村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2014年03月

3月27日、静岡地裁は袴田巌死刑囚について再審開始を決定しました。「犯行に使われたとされた衣類は、捜査機関によるねつ造の疑いがある」と指摘するなど、捜査当局をきびしく批判しています。
袴田さんは釈放されましたが、30歳で逮捕されてから48年ぶりのことです。人生のほとんどを捜査機関と司法当局につぶされてしまったわけです。
 
私はかなり昔(20年ぐらい前?)、日本テレビで深夜にやっていたドキュメンタリー番組で袴田事件のことを知りました。袴田死刑囚の自宅でズボンのハギレが発見され、それを根拠にして犯行現場で発見された衣類は袴田死刑囚のものであるということになっていたのですが(実際はまったくサイズの合わないズボンです)、その番組は、ハギレは家宅捜索をした警察官が置いたものではないかという疑いを追及していました。記者が警察官に直撃取材すると、警察官はまともに答えることができずに逃げ回り、印象としては真っ黒でした。
 
警官が家宅捜索のときに“証拠品”を勝手に置くことができるなら、誰でも有罪になってしまいます。たとえば、警察が私の家に家宅捜索にきて、1人の警官がポケットの中から覚せい剤を出して机の上に置き、「これはなんだ」と言えばいいわけです。
 
この番組には、当時日本プロボクシング協会会長であったファイティング原田氏も、袴田氏の無実を信じる立場からコメントを寄せていました。
 
これほどいかにも冤罪事件らしい冤罪事件はありません。事件を知るほとんどの人は冤罪事件だと思っていたに違いありません。
事件の第一審を担当した裁判官であった熊本典道氏は、2007年に死刑廃止を推進する議員連盟の集会で、「被告は無実であるとの心証を得ていたが、先輩裁判官の反対で死刑判決を書かざるをえなかった」と表明し、話題になりました。
国会では2010年に袴田巌死刑囚救援議員連盟が発足し、57名の議員が参加しました。
最終的にはDNA鑑定が決め手になったのは事実ですが、本来はDNA鑑定がなくても、もっと早くに再審開始は決定されるべきでした。
 
こうした冤罪事件があとを絶たないのは、ひとつには、日本人の“お上意識”というか、権力に弱い体質があるからだと思います。
子どものころ、「そんなことしてたらお巡りさんに叱られますよ」などと言われて育つと、なかなか警察を批判するというふうにはならないでしょう。
 
それからもうひとつは、警察官、検察官、裁判官の“顔”が見えないことです。
 
たとえば3月28日の朝日新聞朝刊の一面の見出しに「国家が無実の個人陥れた」とあります。
私はここに「国家」という言葉を持ってくるのはおかしいと思います。
まさか当時の総理大臣や法務大臣が「冤罪でもいいから誰かを逮捕しろ」などと命令したはずはありません。基本的には現場の警察が始めたことで、それに起訴を担当する検察が加わったという形でしょう。もちろん組織ぐるみでしょうが、責任はその組織のトップにあります。
つまり「国家」ではなくて、捜査一課長とか警察署長とか県警本部長とかの「個人」の“犯罪”なのです(どういう犯罪かはむずかしいですが、最大限殺人未遂になるはずです。もちろん証拠捏造、証拠隠匿を罰する法律をつくるのが筋です)
 
BC級戦犯裁判では、たとえば捕虜虐待をしても上官の命令であれば罪は問われません。命令した上官の罪になります。警察や検察の犯罪も同じやり方で裁くことになるはずです。
 
もちろん警察や検察はかばい合いますから、責任者を特定するはむずかしいことですが、それをするのがマスコミの役割です。わからないならわからないなりに推測記事を書けばいいのです。
「国家が無実の個人陥れた」という認識では、最初から“犯人”を特定しようという意志がないと思われてもしかたありません。
 
マスコミは官僚依存体質がひどいので、ほんとうは警察や検察の責任を追及したくないのです。そのため「国家」などいう曖昧な概念を持ち出します。
薬害裁判などでも、すぐに「国の責任」という言葉を使います。厚生労働省のどこかの局の誰かの責任をごまかしているのです。
 
普通の犯罪では、容疑者が逮捕されるとその写真が公表されますし、どんな人間であるかも報道されます。つまり個人の“顔”が見えることで、人々は怒りの感情をかき立てられ、「死刑にしろ!」などと叫びます。
しかし、国家、国、警察、検察といった言葉で表現されると、個人の顔が見えないので、それほど怒りの感情は湧いてきません。
 
たとえば、元裁判官の熊本典道氏が「無罪の心証があったのに死刑判決を書いた」と告白したとき、私は勇気ある告白だと思う一方で、「なんで今ごろ言うんだ」とか「そのときになんとかしておけよ」という不信感を覚えたのも事実です。
しかし、この場合、3人の裁判官の合議制で、最後は多数決で決まったわけです。ウィキペディアの「熊本典道」の項目にはこう書かれています。
 
1968年、合議制の袴田事件第1審(静岡地方裁判所)にて無罪の心証を形成し、19686月中旬には無罪判決文を書いていたが、裁判長の石見勝四、右陪席の高井吉夫を説得することに失敗。有罪の主張を譲ろうとしない高井に向かって「あんた、それでも裁判官か!」と怒鳴りつけたという。死刑判決文を書くことを拒否し、高井に「あんたが書けよ!」と用紙を投げつけたが、最終的には19688月、左陪席の職務として泣く泣く死刑判決文を書き上げる。
 
つまり、熊本典道氏個人に焦点を当てると、「へんな告白をした人」ということになってしまいますが、裁判長の石見勝四、右陪席の高井吉夫に焦点を当てると、「明らかに無罪なのに死刑にした人」ということになり、熊本典道氏の告白は「正義の告発」ということになります。
石見勝四、高井吉夫について「検察と癒着し、自己保身と出世欲のために無実の人間を死刑にするという身勝手な裁判官」という報道がされていれば、世論は「正義の怒り」で盛り上がったはずです。
 
