村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2014年05月

安倍首相は5月29日、日本人拉致被害者を再調査することで北朝鮮と合意したと発表しました。
これがいったいどういう結果になるのかわかりませんが、とりあえず今の印象をいえば、安倍首相は北朝鮮の投げたエサに食いついたのではないかということです。
 
拉致問題は安倍首相が人気政治家になったきっかけであり、安倍首相の政治家としての原点みたいなものです。当然、安倍首相には強い思い入れがあるはずです。
一方、北朝鮮には拉致問題になんの思い入れもあるはずがありません。
こういう場合、思い入れのあるほうが不利としたものです。
 
それにしても、このところ安倍カラーが全開です。解釈改憲に突っ走り、反中国の外交に精を出し、残業代ゼロ政策を打ち出し、それに加えて拉致問題というわけです。
 
今回発表された合意文書の冒頭は、「双方は、日朝平壌宣言にのっとって、不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、国交正常化を実現するために、真摯に協議を行った」となっています。
「日朝平壌宣言」というのは、2002年、小泉首相が平壌を訪問して金正日と会談した際に発表されたものです。双方が署名し、破棄されたことはないので、今でも形式的には有効なのでしょう。
 
ただ、そのときの平壌での会談の際に、北朝鮮は拉致事件を認め、13人拉致し、うち8人死亡と発表しました。それから日本の世論は拉致問題への怒りで沸騰し、平壌宣言は忘れられた格好になりました。
しかし、今また平壌宣言を持ち出すなら、あのときに平壌宣言を履行する方向に進んでいけばよかったのにと思わざるをえません。もしそうなっていたら、今の東アジア情勢はまったく違うものになっているでしょう。
 
2年ほど前、安倍晋三氏がまだ首相になる前で、おそらく自民党総裁に選ばれた直後あたり、安倍氏は報道ステーションに出演し、平壌での会談の際の金正日の態度についてこのように語ったのを覚えています。
 
「拉致について発表するとき、金正日はオドオドして、こちらの目を見ることもできず、もし怒鳴りつけたら飛び上がりそうな様子だった」
 
国家の指導者が国家の犯罪行為を認めるというのはきわめて異例です(国家体制が変わった場合はよくありますが)。そういう意味では、金正日は勇気ある告白をしたといえます(まだ隠している拉致もありましたが)
 
このとき小泉首相が「よく告白してくれた。感動した!」と言って金正日の肩を抱きかかえていれば、金正日は小泉首相に心酔して、北朝鮮はまったく別の国家になっていたかもしれません。
 
実際のところは、国内世論が拉致問題一色に塗りつぶされ、小泉首相は平壌宣言についてなにも語らず、安倍氏が北朝鮮への強硬策を主張して人気を得ます。
そしてその結果、拉致問題は12年間も解決せず、北朝鮮は核兵器開発に突っ走りました。
平壌宣言には「朝鮮半島の核問題の包括的な解決」もうたわれており(むしろここが主眼であったわけです)、「歴史にもしもはない」と言われますが、12年前の選択に疑問が残ります。
 
今後、北朝鮮は特別調査委員会を設置して調査するということですが、北朝鮮はすでに拉致の実態を把握しているはずで、このあたりは茶番です(「今まで隠していました」と言うわけにはいかないので、「調査したらわかりました」という体裁にするわけです)
そして、北朝鮮は拉致問題で真実を発表すると日本が硬化するということを学習してしまいましたから、どういう発表をしてくるかわかりません。おそらく駆け引きの道具ぐらいに思っているのではないでしょうか(それだけに金正日が拉致を告白した瞬間の日本側の対応が肝心だったのです)
 
一方、日本側の対応も問題です。
北朝鮮がなんらかの調査結果を出してきたとき、それがどこまで真実かという問題はありますが、日本側も正確なことがわかっているわけではないので、受け入れて許すか、また強硬路線に戻るかという判断をしなければなりません。
安倍首相はかつて北朝鮮への強硬策で人気を得たという経験がありますから、許すという判断ができるか疑問です。
平壌宣言は日朝国交正常化を目指すものですから、どこかの時点で許して、友好関係を築かなければなりませんが、安倍首相のこれまでのやり方と180度違います。
 
そういうことを考えると、「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として」という言葉が思い浮かびます。

資本主義対社会主義という対立軸がなくなったのに、いまだに右翼対左翼の対立があるのはなぜかということについて、「フード左翼とフード右翼」(速水健朗著)という本が新しい視点を提供してくれたので、その書評の記事を書きましたが、それをきっかけにいろいろなことを考えています。
 
フード左翼とフード右翼」書評
 
フード右翼というのはファストフードやジャンクフードを好む人のことで、フード左翼というのは、有機野菜など自然志向、健康志向の食品を好む人のことです。
ファストフードやジャンクフードは、安くて、手っ取り早く満足が得られる食品です。一方、自然志向、健康志向の食品は、お金も手間もかかります。
ですから、この両者の違いは、短期的な利益を求める人と長期的な利益を求める人の違いというふうにも考えられます。
 
フロイトは「快楽原則」と「現実原則」ということをいっています。子どもの行動は生理的な快楽を優先させるので「快楽原則」、おとなの行動は、必要とあれば快楽を後回しにするので「現実原則」というわけです。
しかし、「快楽」と「現実」はまったく異質の概念なので、これを並べるのはうまいやり方とはいえません。むしろ人を混乱させるフロイト一流のやり方です。
 
私の理解では、子どもは目先の喜びや利益を求めて行動するが、おとなは長期的な喜びや利益を求めて行動するので、単純に「目先の利益」と「長期的な利益」の違いといえばいいはずです。
 
たとえば、「さるかに合戦」でおにぎりは「目先の利益」で、柿の種は「長期的な利益」ですし、子どもにとって勉強をやめて遊ぶのは「目先の利益」、勉強していい学校に入るのは「長期的な利益」というような具合です。
 
人間は経験を積むうちに「目先の利益」からより大きな「長期的な利益」を求めるようになるはずですが、いつまでも欲望のままに「目先の利益」ばかり求める人もいます。というか、むしろそちらのほうが多数派でしょう。
 
 
そこで、世の中の対立を「目先の利益派」対「長期的な利益派」というふうにとらえてみます。
 
ファストフードやジャンクフードは、値段が安く、かつ炭水化物が多くてすぐ満腹感が得られるので、まさに「目先の利益」が得られる食品です。しかし、炭水化物の多い食事は肥満しやすく、野菜が少ないとビタミンやミネラルが不足し、タンパク質も不足しがちなので、不健康になります。そこで、欲望のままに目先の満足を求めるのではなく、食べ物を選んで健康とかスリムな体型という「長期的な利益」を求める人が出てきます。こうして「フード右翼」と「フード左翼」が生まれるわけです。
 
