ソフトバンクは、人の感情を認識しスムーズに会話することができる人型ロボット「Pepper」を2015年2月から販売すると発表しました。
最近、またロボットブームが起きているようです。政府が成長戦略のひとつにロボット産業を挙げており、株式市場でもロボット関連銘柄が活況を呈しています。
ソフトバンクの「Pepper」は、「人によりそうロボット」がキャッチフレーズで、「まるで生きているかのように自ら行動します」「あなたの気持ちを理解しようと頑張ります」と説明されています。
この動画を見る限り、確かに人間と会話しているのにかなり近い感じがします。
私は、ロボット学者の夢は人間とまったく同じようにふるまうロボットをつくることだと聞いたことがあります。感情認識のできる「Pepper」は夢へさらに近づいたのかもしれません。
しかし、人間のようなロボットをつくる道はまだまだ遠いでしょう。
というのは、ロボット学者はロボットについては詳しくても、人間についてはあまり詳しくないに違いないからです。
早い話が、「人間らしさ」とはなにかということがわかっていないのではないでしょうか。それがわからないと人間のようなロボットをつくることはできません。
では、「人間らしさ」とはなにかというと、これは「ハムレット」の「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」というセリフに集約されています。
このセリフの翻訳については異論がありますが、知らない人がいないぐらいに知れ渡っているのは、誰もがもっとも「人間らしさ」を感じるセリフだからです。
これは内面の葛藤を表現したセリフですが、ただの葛藤ではありません。道徳がもたらす葛藤です。
道徳を持っているのは人間だけですから、こうしたことがもっとも「人間らしい」と感じさせるわけです。
お昼にラーメンを食べるか牛丼を食べるか、賃貸アパートに住み続けるか家を買うかということも心の葛藤ですが、道徳と関係ないので、こうした悩みに「人間らしさ」を感じることはありません。
ついよこしまな欲望に駆られて行動し、あとになって良心の呵責に苦しむ――こういうのが人間らしい悩みです。
夏目漱石の「こころ」の先生は、友人を出し抜いて意中の女性との結婚の約束をとりつけ、友人が自殺したために悩みますが、これが典型です。
つまりわれわれが感じる「人間らしさ」とは「道徳のもたらす葛藤」にこそあるのです。
しかし、世の多くの人は、「道徳的なふるまい」をすることが「人間らしさ」だと考えているのではないでしょうか。
これはまったくの考え違いです。
もしルールやマナーを完璧に守る人間がいたとすれば、われわれはそうした人間を人間らしいとは感じません。逆に非人間的と感じます。
謹厳実直な法律家などをイメージすればわかるでしょう。
自民党や文部科学省は道徳教育を強化することでよい人間をつくることができると思っているようですが、これもまったくの考え違いです。もしうまくいったら非人間的な人間ができてしまいますし、うまくいかないと反発して非道徳的なことばかりする人間ができてしまいますし、たいていは道徳との葛藤をかかえた人間ができてしまいます。
私はこのブログに「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」と掲げているように、人間は道徳を武器にして互いに生存闘争をしているのだと考えています。
動物は爪や牙を武器に生存闘争をしていますが、人間は主に言葉(道徳)を武器にして生存闘争をしているというわけです。
ネットでの議論を見ているとわかりますが、みんなが道徳という棍棒を振り回しています。
棍棒を振り回しているというよりも、棍棒に振り回されているような感じもしますが。
もちろん人間は(動物も)、生存闘争をする一方で、子どもの世話をし、仲間と助け合ったりもします。
しかし、愛情や思いやりと道徳はまったく別のものです。それを勘違いする親は、自分の子どもにまで棍棒をふるってしまいます。それのひどいのを幼児虐待といいます。
「Pepper」の開発陣は、「Pepper」に「道徳回路」を組み込んで、人間らしいロボットをつくることを目指してほしいものです。
もっとも、そうして完成したロボットは、相手を道徳的に非難することで自分が優位に立とうとする、いやな一面を持つことになりますが。