村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2014年07月

糖質制限ダイエットがブームです。
きっかけは「炭水化物が人類を滅ぼす」(夏井睦著)という本だと思われます。この本は糖質制限ダイエットのハウツー本にとどまらず、スケールの大きな文明論にもなっていて、ベストセラーになりました。
 
これまでのダイエットの常識は、やせるには摂取するカロリーをへらすべきで、そのためには炭水化物やタンパク質よりも脂肪を重点的にへらすべきだというものでした(脂肪1グラムは9キロカロリー、炭水化物1グラムとタンパク質1グラムはどちらも4キロカロリーなので)
しかし、私の実感としては、トンカツや焼肉などを食べすぎたときにそんなに体重がふえたということはなく、逆にご飯やパンや甘いものを食べすぎたときに体重がふえるということが多かったのです。
しかし、世間の常識(医学者などもこぞって肯定しているのでおそらく科学的と思われる)と自分の実感を比べたとき、自分の実感が正しいと信じるほどの勇気はありませんでした。
 
そうしたところに糖質制限ダイエットが少しずつ話題になり始め、そして、「炭水化物が人類を滅ぼす」が出版され、新書で読みやすいということもあって、すぐに買って読んでみました。
一読して納得がいきました。自分の実感とも合致していますし、科学的と思われる理論もあります。
 
糖質を摂取すると血糖値が急速に上がります(タンパク質や脂肪を摂取しても血糖値はそれほど上がりません)。そうするとインシュリンが過剰に分泌され、血糖値を下げようとします。そのとき、血糖は脂肪となって細胞に取り込まれ、太るわけです。
そして、インシュリンが過剰に分泌されたため、今度は血糖値が下がりすぎ、強い空腹感が生じます。その空腹感に耐えていれば、細胞に取り込まれた脂肪は燃焼し、太らない理屈ですが、たいていは空腹感に耐えられずに(糖質の多い)食事をして、また血糖値が上がりすぎ、インシュリンが過剰に分泌され……という繰り返しで太っていくわけです。
 
したがって、やせようと思えば、糖質を重点的にへらせばいいという理屈になります。
 
しかし、糖質制限ダイエットにはいくつかの疑問があります。
 
たとえば、「脳のエネルギーになるのはブドウ糖だけで、ブドウ糖を摂取しないと脳が働かない」という説があります。私は何度も聞きました。
しかし、「炭水化物が人類を滅ぼす」によると、これはまったく間違いだそうです。脂肪が分解されたときに生じるケトン体も脳のエネルギー源になるし、肝臓はブドウ糖を生成する能力を持っているので、ブドウ糖を摂取しなくても脳が働かなくなることはないそうです。
考えてみれば、人類は脳の働きを最大の武器にしている動物ですから、ブドウ糖を摂取しないと脳が働かないのでは生存競争に負けてしまいます。進化論的にもありえないことです。
 
「脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖だ」というような明らかな間違いが広く世間に流布していたのは驚くべきことです。
医学関係にはいい加減なことがいっぱいあります。
 
ちなみに「炭水化物が人類を滅ぼす」の著者である夏井睦医師は、「傷は絶対消毒するな」というキャッチフレーズで知られる「湿潤療法」を創始し、ケガやヤケドの手当てに革命を起こしつつある人でもあります。
「患者よ、がんと闘うな」で知られる近藤誠医師も、がんについての考え方には賛否両論があるとしても、それまで大きく切除するのが常識だった乳がん手術に「乳房温存療法」を持ち込んで、日本の乳がん治療に革命を起こした人です。
常識を打ち破るにはこうした革命家が出てこないといけないのかもしれません(ただし、糖質制限ダイエットを創始したのは夏井睦医師ではなく、糖尿病治療食として始めた江部康二医師です)
 
それから、炭水化物、タンパク質、脂肪は三大栄養素とされ、この三つをバランスよくとるべきだという常識があります(炭水化物=糖質+食物繊維ということであるようです)
炭水化物だけ制限するのではバランスが崩れることになり、そんなことはありえないと考える人が多いようです。
私自身も最初はそう思っていました。
 
しかし、「炭水化物が人類を滅ぼす」によると、人類が農耕を始めて小麦や米を食べるようになったのは1万年前くらいからで、したがって、人間の体は狩猟採集生活に適応していて、穀物、とくに精製された穀物や砂糖を食べるようには適応していないということです。
これは目からウロコの指摘です。
確かに農耕によって文明が誕生し、農耕のおかげでたくさんの人口が養えるようになったので、穀物なしの生活など考えられません。しかし、肥満に悩む人間が穀物を食べ続ける必要がどこにあるでしょうか(必須アミノ酸や必須脂肪酸はあるが、必須炭水化物はないという指摘も「炭水化物が人類を滅ぼす」にはあります)
 
