村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2014年09月

作家の田中慎弥氏は芥川賞受賞会見のとき、「断ったりして気の弱い委員の方が倒れたりしたら都政が混乱するので、都知事閣下と東京都民各位のためにもらっといてやる」と石原慎太郎都知事にケンカを売るような発言をし、ずいぶん骨のある人だなと感心した覚えがありますが、どうやら政治的にも石原氏と対極に位置する人のようです。「新潮」10月号に「宰相A」なる小説を発表しています。私は読んでいないのですが、なかなかおもしろい発想の小説だと思ったので、その書評を引用する形で紹介したいと思います。
 
(文芸時評)西洋への卑屈 
  ■片山杜秀(評論家)
田中慎弥の「宰相A」はパラレル・ワールド物。太平洋戦争に負ける。そこまでは現実と同じ。が、あとが違う。日本人は「背が高く太陽の光を濾過(ろか)して作られた」金髪の国民になる。黄色人種が変身したのではない。日本は米国からの白人の入植地に。白人が日本人を名乗る。黄色人種は旧日本人として居住区に囲われる。まるでガザ地区。
 ただし首相だけは旧日本人。満州国の皇帝や首相が満州人だったように。彼はAと呼ばれる。白人の犬。傀儡(かいらい)だ。Aは演説する。「最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う」
 どこぞの国の首相の「積極的平和主義」みたい。そして、この小説の日本は本当に戦争している。兵士にされるのは旧日本人。精神的にも白人の奴隷だ。身長や体格。旧日本人の白人コンプレックスの描写が張り巡らされる。
 クライマックスにもAの演説が響く。「曖昧(あいまい)や陰影、朦朧(もうろう)、余白、枯淡、物の哀れ、それに伴う未成熟な情緒、これら旧日本の病理を完全に克服」すべし。
 その演説のもと、黄色人種が拷問される。それは団鬼六もびっくりのSMショー。田中の筆は高ぶる。「女の体がそれこそ電流を通されているとしか思えない慌しさで波打つ」とか。このSM調教場面が旧日本人の白人への拝跪(はいき)の総仕上げとなる。
 『家畜人ヤプー』を思い出した。日本人が白人のペットとなる沼正三の小説。「宰相A」は黄色人種の劣等感と日本国の対米従属姿勢を重ね、「肌色の憂鬱」を極大化する。
 
SFによくある歴史改変小説です。
宰相「A」は「安倍」と理解してもいいでしょう。
田中慎弥氏の政治的憤りが書かせた小説かと思いました。
 
 
アメリカの作家フィリップ・ロスの「プロット・アゲンスト・アメリカ」という小説が翻訳されました。これも歴史改変小説です。私は未読ですが、高橋源一郎氏の書評の一部を引用します。
 
高橋源一郎が選ぶ「今週のイチ推し」
「プロット・アゲンスト・アメリカ」は直訳すると「アメリカに対する陰謀」ということになるらしい。舞台は1940年のアメリカ。ヨーロッパでは、ナチス・ドイツの進撃が続き、民主主義防衛のためにアメリカの参戦が望まれていた頃のことだ。2期にわたって大統領を勤めたフランクリン・ローズヴェルトが前人未到の3選を決め、ついに日本との戦争に突入したことは、歴史が教える通り。だが、この小説では、そうならない。なんと、ローズヴェルトに対抗し、共和党の候補に選ばれた、あの(飛行機で大西洋を横断した)リンドバーグが、選挙に勝って大統領に選ばれるのである。さよう、これは「歴史改変SF」の一種ということになるだろう……と書くと面白そうなのだが、読み進めると、ジワジワしみ通るように怖さが浮かび上がってくる。というのも、リンドバーグは筋金いりの「反ユダヤ主義者」で、そのリンドバーグが大統領になることによって、アメリカ国内のユダヤ人たちが、いつの間にか「アメリカへの陰謀」の加担者として扱われるようになってゆくからだ。そして、気がつけば、「民主主義の本家」であったはずのアメリカもナチスドイツと同じような国になっていたのである。
実は、この小説、アメリカでは10年前に発表されていて、あらすじも聞いていたのだが、正直にいって「アメリカがナチスドイツみたいな国になる、っていくらなんでも無理だよなあ」と思っていた。けれど、この小説を読んでいくうちに、「いや、こういうことって、あるかも。いや、全然あるよ」と思うようになっていたのだ。
人々の心は移ろいやすい。そこに魅力的なスローガンを持ったカリスマ政治家が現れたら、ふっと、そちらに、みんなの気持ちは流れてゆくだろう。そういう時、必ず、みんなの恨みの的になるような人々がいるのだ。怖い、怖すぎる……と思いながら、ぼくは読み終えた。でも、ほんとうに心の底から恐怖を感じたのは、その後だった。なんだか、この小説、いまの日本に状況が、ものすごくよく似ているからだ。
(「アサヒ芸能」10月2日号)
 
 
こうした歴史改変小説の古典は、フィリップ・K・ディックの「高い城の男」でしょう。
私が読んだのはずいぶん昔ですし、うまく要約することがむずかしいストーリーなので、ウィキペディアの「高い城の男」の項から引用することにします。
 
概要
第二次世界大戦が枢軸国の勝利に終わり、日本とドイツによって分割占領されているアメリカが舞台の人間群像劇。
 
歴史改変SFでは珍しくない設定だが、作品内世界で「もしも連合国が枢軸国に勝利していたら」という歴史改変小説が流行しているという点と、東洋の占術(易経)が同じく流行していて、複数の人物が易経を指針として行動するという部分が独創的である。後半になるにつれてフィリップ・K・ディック特有の形而上学・哲学的な思索やメタフィクションが展開される一方、ディック作品にありがちなプロットの破綻が生じていない。そうした点からアメリカやイギリスなど英語圏ではディック作品の代表作として挙げられる事も多い。
 
