像していたら、ぜんぜん違いました。芦田愛菜ちゃんは赤ちゃんポストに捨てられていた子ですが、そのとき1枚の紙切れが入っていて、そこに名前が書いてありました。しかし、愛菜ちゃんは「私は名前を捨てた。親からもらった名前はもういらない」といいます。
つまり「ポスト」というあだ名は、人につけられたものではなく、みずから名乗っているか、少なくとも自分で受け入れているのです。
 
それに、愛菜ちゃんは孤児たちのリーダー的存在ですし、きわめてタフです。つまり、まったくイジメられる存在ではありません。
 
愛菜ちゃんは新しく施設に入ってきた子に、こんな印象的なセリフをいいます。
「1月18日、あんたがママに捨てられた日だ。違う。今日、あんたが親を捨てた日にするんだ」
 
芦田愛菜ちゃんという人気子役が赤ちゃんポストに捨てられた子どもを演じるというのは、むしろ赤ちゃんポストへの偏見をなくすのに大きな力となると思います。
 
私の見るところ、このドラマは少しリアリティが欠けますが、孤児のことを子ども目線で描いている点で高く評価できます。
 
ところが、子どもを子ども目線で描くということが、多くの大人の神経を逆なでします。
 
 
【明日、ママがいない】全国の児童養護施設と里親会が日テレに抗議「人間は犬ではない」
日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」の内容が「子供の人権侵害だ」として、全国児童養護施設協議会が121日、脚本の変更などを求めて、121日に都内で会見を開いた。前日に日本テレビに抗議文を提出したという。同協議会には、国内の約600の児童養護施設が加盟している。
 
同会の藤野興一会長は「子供の人権を守る砦としたいと思っているときに、真っ向から水をかけるドラマ」と話して放送内容の修正を求めた。同じく抗議した全国里親会・星野崇会長も同席し「人間は犬ではありません」と訴えた。「明日、ママがいない」については熊本市の慈恵病院が16日に放送中止を求めている。ニコニコ生放送によると、2人の会見での発言要旨は以下の通り。
 
■自殺するものが出たらどうしてくれるんだ!
(全国児童養護施設協議会・藤野興一会長)
児童擁護施設の子供たちは今、虐待を受けていたり、さまざまな事情を抱えています。「本当によくぞ、ここまでたどり着いたなあ」という3万人の子供たちが生活しております。そういう中で、このドラマがいかにフィクションであるとはいえ「お前らペットだ」とか「犬だってお手くらいするわな、泣いてみい」とか、物扱いをされている強烈な場面がある。施設長や職員が、暴力や暴言で子供たちの恐怖心を煽るシーンがあります。僕の施設の子供たちも、高校生は見ていたみたいで、腹が立つと言っていました。女の子は「見るのがしんどい」と言ってました。
 
大人はともかく当事者の子供は、本当にこたえますよ。「自殺するものが出たらどうしてくれるんだ!」という思いをしております。私たちはドラマの舞台と思われる地域小規模児童養護施設……。これは定員を6名として、地域でより家庭に近い生活をするということで、一生懸命、そういうものを増やそうとしております。
 
確かに施設は、制度的にも立ち後れて、取り残されています。非常にしんどい状況にあります。そんな中で、子供たちも職員も必死で生きている。非常に大きな影響力がある芦田愛菜さんを主演とするドラマに対して、マスコミ関係の皆さんに是非、本当の施設の姿を知っていただいきたい。
 
今、まさに政府がやっと四十数年ぶりに動こうとしているときです。そのときに、この舞台となっている小規模児童擁護施設。これを「子供の人権を守る砦」としたいと思っているときに、真っ向から水をかけるドラマだと思っています。正しい姿を。マスコミの方々には特に子ども達への理解を賜って、子供たちの正しい姿を伝えていただき、マスコミの社会的正義を貫いていただきたいと思っております。
 
■「里親として表を歩けなくなりそうだ」という声もある
(全国里親会・星野崇会長)
「明日、ママがいない」については里親仲間でも話題になっています。今の日本の児童福祉制度が、里親ももちろん一生懸命努力しているところなんですね。いろいろな問題点があります。場合によっては法改正なども求める活動をしておりますが、このドラマはそういう私たちの努力に水を差すものと考えざるを得ません。
 
人間は犬ではありません。小動物と一緒くたにするということを、子供に教えちゃいけないんですね。ところが、このドラマは率先して、それを行っている。私ははっきり言って、主演した芦田愛菜ちゃんが、かわいそうですね。彼女は9歳半にして、こういう思想を植え付けられてしまっているんですね。これがどんどん広まってしまうと、メディアそのものが人間の尊厳を無視するようになる。激しい憤りを感じております。
 
差別的な発言があまりにも多すぎる。「これでもか」「これでもか」と出てきますが、今でさえ施設の職員や里親は周りの偏見に耐えて生きているわけですね。しばしば、それがトラブルになることもありますが、今回のドラマが放送されたことで差別的な発言が一層広がるんじゃないかと懸念しています。
 
子供にとっては大問題です。すでに子供も大人も傷ついております。放映によって、「こういうのをやってくれ」という里親仲間にはあります。しかし、「やめてくれ」という声が多い。「里親として表を歩けなくなりそうだ」という声まであります。小さい子供がドラマを見た場合には、恐ろしい結果になる場合はある。要保護児童たちは親元から離れたということで、相当大きな傷がついているんですね。そうした傷を思い出して、フラッシュバックを起こす可能性が十分にあるんです。そこまで日本テレビはちゃんと十分に準備しているんでしょうね?ということを言いたいです。
 
基本的には放映中止にしていただきたいんですが、放映中止にするといろいろ問題も起きるかもしれません。少なくとも言葉の使い方に関しては、差別的な発言や暴言をやめてほしい。もう一度、脚本家も交えて検討し直してほしいと思います。
 