原発問題も「目先の利益派」対「長期的な利益派」の対立というふうにとらえることができます。
 
原発再稼働を主張する人は、再稼働しないとこの夏に電力不足になるとか、電気代が値上がりするとか、貿易収支が悪化するとか、日本経済によくないとかいいますが、すべて「目先の利益」のことです(CO2排出問題をいう人は意外といません)
一方、反原発の人は、原発事故の可能性(事故確率は短期的には低く、長期的には高い)、核廃棄物処理、廃炉費用など長期的な問題を指摘します。
まさに「目先の利益」を求める人たちと「長期的な利益」を求める人たちとの対立といえます。
 
経済政策も、今のやり方は、物価目標年率2%とか、経済成長率何%というように短期的なものです。その成長率がずっと続いていけばどうなるかという展望はまったくありません。
長期的な展望を考える人は、世界各国が今の成長率を維持していくことは資源や環境の制約からむりだろうと考えるので、日本のような先進国が経済成長することに懐疑的です。
 
軍備についても、「目先の利益」を求める人と「長期的な利益」を求める人で考え方がぜんぜん違います。
2014年度の日本の防衛費は前年度比2.8%増です。ここに安倍カラーが出ているといわれますし、この増加を喜ぶ人もいます。
なぜ防衛費増加を喜ぶかというと、防衛力が増強されれば、それだけ日本は安全になり、他国からあなどられないだろうと思うのでしょう。
しかし、中国は2014年度の軍事費を12・2%増加させています(実際はもっとだという説もあります)。経済成長力が日本と中国でまったく違うので、毎年どんどん開いていくことは間違いありません。
つまり、長期的展望を持つ人間にすれば、日本がいくら防衛費をふやしたところで、中国に差をつけられるのをわずかにへらせるだけのことでしかありません(これは軍事費の話で、軍事力とは違いますが、長期的には軍事力でも中国に負けるのは必定です)
今年防衛費がふえたといって喜んでいる人は、目先のことしか考えられない人です。
 
そもそも軍拡競争というのは、目先の優位を争って、長期的には国家財政の危機を招き、戦争の危機を拡大させるだけの愚行です。
 
人間はみな、「目先の利益」を追い求めるように生まれついています。
しかし、経験を積むうちに知恵がついて、小さな「目先の利益」より、大きな「長期的利益」を求めるようになります。
とはいえ、「目先の利益」を求める欲望も強烈です。
スリムになって男性にもてたいと思っているのに目の前のケーキに手を出してしまう若い女性、肝臓の数値が悪いから飲酒を控えるようにと医者から言われているのに酒に手を出してしまう中年男性、発覚すれば身の破滅を招くとわかっているのにドラッグに手を出してしまう芸能人など。
これらは個人の心の中の葛藤ですが、同じことが社会の中で起こっていると考えると、原発や経済政策や防衛問題における対立が説明できるのではないでしょうか。

「美味しんぼ」の鼻血問題をどうとらえるかで、その人の政治的立場がある程度わかります。
原作者の雁屋哲氏はもちろん左翼です。というか、極左です。あまりに過激な主張のため騒ぎになってしまいましたし、普通の左翼の人もついていけないかもしれません。
 
「美味しんぼ」は食を扱うマンガです。そして、どんな食べ物を選ぶかで政治思想がわかると主張するのが「フード左翼とフード右翼」(速水健朗著)という本です。
 
資本主義対社会主義という対立軸がなくなっても、右翼対左翼という概念はいまだに生きています。今の左翼は社会主義を目指しているわけでもなさそうなのに、なにをもって左翼というのでしょうか。
ここに食の選び方をもってきたのが「フード左翼とフード右翼」の着眼点の素晴らしさです。
 
たとえば2011年、「ウォール街を占拠せよ」というデモが盛り上がりました。「われわれは99パーセントだ」というのがスローガンで、アメリカでは1パーセントの富裕層がアメリカ全体の資産の3分の1を所有しているという格差社会に抗議しました。
デモ参加者はズコッティ公園にテントを張って生活していましたが、長期にわたる占拠中に彼らはなにを食べていたのでしょうか。
「ニューヨーク・ポスト」紙は、ある日のディナーはこういうものだと紹介しました。
 
「根菜、パセリ、ローズマリーの入ったオーガニックなチキンスープ。羊のミルクからつくったチーズとチミチェリー・ソースに、少しばかりのニンニクを添えたサラダ。スパゲッティ。玄米。豆類。そして、イサカの生協から寄与された、デザートのナッツとバナナ・チップス」
 
なんとも自然志向、健康志向な食べ物です。
 
占拠デモの人たちは、牧師が運営する貧困層のための無料食堂のキッチンを借りて、平日で1500人分、休日で3000人分の食料を供給したといいます。
さらに彼らは、クレジット・カードで支払いができてデリバリー・サービスに対応しているレストランのリストをネット上に公表しました。そうすると世界中からデモ隊への差し入れの注文が舞い込みました。こうしたITを駆使した闘争を展開したのは、一流大学のリベラル派の大学生たちです。
また、全米各地の小規模な有機農業農家や卸売業者など有機農法に関わる人たちから新鮮な収穫物が届きました。
 
こうした運動の展開を見ていると、「フード左翼」という概念でくくりたくなるのもわかります。
 
ただ、こうした自然志向、健康志向の食べ物を食べるのは貧困層ではありません。ウォール街占拠デモの参加者は「豊かな側の2パーセント」に入る人たちだともいわれます。
つまり「フード左翼」対「フード右翼」というのは、資本主義対社会主義でもないし、富裕層対貧困層でもないということです。
 
本書によると、「フード左翼」と「フード右翼」はこのように分類されます。
 
フード左翼=有機農業、反農薬、反化学肥料、反遺伝子組み換え作物、ベジタリアン、地産地消、スローフード運動
 
フード右翼=ファストフード、ジャンクフード、メガ盛り、B級グルメ、コンビニ弁当、農薬つきの安い野菜、冷凍食品
 
このような食べ物の選択がなぜ政治的・社会的な立場に結びつくのかは、歴史を振り返ってみるとよくわかるようです。
 
本書によると、フード左翼の起源のひとつはアメリカの有名レストラン「シェ・パニース」であり、創業者のアリス・ウォーターズは「どう食べるかは政治的なことである」と述べています。
 
アリスは1971年、カリフォルニアのバークレーという場所でシェ・パニースを開業しました。当時のバークレーは反体制運動やヒッピーであふれていました。彼女の出身校であるカリフォルニア大学バークレー校は当時も今も反体制的な学生運動が盛んに行われる大学ですが、彼女は政治運動に積極的に参加したわけではなく、フランスに長期留学し、そのときにフランス料理に魅せられ、それでレストランを開業したのです。
彼女の集めたスタッフはみな素人同然の大学生やヒッピーでしたから、開業当時のシェ・パニースの厨房ではシェフたちがマリファナを吸い、レッド・ツェッペリンがガンガン鳴っていたということです。
アリスが目指したのは、フランスの田舎町にあった、地元で採れた新鮮な食材を使った料理を出すレストランです。そのためアリスはみずから地元の農家を回り、新鮮で旬な食材を探し回りました。そして、地元の農家もしだいに彼女の求める有機栽培の農産物をつくるようになり、彼女自身も有機栽培農園を運営します。
 