作中の枢軸国の描写に関してはそれぞれに違いがある。日本人は勝者として傲慢な部分もあるものの、人種政策でナチスと対立するなど人間的で、ある程度は話が通じる集団として描かれている。逆にドイツ人は反ナチ派が軒並み粛清されており、ナチズムの狂気に満ちた集団として描かれている。イタリア人は表面的には日独と並んで戦勝国として扱われているが、実態としてはドイツの衛星国であり、劣等感からアメリカ人に同情する描写が描かれている。また作品中に登場する歴史改変小説は現実の第二次世界大戦とも異なった形で勝利する内容になっている。
 
あらすじ
枢軸国の勝利に終わった第二次世界大戦終結から15年後、[アメリカ合衆国は大日本帝国とナチス・ドイツという二つの超大国によって分割統治されていた。敗戦国となったアメリカ人の間では謎の人物「高い城の男」によって執筆された『イナゴ身重く横たわる』という、「連合国が第二次世界大戦に勝利していたら」という仮想小説が流行していた。
 
そんな中、日本統治下のサンフランシスコにあるアメリカ美術工芸品商会に、太平洋岸連邦の通商代表部に所属する田上という男が電話を掛けてくる所から物語は始まる。
 
これは政治的な主張を持った小説というより、現実と虚構が錯綜するディック的な世界を描いた小説というべきかもしれませんが、私は若いころにこれを読んだことで、今の時代の価値観をいつも疑うようになりました。枢軸側が勝利してユダヤ人差別が当たり前となった社会も、それはそれでちゃんと成立しています。今の社会の価値観もそれと同じかもしれません。
 
こうした発想はたいせつだと思います。
たとえば、今アメリカといくつかの国が「イスラム国」を空爆しています。テロリストは一方的にやっつけてもかまわないという価値観になっているのです。
しかし、イスラム国家連合が強大になり、アメリカがそれに従属している状態になると、キリスト教徒のテロリストが「キリスト国」をつくり、イスラム国家連合がそれを空爆するということもありうるわけです。
 
日本の右翼の深層心理にあるのは、アメリカに負けないでいまだに大日本帝国であり続ける国の姿です。これもまた一種の歴史改変小説というべきでしょう。

神戸市で小学校1年生の生田美玲ちゃんの死体が発見された事件で君野康弘容疑者が逮捕されました。君野容疑者は今のところ黙秘していますが、一応君野容疑者が美玲ちゃんを殺害したという前提で書くことにします。
また、君野容疑者は知的障害者に交付される手帳を持っていたということですが、君野容疑者の人生の軌跡を見ると、知的障害者らしいところがまったくないので、健常者であるという前提で書くことにします(一時、暴力団の組員だったことがあるということですから、なんらかの手段で手帳を手に入れたのでしょうか)
 
小さい子どもを殺すという犯罪の場合、犯人は幼児期に虐待されていたと見なしてほぼ間違いありません。自分が子どものころ大人からされていたのと同じことを、自分が大人になったら子どもに対してやったということです(子どものころ死ぬほどの苦痛を味わっていたわけです)
 
ですから、君野容疑者がどういう幼児期を送ったか、家庭環境はどうであったかということを知りたいところですが、そういう報道はまったくといっていいほどありません。テレビのニュースで、両親は君野容疑者が子どものころ離婚したといっていたぐらいです。
 
家庭環境以外の報道にはほとんど意味がないといいたいところですが、君野容疑者の生き方にも考えさせられることがありました。
 
<神戸女児遺体>容疑者…住居や職業転々、トラブルも頻繁に
2014926日(金)11:18
  神戸市長田区の草むらで市立名倉小1年、生田美玲(みれい)さん(6)の遺体が見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕された君野康弘容疑者(47)は住居や職業を転々としながら、行く先々でトラブルを起こしていた。最近では、昼間から飲酒する様子が度々目撃されるなど、無軌道ともいえる生活ぶりが浮かび上がっている。
 
 知人らによると、君野容疑者は鹿児島県南九州市出身で、県内の高校を卒業後、九州の陸上自衛隊駐屯地などで勤務した。しかし長続きせず、20~30代は鹿児島市の繁華街で風俗店のチラシ配りをしたり、パチンコ店で働いたりしたという。
 
 関西に来たのは遅くとも2008年ごろ。当時は簡易宿泊所が集まる大阪市西成区のアパートに住んでいた。捜査関係者によると、当時、指定暴力団傘下組織の組員だった。知人男性によると、翌年には神戸市兵庫区に転居し、風俗店で勤務。部屋には即席ラーメンや缶詰、米などが大量にあった。男性は「君野容疑者は『パチンコを打つので金がなくなったら困るから、生活保護費の1万円を使って買いだめしている』と話していた」と振り返る。
 
 しかし、11年ごろに連絡が途絶えた。男性によると、刑事事件を起こして服役していたという。関西地方の刑務所を昨年5月に出所。神戸市長田区内の現在とは別のアパートに一時入居したが、騒音を巡って近隣とトラブルになり、約2週間で退去した。
 
 この頃、君野容疑者は兵庫区内の飲食店を週2、3回訪れている。女性店員によると、小銭を手に握りしめて「これで飲ませてほしい」と1杯300円の焼酎を頼むことが多かったという。
 
 現在のアパートに引っ越してきたのは昨夏。住人男性によると、部屋には机とパソコンぐらいしかなく、君野容疑者は「FX(外国為替証拠金取引)をしている」と話していた。アパートの関係者によると、4万2000円の家賃は生活保護費から納めていた。
 
