村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2014年02月

ソチ冬季オリンピックが終わりました。私は夜型の生活をしているので、テレビ中継を見るには好都合でしたが、ほとんど見ませんでした。冬季オリンピックの種目にあまり関心がなかったのです。
 
そういう冷めた目で見ていると、マスコミの報道が自国中心、メダル中心であることを改めて感じてしまいます。これは関西のスポーツ新聞がタイガース中心であるのと同じで、ある程度しようがないことです。
 
開会式と閉会式の中継を見ましたが、このアトラクションがたいへんに見ごたえのあるものでした。視覚的にもすばらしく、間延びすることなく次々と出し物が出てくるのに感心します。
 
アトラクションの内容は、ロシアがいかに素晴らしい国であるかを訴えるもので、要するにお国自慢です。
ロシアはヨーロッパでも遅れた国とされていましたが、近代以降は世界史でも重要な位置を占めてきましたし、世界的な有名人もいっぱい輩出しています。ロシアの有名人の名前を並べていくだけでも圧巻です(もっとも、ナボコフ、カンディンスキーなどはロシア人に数えていいのか疑問ですが)
 
思い返せば、北京オリンピックのときもロンドンオリンピックのときも、開会式と閉会式のアトラクションはひたすらお国自慢でした。そして、そのお国自慢がちゃんとさまになっていました。中国もイギリスも一時は世界をリードした国ですし、今も大きな存在感を持っています。
 
ここで考えてしまうのは、6年後の東京オリンピックのとき、どんな開会式をやればいいかということです。
日本には世界に誇るほどの文化や伝統があるのでしょうか。
 
世界中の人が知っている日本人といえば、トージョー、ヒロヒトぐらいではないでしょうか。
日本の文化にしても、サムライ、ゲイシャ、ニンジャ、ハラキリ、カミカゼなどは知られているかもしれませんが、世界に対してそれほど誇れるものとは思えません。
 
日本には世界に誇れるような文化や歴史がないということは、長野冬季オリンピックの開会式のアトラクションを思い出せばわかります。
 
ウィキペディアの「長野オリンピック」によると、開会式はこのようなものでした。
 
長野オリンピックの開会式は、今上天皇・皇后臨席の下、27日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供達によりテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」が披露された。
 
開会式のとき、私も一応テレビをつけていましたが、これがうんざりするほど退屈なものでした。
御柱の建御柱や土俵入りなどは、日本人にとっては価値あるものですが、外国人にとって価値があるとはいえません。しかも、視覚的にそんなにおもしろいものではありません。外国人は日本人以上にうんざりしたでしょう。
また、森山良子さんはすばらしい歌手ですが、世界的な歌手というわけではありません。ポール・マッカートニーを登場させたロンドンオリンピックと比べものになりません。
 
中国やイギリスやロシアはお国自慢をしてもさまになるが、日本はお国自慢をしてもさまにならない――これが現実です。
 
東京オリンピックの開会式をどうするかということをこれから考えなければなりませんが、幸い東京オリンピックの前に平昌冬季オリンピックがあります。
 
ソチオリンピックの閉会式のとき、平昌オリンピックを紹介するための韓国のアトラクションもありましたが、このとき流れた曲が「アリラン」です。
日本人は「アリラン」を知っていますが、おそらく世界のほとんどの国で「アリラン」は知られていないでしょう。
韓国もまた世界に誇るほどの文化を持たない国です。
 
内田樹氏は日本を「辺境国家」と規定しました。中国文明の辺境にあって、その文化をたくみに取り入れ、近代以降は西洋文明の辺境にあって、その文化をたくみに取り入れてきた国家だというわけです。
そういう意味では韓国もまったく同じです。日本も韓国も辺境国家です。
 
おそらく韓国は平昌オリンピックの開会式で、日本が長野オリンピックでやったのと同じ失敗をしそうな気がします。
日本はその失敗を見て、同じ失敗を繰り返さないようにしたいものです。
 
ヒントとしては、長野パラリンピックの開会式のアトラクションが挙げられます。これは作曲家の久石譲氏が演出したもので、お国自慢の要素はいっさいなく、自然と文明の共存がテーマだったそうですが、たいへん感動的なものでした。
 
このところ、週刊誌には嫌韓記事があふれています。
しかし、日本と韓国は、「ドングリの背比べ」といったところです。相手の悪口をいうのは、「目くそ鼻くそを笑う」の類です。
 
嫌韓記事を喜んで読んでいる日本人は、自己中心的で、自分を客観的に見ることができない人です。
韓国ばかり見るのではなく、ちょっと視点を高くして、日本と韓国を同時に見ると、認識はガラリと変わるはずです。
ソチオリンピックはそのいい機会だったと思いますが、相変わらず嫌韓記事があふれているところを見ると、進歩のない日本人が多いようです。

全国児童養護施設協議会などがドラマ「明日、ママがいない」の放送中止・内容変更を要求したことに対して、そうした要求は不当であるという世論が高まらないのはなぜなのかということを考えています。
前回の「“親なき子”への差別」という記事では、おとなたちは子どものことを差別していて、施設の子どものことはもっと差別しているのだというふうに書きましたが、それは理由の一部です。今回はほかの理由について書いてみます。
 
児童養護施設は社会のセフティネットのいちばん下のネットです。どうしてもなくては困るものですし、むしろ改善・向上させていかなければなりません。
したがって、いくら全国児童養護施設協議会がけしからんといって、かつての小泉首相みたいに「児童養護施設をぶっこわせ!」と叫ぶわけにはいきません。
つまり、親が子どもを虐待する事件があった場合、そんな親は刑務所に入れてしまえと叫ぶことはできますが、その子どもが児童養護施設で虐待された場合、もう打つ手がないのです。
いや、子どもを“悪い施設”から“よい施設”に移すことはできますが、全国児童養護施設協議会として束になってかかってこられると、どうしようもありません。
もちろん、放送中止の要求は不当だと全国児童養護施設協議会を批判して、一方で養護施設の改善・向上をはかっていけばいいわけですが、このふたつはベクトルがまったく逆ですから、両立させることはむずかしく、世論としては盛り上がらないのかと思われます。
 
それから、慈恵病院、全国児童養護施設協議会、全国里親会というフォーメーションがうまくできていたということが挙げられます。
慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」を運営していて、子どもの命をたいせつにするところというイメージができています。慈恵病院が先頭に立ったことで世の中の人の印象がまったく違ったと思います。
 
それにしても、芦田愛菜ちゃんのあだ名が「ポスト」だということだけで、物語は「こうのとりのゆりかご」とも慈恵病院ともまったく関係ありません。慈恵病院が先頭に立ったのは不思議です。
 
また、日本子ども虐待防止学会も日テレに要望書を送って、ドラマを批判しました。
私は背後で厚生労働省が糸を引いていると思うのですが、これでフォーメーションがさらに強化され、マスコミが批判しにくい状況がつくられたといえるでしょう。
 