一般の犯罪では個人に焦点を当て、人々の怒りを掻き立てる報道が行われますが、権力側の犯罪では、国家、国、国策などの言葉でごまかし、個人に焦点が当たらないようにする。つまりまったく非対称の報道になっているのです。
 
政治家については、疑惑の段階でも実名をあげて報道がされます。警察官や検察官の場合も、公人の公務に関することですから、疑惑の段階でも実名をあげて報道していいはずです。
 
マスコミが国家、国、国策などの言葉でごまかすのは、権力側と同じ穴のムジナだからです。
こういう報道の仕方をしている限り、国民の怒りは盛り上がらず、警察、検察、裁判所はこれからも冤罪事件をつくりあげることができます。

道徳教育でよい人間がつくれるということはありません。
では、なんのために道徳教育をするかというと、おとなのためです。
 
文部科学省が配布する「わたしたちの道徳」小学生1・2年用はなんと160ページもあります。道徳の詰め込み教育です。おとなの自己満足のためとしか思えません。
将来、道徳が教科化されたらその分、国語や算数の授業が削られるわけで、学力低下は必至です。
 
「わたしたちの道徳」小学生1・2年
 
「わたしたちの道徳」小学生1・2年生用の第1章は「自分をみつめて」と題されています。
小学校1年生に自分を見つめさせることに意味があるのでしょうか。
この年齢は世界を探求することに全力をあげるときではないかと思います。
自分を見つめるのは、人生に行き詰まりを感じたときでいいのではないでしょうか。
 
第1章「自分をみつめて」の「1」は、「きそく正しく気もちのよい毎日を」と題されていて、その最初は、「気もちのよい1日をすごすために、どのようなことに気をつければよいのかを考えてみましょう」となっています。
そして、それに続いて、
「つくえやロッカーの中など、みの回りのかたづけができていますか。学校での様子を思い出してみましょう」
「自分の本やふくなど、みの回りのかたづけができていますか。家での様子を思い出してみましょう」
とあります。
つまり、かたづけの勧めです。
道徳教育の第一歩は子どもにかたづけをさせることなのです。
 
かたづけをすることが子どもの発達の過程で重要なことかというと、かなり疑問です。
しかし、親にとっては重要なことです。おそらく多くの家庭で、親は子どもがオモチャなどを散らかすと、「ちゃんとかたづけをしなさい」と毎日のように言っているのではないかと思われます。
ですから、この道徳の教科書は、親にとって喜ばれる内容なのです。
 
教科書はこのあと、こう続いています。
「みの回りのものをかたづけることができていますか。学校での様子をたしかめてみましょう。できたら○に色をぬりましょう」
そして、「教科書」「ランドセル」という項目の下に○が五つ並んでいて、日付を書き込むところもあります。
つまり、教科書やランドセルのかたづけができたら、○に色をぬって、日付も書き込みましょうということです。
 
かたづけそのものには意味があるとしても、○に色をぬることに意味があるのでしょうか。しかも、○は五つしかありません。
 
ですから、○に色をぬらせることは、親や教師の自己満足でしょう。子どもに読書感想文を書かせるのと同じです。
 
根本的なことをいえば、子どもがかたづけをしないのは当たり前のことです。
子どもはオモチャを持ち出して遊びたいという動機はあります。しかし、遊んだあとオモチャをかたづけたいという動機があるわけありません。
 
かたづけたいという動機が出てくるのは、物が散らかっているとなにかするときのじゃまになるし、踏みつけて壊れるかもしれないし、物が所定の場所にないと次使うときにすぐ取り出せないしというように、「将来の予測」ができるようになってからです。オモチャで遊びたいという動機は「今」のことですから、かなりのズレがあります。
このズレが理解できない親は、「自分で使ったものは自分でかたづけなさい」などとむりなことを言います。これはトイレトレーニングのできていない子どもに、「自分で食べたものは自分で排泄しなさい」と言うのと同じです。
 
「きそく正しく気もちのよい毎日を」という言葉にも疑問があります。
おとなは物がかたづいていると気持ちいいでしょうが、子どもに同じ気持ちがあるとは思えません。つまりこの「気もちのよい」という言葉は、子どもの気持ちを無視しておとなの気持ちをいった言葉なのです(子どもは散らかし放題にするのが気持ちいいはずです)。
 
かたづけたいという動機がないのにかたづけをさせられた子どもはどうなるのでしょうか。
うわべだけ親や教師の期待に応える子どもになってしまうのではないでしょうか。
 
「かたづけられない女」という言葉があります。女に限らないので「かたづけられない人」といったほうがいいでしょう。家の中がゴミ屋敷になっているような人のことです。
 
なぜ「かたづけられない人」になるのかというと、ADHDなどの障害が原因になるケースもあるようですが、子どものころにかたづけたくもないのにむりやりかたづけさせられて、そのためかたづけが嫌いになるケースもあるのではないでしょうか。
 
さらには、かたづけないほうが創造性が発揮されるという説まであります。
ハフィントンポストで見かけた記事から引用します(もとの記事にはザッカーバーグの机の写真などもあります)。
 