 だが、その投資もうまくいかなかったらしい。最近では、騒音を巡って近隣とトラブルになったり、警察や区役所に度々クレームの電話をかけたりしていた。美玲さんが行方不明になった11日以降はカップ酒を片手に青白い顔でうろつく姿が複数の住民に目撃されていた。【瀬谷健介、石川裕士、大森治幸】
 
 
これを読んで感じたのは、君野容疑者は「ダメ人間」の典型だということです。
 
酒を昼間から飲んでいるのでアルコール依存症かもしれません。死体を入れた袋からタバコの吸い殻が発見されたということですから、タバコも吸っているわけです。パチンコもします。仕事が長続きせず、職を転々としています。
 
どうしてこのような人間になるのかというと、要するに「目先の快楽」ばかりを追求しているからです。
酒、タバコ、ギャンブルは、健康を害し、お金はなくなりますが、「目先の快楽」を求める人間はやめることができません。
職を転々とするのも、「目先の快楽」ばかり求めて、がまんができないからです。
会員制交流サイトに登録していたということですから、ふれあいを求める気持ちもあったのでしょう。しかし、近所の人間と恒常的なつながりを築くことはできず、刹那的なふれあいに走っていたわけです。
 
こういう人間について、「子どものころにがまんすることを教えないからだ」ということを言う人がいます。
確かに「がまんする」ことはたいせつです。
しかし、「子どもにがまんすることを教えろ」という人は根本的な勘違いをしています。
それは、「がまんする」のと「がまんさせる」のをごっちゃにしているということです。
 
人間、「がまんさせられる」ことばかり経験すると、「がまんする」のが嫌いになってしまいます。
たいていの子どもは、遊びたいのをがまんして、いやいや勉強や習いごとをさせられています。そうして、勉強や習いごとをするのが嫌いな人間になってしまいます。
 
人間にとって、自発的にするのと、人に強いられてするのとでは、根本的に違います。
今の教育は「自発的にする」ことよりも「させる」ことばかりになっています。
そうして教育された人間は、自由になるとなにをしたらいいのかわからず、「目先の快楽」を求めるだけになってしまうわけです。
 
君野容疑者は最初に就職した自衛隊をすぐに辞めてしまいました。
君野容疑者のような人間でも、最初の就職先を辞めずに定年まで勤めることがあります。そういう人間は、酒、タバコ、ギャンブルが楽しみで、趣味もなく、定年後はなにをしたらいいのかわからなくなってしまいます。世の中にそういう人間はいっぱいいます。
 
ですから、君野容疑者は子どもを殺した以外は、「普通のダメな人間」です。オタク属性もありません(オタクというのは、ようやく狭い隙間に「自発的にする」ことを発見した人間と理解できます)
こういう場合、マスコミは報道するのが苦手です。報道する側の人間とたいして違わないので、一方的に批判する報道がやりにくいからです。
 
しかし、「普通のダメな人間」がどうして生まれるのかということも追究する価値はあります。

ブログを書いていると、おかげでだんだん考え方が進歩してきます。
朝日新聞の慰安婦誤報問題に関して「日本人をおとしめた」「日本の誇りを傷つけた」という大合唱を聞いて、関西弁でいうと、「日本人の誇り? それ、なんぼするの?」と思っていましたが、だんだんと論理的に説明できるようになってきました。
 
「日本人の誇り」というのは曖昧な概念で、人によって考えが違います。「強制連行はなかった」と言って軍国日本を正当化しようとすることが、日本の評価を落とし、「日本人の誇り」を傷つけることだと思う人もいます。
 
また、「日本人の誇り」は「韓国人の誇り」とバッティングします。「日本人の誇り」を言う人は必ず「韓国人元慰安婦は嘘つきだ」と言うので、「韓国人の誇り」を傷つけます。
 
ですから、「日本人の誇り」を言う人は国際社会ではなにも発言できません。
「日本人の誇り」を言う人の声は、国内にこもるばっかりなので、よりうるさくなるのでしょう。
 
国際社会に発信でき、かつ韓国人も納得させるような論理は、「日本人の誇り」ではなく普遍性を持ったものでなければなりません。
それはなにかというと、「人権」しかありません。
 
それによって人の命が失われたり傷ついたりしたか、あるいは逆に救われたか、どれだけの人が幸福になったか、不幸になったかということを踏まえて発言すればいいわけです。
 
そう考えてみると、朝日新聞の誤報によって傷ついた人が果たしていたのかということになります。
吉田清治は労務報国会下関支部動員部長という肩書きで強制連行を行い、兵士の応援も得たという証言(偽証)をしましたが、その中で誰かを名指しして名誉を毀損したという話はありません。そうすると、朝日新聞の誤報で傷ついた人はいないということになります。
「国家の名誉」は毀損したかもしれませんが、それがどれくらい重要な問題なのかは個人の価値観によります。それよりは慰安婦の人権が侵害されたという問題のほうが重いのは明らかです。
 
「日本人の名誉」というのは右翼的な価値観でしょう。マスコミまでがそうした価値観の報道をしているのは問題です。
 
池上彰氏は、連載コラムが一時は朝日新聞に掲載拒否されるという目にあいましたが、今度は週刊文春のコラムで、朝日新聞を批判する側のメディアを批判し、その中で、メディアが「売国」という言葉を使うことについても言及しています。
 