 
それから、これがいちばん大きな理由だと思うのですが、この問題は「トラウマ」と関わっています。
 
全国児童養護施設協議会は「放送を見た女子児童が自傷行為をして病院で手当てを受けた」という事例を公表し、全国児童養護施設協議会の藤野興一会長は記者会見で「自殺するものが出たらどうしてくれるんだ!」と語りました。全国児童養護施設協議会の応援団長役を務める水島宏明教授は繰り返し「フラッシュバック」という言葉を使って、ドラマを見たことがきっかけになってリストカットが起きたし、今後も繰り返されるかもしれないと主張しました。
 
「フラッシュバック」「自傷行為」「リストカット」「自殺」という刺激的な言葉の前で、たいていの人は思考停止してしまいます。
なぜ思考停止するかというと、これらの言葉の根底には「トラウマ」があるからです。
とりわけ虐待された子どものトラウマは深刻ですから、多くの人が目をそむけたいという気持ちになるのは当然です。
そのためマスコミも一般の人も反対の論理を組み立てることができず、全国児童養護施設協議会などの主張に流されてしまっているのだと思います。
 
ですから、こういうことについては心理学の専門家などがコメントするといいのですが、日本子ども虐待防止学会が全国児童養護施設協議会側につくように、学会とか業界になにかの力学が働いているのか、専門家のコメントはまったくありません。
トラウマというようなむずかしい問題に、専門家の助けなしに世論が対応できないというのは、ある程度しかたがないかもしれません。
 
しかし、トラウマに対応できていないのは、世論だけでなく全国児童養護施設協議会のほうも同じです。
全国児童養護施設協議会の基本的な言い分は、「ドラマの視聴をきっかけにフラッシュバックが起こり、自傷行為などが生じるので、ドラマの放送はやめてほしい」ということです。
つまりフラッシュバックということを強調しています。
 
ウィキペディアによると、フラッシュバックはこう説明されています。
 
フラッシュバック (flashback) とは、強いトラウマ体験(心的外傷)を受けた場合に、後になってその記憶が、突然かつ非常に鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象。心的外傷後ストレス障害(PTSD)や急性ストレス障害に顕著である。
 
フラッシュバックが起こる根本原因はトラウマの存在です。なにがきっかけで起こるかは人それぞれです。
 
「明日、ママがいない」の第6話では、「ロッカー」がたまたま暴力場面に遭遇したことでフラッシュバックが起こり、自分も暴力をふるってしまいます。
第4話では、「ボンビ」が里親候補の家で食事中に原因不明の失神をします。「ポスト」はその里親候補の家に行き、さらに「ボンビ」の郷里にも行って、その原因を突き止めます。その原因というのは、電気炊飯器からご飯をよそう父親の姿でした。「ボンビ」の亡くなった父親は肉体労働者で、いつもご飯をいっぱいよそっていて、たまたま里親候補の家で同じ場面を見て、フラッシュバックが起こったのです(あとで知ったのですが、意識が飛ぶことはフラッシュバックでなく解離症状というようです)。
 
フラッシュバックを起こすきっかけをすべてなくすということは事実上不可能です。
フラッシュバックのきっかけをなくすことに努めるよりは、トラウマそのものの解消に努めるほうが本筋であることはいうまでもありません。
フラッシュバックが起こっても、それをきっかけにトラウマと向き合えるということもあります。
「明日、ママがいない」にはトラウマをかかえた子どもが出てきますから、それを見て共感し、それが自身のトラウマの解消に役立つこともあります。
 
フラッシュバックばかりを強調する全国児童養護施設協議会は、施設にいる子どものトラウマに向き合っているのかと疑問に思わざるをえません。
 
「明日、ママがいない」は虐待された子どものトラウマを描くドラマです。
全国児童養護施設協議会も一般社会も、虐待された子どものトラウマに向き合うことから逃げていて、そのために「明日、ママがいない」を排除しようとしていると考えると、腑に落ちます。

2月19日に「明日、ママがいない」の第6話の放送がありました。今回は夫婦間のDVと、それによって子どもが受けるトラウマが主に描かれます。こういう題材を扱うことだけでも、このドラマの価値があるというものです。
 
これまでは、全国児童養護施設協議会などが抗議したことを受けて、どうドラマが変わったのかよくわかりませんでした(第1回は「グループホームコガモの家」という看板だったのが、2回目以降は単に「コガモの家」に変わっていましたが)
しかし、今回のシナリオは、抗議を受けて書かれたものだと思います。つまり、抗議に対する返答と思われるセリフがあるのです。
 
「ロッカー」がトラウマが起因することで暴力事件を起こして警察に逮捕され、ほかの子どもたちは「ロッカー」を追い出そうとします。それに対して「魔王」というあだ名の施設長(三上博史)が子どもたちに異例の長ゼリフをしゃべります。全部は書けませんので、印象的な部分だけ抜き出してみます。
 
「お前たちは世間から白い目で見られたくない、そういうふうにおびえているのか。だから、そうなるかもしれない原因になるあいつを排除しよう、そういうことなんだな。だが、それは表面的な考え方じゃないのか。もう一度この状況を胸に入れて、考えることをしなさい」
「世の中がそういう目で見るならば、世の中に向けてあいつはそんな人間じゃないって、なぜ戦おうとしない。あなたたちはあの人のことを知らないんだって、一人一人目を見て伝えようと、そう戦おうとなぜ思わない」
「くさいものに蓋をして、自分とは関係ない、それで終わらせるつもりか。おとなならわかる。おとなの中には価値観が固定され、自分が受け入れられないものすべてを否定し、自分が正しいと声を荒げて攻撃してくる者もいる」
「そんなおとなになったらおしまいだぞ。話し合いすらできないモンスターになる。だが、お前たちは子どもだ。まだ間に合うんだ」
「つまらん偽善者になるな。つまらんおとなになるな。つまらん人間になるな」
「お前たちは傷つけられたんじゃない。磨かれたんだ」
 
このセリフは、全国児童養護施設協議会など抗議してくる勢力に対して半ば向けられたものだと私は思うのですが、どうでしょうか(「魔王」が急にいい人になってしまって違和感はあるのですが)
 
 
ところで、私はこのブログで、慈恵病院・全国児童養護施設協議会・全国里親会が日テレに対して「明日、ママがいない」の放送中止、内容変更、謝罪を要求するのは不当であるということを一貫して主張してきました。こんな要求が通ったら、ドラマだけでなく映画も小説も自由に発表できなくなるので、当たり前のことです。
しかし、一般の人々はこうした不当な要求にほとんど反論しません。
これは一般の人々のほうにも問題があるということです。
どういう問題があるのか、私なりに考えてみました。
 
まず、「明日、ママがいない」は子どもが主人公のドラマです。そのため多くのおとなは自分とは関係ないので、どうでもいいと思っているのでしょう。
 
これは、安倍政権が進める道徳の教科化などの“教育改革”についても同じです。教育がどう変えられてもおとなには関係ないので、安倍政権の“教育改革”についての反対の声はあまり大きくなりません。
 