天才の机は散らかっていた!混沌とした環境でこそ創造性は発揮される
スティーブ・ジョブズ、アルベルト・アインシュタイン、マーク・トウェイン。この3人の偉大な人物に共通する点は「机がいつも散らかっていたこと」です。
(中略)
計算機科学者、暗号解読者のアラン・チューリングやペニシリンの発見者として知られるアレクサンダー・フレミング、画家のフランシス・ベーコンといった、仕事に創造性が求められていたであろう著名な人々もまた、驚くほど机が散らかっていたそうです。
(中略)
最近、ミネソタ大学が実施した研究結果によって、より散らかった机を使う人の方が創造性が高く、積極的にリスクをとる傾向にあることが示されました。一方で、整頓された机を使う人は、ルールに従い、新しいことに挑戦したり、リスクをとることを避ける傾向にあることが研究で分かりました。研究チームは次のようにコメントしています。「人は混沌とした環境に置かれるほど、慣習を破ろうという気持ちが高まるようです。それは、新しい考え方を生み出すチャンスになるでしょう」
(中略)
子どもの頃を思い出せば、常におもちゃを片付けなさい、ベッドを整えなさいと言われてきました。ですが、もしかしたらお母さんは間違っていたのかもしれません。上記でさまざまな例を紹介した通り、雑然とした環境は人の創造性を高めるのです。
 
かたづけのたいせつさを説く「わたしたちの道徳」は、子どもの発達を無視したものであるばかりではなく、子どもの創造力までも奪ってしまうものかもしれません。

マッカーサーが日本人のことを12歳の少年にたとえたのは有名な話ですが、アメリカが主催する形で日米韓の会談が行われるというニュースを見て、このマッカーサーの言葉を思い出しました。
 
日米韓首脳会談の開催決定…日韓政府発表
日韓両政府は21日、オランダ・ハーグで24、25日に開催される核安全サミットに合わせて、日米韓首脳会談を開催すると発表した。
 
 オバマ米大統領が仲介する形で、安倍首相と韓国の朴槿恵大統領が初めて公式に会談する。冷え込んでいる日韓関係の改善につながるか注目される。
 
 日本政府関係者は21日、会談について「25日に開催する方向で調整している」と述べた。日韓両政府の発表によると、会談は米国が主催し、議題は「北朝鮮の核問題や核不拡散問題」と決まった。いわゆる従軍慰安婦問題など、日韓両国で対立のある歴史問題などには触れず、2国間会談に向けた環境整備を優先する見通しだ。安倍首相は21日、日米韓首脳会談の開催について記者団に、「良かったと思う」と述べた。
20143220142  読売新聞)
 
日本と韓国が兄弟喧嘩をしていたので、お父さんであるアメリカが2人の少年を並ばせて、仲直りさせたという図です(12歳の少年であることは韓国も日本と同様です)
 
日韓の喧嘩は、なにか思想的な対立があるわけではなく、過去の出来事について、「あのときはお前が悪い」「いや、悪くない」とやり合っているだけのことです。
核安全サミットには世界54カ国が参加します。それらの国に対して、日本と韓国がアメリカの前で仲直りさせられている姿を見せるわけですから、これほどみっともないことはありません。
 
もっとも、 これがみっともないことだという認識を持っている日本人は少ないかもしれません。
それよりも韓国との喧嘩に夢中になっているようです。週刊誌は嫌韓記事でいっぱいですし、書店には韓国批判本が並んでいます。
 
私などは、そんなものを読んでどうするのかと思ってしまいます。韓国についての知識をふやして、なにか役に立つのでしょうか。
世界について知るべきことはほかにいっぱいあるはずです。
 
日韓の争いは兄弟喧嘩のようにみっともないという認識がないのは、“自分を客観視できない病”にかかっているからです。
そして、“自分を客観視できない病”が蔓延しているのは、日本の右翼のせいです。
 
もともと日本の論壇ではずっと左翼が優勢で、右翼は劣勢でしたから、右翼は右翼思想を正当化する理屈をいくつもつくりだしました。その中に、「国益を追求するのは正しいことだ」とか「国益を追求する国は国際社会で尊敬される」とかいうものがあります。
 
こんな理屈はまったくデタラメです。国益の追求は、公正や公平を踏まえた場合だけ正しく、国益を追求するだけではただの利己主義です。
また、国益を追求して国際社会で尊敬されるなんてことがあるはずありません。そんな国があったら教えてほしいものです。
 
公正や公平を踏まえるには、自国を客観的に見る視点が欠かせません。
しかし、日本の右翼にはそういう視点がないので、国際社会に対して訴えることができません。たとえば慰安婦問題にしても、国内で議論しているだけです。
 
自民党にも「国と国の正しい関係」という概念がありません。
たとえば教育基本法はこうなっています。
 
(教育の目標)
第二条の五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
 
これでは「我が国」と「他国」の正しい関係がわかりません。おそらく自民党は最初からそんなものはわかりたくもないのでしょう。
 
自民党、右翼勢力のおかけで、日本は公正・公平を理解せずに国益を主張するだけの国になってしまいました。
いや、実際にそんなみっともないことはできませんから、兄弟分である韓国相手にだけやっています。
その挙句、オランダのハーグで、オバマ大統領の前で、日韓首脳が引き合わされるというみっともないことになったわけです。
 
日本は右翼、自民党の支配するバカ国家から早く脱却しないといけません。

安倍首相は3月14日、参院予算委員会で河野談話について、「安倍内閣で見直すことは考えていない」と答弁しました。これまでの安倍首相の考えからすると、明らかに不本意な答弁でしょう。日韓関係を改善しろというアメリカの圧力があったと想像されます。
 
一方、菅義偉官房長官は河野談話の作成経緯を検証する作業は続けるといっています。見直しはしないのに検証はするというのはおかしな話ですが、これは国内のガス抜きのためでしょう。アメリカや韓国もそのことは了解しているものと思われます。
 
そして、3月19日、「日米韓首脳会談開催の公算 河野談話継承を評価、朴大統領、最終判断へ」という記事が出ました。
 
このところ慰安婦問題について日韓で激しいせめぎ合いがありましたが、結局日本側の全面敗北で終わったわけです。
 
この結果になることは最初から見えていました。日本に味方してくれる国はひとつもないからです。
個人に限っても「テキサス親父」()ぐらいです。
 
安倍首相や一部の人たちが河野談話見直しの方向に動いたのは、産経新聞の論調に影響されたからではないかと思われます。産経新聞は慰安婦問題で日本は謝罪する必要はないということを執拗に主張してきました。
これを私は、産経新聞の「謝罪しなくていいですよ」詐欺と呼んでいます。
 