「一連の批判記事の中には本誌を筆頭に『売国』という文字まで登場しました。これには驚きました。『売国』とは日中戦争から太平洋戦争にかけて、政府の方針に批判的な人物に対して使われた言葉。問答無用の言論封殺の一環です。少なくとも言論報道機関の一員として、こんな用語を使わないようにするのが、せめてもの矜持ではないでしょうか」
 
「売国」と「愛国」にレッテル貼りをするというのは、右翼の手口です。ジャーナリズのすることではありません。わが国の新聞雑誌はジャーナリズムではなく右翼団体の機関紙みたいなものに成り下がっているということです。
 
 
ところで、池上彰氏の記事を引用したのは、今年7月にオープンした「本と雑誌のニュースサイト/リテラ」というサイトからです。
これを読むと、今、朝日新聞を批判する側を批判するメディアはまったくといっていいほどないそうです。
なかなかおもしろい記事が載っているので、リンクを張っておきます。
 
本と雑誌のニュースサイト/リテラ

「日本人をおとしため」とか「日本の誇りが傷ついた」とかいう声を聞いていると、「日本の誇り」というのは、朝日新聞の誤報ひとつで傷ついてしまうようなもろいものかと思ってしまいます。
 
私は「日本の誇り」ということはとくに意識せずに生きているので、「日本の誇り」とか「日本人の誇り」とかにこだわる人の心理はよくわからなかったのですが、作家でNHK経営委員の百田尚樹氏の言葉を読んで少しわかった気になりました。
 
 
テリー伊藤対談「百田尚樹」(2)“特攻隊”をテーマにした理由
 
テリー 映画は、合コンをするような現代の若者の姿と、昔の戦争シーンを交互にずっと見せていくわけですが、百田さんは今の若者をどう思いますか。
 
百田 表面的にはすごく変わった感じがします。かつての日本人は、自分の欲望をそんなに出さなかったですよね。ここはグッと我慢とか、個を抑えて周りのことを考える気持ちが強かった。しかし今は自由主義社会で個人主義と言われていますから。でも、僕は本質的には一緒だと思うんですよ。というのは、僕は95年の阪神・淡路大震災を経験しました。その時に日本人はすごいなと思いました。
 
テリー というのは?
 
百田 私の家の近くで、周りの家はみんな焼けてしまって、たまたま建物がガッチリ作ってあったコンビニが残ったんです。みんなお金も何もないんですが、そのコンビニの店長は、来た人に品物を持っていっていい、余裕ができたらお金を持ってきてくださいと。それで品物は全部なくなったんですが、あとでみんなお金を持ってきてくれて、結局は商品代の何倍にもなったというんです。すごい話ですよね。
 
テリー ええ。
 
百田 それから東日本大震災の時。知り合いの方から聞いたんですが、アメリカ軍のパイロットが救援物資を届けるため小学校の校庭に降りる時にすごく怖かったと。というのは、過去にさまざまなところで救援物資を届ける仕事をしてきて、ヘリコプターで降りた瞬間に群衆が殺到する。これが怖い。それでおそるおそる降りたら、代表が1人やって来て「ありがとうございます。今から品物を受け取ります」と言って、みんなで整然と受け取っていく。そして品物を全部降ろさないのに「ここの人数だとこれで足りますから、あとの物資は別のところに持っていってください」と。非常に驚いたと言うんですね。
 
テリー なぜ日本人は違うと思われますか。
 
百田 本質的に優しさを持っている民族だと僕は思っています。若者は好き勝手にやっているようだけど、いざとなったらきちんとした行動ができる国民性だと思います。
 
震災についてのふたつのエピソードが語られていますが、私が気になったのは、ふたつ目のエピソードで「知り合いの方から聞いた」というところです。その知り合いは米軍のパイロットから直接聞いたのでしょうか。米軍パイロットと話のできる立場の日本人はなかなかいません。
もしかして「トモダチ作戦」のホームページあたりにパイロットの体験談が載っているのかもしれませんが。
 
なぜそのことが気になったかというと、1991年の湾岸戦争が始まる前、日本も派兵するべきか否かという議論が行われていたとき、竹村健一氏がテレビで「ペルシャ湾にいる米軍空母の甲板の上で、アメリカ兵が日本のタンカーばかりが通るのを見て、『俺たちは日本のためにここにいるのか』と言っているというんです」と語っていたのを思い出したからです。
なぜ米軍空母の甲板の上で行われているアメリカ兵の会話を竹村氏が知っているのかということが気になりました。アメリカの新聞などに書かれていたのかもしれませんが、だったらそう言うべきです。
のちにアメリカの上院だか下院だかの選挙で、候補者が日本のタダ乗りを批判するために、まったく同じことを選挙民向けの演説として言っていることを知りました。どうやら竹村氏は、アメリカの反日政治家の言っていることをそのまま日本のテレビで言ったようなのです。としたら、竹村氏は反日評論家ということになります。
 
その記憶があったので、百田氏の言っていることのソースが気になったのです。アメリカ兵が言っているというところは具体的なのに、そのソースがあいまいというのは竹村氏と同じパターンです。
 
ソースはともかく、内容にも問題があります。
この米軍パイロットの話によると、日本人はとても礼儀正しく、ほかの地域の人間とは違うということです。しかし、ほかの地域に救援物資を届けたとき、物資の量は十分にあったのでしょうか。量が足りなくて、それが生きるためにどうしても必要な水とか食料とかであれば、群衆が殺到するのは当然です。日本でもオイルショックのときはトイレットペーパーに人が殺到しました。アフリカで何十万人も難民が発生した状況と、あと数日もすれば交通が回復して物資が届くであろう日本の状況と比較するのが間違っています。
 