それに、糖質制限ダイエットといっても糖質をまったくなくせるものではなく、必然的にある程度とれてしまうので、それが適切なバランスということかもしれません。
 
というわけで、私は「炭水化物が人類を滅ぼす」を読むとすぐに糖質制限ダイエットを始めました。
私は以前に、カロリー制限ダイエット(いわゆる普通のダイエットです)をしたことがありますが、これは要するに空腹がまんダイエットなわけです。空腹をがまんするというのはひじょうに苦痛で、長続きしませんし、やめると「がんばった自分にごほうび」という意識が働いてリバウンドしてしまいます。
 
また、空腹をがまんする生活を続けていると、体質が変わって、どんどん小食になるのにやせなくなります(私はこれを、体が「省エネモード」になるといっていましたが、「ためしてガッテン」では「飢餓モード」と呼んでいました)
そういうこともあるので、空腹がまんダイエットはなかなか成功しません。
 
糖質制限ダイエットは、タンパク質や脂肪をとることで空腹をがまんする必要がなく、そんなに努力しなくても続けられます。
 
というわけで、私の場合ですが、昨年11月末から糖質制限ダイエットを始めて、7月末の現在にはこうなりました。
 
76.5キロ→67.5キロ(身長173センチ)
 
8カ月で9キロというわけです。
かなり遅いペースですが、ほとんどがまんをせず、食べたいだけ食べているので、こんなものかなと思います。がんばる人はもっと早いペースでやせられるでしょう。
がまんをしていないので、リバウンドもないと思っています(やめてもすぐ再開できるので)
 
具体的には、ご飯、パン、麺類、芋類、甘いものを制限し、代わりにタンパク質と脂肪をふやして満足感を得るようにします。
 
最近、「食べる順ダイエット」というのがはやっていますが、これも食べる順によって血糖値を上げないようにするというダイエットです。
また、低インシュリンダイエットや低GIダイエットというのも、血糖値を上げないようにするというダイエットです。
 
今では「糖質をとると太る」というのが常識になりつつあるようです。

今さらながら「アナと雪の女王」(2D/日本語吹き替え版)を観てきました。
興行成績は250億円を越え、「千と千尋の神隠し」「タイタニック」に続く歴代3位になったというのも納得の出来でした。
 
もうすでに論じ尽くされていて、今さら私が付け加えることはないかなあと思いながらヤフー映画レビューを見ていると、ストーリーに不満な人が意外とたくさんいます。また、ほめている人も、このストーリーのほんとうのよさに気づいていないのではないかと思われます。
ということで、私のとらえ方にも独自のことがあるかなと思って、ストーリーについての自分の考えを書いてみます(以下はネタバレになります)
 
この物語は「王子さまのキスでお姫さまが救われる」という伝統的な物語の枠組みを踏襲していないので、そこを評価する人もいれば、不満な人もいるというのはわかります。しかし、この物語にはほかにも斬新なところがいくつもあります。
 
王女エルサは、触れるものは何でも凍らせる魔法の力を持っています。なぜ魔法の力を持っているかの説明はありませんし、妹のアナにそうした力はないので、持って生まれた性質、個性というしかありません。
ただ、個性とはいっても、常識で理解できる範疇を超えています。
ですからこれは、親にとっては発達障害みたいなものかもしれません。たとえばアスペルガー症候群の人は、特定の分野に驚異的な能力を発揮することがあり、それに似ています。
 
それが個性や発達障害なら親は受け入れるしかありませんが、エルサの両親は、魔法の力を危険なものととらえて、手袋をはめさせ、力を封じ込めようとします。
 
そして、エルサの両親はあっけなく海難事故で死んでしまいます。
死んでしまったあとは、すぐに忘れられてしまいます。「ご両親があなたに手袋をはめるように言ったのは、あなたを思ってのことですよ」などという面倒くさいシーンもありません。
幼い主人公の両親がこれほどあっけなく、なんの余韻もなく死んでしまう物語はこれまでなかったと思います。
 
この物語は、「王子さまのキス」に価値がないという点で画期的ですが、「親の愛」や「親の恩」に価値がないという点でも同様に画期的です。
 
エルサは親に言われた通りに魔法の力を封印しようとしますが、うまくいかず、とうとう戴冠式の日に魔法の力を暴走させてしまいます。そして、エルサは一人で山に向かいますが、そのとき、「ありの~ままで~」の歌の通りに、ありのままの自分を受け入れて生きていこうと決心し、これが前半のクライマックスになります。
 
 
しかし、エルサが魔法の力の封印を解いたために、王国が冬の世界になってしまいます。妹のアナはエルサを救い、冬を終わらせるために山に向かいますが、この時点で、どうすればエルサを救い、冬を終わらせることができるのかわかりません。エルサは自分でも魔法の力を制御することができないからです。
 