金もうけがしたい人はそれだけ「もうかりますよ」という詐欺に引っかかりやすくなります。それと同じに、謝罪したくない人は、産経新聞の「謝罪しなくていいですよ」詐欺に引っかかってしまうわけです。
 
産経新聞の主張は要するに、「軍や官憲が強制連行に関与したという証拠はないから謝罪しなくていい」というものです。
 
これは明らかに国内でしか通用しない議論です(ほんとは国内でも通用しません)
外国から見たら、証拠隠滅をした張本人が「証拠がない」と主張していることになります。
また、軍や官憲がやったことであろうが民間業者がやったことであろうが、日本の統治下で起きたことですから、日本に責任があることに変わりありません。
軍や官憲と民間業者が別ものだという議論は、日本人がよほど官僚依存体質だから成り立っているだけで、外国人にしたらまったく理解できないでしょう。
 
産経新聞は慰安婦問題を国家の名誉とか面子とかの問題ととらえていますが、これがまったく違います。慰安婦問題は人権問題です。人権を無視した議論が世界に受け入れられるはずありません。
 
たとえば、産経新聞は「証拠がない」といいますが、元慰安婦の証言はあるわけです。証言は立派な証拠です。
これを証拠と認めないのは、元慰安婦の人権を無視しているということです。
ここには三重の差別があります。韓国人に対する差別と、女性に対する差別と、売春婦に対する差別です。人種差別・性差別・職業差別と、差別のてんこ盛りです(民族差別も人種差別に含まれます)
 
産経新聞(の中の人)の頭は戦前の価値観のままのようです。こんな主張が世界で通用するはずありません(国内でも通用しません)
 
しかし、産経新聞の「謝罪しなくていいですよ」詐欺に引っかかってしまう人があとを絶ちません。
たとえば橋下徹日本維新の会共同代表です。産経新聞の主張を信じ込んで、世界に対して発信してしまい、それから橋下氏の政治力は一気に低下しました。世界から相手にされない政治家は国政でも相手にされません。今ではローカル政治家になっています。
 
籾井勝人NHK会長も慰安婦問題に関する発言が世界に発信されて、NHKに対する世界の信頼を損ねてしまいました。
 
安倍首相も同じ詐欺にひっかかりました。今になって軌道修正しても、これまでに大いに国益を損ねています。
 
一方、韓国は大儲けした格好です。
韓国では、性差別はむしろ日本よりも強いのではないかと思われますし、売春婦に対する差別も少なくとも日本と同じくらいあるはずです。ところが、人種差別については日本とベクトルが逆になります。そのため、韓国人は日本への反発を表明するだけで、まるで性差別や売春婦差別にも反対する人のようになりました。アメリカに慰安婦像を設置することなど、ほとんど意味のない行為ですが、日本の慰安婦問題対応がひどすぎるので、問題になればなるほど韓国の利益になります。
 
慰安婦問題に関する議論は、右翼対左翼という図式ではなく、人権派対差別派という図式でとらえたほうがよくわかります。
産経新聞の主張は「韓国人元慰安婦は嘘つきだ」というヘイトスピーチそのものです。
そして、日本の首相までが同じような主張をしていたのですから、日本はヘイトスピーチ国家になっていたわけです。
 
安倍首相は3月14日の答弁で、「慰安婦問題については、筆舌に尽くし難い、つらい思いをされた方々のことを思い、非常に心が痛む」とも述べました。
これがうわべだけの言葉なのか、本心からの言葉なのか、今後さまざまな場面で問われることになります。

STAP細胞を巡る騒動を見ていると、日本がどんどん劣化して、韓国並みの国になりつつあることを改めて感じます。
 
理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダーによるSTAP細胞の論文に疑義が噴出して、大きな騒ぎになっています。ただ、今の段階ではSTAP細胞がつくれたことまで否定されてはいないようですが。
 
考えてみれば、最初から騒ぎすぎでした。確かにSTAP細胞がつくれたとすれば画期的なことのようですし、権威ある雑誌「ネイチャー」に論文が掲載されたことで、その論文の信頼性はかなり高くなりましたが、まだ論文が正しいと確認されていない段階で大騒ぎになってしまいました。
なぜそうなったかについてはいろいろな理由が挙げられます。
 
まず小保方晴子さんが30歳の“リケジョ”で、あまり科学者らしくないイメージの人であったたことで、マスコミが飛びついたということがあります。
それから、理化学研究所がみずからの存在価値をアピールするための広報戦略として、割烹着や研究室のピンクの壁などを演出したということがあったようです。
 
しかし、最大の理由は、小保方さんが日本人だったことでしょう。
つまりオリンピックで日本人が金メダルを取るとマスコミが騒ぐのと同じです。
 
もしこの論文がどこかアメリカの大学のアメリカ人が書いたものだったら、新聞の一面に載るかどうかもあやしいですし、一報はあっても、そのあと論文提出者のキャラクターなどを報道するということは絶対にないでしょう。
 
そもそも科学の成果というのは人類共通の財産であって、たとえばコペルニクスがポーランド人であることなどほとんど意味がありません。日本人にこだわるのはおかしなことです。
 
2012年、森口尚史という人がiPS細胞 を使って世界初の心筋移植手術を実施したと主張し、それを信じたマスコミが大々的に報道して大騒ぎになったことがありましたが、これなどいかにもあやしいにも関わらずマスコミが信じてしまいました。これも森口尚史という日本人だったからです。また、iPS細胞の発見者が日本人の山中伸弥教授であることももちろん関係しているでしょう。
 