確かに震災のときの日本人の冷静で礼儀正しい行動は国際的にも高く評価されました。しかし、「災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか」(レベッカ・ソルニット著)という本によると、災害時に人々が冷静に秩序立って行動し、互いに助け合うのは普遍的に見られる現象だということです。
日本の場合、まだ社会格差もそれほどではなく、移民もほとんどいませんし、地震や台風などの災害に慣れているということもあります。
 
しかし、百田氏においては、「日本人はすごい」「本質的に優しさを持っている民族」「いざとなったらきちんとした行動ができる国民性」というように、“人間の出来が違う”と見ているのです。
これは人種差別そのものです。
ヘリコプターの救援物資に殺到する人たちを差別しているのです。
アーリア人の優越性を主張したナチスと変わりません。
 
百田氏の言葉に「憎悪」は感じられないので、ヘイトスピーチという感じはしないでしょうが、ヘイトスピーチとなんら変わりません。ただ、目の前に傷つく人がいないだけです。
 
「日本人の誇り」ということを言う人は、必然的に他民族をおとしめます。
 
それにしても、百田氏はなぜ“日本民族の優越性”を信じていられるのでしょうか。
それは、自分に都合のよい、ソースのあやしい情報を寄せ集めているからです。
 
つまり「日本人の誇り」というものは、大本営発表のような「虚報」の上に成り立っているのです。
こうした「虚報」を信じている人は、真実の「報道」につねに脅かされます。
それだけに「誤報」を見つけたときは大はしゃぎしてしまうのでしょう。
そう考えると、最近の朝日新聞の「誤報」を巡る騒ぎが理解できます。

朝日新聞を巡る騒動を見ていると、改めて「右翼パワー」の強さを感じます。どう考えても、日本にとって、朝日新聞のことよりもこちらのほうが重大問題です。
 
「右翼パワー」というのは、要するにナショナリズムのことです。戦後の日本は、ナショナリズムは戦争に結びつくとして、ずっと抑圧してきましたが、ここにきてマグマのように噴き出した格好です。
 
なぜそんなことになったかというと、ナショナリズムというものを理論的に解明していないからです。これは政治学の責任でもあります。
 
私のナショナリズムのとらえ方は単純です。ナショナリズムは「国家規模の利己主義」であるというものです。
利己主義と利己主義は当然ぶつかり合います。今の国際政治の世界はそのようなものです。
 
ただ、ナショナリズムがすべてだめかというと、そんなことはありません。たとえば、植民地支配から独立を目指すときのナショナリズム、大国の迫害を受ける小国のナショナリズム、先進国に追いつくときの途上国のナショナリズムなどは“よいナショナリズム”だといえます。
 
個人においては、自分のことしか考えなかった人がナショナリズムに目覚めるというのは進歩です。ただ、いつまでもナショナリズムにとどまっている人は進歩がないということになります。
 
ナショナリズムが「国家規模の利己主義」であるとわかれば、これからはナショナリズムの克服を目指さなければならないのは当然です。国連がそもそもそのためのものですし、EUもそうでしょう。地球環境問題などではナショナリズムは邪魔者以外の何者でもありません。
 
ところが、日本国内では、どうやらナショナリズムがよいこととされているようです。これは朝日新聞のような進歩派がきっちりとナショナリズム批判をしてこなかったためでもあります。
 
もっとも、アメリカのようなスーパーパワーは平気でナショナリズムを押し出してきますし(もっとも、「正義」とか「人道」という名目ですが)、中国も国内に反ナショナリズム勢力がないので、日本と同じようなレベルです。
 
個人においては利己主義を抑えなければならないのは常識ですが、ナショナリズムは「愛国」とか「正義」とか「売国批判」とか「弱腰批判」という形で逆にドライブがかかります。もともと利己主義というのは動物的本能ですから、そこにドライブがかかると暴走する危険性が大です。
 
ヘイトスピーチも、日本の場合ほとんどナショナリズムの産物です。韓国や在日を批判することは「愛国」や「正義」だと思ってやっているからです。
 
ナショナリズムは暴走しないように理性で抑えなければならないというのは、人類が悲惨な戦争の歴史から獲得した知恵ですが、なぜそうなのかという理論が明確でありませんでした。しかし、ナショナリズムは「国家規模の利己主義」であると規定すれば明確になるはずです。
 
日本の右翼は、ナショナリズムが「国家規模の利己主義」であるということを理解するでしょうか。
 
ところで、「国家規模の利己主義」という言い方もまだるっこしいものがあります。
そこで、「利国主義」という言い方のほうがいいのではないかと考えました。
「利国主義」なら「利己主義」と同じものだということがよくわかります。
また、「愛国心」は「利国心」と言い換えたほうがいいでしょう。
「利国心」なら「利己心」と同じであることがよくわかります。
 
自民党は道徳教育で「利国主義」や「利国心」の克服を教えるべきです。

朝日新聞の木村伊量社長は9月11日、記者会見を開き、吉田調書に関する記事について、「命令違反で撤退」と記述したのは誤りであるとして、記事を取り消しました。慰安婦問題に続いての失態です。
 
私は取り消された記事を、ブログで取り上げようかと思って、掲載された時点で詳しく読んでいました。
読んだところ、多くの社員(と下請け社員)が福島第一から第二に逃げたものの、半日程度でまた戻ってきたので、たいした問題とは思えませんでした。社員が逃げたために原発事故がより深刻化したというのであれば、これは大きな問題ですが、実害はほとんどなかったようなので、ブログで取り上げることではないと判断しました。
 
つまりこの記事の内容は、「当時の現場は混乱のあまり指揮伝達がうまくいかず、多くの社員が第一から第二に退避したものの、すぐに引き返すという一幕もあった」といったことで、そのような記事であれば問題はなかったわけです。
 