「おとなさえよければ、子どもはどうなってもいい」というのが、多くのおとなたちの基本的な認識です。
 
それに加えて、「明日、ママがいない」の主人公である子どもは児童養護施設にいる子ども、つまり親から虐待されたり捨てられたりした子どもです。
おとなたちは“普通の子ども”ならある程度共感することができますが、施設にいる“特別な子ども”についてはあまり共感することができません(もちろんこれは表面的な認識だからで、このドラマを見るとか実際に触れ合うとかすれば変わってくるはずです)
 
私は今の社会を、おとなが子どもを差別する社会だと思っているのですが、施設にいる子どもは一般の子どもよりもさらに差別される存在です。
 
たとえば、親が子どもを虐待して、子どもが大ケガをしたという事件が新聞に載ることがあります。その後、親が裁判にかけられ、懲役何年の判決を受けたという記事が載ることはありますが、ケガをした子どもがどうなったかということは決して新聞に載りません。
つまり、実質的に親のいない子は、多くの人にとって“厄介者”で、関心もないし、関わりたくもないのです。
 
昔、福祉制度がろくになかったころ、親が亡くなって孤児になった子どもがいると、親戚の誰かが面倒を見なければなりませんでした。誰も面倒を見たくない場合、親戚同士が互いに“厄介者”を押し付け合って、子どもは親戚の間で“たらい回し”にされるということがありました(連続射殺事件で死刑になった永山則夫の子ども時代もそうです)
この場合、子どもを引き受けている親戚に対して、ほかの親戚は引け目を感じることになります。
 
今、親のいない子どもを“厄介者”と思っている人たちは、その子どもを引き受けてくれている児童養護施設に対して引け目を感じているはずです。
 
野島ドラマは今回、「家なき子」から“親なき子”へと進化しました。「家なき子」も一般の人々から相当な反発を受けましたから、“親なき子”がそれ以上の反発を受けるのは覚悟の上だったでしょう。一方で共感してくれる人もいるので、確実に話題作になります。しかし、慈恵病院・全国児童養護施設協議会・全国里親会が厚生労働省のバックを得て抗議してくるのは誤算でした。
 
慈恵病院・全国児童養護施設協議会・全国里親会の行動に対する批判の声がほとんど出ないのは、多くの人たちが施設の子どもを厄介者と思っているからではないかと思います。
そういう人は、「くさいものに蓋をして、自分とは関係ない、それで終わらせるつもりか」という「魔王」のセリフをかみしめてもらいたいものです。

最近、安倍首相の様子が変です。
国会答弁で立憲主義を否定するような発言をして、各方面からはもちろん自民党内からも批判されていますが、ほかにもおかしな発言をいっぱいしています。
 
首相答弁、上から目線? 感情むき出しで野党非難02/15 07:00
  安倍晋三首相が国会で強気の答弁を重ねている。連携を探る日本維新の会、みんなの党には秋波を送る一方、民主、社民両党議員の質問には感情をむき出しにする場面が目立つ。荒れる答弁に野党は非難を強め、与党内からも戸惑いの声が上がる。
 
 「延々と補正予算の場で(質問を)やるつもりですか」。民主党の有田芳生氏が5日の参院予算委員会で、百田(ひゃくた)尚樹・NHK経営委員が東京都知事選の応援演説で他の候補者を「人間のくず」と発言したことを批判すると、首相はあざけるように答えた。12日の衆院予算委で同党の大串博志氏が同じ問題を追及すると、首相は「ある夕刊紙はほぼ毎日のように私を『人間のくず』と言っているが、私は別に気にしない」とかわした。
 
 6日の参院予算委では社民党の福島瑞穂副党首の質問で審議が4回中断。首相は集団的自衛権に関する見解を聞かれ「もう何回も何回も何回も何回も答弁している通り」などといらだちをあらわにし、福島氏が憤慨したためだ。
 
 メディアへの攻撃も激しい。5日の参院予算委で特定秘密保護法をめぐる報道に不快感を示した上で、朝日新聞を名指しし「安倍政権打倒は社是であると(聞いた)。そういう新聞と思って読んでいる」と語った。<北海道新聞2月15日朝刊掲載>
 
「日刊ゲンダイ」は「安倍首相のことを『ボンクラ』『嘘つき』とは書いたが、1度も『人間のクズ』と書いたことはない」と反論しました。夕刊紙がいくら扇情的な記事を書くからといって、「人間のクズ」という表現はしないでしょう。
 
「安倍政権打倒が朝日新聞の社是である」というのも、右翼雑誌にはよく書いてありそうなことですが、首相が国会答弁で口にすることではありません。
 
私は今年に入ってから、安倍首相の言動が変だと感じていました。その理由は、昨年末に靖国神社に参拝してアメリカに「失望」を表明され、それ以降、安倍首相は反韓反中の方向に行きたいのにアメリカに止められて、その葛藤が原因ではないかと分析し、そういうブログ記事を書こうかと思っていました。
しかし、数日前から、そういう心理的な問題ではなく、もっと病的なレベルではないかと思うようになり、潰瘍性大腸炎の特効薬アサコールの副作用について調べたりしていました。そうしたところ、元参議院議員である水野誠一氏のこんなツイートを見つけました。
 
水野誠一‏@SeiichiMizuno  ·
今日怖い話を聞いた。首相一家と近い人からの情報だったが、どうも躁鬱の気があり、前辞任時は鬱だったが、現在は躁状態が続いているのだとか。変に納得できるのが怖い。それにしても躁状態がこれほど長く続く症状ってあるのだろうか?
 
これは2月6日の発信ですが、似たことを感じている人がいるのだなと思って、少し自信を深めました。
そうしたところに、冒頭に掲げた北海道新聞の記事が2月15日に出ました。この記事を書いた記者も、安倍首相の精神状態に問題のあることを感じているに違いありません。
 
そして、同じ2月15日に、参議院議員の有田芳生氏がこんなブログ記事をアップしました。
 
過剰暴走する安倍首相と同伴者たち
2月15日(土)集団的自衛権の解釈変更を決めるのは、政治の最高責任者である首相だーー衆議院予算委員会で安倍首相が自信満々にそう語ったことには心底驚いた。憲法の立憲主義を首相が否定したことに、野党や学者だけでなく、自民党内部からも批判が起きている。民主党議員が質問したとき、テレビの中継でも映っていたが、安倍首相は自分の席から延々と不規則発言を続けていた。音声こそほとんど流れなかったものの、「最高責任者なんですから」という言葉はかすかにマイクが拾っている。歴代首相の態度のなかでもきわめて珍しい。この日だけではない。わずかなヤジに耐えることもできず、すぐに反応するのは、もはや常態だ。よほど気分が高ぶっているのだろう。とても危ない。一人の人間の精神状態だけなら、それは周囲が注意すればいい。しかし一国の最高責任者が本会議では民主党議員への答弁を意識的におざなりにし、多少のヤジに過剰に反応、さらには立憲主義まで否定していくなら、日本はさらに危険水域レベル4入ったと言わなければならない。政治の私物化だ。百田尚樹さんが南京虐殺などまったくなかったなどと歴史を堂々と偽造する異常な自信も、首相の暴走と連動している。いずれも思わぬ「成功」におぼれることで謙虚さと地道さを失ってしまったのだろう。(後略)
 
