村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2014年08月

ウクライナやパレスチナやイラクやリビアから戦争のニュースが連日入ってきますが、日本国内からも安倍首相の活躍()によって戦争関係のニュースが次々と発信されています。おかげで戦犯を追悼する法要が毎年大規模に行われていたということを初めて知りました。
 
首相、A級戦犯ら法要に哀悼メッセージ「祖国の礎に」
 安倍晋三首相が4月、A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で哀悼メッセージを書面で送っていたことが朝日新聞の調べで分かった。連合国による裁判を「報復」と位置づけ、処刑された全員を「昭和殉難者」として慰霊する法要で、首相は「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と伝えていた。
 
 メッセージを送ったのは高野山真言宗の奥の院(和歌山県高野町)にある「昭和殉難者法務死追悼碑」の法要。元将校らが立ち上げた「追悼碑を守る会」と、陸軍士官学校や防衛大のOBで作る「近畿偕行会」が共催で毎年春に営んでいる。
 
 追悼碑は連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」とし、戦犯の名誉回復と追悼を目的に1994年に建立。戦犯として処刑されたり、収容所内で病死や自殺をしたりした計約1180人の名前が刻まれている。靖国神社に合祀(ごうし)される東条英機元首相らA級戦犯14人も含む。
 
 守る会によると今年は4月29日に遺族や陸軍士官学校出身者、自衛隊関係者ら約220人が参列。高野山真言宗トップの松長有慶座主がお経を唱えた。地元国会議員にも呼びかけ、自民党の門博文衆院議員(比例近畿)が出席した。
 
 首相のメッセージは司会者が披露。「今日の平和と繁栄のため、自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉職者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げる」とし、「今後とも恒久平和を願い、人類共生の未来を切り開いていくことをお誓い申し上げる」とした。
 
 守る会や関係資料によると、追悼碑建立は終戦後のフィリピンで戦犯容疑者として収容所に抑留され、嫌疑が晴れて復員した元陸軍少尉の発案だった。「冤罪(えんざい)で処刑された例が多い」との思いから、元将校や処刑された軍人の遺族らに寄付金を募って建立。元少尉が真言宗を信奉していたため高野山を選んだという。
 
 94年の開眼法要にはA級戦犯を合祀する靖国神社から大野俊康宮司(当時)が参列。靖国神社によると、その後は宮司は参列せず電報を送っているという。
 
 安倍首相は昨年と04年の年次法要にも主催者側の依頼に応じ、自民党総裁、幹事長の役職名で書面を送付。昨年は「私たちにはご英霊を奉り、祖国の礎となられたお気持ちに想いを致す義務がある」「ご英霊に恥じることのない、新しい日本の在り方を定めて参りたい」と伝えていた。
 
 守る会などによると、安倍首相には地元国会議員の事務所を通じてメッセージを依頼した。首相経験者では森喜朗氏が首相退任後に一度衆院議員の肩書で送付してきたが、ほかに例はない。今年は岸田文雄外相にも依頼したが、承諾を得られなかったという。
 
 安倍首相の事務所は取材に「お答えするつもりはない」、自民党総裁室は「党としては関与していない」と答えた。(鈴木拓也、渡辺周)
 
B級、C級戦犯には、上官の命令でやったのに罪を着せられたとか、いい加減な審理で無実なのに有罪にされたとか、気の毒なケースもありますが、この法要を主催した団体や安倍首相は、戦犯裁判そのものを否定しているようです。
 
ということは、アメリカの占領政策に対する否定ということになります。
安倍首相はアメリカと価値観をともにすると再三言明していますが、明らかに矛盾しています。
もっとも、この矛盾は昔からです。安倍首相に限らず親米右翼はみんな同じ矛盾を持っています。
 
こうした矛盾が存在するのは、安倍首相や親米右翼がアメリカという国をよく理解していないからだと思われます。
たとえば、この法要は連合国による裁判を「報復」と位置づけているということですが、この認識は明らかに間違いです。
 
アメリカは真珠湾攻撃を受けたときは報復を誓い、その後の戦争でも報復という意識はあったでしょうが、都市爆撃をし、原爆も落としたので、報復は十分に成し遂げたと思ったはずです。裁判はあくまで「報復」ではなく「正義の裁き」です。
「日本は犯罪国だからアメリカが裁くのは当然」というのがアメリカの論理です。
 
ところが、日本の右翼は戦時国際法にこだわっているので、アメリカの論理が理解できません。
日本の右翼は戦時国際法について誤解しています。
 
19世紀までヨーロッパでは、国と国が対立して外交で決着がつかない場合、決闘のようにして戦争が行われていました。決闘は作法に従って行われますが、それと同じに戦争は戦時国際法に従って行われ、国はそれぞれ交戦権を認め合ってきたわけです。
ところが、第一次世界大戦があまりにも悲惨だったため、ここで根本的にルールが変わります。1928年にパリ不戦条約が締結され(日本も参加)、国際紛争を解決する手段としての戦争は禁止され、交戦権も放棄されました。ただ、侵略された場合に戦う自衛権は認められました。
ですから、このときから「犯罪としての侵略戦争」と「正義の自衛戦争」に分かれたことになります
そして、ハーグ陸戦条約のような戦時国際法もほとんど無効になったと考えられます。
 
そうすると、真珠湾攻撃を仕掛けた日本は「犯罪としての侵略戦争」をやったことになり、正義の名のもとに裁かれるのは当然です。
 
もっとも、罰則などは決まっていないので、日本の右翼は「事後法によって裁かれたのは不当だ」と主張しますが、ナチスドイツや軍国主義日本のような想定外の“巨悪”が出現した場合は、事後法禁止というルールの変更は当然だというのがアメリカなどの考えでしょう(欧米はルールを変えるは当たり前だと考えており、日本はルールが変えられるものだという発想がない)
 
ともかく、アメリカはつねに「正義の戦争」をやっているつもりなのです。
 
今またアメリカは「正義の戦争」宣言をしました。
 
殺害犯に「正義の鉄つい」=イスラム国打倒へ決意-米大統領
 【ワシントン時事】オバマ米大統領は26日、ノースカロライナ州シャーロットで演説し、イラクとシリアで勢力を広げるイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が米国人ジャーナリストを拘束、殺害した事件を受け「正義の鉄ついを下す」と述べ、容疑者を必ず捕らえると宣言した。
 
 大統領は退役軍人会の全国大会で行った演説で、「われわれが長い腕を持ち、忍耐強いことを忘れてはならない」と強調。「米国人に危害を加えた人間を追い詰め、捕らえるために必要なことを行う。国民と国を守るのに必要なら、引き続き直接的行動を取る」と表明した。(2014/08/27-06:57
 
 オバマ大統領が言っているのは、東京裁判の論理と同じです。
安倍首相はオバマ大統領の言っていることについてどう思うのでしょうか。

「野蛮」や「野蛮人」という言葉を使うのはヘイトスピーチになるはずです。アマゾン奥地やニューギニア高地で昔のままの生活をする人たちを「野蛮人」と言うことは許されません。「未開人」というべきです。
 
ところが、このところ国際政治の世界で「野蛮」という言葉が飛び交っています。
きっかけは、オバマ大統領のハマスに対する発言ではないかと思います。
 
米、「野蛮な攻撃」とハマス非難 ガザ停戦崩壊
【AFP=時事】米政府は1日、パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)の停戦が発効から数時間で終了したのは、ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)が「野蛮な攻撃」を行ったためだとしてハマスを非難した。
 