過去に実際にあだ名が元で子供が自殺をはかった事例がありますので、それと同じようなことが起きる恐れがあります。「それが起こってからでは遅いんですよ」と日本テレビには言いたいです。
 
 
こうした施設側や里親側の声を、私はまったく評価することができません。
施設の子どもの声も紹介されていますが、これは結局おとなのフィルターを通したものです。
「自殺するものが出たらどうしてくれるんだ!」「それ(自殺)が起こってからでは遅いんですよ」という言い方も脅迫めいています。
 
この人たちは、子どもが傷つくのが心配だといいながら、実際のところは自分たちの世間的イメージが傷つくことを心配しているのではないかと疑われます。この人たちの言葉と比べると、三上博史の施設長の言葉のほうが心地よいぐらいです。
第2話を見ると、この施設長はそんなに悪い人ではないようです。となると、彼はわざと偽悪的な言葉を吐いているのかもしれません。そして、その偽悪的な言葉は、世の中の偽善に亀裂を生じさせ、真実を見させる役割を果たしています。
そうしたこともこのドラマに対する反発を生み出しているのかもしれません。
 
施設の人たちは確かに一生懸命やっているでしょう。しかし、それはあくまで主観です。よくやっているか否かは施設の子どもが評価することです。
 
昔の孤児院は、親と死別した子どもが多かったのですが、今の施設は、親から虐待されたり、家庭が崩壊したりした子がほとんどです。あらかじめ傷ついた子どもを世話する職員はたいへんです。血のつながった親でさえ子どもを愛せないケースがふえているのに、血のつながっていない、ひねくれた子を十分に愛することのできる職員がどれだけいるでしょう。
 
つまり施設側の対応が不十分なことはわかりきっています。別にそれを非難するつもりはありません。
しかし、どのように不十分であるかということを明らかにすることは、改善するための第一歩です。
施設側は一生懸命やっているなどというきれいごとで実態を隠蔽してはいけません。
 
今まで、児童養護施設の内実を知る人はどれくらいいたでしょうか。
そういう意味では、「明日、ママがいない」は、ドラマとしておもしろいかどうかは別にして、日本の福祉の水準を向上させるのに役立つことは間違いありません。
 

「理想だらけの戦時下日本」(井上寿一著)という本を読みました。戦時中の「国民精神総動員運動」について書かれた本です。
 
「国民精神総動員運動」とは、盧溝橋事件で日中戦争が始まった1937年に第一次近衛内閣が始めた官製運動で、1940年に大政翼賛会に吸収されるまで続きました。
たとえば、「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「石油の一滴、血の一滴」などのスローガンも「国民精神総動員運動」から生まれたものです。
 
著者の井上寿一氏は日本政治外交史が専門ですが、201212月の総選挙で自民党が大勝したときから、あるいはその前に橋下徹大阪市長などが公立学校で国歌斉唱・日の丸掲揚を強制する動きをしていたときから、現在の国民心理が当時のものに似ていると感じていたそうです。
私の場合は、安倍内閣が昨年12月に閣議決定した「国家安全保障戦略」に“愛国心”を盛り込んだのを見て、「国民精神総動員運動」のことを思い出しましたが、井上氏ははるかに慧眼だったわけです。
 
書かれているのは昔のことですが、現在行われていることとの関連を考えながら読むと、おもしろく読めます。
 
たとえば今、「ボランティアの義務化」ということがいわれます。これは第一次安倍政権のときに打ち出され、すでに東京都の公立高校では年間35時間の「奉仕」が必修化されています。
「ボランティアの義務化」は言葉としても矛盾していますが、「国民精神総動員運動」では青少年を動員して勤労奉仕をさせているので、これと同じものだと思えば納得できます(この勤労奉仕は教育目的のものですが、これがのちの学徒勤労動員につながります)
 
「国民精神総動員運動」は「祝祭日には必ず国旗を掲げましょう」という国旗掲揚運動も展開します。それまでも祝祭日には国旗掲揚が決まりでしたが、掲揚率は低いものでした。そこで、たとえば東京都では青年団などからなる「督促隊」を組織し、祝祭日に国旗を掲揚していない家庭に注意を促すということをします。
公式の行事においては必ず国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遥拝が行われます。
 
「日の丸弁当」も「国民精神総動員運動」から生まれたものです。贅沢を戒め戦場の兵士の労苦をしのぶとともに、10銭の昼食代を5銭に節約して、その5銭を戦地に送るというものでしたが、当然のことながら、児童にこんな栄養のないものを食べさせるのは間違っているという批判がありました。それでも子どもは日の丸弁当を持たされたので、要するに体よりも精神が重要視されたということでしょう。
 
「国民精神総動員運動」の一環として体育大会なども行われます。これは普通のスポーツとは異なり、文部次官がいうには「身体の修練」とともに、「挙国一致、堅忍持久、進取必勝、困苦欠乏に耐えるの精神を練磨する」ものです。
国民精神総動員運動中央連盟はとくに剣道に力を入れます。「剣こそは日本建国精神の象徴であり、惟神大道の表現である」からです。
 
2012年から中学で武道の必修化が行われるようになりましたが、これも「国民精神総動員運動」を真似たものだと思うと納得できます。
 
「隣組」も「国民精神総動員運動」とともに始まったものです。以前からあった「国防婦人会」「愛国婦人会」などとともに、こうした組織を通しておとなたちも勤労奉仕などに狩り出されます。
また、毎月1日は「興亜奉公日」と決められ、全国民を対象に早起遥拝、始業前の朝礼、黙祷、勤労奉仕などが勧められます。
 