つまり、日本人が科学的発見をしたとなると、マスコミはとたんに審査が甘くなり、大騒ぎしてしまうのです。
なぜそうなるかというと、日本人はこのところ自信を失って、自信を回復させてくれる情報に飢えているからでしょう。
 
これは“日本人の韓国人化”ととらえることができると思います。
もちろんこの表現は、週刊誌の嫌韓記事を読んで喜んでいる日本人に対するイヤミでもあります。
 
韓国では、当時ソウル大学獣医学部長であった黄禹錫(ファン・ウソク)がヒトの胚性幹細胞(ES細胞)の研究を世界に先駆け成功させたということでノーベル賞の有力候補として国民的英雄となっていましたが、2005年、論文の捏造発覚によりその権威は地に落ちました。これは日本でも大々的に報道されましたから、多くの人が知っているはずです。
今回の小保方さんの論文の騒動とひじょうに似ています。
 
韓国人は韓国人の科学的業績を無批判に信じてしまい、日本人は日本人の科学的業績を無批判に信じてしまう。似た者同士です。
いや、韓国はまだノーベル賞受賞者を出していない国ですから、日本が似ているとすれば、よほど日本が劣化したことになります。
 
慰安婦問題で日韓がやり合っているのも、同じレベルの国になったからに違いありません。
右傾化する日本がどんどん韓国に似ていくのは皮肉なことです。

3月12日に「明日、ママがいない」の最終回の放送がありました。
最終回の視聴率は12.8%だったそうです。全9話の平均も12.8%でした。
よけいな横槍が入らなければ、もっと視聴率が取れたのではないかと思います。
また、横槍が入ったために、ストーリーが変わってしまった可能性があります。とくに最終回はそんな思いが強くしました。
 
最終回では、「ドンキ」は前から順調にいっていた松重豊と大塚寧々の家庭に引き取られ、「ボンビ」はあこがれの「ジョリピー」(アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピット似の夫婦)の養子になり、「ピア美」は父親とともに暮らすことになり、その才能を見込んだピアノの先生によってピアノのレッスンも続けられることになります。これらは予想通りの展開です。
 
間もなく18歳になる「オツボネ」は看護学校の寮に入ることにしますが、最後に「魔王」の意向で「ロッカー」と同様に「コガモの家」に職員として残ることになります。これは少し安易な結末ではないかと思いました。
児童養護施設は18歳で出ていかなければならないというルールがあり、同じ境遇であるがゆえに「オツボネ」に共感していた児童養護施設の子どもは、ハシゴを外された格好になります。
私としては、外に出ていってがんばるという結末にしたほうがいいのではないかと思いました。
 
意外なのは児童相談所職員の「アイス」です。金持ちと婚約して専業主婦になるはずだったのですが、「魔王」とこんな会話をします。
 
「この仕事を辞め、まずは市議会議員に立候補する準備を始めます」
「市議?」
「子どもの居場所を自分たちの目で見つけさせる。その意志を遂げるためにはどうすればいいか。私なりに考えた結果です」
「まだまだこの国には課題はたくさんある。子どものために戦うくらい」
「ええ」
 
この会話は、全国児童養護施設協議会などに対する批判が込められていると察せられます。ですから、もし横槍がなければ、こうした会話は存在しなかったかもしれません。
 
芦田愛菜ちゃんの「ポスト」は、安達祐実さんのもとに里子に行くことになりそうだったのですが、最終的に「魔王」に止められます。なぜ「魔王」が止めたかというと、こんなセリフをいいます。
 
「寂しい。お前がいなくなると、俺が寂しいんだ」
 
これはちょっと気恥ずかしいです。今までのストーリーの流れや「魔王」のキャラクターと違う感じがします。
最終的に、「魔王」が「ポスト」の親代わりになるというのがこの物語の結末です。
2人で撮ったプリクラには、「パパ」と「キララ」という名前が入っています。「ポスト」は「キララ」という名前になったのです。
 
「魔王」が「ポスト」の親代わりになるというのは、私はまったく予想していませんでした。これはもしかして、むりにハッピーエンドにするために、予定変更が行われたのではないでしょうか。
私の漠然とした予想では、「コガモの家」にまた新しい子どもが入ってきて、「ポスト」と「魔王」はうわべは互いにいがみあいながらもまた同じような日常を続けていくみたいな結末でした。
 
もし全国児童養護施設協議会などの抗議があったためにストーリーが変わったとすれば残念なことです。
また、「魔王」のキャラクターがちょっといい人になりすぎた気もします。もっと毒を吐くキャラクターであったほうがおもしろくなったはずです。
 
ともかく、児童養護施設の子どもが主人公のドラマが放送されたのは大いに評価するべきことです。
しかし、その一方で、全国児童養護施設協議会などの抗議によってスポンサーが撤退し、今後同様のドラマやノンフィクションがつくりにくくなりました。その点で、全国児童養護施設協議会などは児童養護施設をタブー領域にするという所期の目的を達成したことになり、今後が懸念されます。
 
 
ともかく、今回の騒ぎで、全国児童養護施設協議会などの抗議は不当だと主張するマスコミや有識者がほとんどいなかったことが印象に残りました。
なぜそうなるかというと、子どもを独立した人格として認めていないからです。
子どもを親の付属物とか、児童養護施設の付属物と見なしていると、「このドラマで子どもが傷つく」と児童養護施設が主張すると、反論することができません。
 
子どもを独立した人格と認めないことには根の深い問題があります。
その始まりは、少なくとも1776年の「アメリカ独立宣言」にまでさかのぼれます(ほんとうは文明の始まりまでさかのぼれる理屈です)
 
「アメリカ独立宣言」にはこう書かれています。
 
我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ.
 