 バラク・オバマ(Barack Obama)米大統領は急きょ開いた記者会見で、ハマスが武器を置き、停戦の約束を守る姿勢を本気で示さない限り、新たな停戦は「非常に難しいだろう」と述べた。
 
 米国は、ハマスの発射するロケット弾に対するイスラエルの自衛権を強く支持する姿勢を示してきたが、ここ数日はパレスチナ側死傷者の増大に懸念も示していた。先月30日に国連(UN)の運営する学校がイスラエル軍に砲撃され16人が死亡したことについては、米当局者から、イスラエル側に過失があったとする発言まで出ていた。
 
 しかし1日、ハマスがイスラエル兵2人を殺害し、もう1人を拉致したと報じられたことを受けて、米政府はイスラエルを強く支持する姿勢を改めて示し、オバマ大統領は拉致された兵士の解放を要求した。同時にオバマ氏は、罪のない市民が戦闘に巻き込まれて死亡していることが良心に重くのしかかっていると述べ、市民を保護する努力を強めるべきだとも述べた。
 
この記事では明確ではありませんが、「野蛮」という言葉を口にしたのはオバマ大統領自身であるようです。
 
そして、おそらくこの言葉を意識したのでしょう、今度はトルコのエルドアン首相がイスラエルに対して野蛮という言葉を使いました。
 
「ヒトラーより野蛮」 イスラエルにトルコ首相
トルコからの報道によると、同国のエルドアン首相は19日、支持者への演説で、パレスチナ自治区ガザ攻撃を拡大するイスラエルについて「ヒトラーを昼夜非難する者が、野蛮さでヒトラーを超えた」と激しく批判した。
 
 ヒトラーによる大量虐殺の被害者であるユダヤ人が建国したイスラエルの反発は必至。
 
 両国関係は2010年にイスラエル軍がガザ支援船を急襲してトルコ人乗船者を射殺した事件で極度に悪化。イスラエルのネタニヤフ首相が昨年、エルドアン氏に謝罪したことで正常化に向かいつつあったが、再び冷え込みそうだ。
 
 エルドアン氏は8月の大統領選に出馬を決めており、有権者の反イスラエル感情に訴えることで支持を広げる思惑があった可能性もある。(共同)
 
ここまではイスラエル対ハマスの問題ですが、イスラム国がアメリカ人ジャーナリストを“処刑”したことで「野蛮」の範囲が広がります。
 
米国人記者の処刑映像か=「イスラム国」が公開
 【ワシントン時事】米メディアは19日、イラクやシリアで勢力を拡大するイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が同日、シリアで消息を絶っていた米国人ジャーナリスト、ジェームズ・フォーリー氏とされる人物を処刑する映像を公開したと一斉に報じた。米軍の空爆に対する報復とみられる。
 
 フォーリー氏は2012年11月、シリア北部で取材活動中に行方不明になった。米国家安全保障会議(NSC)のヘイデン報道官は映像公開を受けて声明を出し、真偽の確認を急いでいると述べた上で、「本物であるなら、野蛮な殺人行為で衝撃的だ」と非難した。オバマ大統領は、休暇先に向かう専用機内で映像について説明を受けた。
 イスラム国は米国人男性をもう1人捕らえており、米政府の行動次第では命はないと警告。一連の主張が事実であれば、イスラム国への空爆を始めたオバマ大統領は、難しい判断を迫られることになる。
 映像は「米国へのメッセージ」というタイトルで、ソーシャルメディア上に投稿された。フォーリー氏を名乗る白人男性はこの中で、「これから私の身に起こることは、米国の独善と犯罪行為の結果だ」と発言。黒い服を着た覆面姿の男がその後、男性の首を切って殺害した。
 映像にはさらに、もう1人の白人男性が登場。男が「オバマよ、この米市民の命はお前の次の決定次第だ」と語った。男性は、13年にシリアで連絡を絶った米国人ジャーナリスト、スティーブン・ソトロフ氏の可能性がある。(2014/08/20-11:14
 
このときは報道官の発言ですが、続いてヘーゲル国防長官も発言します。
 
「イスラム国、ただのテロ集団でない」 米国防長官
 ヘーゲル米国防長官は21日、記者会見で、イラクやシリアで勢力を広げる過激派組織「イスラム国」について、「これまでのどの集団よりも洗練され、資金力もある」などと述べ、国際社会にとって大きな脅威になるとの認識を示した。「あらゆる事態に備える必要がある」として、警戒を強める方針も明らかにした。
 
 ヘーゲル氏は、イスラム国の特徴について、野蛮な思想と洗練された軍事力、潤沢な資金を併せ持つことを挙げ、「ただのテロ集団ではない」と指摘。イラク北部の拠点を狙った米軍による空爆で一時的に勢いを失っているものの、すぐに態勢を立て直して反撃にでてくると見通し、「明らかに切迫した脅威になっている」などと語った。
 
 また、イラクでの事態の収束には長期化が避けられないとの見方を示し、宗派や民族の枠を超えた包括的な政治体制の樹立に加え、長期的な戦略に基づく米軍の支援が欠かせないとして、国際社会に協力を呼びかけていく方針も示した。(ワシントン=小林哲)
 
どうやら「野蛮」という言葉が当たり前に使われる時代になったようです。
 
もともとのきっかけをつくったのはブッシュ大統領ではないかと思います。ブッシュ大統領は9.11の直後、「野蛮」という言葉を口走りました。調べてみると、このようなことでした。
 
 思えば、昨年の九月十一日、アメリカに同時多発テロが起きました。二十一世紀の初頭に起きたこの悲劇は、まさしく私たちがいま何処にいるかを、剥き出しにして見せる出来事ではなかったでしょうか。この惨事の翌日、ブッシュ大統領が声明を発表しました。そこに如何なる言葉があったか。ブッシュ氏は、現代世界最大の強国アメリカの大統領です。その彼が言ったのでした。「文明対野蛮の戦い」が始ったと。またそこでは「新しい戦争」という言葉も使われていました。そして、その戦いを「善と悪の戦い」と規定して、アメリカは善の側に立って悪をたたきのめす、という意味のことを述べていたわけです。
(『今深く真実のいのちをみつめる』 高 史明)
 
私の記憶では、「文明対野蛮」というブッシュ大統領の発言には批判もかなりありました。ですから、これはいわゆる“ブッシュ語”で、ほかの政府要人は「野蛮」という言葉を使わなかったはずです。
 
ところが、今になってまるで堰を切ったように「野蛮」という言葉が使われています。世の中の価値観が変わってきたようです。
 
しかし、考えてみれば、相手を「野蛮」と見なすのは文明の本質みたいなものです。古代中国も古代ギリシャ・ローマも周辺民族を蛮族と見なしていましたし、アメリカ合衆国は先住民を蛮族、黒人を動物と見なしていました。
蛮族との戦争にルールはありません。好き勝手に殺戮し、略奪し、奴隷にします。
 
戦時国際法という戦争のルールができたのは、価値観をともにするヨーロッパ諸国の間においてでした。「ルールのある戦争」というのは人類の歴史の中でも特殊なものです。
日本も日露戦争と第一次世界大戦のときは戦時国際法に合わせていましたが、それ以降はルール無視の戦争をしています。
 