私の考えでは、安倍首相は今、タカ派的な言葉を発することだけに興味があって、それ以外のことはなにも考えていません。
 
安倍首相はダボス会議で「向こう2年間、いかなる既得権益といえども私の『ドリル』から無傷でいられない」と大見得を切りましたが、日本に帰ってきてから規制緩和についてほとんどなにも発言していません。そのためアベノミクスに対する失望が広がり、日経平均はニューヨークダウ以上に下げています。
 
甘利TPP担当大臣は2月15日に訪米し、フロマン通商代表と交渉しましたが、なにも成果が上げられなかったようです。
岸田外務大臣は2月7日に訪米し、ケリー国務大臣と会談しましたが、これもなにも成果はなかったようです。
周辺の大臣がバタバタと動き回っているのは、安倍首相が首相としての機能を果たしていないからではないかと思われます。
 
現時点では、安倍首相の精神状態がおかしいのではないかということをマスメディアで示唆するのは、北海道新聞の記事ぐらいです。
これからの安倍首相の動向に注意したいと思います。

2月12日にドラマ「明日、ママがいない」の第5回目の放送がありました。
これまでは虐待や里親候補家庭の欺瞞などが主に描かれてきましたが、今回は親子の絆の修復へと、ベクトルが逆になった感じがします。これはクレームがついたための路線変更というよりも、予定の展開ではないかと思います。もともと子どもたちが幸せを求める物語だからです。ただ、刺激的な場面は少なくなった気がします。
 
「明日、ママがいない」のドラマとして出来のよし悪しについては、人によって評価が違って当然です。ただ、それは今回の騒動とは関係ありません。
全国児童養護施設協議会(全養協)などがドラマの放送中止、内容変更、謝罪などを要求したのは正当か否かというのが問題の本質です。
 
ネットの世界には、“マスゴミ”はとにかく批判したいという人がいるので、そういう人は全養協に便乗して日テレ批判をするでしょうが、一般の人は全養協の主張をおかしいと思う人が多いのではないでしょうか。
 
全養協は日テレに対して「公共の場での謝罪」を要求しましたが、これについて「ヤフー意識調査」が行われています。
 
意識調査「明日ママ」公の場での謝罪は必要?
 
現時点の結果は、
「必要ない」71.1%
「必要ある」23.1%
「分からない/どちらともいえない」5.8%
となっていて、全養協の謝罪要求には否定的です。
 
しかし、私は新聞の社説や論説委員のコラムなどが全養協を批判するのを見たことがありませんし、有識者や評論家などで全養協を批判する人も見たことがありません。
芸能人などで「明日、ママがいない」を擁護する人はいますが、必ずしも全養協側を批判しているわけではありません。
 
その結果、全養協、全国里親会、慈恵病院は無人の野を行くがごとくになっています。
 
たとえば、全養協は次のようなプレスリリースを発表しています。
 
「明日、ママがいない」の放送内容について
児童養護施設で生活する子どもたちを傷つけ、
誤解や偏見を生むことを、私たちは強く危惧しています。
 
その中にこんな言葉があります。
 
施設長や職員が、こうした暴言を子どもたちに言うことは、決してありません。
 
施設長や職員が、暴力や暴言で子どもたちの恐怖心を煽り、支配・従属させることはありません。
 
田村憲久厚生労働相も「現場でも年間数十例の虐待事案がある」と国会答弁で語っていますから、これは明らかに事実に反します。
“児童養護施設健全神話”みたいなものをでっち上げて、それを前提に抗議しているわけです。
しかし、こうしたことも批判されていないようです。
 
なぜマスコミや有識者が全養協側を批判できないかというと、人権というものを理解していないからです。
 
施設の子どもの人権をもっとも侵害しているのは全養協自身です。たとえば全養協は施設の子どもを調査して、「明日、ママがいない」を視聴したあと自傷行為に及んで病院で治療を受けた子どもがいるなどの結果を発表しました。
 
「明日、ママがいない」の放送内容について
施設の子どもたちを、これ以上傷つけないでください
 
しかし、この調査は、「都道府県の本会役員に対しアンケートを実施しました」というもので、子どもに直接行ったものではありません。しかも、これはマイナスの反応ばかりが紹介されて、「おもしろかった」とか「共感した」というプラスの反応については紹介されていません。
 
さらに問題なのは、子どもは放送中止についてどう考えているかという「意見」についての調査が行われていないことです。
 
子どもの権利条約は、「子どもの意見表明権」を規定していますし、「表現の自由」も有するとしています。
 
「児童の権利に関する条約
12
 
1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
 
2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。
 
13
 
1 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
 
2 1の権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。
a) 他の者の権利又は信用の尊重
b) 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護
 
第1回の放送直後に子どもの意見を集約できなかったのは仕方がないとして、そのあとまったく子どもの意見を聞いていないのは子どもの権利を無視しているといわざるをえません。
 
普通は放送中止に賛成する子どもがいるとは考えにくいことです。いやなら自分が見なければいいだけだからです。ただ、全養協がいうには、クラスメートから「ポスト」と呼ばれるなどして傷つく子どもがいるということなので、そういう子どもは放送中止を望むかもしれません。
 
もし多くの子どもが放送中止を望んでいて、全養協がそうした子どもの意見をバックに日テレに放送中止や内容変更を要求してきたなら、それに対して批判しにくいのは当然です。
しかし、もし多くの子どもが放送継続を望んでいて、全養協がそうした子どもの意見を無視して要求してきたなら、これは子どもの見る権利を侵害するもので、全養協の不当性は明らかです。
 
現実には、全養協は子どもの意見を調査していないので、どちらかわかりません。しかし、子どもの意見を調査しないこと自体、子どもの意見表明権を侵害するものです。
児童養護施設が舞台のドラマが放送されるか否かは、「その児童に影響を及ぼすすべての事項」に含まれることは明らかで、これについて子どもは意見表明権があります。
 
「子どもの人権」をまったく無視してテレビ局に要求する全養協と、それをまったく批判することができないマスコミや有識者。
人権小国日本の情けない姿です。

ドラマ「明日、ママがいない」について、全国児童養護施設協議会は2月5日に記者会見を開き、日本テレビに対して、「文書ではすまない。公共の場で謝罪してほしい」と主張しました。これは子どもが傷ついているからなんとかしてほしいという当初の要望からずれています。要はメディアを萎縮させて、二度と児童養護施設を題材にしたドラマをつくらせない、つまり児童養護施設をアンタッチャブルな領域にしてしまおうという狙いでしょう。
 
そもそもドラマにクレームをつけるというのが異例です。ハリウッド映画ではいつもイスラム教徒やアラブ人が悪役のテロリストとして描かれるので、イスラム教徒やアラブ人はクレームをつけたいでしょうが、フィクションなのでそういうわけにいきません。
 