しかし、これは最終的にうまくいきます。アナは自分を犠牲にしてエルサを救おうとし、アナの愛を感じたエルサは、アナを救うと同時に、魔法の力をコントロールする術を身につけます。
ここのところは論理的にうまく説明できているとはいえず、ちょっと納得いかない感が残ります。
 
ともかく、アナの愛によってエルサは魔法の力をコントロールすることができるようになったわけですから、最初に戻って考えると、両親がエルサの魔法の力を抑えるのではなく、ありのままを受け入れていれば、エルサは魔法の力をコントロールすることができていたのではないかと想像されます。
 
つまりこの物語は、親が十分に子どもを愛することができなくても、姉妹が力を合わせて自立を勝ち取っていくことの感動を描いたものです。
 
もちろんそれだけではなく、後半は男と女の関係が中心に描かれます。
親子関係という縦軸と、男女関係という横軸から物語が成り立っているといえます。
ただ、男女関係というのは誰でも認識できますが、親子関係を認識できる人はほとんどいないので、私のこの記事が新しい認識を提供することになるかもしれないと思って書いてみました。
 
 
ところで、私はエルサが魔法の力を持っていることを発達障害にたとえましたが、発達障害に詳しい岡田尊司氏は「発達障害と呼ばないで」という著書において、「発達障害」は「非定型発達」と言い換えるべきだと主張しています。つまり「正常な発達」に対する「異常な発達」というとらえ方をするのではなく、人間にはさまざまな発達の仕方があり、その中のひとつだというとらえ方をするべきだということです。
 
また、発達障害とまではいえない普通の個性であっても、それを受け入れられない親がいて、子どもの個性を抑えつけたり矯正したりしようとしています。つまりエルサの境遇に共感できる要素は幅広く存在していて、それもヒットのひとつの理由かと思われます。

とんでもない犯罪が起こったものです。倉敷市の小学校5年女児の誘拐監禁事件のことです。世のおとなたちにとって、これほど困った犯罪はありません。
 
 
自分好みに育てたかった、と供述 倉敷・女児監禁容疑で逮捕の男
 倉敷市の小学校5年女児(11)が下校途中に連れ去られ、5日後に無事保護された事件で、監禁容疑で現行犯逮捕された岡山市北区楢津、自称イラストレーター藤原武容疑者(49)が、倉敷署捜査本部(本部長・野上幹夫刑事部長)の調べに、「少女に興味があった。自分の好きな女の子のイメージ通りに育て、将来は結婚したかった」と動機を語っていることが20日、捜査関係者への取材で分かった。
 
  藤原容疑者は昨年12月、自宅の一室を防音機能を持つ部屋に改造。外出する際などはここに女児を入れ、鍵を閉めて逃げられないようにしていたという。
 
  その一方で、「女児の関心を引くため、たくさんお菓子を与え、テレビアニメも見せていた」とも供述。女児に優しく接することで、騒がれないようになだめていたとみられる。
 
  さらに、14日午後4時半ごろ、女児の自宅近くの路上で連れ去る際、刃物のようなものを突き付け、「殺すぞ」と脅していたことも判明。捜査本部は未成年者誘拐もしくは未成年者略取の疑いでも調べる方針。
(後略)
 
 
これまでこうした異常な犯罪をするのは、たいてい若い男で、オタクで、無職の引きこもりなどでした。
しかし、この藤原武容疑者は、49歳の男で、離婚歴があるという報道もあり、一応自称イラストレーターということで無職ではないようですし、見た目にも普通の中年男です。部屋の防音工事を1000万円かけてしたということで、お金もあり、工事業者とも交渉しているわけです。また、母親は介護施設に入っているということで、それについても藤原武容疑者が身元引受人になって施設と契約したはずです。
つまり、普通に社会生活が営めているのです。
 
ですからこれは、「普通の中年男の犯罪」です。
ちゃんと社会生活を営んでいる普通の中年男に異常な犯罪心理があったということです。
 
これまでマスコミは、若者の犯罪については、オタクや引きこもりやネット依存症やゲーム依存症やアニメファンやホラーファンなどの属性を取り上げて、それと犯罪との関係についていろいろと論じてきました。
また、少年の犯罪については、犯罪被害者遺族の声を大きく取り上げ、厳罰化を主張してきました。
 
となると、今回は「普通の中年男」という属性と犯罪の関係について論じるのが当然です。また、分別盛りの中年の犯罪は、少年の犯罪よりも罪が重いはずですから、ここでこそ厳罰化を主張しなければなりません。
 
しかし、今のところマスコミはそういう主張はしていません。逆に、「家にアニメのポスターが張ってあった」とか「近所づきあいはほとんどなかった」といった報道によって、藤原武容疑者が「普通の中年男」ではないようなイメージづくりに精を出しています。
 