そして今、相手を「野蛮」と見なすことで、ルール無視の戦争が行われる時代になりました。
この戦争では、「非戦闘員を攻撃しない」とか「捕虜を人道的に扱う」というルールもありません。
こちらが捕虜を人道的に扱うのは、相手も同じことをしてくれるだろうという期待があるからですが、相手が「野蛮」であるなら、そんな期待は持てません。
 
 
安倍政権は集団的自衛権行使容認によって戦争に参加する機会をねらっているようですが、ルール無視の戦争に突っ込んでいくのだということがわかっているのでしょうか。
安倍首相や右翼の言うことを聞いていると、その頭の中にはいまだに戦時国際法による古い戦争観が生き続けている気がします。
 
安倍首相は、価値観外交といって、自由、民主主義、基本的人権、法の支配という価値観をともにする国々と連携していくと言っていますが、相手を「野蛮」と見なす価値観についてはどう考えているのでしょうか。
まあ、たぶんなにも考えていないでしょう。

朝日新聞が慰安婦問題について誤報を認めました。「慰安婦」と「女子挺身隊」の混同とか、慰安婦20万人という数字に根拠がなかったことなどもありますが、重要なのは、吉田青治氏の証言について、「吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした」と認めたところでしょう。
証言の裏付けを取らずに繰り返し報道したというのは大いに問題です。また、誤報を認めて訂正はしましたが、謝罪の言葉がないというのも、常識に欠けた態度です。
 
ですから、朝日新聞を擁護する気持ちはぜんぜんないのですが、朝日新聞を批判する声がやたら大きいので、そちらに対してひと言いいたくなりました。
朝日新聞はとにかく間違いを認めて、英語版の記事も同社のホームページにアップしたので、ボールはこれまで朝日新聞を批判していた側に渡ったわけです。朝日新聞を批判していた側はなにをしたでしょうか。
 
「朝日新聞を批判していた側」というのは面倒なので、単に「右翼」ということにしますが、右翼はこれまで朝日新聞の誤報が日本をおとしめてきたと主張してきました。とすると、今度は日本の名誉回復をはからなければなりません。
しかし、私の知る限りでは、右翼は海外になにも発信していません。もっぱら国内で騒いでいるだけです。
それは次の記事からもわかるでしょう。
 
 慰安婦問題「新たな談話を」 自民、政府に要請へ
2014/8/21 19:32
 自民党は21日の政務調査会の会議で、戦後70年にあたる来年に、従軍慰安婦問題に関する新たな官房長官談話を出すよう政府に求めることを決めた。高市早苗政調会長が来週にも菅義偉官房長官に要請する。高市氏は政府が公表した河野談話の検証結果を踏まえ「事実に基づく新たな談話を発出してほしい」と述べた。党本部で記者団の質問に答えた。
 
 会議では出席者から「海外へ慰安婦問題の検証結果の発信を強化すべきだ」との意見が相次いだ。朝日新聞が従軍慰安婦を巡る報道の一部を取り消したことについても意見交換し「関係者を国会に招致すべきだ」との声が上がった。
 
「海外へ慰安婦問題の検証結果の発信を強化すべきだ」との意見が相次いだのは、もちろん少しも発信できていないからでしょう。
海外へ発信できないから、もっぱら国内で朝日新聞批判をしているということになります。
 
なぜ海外に発信できないかというと、いろいろな理由があります。
そもそも強制連行があったかなかったかを問題にしているのは日本の右翼だけです。私はこれを、奴隷船に乗るときに自分で歩いて乗ったかむりやり乗せられたかの違いだと書いたことがあります。
それに、今回は済州島での強制連行の証言が否定されただけで、たとえばインドネシアでのオランダ人女性の強制連行の事実は否定されていません。
ですからこれは、日韓の二国間で主張すべき問題ということになりますが、韓国はもともと「強制連行がけしからん」と言っていたわけではないので、韓国に対して主張しても意味がありません。
 
ですから、強制連行云々の話は、もともと国際的に発信できることではなかったのです。
当然、これをきっかけに河野談話を見直すことなどもできるわけがありません。
 
では、日本の右翼はこれまでなんのために「朝日新聞誤報問題」を追及してきたのでしょうか。
これはたとえていえば、内部告発文書がきっかけで企業の不正が明るみに出たとき、告発文書の中に間違いがあったと主張する人みたいなものです。告発文書に間違いがあったと証明できれば、不正が明るみに出たことまでなかったことにできると信じているのですが、呪術的思考というしかありません。
 
「おとしめる」という言葉の反対語を調べてみたのですが、はっきりとわかりません。たぶん「持ち上げる」という言葉が近いでしょう。
「朝日新聞が日本をおとしめた」というのなら、今度は「右翼が日本を持ち上げる」番ですが、慰安婦問題はもともと人権問題なのですから、日本の名誉回復とは次元の違う話です。
たとえば、国連人権委員会において、日本や日本軍は間違ったことはしなかったと主張するのは筋違いです。しかも、それが現在の日本のことならまだしも、戦時中の日本や日本軍の名誉回復をはかろうというのですから、その真意を疑われます。
 
ですから、右翼の「日本の名誉回復キャンペーン」はもっぱら国内だけで行われていて、無意味にうるさいだけです。
 
もし日本の右翼が国連人権委員会で主張するとすれば、「当時の慰安婦の人権はこのように尊重されていた」ということしかありません。
しかし、日本の右翼は人権オンチですから、そんな主張はできません。逆に「当時の慰安婦には高給をもらっている者もいた」などと言いますが、これは、レイプ犯が相手の女性に金を与えたから自分は悪くないと主張しているのと同じです。
 
慰安婦問題に関しては、日本をおとしめているのは朝日新聞ではなく間違いなく右翼のほうです。

インターネットがなければ得られない有益な情報というのは意外と少ないものですが、犯罪者本人による詳細な供述というのは、その数少ないひとつといえます。
  
「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邉博史被告は、まれに見る文章力の持ち主で、彼の書いた文章が月刊「創」編集長の篠田博之氏の手によって次々とネット上に公開されています。これを読むと、犯罪者が決して生まれつきの特別な人間ではなく、ただ悲惨な人生を歩んできただけであることがわかります。
 
渡邉博史被告の文章が最初に公表されたのは、今年の3月、初公判の被告人意見陳述書としてでした。これはかなりの反響を呼びました。
 
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1
 
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2
 
私もこれを読んで、ブログに次の記事を書きました。
 
朝日新聞の犯罪報道の不可解
 
私は渡邉被告の家庭での虐待と学校でのイジメ体験が渡邉被告の人格形成に決定的な影響を与えたと考え、「愛のない家庭で育った人間」と書いています。
 
しかし、私のようにとらえた人はほとんどいませんでした。多くの人は、格差社会が生んだ犯罪というふうにとらえたようです。渡邉被告自身が『いわゆる「負け組」に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません』とか『そもそもまともに就職したことがなく、逮捕前の仕事も日雇い派遣でした。自分には失くして惜しい社会的地位がありません』とか書いているので、そう理解されてもしかたないかもしれません。この時点では、渡邉被告自身の考えが固まっていなかったのです。
 
しかし、その後、弁護人が差し入れた、子ども時代に虐待されたためにうつ症状になった人について精神科医の書いた本を読んだことが大きなきっかけになったのでしょう。渡邉被告は先の意見陳述を撤回し、改めて最終意見陳述を公開しました。
 