「すべての人間」という言葉があるので、これをもって「普遍的人権」といいます。これは1789年の「フランス人権宣言」に引き継がれ、人権思想こそが近代社会の基礎となりました。
 
しかし、「アメリカ独立宣言」の「すべての人間」という言葉には、実は先住民や黒人や女性や子どもは含まれていませんでした。つまり先住民や黒人や女性や子どもは人間以下の存在と見なされていたのです(これは「フランス人権宣言」でも同じです)。当然、選挙権もありません。
ですからこれは、「白人成年男性の支配宣言」とか「先住民、黒人、女性、子どもに対する差別宣言」と称するのが正確です。
これによってアメリカの白人成年男性は先住民の虐殺や黒人奴隷の使役や女性差別を心置きなくできるようになったわけです。
 
「普遍的人権」の内実が実は「差別」であることは、思想の混乱を招いて、それは今も尾を引いています。
 
その後、アメリカでは1920年に女性に選挙権が認められます。黒人については、1965年に投票権法が成立しますが、文盲テストというものが行われ、これによってほとんどの黒人が投票できないのが実情でした。文盲テストが廃止されたのは1971年のようです(先住民の選挙権のことは調べてもわからなかったのですが、黒人と同じ扱いだったのではないかと想像されます)
 
しかし、子どもにはいまだに選挙権が認められていません。
アメリカだけでなく世界中がそうです。
子どもに選挙権を認めない合理的な理由はなにもありません。これは明らかに「差別」です。
 
ことは選挙権だけではありません。子どもの人格を認めない惰性の思考がいまだに続いています。
子どもにも判断力があり、自己決定権があるということを理解していれば、全国児童養護施設協議会などの抗議が不当なものであることはすぐにわかります。
 
今回の「明日、ママがいない」を巡る騒動は、単なるテレビドラマのつくり方の問題ではなく、人権思想の理解度をはかるバロメーターであり、また、子どもを犠牲にしてでも自分の利益をはかろうとするおとなと、子どもの幸せを考えるおとなとの対立でもありました。

文部科学省は2月17日、新しい道徳教育用教材「私たちの道徳」を発表しました。これは「心のノート」の改訂版で、ページ数は「心のノート」の1.5倍になります。3月末までに全国の小中学生に無償配布されるということです。
これはウエブ上で公開されていて、すべて読むことができます。
 
道徳教育用教材「私たちの道徳」について
 
道徳教育ほどバカバカしいものはありません。道徳教育でよい人間をつくることができたら、世の中はとっくによくなっています。
 
安倍政権の目指す道徳教育の強化に反対する人は多くいますが、道徳教育のなにがだめかを説明できる人はほとんどいないでしょう。
もちろん私は説明できます。このブログに「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」という言葉を掲げているように、私は世の中の人と道徳の捉え方が根本から違います。
 
 
「私たちの道徳」がまったくくだらない代物であることはわかりきっていますが、読まないで批判するわけにもいかないので、中学生用を少し読んでみました。
たとえばこんな具合になっています。
 
自律って何だろう
 
他人を見習うことは大事だが
なぜ、どこを見習うのか
自分で考え、判断することが大切だ。
 
自己中心的でもいけない。
付和雷同してもいけない。
自律的に生きるとはどういうことか、自分なりに考えてみよう。
 
内容がカラッポです。
よく解釈すれば、ひとつの考え方を押し付けていないということはいえますが、これではなにをどう考えていいかわかりません。
おそらくこれを読んだ中学生は、「自分なりに考えてみよう」と書いてあるのに自分はなにも考えられないということで、自信を失ってしまうに違いありません。
 
「読物『ネット将棋』」というのもあります。インターネットを利用する上での注意点とか、ネット将棋のやり方とかが書いてあるのかと思って読んでみたら、「負けて悔しいからといっていきなりログアウトせずに、きちんとあいさつをしましょう」みたいな内容でした。
要するに教訓とかお説教です。読んでもなにも得るものがありません。
 
「私たちの道徳」には歴史上の偉人だけでなく、澤穂希選手、松井秀喜氏、山中伸弥教授など“今の人”も登場するのが特徴です。また、いろいろな格言も紹介されています。そうしたことを考える手がかりにさせようという狙いでしょう。
しかし、格言がつまらないものばかりです。最初の三つを挙げてみます。
 
人は繰り返し行うことの集大成である。
だから優秀さとは、行為でなく、習慣なのだ。
(アリストテレス)
 
何事にも節度を守れ。
何事にも中央があり、
その線が適切のしるしなのだから。
(ホラティウス)
 
早寝早起きは、人を健康で豊かで賢明にする。
(フランクリン)
 
常識的な見方をくつがえしたり、新しい角度からものを見せてくれたりする格言は読む価値がありますが、ここにある格言は「ああ、そうですか」という感想しか出てきません。
 
道徳について学ぼうとすれば、芥川龍之介の格言にまさるものはありません。これを読めば、道徳教育でよい人間がつくれないわけがわかります。「侏儒の言葉」から道徳に関する部分を引用してみます。
 
道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
          ×
 道徳の与へたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与へる損害は完全なる良心の麻痺である。
          ×
 妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。
          ×
 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴してゐない。
          ×
 強者は道徳を蹂躙するであらう。弱者は又道徳に愛撫されるであらう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
          ×
 道徳は常に古着である。
        ×
 良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造つたことはない。
 
「私たちの道徳」を書いた人間と芥川龍之介では、道徳の捉え方が180度違います。
芥川は自分自身や世の中を批判的に見ていますが、「私たちの道徳」を書いた人にそうした視点は皆無です。
 
そもそも人が人に道徳を説くというのはおかしなことです。
人に道徳を説くことができるのは神だけです。
ですから、もともと道徳は宗教に結びついていました。
 
西洋のキリスト教圏では、学校で知識を学び、日曜学校で道徳を学ぶというように役割分担があります。
戦前の日本では、学校において「修身」の科目がありましたが、これは神である天皇が下された「教育勅語」を根拠にしていました。
 