なぜそうなるかというと、マスコミの中心にいるのは中年男だからです。彼らは少年犯罪はきびしく追及しますが、中年男の犯罪になるととたんに甘くなるのです。
 
 
藤原武容疑者は「自分好みに育てたかった」と供述したということですが、これについてもマスコミはまったくといっていいほど追及しません。
 
「自分好みに育てたかった」ということを批判するとすれば、「他人の子どもにやってはいかんだろう」ということでしょう。しかし、それを言うと、「じゃあ自分の子どもは自分好みに育てていいのか」という反論が予想されます。
この反論にまともに答えられる人はいないはずです。ほとんどの親は、「ピアノの弾ける子にしたい」とか「思いやりのある子になってほしい」とか「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」とか、(子どもの意志を無視して)自分好みに育てようとしているからです。
 
自民党の親父たちも同じです。彼らは権利を主張する若者が嫌いなので、権利を主張せず義務だけを果たしてくれる自分好みの若者を育てようとしています。
 
藤原武容疑者は子どもを誘拐するという点で根本的に間違っていますが、「自分好みに育てたかった」という心理は、世の中のおとなたちと共通しています。
 
この事件は今でこそ騒がれていますが、すぐに報道は沈静化し、忘れられていくでしょう。マスコミは藤原武容疑者と同じ「普通の中年男」が支配しているからです。
 
 
 

7月16日深夜、TBS系の「オトナの!」という番組にゲストとして筒井康隆氏と中川翔子さんが出ていましたが(MCはいとうせいこうとユースケサンタマリアの両氏)、そこで筒井氏が戦争について語ったことにインパクトがありました。
YouTubeにアップされていたので、それを見て書き起こしてみます。
 
#052 筒井康隆 中川翔子 後編【オトナの!】
 
いとう このあとのビジョンですよ。
筒井 今この情勢を見てると、戦争が起こりそうなんだよ。次の戦争だけはちょっと見たいねえ。どういうふうにして起こるか。誤解されてもいいんだけどさ。この年になれば怖いものないからね。戦争好きなんだよ、俺。ハハハ。戦争の話が多いんですよ。
中川 多いですね。争いだしますね、人が。
筒井 やっぱりギャグはあるし、ドタバタはあるし、あんなおもしろいものはない。
ユースケ 筒井さんしか言えませんよ。
 
「戦争が見たい」とか「戦争はおもしろい」とか、確かに筒井氏でないとなかなか言えません。
私はこれまで人間には戦争好きの心理があることについていろいろ書いてきましたし、自分自身にもそれがあることを自覚しています。しかし、「次の戦争が見てみたい」とまでは言えませんでした。
 
筒井康隆氏の偉大さについては今さら言うまでもありません。たいていの作家は若くして代表作を書き、あとはその遺産で食っていくのに、筒井氏は若くしてドタバタSFで当代随一の人気作家になり、そういう自分を投げ捨てて次々と新しいことにチャレンジして、小説の可能性を広げてきました。
 
筒井氏は「戦争の話が多いんですよ」と語っています。考えてみれば、確かに筒井氏には戦争を描いた小説がたくさんあります。
 
筒井氏が初めて出版した本は、「東海道戦争」というタイトルの短編集です。この表題作は、関東と関西がなぜか戦争を始めてしまい、サラリーマンである主人公が徴兵されて戦争に駆り出されるという不条理な物語です。
 
小松左京氏のデビュー作は、「地には平和を」という、玉音放送のなかった世界で本土決戦を戦う少年兵を描いた短編です。小松左京氏は1931年生まれ、筒井康隆氏は1934年生まれで、世代的には近いですが、戦争の描き方がまったく違います。小松氏は戦争に思い入れがあり、筒井氏にそれがありません(筒井氏は裕福な家庭の生まれで、それも関係しているかもしれません)
 
筒井氏の最初の長編小説は「48億の妄想」といって、テレビというメディアがすべてを支配するようになった近未来を舞台に、竹島問題や漁業問題で悪化した日韓関係を利用して、テレビ局が擬似イベントとしての戦争を企画するのですが、韓国側は本気になって……という物語です。
このときは“擬似イベント”といっていましたが、今でいう“ヤラセ”ということでしょう。
 
「ベトナム観光公社」という短編は、直木賞候補作にもなったものですが、土星に観光旅行に行けるようになった未来社会で、主人公はベトナム観光に出かけます。そこでは、観光客のための擬似戦争が行われていて……。
 
「ベトナム観光公社」が書かれた1965年は、北爆が始まってベトナム戦争が本格化した年ですが、そのときすでにベトナム戦争を茶化した小説を書いていたわけです。
 
そう、筒井氏の戦争の描き方は一貫して、戦争を茶化し、笑いのめすというものです。
筒井氏にとって戦争とは、人間の愚かさが集約されたものなのでしょう。
ですから、「次の戦争だけはちょっと見たいねえ」という言葉が出てくるのも、筒井氏にとっては自然な発想でしょう。
 