当時のアメリカは、大規模農業でつくられた農産物が大工場で加工され、全国のスーパーマーケットに配送されるという、もっとも効率的なシステムになっていました。そうした中でアリスのレストランは、まったく別の価値観を提示し、アメリカ社会に対する政治的批判となったのです。
そして、こうした動きがどんどん拡大し、1990年には有機食品生産法が施行され、有機食品の表示基準が制定されます。「フード左翼」がアメリカでも一定の勢力を持つようになったといえるでしょう。
 
 
スローフード運動も「フード左翼」の代表的な運動です。
 
スローフード運動の母体となったのは、イタリアのピエモンテ州ランゲ地方の小さな町にある地元ワインの愛好協会です。彼らは左派系新聞のグルメページから生まれたグループで、スローフードというキャッチフレーズを用いて、地元の伝統的食文化を守るキャンペーンを打ち出していきますが、1986年にローマ市内のスペイン広場にマクドナルドのイタリア1号店ができたことに対する抗議運動を行って、反グローバル運動という観点からも世界の注目を集めました。
そして、彼らは「スローフード宣言」を訴えます。その中身を要約すると、
「素材とその文化を学ぶこと」
「環境破壊から農作物を守ること」
「正当な価格に見合った品質を伝える」
「食べる喜びの探求」
ということになるそうです。
 
アメリカにおいては反体制的な運動から「フード左翼」が生まれ、イタリアでは反グローバリズムから「フード左翼」が生まれたというわけです。
 
資本主義はつねに効率を追求しながら発展してきましたが、「フード左翼」が目指す自然志向、健康志向は効率第一主義とは別の価値観です。そういう意味で「フード左翼」は新しい形の反資本主義運動ということもいえるようです。
 
「フード左翼とフード右翼」の著者の速水健朗氏は「ラーメンと愛国」を書いた人で、もともとは「フード右翼」であったようですが、本書執筆のために取材する過程で“転向”して、今では「フード左翼」になったそうです。
 
昔、若いときは左翼で、年を取ると右翼になるというのがよくありましたが、速水健朗氏によると、「フード右翼」から「フード左翼」への転向はあっても、その逆はありえないということです。
年を取るとともに健康な生活に目覚める人はいますが、不健康な生活に目覚める人はいないということでしょう。
 
有機農産物は高価なので、まだ「フード左翼」の実数はそんなに多くないでしょうが、今後はさらにふえると思われます。
 
 
こういう観点から、「美味しんぼ」は極左であることがわかります。
また、「フード左翼とフード右翼」には原発のことはまったく触れられていませんが、自然志向、健康志向の「フード左翼」が反原発であるのは明らかです。
 
本書は「フード左翼とフード右翼」というタイトルに反して、内容の9割は「フード左翼」について書かれていて、「フード右翼」についての記述は1割ぐらいしかありません。
 
私の理解によると、「フード右翼」というのは、目先の欲望に駆られて生きている人たちです。ファストフード、ジャンクフードは、とりあえず食べると満足が得られます。ただ長期的な視点では不健康になります。
 
原発稼働を主張する人たちも、目先の利益のためだけを考えて主張しているようです。
 
「フード左翼」と「フード右翼」という観点から世の中を見ると、いろんなことがわかってくる気がします。

よく通り魔事件の犯人が「人を殺したかった。誰でもよかった」と言うことがありますが、安倍首相の心境は「戦争がしたかった。改憲でも解釈改憲でもなんでもよかった」というところでしょうか。
 
安倍首相は5月15日の記者会見で、今の憲法解釈では不都合な例として、日本人の乗った米国の軍艦を日本の自衛艦が守ることができないということを挙げましたが、そのあとこのように語っています。
 
 
昨年11月、カンボジアの平和のために活動中に命を落とした中田厚仁さん、高田晴行警視の慰霊碑に手を合わせました。あの悲しい出来事から20年あまりが経ち、現在、アジアで、アフリカで、たくさんの若者たちがボランティアなどの形で地域の平和や発展のために活動をしています。
この若者のように、医療活動に従事をしているひとたちも居ますし、近くで協力してPKO活動をしている国連のPKO要員もいると思います。
 
しかし彼らが突然、武装集団に襲われたとしても、この地域やこの国において活動している日本の自衛隊は、彼らを救うことができません。
 一緒に平和構築のために自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から"救助してもらいたい"と連絡を受けても、日本の自衛隊は彼を見捨てるしかないんです。
これが現実なんです。
 
これは一般国民にいちばんアピールするような表現にしたものでしょう。
そのためこの表現は、「勧善懲悪」になっています。
カンボジアの平和のために命を落とした中田さんと高田警視、医療活動をしている人、PKO活動をしている人、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊が「善」で、それらを襲撃する武装集団が「悪」というわけです。
 
もちろん人間を「善」と「悪」に分けることはできません。
たとえば現地の武装集団は、それなりに地元民の支持があるから武装集団たりえているのです。
 
ところで、軍事ジャーナリストの神浦元彰氏は前から、集団的自衛権行使を推進しているのは自衛隊ではなく軍事を知らない外務官僚だと主張しておられますが、5月15日の安倍首相の記者会見についてコメントを書いておられます。神浦氏は中田さん、高田警視の死亡事件について取材したことがあるということで、その部分も興味深いので、全文引用します。
 
 
仮に朝鮮半島で戦争が起きて、在留邦人が米軍の艦艇や航空機(民間機を含む)に乗って日本に避難する時、その艦艇や航空機を自衛隊が護衛することは個別自衛権で可能だと思う。
 
これが、わざわざ集団的自衛権の解釈を変更して、自衛隊の海外での戦闘参加を認める理由にはならない。
 
この事例を安倍首相が説明した時に、カンボジアで中田さん(国連ボランティア)と高田警部補(岡山県警)が殺された事例で集団的自衛権の必要性を説明した。それで私は安保法制懇が隠してきた集団的自衛権の必要性と本質に気が付いた。
 
 私はカンボジアで二人の射殺現場を取材したことがある。中田さんは現地の選挙ボランティアを募集した際、警察署長の息子を英語力に問題があるとして採用しなかった。それを怒った父親(警察署長)が、酒に酔って早朝に銃で待ち構え、車の中の中田さんを撃ち殺したものである。
 
また高田警部補は、巡回するポル・ポト派の村の入り口で、検問の兵士(村民)の停止に応じないで、護衛のオランダ軍の車列とともに無視して通過していた。そこでポルポト派が検問所で待ち伏せして、護衛のオランダ軍と国連PKOの停戦監視団(高田警部補)の車両を銃撃した。
 
 護衛のオランダ軍はすぐに逃げだせたが、高田警部補が乗った車(トヨタの白いランドクルーザー)は側溝に落ちて逃げ出せなかった。
 
そこで高田警部補は車内から出たが、銃弾を浴びたのが死んだ原因である。待ち伏せしたポルポト派兵士は、「なぜ待ち伏せして撃ったのか」という質問に、「我々は国連PKO部隊の派遣に合意した。それは玄関の戸を開いただけで、各部屋のドアを開いた訳ではない。しかしオランダ軍は勝手に部屋を開け、トイレや風呂まで覗き込むような失礼なことをしたので制裁した」と答えた。
 