最終意見陳述は長文のため6分割されているので、記事一覧から読んでください。
 
篠田博之 月刊『創』編集長 記事一覧
 
渡邉被告は、自分がこのような人間になったのは、格差社会よりも両親による虐待と学校でのイジメが決定的だったという認識を述べています。
ところが、この文章について世の中の反応はまったくといっていいほどないようです。
世の中の人々は、犯罪の原因が格差社会だとかアニメやビデオだとかいうと食いついてきますが、虐待やイジメだというと、黙って背を向けてしまいます。
 
ところが、ここに食いついてきた人がいました。秋葉原通り魔事件の加藤智大被告です。
加藤被告は死刑判決を受け、現在は最高裁へ上告中の身ですが、渡邉被告の最終意見陳述を読んで共感したということで、弁護人を通じて篠田編集長に自分の見解を書いて送ってきたのです(これも「記事一覧」から読めます)
 
加藤被告は、週刊誌の報道によると、子どものころ母親にご飯を床の新聞紙の上にぶちまけられ、それを食べさせられたということで、はやり親による幼児虐待を経験した人間ですが、当時の報道は、派遣切りにあったことや、携帯サイトの掲示板で批判されたことと犯罪の関係を論じるものがほとんどでした。
 
渡邉被告も加藤被告も、世の中から犯罪の理由をわかってもらえず、それだけに2人で通じ合えるものがあるようです。
 
世の人々や有識者の認識よりも凶悪な犯罪者の認識のほうが正しいとしたら皮肉な話です。
 
渡邉被告の最終陳述は長文ですから、読む人はあまりいないでしょう。最後のあたりから重要と思われる部分を引用しておきます。
 
 
せっかくの機会ですので、世の中に対して真剣に申し上げたいことが幾つかございます。
 
昨今は虐待に関する学問的研究はかなり進んだと思います。またいじめに関するそれも同様だと思います。世の中には虐待といじめを同時に受けている子供も多いはずです。この2つが合わさると相互に作用して子供の心に与える悪影響は甚大なものになると思います。自分は寡聞にして虐待といじめの両方を受けた子供の状態についての学問的知見を聞いたことがありません。また虐待の専門家といじめの専門家の学際的交流もあまり聞いたことがありません。虐待死といじめ自殺は子供の2大死因です。是非ともこの2つの悲劇の関連性や相互作用についての学際的研究を進めて頂くことをお願いしたいと思います。
 
いじめについても申し上げます。いじめと申しますと学校でのいじめが話題の中心ですが塾でもいじめはあります。自分は小5から通わされた塾でいじめられて、それが自分の対人恐怖と対社会恐怖を決定的に悪化させてしまいました。自分は塾の講師の真似事をしたことがありますが、そこでもいじめを発見しました。いじめっ子にかなりきつい口調で注意したところ塾の校長から「注意の口調がきつ過ぎる」と厳重注意を受けてしまいました。塾でのいじめは社会がその存在を把握しているのかどうかすら怪しい情況です。是非ともしかるべき機関に実態を調査して頂くことをお願いしたいと思います。自分は10年以上が過ぎた今でも、いじめられていた子の表情が忘れられないのです。
 
虐待についても申し上げます。「虐待」という言葉は英語のabuseの訳語abuseの本来的な意味は「濫用・乱用」です。drug abuseは「薬物乱用」です。ですからchild abuseの正確な翻訳は「子供乱用」です。虐待の本質とは「両親が自身の欲望の充足のために子供を乱用する」ということです。自分は「虐待の本来の意味は乱用」という理解が社会に共有されることを切に望みます。この理解が社会に共有されないと、日本人が子供が死に至るまでの身体的虐待かネグレクトしか虐待として認識できない状態がいつまでも続きます。
 
あと「心理的ネグレクト」という虐待カテゴリーの存在を広く社会に認識して頂きたいと思います。通常のネグレクトとの違いを説明します。子供が病気になっても両親がそれに気がつかず病院に連れて行かないのがネグレクトなら、病院に連れては行くが全く心配をせず「大丈夫かい?」の一声もかけないのが心理的ネグレクトです。充分な食事を与えないのがネグレクトなら、食事を与えても餌を与えるかのように出し「美味しいかい?」の一声もかけないのが心理的ネグレクトです。
 
自分の小学校の卒業遠足はディズニーランドでしたが自分は参加していません。風邪をこじらせて寝込んでいたからです。母親は自分に「遠足の積立金がもったいない」と繰り返しましたが「遠足に行けなくて残念だったね」とは一言も言いませんでした。このようなことが乳幼児期から積み重なると「遠足が楽しい」という感情を持てなくなるのです。この頃の自分は既に認知が壊れていたので、熱でフラフラになりながらも遠足に行かずに済んだことを喜んでいました。
 
両親との心理的な交流がないと子供は何が好きで、何が美味しくて、何をガマンしないといけないのかが、よく分からないままに育ってしまいます。つまり自分の意志を持つことが困難になるのです。これが「心理的ネグレクト」です。これを受けた子供は原因を把握できないまま物凄い生きづらさを抱えることになってしまいます。
 
さらに申し上げれば「被虐うつ」の存在も広く社会に認識して頂きたい。「被虐うつ」とは虐待を経験した大人が罹患する特殊なうつ病です。症状が非定型的で、なおかつ薬があまり効きません。きっと自覚のないままに苦しんでいる方々は多いと思うのです。
 
虐待により子供の脳に器質的、機能的な変化が引き起こされることが脳科学の研究の発展により判明しつつあります。器質的変化とは脳の形や構造そのものの変化、機能的変化とは脳の働きの異常です。虐待を受けた子供は脳の脳梁、海馬、前頭前野、後頭葉などに異常を抱えてしまうのです。
 
もし両親からの虐待によるケガが原因で足に障害が残った子供が普通の子供と同じように走れなくても、そのことを責める人間は少ないと思います。しかし脳の障害は見えません。障害を抱えていても普通の子と同じようにできなければ周囲から責められます。これはとんでもない悲劇だと思います。
 
刑事裁判において虐待やいじめの話が出ると必ず「で、それが何?自分も虐待されたしいじめられたけど犯罪なぞしていない!そういう物言いこそ虐待経験者やいじめ被害者に対する最大の侮辱だ!」などと主張する虐待経験者や元いじめられっ子がぼっとん便所に涌いた蛆虫の如くヤフーコメントやミクシーに大量発生します。自分はこのような「自称」虐待経験者や「自称」元いじめられっ子に向けて申し上げているのではありません。大変な生きづらさを抱えているのにその原因を把握できずに苦しんでいる方々に申し上げているのです。自分も生きづらさの原因が全く分からなかったために、このような事態に至ってしまいました。自分はつい最近まで小学校時代の6年間が地獄だったとはあまり認識していませんでしたし、母親が子供にその容姿について罵倒することは、どんな親子でも普通にされる会話だと思っていました。子供時代の体験をずっと引きずったまま行動していた自覚もありませんでした。生きづらさからの回復はまず原因の把握からスタートするのです。
 
現在の日本の普通の人たちの多くも、正体不明の生きづらさを抱えているのではないかと思います。その原因は多くの人たちが無意識裡に抱える対人恐怖と対社会恐怖に由来すると思います。例えば溺れた人は水に恐怖を抱きます。電車の事故に巻き込まれた人は電車に乗れなくなります。道を歩いていて強盗に襲われた人は現場となった道を通れなくなります。この水や電車や道を人や社会と置き換えれば、人間が抱く対人恐怖や対社会恐怖の困難さを理解して頂けると思います。ましてや社会を覆う茫洋とした恐怖の解消方法など自分には見当もつきません。ただ国家の物語がやたら肯定的になっても、それによって自動的に各個人の自己物語が肯定的に書き換えられることはないとだけ断言できます。
 