 
ここで、今の集団的自衛権を巡る議論を振り返ると、みんなまじめすぎるのではないかと思います。
 
たとえば、日本人を乗せた米艦を自衛艦が救助するというような、ありえない例え話を持ち出したり、みずから望んで「駆け付け警護」をしたがっているような姿勢とか、アメリカも困り顔をしているのではないかというような状況は、むしろ笑うのが正しいはずです。
 
戦争というのは、真剣に反対する人がいればいるほど、やるほうもやる気をかき立てるものではないかと思います。
どんなことでも、見世物にされ、笑われていると、やる気がなくなります。
 
そういうことを考えると、「次の戦争だけはちょっと見たいねえ」という筒井氏の言葉は、いちばん効果的な反戦の言葉かもしれません。
 

原子力規制委員会は7月16日、川内原発について、安全対策は新規制基準を満たしているとする「審査書案」を公表しました。読売新聞などは「合格」といった言葉を使って報じています。
 
原子力規制委員会の判断についてはすでにいろいろな批判がありますから、私は別の角度から意見を述べてみたいと思います。それは、「安全」という言葉の使い方についてです。
 
もともと政府は、「安全が確認された原発から再稼働させる」と繰り返してきました。これは2月28日の衆院施政方針演説で安倍首相が述べたことでもあります。
「安全が確認される」というときの「安全」は、「100%の安全」とか「完璧な安全」という意味ではないはずです。
つまり「安全」というのは程度問題であると思うのです。
ですから、これは本来数値化できるはずです。
 
たとえば、ダムや堤防の建設が計画されるときは、「30年に一度の大雨に備えて」といった表現がされます。「50年に一度の大雨」や「100年に一度の大雨」というのもありますし、八ッ場ダムのときは「200年に一度の大雨」という表現がありました。
 
川内原発についても、「九電は想定する最大の地震の揺れ(基準地震動)を申請時点の540ガルから620ガルに引き上げた」という報道があります。
ですから、これは本来、「○○年に一度の大地震でも大丈夫」という表現ができるはずです。○○年のところに入る数字は、500年か1000年か2000年か1万年かわかりませんが。
 
原発事故の原因は地震だけとは限らず、ほかの自然災害、人為的ミス、テロなどもありますから、最終的に安全性は「○○年に一度の事故発生率」というように表現されるはずです。
 
もっとも、具体的な数字で示すのはむずかしいかもしれません。しかし、その場合は、ほかとの比較で表現することができます。たとえば、「A原発はB原発より1.5倍事故発生率が高い」とか、「もっとも安全性が高いのはA原発で、次はB原発、その次はC原発である」とかです。
 
そのように各原発の安全性(危険性)を把握した上で、避難計画はできているかとか、事故が起きた場合の周辺への影響などを考慮すればいいのです。たとえば浜岡原発は事故が起きた場合東海道を分断するので、順位は低いとか。
 
つまり政府がどうしても原発を稼働させたいなら、原子力規制委員会は原発をひとつひとつ審査して合格・不合格を判定するのではなく、総合的に判断して比較的安全な原発を選び出し、政府が政治的判断によっていくつかの原発を稼働させるというのが正しいやり方です。
 
「安全」というのは「100%の安全」ではないので、そこは政治的判断でなければなりません。
原子力規制委員会の田中俊一委員長も記者会見で「基準への適合は審査したが、安全だとは私は言わない」と語っています。
 
安倍首相や菅官房長官が「安全が確認された原発から再稼働させる」という言い方をするのは、専門家に責任を負わせる卑怯なやり方ですし、新聞記者が誰一人、「それは100%の安全という意味ですか」と聞き返さないのは不思議でなりません。依然日本全体が“原発安全神話”から抜け出せていないということでしょうか。
 

集団的自衛権を巡る議論において、「集団的自衛権行使は正義だ」とか「正義の行動ができなくていいのか」という主張はほとんど聞きませんでした。
代わりによく聞いたのが「仲間が攻撃されているときに助けなくていいのか」という論理です。
このような「仲間主義」というのはヤンキーの行動原理でもあります。
 
自民党、とりわけ安倍政権はヤンキー化しているという「自民党ヤンキー論」を最初に唱えたのは、精神科医の斎藤環氏であるようです。
 
斎藤氏の「自民党ヤンキー論」の要点がわかるサイトはこちら。
 
誰の心にもヤンキーはいる。
 
 
もともと集団的自衛権というのはデタラメなものなので、説明のしようがありません。
ただ、個別的自衛権は個人における正当防衛と同じなので、誰でもわかります。そこで、正当防衛の延長として集団的自衛権を説明しようとしたので、「仲間を助ける」という論理を持ち出したのでしょう。
 
集団的自衛権までヤンキー式に説明する自民党は、ついに道徳教育にまでヤンキー式を持ち込むようです(そういえば“ヤンキー先生”も自民党議員でした)
 
