3月27日、静岡地裁は袴田巌死刑囚について再審開始を決定しました。「犯行に使われたとされた衣類は、捜査機関によるねつ造の疑いがある」と指摘するなど、捜査当局をきびしく批判しています。
袴田さんは釈放されましたが、30歳で逮捕されてから48年ぶりのことです。人生のほとんどを捜査機関と司法当局につぶされてしまったわけです。
私はかなり昔(20年ぐらい前?)、日本テレビで深夜にやっていたドキュメンタリー番組で袴田事件のことを知りました。袴田死刑囚の自宅でズボンのハギレが発見され、それを根拠にして犯行現場で発見された衣類は袴田死刑囚のものであるということになっていたのですが(実際はまったくサイズの合わないズボンです)、その番組は、ハギレは家宅捜索をした警察官が置いたものではないかという疑いを追及していました。記者が警察官に直撃取材すると、警察官はまともに答えることができずに逃げ回り、印象としては真っ黒でした。
警官が家宅捜索のときに“証拠品”を勝手に置くことができるなら、誰でも有罪になってしまいます。たとえば、警察が私の家に家宅捜索にきて、1人の警官がポケットの中から覚せい剤を出して机の上に置き、「これはなんだ」と言えばいいわけです。
この番組には、当時日本プロボクシング協会会長であったファイティング原田氏も、袴田氏の無実を信じる立場からコメントを寄せていました。
これほどいかにも冤罪事件らしい冤罪事件はありません。事件を知るほとんどの人は冤罪事件だと思っていたに違いありません。
事件の第一審を担当した裁判官であった熊本典道氏は、2007年に死刑廃止を推進する議員連盟の集会で、「被告は無実であるとの心証を得ていたが、先輩裁判官の反対で死刑判決を書かざるをえなかった」と表明し、話題になりました。
国会では2010年に袴田巌死刑囚救援議員連盟が発足し、57名の議員が参加しました。
最終的にはDNA鑑定が決め手になったのは事実ですが、本来はDNA鑑定がなくても、もっと早くに再審開始は決定されるべきでした。
こうした冤罪事件があとを絶たないのは、ひとつには、日本人の“お上意識”というか、権力に弱い体質があるからだと思います。
子どものころ、「そんなことしてたらお巡りさんに叱られますよ」などと言われて育つと、なかなか警察を批判するというふうにはならないでしょう。
それからもうひとつは、警察官、検察官、裁判官の“顔”が見えないことです。
たとえば3月28日の朝日新聞朝刊の一面の見出しに「国家が無実の個人陥れた」とあります。
私はここに「国家」という言葉を持ってくるのはおかしいと思います。
まさか当時の総理大臣や法務大臣が「冤罪でもいいから誰かを逮捕しろ」などと命令したはずはありません。基本的には現場の警察が始めたことで、それに起訴を担当する検察が加わったという形でしょう。もちろん組織ぐるみでしょうが、責任はその組織のトップにあります。
つまり「国家」ではなくて、捜査一課長とか警察署長とか県警本部長とかの「個人」の“犯罪”なのです(どういう犯罪かはむずかしいですが、最大限殺人未遂になるはずです。もちろん証拠捏造、証拠隠匿を罰する法律をつくるのが筋です)。
BC級戦犯裁判では、たとえば捕虜虐待をしても上官の命令であれば罪は問われません。命令した上官の罪になります。警察や検察の犯罪も同じやり方で裁くことになるはずです。
もちろん警察や検察はかばい合いますから、責任者を特定するはむずかしいことですが、それをするのがマスコミの役割です。わからないならわからないなりに推測記事を書けばいいのです。
「国家が無実の個人陥れた」という認識では、最初から“犯人”を特定しようという意志がないと思われてもしかたありません。
マスコミは官僚依存体質がひどいので、ほんとうは警察や検察の責任を追及したくないのです。そのため「国家」などいう曖昧な概念を持ち出します。
薬害裁判などでも、すぐに「国の責任」という言葉を使います。厚生労働省のどこかの局の誰かの責任をごまかしているのです。
普通の犯罪では、容疑者が逮捕されるとその写真が公表されますし、どんな人間であるかも報道されます。つまり個人の“顔”が見えることで、人々は怒りの感情をかき立てられ、「死刑にしろ!」などと叫びます。
しかし、国家、国、警察、検察といった言葉で表現されると、個人の顔が見えないので、それほど怒りの感情は湧いてきません。
たとえば、元裁判官の熊本典道氏が「無罪の心証があったのに死刑判決を書いた」と告白したとき、私は勇気ある告白だと思う一方で、「なんで今ごろ言うんだ」とか「そのときになんとかしておけよ」という不信感を覚えたのも事実です。
しかし、この場合、3人の裁判官の合議制で、最後は多数決で決まったわけです。ウィキペディアの「熊本典道」の項目にはこう書かれています。
1968年、合議制の袴田事件第1審(静岡地方裁判所)にて無罪の心証を形成し、1968年6月中旬には無罪判決文を書いていたが、裁判長の石見勝四、右陪席の高井吉夫を説得することに失敗。有罪の主張を譲ろうとしない高井に向かって「あんた、それでも裁判官か!」と怒鳴りつけたという。死刑判決文を書くことを拒否し、高井に「あんたが書けよ!」と用紙を投げつけたが、最終的には1968年8月、左陪席の職務として泣く泣く死刑判決文を書き上げる。
つまり、熊本典道氏個人に焦点を当てると、「へんな告白をした人」ということになってしまいますが、裁判長の石見勝四、右陪席の高井吉夫に焦点を当てると、「明らかに無罪なのに死刑にした人」ということになり、熊本典道氏の告白は「正義の告発」ということになります。
石見勝四、高井吉夫について「検察と癒着し、自己保身と出世欲のために無実の人間を死刑にするという身勝手な裁判官」という報道がされていれば、世論は「正義の怒り」で盛り上がったはずです。
一般の犯罪では個人に焦点を当て、人々の怒りを掻き立てる報道が行われますが、権力側の犯罪では、国家、国、国策などの言葉でごまかし、個人に焦点が当たらないようにする。つまりまったく非対称の報道になっているのです。
政治家については、疑惑の段階でも実名をあげて報道がされます。警察官や検察官の場合も、公人の公務に関することですから、疑惑の段階でも実名をあげて報道していいはずです。
マスコミが国家、国、国策などの言葉でごまかすのは、権力側と同じ穴のムジナだからです。
こういう報道の仕方をしている限り、国民の怒りは盛り上がらず、警察、検察、裁判所はこれからも冤罪事件をつくりあげることができます。