「私たちの道徳」を書いた人は、なにを根拠にして人に道徳を説くのでしょうか。
 
「私たちの道徳」の奥付には、デザイン、イラスト、写真については提供者の個人名や会社名が書いてあります。しかし、執筆者名は書いてありません。「発行文部科学省」とあるだけです。
 
「心のノート」の場合は、当時の文化庁長官であった河合隼雄氏が責任者のような立場にあり、河合隼雄氏は心理学や文化論において実績のある人でしたから、河合隼雄氏の個人的な権威によって、みんななんとなく納得させられていたところがあります。
 
「私たちの道徳」を書いたのは文部科学省の役人であり、自民党文教族の意向を取り入れて書いたのでしょう。
 
そんなものを読まされる子どもが気の毒です。

3月5日に「明日、ママがいない」の第8話がありました(次回が最終回)
今回は、「ドンキ」のママが「ドンキ」を迎えにきます。しかし、このママは「ドンキ」を幸せにできるとは思えません。
そのとき、第1話で「ポスト」が「ドンキ」に向かって言った「今日、あんたが親を捨てた日にするんだ」という言葉が生きてきます。
 
それから、「魔王」がなぜ刑事を辞めてグループホーム「コガモの家」を始めたかが明らかになります。
「魔王」は児童相談所職員の「アイス」とこんな会話をします。
 
「仕事が生きがいだったんですよね。そのあなたがどうして」
「むなしくなったからだ。人をだまし、傷つけ、果ては殺めてしまう。捕まえてみればどうだ。どんな凶悪犯でも、どこか共通しているものがある」
「それは?」
「顔が浮かばないんだ。愛する人の顔が。衝動的な事件を別にすれば、普通の人間は、愛する人の顔を思い出せれば、思いとどまる。その人を失望させ、傷つけたくない。そう思って、思いとどまれる」
「その顔を子どものうちに見つけてあげるべきだと」
「実の親、里親、両親、教師でもいい」
「愛してくれた人の顔を」
「決して裏切ることのできない顔だ」
 
今回、「魔王」は「ドンキ」のためにとても“いい人”の姿を現します。
 
全国児童養護施設協議会などが「明日、ママがいない」の放送中止を求めたのは、施設長である「魔王」が悪役だったことが大きな理由ではないかと思われました。しかし、このストーリー展開を見ると、放送中止を求めたほんとうの理由は、「魔王」がとても“いい人”だからかもしれないと思えてきました。というのは、「魔王」が“いい人”すぎて、現実の施設長や職員がみんなだめな人間に見えてしまうからです。
 
 
ところで、「発達障害と呼ばないで」(岡田尊司著)という本を読んでいたら、「ホスピタリズム」という言葉が出てきました。昔は心理学の本を読むと、ホスピタリズムという言葉が当たり前のように出てきたものですが、久しぶりに目にしました。いつのまにか死語になっていたのでしょうか。
 
ホスピタリズムというのは、施設病と訳されますが、親から引き離されて病院や施設で育った子どもに身体・知能・情緒の発達に遅れや障害の生じることをいいます。
戦後、孤児院の子どもの死亡率が高いことから、親との関わりが子どもの発達に重要であることが認識されて発見された病気です。
 
ですから、現在の児童養護施設においてもホスピタリズムがあることは当然考えられるわけですし、それをどう克服していくかが児童養護施設における最大の課題であるに違いありません。
 
それを考えると、全国児童養護施設協議会は「明日、ママがいない」の放送中止を求めるのではなく、これを機会に児童養護施設の充実を社会に対して訴えるべきだったでしょう。
 
また、今回の騒動において、マスコミや有識者から児童養護施設の改善をはかるべきだという意見はほとんど出なかったように思います。多くの人の頭にホスピタリズムという言葉がなかったのでしょう。やはりホスピタリズムは死語と化していると思われます。
 
その理由は、「発達障害と呼ばないで」という本から類推することができます。
 
「発達障害と呼ばないで」という本は最初、自閉症やADHD(注意欠陥/多動性障害)などの発達障害が最近増加しているのはなぜかという疑問を提起します。
 
最近、自閉症やADHDなどがよく話題になると感じている人は多いでしょう。「おとなの発達障害」という言葉もよくいわれます。
実際、自閉症やADHDと診断される件数が増え続けているそうです。
自閉症やADHDは主に遺伝要因によって発症するとされる病気です。とすると、その件数が増えるというのはおかしな話です。
 
最近、みんなが自閉症やADHDについての知識を持つようになり、多くの人が医師の診察を求めるようになったので、今まで見逃されていたものが表面化してきたのだということは当然考えられます。しかし、もともと見逃されにくい知的障害を伴う自閉症がイギリスの調査で4年間で35%も増えるなど、実際に増えているというデータがいくつもあるといいます。
 
著者は、自閉症やADHDは遺伝要因だけで発症するのではなく、親の養育態度という環境要因によっても発症するといいます。また、親の養育態度によって発症する「愛着障害」も、自閉症やADHDなどの「発達障害」という診断名がつけられているといいます。
 
つまり、遺伝的要因は今も昔も変わらないが、親の養育態度という環境要因が変化して、「発達障害」と診断される件数が増えているというわけです。
 
では、なぜ「愛着障害」と診断されるべきものが「発達障害」という診断名になってしまっているかというと、親は子どもが「愛着障害」と診断されると、自分の育て方が悪かったということで傷ついてしまいますが、「発達障害」と診断されると親は免責されるので、「発達障害」と診断されるケースが増えているというわけです。
 