文科省、ドラマ「HERO」ポスターで道徳教育PR
 文部科学省は、SMAPの木村拓哉さんが主演するフジテレビ放映のドラマ「HERO」とタイアップし、道徳教育をPRする。出演者の写真とともに「みんなで考えよう、本気で生きるってこと」などと書いたポスター約4万部を全国の小中高校、特別支援学校などに配布する。同省は「ドラマの内容には関与しない」と説明している。
 
 「HERO」は2001年に放送されたドラマの続編。木村さん扮する検事が真実に迫ろうとする内容だ。タイアップは、フジテレビ側から提案があり、文科省が了承した。同省は主人公の社会正義を追求しようとする姿が、「人としてどうあるべきか。自分はどう生きるべきか」という道徳教育のテーマと共通すると判断。ポスターの文言は「押しつけと受け取られないようなメッセージを、省内で考えた」という。
 
 国が作った教材「私たちの道徳」を小中学校で使ってもらおうと、内容を紹介するチラシも各校に配る。今後、ドラマの出演者が参加するイベントも企画。文科省のホームページに特設サイトも作る予定だ。
 
 下村博文文科相は8日の会見で「タイアップによって道徳教育への理解、関心が高まることを期待している」と述べた。(杉原里美)
 
 
木村拓哉さん扮する主人公は、型破りの検事です。
ウィキペディアの「「HERO」の項目にはこのように書かれています。
 
「最終学歴は中卒。高校中退後、大検を経て司法試験に合格、希望通り検事に任官した」
「過去に友人を庇って起こした傷害事件で逮捕されたことがあり、その際黙秘を通していたが、(黙秘をしていなければ正当防衛になった可能性もある)不起訴処分を受けている」
 
経歴も、仲間をかばって黙秘するという行動原理もヤンキーそのものです。
 
また、つねにジーンズにダウンジャケットという服装で、みずから現場に出向いて捜査しますが、こういうのも現実にはありえないことです。
 
刑事ドラマも型破りの刑事が出てきて、現実にありえないようなものばかりです。「明日、ママがいない」のときは、児童養護施設について誤解を招くということで激しく抗議されましたが、警察司法についてのドラマはデタラメがまかり通っていて、むしろそれが賞賛すらされているのは不可解です。
 
それはともかく、文部科学省が「HERO」とタイアップして道徳教育のPRをするとは驚いた話です。
この主人公は友人をかばって黙秘を通すような人間ですが、そうすると、教室でイジメがあって教師が生徒に事情を聞こうとしたとき、イジメっ子同士がかばい合うことを文部科学省は肯定するのでしょうか。
また、ジーンズにダウンジャケットの検察官が許されるなら、各学校でもそれぞれの好きな服装を着ることが許されるのでしょうか。
学校内の秩序がなくなるのではないかと心配になります。
 
それから、ポスターには「みんなで考えよう、本気で生きるってこと」という言葉が入るようです。
念のためにフジテレビのホームページでも確認してみました。
 
ドラマのポスターデザインと共通ビジュアルでの文部科学省とのタイアップバージョンポスターが完成!全国の、小、中、高校合計40000校のもとへ配布を既に開始しています。各校に掲示されるポスターを通じて、子どもたちが『HERO』とともに道徳教育を学ぶきっかけに!
キャッチコピー “時代は変わったこの男はどうだ”に呼応して、タイアップバージョンでは“時代は変わる! 君たちはどうする?”というテーマを提示。“『正義』って何だ?『真実』って何だ?みんなで考えよう、本気で生きるってこと”と子供たちに問いかけます。
 
「マジで生きる」というのは、ヤンキーが勢いで言いそうな言葉ではあります。
しかし、文部科学省が「本気で生きる」という言葉を使っていいのでしょうか。
「本気で生きる」という以上、「本気で生きない」という状態も想定しているはずです。ということは、文部科学省は、人間は「本気で生きない」ことがあると思っているのでしょう。文部科学省の人間観が心配です。
 
仲間主義で生きるヤンキーと、社会体制や学校秩序を第一とする自民党や文部科学省が相容れるわけがありません。
「HERO」をPRに使うということは、道徳教育そのものがデタラメであるということです。
 
 
集団的自衛権もまた仲間主義とは相容れません。
日本が韓国や台湾やフィリピンやベトナムと手を組んで中国と対抗していこうというのなら、それは仲間主義かもしれませんが、現実の集団的自衛権行使は、アメリカに協力することを意味しています。
いうまでもなくアメリカはスーパーパワーで、日本とは親分子分の関係みたいなものです。山口組の系列の、それも外様の組が、なんとか山口組の親分に気に入ってもらうために武闘路線に切り替えようとしているというのが適切な比喩です。
ヤンキーの生き方とはまったく違います。
 