もちろんほとんどの国民はこうしたことをうんざりした気分で受け止めていました。
それでも行われていたのは、日本が戦時下であり、「戦地の兵隊さんの苦労を思え」といわれると誰も反論できなかったからでしょう。
 
 
安倍内閣が行っていること、これから行おうとしていることの多くに、明らかに「国民精神総動員運動」の影響が認められます。
しかし、安倍内閣のできることには限りがあります。奉仕の必修化、武道の必修化、国旗掲揚・国歌斉唱の義務化などはすべて学校において行われていることです。おとなは対象になっていません。
たとえば、一般家庭での祝祭日における国旗掲揚を義務化して、掲揚していない家庭は「督促隊」から注意されるというようなことになれば、国民は圧倒的に反対するに決まっているので、そんなことはできないわけです。
その結果、一般社会はそれほど変わらないのに、学校教育だけがどんどん戦前化していくということになっています(特定秘密保護法は一般社会を対象にしたものなので、大反対が起きましたが)
 
安倍内閣に限らず、自民党政権はずっと学校教育の戦前化を目指してきました。道徳教育の強化は「修身」の復活です。
おとなたちは自分に累が及ぶことでないので、あまり強硬には反対しませんでした。
その結果、戦前化した学校からは、上からいわれたことをやるだけの人間が育って、沈滞した社会になってしまったのです。
 
日本復活の鍵は、戦前化した学校を時代に合ったものに変えることではないかと、「理想だらけの戦時下日本」を読んで思いました。

映画「永遠の0」を観ました。
監督は山崎貴、出演は岡田准一、三浦春馬、井上真央などですが、それよりも気になるのは、原作者が百田尚樹氏だということです。百田尚樹氏は安倍首相のお友だちで、安倍首相はこの映画を観たあと、「感動しました」と語りました。
 
最近、「右傾エンターテインメント」という言葉があって、「永遠の0」はその代表的な作品とされます。
 
同じくゼロ戦を扱ったアニメ「風立ちぬ」をつくった宮崎駿監督は、「嘘八百」「神話の捏造」といった言葉で、名指しこそしないものの「永遠の0」を酷評しました。
 
とはいえ、映画は大ヒットしていますし、ヤフー映画のユーザーレビューを見ても「泣いた」という声がいっぱいです。
安っぽい「右傾エンタメ」なのか、泣ける感動作なのか、自分で確かめてみました。
 
あらすじはこんな感じです。
司法浪人が長く続き人生の進路を見失っていた佐伯健太郎(三浦春馬)は、姉に頼まれたこともあって、特攻隊員として死んだ祖父宮部久蔵(岡田准一)のことを調べ始める。するとかつての戦友たちは、宮部のことを臆病者、卑怯者、命を惜しむ男と酷評する。宮部は天才的に優秀なパイロットだったが、敵との空中戦になると、自分だけ安全なところに逃げていたというのだ。しかし、さらに調べると、宮部が命を惜しんだのは、妻子のために生きて帰りたかったのだということがわかる。しかし、そうすると、なぜ最後に特攻に志願したのか……。
 
これは謎を追求するミステリー仕立てになっているのですが、実は最後まで見てもよくわかりませんでした。しかし、原作のほうはちゃんと書いてあるので、これは映画が下手くそなのでしょう。
 
実は私は「永遠の0」の文庫本を持っています。知人と待ち合わせして会ったとき、彼はちょうど読み終えたところだからとその文庫本をくれたのです。それは明らかに、お勧めの本だから読めよという意味なので、私は読み始めましたが、2030ページで挫折しました。文章が肌に合わなかったのです。
私に合わないからだめな小説だとはいえません。感動したという人が多いのですから、きっとよい小説なのでしょう。
 
ですから、ここで書くのはあくまで映画評で、原作への評価とは別だと思ってください。
ほんとうなら私が原作を読んで、両方を評価するといいのですが、長い小説なので、そういうことに時間をさいていられません。
 
「1分でわかるネタバレ」というサイトがあって、小説「永遠の0」のあらすじが紹介されていました。それによると、戦争末期、教官としてパイロットを育てていた宮部は、自分の教え子たちが次々と特攻で死んでいくのを見て、自分だけ生き残ることが耐えられず、特攻に志願したというのです。
 
これは一応納得のいく理由です。映画でもそういうふうに描けばよかったのにと思います。
 
宮部は特攻に志願するのですが、それでも家族のことを思う彼はあることを……というのがミステリーの核心の部分になります。
 
映画は現在と過去のシーンが交錯して進んでいきます。ゼロ戦や空中戦のCGはよくできています。空母もリアルです。過去の日本映画に出てくる軍艦はみな円谷プロ風の特撮ですし、実際の軍艦の映像は粗くて暗いフィルムしかありませんから、リアルな日本の空母を見るのは初めての体験です。
 
とはいえ、これは戦争映画ではないかもしれません。あくまで宮部久蔵という1人の男の生き方を描いた映画で、戦争はむしろその背景です。
空中戦を描いた映画はこれまでいっぱいあって、やるかやられるかという緊迫感があるものですが、この映画の空中戦のシーンはまるでゲームのようで、緊迫感がありません。また、彼ら兵士がなにを食べ、どんなところで寝ていたかという日常生活の様子や過酷な訓練なども描かれません。
ですから、戦争の上澄みだけを描いたような映画です。
 