ただ、事実に重要な間違いがある場合は、フィクションでもクレームのつく場合があります。たとえば、ドラマなどで刑事が図書館を訪ねて、図書館員から利用者の貸出履歴を聞き出すというシーンがある場合、日本図書館協会はそのつどクレームをつけていますし、テレビ局もたいてい訂正や謝罪をしています。貸出履歴を見れば、その人の思想信条がわかってしまいますから、令状なしにそれを教えることはありえないわけで、誤解が広がると図書館にとっても利用者にとっても困りますから、こうした場合のクレームは当然といえるでしょう。
 
しかし、全国児童養護施設協議会などはそうした事実の間違いを指摘しているわけではありません。あくまで「子どもが傷つく」からよくないという理屈です。
 
そうすると、「子どもが傷つく」か否かの基準はなにかということになりますが、客観的な基準はなく、子どもの反応を見るしかありません。しかし、養護施設にいる子どもは養護施設の管理下にあるわけですから、結局、養護施設側が「子どもが傷つく」といえば、誰も反論できません。
ということは今後、児童養護施設側の意向に反したものは、ドラマであれノンフィクションであれ、放送できないということになります(クレームをつけられるとスポンサーが撤退してしまうので)
 
ところで、全国里親会というのも、「明日、ママがいない」へのクレームに一枚かんでいます。YouTubeで1月21日の記者会見の映像を見ていたら、全国里親会の星野崇会長という人がひどいことをいっていました。その部分を書き起こしてみます。
 
【芦田愛菜】全国児童養護施設協議会記者会見
 
 
 
人間は犬ではありません。小動物といっしょくたにするっていうことを子どもに教えちゃいけないんですね。ところが、このドラマは率先してそれを教えている。私ははっきりいって、主演した芦田愛菜ちゃんがかわいそうですね。彼女は9歳半にして、こういう思想を植え付けられてしまっているんですね。
これがどんどんどんどん周りに広がっていってしまうっていうことは、人間の尊厳っていうものを無視する、メディアそのものが人間を無視する方向に動いているなということで、激しい憤りを感じております。
 
新聞記事は要約になっていますから、そんなひどい感じはしませんが、こうして読むと無茶苦茶なことをいっています。
 
人間を犬にたとえるのは、ドラマの登場人物のセリフです。ドラマがそれを教えているわけではありません。星野会長は、ドラマの特定のセリフをとらえて、それをドラマの主張と勘違いしているのです。
 
また、芦田愛菜ちゃんはあくまで演技をしているので、なにかの思想を植え付けられているわけではありません。
小さい子どもが見れば、演技する芦田愛菜ちゃんと実際の芦田愛菜ちゃんと区別がつかないということがあるかもしれませんが、立派なおとなである星野会長がそんな間違いをしているのです(「思想を植え付けられている」などということこそ芦田愛菜ちゃんを「傷つける」行為です)
 
あとで記者が「人間を犬にたとえるのは、フィクションであるし、肯定的ではなく、やっちゃいけないことだよねっていうことではないか」ということを質問しますが、それに対して全国児童養護施設協議会の副会長が「おとなならフィクションとわかるが、子どもはそういう判断ができないので、そのまま信じてしまう」というふうに回答します。
まさに「空白の石版」理論です。
 
ともかく、ドラマも演技も理解できない人間が記者会見でそのバカバカしい見解を披露して、それをそのまま通しているのですから、マスコミもだめになったものです。
 
もっとも、YouTubeのコメント欄には、星野会長も全国児童養護施設協議会の藤野会長も態度が悪いといったコメントが並んでいます。
 
 
ところで、こんな人間が会長をしている全国里親会とはなにかというと、れっきとした公益財団法人です。
星野会長自身ももちろん里親で、「私も16人ぐらい今まで経験があるんですけども」と語っています。
16人も里子を取ったというのも驚きです。十分に世話できるのだろうかと思ってしまいます。
 
里親制度というのもアンタッチャブルな領域です。
里親には里親手当が支払われますが、これがかなりの額になるようです。
 
里親支援Webサイト 4.里親への手当て等
 
1人当たり年間200万円支払われるという説もあります。
16人里子がいたとなると、1人10年としても、3億2000万円ということになります(2人目からは減額されますから、そうはなりませんが、1人10年以上ということは十分に考えられます)。すごい里子ビジネスです。
 
野田聖子衆議院議員は里子をもらうことを望んだのに叶わず、結局卵子提供による人工授精を選んだということで、里親になる道はかなり狭いようです。その一方で、星野会長のように16人も里子を取っている人がいるということは、一部の人が独占しているということでしょうか。
 
私は基本的に、児童養護施設で子どもが十分な世話を受けていないと思っているのですが、里親も同じようなものかもしれません。
星野会長のような子ども観を持っている親がまともな里親になれるとは思えません。
 
里親制度の実態について書かれたサイトを紹介しておきます。
 
里親家庭を「家」と呼ばないで
 
里親から里子への児童虐待~搾取される子供たち~
 
実際の里親制度がどのようなものであるかは、星野会長のような里親側からではなく、里子側から見ないとわかりません。
同様に、児童養護施設がどのようなものであるかも、施設側からではなくそこの子どもの側から見ないとわかりません。
「明日、ママがいない」は子ども目線のドラマであるゆえに、おとなたちから攻撃されるのでしょう。
 
 

「明日、ママがいない」の第4話が2月5日放送されましたが、視聴率はこれまでで最低の13.1%だったということです。日本テレビが謝罪したようなドラマは見たくないという人がいたのでしょうか。
しかし、第4話自体はなかなかの出来でした。「ボンビ」は両親が亡くなったという事実を受け入れることができず、金持ちの親がいつか迎えにきてくれるというファンタジーを抱いています。両親が亡くなった理由は、はっきりとは示されませんが、東日本大震災であることが強く暗示されます。そして、「ポスト」と「魔王」が奮闘して、ついに「ボンビ」に親が亡くなったという事実を受け入れさせることに成功します。
「両親を亡くした小さな子ども」という設定だけで涙腺が刺激されますが、ストーリー運びはひじょうにコミカルで、うまくバランスが取れていると思います。
 
考えてみれば、このドラマは最初からかなりコミカルでした。たとえば、第1話で施設の子どもたちみんながバケツを持って立たされるという“体罰”のシーンがあるのですが、全員横一列に並んで、最後に「もう限界!」といって全員が同時にバケツを放します。つまりこの“体罰”シーンはリアルではなくコミカルになっているのです。ただ、第1話であるため、そのへんがうまく伝わらなかったかもしれません。というか、私の場合、抗議されているということを知ってから見たため、素直に見られなかったということもあります。
 
このドラマは、子どもが傷つかないようにちゃんと配慮してつくってあります。放送中止にしろとか内容を変えろというのはまったく不当な要求です。
 
そもそも全国児童養護施設協議会は、「子どもが傷つくから」というような理由で抗議する資格があるのかという問題があります。
このことは国会でも取り上げられたのですが。
 