オランダ軍(海兵隊)の駐屯地にあった白いランドクルーザーを見たが、中には一滴の血が流れていなく、車外で殺されたことを物語っていた。
 
 強く印象に残ったのは、床に日本のお菓子の袋がいくつかあった。だから高田警部補が射殺された原因は、オランダ軍の振る舞いが事件発生の要因を生んだという印象を強く持った。オランダ軍の海兵隊中佐がインタビューに答えてくれた。
 
これに対して、奥参事官と井之上書記官の襲撃事件は、日本の外務省が現地は平和で自衛隊の派遣は問題ないと言い続けたために、現地の日本人外交官は武装警備をつけることができず、そこを反米勢力(フセイン大統領の支持者)に襲われたのである。
 
 二人が乗った車(トヨタのランクル・軽装甲)は事件後に日本に輸送し、警察の鑑識を受けて、銃撃の模様が究明されている。まずピックアップトラックが追い抜いて前を塞ぎ、荷台に乗ったものがランクルの前方から威嚇の銃弾をボンネットと前部窓ガラスに撃った。これで前方を塞がれた。
 
つぎに後方から別のセダン(乗用車)が後部の窓をあけて追い越し、後部座席からAK47の銃弾をランクルの側面に浴びせたのである。銃弾は軽装甲のランクルを貫通し、外交官の2人と運転手が殺された。弾倉20発の薬きょは車内に落ちた。
 
このような襲撃を防ぐには、追い越される前に強力なエンジンで加速して逃げるか、武装した護衛をつけて追い越しを防ぐことである。
 
しかし日本の外務省は、自衛隊をイラクに派遣させたいために、国会などでイラクは安全と説明を繰り返していた。危険を証明するような武装護衛をつけることができなかった。だから私は奥参事官と井之上書記官は日本の外務省が殺したと主張した。
 
 当時、バグダッド現地の各国の大使館は、武装した護衛を雇い、移動中の安全を確保していたが、日本の外交官だけが武装した護衛を雇えなかったのである。
 
イラクでは日本人旅行者が殺されたり、フリージャーナリストが拉致された事件があったが、今回の集団的自衛権の議論とは関係ないようである。
 
そのような政治の失敗を憲法のせいにして、集団的自衛権で外交官の安全を守る様に企んだのが集団的自衛権の解釈変更と容認であった。
 
 私は日本を自衛隊と日米安保で守ることができ、憲法9条を解釈変更で崩さなくとも平和国家でいることができると確信している。
 
 今までの個別自衛権と警察権でほとんどの問題は解決できるのだ。
 
 今までの集団的自衛権の議論は、靴の上から足を掻くような事例がいくつもあったが、その痒(かゆ)みの原因は、奥参事官と井之上書記官の銃撃事件を自衛隊の護衛で防ぎたい外務省の考えであったようだ。
 
 安倍首相の自己陶酔したような表情の記者会見と言葉で、それをはっきりと認識できた。
 
そういう知識で、今日の朝刊各紙を読むと、今は日本が大きな危機を抱えているのではなく、外務省の誤った認識が集団的自衛権の副作用を起こすことがわかるはずだ。
 
 
このように現地には現地の事情があります。オランダ軍のふるまいにも問題があり、誰が善で、誰が悪とかいうのではありません。
また、警察署長に撃たれたのであれば、防ぎようがありません。
 
 
安倍首相は「一緒に平和構築のために自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から"救助してもらいたい"と連絡を受けても、日本の自衛隊は彼を見捨てるしかないんです」と語りましたが、この表現の中に問題がいっぱいあります。
 
イラク戦争後、自衛隊がサマワに駐留していたとき、近くにオランダ軍も駐留していました。そして、もしオランダ軍が武装勢力に襲われたときも自衛隊は助けに行けないが、それでもいいのか、という議論が行われていました。
この議論は自衛隊がオランダ軍の味方をするという前提で行われていますが、自衛隊はイラクの民生支援のため、つまりイラク人のために行っているわけですから、もしオランダ軍かイラク人武装勢力かどちらの味方をするかという二者択一であれば、イラク人武装勢力に味方するのが筋です(実際にオランダ軍とサドル師支持派の民兵組織が戦闘したことがあります)
しかし、こんなことを主張した人は誰もいません。自衛隊がイラクの民生支援のために行ったというのはタテマエで、実際にはアメリカ軍の占領支援のために行っていたからです。
 
安倍首相は他国の部隊を助けたいようですが、それは裏を返せば現地の人を殺すことになります。それではなんのために現地に行っているのかということになります。
 
安倍首相の頭には、帝国主義時代の発想があると思われます。
1900年の義和団事件のとき、日本を含む列強8カ国が共同で中国に軍を派遣しましたが、それと同じように思っているのです。
もっとも、同様の発想は今のアメリカやNATOにもあると思われます。だから、アフガンでもNATO軍の治安維持活動はうまくいきません。
国連のPKO隊員も似たようなものです。PKO隊員が現地人に対して性的虐待をする事件が問題になったりしています。
 
要するに途上国の人間を差別しているのです。
 
安倍首相の頭には、帝国主義的発想に加えて、「友軍」という概念もあるものと思われます。
安倍首相が集団的自衛権行使をいうときは、すべて「友軍を助けなければならない」という発想になっています。
しかし、今の日本に「友軍」はいません。
いったん集団的自衛権を行使して、ともに戦ったら、その時点で「友軍」になるのです。
安倍首相の発想はあべこべです。集団的自衛権行使を実現したいために、勝手に頭の中に「友軍」をつくりあげているのです。
 
また、軍服を着ていない現地の武装勢力はいくら殺してもいいとも思っているのでしょう。
人間としてはありえない発想ですが、日本の右翼は南京虐殺事件を論じるときにこれを当たり前のように主張します。
 
安倍首相は「一緒に平和構築のために自衛隊とともに汗を流している他国の部隊」という表現で他国の部隊を持ち上げ、一方、現地の人は「武装集団」の一言で片づけます。
しかし、実際のところは、その他国の部隊は現地の少女をレイプして、そのために現地の人から攻撃されたのかもしれないのです。
「勧善懲悪」の論理で軍事を語るとは、やはり戦争をしたい一心としか思えません。

安倍首相が憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認に向けて突っ走っています。
 
安倍首相はもともと改憲によって「美しい国」だか「新しい国」だかを目指していたはずです。
日本国憲法は戦力の不保持をうたっていますし、自衛権についての規定もないので、これまで「解釈改憲」によって自衛隊の存在を正当化してきましたが、どうしてもむりがあります。ですから、きちんと改憲して「国の形」をすっきりさせたいという考えにはそれなりの正当性があります。
しかし、安倍首相は正面から9条改正を打ち出すのではなく、改憲のハードルを下げる96条改正を先行させようとしました。これが姑息なやり方だということで評判が悪く、9条改正についての世論も反対のほうが多くなりました。そこで改憲を諦めて「解釈改憲」に舵を切ったのだと思われます。
 