また、ゼロ戦愛みたいなものも感じられません。
山崎貴監督は「ALWAYS 三丁目の夕日」などを撮った人で、戦争やゼロ戦にあまり思い入れはないのでしょうか。
 
で、果たして泣けたかというと、私はまったく泣けませんでした。
主人公が最後に特攻で死ぬのですから、ある程度泣くことを覚悟していたので、むしろ意外です。
 
なぜ泣けないかというと、あまりにもリアリティがないからです。
宮部は家族のために“命を惜しむ男”です。これが妻子を残して赤紙で召集された男ならわかります。しかし、宮部は職業軍人です。15歳で入隊したようですから、いわゆる予科練です。入隊したときは、国に命を捧げる覚悟だったはずです。
入隊してから結婚して子どもが生まれ、そのことによって変わったということなのでしょうが、そんなに豹変するものでしょうか。妻子がいない時点でも両親はいたはずです。
 
それに、空中戦のときに自分だけ安全なところに逃げているというのも、現実にありそうもありません。同僚たちはそのことを察知しているのですから、上官に知られて問題になりそうなものです。
 
それに、宮部は仲間や部下の命もたいせつにする男です。しかし、空中戦で自分が離脱すれば、それだけ仲間を危険にさらすことになり、これも矛盾しています(原作ではうまく説明されているのかもしれませんが)
 
それに、先に書いたように、宮部が最後に特攻を志願した理由が映画でははっきりしないので、それも感動できない一因です。
 
宮部は家族のためとはいえ、仲間は死んでも自分だけが生き残ろうとする“超個人主義”の男です。これは現代の価値観からしてもリアリティがありません。
 
この映画は戦争を肯定したものではありませんし、特攻作戦にも批判的です。しかし、宮部の死は肯定的に描かれます。
それは、宮部がある方法で、自分の死を「意味ある死」にしたからです。
最後のほうに「私たちはその死をむだにしてはならない。物語を続けるべきだ」というセリフが出てきますが、これは宮部の死についてのみいえるセリフです。
 
大戦における310万人とされる日本人の死は、ほとんどがジャングルでの餓死や都市での焼死などの「無意味な死」です。
「意味ある死」などフィクションの中でしか存在しないといってもいいでしょう。
 
これはフィクションなのですから、それでいいですし、それに感動する人がいてもいいでしょう。
 
しかし、この映画は、そういうフィクションの中でしかありえない「意味ある死」と現在の平和における「享楽的な生」を対比して描いています。
そして、彼らの死があるから今の平和があるのだといわんばかりですし、現在の享楽的な若者を批判的に描いています。
 
フィクションを基準に現実を批判するのは反則手でしょう。
 
そういうことを映画を観ながら感じてしまったので、まったく泣けなかったのです。
 
この映画には「天皇陛下」という言葉が一度も出てきません(終戦の玉音放送は少し流れますが)
当時の軍人は、「天皇陛下の赤子として天皇陛下のために死ぬ」という価値観に制圧されていました。「家族のため」ということは口にすることもできません。
天皇制国家が集団狂気に陥った果てに生まれたのが特攻作戦です。
特攻作戦の中でのありえないひとつの死を描いたのがこの映画です。
安倍首相はいったいなにに感動したのでしょうか。

シリーズ「横やり人生相談」です。今回は道徳的に生きてきたために不幸になってしまったという人からの相談です。安倍内閣は道徳教育を強化する方針ですが、こういう不幸な人をふやしてしまうのではないかと心配です。
 
 
(悩みのるつぼ)試験で不正した大学の友人たち
20141111500
 ■相談者:女性 40代
 
 40代の女性です。難関と言われる大学を、バブル期に卒業しました。試験時には一番後ろの席が取りあいになり、机に解答を書いたり、英語の訳本をひざに置く人がいました。
 
 入試での不正行為は大きな社会問題になっても、学内の試験での出来事は封印されています。カンニングが発覚すれば半年分の単位が没収されたはずですから、彼らの卒業は偽りのものです。
 
 そんなメンバーと最近、再会したら、彼ら彼女らは、公務員や大企業の正社員という立派な肩書を持っていました。
 
 社会に出ると、学力だけでなく、人柄やコミュニケーション能力、さまざまな技能が望まれます。「世渡り力」も能力のうち、といってしまえばそれまでですが、不器用でもけなげに生きている人たちは、浮かばれないのではないでしょうか。
 
 今は就職難で、学生は私たちの時よりきちんと学んでいると思いますが、代返や代筆、試験前にノートを借りにくる連中、いつの時代もありそうです。
 
 そう思うと、往々にして要領のいい人の天国になりがちな大学を、楽しいところとは思えません。私は再会した同級生を今でも許せません。
 
 彼らは決して食肉偽装を指摘できる分際ではありません。自分の胸に手を当てて考えてもらいたいです。おかしいとは思われませんでしょうか。
 
この相談に対する回答者は、評論家の岡田斗司夫氏です。
岡田斗司夫氏は最近、「『いいひと』戦略超情報化社会におけるサバイバル術」(マガジンハウス)や「僕らの新しい道徳」(朝日新聞出版)といった本を出して、道徳についての考えを述べておられますから、この相談に適した回答者と見なされたのでしょう。
 
回答を要約します。
岡田氏は相談者に対して、大学時代のあなたは「純粋」だったといいます。しかし、40代になって軸がブレてきている。ブレずに純粋さを守って生きてください。人生経験を重ねたあなたには「単純な純粋さ」の代わりに「強さ」を手にいれた。それは損得ではなく、自分らしいかどうかで生き方を選ぶ「強さ」だ。
「かつての自分の純粋さを誇り、いまの自分が選んだ生き方を誇ってください」というのが最後の1行です。
 
この要約はわかりにくいかもしれませんが、それは多分にもとの文章がわかりにくいからです。納得いかない方はリンク先へ行って直接読んでください(全文引用は遠慮しています)
 
相談者は、カンニングしなかった自分のことを「不器用でもけなげに生きている」というふうに認識しています。
回答者の岡田氏も、「純粋」という言葉でその生き方を肯定しています。
ということは、カンニングしていた人たちは、要領よく偽りをする、純粋でない人ということになるのでしょう。
 