しかし、この記事は一面トップに大きく載り、「命令違反」という言葉も使われていたため、現場から逃げていなくなった社員がいてたいへんな事態が起きていたような印象を与えます(詳しく読むとそうでないことがわかりますが、たいていの人は表面的に判断します)
 
なぜそんなことになったかというと、そのときの私の想像では、朝日新聞は吉田調書を入手したということを大スクープにするために、強い印象の記事にしたかったのでしょう。それから、朝日新聞は反原発ということを社の方針にしていますから、事故現場が混乱していたということを強調したかったということもあったでしょう。
 
ともかく、これは典型的な「針小棒大」の記事で、読者を惑わすものですから、朝日新聞が記事を取り消して謝罪したのは当然です(とはいえ、「命令違反」か否かというのは見る角度によっても違ってきますから、朝日新聞に勢いがあるときならこのまま押し通してしまうこともできたかもしれません)
 
 
とはいえ、私は朝日新聞を批判するより、朝日新聞を批判する側を批判することにします。みんなと同じことをやっても意味がありませんし、それに、朝日新聞が日本を悪くするより、朝日新聞を批判する側が日本を悪くすることのほうがより大きいと思えるからです。
 
例によって「日本人をおとしめた」「日本の誇りを傷つけた」といった批判のオンパレードですが、記事そのものは別に日本を悪く書いているわけではないので、批判の仕方が間違っています。
ただ、「フクシマ50は日本の誇りだ」と思っていた人にとっては、朝日新聞の記事は日本の誇りを傷つけたことになるかもしれませんが、そういう思い込みの人に配慮していたら記事など書いていられません。
 
たとえば、イチロー選手を批判する記事を書くと「日本の誇りを傷つけた」といって騒ぐ人がたくさん出てくるとなれば、イチロー選手を批判する記事が書きにくくなります(そういえばイチロー選手を批判する記事はまったく見かけません)
 
STAP細胞捏造騒ぎのときも、小保方晴子さんが若くて権威のない人だからまだ批判できましたが、場合によっては、捏造の可能性を指摘すると「日本の誇りを傷つけるのか」と批判されていたかもしれません。というのは、いわゆる和田心臓移植事件のときにそういうことがあったからです。
世界初の心臓移植手術が行われたのは1967年、南アフリカにおいてでしたが、その1年後に札幌医科大学の和田寿郎教授が心臓移植手術を成功させ、これは日本医学界の偉業であるとして世間は沸き立ちました。そのため、この手術に対する疑義を少しでも表明しようものならものすごいバッシングを受け、事実上不可能な状況でした。患者が死亡してからさまざまな疑惑が一気に吹き出したのです。
 
和田心臓移植事件のときは一時的現象でしたが、最近はやたら「日本の誇り」ということが持ち出されます。
「日本の誇り」を持ち出せば自分の言い分が通せると思っているのでしょう。昔、やたら「お国のため」ということが言われたのと同じです。
 
 
ともかく、今は冷静な議論ができないような状況です。
「命令違反」ということはもともと朝日新聞が言い出したことですが、東電社員は自衛隊員ではないので、命の危険があるような状況では「命令違反」をしてもとがめることはできません。となると、今後また原発事故が起きたとき、電力会社社員の「命令違反」が頻出し、事故対応ができないということもありえるわけで、それにどう対処するかを考えておかなければなりません。朝日新聞の記事は本来、そうしたことを考えさせるきっかけになるものですが、「日本の誇り」どうのこうのとばかり言っていてはなにも考えられません。

朝日新聞が慰安婦誤報問題で批判されています。これは朝日新聞の自業自得ですが、批判するほうの論理もデタラメで、しかもそれに誰も突っ込まないのが不思議です。
 
「日本人をおとしめた」とか「日本の誇りを傷つけた」というのが朝日新聞の慰安婦報道に対する批判の決まり文句ですが、朝日新聞の慰安婦報道はあくまで「当時の日本人」とか「軍国日本」がやったことへの批判です。「日本人」や「日本」を批判したり、おとしめたりしているのではありません。
 
とはいえ、間違ったことで批判してはいけませんから、その点で朝日新聞が批判されるのは当然です。ただ、その場合の朝日新聞への批判は、「当時の日本人をおとしめた」とか「軍国日本の誇りを傷つけた」ということになるはずです。
 
「軍国日本」への批判が「日本」や「日本人」への批判に見える人は、「軍国日本」が真の日本だと思っていて、戦後の日本は日本ではないと思っているに違いありません。
 
ちなみに私は、朝鮮併合をして中国大陸を侵略してアメリカに先制攻撃をした当時の日本はろくなものではなく、それを批判することは今の日本の国際的評価を高めることだと思っています。
 
「日本人をおとしめた」「日本の誇りを傷つけた」と主張している人たちは、自分が軍国日本に立脚して主張しているということがわかっているのでしょうか。
 
(あと、福島第一の吉田所長の調書についての誤報問題についても書こうと思いましたが、これについて間もなく朝日新聞の木村社長が記者会見をするというニュースがありましたので、ここではやめておきます)

慰安婦誤報問題について朝日新聞がいまだに攻撃を受けています。もともと間違いを認めるのが遅かった上に、謝罪がなかったこと、それに池上彰氏の原稿掲載について迷走したことなどが原因でしょう。読売新聞などはライバルを攻撃することによる経済的利益も考えてやっているかもしれません。
バイト店員炎上事件みたいに、問題行動をして動かぬ証拠を残した人間はとことんバッシングされるのが最近のネット事情です。朝日新聞も自分で誤りを認めたので、まさに動かぬ証拠を提供したわけです。
 