しかし、これではますます「国の形」がねじれてしまいます。安倍首相は「美しい国」を目指していたのではなく、やはり「戦争のできる国」を目指していたということでしょうか。
 
安倍首相は5月15日の記者会見で、集団的自衛権の行使が必要な例を挙げましたが、これがまったくピンときません。
 
具体的な例でご説明をしたいと思います。
 
いまや海外に住む日本人は150万人。さらに年間1,800万人の日本人が海外に出かけていく時代です。その場所で突然紛争が起こることも考えられます。そこから逃げようとする日本人を、同盟国であり能力を有する米国が救助・輸送している時に、日本近海で攻撃があるかもしれない。
 
このような場合でも、日本人自身が攻撃を受けていなければ、日本人が乗っているこの米国の船を、日本の自衛隊は守ることができない。これが憲法の現在の解釈です。
 
これを聞いた私は最初、民間の船に日本人が乗っていて、それを米国の軍艦が護衛している状況を想像しました。そして、自衛艦が米国の軍艦を助けられる位置にいるというわけです。そうなら、その自衛艦が直接日本人の乗っている船を護衛すればいいわけで、安倍首相の言っていることは不可解だと思いました。
 
しかし、これは私の誤解でした。朝日新聞には日本人を乗せているのは米軍艦だと書いてあります。安倍首相が会見で示したパネルにも「邦人輸送中の米輸送艦」という言葉がありました。
つまり、日本人は米軍艦に乗って戦地から避難してきたというわけです。
紛争の一方の当事国の軍艦に乗るというのは、攻撃される恐れがあるので危険な判断です。
それに、米輸送艦なら米軍が自力で守るのは当然で、日本に防護の要請をしてくるというのは考えにくいことです。
 
これまで「日本の頭上を通過してアメリカを攻撃するミサイルを日本は撃ち落とさなくていいのか」とか「米国のイージス艦を狙ってくるミサイルを日本のイージス艦は落とさなくていいのか」というように、日本がアメリカを守るという事例が挙げられていましたが、今回は「紛争国から逃れようとしている、お父さんやお母さんやお爺さんやお婆さん、子どもたち」を守るのだということを主張しようとして、わかりにくい事例になってしまったようです。
 
こんなむりな説明をして、「解釈改憲」を拡大してまで集団的自衛権行使に向かおうとしている理由はなんでしょうか。
 
私は安倍首相の中にある「戦争好き」についていろいろ考えています。
今回は、日本の終戦のあり方も原因ではないかということを書いてみます。
 
 
「日本のいちばん長い日」(原作は大宅壮一のノンフィクションとされていましたが、実際は半藤一利のノンフィクション)という映画があります。これは御前会議において降伏を決定した1945814日の正午から玉音放送によって国民にポツダム宣言の受諾を知らせる815日正午までの24時間を描いた映画で、降伏に反対する将校たちが玉音放送のレコードを奪おうとするなど、降伏か戦争継続かのぎりぎりの攻防が描かれます。
つまり御前会議で降伏を決定しても、それに従わない勢力がかなりあったのです。
 
一般国民も、玉音放送の音声が聞き取りにくかった場合、いっそう奮戦するよう呼びかける内容だと誤解する人が多かったようです。つまり当時の気分としては、ここで降伏するとは思えなかったのです。
 
8月15日の降伏については、もっと早く降伏しておけば犠牲が少なかったのにと思う人が多いかもしれませんが、第二次世界大戦の常識からするとむしろ早すぎます。
ドイツはベルリンで市街戦が行われるまで戦い続けましたし、ソ連はスターリングラード、レニングラードが包囲され、モスクワの40キロ手前までドイツ軍に進撃されても、そこから反撃しましたし、中国の国民党政府も首都南京が陥落しても首都を重慶に移して戦い続けました。それらと比べると、硫黄島と沖縄が占領されただけで降伏した日本は早すぎるということになります。
 
故小松左京氏のデビュー作は「地には平和を」という短編小説です。8月15日に予告されていた玉音放送が中止になり、大本営と皇室は長野県松代に移転して、日本は本土決戦を戦っているというもうひとつの世界で、少年兵が米軍と戦う物語です。この少年兵は、戦時中の小松左京氏が思い描いた自分自身の姿だったでしょうし、小松左京氏はこの物語をどうしても書かないではいられなかったのでしょう。
 
つまり多くの日本人はまだ戦争が続くと思っていましたし、とくに軍部の多数はまだ戦い続けるつもりでした。
そのため日本人には“まだ戦争し足りない感”があるのです。
 
ドイツは第一次世界大戦での負け方が中途半端だったために“まだ戦争し足りない感”があり、そのために第二次世界大戦をやって、ようやく“まだ戦争し足りない感”を解消しました。
今の日本は、第一次世界大戦で負けたドイツの段階に近いといえるでしょう。
 
もっとも、「戦争はもうこりごりだ」と思う人もたくさんいます。
今の集団的自衛権行使を巡る対立は、「戦争はもうこりごりだ」と思う人たちと、「まだ戦争し足りない」と思う人たちの対立ということになります。

マンガ「美味しんぼ」に原発事故と鼻血を関連づける描写があることで大きな騒ぎになっています。
私はそのマンガは読んでいませんし、気の利いた見解をのべることもできないと思って静観していましたが、これだけ騒ぎが大きくなると、騒ぎについてひと言いいたくなりました。
 
直接関連する福島県双葉町、福島県、大阪府、大阪市などが抗議するのはわからなくないとしても、政治家までがやたらコメントしています。私が把握しているだけでもこれだけいます。
 
菅義偉官房長官
根本匠復興相
森雅子消費者相
太田昭宏国土交通相
下村博文文部科学相
石原伸晃環境相
浮島智子環境省政務官
小泉進次郎復興大臣政務官
片山さつき参議院議員
 
たかがマンガにこれだけの政治家が口を出すのはまさに異常事態といわねばなりません。
 
わたしがひとつ思ったのは、ドラマ「明日、ママがいない」との類似です。
「明日ママ」は児童養護施設を舞台にしたドラマです。おそらくこのドラマが人気になって児童養護施設に対する関心が高まると困る人たちがいたのでしょう。厚労省管轄下の団体などが放送中止を求めて抗議をし、それによって児童養護施設のタブー化がある程度成功しました。
それに味をしめたというか、見習ったというか、同じように抗議すれば問題をタブー化できると思った人たちがいたのでしょう。
テレビドラマもマンガも低俗とされるメディアで、攻撃しやすい点では共通しています。
 
それからもうひとつ思ったのは、イラク戦争当時に日本人3人が人質になった事件との類似です。
あの人質事件も異常な騒がれ方でした(今回の数倍か十数倍の規模でしょう)
当時、日本は「自衛隊のいるところは非戦闘地域だ」というむりな理屈をつけてまでサマワに自衛隊を派遣し、ビンラディンから攻撃対象として名指しされていました。もし人質が殺されでもしたら、自衛隊派遣を決定した日本政府に非難が向く可能性が大です。そうならないように、自衛隊派遣に賛成した人はあらかじめ人質が悪いのだと決めつけておきたかったのでしょう。というか、そういう計算以前に、単に自分の中のやましい思いを人質に転嫁していたのでしょう。
 