自分は正しい人間、あいつらは悪い人間、それなのにあいつらは幸せになって、自分は不幸になっている、これは不当で、納得いかない、というのが相談者の主張です。
それに対して回答者は、自分の純粋な生き方を誇ってくださいというのですが、「誇り」なんていう言葉では相談者は納得しないのではないかと思います。
 
私が思うに、自分のことを「不器用でもけなげに生きている」とか「純粋」とか道徳的によい評価をしているのがいけません。なぜなら自分をよく評価していると、自分を変えようという発想には絶対ならないからです。
 
私の考えでは、カンニングをした彼ら彼女らも、カンニングしなかった自分も、基本的に同じ人間です。どちらも利益を追求して生きています。
彼らはカンニングをすることが得だと思ってカンニングしたわけですが、自分はカンニングすると発覚したときの不利益が大きく、カンニングしないほうが得だと思ってカンニングをしなかったのです。
もし彼らのカンニングが発覚して罰を受けていれば、自分の生き方は正しかったと思うでしょう。
 
なぜ自分はカンニングしなかったかというと、たぶん生まれつき臆病なので、安全な生き方を選ぶ人間なのです。それに、そういう人は人の目を盗んでなにかをするという経験がほとんどないので、急にカンニングをしようと思ってもうまくできません。つまりカンニングをしないことが自分にとって合理的な行動なのです。
一方、カンニングをした人間は度胸があって、人の目を盗んでなにかをするという経験もよくあって、試験の監督官の目を盗んでうまくやれる確率も高いのです。ですから、カンニングをすることが彼らにとって合理的なやり方になります。
 
人間はそれぞれ合理的と思われるやり方で利益を追求して生きていて、その点でみな同じです。
 
では、どこで差がついたかというと(同じ大学なので勉強の能力は同じだとして)、やはりコミュニケーション能力や「世渡り能力」でしょう。代返、代筆、ノート借りができるのもひとつの能力です。それに、カンニングをする「度胸」も能力といえなくありません。
 
相談者は勉強していい成績を取ることが自分の利益だと思ってやってきたのですが、これはいわゆる「ガリ勉」です。
「ガリ勉」が幸せになれないのは不思議なことではありません。
 
相談者がもし勉強するだけでなく友だちがいっぱいいて、代返をしてやったり、ノートを貸してやったりするような人間であれば、もっといい人生が送れた可能性があります。
 
相談者は「勉強しなさい」「規則を守りなさい」といわれて、その通りに生きてきたのでしょう。そして、それは道徳的に正しい生き方だと思っています。しかし、幸せになれないので、非道徳的な生き方をした同級生を非難しています。いくら非難しても自分が幸せになれるわけではないのですが。
 
私はこれは道徳教育が人を不幸にする例ではないかと思います。
 
それから、相談者はカンニングをせずに勉強したのですから、カンニングをした人間よりも確実に「学力」は身についているはずです。もし「学力」に価値を見いだすなら、カンニングした人間をうらやんだり非難したりすることはありません。
相談者は「学力」を身につけようと勉強してきたのに、今では「学力」に価値のないことに気づいて、それも不幸の原因になっていると思われます。
 
 
道徳教育、学力重視教育がどんどん強化されていますが、よりどころにできるほどの高い学力を身につけられるのはごく一部の人だけです。
その結果、いわれた通りに規則を守り、勉強してきたのに幸せになれないという相談者のような人が大量に生み出されているのではないかと思われます。
 
相談者は、身近にいる不正をした人間を非難することで自分の不幸をまぎらわそうとしていますが、世の中には、「在日特権」を非難することで自分の不幸をまぎらわそうとする人もいます。
道徳教育、学力重視教育がこうした人をつくりだしていると思います。

やしきたかじん氏が1月3日に亡くなりました。
テレビが政治を動かす時代を象徴するような人物だったと思います。
 
最近は東京でたかじん氏の番組を見ることはまったくできないのですが、昔は見ることができました。テレ朝で深夜にやっていた「たかじんnoばぁ〜」と「M10」です。当時、深夜にやっていたバラエティ番組は少なかったので、私はほとんど見ていました。ウィキペディアに「味の素激昂事件」と書かれている、生放送中の料理の場面で味の素がないといって激昂し、番組を放棄したという出来事も、私はリアルタイムで見ました。
 
その後、たかじん氏は東京の番組にはまったく出ず、自分の番組を東京で放映することも拒否していたといいますから、東京への拒否感情はかなりのものです。いっしょに番組に出ていたトミーズ雅氏がその後、テレ朝でトミーズの冠番組をやるようになったことを見ても、たかじん氏の性格の偏りがわかります。
 
私はたかじん氏の番組をおもしろく見ていたにもかかわらず、たかじん氏という人間は好きではありません。
「たかじんnoばぁ〜」にMr.マリック氏がゲストとして出たとき、たかじん氏がMr.マリック氏にまったく話をふらないので、Mr.マリック氏は番組の最初に飲み物を注文するひと言を発しただけで、最後までなにもしゃべらないということがありました。Mr.マリック氏は話すのが苦手なのかもしれませんが、一応ゲストとして出ているのですから、ホスト役のたかじん氏は「これについてマリックさんはどう思いますか」などといって話を引き出すのが役割だし礼儀です。おそらくたかじん氏はMr.マリック氏が嫌いなのでしょうが、そういう感情を番組の中でもろに出すところは好きになれません。
 