自民党がヤンキー的だというのは、ヤンキーにとって失礼な話です。

この前、イギリス旅行をしてきましたが、ロンドンで泊まったホテルのすぐ近くにトラファルガー広場があり、ネルソン記念柱が立っています。これは高さ46メートルの大理石の柱の上に5.5メートルのネルソン提督の銅像があるというものですが、あまりにも高いので銅像自体はよく見えません。
トラファルガー海戦でナポレオン指揮下のフランス・スペイン連合艦隊を破ったネルソン提督は国の英雄です。
ちなみにベトナムのホーチミン市のホテルに泊まったときは、ホテルの前の広場にやたら大きな銅像が立っていましたが、それは13世紀における元寇を3度にわたって撃退したチャン・フン・ダオ将軍というベトナム救国の英雄です。
 
日本では軍人の英雄の銅像を目立つところに立てるという習慣がないようです。
しかし、考えてみると、その代わりにあるのが東郷神社であり、乃木神社です。
軍神広瀬武夫中佐を祭神とする広瀬神社も大分県竹田市にありますし、児玉源太郎大将を祭神とする児玉神社は神奈川県藤沢市と山口県周南市にあります。
当然、靖国神社も同列です。
 
イギリスでは、あちこちで軍人の銅像や戦争の記念碑を見かけました。第二次大戦のものはもちろん、第一次大戦のもの、ボーア戦争のもの、スコットランド独立戦争のものなどがありました。
ボーア戦争の記念碑は兵士の群像となっていました。これという英雄がいないからかもしれません(ボーア戦争でイギリス軍は大きな痛手をこうむり、大英帝国衰退のきっかけとなりました)
日本ではこうしたものが靖国神社としてまとまっていると考えるといいのではないでしょうか。
 
靖国神社をアーリントン墓地などにたとえることがよく行われていますが、これは違うと思います。
 
今年の5月、「報道ステーション」で、フランスのヴェルダンの戦士の墓の前で古舘伊知郎氏が生放送をしたことがあります。
ヴェルダンは第一次世界大戦の激戦地で、そこは広大な敷地にただ十字架が並ぶだけの墓地ですが、十字架の数の多さを見ると、粛然とせざるをえません(そこは無名戦士の墓でなく記名戦士の墓だったようです)
靖国神社とはまったく異質な感じです。
 
靖国神社は宗教施設ですから、追悼の施設と考えがちですが、むしろネルソン記念柱やボーア戦争記念碑の類、つまり戦勝記念施設、戦功や武勲をたたえる施設と考えるべきです。
それは遊就館の中身を見てもわかります。
 
日本においては、戦死者の追悼は各家でたいていは仏式の葬儀、納骨、墓参として行われており、さらには国立千鳥が淵墓苑もありますし、各地に立てられた慰霊碑もありますし、8月15日に全国戦没者追悼式も行われています。
追悼は死者に対して行うもので、靖国神社にいるのは英霊です。
もちろん靖国神社に追悼の思いを持って参拝する人もいるでしょうが、英霊に対して追悼するのは筋違いです。
 
安倍首相は靖国神社参拝に際して、「国のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対して尊崇の念を表し」と言いますが、これは靖国参拝の正しい態度です。
しかし、昨年12月に靖国神社参拝をしたとき、「不戦の誓いをいたしました」とも語りました。これは正しい態度とはいえません。
また、靖国神社をアーリントン墓地にたとえるのも間違いです。たとえるならネルソン記念柱とかワシントンDCにあるワシントン記念塔(アメリカ陸軍を率いて独立戦争を勝利に導いたジョージ・ワシントンの功績をたたえたもの)がいいでしょう。
 
今後、安倍首相が靖国神社を参拝するときは、「必勝を祈願した」とか「武運長久を祈った」と語ると、これまでのような混乱はなくなって、すっきりすることは確かです。

イギリスへ旅行していたので、しばらくブログの更新を休んでいました。
エジンバラ4泊、ロンドン2泊の旅です。ロンドンは2度目なので、エジンバラがメインになっています。
 
私が旅行している間に、予想通り安倍内閣は集団的自衛権行使容認を閣議決定しましたが、日本を離れていると客観的に見られるような気がしました。
 
ヒースロー空港とエジンバラ空港では、ゲートを通るときに、「一歩下がって(実はそこに立ち位置を示す足型が描いてある)、この明かりを見ろ」と言われます。いわゆる虹彩認証というやつです。
日本人は比較的スムーズにゲートを通れますが、靴を脱がされている人もけっこういます。
たぶんアメリカ、イスラエル、イギリスは空港のテロ対策が世界でもっともきびしいでしょう。
 
ホテルのテレビで主にBBCを見ていたら、爆弾テロリストのニュースをずいぶんやっていました。アルカイダのテロリストが空港の検査で発見しにくい爆弾を開発したということでした。帰国してからニュースサイトで確かめると、爆弾は外科的な手術で体に埋め込まれて、金属探知機や化学物質探知機でも発見しにくいということです。
 