「生きる力」とは何か?自分はここまで堕ちた人間ですから、それが何かがはっきりと分かります。それは根源的な「安心」です。「安心」があれば人間は意志を持てます。自分の意志があれば人間は前向きになれます。「安心」が欠如し、強い対人恐怖と対社会恐怖を抱き、肯定的な自己物語を持てない人間が「生きる力」がない人間です。
 
子供に「生きる力」を授けられるのは両親かそれに代わる養育者のみです。学校教育で子供に「生きる力」を身につけさせることは不可能です。学校は「生きる力」の源である「安心」を毀損する事故の多発地帯です。事故とはいじめや教師の理不尽な体罰です。学校にできることはこの「安心」を毀損する事故の防止や被害の拡大の阻止だけです。
 
自分が卒業した高校にアメリカ人の講師がいました。日本在留期間もそれなりに長いのに日本語はさっぱりでした。その講師は口を開けば”Dont be shy!”(恥ずかしがるな!)と言っていました。ずっと萎縮しきった人生を送ってしまった結末として、この事件に至ってしまった自分と致しましては、日本中の前途ある少年たちに”Dont shrink!”(萎縮するな!)と声を大にして申し上げたいです。萎縮していたら男子バスケ部にも入れませんしイケメンにもなれません。

8月15日、全国戦没者追悼式が日本武道館で開かれ、天皇陛下と安倍首相がそれぞれ式辞を述べました。
安倍首相が昨年に続いて加害責任に言及しなかったことが批判されています。しかし、これは「全国戦没者追悼式」なのですから、国外のことについて必ずしも言及する必要はなく、それに前任者と同じことを言ったのでは、それこそ「コピペ」として批判されかねません。
批判するところはもっとほかにあると思います。
 
天皇陛下のお言葉と安倍首相の式辞はこちらで読めます。
 
「全国戦没者追悼式」天皇陛下のお言葉全文
 
「全国戦没者追悼式」安倍首相の式辞全文
 
このふたつを読み比べると、戦没者のとらえ方が違うことがわかります。
 
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々と、その遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。(天皇陛下のお言葉)
 
戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。(安倍首相の式辞)
 
天皇陛下は「かけがえのない命」と言い、安倍首相は「貴い犠牲」と言っています。
天皇陛下は「命」をたいせつにし、安倍首相は「犠牲」すなわち「死」をたいせつにしていて、対照的です。
 
「死」を「犠牲」と言い換えることはよく行われています。「大震災の犠牲者」とか「交通事故の犠牲になった」とか、さらには「犯罪の犠牲者」とも言います。
ですから、安倍首相の「犠牲」という言葉の使い方に疑問を持つ人は少ないかもしれません。
 
しかし、「犠牲」という言葉の本来の意味は、「神、精霊などをまつるときに供える生き物。いけにえ」ということです(goo辞書」より)
神に供えられるなら、死んでもそれなりの価値があります。そういうことから、「死」を美化した表現として「犠牲」という言葉がよく使われるわけです。
もっとも、「大震災の犠牲」というのはまだ理解できますが、「犯罪の犠牲」という言い方はかなりへんだと思います。
 
安倍首相は「死」を「犠牲」と言い換えた上に、さらに「貴い」という言葉もかぶせて、死を美化しています。
いや、それだけでなく、「貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります」と死に平和と繁栄を結びつけています。
 
「戦死者の犠牲の上に今の平和がある」というのはよく言われることです。しかし、戦死者と平和の因果関係はそのように簡単に表現できるものではありません。もっと早くに平和がきていれば戦死者の数は少なくてすんだわけですし、そもそも戦死者が生じる事態(戦争)が平和を壊しているわけです。
むしろ戦死と平和は相反するものです。
そう考えると、「戦死者の犠牲の上に今の平和がある」という表現はむりにも戦死を美化するものといわざるをえません。
 
ちなみに「英霊」も、戦死者の霊を一般の霊と区別して美化するものです。
もちろん安倍首相は「英霊」という言葉を好んでいます。
安倍首相は、戦死を美化する気持ちが強いようです。
 
一方、天皇陛下のお言葉は簡明です。「かけがえのない命」という言葉を使い、それが失われたことを「深い悲しみ」と表現しておられます。
死を美化するものはなにもありません。
 
安倍首相の「貴い犠牲」という表現は明らかに間違っています。「貴い命」というのが正しい表現です。
「貴い命が無残にも失われた」というのが先の戦争についての正しい認識です。天皇陛下は明らかにそういう認識でおられます。
 
ふたつの式辞を読み比べると、天皇陛下と安倍首相は戦死について正反対の認識を持っていることがわかります。
「命の貴さ」を理解していない首相をいただいていることこそ最大の問題でしょう。

8月半ばになって甲子園の高校野球も佳境に入ってきましたが、高校野球というのは考えてみると奇妙なものです。
まずユニフォームがすべて白ないし灰色ですし、ほとんどの学校が丸刈りです。それに、夏のいちばん暑い時期に行われます。
 
昔、多くの中学高校で丸刈りが校則で強制されていましたが、今ではほとんどないはずです。しかし、野球部だけはまだほとんどが丸刈りです。
スポーツのユニフォームは一般にカラフルなものです。柔道着もかなり前にカラー化されましたが、高校野球だけはカラー化されません。
真夏に屋外で長時間の試合をするのも、熱中症などの危険性があります。しかし、時期をずらそうという議論もないようです。
 
要するに高校野球は昔のままなのです。
 
なぜそうなのかというと、高校野球が戦争の記憶と結びついているからではないかと私は思っています。
 
戦時中につくられた「ハワイ・マレー沖海戦」という映画があります。主人公の少年が予科練でのきびしい訓練を経て一人前のパイロットとなり、真珠湾攻撃やマレー沖のイギリス艦隊攻撃に参加していくという物語ですが、この映画の大半は予科練の生活を描くのに当てられています。予科練の制服は白ですし、もちろん予科練生は坊主頭です。そして、炎天下でもきびしい訓練をします。
私は予科練の訓練を見て、高校野球を連想しました。おそらく多くの人が同じように思うでしょう。
 
甲子園の日程の中に必ず8月15日の終戦記念日があり、その正午にはサイレンが鳴って全員が黙祷します。このことも高校野球と戦争の記憶を結びつけます。
また、試合開始と試合終了のときには必ずサイレンが鳴らされますが、サイレンの音というのも、空襲警報など戦争と結びついています(サイレンは高校野球だけでなく社会人野球で一般的に使われているようですが)
 
そして、高校野球というのはきわめて精神主義的です。我慢、根性、自己犠牲が称揚されます。これもまた戦争当時の価値観です。
 
ちょうど「選択」8月号に「高校野球の『深い闇』」という記事が載っていたので、その一部を引用します。
 
高校野球の魅力とは、端的に言えば「滅びの美学」だ。ファンは疲れた体にムチを打ち、ボロボロになるまで戦う姿に感動する。前出トレーナーが言う。
「甲子園ほど体に悪いものはない。こんな暑い時期に、あんなに暑い地域で、もっとも暑い二時前後にも当たり前のように試合を組んでいる。ここ数年、足をつる選手が続出しているのですが、あれは完全に熱中症状。外に出ることさえ控えるべき環境の中で連投させて、しかも平気で百球以上投げさせるなんて、虐待以外の何物でもないでしょう。それを喜んで観ているファンも相当、悪趣味です。アメリカ人がクレイジーだというのも、もっともです」
 