一方、たかじん氏はいろいろな人の世話をしたり引き立てたりして、いい人と評価する声も多いようです。
この理由は容易にわかります。たかじん氏は、自分のテリトリーの中の人間には面倒見がよく、テリトリーの外の人間にはきびしいのです。これはヤクザの行動原理と同じで、ヤクザは仲間とは親子や兄弟のように強く結びつきます(私はヤクザだから悪いというふうには考えていません)
 
たかじん氏は好き嫌いの感情が強く、敵味方をはっきりさせる性格です。こういう性格がテレビ番組づくりにはいいのでしょう。とりわけ毒舌を吐くところに一般の人たちは共感して、うっぷん晴らしをしていたと思われます。
また、「たかじんのそこまで言って委員会」にほぼレギュラーのように出演していた故三宅久之、橋下徹、勝谷誠彦、辛坊治郎の諸氏もきわめて攻撃的な発言をする人たちで、こういう人たちを自在にあやつるのがたかじん氏のうまいところでした。
 
テレビの人気者にはこういうタイプの人が多いと思います。たとえば、ビートたけし氏、みのもんた氏です。
 
ビートたけし氏は毒舌家で、かつてはフライデー襲撃事件を起こし、暴力的な映画を撮ったりしていますが、軍団など身近な人間には思いやりがあるらしく、最近は“いい人伝説”がいっぱいあります。
 
みのもんた氏も毒舌家ですが、銀座へ遊びに行くときはいっぱい人を引き連れていき、みんなにおごるそうです。
 
こうした毒舌家は一歩間違えると、人にいったことが全部自分に返ってきます。みのもんた氏がそうです(あと、辛坊治郎氏、島田紳助氏も同じでしょう)
 
ただ、みのもんた氏の場合、次男が窃盗未遂で逮捕されたことがきっかけですが、この次男は最終的に不起訴になりました。キャッシュカードを盗んだということですが(本人は落ちているのを拾ったと主張)、暗証番号を知らなければ引き出せないのですから、この容疑自体が不可解で、現行犯でないのに逮捕したのも普通でない気がします。
みのもんた氏は年金問題や原発事故などできびしく政府を追及していたので、警察の行動にそうした政治的な意図のあった可能性が大いにあります。
 
私の見るところ、たかじん氏やビートたけし氏は政府批判、権力批判をほとんどしません。たかじん氏はヤクザとの交遊がうわさされながら問題にならなかったのには、政府批判をしない姿勢が身を助けた可能性があります。
 
たかじん氏の番組から育った政治家が橋下徹大阪市長です。つねに攻撃的な言葉を吐き散らして人気を得るという手法はたかじん氏の番組で学んだものでしょう。
しかし、慰安婦問題では、番組内でしか通用しない論理が国際社会でも通じると勘違いして、墓穴を掘ってしまいました。
 
安倍首相もたかじん氏と交遊があり、たかじん氏の死についてフェイスブックでコメントを発表しています。
安倍首相もたかじん氏から攻撃的な発言で人気を得るという手法を学んだということは十分に考えられます(2ちゃんねるからも学んでいるみたいですが)
 
東京に住んでいる人は、やしきたかじん氏のことをまったく知らない可能性がありますが、タレントとしてはきわめて成功した人で、日本の政治にも大きな影響を与えた人です。
しかし、政治への影響は残念ながらいいものではなかったといわざるをえません。
やしきたかじん氏のご冥福をお祈りします。

日ごろ時事的な問題を扱うことが多いので、正月ぐらいは哲学的な問題を扱ってみることにします。
 
かなり昔ですが、世界の著名な科学者に対するアンケートがあって、「自由意志」に否定的な科学者の数が多かったことを覚えています。私はそのときから、なんとなく「自由意志」は科学的なものではないのかと思うようになりました。
 
とはいえ、今の世の中は「自由意志」の存在を前提として成り立っています。たとえば裁判所の判決文には、「被告はやめようと思えばやめられたにもかかわらず犯行に及んだ」といった表現がよくあります。これは、被告は「自由意志」によって犯罪をしたのだから罰されるのは当然だといっているわけです。また、マスコミは、被告は反省の様子がないとか、被害者への謝罪の言葉がないといって批判しますが、これも被告はその気になれば反省もできるし謝罪もできるはずだという前提で批判しているわけです。
 
「自由意志」というのはだいたいこのようなものです。
 
 
自由意志 free will
自由意志とは伝統的な哲学の概念で、人間の行動は外的要因によって絶対的に決定されているのではなく、行動主体が意志によって選択した結果であるとする哲学的信念である。これらの選択は、それ自体は外的要因によって決定されてはいないが、行動主体の動機や指向から特定可能である。動機や指向そのものは、外的要因から完全に特定することはできないとされる。
 
伝統的に、自由意志の存在を否定する者は、運命や超自然的な力や、あるいは物質論的な要因を、人間の行動を決定する要因と見なしている。自由意志の信奉者は自由論者とよばれることもあるが、彼らは人間の行動以外の世界がすべて、外的要因による不可避的な帰結かもしれないが、人間の行動そのものは独自のものであって、行動主体によってのみ決定可能であり、神や星々や自然法則で決定されるものではないと信じている。
 
 
早い話が、人間は自分で自分の行動をコントロールできるという考え方です。
これはみんなの実感でもあるはずです。誰かに強制されない限り、自分の行動は自分で決めているからです。
しかし、その行動は環境に適応するための行動であるはずです。となると、環境に支配されていることになります。
これは、「自分の心を自分でコントロールできるか」というふうに考えてみるとよくわかるはずです。恐怖心や欲望はなかなか自分でコントロールできません。恐怖心や欲望は環境に即応して生じるからです。
そして、恐怖心や欲望をコントロールできないなら、自分で自分の行動もコントロールできないことになります。
 