今回は、福島県には汚染地域に住んでいる人がたくさんいます。一応安全だということになっていますが、ほんとうに安全かというと、誰もが大なり小なりの不安を持っています。そうした不安を解消するために「美味しんぼ」を非難しているという面があると思われます。
また、政治家はみんなやましいわけです。放射線の健康被害について確証のある人などいません。そうしたやましさが「美味しんぼ」批判へ向かわせるのでしょう。
 
 
今、問題になっているのは放射線と鼻血の関係です。
低線量でも鼻血が出るという説もありますが、あまり一般的ではないようです。
しかし、興奮したりストレスを感じたりしたときに鼻血が出るのは誰もが経験していることです。「放射線の恐怖」というストレスにさらされた人が鼻血を出すのは十分にありうることです。また、原発事故直後に不慣れな避難生活を強いられた人が鼻血を出すということもよくあったでしょう。そうした鼻血が放射線のためと理解されても不思議ではありませんから、マンガの中にそういう描写があるのはある意味当然です。
ただ、科学的に放射線が鼻血の原因かというと、多くの人がそうではないと思うでしょう。
ですから、ここの部分が集中的に攻撃されることになります。
 
しかし、鼻血の原因が放射線か否かというのは小さな問題ですし、ひとつのマンガが鼻血の原因は放射線だという立場を取ったところで、多くの政治家がコメントするようなことではありません。
 
しかし、現実に大きな騒ぎになっているということは、「鼻血の原因が放射線だというのは科学的におかしい」ということを攻撃することによって、健康不安ややましさの解消をはかろうとしている人が多いのでしょう。
「美味しんぼ」はこれまでたとえば食品添加物や遺伝子組み換え作物の健康被害の問題を取り上げ、間違いがあると抗議されたことは何度もありましたが、それが社会的な騒ぎになったことは一度もありません。今回だけ騒ぎになっているのは、放射線の健康被害については不安ややましさを感じている人がひじょうに多いからとしか理解できません。
 
「美味しんぼ」の鼻血の描写で風評被害が起きていると言われますが、それは旅館が予約のキャンセルにあったというようなことで、所詮はお金の問題です(しかもキャンセルと「美味しんぼの」の関係も定かではありません)
一方、「美味しんぼ」が一貫して追求しているのは食の問題で、食は健康や命と直結しています。
健康や命の問題よりもお金の問題を優先させるような議論もおかしなものです。
 
「美味しんぼ」の一部の描写がおかしいか否かということよりも、福島県民の健康はどうなっているのかということのほうが圧倒的に大きな問題です。
問題の重要度をまったく無視した議論が行われていると感じます。

安倍政権のおかげで「道徳とはなにか」という基本的な問題が表面化してきました。これをきっかけに道徳について考えを深めたいものです。
 
安倍政権及び自民党は「道徳国家」の建設を目指しているようです。
自民党の改憲草案にはこんな言葉が入っています。
 
和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って」
「自由と規律を重んじ」
「良き伝統」
「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」
「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」
「家族は、互いに助け合わなければならない」
 
日本国民に道徳を説くとは、自民党は日本国民の上に君臨しているつもりなのでしょう。
しかし、これは今に始まったことではありません。田中角栄首相のときにもありました。
 
田中角栄が首相になった当時は、それまで官僚臭の強かった佐藤栄作内閣が長く続いた反動もあって、「平民宰相」「今太閤」と呼ばれて、圧倒的な人気でした。そして、田中首相はあまりの人気に調子に乗ってしまったのでしょう。国民に「五つの大切、十の反省」なる道徳を説きました。
 
「五つの大切、十の反省」
 五つの大切 
①人間を大切にしよう。
②自然を大切にしよう。
③時間を大切にしよう。
④モノを大切にしよう。
⑤国、社会を大切にしよう。
 十の反省
①友達と仲良くしただろうか。
②お年よりに親切だっただろうか。                      
③弱いものいじめをしなかっただろうか。
④生き物や草花を大事にしただろうか。
⑤約束は守っただろうか。
⑥交通ルールは守っただろうか。
⑦親や先生など、ひとの意見をよく聞いただろうか。
⑧食べ物に好き嫌いを言わなかっただろうか。
⑨ひとに迷惑をかけなかっただろうか。
⑩正しいことに勇気をもって行動しただろうか。
 
これは一応子ども向けの体裁になっていますが、学校教育で使うためではなく、国民全員に対して発表されたので、国民の総スカンを食いました。誰でも人から道徳を説かれるのは不愉快です。
今となっては「五つの大切、十の反省」を思い出す人もいないでしょう。
 
そして、安倍政権は学校における道徳の教科化を打ち出し、すでに小中学校に道徳用教材の「私たちの道徳」を配布していますが、これはあくまで学校教育内のことです。そのため国民もあまり反対していません。
 
しかし、国会でこんな動きがありました。
 
「道徳議連」6月発足 超党派、教科化を後押し
2014.5.11 08:21
 人格教育の重要性を訴える超党派の「人格教育向上議員連盟(仮称)」(会長・下村博文文部科学相)が6月上旬にも発足することが10日、分かった。明治23年に発布された教育勅語を参考として教育のあり方を根本から見つめ直し、政府内にある道徳の教科化の動きを後押しする狙いだ。
 
 議連には下村氏のほか、民主党の笠浩史元文科副大臣、日本維新の会の中田宏国対委員長代理らが参加する。13日にも準備会合を開き、教育問題に精通した保守系議員を中心に100人規模での発足を目指している。
 
 政府は今年2月の中央教育審議会(中教審)総会で、道徳の授業を小中学校の正式な教科にするよう諮問しており、秋までに答申が出る見通しだ。議連発起人の一人は「子供のときは、知識の詰め込みよりも人格、教養を高めていくべきだ」として、道徳の教科化の必要性を訴えている。
 
 議連が着目するのは、教育勅語に記されている「兄弟・姉妹は仲良くしましょう」「人格の向上に努めましょう」などの12の徳目。下村氏は「今でも十分に通用し、中身は普遍性がある」と語っている。議連では教育勅語の精神を道徳教育にどう生かすについても議論する考えだ。
 
 また「親のモラル低下も最近の教育問題の一つ」(議連関係者)として、規範意識を親世代にも浸透させるために道徳教育への親の参加の是非などに関しても意見交換する予定だ。
 
要するに教育勅語を復活させようという動きのようです。
 
教育勅語というのは、教育の場だけのものではありません。「夫婦相和シ」とか「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とかあるように、おとなとしての生き方も示しています。
ですから、教育勅語が復活したら、おとなもそれに縛られることになります。
現に記事の中にも「親のモラル低下」とか「規範意識を親世代にも浸透させる」という言葉が出てきます。
 
そもそも、現代に教育勅語を復活させようというのはおかしな話です。というのは、教育勅語は1948年に国会で排除ないし失効が決議されているからです。
新たに勅語を出すのなら、今上天皇のお言葉として出すことになります。
勅語という形式をとらないにしても、今上天皇の了解なしに明治天皇の言葉を復活させるのは、今上天皇をおろそかにする行為です。
そして、私の考えでは、今上天皇は教育勅語的な考えをまったく持たない方ですから、教育勅語や教育勅語的なものを復活させることに賛成なさるはずがありません。
 