 「滅びの美学」というのも、戦時中の価値観と同じような意味でしょう。
 
戦争当時の価値観を色濃く残す高校野球と、それを喜ぶファンが多数いるという現実を見ていると、日本人の平和主義は意外に底が浅く、また容易に戦争に熱狂するのかなと思ってしまいます。

佐世保高1同級生殺人事件が大きく騒がれる一方で、倉敷女児監禁事件のほうはあっというまに忘却の彼方へ追いやられています。
久しぶりに倉敷女児監禁事件のニュースを目にしましたが、これが実に小さな扱いの記事でした。
 
倉敷女児監禁事件、わいせつ目的略取容疑で再逮捕
 岡山県で起きた女児監禁事件で、県警は9日、岡山市北区の無職藤原武容疑者(49)=監禁の罪で起訴=をわいせつ目的略取や銃刀法違反などの容疑で再逮捕した。調べに対し、「女児に近づきたかっただけだ」とわいせつ目的を否認しているという。
 
 県警によると、藤原容疑者は倉敷市内で7月14日午後4時40分ごろ、帰宅中の女児(11)にカッターナイフを突きつけ、「大きな声を出したら殺す」と脅迫。車に押し込み、岡山市内の自宅に連れ去った疑いがある。女児がわいせつ行為を受けた形跡はなかったが、藤原容疑者がパソコンに記録していた日記の内容などを踏まえ、わいせつ目的で女児を連れ去ったと判断したとしている。
 
 
藤原容疑者の日記の内容などからわいせつ目的と判断したということですが、いったいどんな日記なのでしょうか。捜査員に取材して、週刊誌などが「監禁日記」とか「調教日記」とか名づけて報じれば、読みたがる人がいっぱいいるでしょう。
 
少女を自分好みに教育しようとする男の物語は、谷崎潤一郎の「痴人の愛」、バーナード・ショーの「ピグマリオン」、もっと古くは「源氏物語」にもありますし、女性を拉致監禁する映画は、「コレクター」や「完全なる飼育」シリーズ、「監禁逃亡」シリーズなどがあり、AVには山ほどあるに違いありません。ですから、この事件の詳しい報道に対する需要はあるはずで、マスコミがまったくといっていいほど報じなくなったのはおかしなことです。
 
被害にあった少女への配慮から大きく報道しないのではないかと思われる人がいるかもしれません。しかし、少女を9年2カ月にわたって監禁したいわゆる新潟少女監禁事件のときは、被害少女への配慮などそっちのけで報道が過熱しました。
新潟少女監禁事件の犯人は、事件発覚時点で37歳でしたが、引きこもりのニートでした。「引きこもりのニート」という、自分たちと区別のつく犯人については遠慮なく報道し、49歳の「普通の中年男」という、自分たちと区別のつかない犯人については報道を自粛するというのが、中年男の支配するマスコミの習性です。
 
ですから、佐世保高1同級生殺人事件の報道もそれなりに偏ったものになります。たとえば、「AERA」最新号には「佐世保事件 少女Aが愛したマンガの残虐シーン」という見出しの記事があります。広告を見ただけで、記事の中身は読んでいませんが、相変わらずマンガなどの影響で事件を説明しようとしているようです。
マンガの影響が絶対ないとはいえませんが、マンガの影響よりは親の影響のほうが百倍か千倍か1万倍あるに違いありません。
 
倉敷の事件では、藤原容疑者は自称イラストレーターだったということですが、実際のところどうして生活していたのかとか、両親との関係はどうだったのかとか、まったくあと追いの報道がありません。藤原容疑者は「少女を自分好みに育てたかった」と供述したということですが、こうした欲望がどうして生まれたかを知るためにも、藤原容疑者と親との関係を追究する報道を望みたいものです。
 
そして、藤原容疑者と親との関係が明らかになれば、それは佐世保同級生殺人事件の深層を理解するヒントになるに違いないと私は思っています。

映画「マレフィセント」を観てきました。
「アナと雪の女王」と連続してディズニー映画を観たわけですが、どちらも「王子さまのキス」になんの価値もないことに笑ってしまいました。ディズニーは思想的に“転向”したのでしょうか。
 
「マレフィセント」では、眠り姫は「真実の愛のキス」によってしか目覚めることができません。王子は単に姫の美貌に一目惚れしただけですから、王子のキスで目覚めないのは当然かもしれません。
では、「真実の愛」はどこにあるのかというと、結局、姫が生まれたときから見守っていた者の心にあったのです。
生まれたときから見守ってきたということは、親の子に対する愛とか家族愛ということになります。「アナと雪の女王」も姉妹愛の物語でした。
恋愛よりも家族愛がたいせつにされるのは、ディズニーに限らず時代の流れでもあります。今では映画でも小説でも家族愛の花盛りです。
 
家族愛といえば、今騒がれている佐世保高1同級生殺人事件の加害少女の家に家族愛はあったのでしょうか。
父親は有名弁護士で高収入、亡くなった母親は東大卒で、教育委員を長く務めるなどした社会的名士、家は地上2階地下1階、家の中にはエレベーターがあり、庭には錦鯉の泳いでいる池があるという豪邸。そして、加害少女は勉強がよくできて、ピアノ、絵画、スケート、スキーでも優秀だったということで、「人もうらやむエリート一家」と報道されています。
しかし、そこに家族愛があったという報道はありません。
 
父親は、昨年10月に妻が亡くなるとすぐに婚活パーティに出席し、21歳年下の女性と再婚しました。妻が亡くなってすぐ婚活してはいけないという法はありませんが、妻の死を重く受け止めていたらそういうことはできません。
 
この父親はどういう人間かということに興味がわきますが、5月に親しい友人らに新妻のプロフィールをビラにして配っていたということで、「フライデー」8月2229日合併号にそのビラが掲載されていました。
それはこのようなものです。
 
■■■■■■■■■のプロフィール
旧姓 ■■■■■■
■■■出身 昭和■■年■月■■日生 ■■歳(本日が誕生日です)
■■■■■大学経済学部卒 法科大学院卒(法務博士)
 
職業(しばらくは、残務や引き継ぎのため、佐世保と東京を往復する予定です)
◎芸能界関係のお仕事 テレビCM等に出演する動物(ソフトバンクドッグの「お父さん・白戸次郎さん」など)の演技指導など(下記写真のとおり)
◎特技の乗馬経験を活かして、■■■■■■■■■■■■と■■■■■■■■■■■■の事務・大会運営等の事務
 
趣味は、乗馬、水泳、自転車、ピアノ(かなり上手です)。幼少の頃は、日本舞踊や新体操もしていました。明るく社交的な女性です。今後とも、夫婦ともども宜しくご指導下さい。
 
結婚の報告として、夫婦連名で「今後宜しくお願いします」という挨拶状を配るならわかりますが、これはあくまで新妻のプロフィールです。
自分の妻を自慢しているとしか思えません。
まるで高価なオモチャを買ってもらった子どもが友だちに自慢しているみたいです。
 