ちょっと高い視点から見ると、よりわかりやすくなります(これがつまり「メタ認知」ですね)。
A、B、Cと選択肢があるとき、人間は自分の意志で自由に選択しているつもりですが、実際はつねに最善(と自分が判断する)策を選択していて、次善策や悪い策を選ぶことはないので、自由に選択しているのではないというわけです。
 
「自由意志」という考え方のもとをたどっていくと、哲学上の決定論か非決定論かという問題に行き着きます。
 
この世の出来事はすべてあらかじめ決められているという考え方が決定論です。
もう少し説明すると、ひとつの出来事はその前の出来事から必然的に導かれる、つまりすべての出来事は原因と結果の必然的な連鎖によって成り立っているという考え方です。
もちろん人間の行動や思考も同じですから、「自由意志」などあるわけありません。
 
この考え方を否定するのが非決定論です。決定論と非決定論とどちらが正しいかは哲学者が議論するところでした。
 
そこに近代科学が登場します。科学は自然界を支配する法則を次々と明らかにしましたが、それらは全部決定論に与するものでした。
 
たとえば天体の運行はすべて法則によっているので、過去の動きがわかれば将来の動きが計算できます。自然界の動きはすべて同じようなものであるはずです。
生物やその神経系も物理法則に従っているのはもちろんです。
 
カオスについては、人間の知性やコンピュータの働きではとらえられないとされますが、法則によって動いていることに変わりはありません。
 
ただ、微妙な例外もあります。それは、量子力学における不確定性原理で、量子の位置を測定すれば運動量が測定できず、運動量を測定すれば位置が測定できないというものですが、これを根拠に決定論は破れた、したがって人間に「自由意志」があると主張する人がいます。
単なる観測上の問題をそこまで飛躍させるのは不思議ですが、最近「科学者たちはなにを考えてきたか」(小谷太郎著)という本を読んで、そのわけがわかりました。理論物理学者のフォン・ノイマンが「量子力学の数学的基礎」という本の中で、観測されるときの系の状態を物理学で説明することはできない、その状態を引き起こすのは観測者で、しいていうなら「抽象的な自我である」と書いたのです。この「自我」というたったひとつの言葉のために当時、激論が起こって、その影響が今まで続いているというのです。
 
かりに量子のレベルで決定論とは違う動きがあったとしても、そのことが人間の精神に影響を及ぼして、人間の精神以外に影響を及ぼした形跡がなにもないというのはおかしなことです。不確定性原理があるから人間に「自由意志」があるのだという主張には明らかにむりがあります。
 
この世は決定論に支配されているとなると、自分の行動もすべてあらかじめ決まっているということになりますが、どう決まっているかは知るすべがないので、私たちの生き方に影響するということはないはずです。私たちは与えられた環境で一生懸命生きていくしかありません。
世界が法則に従って動いていることを知れば、よりうまく適応できるはずですし、自分の心も法則に従って動いていることを知れば、さらにうまく適応できるはずです。
 
むしろ逆に、自分に「自由意志」があると思っていては、現実をありのままに認識できず、うまく適応もできないはずです。
 
ともかく、「自由意志」は「霊魂」や「超能力」と同じようなもので、みんながあってほしいと思うものの、科学的には存在が証明されないものです。
 
それでも、多くの人が「自由意志」の存在を信じているのは、信じるとつごうのいいことがいろいろとあるからです。
 
たとえば、現在の刑事司法システムは、犯罪者の心に「悪意」や「犯意」が生じることが犯罪の原因であるとして犯罪者を裁いていますが、これによって、犯罪者の周りの人間や社会制度を免罪して、社会の安定をはかっているわけです。
しかし、凶悪犯の脳を調べると異常の発見されることが多く(先天的な異常もあれば幼児期の被虐待経験などによる異常もある)、また、多くの犯罪者は劣悪な環境で育ち、しばしば軽い知能障害者であったりするので、犯罪が「自由意志」によるものだというごまかしが今まで続いているのが不思議です。
 
また、人が貧乏になるのは本人が努力をしないせいだとすれば、格差社会を正当化することができて、富裕層には好都合です。
 
教え方のへたな教師は、生徒の成績が伸びないのは生徒の「やる気」がないせいだとしますし、しつけのへたな親は、子どもが反抗するのは子どもに「素直な心」がないせいだとします。
 
「自由意志」を否定するのは科学だけでなく、仏教もそうです。
 
仏教の核心は次の3行で表されます。
 
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
 
これを自分流に解釈すると、こうなります。
 
世界は法則に従ってつねに変化している
人間はその法則を変えることができず、人間もまた法則に従う存在である
そのことを理解すれば安らぎの境地が得られる
 
「諸法無我」という言葉が「自由意志」の存在を真っ向から否定しています(人間に「自由意志」があると考える人は、人間以外の動物には「自由意志」はないと考えているようなので、これは人間は神に似せてつくられたというキリスト教的な考え方でもあるでしょう)。
 
人文科学や社会科学の分野でいまだに「自由意志」という妖怪が徘徊しているのは情けない限りです。
 

明けましておめでとうございます。
今年もこのブログをよろしくお願いします。
そして、今年がみなさまにとってよい年となりますように。
 
とはいっても、政治も経済も先行き不透明です。
しかし、どんな時代になっても、個人の生き方に変わりはないはずです。要はお金と愛の獲得を目指して生きていけばいいのです。お金と愛があればたいていは幸せになれるはずです。
 
お金の獲得は容易ではありませんが、ただ、お金についてはごまかしのないのがいいところです。企業が粉飾決算をしたり、会計係が横領したり、ハッタリで金持ちのふりをしたりということはありますが、長続きしません。
貯金だと思っていたものが実は借金だったなどということはありません。
 