明日、ママがいない:厚労相「現実の児童養護施設を調査」
 田村憲久厚生労働相は3日の衆院予算委員会で日本テレビ系の連続ドラマ「明日、ママがいない」が児童らに与えている影響について「入所している子に自傷行為があったとの報道がある。全国児童養護施設協議会に確認し調査したい」と述べ、調査に乗り出す考えを示した。日本維新の会の中田宏氏への答弁。
 
 同協議会は日本テレビ側に人権への配慮を要請している。中田氏は、ドラマの内容について「施設長が(児童に)『ペットの犬と同じだ』と言うのは全国の施設職員からすれば憤りを禁じ得ない」などと指摘。田村氏は「ドラマ、フィクションだからデフォルメもある」としたうえで、「現場でも年間数十例の虐待事案がある。なくさなければならず、しっかり対応したい」と述べた。【青木純】
 
田村厚生労働相も「現場でも年間数十例の虐待事案がある」といっています。もちろんこれは表面化したものだけですから、実数はその数倍か数十倍になるはずです。
リアルの虐待で傷つく場合は、ドラマを見て傷つく場合よりも格段に深刻であるに決まっています(ドラマで傷つくといっても、テレビを消せば終わりです)
内部に深刻な問題があるのにテレビ局に抗議している場合かといいたくなります。
 
私は慈恵病院、全国児童養護施設協議会、全国里親会が最初から連携していることを不審に思っていましたが。元日本テレビディレクターである水島宏明法政大学教授のブログでそのへんのことが説明されていました。水島教授は明らかに全国児童養護施設協議会などの側に立ってブログで発信してきた人ですが、それだけに内情を知っているようです。そのブログから一部を引用します。
 
本日午後「明日ママ」で抗議団体が記者会見 「今後を見守る」姿勢を表明へ 厚労省で会見するワケは? 
実は、全国養護施設協議会は社会福祉法人・全国社会福祉協議会(全社協)の下部組織で、事務所も新霞ヶ関ビルの全社協の事務所の中にある。
 
全社協は、全国の福祉施設や各地域の社会福祉協議会の上部団体で、事実上、厚生労働省の「外郭団体」。
 
厚生労働省の幹部が天下りしたり、出向したりする先の機関として存在してきた。
 
現在の全社協の会長も、斎藤十朗氏。自民党の元参議院議員で、元厚生大臣で、元参議院議長を務めた「厚生族」政治家だ。
 
「全社協という組織は厚労省にべったり」と関係者が口にするほど、両者の関係者は深い。
 
厚労省は、国の方針を全国に発信する時に全社協が出している雑誌などを頻繁に利用している。
 
その全社協傘下の全国児童養護施設協議会が日本テレビに抗議するにあたって、全社協の上層部や厚生労働省の関係部署への「相談」なくして行うわけがない。
 
日本テレビへの抗議は、児童養護施設の施設長などが、ドラマの第1話を見て「これは問題ある放送だ。子どもたちを傷つけてしまう」と危機感を持って動き出したのがきっかけだが、実際の行動にあたっては厚生労働省とも「内々で相談」の上で行っている。
 
私はこの問題は最初から、表現の自由に対する侵害であると思っていましたが、民間団体が抗議している限りは、それほど深刻な問題ではないともいえます。しかし、国が後ろで糸を引いているとなると話は違います。
 
厚生労働省がなぜ「明日、ママがいない」の放送に圧力をかけたかというと、言論の自由を抑圧して戦前の日本のようにしようというような思想があるからではなく(まったくないわけではないかもしれませんが)、単に児童養護施設の内情を知られたくないために、メディアが児童養護施設を扱うことをタブーにしたかったからでしょう。
なぜ児童養護施設の内情を知られたくないかというと、もちろんそれは知られたくないようなものだからです。
 
私は児童養護施設のことはなにも知りませんが、それが不十分なものであることはわかります。たとえば、親に虐待された子どもが親から引き離されたとき、児童相談所を介して児童養護施設に引き取られます。そうした子がそれまで親から愛情を受けられなかった分の愛情を施設で受けられるかというと、ほとんどの場合不十分であるに決まっています。
これは別に児童相談所の職員がだめだということではなく、世の中はだいたいそういうものです。
 
しかし、それを隠蔽して、厚生労働省が意図するように、児童養護施設では施設長も職員も子どものために献身的に尽くしているというイメージができてしまうと、子どもはよけい救われません。施設で傷ついた心が癒されなくても、誰もわかってくれないからです。
 
私は最初、全国児童養護施設協議会が「明日、ママがいない」に抗議したのは、施設長が「魔王」と呼ばれる悪役になっていたからだと思いました。フィクションとはいえ、自分と同じ立場の者が悪役にされているのは不愉快だからです。おそらく日本テレビも同じように考えて、「最後まで見ていただければ私たちの意図が理解していただける」といっていたのでしょう。というのは、「魔王」は実は悪役ではないということがだんだんとわかってくるからです。
 
しかし、全国児童養護施設協議会が抗議したのは、背後で厚生労働省が糸を引いていていたからだとなると、「魔王」の役回りは関係ないことになります。
 
この問題に関して、マスコミが全国児童養護施設協議会側をまったく批判しないのは、もしかしてそのバックに厚生労働省がいるからでしょうか。もしそうだとすれば、まさに表現の自由、言論の自由の危機です。

日本テレビは2月4日、全国児童養護施設協議会に対して、「明日、ママがいない」の内容変更計画を記した文書を手渡しました。ドラマに圧力がかかって改変を余儀なくされるとは前代未聞のことではないでしょうか。なぜこんなことになってしまったのか、出発点にさかのぼって考えてみました。
 
熊本県の慈恵病院が「明日、ママがいない」の放送に抗議し、放送中止を訴えて放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会に審査を求めたことがそもそもの発端でした。
慈恵病院は「赤ちゃんポスト」(正式名は「こうのとりのゆりかご」)を運営しているところです。慈恵病院は2007年に「赤ちゃんポスト」の運営を開始しましたが、当時はかなり反対の意見が強かったことを覚えています。第一次安倍政権のときの安倍首相も、「『ポスト』という名前に大変抵抗を感じる。親として責任をもって産むことが大切だ」というコメントをしています。
そうした反対を押し切って「赤ちゃんポスト」の運営をしてきたということは、慈恵病院は赤ちゃんの命を守ることに相当に強い信念を持っているということでしょう。その慈恵病院が「明日、ママがいない」に抗議したということで、その言い分にそれなりの信ぴょう性がありました。ドラマの初回の視聴率は14%ですから、ほとんどの人は見ないで判断したわけです。そのためひとつの流れができてしまったように思われます。
 
慈恵病院はフランシスコ修道会によって創設され、理念は「キリストの愛と献身の精神を信条とします」ということです。
病院のホームページには、「明日、ママがいない」についての病院の見解がひじょうにていねいに説明されています。
 