この父親にとって妻とは、人生の伴侶というよりも“自慢の品”なのでしょう。
 亡くなった妻も東大卒ですから、この父親にとっては自慢の妻だったのでしょう。
加害少女が成績優秀で、ピアノや絵画やスポーツもよくできたというのも、自慢できる娘であってほしいという父親の願望に応えていたのでしょう。
 
この父親はすごい“自慢しい”で、職業も収入も家も家族も全部自慢できるものにしたいのです。そのために司法試験に合格し、すぐに婚活パーティに参加するなど、努力もしています。しかし、“自慢の品”と見られる家族はたまりません。
いや、おとな同士の関係ならそれで割り切れるかもしれませんが、子どもはそうはいきません。
 
 
では、加害少女はどんな人間だったのでしょうか。親しい同級生を殺して首を切断するぐらいですから、人間の心を持たないような、異常な人間だと思われているかもしれません。
「女性自身」8月1926日合併号に加害少女が中学時代に書いた作文が掲載されていましたので、紹介してみます。
 
 
「数える」
僕が人生で本当のことを言えるのは、これから何度あるだろうか。
 
人生で、
涙ぐむほど美しいものを見ることは、
悲しみに声を枯らすことは、
お別れのあいさつを書くことは、
好きな人と手をつなぐことは?
 
数えたら、きっと拍子抜けするだろう。
 
いま人生を始めたばかりの薄い肩に、どこまでも水平線が広がっている。
あまりにも短い航海の間、僕は何度心から生を叫べるか。
正の字つけて数えておこう。
 
この人生の幕引きに笑ってお辞儀ができたなら、
僕はきっと幸せです。
 
 
これを読むと、ちゃんと“人間の心”があります。
表面的には絶望と悲しみを表現していますが、その背後に幸せになりたい、人間らしく生きたいという思いがあります。
 
妻を自慢のタネとしか考えていない父親より、娘のほうがよほど人間的に思えます(このへんは人によって感じ方が違うでしょうが)
 
とはいえ、この娘が恐ろしい殺人事件を起こしたのは事実です。
 
映画「マレフィセント」の主人公マレフィセントは、予告編に出てくる姿は完全に魔女に見えますが、実際はもともと翼の生えた妖精だったのです。しかし、信頼していた人間に裏切られ、翼を切り取られてしまいます。そして、その憎しみから、自分を裏切った人間に赤ん坊ができたとき、その赤ん坊にはなんの罪もないにも関わらず呪いをかけてしまいます。
 
加害少女もなんの罪もない同級生を殺してしまいましたが、もしかすると翼を切り取られた妖精だったのかもしれません。

佐世保市で高校1年生の松尾愛和さんが同級生の少女に殺された事件について、有識者がいろいろ発言していますが、どれもこれも的外れです。いくら頭がよくて、知識があっても、真実がわかるわけではないということがよくわかります。
 
頭がよくて知識があるということでは、加害少女の父親もそうです。地元のテレビにもよく出る弁護士だそうです。亡くなった母親も東大卒業で、佐世保市の教育委員を長く務めていたそうです。加害少女も成績優秀で、ピアノやスケート、スキー、絵画もやっていました。
つまり3人とも頭がよかったようですが、それでもこんな悲劇が起こるわけです。
 
専門家のいうこともメチャクチャです。
「少年犯罪に詳しい犯罪学の専門家」である中央大名誉教授の藤本哲也氏は、7月28日の「モーニングバード!」(テレビ朝日系)に出演して、加害少女はアスペルガー症候群の可能性があるとコメントして、番組の後半でアナウンサーが謝罪するという一幕がありました。
もちろんアスペルガー症候群と犯罪にはなんの関係もありません。
 
教育の専門家である尾木ママも的外れなことを言っています。
 
尾木ママ 佐世保の事件は「100%防げた」県職員の怠慢を指摘
 佐世保の女子高生が同級生を殺害した事件で、事前に県の児童相談窓口に警告緊急連絡相談がありながら放置された件で、教育評論家の尾木ママこと尾木直樹氏が1日、「100%防げた事件」と公式ブログで断じた。
 
  緊急相談は加害者の女子生徒を診察した精神科医から6月10日に寄せられていたもので、「人を殺しかねない」という具体的な緊急性を指摘したものだった。
 
  相談センターの職員はこれに対して「匿名でわからないから」という理由で放置したが、尾木ママは精神科医が通報した内容を知り「小学生時代の給食事件 最近の父親金属バット殴打事件まで話しているのに つまり 名前こそ守秘義務で話していないけど個人特定しているのと同じなのに放置したのか!」と県職員の怠慢を指摘し「残念では済まされぬ重大な犯罪に匹敵します!」と最大級の表現で指弾した。
 
  このブログのタイトルを、尾木ママは「100%防げた佐世保同級生殺人事件!!心ないお役所仕事が奪った被害少女の命!!」としている。
 
県の相談センターの職員がいくらうまく対応したとしても、「100%防げた」という保証はありません。冷静さを欠いた表現です。
 
そもそも県の職員に多少の責任はあるとしても、根本的に責任があるのは加害少女の両親です(この場合、母親は新婚で事情がわかっていないので、とくに父親に責任があります)
しかし、「未成年者の犯罪は親に責任がある」ということを言うのがタブーになっているので、アスペルガー症候群とか県職員とかを間違ってターゲットにしてしまうのです。
 
ところで、加害少女を診察した精神科医は、県の児童相談窓口に相談する前に、両親に対しても対処を求めていました。両親がなにもしないので、県に相談したということでしょう。ですから、尾木ママが親についてはまったく言及せずに県の職員だけを批判したのがいかに的外れであるかがわかります。
 
 
両親に「事件起こす可能性」=少女診察の医師―1人暮らし継続・高1女子殺害
 長崎県佐世保市の県立高校1年女子生徒(15)が殺害された事件で、逮捕された同級生の少女(16)を診察した医師が、事件前に少女の両親と面談し、「このままでは事件を起こしてしまう可能性がある」と伝えていたことが1日、関係者の話で分かった。少女は医師と両親が面談した後もマンションで1人暮らしを続け、事件を起こした。
  医師は610日、県の児童相談窓口に電話し、少女が小学6年生の頃に給食に異物を混入させたことや、父親に暴力を振るいけがをさせたことなどを挙げ、「人を殺しかねない」などと相談していた。
  関係者によると、医師は県側の助言などを受け、事件前の7月、3回にわたって両親と病院で面談。「事件を起こしてしまう可能性がある」などと告げ、対処を求めたという。
  少女は高校に進学した4月から、事件現場のマンションで1人暮らしをしていたが、医師と両親が面談した後も1人暮らしを継続。726日に事件を起こした。
 
 
この記事を読むと、この精神科医は事態をかなり正確に把握していたようですが、治療することにはまったく成功していません。両親に「対処を求めた」というのも、おそらく強制入院するように勧めたのでしょう(両親は体面から断ったのでしょう)
しかし、強制入院しても治療が成功するわけではありません。
 
ここで思い出すのが、2000年に起こった西鉄バスジャック事件です。「ネオむぎ茶」のハンドルネームを持っていた17歳の少年が精神科医町沢静夫氏の助言で強制入院させられますが、病院が外泊許可を出した際に犯行に及びました。少年は強制入院させられたことで親に裏切られたと思ったのです。
 
加害少女を診察した精神科医について、事件を予見したことで評価する声がありますが、実際のところは、まったく治療できなかったことでむしろ無能と評価するべきです。有能な精神科医やカウンセラーなら、数回の面接で目に見えた効果を挙げることができます。
 