しかし、愛については粉飾のし放題です。
愛でないものを愛だと思っていては幸せになれません。
そこで、今回は愛と愛でないものの見分け方について考えてみます。
 
 
愛がわかりにくいのは、たとえば「愛のムチ」という言葉があることです。こんな言葉があるから、愛と暴力は一体かと勘違いする人も出てきますし、体罰や幼児虐待がふえてしまいます。
 
ところで、私が「愛のムチ」という言葉で思い出すのが、昔見たピンク映画の中で縄師らしい男の人が「SMは愛だ」といっていたことです。
そのときは変態行為を正当化することに笑ってしまいましたが、考えてみると、「SMは愛だ」というのはあながち間違ってはいません。サディストとマゾヒストがプレイしている限り、それは確かに愛のひとつの形でしょう。
 
しかし、「レイプは愛だ」とか「ストーキングは愛だ」というとどうでしょうか。確かにレイプもストーキングも、その動機には愛があるかもしれません。しかし、相手がいやがっていれば、それは許されない行為になります。
 
「愛のムチ」も同じです。かりに動機に愛があっても、相手がいやがっていれば、それは許されない行為です。
 
ただ、「愛のムチ」という言葉が使われる場合、相手はたいてい子どもで、いやがっていてもいやといえない立場にあります。そのため「愛のムチ」などという矛盾した言葉が存在してきたのです(私は「愛のムチ」がSMなどの変態を生む原因になると思っています)
 
「愛のムチ」と同じ意味で、「お前を愛しているからたたくのだ」といった言葉もよく使われます。
この言葉がおかしいのは論理学的に考えれば明らかです。
「お前を愛しているからたたく」の対偶を取ると、「たたかないからお前を愛していない」ということになります。となると、仲の良い親子とか、仲睦まじい恋人同士など、相手をたたかない者は相手を愛していないことになります。
ですから、「愛しているからたたく」ではなく、「愛しているのにたたいてしまう」というのが正しい表現です。
 
「愛しているのに怒ってしまう」「愛しているのに相手のいやがることをしてしまう」という表現にすれば、どう行動を修正しなければならないかがおのずと明らかになります。
 
 
ところで、愛といえばキリスト教を抜きに語れません。キリスト教の「汝の隣人を愛せよ」とか「汝の敵を愛せよ」という言葉は誰でも知っているはずです。
 
私は、「汝の隣人を愛せよ」という言葉を広げると「汝の敵を愛せよ」になり、このふたつの言葉は連続しているものと思っていました。
しかし、実際は連続した言葉ではありません。「汝の隣人を愛せよ」という言葉は「汝の敵を憎め」という言葉と対になっているのです。
 
 
「マタイによる福音書 第5章 43節」
「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
 
 
つまり、それまでのユダヤ教では「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」と教えられていたのです。
これは当たり前のことです。しかし、キリストは「汝の敵を憎め」を「汝の敵を愛せよ」に転換したのです。
これが画期的なところで、キリスト教が愛の宗教であるゆえんです。
 
「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」というユダヤ教の教えは、「愛国心」の構造と同じです。
つまり「愛国心」は「自国を愛し、敵国を憎め」というものなのです。
ですから、「愛国心」の少なくとも半分は憎しみです。
 
「郷土愛」には憎しみというものはありません。私は京都生まれで、京都に対する郷土愛がありますが、関西に対する郷土愛もあります。つまり郷土愛は遠ざかるにつれて同心円状に薄まっていく構造になっています。
 
元自衛隊員という経歴の軍事ジャーナリスト神浦元彰氏は、安倍内閣が国家安全保障戦略を策定した際に「愛国心」を盛り込んだことについてこのように書いておられます。
 
 
また、愛国心のことだが、愛国心を高めることは難しくない。私は自衛隊で徹底的に愛国心を叩きこまれた。
 
まず愛国心を育てるには敵(今は中国や北朝鮮)が必要である。その敵が美しい国土や愛する家族や友人に襲って(侵略)くる。それを守るのが愛国心と教える。さらに愛国心を進化させて、その戦いのために選ばれた者(選民化)という自覚(使命感)を持たせる。
 
 一部の政治家や官僚は、国民が国家のために戦って死ぬことができる人間を育てることが愛国心だと思っている。私はそのような愛国心教育を受けた経験がある。
 
 愛国心は恋愛や自然を愛するような気持ちとはまったく別である。だから自分の国を愛して何が悪いという話ではない。
 
そのような優しい気持ちを利用して、国家に従い、政府の命令で戦って死ねる人間を作り変えることが愛国心教育なのである。
 
 自分の生まれた国や懐かしいふるさと、優しい家族や友人を大事に思わない人はいないと思っている。しかし一部の政治家は、そんな程度の愛国心ではだめなのである。
 
 軍事組織(テロ組織を含む)によって研究され、計算され、実践された愛国心教育では、3ヶ月間で普通の愛国心から”戦って死ねる愛国心”に変えることが可能と言われている。
 
そのような感情をコントロールする技術を悪用したのが「オウム真理教」であるのだ。
 
 政治家が国民に愛国心を求める時は、国民はまず注意して政治家が説く愛国心の正確な意図を見抜くことが大事である。
 
 今の北朝鮮で行われている愛国心教育を冷静に見ることも、日本の政治家の愛国心教育に騙されない参考になる。
 
「愛国心」が「郷土愛」と異質であることは誰もが感じているはずですが、「愛国心」が半ば「敵国への憎しみ」であるとすると、腑に落ちるでしょう。
 
現代にキリストが降臨すれば、「愛国心」を否定して、「汝の敵国を愛せよ」と説くはずです。
私たちはなかなかその教えの通りにはできませんが、「愛国心」が「自国を愛し、敵国を憎め」という、キリスト教以前のユダヤ教的なものであることは理解しておいたほうがいいでしょう。

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