「親が悪い」というわけにいかないので、代わりに「子どもが悪い(子どもは「発達障害」だ)」といっているわけです。
 
ホスピタリズムという言葉が死語になったのも、「施設が悪い」というわけにいかないからでしょう。
 
子どものことよりも親や施設が優先されているのが今の世の中です。

映画「永遠の0」が観客動員ランキングで8週連続1位となり、「風立ちぬ」の記録に並んだということです(9週目は2位)
私はそれほどおもしろい映画とは思わなかったのですが、ヒットするにはそれなりの理由があるはずで、それについて考えてみました。
 
たまたま2月から3月にかけてCSの「日本映画専門チャンネル」で戦争映画をまとめてやっていたのですが、番組表の五十音順のインデックスを見ると、冒頭にこんなタイトルが並んでいます。
 
「あゝ海軍」
「あゝ零戦」
「あゝ特別攻撃隊」
「あゝ陸軍 隼戦闘隊」
 
そのほかに「海軍兵学校物語 あゝ江田島」というのもあります。
 
これはみんな大映作品ですが、「あゝ」シリーズという呼び方はないはずです。要するに当時の気分として、戦争を描くときには「あゝ」という詠嘆が似合っていたのでしょう。
ほかに「連合艦隊」(東宝)や「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(東映)というのもあります。
これらはすべて割と戦史に忠実につくってあり、太平洋戦争を描いているというのも共通しています。
当然映画の結末は重苦しいものとなり、「あゝ」といいたくなるのもわかります。
 
私は「永遠の0」を観たとき、これらの映画と比較して、リアリティがないなと思いました。
しかし、考えてみると、日本の戦争映画には別の系統もありました。
 
それは、岡本喜八監督の「独立愚連隊」シリーズと、勝新太郎主演の「兵隊やくざ」シリーズです。
どちらも戦争エンターテインメント映画で、軍隊では本来存在を許されないような型破りな主人公が活躍します。そういう意味でリアリティはありません。
戦史とはほとんど関係なく、どちらも中国戦線を舞台にしています。
なぜ中国戦線かというと、太平洋方面では悲惨な敗北をするので、エンターテインメント映画はつくりにくいからでしょう。
 
「永遠の0」は、太平洋戦争を舞台に、戦史に忠実につくられていますが、軍隊では本来存在を許されない型破りの主人公が活躍する戦争エンターテインメント映画です。
主人公は天才的なパイロットで、軍隊の論理ではなく家族のためという自分の論理で行動しますが、最後は軍隊の論理でもヒーローとなり、家族のためという論理でもヒーローになるというスーパーヒーローです。
つまり、ふたつの系統のいいとこ取りの物語となっています。
 
ですから、シリアスな戦争映画が好きな観客にも受けるし、家族もの、恋愛もののエンターテインメント映画が好きな観客にも受けるというわけです。
それが異例のヒットの理由ではないでしょうか。
 
 
ところで、「永遠の0」は戦争肯定ではありませんし、特攻作戦にも否定的ですが、にもかかわらず、最終的には特攻による死を美化した映画となっています。
これは原作者の百田氏の心の中にある矛盾からきているのでしょう。
矛盾というのは、表面的には平和を望んでいるといいながら、半ば無意識に戦争を望む気持ちがあるということです。
 
「永遠の0」では、ミッドウェー海戦において、敵空母発見の知らせがきたとき、艦載機には陸用爆弾が搭載されていたので、陸用爆弾を艦船用爆弾と魚雷に取り替えようとし、そうするうちに敵の爆撃機に攻撃され、1発被弾しただけで誘爆が起きて、たちまち4隻の空母が撃沈されるというシーンがあります。山本五十六長官は魚雷を搭載した艦載機をつねに用意しておけと命令していたのに現場は従わなかったこと、陸用爆弾でもいいからすぐに出撃するべきだという意見が無視されたことも描かれます。
これとまったく同じシーンが「連合艦隊」や「聯合艦隊司令長官山本五十六」や「あゝ海軍」にもあります。
つまりこれは太平洋戦争のターニングポイントなので、どうしても無視できないところです。
敵空母はいないだろうという油断、陸用爆弾で艦船を攻撃するものではないという杓子定規な考え方が敗北を招いたのです。
 
この場面にこだわるのは、敗戦の悔しさがあるからです。
世の中には、どうせ負ける戦争だから、そんなことは関係ないと考える人もたくさんいるはずですが、勝ち負けにこだわる人、負けたことに納得いかない人もいます。そういう人は心の奥底で、リベンジしたいと思っています。
 
私は前にこのブログで、戦争を望む心理についての記事を書いたことがあります。
 
「老人たちの望む戦争」
 
「永遠の0」の原作者である百田尚樹氏はもちろん戦後生まれですが、あの戦争に負けたことが悔しくて、リベンジしたい心理があるのでしょう。
 
百田氏は東京都知事選のときの田母神候補の応援演説の中で、「東京大空襲や原爆投下は米軍による大虐殺だ。東京裁判はそれをごまかすための裁判だった」といいました。
 
また、百田氏は2月にイランを訪問し、記者団の前でアメリカの原爆投下を非難し、「私はあるときアメリカのやったことを強く非難したが、彼ら(アメリカ人)は私のこの言葉に不快感を示し、私を普通ではないといったが、私は普通ではないのはアメリカ人のほうだと思う」と語り、これはイラン国営放送で大きく報道されたそうです。
 
百田氏は安倍首相のお友だちで、昨年12月には2人で対談集も出しています(これが「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」という恥ずかしいタイトルです)
 
安倍首相の心中にも百田氏と同じような反米の思いがあるに違いありません。国会答弁で、「教育基本法は占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある」とか「憲法や教育制度を私たちの手で変えていくことこそが、戦後体制からの脱却になる」と語っています。
 
百田氏は明白に反米の姿勢を出していますが、安倍首相はうわべは親米、心中は反米という状態です。この矛盾が今後どういう形で表面化するのか、今いちばん気になることです。

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