「人体内に爆弾」の恐怖、アルカイダの爆弾専門家に各国が警戒
 
今、世界で行われているのは「テロとの戦い」です。
ところが、安倍首相の頭の中にはそのことがまったくなさそうです。日本が輸入する石油の8割は中東からだから機雷の掃海をしないわけにはいかない、という話をしていましたが、今後、アメリカと戦争する国が機雷を敷設するという状況があるとは思えません。アフガン戦争とイラク戦争を見て、正規軍でアメリカと戦うことの無意味さは誰の目にも明らかになり、反米勢力の戦い方はゲリラとテロにシフトしているからです。
 
日本が「テロとの戦い」に巻き込まれると、テロ攻撃の対象になります。そのため、空港の検査をきびしくするなどの不利益が生じます(ヒースロー空港の入国審査の前は大行列で、30分以上待たされました)
いや、空港だけの問題ではありません。日本でいちばんテロ攻撃に対して脆弱なのは新幹線です。大きなスーツケースに爆弾を詰めて新幹線に乗り、自分だけ降りて最高速度に達したときに爆発させれば自爆することもなく大きな被害を与えられます。これを防ぐにはすべての乗客に対して空港並みの持ち物検査をしなければなりませんが、そんな面倒なことは考えたくもありません。
日本でのテロというと原発テロが警戒されますが、簡単にできて大きな効果があるという点で新幹線テロのほうがより可能性があります。
 
また、タンカー輸送を軍事力で守るという安倍首相の発想は、第二次大戦においてイギリスの輸送船団をドイツ軍の攻撃から守った戦いを連想しているのかもしれませんが、あのときは輸送船も命懸けで航海していたわけで、今果たして命懸けでタンカーを運行する船会社や乗組員がいるのか疑問ですし、そもそも日本は5カ月余り分の石油備蓄量を持っているのですから、そんな長期にわたってタンカー運行ができなくなる状況も考えにくいことです。
 
要するに安倍首相の頭の中は、湾岸戦争当時と第二次大戦当時のことばかり詰まっていて、今の状況にはまったく適応できていないのです。
 
 
なぜそうなるかというと、ひとつには湾岸戦争のときの外務省のトラウマがあるからでしょう。今回の解釈改憲を主導したのは外務省だとされています。
そして、もうひとつは、日本の右翼の戦前回帰志向があるからだと思います。
 
明治以降の日本は、日清、日露戦争の勝利、満州国の建設など、日本軍の働きによって発展してきた面が多々あったわけで、軍は圧倒的に国民の支持を得ていました。五・一五事件や二・二六事件のときも、国民は犯人の軍人に対してきわめて同情的でした。しかし、その軍に引きずられて日本は悲惨な敗戦を味わったわけです。
しかし、敗戦は一度だけです。それなのに憲法を変えられ、「国の形」を根本から変えられてしまったわけで、これを屈辱と感じて、「国の形」を元に戻したいと考える人もいます。
一方、敗戦の悲惨さが身にしみて、元には戻りたくないという人もいます。
敗戦後の日本は、戦前に回帰したい右翼勢力と、戦前に回帰したくない左翼勢力がずっと角を突き合わせてきたわけです。
 
雄のシカは互いに角を突き合わせて戦いますが、ときに角がからまって抜けなくなることがあり、場合によっては抜けないために死んでしまうこともあるそうです。
今の日本は、そんなシカを連想させるような状況です。
 
ということは、安倍首相ら右翼勢力も時代錯誤なら、それに反対する左翼勢力も時代錯誤です。
 
たとえば、7月2日の朝日新聞朝刊に『「強兵」への道許されない』という解説記事が載っています。
 
「強兵」への道 許されない 編集委員・三浦俊章
 
この主張もなんかへんです。安倍内閣は防衛費を増額しましたが、ごくわずかな額ですし、そもそも1000兆円の借金のある国が「強兵」への道を歩めるわけがありません。せいぜい安倍内閣のやっていることは「強兵ごっこ」というところです。
しかし、「強兵ごっこ」を「強兵」と高く評価するので(安倍首相にとっては高く評価されたことになります)、安倍首相はますますやる気になるかもしれません。
安倍首相を支持する人たちも、「強兵」をよいことだと思っているわけですから、この記事はそういう人たちにはなんの説得力もありません。
 
つまり戦前回帰に反対する人たちはこれまで、「教え子を戦場に送るな」「逆コース」「きなくさい」「軍靴の響きがする」などという紋切り型の表現しかなく、なぜそれがだめなのかを説明してきませんでした。
「憲法9条を守れ」というのも同じです。なぜ憲法9条を守るべきなのかを説明しなければ、若い人を説得できません。
 
安倍内閣が時代錯誤の暴走をするのは、それを批判する側も同じように時代錯誤だからです。
 
そして、結局のところ、安倍内閣の時代錯誤はたいしたことにはつながらないでしょう。日本だけの“一国時代錯誤”は不可能だからです。

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