現在放送中の「明日、ママがいない」放送に当たりまして
 
しかし、それを読むと、やはり認識に致命的な問題のあることがわかります。
 
たとえば、子どもに「ポスト」「ロッカー」「ドンキ」などのあだ名がついているのがよくないといいます。しかし、これは前にも指摘しましたが、「ポスト」という名前は本人が受け入れているのです。なぜ本人がよしとしていることを慈恵病院はいけないというのでしょうか。
つまり慈恵病院は、「子どもの意志」というものがまったく眼中にないのです。
 
これはあらゆるところに見られます。
「魔王」というあだ名の施設長が子どもにさまざまな暴言を吐くのは子どもが傷つくのでよくないといいます。
たとえば、施設長が「イヌだって、お手くらいの芸はできる。分かったら泣け」というシーンについてこのように書いています。
 
このような発言は施設の子や里子の名誉を傷つけるものです。「施設では泣く練習をさせられるの?」という質問だけでも、子どもは傷つきます。
 
ドラマの中での発言が現実の子どもを傷つけるかというと疑問があります。むしろドラマの中の子どもが傷つくのを見て、自分にも同じことがあったと共感して、救われることも多いでしょう。それに、『「施設では泣く練習をさせられるの?」という質問だけでも、子どもは傷つきます』というのも一方的な決めつけです。「施設では泣く練習をさせられるの?」という言葉から会話が始まって、施設がどんなところであるかを友だちにわかってもらえるということも十分に考えられます。
 
「子どもが傷つく」という言葉がまるで水戸黄門の印籠のように使われています。
 
確かにいろいろなことで子どもは傷つきますが、子どもはそれに対処する能力も持っています。傷つける相手に反抗したり、傷つけられた者同士で慰め合ったりします。
そのように能動的に行動する子どもの姿を描くのが「明日、ママがいない」というドラマです。
ところが慈恵病院は子どもが傷つくか否かというところしか見ていないのです。
 
ここには大きな子ども観の対立があると思われます。
 
従来の子ども観は、子どもはおとなによって教育されることで初めて人間となるというものです。この考え方は「空白の石版」(ラテン語のタブラ・ラーサ)という言葉で表されます。つまり、子どもは白紙の状態で、おとなが自由に書き込めるものだというわけです。
この考えだと、子どもの個性も能力の差もありません。教室でなにを教えるかは大人の自由です。現在の教育はこの考えで営まれています。
 
それに対して、子どもは生まれつき学習能力を持っていて、その学習の方向性も決まっているという考え方があります。これは認知科学や脳科学や発達心理学や進化生物学などによって次第に確立されてきたものです。
 
「客体としての子ども」対「主体としての子ども」というとわかりやすいでしょう。
 
これについてはこの本が参考になります。
 
人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か ()スティーブン・ピンカー著 (NHKブックス)
内容(「BOOK」データベースより)
人の心は「空白の石版」であり、すべては環境によって書き込まれる。これは、二〇世紀の人文・社会系科学の公式理論であり、反対意見は差別や不平等につながるとして、今なおタブー視される。世界的な認知科学者が、人の心や行動の基礎には生得的なものがあることを最新科学で明かし、人間の本性をめぐる科学が、道徳的・感情的・政治的にいかにゆがめられているかを探究する。米国で大反響のベストセラー、待望の翻訳。
 
また、子どもの権利条約も、おとなによって保護されるだけの子どもから「権利の主体としての子ども」へと子ども観の転換をしています。
 
このドラマは「ポスト」が主人公で、仲間の傷ついた子どもを助けたりして活躍する物語ですが、慈恵病院のサイトにはそういう部分についての言及がまったくありません。つまり、慈恵病院の人の目には、子どもの受身の部分だけが見えて、子どもが主体的、能動的に行動する部分は見えないのでしょう。これではドラマを見ていることにはなりません。ですから、「明日、ママがいない」というドラマについての全体的な評価がありません。
本来なら、「赤ちゃんポスト」出身の子どもが主人公として活躍するドラマですから、細かいところに注文はつけても、全体としては積極的に評価していいはずです。
 
また、施設の子がドラマを見る場合も、ただ傷つくだけでなく、ドラマに共感したり、反発したり、批判したりすることによって得ることも多いはずですが、慈恵病院の人の目にはそうした能動的な面もまったく見えていません。
 
さらにいうと、施設の子どもがテレビを見る場合、自分でチャンネルを選ぶことも、見ないでいることもできるはずです。ですから、もし自分が傷つくようなドラマなら、子どもはすぐに見るのをやめるでしょう。
ですから、慈恵病院の放送中止という要求は、子どもにとって大きなお世話です。
世間が勘違いするということはあるかもしれませんが、世間はなにかにつけて勘違いするものですし、子どもはその勘違いを正していく可能性も持っています。
 
ちなみに、青少年の健全な育成のために「有害図書」を規制すべきだという議論も、青少年は自分で選ぶ能力もなく、「有害図書」を見たらそのまま受け入れてしまうだろうという前提に立っています。
 
ともかく、慈恵病院は古い子ども観に立って、子どもの能動的、主体的な面を無視して「明日、ママがいない」を評価し、ドラマの放送中止、内容改編という、してはならない要求をしました。
慈恵病院は社会的な評価が高いために、世論をミスリードした面があることは否めません。
 
TBSは昨年、「こうのとりのゆりかご~『赤ちゃんポスト』の6年間と救われた92の命の未来」というドラマを放送しました。これはフィクションという形をとりながら慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」を描いたもので、ドラマの制作過程では当然ながら慈恵病院も関与し、さまざまな要求をしました。
しかし、「明日、ママがいない」は慈恵病院をモデルにしたものではありません。ここに要求するのは、TBSドラマのときの連想が働いたのかもしれませんが、筋違いというべきです。
 
慈恵病院は赤ちゃんの命は救いますが、そのあと育てたり、教育したりするところではありません。専門でないところに口を出したのは残念でした。 

日本テレビはドラマ「明日、ママがいない」について、ドラマの内容に抗議していた全国児童養護施設協議会に対して、後半のドラマ内容を改善すると伝えました。改善の内容は2月4日までに文書で回答するということです。
“改善”というのは、毒にも薬にもならない方向に変えるに決まっています。それでは確実に感動がそがれてしまいます。
 
こんなことでドラマが変えられてしまうとすれば、今後ドラマに限らず映画、小説なども自由につくれないということになりかねません。日本テレビの対応は残念ですし、全国児童養護施設協議会に同調して日本テレビを批判している人たちも残念です。
 
親に捨てられたり虐待されたりした子どもたちが、児童養護施設を舞台に、互いに助け合って、幸せになるために奮闘するというドラマが「明日、ママがいない」です。施設の子どもが主人公のドラマを施設のおとなたちがつぶそうとしているのが今回の騒動の本質です。
 
施設がその施設の子どもの味方かというと、そうとは限らないというのが現実です。これは学校がそこの生徒の味方とは限らないのといっしょです。
イジメ事件や体罰事件が起こるたびに、学校(教師)や教育委員会が隠蔽や責任逃れをしてきたことは誰もが知っているはずです。児童養護施設は例外だと思っている人がいれば、それはよほどおめでたい人です。
 