しかし、それだけでは今の騒ぎは説明できないような気がします。
これはやはり“朝日新聞的なもの”がよほど嫌われているのだというべきでしょう。
 
では、“朝日新聞的なもの”とはなにかというと、“知的エリートくささ”みたいなものです。
朝日新聞記者はみな高学歴で、知性も教養もあります(おまけに高収入です)。こういうのは大衆から嫌われる要素です。
 
もっとも、昔は「知的エリートは嫌いだ」というような声が表面化することはまずありませんでした。というのは、世論をリードしていたのはもっぱら知識人や新聞の論説委員だったからです。
しかし、今はネットの普及で世論の形成主体が大衆に移りつつあります。そうすると、世論そのものが反知性主義的な傾向を帯びることになり、朝日新聞のようなものは批判されやすくなります。
 
ですから、今の朝日新聞批判は、左翼対右翼というよりも、知性主義対反知性主義からきていると見るべきでしょう。
ちなみに慰安婦問題で朝日新聞追及の急先鋒に立った産経新聞は、五大新聞の中でもっとも知的レベルの低い新聞です(こういっても誰からも文句は出ないはずです)
 
もっとも、「朝日新聞は知的だからけしからん」という人はいません。批判するにはやはり大義名分が必要です。
そうしたところに生じた慰安婦誤報問題は、「朝日新聞は日本人をおとしめた」とか「朝日新聞は日本の誇りを傷つけた」という愛国的主張ができるので、格好の材料だったというわけです。
ですから、表面的には「知性と教養を誇る人」対「日本を誇る人」の対立ということになっていますが、内実は知性主義対反知性主義の対立と見るべきです。
 
とはいえ、反知性主義の台頭を許してしまうのは、知性主義の側にも問題があるからです。真に知性と教養のある人は大衆からも尊敬されるはずです。
慰安婦誤報問題での対応のまずさには権威主義や傲慢さがうかがわれます。朝日新聞はこれを機会に反省し、生まれ変わってもらいたいものです(独裁者の支配する読売新聞が朝日新聞よりましとはとうてい思えないので)
 

ヘイトスピーチ規制というのは、言論の敗北宣言みたいなものです。ヘイトスピーチをする相手を言い負かせないか、あるいは相手に言い負かされそうだから規制しようということですから。
 
また、そうした規制は警察・司法権力がするわけですから、権力が恣意的な運用をするという危険性もあります。
この点については橋下徹大阪市長がまともなことを言っています。
 
橋下氏、ヘイトスピーチ民事訴訟支援も
(前略)
 橋下氏は、戦前の日本では治安維持法で言論の自由を弾圧した過去があるとし、発言内容の是非については「公権力が差別的かどうかを(直接)判断するのは非常に危険だ」と指摘。その上で「民事的解決の中でヘイトスピーチを抑える方策があるのではないか」とした。(共同)
 
 
また、ヘイトスピーチのほかにヘイトクライムという言葉もあります。
イスラエルでヘイトクライムが急増しているという報道がありました。
 
 
「ヘイトクライム」急増 ガザ停戦から1週間
   イスラエル国内や同国が占領する東エルサレムで、パレスチナ人やイスラエル国籍のアラブ人に対する憎悪犯罪(ヘイトクライム)が急増している。1カ月半続いたイスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザ攻撃は停戦から1週間たったものの、社会に残った対立は容易に消えそうにない。
 
■パレスチナ人への襲撃急増
 
 会社員アミル・シュウェイキさん(20)は7月下旬の仕事帰り、ユダヤ人の若者たちに金属バットで頭を殴られて大量出血し、意識不明の重体になった。「『アラブ人は死ね』と言われ、約20分間、殴る蹴るの暴行を受けた」(一緒にいた友人)
 
 シュウェイキさんは脳に障害が残り、治療に半年以上かかるという。母アイダさん(50)は「突然泣くこともあり、何が現実か分からないようだ」と顔を曇らせる。「病院では、すれ違ったユダヤ人の見舞客にののしられた。今まではなかったことだ」という。
 
 バス運転手ハリド・ジャマル・オベイデさん(33)も7月下旬、バス停でドアを開けた途端、ユダヤ人の2人組の男に「地獄に行け!」と石を投げられ、右肩を負傷した。痛みで運転ができなくなり、23日間仕事を休んだ。オベイデさんは「同様の事件は毎日のように起きている。だが、解雇につながるのを恐れ、だれも報告しない」と話す。
 
 タクシーをめぐるトラブルも相次ぐ。マフディ・アブホンモスさん(56)はユダヤ人が多い地区を拠点に働く。だが、「『アラブ人か?』と聞かれ、そうだと言うと乗車しない客が増えた」。突然殴られたり、石を投げられてタクシーを壊されたりした運転手も少なくない。
 
 イスラエル軍によるガザ攻撃中は、件数は不明だが、パレスチナ人が経営する店への放火も起きた。インターネット上には差別発言があふれ、極右のデモでは「アラブ人に死を」と叫ぶ光景も見られた。
(後略)
 
 
ヘイトスピーチを規制するより、ヘイトクライムの取り締まりのほうが先決なのは明らかです。
 
とはいえ、ヘイトスピーチの法的規制は国連人種差別撤廃委員会から勧告され、またヨーロッパ各国ではすでにヘイトスピーチ規制が行われていると聞きます。そうすると、「日本は遅れていてだめだ。欧米並みを目指さなければ」という気になるかもしれません。
しかし、ヘイトスピーチ規制がきびしいということは、きびしく規制しなければならないほどヘイトスピーチがひどいということです。
そういう国のまねをすることはありません。
 