いずれにせよ、「道徳議連」の議員たちは天皇の権威を利用しようとしており、これは「天皇の政治利用」にほかなりません。
 
天皇の権威を利用してまで人に道徳を説こうとするのは愚かなことです。
「自分がされていやなことは人にしてはいけない」というのは道徳の基本です。
自民党や「道徳議連」の議員たちは、自分が人から道徳を説かれるとどんな気持ちがするかを考えるべきです。
 

ナイジェリアでイスラム武装勢力によって少女が200人以上誘拐されるという事件が起きています。日本ではそれほどではありませんが、欧米では大騒ぎになっています。この事件はどうとらえたらいいのでしょうか。
 
ナイジェリアで女子生徒多数誘拐 米、救出に専門家派遣
ナイジェリア北部で、イスラム武装勢力「ボコ・ハラム」に女子生徒がさらわれる事件が先月から相次ぎ、これまでに200人以上が誘拐される事態になっている。国際的な非難が高まっており、オバマ米大統領は6日、救出に向けた専門チームの現地派遣を表明した。
 
 ナイジェリア北部ボルノ州の学校では、4月中旬に女子生徒200人以上が武装集団に誘拐された。別の場所でも今月4日に8人の女子生徒が誘拐された。AFP通信などによると、ボコ・ハラムの指導者が4月の犯行を認め、「神が娘たちを売り飛ばせと言っている。人身売買の市場がある」などと主張している。
 
 「ボコ・ハラム」という名は「西洋の教育は罪」という意味で、同グループは最近は教育施設への攻撃を強めている。政府施設へのテロ攻撃も繰り返しており、今年だけでも1500人以上が犠牲になった。国際テロ組織アルカイダ系組織から訓練を受けているとされる。
 
 オバマ米大統領は6日、ナイジェリアに、軍や情報機関などからなる専門チームを派遣したことを明らかにした。連れ去られた場所を特定し、解放に向けた交渉を支援する。
 
 オバマ氏は米ABCテレビで、「とても痛ましい状況で、常軌を逸している」と非難。パキスタンで武装勢力に頭を撃たれながらも、女性教育の重要性を訴えているマララ・ユスフザイさんもツイッター上で「女の子たちを取り返せ」と掲げた写真を掲載し、救出を訴えている。
 
 米国務省のハーフ副報道官は5日、「女子学生の多くは隣国などの国外に連れ出された情報がある」とし、武装勢力が誘拐後にナイジェリア国外に移動しているとの見方を示している。(ヨハネスブルク=杉山正、ワシントン=奥寺淳)
 
「娘たちを売り飛ばせ」とか「人身販売の市場」とか、とんでもないことを言っています。騒ぎになるのは当然です。
 
ただ、欧米諸国がヒートアップするのは、相手がイスラム勢力だからということもあるでしょう。日本が同じようにする必要はありません。
 
イスラム過激派のやっていることに弁護の余地はありませんが、それを批判している者が正しいとは限りません。
自分のことを棚上げにして他人を批判する人間がいちばん悪いかもしれないのです。
 
日本人も欧米を通してイスラムを見るので、そこに偏見が加わっているおそれがあります。
たとえば、厳格なイスラム国では女性はヴェールで顔を隠していますが、これは女性差別で、けしからんという人がいます。
しかし、日本では女性は化粧せずに人前に出ることができません。素顔を出せないという点では同じですし、ヴェールをかぶるよりも化粧するほうが手間もコストもかかります。たとえば女子大生は就活のとき全員ヴェールをかぶることにすれば、実力で評価されるようになるでしょう。
単純にイスラム式はだめだとはいえません。
 
「ボコ・ハラム」は女子教育の禁止を主張しているそうで、これが間違っているのは明らかです。
しかし、欧米や日本では、女子にせよ男子にせよ、教育からの離脱を禁止しています。つまり義務教育です。そのため子どもが学校に行きたがらないと、親が暴力を振るってまで学校に行かせるということが行われています。子どもに選択権がないことでは同じです。
 
少女を監禁して人身売買をすることがよくないのはわかりきっていますが、では、日本でそういうことが行われていないかというと、そんなことはありません。
一部の犯罪組織の話ではありません。普通の家庭で、親が子どもの進学先や就職先を決め、さらには結婚にまで親が介入するということが少なからず行われています。人生を支配することは人身売買とさして変わりません。こうしたことは人生相談のレベルでは問題になりますが、決して社会問題としては扱われません。
 
アフリカなどでは少年兵(子ども兵士)がいるとして、このこともよく問題になります。もちろん子どもを兵士にすることはよくないことですが、日本人が「日本の子どもは恵まれているが、アフリカの少年兵はかわいそうだ」みたいなことを言うのもおかしなことです。日本の子どもも受験戦士に仕立てられているからです。
 
次のサイトによると、少年兵は誘拐されて仕立てられるケースもありますが、ストリートチルドレンが合流してなるケースもあり、戦功をあげれば昇進して成年兵を統率する立場になることもあるそうです。子どもが自発的にやっているなら、日本の受験戦士よりもましかもしれません。
 
「子ども兵士」の背景と実情 ―― なぜ子どもが兵士になるのか
小峯茂嗣 / NGOアフリカ平和再建委員会(ARC)事務局長
 
また、アフリカ史研究の今泉奏という人が、西洋式の近代教育がアフリカの伝統教育を破壊してきたことを思うと、「ボコ・ハラム」の主張に共感に近いものを感じると述べています。
 
ナイジェリアのテロ組織「ボコ・ハラム」が主張する世界
 
ともかく、一面的な見方ではなく、多様な角度から見ることが必要です。
ハリウッド映画ならヒロイックな救出作戦で事件を解決しますが、そういうやり方ではなにも進歩しません。

前回の記事で、長谷川三千子氏の平和主義についての考え方がいかにくだらないものであるかを書きました。
 
長谷川三千子氏の“哲学”は国語辞典レベルだった
 
しかし、人の批判ばかりしていても仕方がないので、今回は自分の考えを述べます。
 
長谷川氏は会見の冒頭で、会場の人たちに「世界平和は重要か」「世界平和の達成はむずかしいか」という質問を投げかけ、会場の人たちの意見をこのように集約します。
 
「誰もが平和は重要だと思っているが、同時に平和の達成は困難だと思っている」
 
ここには明らかに矛盾があります。私は一瞬、長谷川氏はこの矛盾を解き明かしていくのかと思ったのですが、長谷川氏の議論はあらぬ方向に行ってしまいました。
そこで、私が代わりに考えてみます。
 
まず、みんなは平和の重要性を口にしますが、それはほんとうかという問題があります。つまり、ほんとうは戦争が好きなのだが、本音を口にすると批判されるので、口先だけ平和主義を唱えているのではないかということです。
 