施設の側に立つか、施設の子どもの側に立つか、それによって判断はまったく変わってきます。
そして、マスコミは明らかに施設の側に立っています。
もちろん例外もあります。たまたま今日届いた「選択」1月号の「マスコミ業界ばなし」は、慈恵病院がBPOの放送人権委員会に審査を求めたことについて、フィクションであるドラマが審査に持ち込まれることは異例だと指摘したあと、こう書いています。
 
一方でこんな声もある。「養護施設の職員による児童への虐待や性暴力は枚挙に暇がない。現実はドラマよりも奇なり、だ」(教育関係者)。「施設をタブーにすることで、自分たちへの今後の批判を封じる狙いもみえる」(施設元理事長)。さらには「朝日や毎日は、この件が表現の自由に対する重大な挑戦だという認識がないのか」(新聞OB)との疑問も。人権栄えて国滅ぶ。新聞が、暗い時代へ逆戻りさせようとしている。
 
この文章が問題の構図を的確に捉えています。
ただ、「人権栄えて国滅ぶ」というくだりは違うと思います。逆に人権に対する無知が問題を引き起こしているというべきです。
 
日本も批准している子どもの権利条約は、子どもを「権利の主体」ととらえるもので、「子どもの意見表明権」も規定しています。
ところが、慈恵病院、全国児童養護施設協議会、全国里親会は「子どもの意見表明権」をまったく無視して、自分たちが子どもの代弁者として行動しています。
たとえば全国児童養護施設協議会の次のマスコミ発表は、まったく子どもを無視したものです。
 
「明日ママ」つらい思い15件、日テレ、協議会と面会へ
 児童養護施設を舞台にした日本テレビ系ドラマ「明日、ママがいない」をめぐり、全国児童養護施設協議会は29日、「同級生から(主人公のあだ名で、赤ちゃんポストを意味する)ポストと呼ばれるなど、ドラマのために子どもがつらい思いをした事例が15件ある」と公表した。
 
 協議会は同日、ドラマの内容改善を求める2度目の抗議文を日テレに送付。同局は「30日に番組責任者が直接お目にかかり、誠意を持ってお話をさせていただく」などとコメントを発表した。
 
 協議会は初回放送後の17日から、全国の施設長ら役員67人に対し、ドラマの影響や子どもたちの感想を報告するよう求めている。27日までに109件が寄せられ、このうち施設の女の子が同級生に「ポスト」と何度も呼ばれたケースや、同級生の男子グループから「おまえもどこかにもらわれるんだろ」などとからかわれたケースなど、子どもがつらい思いをした事例が15件あったという。
 
 残り94件は、「気にならない」「あり得ない設定」「面白いけど、ちょっと嫌な気持ちがした」といった感想や、ドラマが原因と明確に判断できないケースなどとしている。
 
 協議会は15件のうちの1件として、第2話の放送後に自傷行為をし、病院で治療を受けた子どもがいることも明かした。同協議会の武藤素明副会長は「子どもは最近、落ち着いていた。職員が視聴を止めなかったのは、大勢の子どもがテレビを見ている中、1人だけ制限するのが難しかったためだ」と話している。
 
 日テレに抗議している熊本市の慈恵病院は29日、170件の賛同や非難の声が病院に寄せられ、誤解にもとづく批判もあったとして、「改めて考えを知っていただきたい」と見解をホームページで公表した。
 
この記事を漫然と読むと、全国児童養護施設協議会が広範囲にアンケート調査を実施したと思うかもしれません。しかし、実際は、役員67人に子どもたちの感想を報告させたものです。つまり、子どもたちの感想そのものが客観的に提示されているわけではありません。こういうところに「子どもの意見表明権」をないがしろにしていることが表れています。
また、児童養護施設は全国に600近くあるということで、67人の役員がカバーできるのはその一部ですし、しかも役員という立場から組織防衛というバイアスがかかっていることは十分に考えられます。
このようないい加減な調査をもとにテレビ局に要望を突きつけるのはまともなこととは思えません。
 
また、協議会はこのようなこともいっています。
 
 協議会は20日に抗議書を送付したが、22日の第2回放送でも子どもをペットと同列に扱い、恐怖心で子どもを支配するなどの表現が多く見られたと指摘。抗議書では「子どもたちを苦しめる事例が報告されている。人権に配慮した番組内容に改善するよう要請する」とし、2月4日までに文書で回答するよう求める。
 
これは「魔王」というあだ名の施設長の言動を指しているものと思われます。
たとえば第2話では、「魔王」が「パチ」という小さな男の子に「お前はかわいいトイプードルだ。ほれ、お手でもしてみろ」といいます。
その「魔王」を「ポスト」(芦田愛菜ちゃん)がにらみつけると、「魔王」は「ポスト」に対して、「なんだ、その目つきは。母犬にでもなったつもりか」といいます。
「魔王」はそうした会話の途中で、持っている杖で床を突いて音を立て、子どもたちを脅したりもします。
 
こうした場面は確かに、「子どもをペットと同列に扱い、恐怖心で子どもを支配するなどの表現」と指摘できるところです。ところが子どもたちは、それに屈することなく、互いに助け合って生きていくわけで、そういう子どもたちの姿を描くのがこのドラマの主眼です。
施設の子どもたちはきびしい現実を生きています。「魔王」という施設長はそのきびしい現実の象徴でもあります。主人公はそうしたきびしさを乗り越えていくからこそドラマになるのです。
 
それに、「魔王」は単純に悪い男ではありません。「パチ」はシャンプーボトルをつねに肌身離さず持っています。それは実の母の匂いがする唯一の思い出の品なのです。しかし、「パチ」は里親候補の家に行ったとき、そこの母親にシャンプーボトルをむりやり捨てられてしまい、傷ついて施設に戻ってきます。しかし、「魔王」はこっそりとゴミ置き場からシャンプーボトルを拾ってきていたのです。
「魔王」はいったいどのような人間なのかということも、連続ドラマのおもしろさになっています。
 
協議会の人たちは「魔王」をただの「恐怖心で子どもを支配する」人間にしか見えないのでしょうか。ドラマを理解する能力もなしにテレビ局に抗議するとは笑止千万です。
 
協議会の人たちは、施設長や職員はみな子どもをたいせつにし、子どもたちはその愛情をいっぱいに受けて、毎日笑顔ですくすくと育っていますというような、社会主義国のプロパガンダみたいなドラマを望んでいるのでしょうか。
 
ともかく、こんないい加減な抗議を受け入れていたらそのうち、トウシューズに画鋲が入っていたという場面は子どもが傷つくのでやめてほしいと、子どもバレエ教室から抗議されて受け入れるハメになるかもしれません。
 
今回、「明日、ママがいない」というドラマを巡って、なぜこんなバカバカしい展開になっているかというと、全国児童養護施設協議会もマスコミも一般の人も、子どもの権利条約でも認められた「権利の主体としての子ども」ということを理解していないからです。
とりわけマスコミは、子どもの人権を尊重するのか、全国児童養護施設協議会の言い分を尊重するのか、判断する力を持たねばなりません。

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