私が思うに、欧米における差別は日本における差別よりも数段レベルが上です。
先の新聞記事でも、イスラエルでパレスチナ人やアラブ人が現実に襲われています。また、襲うほうの人間もユダヤ人としていまだに差別されています。欧米の有名人がイスラエルの政策を批判するとき、ユダヤ人差別やナチス礼賛なども同時に言い、結果的にイスラエルを利してしまうことがよくあります。
 
欧米における黒人差別も深刻です。
先日、横浜マリノスのサポーターがアフリカ系の選手に対してバナナを振り、無期限入場禁止処分を受け、横浜マリノスの社長が謝罪するということがありました。日本人にはあまりピンときませんが、欧米では黒人は人間でなくサルの類であるという差別意識があるので、こうした行為が問題になります。
日本でも、サル真似、サル知恵という言葉があり、人間をサルに擬してバカにしますが、人間とサルを同一視しているわけではありません。しかし、欧米では黒人を人間ではなく動物と見なしているのですから、差別のレベルが違います。
 
文明人はまだ文明化されていない周辺民族を野蛮人として差別します。つまり差別は文明と切っても切り離せない病理で、文明が進むほど差別もひどくなります。近代西洋文明がいちばん差別がひどいのは当然です。
 
日本の差別は欧米よりはよほどゆるやかです。
そして、差別対策もゆるやかです。 
たとえば部落差別を克服するのは主に同和対策事業によって行われ、部落差別禁止法のようなものはつくられませんでした。
ヘイトスピーチ規制法をつくるのは、今まで日本がやってきたことにも反します(アイヌ差別、ハンセン病差別などは欧米の真似をした面が大きいと思います)。
 
 
考えてみれば、日本にはほとんどヘイトクライムがありません(陰湿な差別はありますが)
ヘイトスピーチにしても、ネットの匿名の書き込みのほかは、新大久保のデモとか大阪鶴橋のデモぐらいのものではないでしょうか。
少ないからかえって目立つということがあると思います。
 
日本は国連で採択された国際組織犯罪防止条約に加入する必要があるとかいう理由で「共謀罪」もつくろうとしていますが、これもヘイトスピーチ規制法と同じようなものだと思います。
差別先進国や犯罪先進国の真似をすることはありません。

国連人種差別撤廃委員会は8月29日、ヘイトスピーチを法的に規制するよう日本政府に対して勧告を行いました。これまでもヘイトスピーチの法的規制について議論が行われてきましたが、この勧告によっていよいよ現実のものとなりそうです。
 
確かに日本は人権意識が低く、ヘイトスピーチが横行するという現実があります。たとえば慰安婦問題にしても、朝日新聞の誤報と強制連行ばかりが問題になっていて、慰安婦の人権について論じる人がほとんどいないのは驚くべきことです。
また、自民党はヘイトスピーチへの対策を検討するプロジェクトチームの初会合において、デモに対する規制も併せて議論する方針を確認したということです。まるで火事場泥棒ですが、これも人権に対する認識の低さを示しています。
 
新大久保のヘイトスピーチデモなどで傷ついている人がいるので規制すべきだという意見にはある程度説得力がありますが、こうした規制はあくまで対症療法です。肺炎で熱が出ている患者に解熱剤を処方しても肺炎が治るわけではありません。かえって悪化させてしまうかもしれません。
 
日本はヘイトスピーチ規制が遅れているといわれますが、では、進んでいる国はどうなのでしょうか。
 
ヘイトスピーチという言葉はアメリカで使われだしたそうです。アメリカでは法的規制こそありませんが、ポリティカルコレクトネスという考え方が強く、ヘイトスピーチには強い社会的制裁が加えられます。しかし、それによって差別が少なくなるかというと、そんなことはありません。つい最近もミズーリ州で黒人少年が警官に射殺されたことをきっかけに暴動が起き、黒人差別が依然深刻であることが浮き彫りになりました。
ヨーロッパでも、移民排斥が強まり、極右政党やネオナチが勢力を拡大しています。
 
ヘイトスピーチ規制はあくまで差別表現を規制するだけですから、差別心は温存されます。
表現が抑えられた差別心は、内圧が高まって、もっとひどい形で吹き出すかもしれません。
 
差別心そのものをなくす方法がわからないので、代わりに差別表現をなくそうというのは、規制する側の単なる自己満足です(児童ポルノ規制も同じ論理です。変態性欲をなくす方法がわからないので、代わりに表現をなくそうということです)
 
「レイシストをしばき隊」のような反ヘイトスピーチ運動も似たようなものです。
いや、もっとひどいかもしれません。ヘイトスピーチ運動も反ヘイトスピーチ運動もやっていることは同じです。「ミイラ取りがミイラになる」という言葉そのままです。
 
私の考えとしては、ヘイトスピーチは規制するよりも、自由にさせて、それを批判したほうがいいと思います。
ヘイトスピーチというのは、陰謀論のような根拠のないことや、非科学的なことや、矛盾したことの塊なので、自由にしゃべらせて、それを批判したほうが効果的です。
 
ヘイトスピーチによって傷つくという問題ですが、人は尊敬している人や重要な人から批判されると傷つきますが、自分が見下している人間から批判されても平気なものです。自由にしゃべらせて、それがバカバカしいことだとわかれば、傷つかなくなるはずです。
 
根本的なことをいえば、ヘイトスピーチというのは憎悪の感情に基づくものですから、愛によるしかなくす方法はありません。
政治の世界は愛については不毛の世界なので、なかなか展望は開けませんが(「愛国心」というのは愛ではなくて「国家規模の利己心」のことです)

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