たとえば石破茂自民党幹事長は軍事プラモオタクとして有名です。軍事プラモが好きであることと、戦争が好きであることは、きわめて近似性があります。
 
安倍首相や長谷川三千子氏は「積極的平和主義」を唱えていますが、これは要するに「戦争主義」を言い換えているだけかもしれません(「戦争主義」という言葉はあまり一般的ではありませんが、「平和主義」の反対語として使っています)
 
人間には(とくに男には)戦争好きの要素があることは否定できません。長谷川三千子氏がそのことについて考察しないのは不思議です。
 
では、なぜ人間に戦争好きの要素があるのでしょう。
これはギャンブルにたとえるとわかりやすいでしょう。
 
ギャンブルは長く続ければ確実に損をしますし、やりすぎたために身の破滅を招く人も少なくありません。それでもギャンブルにはまる人があとを絶たないのはなぜでしょうか。
 
それは、「自分は勝つ」と思っているからです。
「自分は幸運だ」とか「自分には実力がある」とか、なんの根拠もなく「今度こそ勝つ」とか、その思考形態はさまざまですが、とにかく負けると思ってやっているわけではなく、勝つと思ってやっているのです。
 
冷静に確率などを計算すれば勝てないことがわかりますが、そういう合理的な思考ではありません。つまり「希望的観測」という認知バイアスの一種です。
 
人間はたいてい「自分はやればできる」とか「そのうちうまくいく」とか、根拠なく楽観的な思考をします。だからこそ絶望的な状況になってもめったに自殺をすることもなく、前向きに生きていくことができるのです。
 
戦争についても同じようなことがあります。
「戦争」と一口に言いますが、実際は「勝ち戦」と「負け戦」があります。
そして、戦争で勝つと負けるとでは天国と地獄ほども違います。
勝てば戦利品、領土、奴隷などが手に入ります(昔の話ですが)
人類がこれまで戦争を繰り返してきたのは、双方が「自分は勝つ」という希望的観測を持っていたからです。
 
この希望的観測は具体的には、「相手を見くびる」と「自分を過大評価する」というふたつから成り立っています。
したがって、孫子の兵法は「敵を知り己を知れば百戦危うからず」といったわけです。
 
ギャンブルに勝つと脳内にドーパミンが放出され、幸福感が生じるとされます。労働の対価としてお金(給料)を得ても、こうしたことにはならないそうです。そのためギャンブルには特別な魅力があり、はまるとなかなか抜け出せません。
戦争も同じようなものではないでしょうか(少なくともアドレナリンが放出され、興奮します)
 
日本がアメリカと戦争をしたのも、今考えると愚かなこととしか思えませんが、当時の日本人は興奮状態にあって(中国戦線では連戦連勝、ヨーロッパではナチスドイツが連戦連勝)、認知バイアスの一種である「バンドワゴン効果」で浮かれていたわけです。そして、戦局が悪化しても冷静さを取り戻せず、「神風が吹く」というような希望的観測にすがり続けました。
 
現在、集団的自衛権を巡って議論が行われていますが、この議論の前提にあるのは「自分は勝つ」という希望的観測です。負ける可能性を誰も言いません。
もちろんアメリカにくっついていけば負けることはないはずですが、局地的には負けることもありますし、勝つにしてもそれなりの損害も出るはずです。
また、勝つということは敵をかなり殺すことですし、負けたほうはおとなしく引き下がるとは限らず、テロによる報復をしてくる可能性があります。
それに、アメリカはアフガン戦争とイラク戦争で勝ちましたが、今は勝ったからといってたいした利益はなく、むしろ損失のほうが大きいくらいで、アメリカ国民も戦争にうんざりしています。
 
ともかく、人類がこれまで戦争を繰り返してきたのは、「敵を知らず、己を知らず」という愚かさのゆえです。この愚かさから脱することが平和への道です。

憲法記念日に合わせて「BLOGOS」に長谷川三千子氏の会見が掲載されました。この会見は4月15日に日本外国特派員協会で行われたもので、その中から「積極的平和主義」に関する部分を抜き出したものです。
 
長谷川三千子氏といえば安倍首相のお友だちで、NHK経営委員で、いくつかの問題発言が騒がれた人物です。
そして、私が気になるのは、この人が哲学者という肩書きを使っていることです。哲学者を自称するということは、それなりのことがあるでしょうか。
もっとも、長谷川氏の著作を読もうという気にはならないので、代わりに「BLOGOS」に載った会見を読んでみました。
 
「積極的平和主義にも精神的平和主義にも問題点がある。2つのベスト・ミックスがいい」―長谷川三千子氏が会見
 
会見の冒頭で長谷川氏は会場のみんなに「私は世界平和を重要なものと信じているのですが…どなたかそうではないと思う方、手を挙げていただけますか?」と呼びかけます。そうすると誰も手を挙げません。
次に長谷川氏は、「世界平和を達成するのはとてもとても難しいものです。…この点に関してはいかがでしょうか、賛成か反対か」と呼びかけ、そうすると満場一致の賛成となります。
つまり、「誰もが平和は重要だと思っているが、同時に平和の達成は困難だと思っている」という事実が明らかになります。
 
私はここまで読んだとき、このあとの展開に期待しました。しかし、読んでみればわかりますが(読むまでもないですが)、このあとはまったくくだらない内容です。
 
長谷川氏は平和主義を「消極的平和主義(精神的平和主義)」と「積極的平和主義」に分け、「消極的平和主義」だけではだめで、「積極的平和主義」が必要だと説きます。しかし、「積極的平和主義」は「戦争そのものと非常に近くなる」ので、危険が伴います。では、どうすればいいか。「積極的平和主義」と「精神的平和主義」の「ベストミックス」がいい、と長谷川氏は主張します。
 
「ベストミックス」とはなんでしょうか。
「ベスト」がいいのはわかりきっています。あらゆることは「ベスト」がいいのです。「ベスト」の内容を言わねばなりません。
 
長谷川氏はそれらしいことを言います。
孟子の思想から「王道」と「覇道」という考え方を紹介し、「王道の考えに、二種類の平和主義のベスト・ミックスをみることができます」と言い、これが結論となります。
 
「王道は覇道にまさる」というのは国語辞典の説明と同じです。これは思想ではありませんし、ましてや哲学でもありません。
「ベスト」がいいというのも、まさに国語辞典レベルのことです。
 
自称哲学者とはどういうものかよくわかりました。
 
 
長谷川氏は「精神的平和主義」の説明をするときに、「フラワーチルドレンと呼ばれた人たちがいて、彼らは歌を歌い、髪に花を挿して、そうしたことが世界平和に寄与していると信じていたのです。今の若者たちは笑うかもしれないけれど」というふうに語ります。
こうした表現に長谷川氏の本領があるのでしょう。そして、こうしたことが右翼論壇や安倍首相に評価されてきたのでしょう。
 
しかし、これは日本外国特派員協会での会見だったため、あまり好戦的と取られないようにバランスに配慮し、そのためまったく無内容な会見になったものと思われます。
 
外国特派員の方にとっても、この会見はまったく時間のむだだったでしょう。
いや、安倍首相のお友だちのレベルがわかったことに意味があったのかもしれません。

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