つまり精神科医やカウンセラーという専門家でも、ピンからキリまであるということです。
 
私がまともだと思う専門家は、東海学院大学元教授で現在こころぎふ臨床心理センター代表の長谷川博一氏です。長谷川氏は7月30日の「報道ステーション」に出演して事件についてこのようにコメントしました。
 
(事件を起こした少女は)関心が限定的で、そこをとことん突き詰めようとする傾向があって、他のものに向かない。ただし、それだけで事件は起きない。
そこに、この子の中で抑圧されている負の感情があると思う。成育史の中で、例えば「押し付け的」な、「コントロール的」な関係で育ってきたとか。
負の感情を押し殺してきている。
そこで負の感情と関心がミックスしてしまって、そして人に対する攻撃性となってくる。
必ずしも負の感情を本人は自覚しているわけではない。
 
少しわかりにくいのは、父親や母親を具体的に名指ししていないからです。しかし、『「押し付け的」な、「コントロール的」な関係で育ってきた』という言葉がそのことを示しています。
 
同級生を殺して首を切断するというような異様な事件は、異様な動機から起こります。そして、異様な動機は異様な出来事の集積、つまり異様な環境から形成されます。
この少女の通っていた学校がそのような異様な環境であったとは思えません。
となると、家庭環境しか考えられません。
この年代の少女は家庭、学校、部活、友人関係といった狭い世界で生きているので、消去法でいけば、答えはすぐに見つかります。
 
つまり答えは最初からわかっているのに、マスコミや有識者はなんとかして答えをごまかそうとしているのです。
 
加害少女の父親は7月3日、謝罪の文書を公表しました。
 
おわびの言葉見つからず…加害少女の父親が文書
長崎県佐世保市の県立高校1年の女子生徒(15)が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された少女(16)の父親が3日、知人の弁護士を通じて、謝罪の文書を公表した。
  
 「娘が起こした事件により、何の落ち度もないお嬢様が被害者となられたことについては、おわびの言葉さえ見つからない」などとしている。
 
 文書で父親は、被害者に対し、「人生の喜びや幸せを経験する時間を奪われ、帰らぬ人となった苦しみと無念さ、ご両親とご親族の受けた衝撃と悲しみの深さを深慮し、胸が張り裂ける思い。本当に申し訳ございません」と謝罪した。
 
 自分の娘が事件を起こしたことについて、「複数の病院の助言に従い、できる最大限のことをしてきたが、力が及ばず、誠に残念」と記した。
 
 文書を公表したことについて、「遺族へ直接の謝罪ができていない段階で、社会に対して心情を申し上げることについて、逡巡していた」とした上で、「社会的反響の大きい事件であることを重く受け止めた」などとしている。
 
この文書は、被害者について謝罪はしていますが、自分自身については「できる最大限のことをしてきた」として、正当化しています。
この父親はどんなときにも自分の非を認めない人のようです。また、亡くなった母親ともども、世間の評価ばかりを気にしていた節があります。
 
2ちゃんねるでは父親に対するバッシングが始まっています。
これはマスコミが父親の責任にまったく言及しないことにも原因があると思われます。
「犯罪をした子どもの親はどんな教育・しつけをしてきたのか」ということは、ジャーナリズムとしても学術的問題としても下世話な好奇心からも明らかにするのが当然です。
 

佐世保市で高校1年生の女子生徒が同級生の女子生徒に殺された事件の報道が過熱しています。
そのため、倉敷市の小学校5年生の女児が49歳の男に拉致監禁された事件はすっかり忘れられた格好です。
マスコミを支配する中年男にとっては、中年男の犯罪よりは女子高生の犯罪を報道するほうにやりがいがあるのでしょう(中年に限らず日本の男は女子高生が大好きです)
 
しかし、女子高生の犯罪の追及のしかたにも中年男のご都合主義が露骨に表れています。
 
これは未成年による犯罪です。となると、その責任は誰にあるのかという問題が生じるはずです。
 
たとえば、みのもんた氏の次男(当時31)が窃盗未遂容疑で逮捕されたとき、みのもんた氏がひどくバッシングされましたが、それに対して多くの有識者が「20歳すぎた子どもの行為に親の責任はない」ということを主張しました。とすると、そうした有識者は今回、「20歳未満の子どもの行為に親の責任はある」と主張しないといけないはずですが、そうした声はまったく聞こえてきません。
そもそもマスコミは、子どもの犯罪容疑でみのもんた氏をバッシングしたのですから、今回は殺人容疑で逮捕された少女の親をバッシングしなければならないはずですが、まったくそうしたことはありません。
新聞やテレビは、そもそも親の名前も職業すらも報道していません。
 
なぜそんなことになるかというと、加害少女の父親とマスコミの幹部や有識者は年齢が近く、社会的地位も似ているので、加害少女の親をバッシングすると、自分たちに返ってくるかもしれないからです
 
また、加害少女は小学校時代、給食に毒物を混入させたことがあり、そのときは加害少女と両親が被害を受けた子どもに謝ったそうです。もしこのとき親が「子どものやったことに親は関係ない」といって謝らなかったら、誰もが親を批判するでしょう。
ですから、今回の殺人事件についても、親は当然謝るべきですし、もし謝らなかったら批判されるのが当然です。
しかし、今のところ親は謝っていませんし、マスコミはそのことを批判しません。
 
いや、加害少女の父親は弁護士ですから、謝るのではなく、少女の弁護をするということもありえます。少女が殺人を犯したのは、こんな事情があったからで、情状酌量の余地があるということを世の中に訴えるのは、それはそれで父親としての役割です。
 
しかし、現実に父親はまったく表に出てきませんし、コメントも発表していません。
 
民事では、子どもが自転車事故を起こし、高額の賠償を命じる判決が出ていますが、これは当然親が責任を取って支払いをするわけです。
刑事の場合、親が責任を取らなくていいという理屈のあるはずがありません。
 
被害者遺族はマスコミを通してコメントを発表しています。なぜマスコミは加害者の父親のコメントを取らないのでしょうか。父親が拒否しているなら、なぜそのいきさつを報道しないのでしょうか。
もちろん、マスコミを支配する中年男もまた家庭では父親であって、父親の責任を追及すると、自分にも及んでくるからです。
 
もっとも、これは日本のマスコミだけの問題ではありません。近代という時代そのものが、親が子どもを自由に教育して、その責任を取らなくていいという、身勝手なおとながつくりだしたシステムなのです。
 
ところで、これまで私は便宜上、親の「責任」という言葉を使ってきましたが、父親の責任を追及するべきだと考えているわけではありません。私はそもそも、このような犯罪の場合、加害者の責任を追及することが間違いだと考えているのです。ですから、同様に父親の責任を追及するのも間違いということになります。
 
世の人々は、加害少女の責任を追及するだけでは飽き足らず、さらに父親の責任も追及しようとしています。そうすると、父親も身を守るために表に出てこなくなります。
 
今たいせつなのは、「責任」を追及することではなく、なぜこのような犯罪が起きたのかという「事実」を追究することです。
父親は娘が小さいころから教育・しつけをしてきたはずです。父親は娘から金属バットで殴られて大ケガをしたということですから、教育・しつけが間違っていたのでしょう。どのような教育・しつけをしたのか、それを明らかにすることは、すべての人にとって参考になるはずです。
マスコミはそういう報道をするべきです。

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