村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2014年12月

この1年を振り返ると、このブログで書いてきたのは、ヘイトスピーチ、慰安婦問題、安倍政権などが多かったと思います。
三つとも、「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」という私の思想にぴったりの題材だからです。
 
道徳という棍棒で殴り合う傾向は、ここ数年でどんどん強まっています。
その理由のひとつは、インターネットで匿名の発信ができることです。普通、われわれは人のことを批判すると、「そういうお前はどうなのだ」というリアクションを覚悟しなければなりませんが、匿名なら一方的に批判することができます。
もうひとつの理由は、学校でイジメを体験した人がふえて、イジメるかイジメられるかという発想が社会をおおうようになったことでしょう。
 
そして、そうした流れにうまく乗っているのが安倍政権です。調子に乗りすぎて、小学生のふりをして「どうして解散するんですか」というサイトを運営した大学生を安倍首相は自身のFacebookで批判し、首相が個人攻撃をしていいのかと批判されて、あとで削除するという騒ぎもありました。
一方、その流れに乗れていないのが民主党であり、朝日新聞でした。
 
たとえば、次の朝日新聞の社説には、なんともいえない気持ちの悪さがあります。
 
(社説)靖国参拝 高市さん、自重すべきだ
高市総務相が、17日からの例大祭にあわせ靖国神社に参拝する意向を示している。
 
 だが、高市さん、ここは自重すべきではないか。
 
 そもそも、首相をはじめ政治指導者は、A級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社に参拝すべきではない。政教分離の原則に反するとの指摘もある。
 
 しかも、北京で来月開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)での日中首脳会談の実現に向けて、関係者が努力を重ねているときである。それに水を差しかねない行為を慎むのは、閣僚として当然だ。
 
 戦争で命を失った肉親や友を悼むため、遺族や一般の人々が靖国で心静かに手を合わせる。それは自然で尊い行為だし、だれも否定はできない。
 
 一方、かつての戦争指導者がまつられている場所にいまの政治指導者が参拝すれば、その意味は全く変わってしまう。
 
 A級戦犯が罪を問われた東京裁判には、勝者による裁きといった批判がある。それでも、日本はサンフランシスコ平和条約で裁判を受け入れ、これを区切りに平和国家としての戦後の歩みを踏み出した。
 
 靖国に参拝する政治家たちは、「英霊に尊崇の念を表すのは当然だ」という。だが、A級戦犯は、多くの若者をアジアや太平洋の戦場に送った側にある。送られた側とひとくくりにすることはできない。
 
 そこをあいまいにしたまま政治家が参拝を続ければ、不快に思う遺族もいる。また、中国や韓国のみならず欧米からも、日本がかつての戦争責任や戦後の国際秩序に挑戦しようとしているとの疑いが出てくる。
 
 高市氏は、戦後50年の「村山談話」などにかねて疑問を示してきた。最近も、ナチスの思想に同調しているとみられる団体の代表と写真を撮っていたことが海外で報じられた。
 
 自民党政調会長や総務相として安倍首相に重用され続けている高市氏の言動は、個人の思いにとどまらず、政権の意思と受け止められかねない。
 
 その高市氏が靖国神社に参拝すれば、国際社会が抱きつつある疑いをますますかき立てることになりはしないか。
 
 戦後70年が控えているというのに、いまだ歴史問題にピリオドを打てないのは不幸なことだ。だれもが参拝できる新たな追悼施設をつくるといった、抜本的な解決策を真剣に検討すべき時だ。
 
 戦没者への強い思いがある高市氏ならばこそ、こうした課題に取り組むべきではないか。
 
朝日新聞は高市総務相の靖国参拝に反対しているのですから、当然強い口調で批判し、攻撃しなければならないところですが、妙になれなれしい口調になっています。ボクサーがリングに上がって、殴り合うかと思ったら、いきなり(クリンチでなく)ハグしたみたいな気持ちの悪さです。
 
世の中の基本は、競争であり戦いです。戦うところで戦わないとなにも得られません。
ですから、平和主義者は戦争主義者と戦って打ち負かさないと、平和を達成することはできないのです。
 
もちろんここにはパラドックスがあります。これはフィリップ・マーロウの「タフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」という言葉にうまく表現されています。
そして、土光敏夫の母親の「正しきものは強くあれ」という言葉が解決の方向を示しています。
 
ただ、根本的な解決は、善か悪かという道徳的思考を脱して、愛か憎しみか、寛容か不寛容かという思考に転換することです。
 

朝日新聞の渡辺雅隆社長は1226日、慰安婦報道を検証する第三者委員会による報告書提出を受けて記者会見し、「社会の役に立つメディアとして、再び信頼していただけるよう、改革に取り組みます」などとする社長見解を示しました。
また、朝日新聞は社外の4人の有識者を招いて「信頼回復と再生のための委員会」を発足させています。
どうやら朝日新聞は「信頼回復」ということを目標にしているようです。
 
私は朝日新聞が「信頼回復」という言葉を繰り返すのを見ていると、「よらしむべし、知らしむべからず」という言葉を思い出します。
信頼するか否かというのは読者の内面の問題です。
朝日新聞にできるのは、たとえば間違いのない情報を届けるといったことです。読者の内面の問題を目標にするのは間違っています。
 
読者のほうも新聞を信頼したいとは思っていないでしょう。むしろメディア・リテラシーを高めたいと思っているはずです。
 
「信頼回復」という言葉には、読者を導こうという意識がすけて見えます。
 
新聞というのは、基本的に読者に情報を届けるサービス業だと思います。
新聞社の意見や主張も書かれますが、社説がほとんど読まれないように、読者はそういうものは求めていません。
そのため新聞社はどこも、報道のしかたや記事の大小で読者を導くわけで、これが問題です。
中でも朝日新聞はとりわけ“上から目線”で読者を導こうとする姿勢があって、慰安婦誤報問題があれだけの大騒ぎになったのは、そうした姿勢ゆえではないでしょうか。
 
ですから、これを機会に、朝日新聞は「信頼回復」を目指すのではなく、「サービス業宣言」をして、もっぱら読者のニーズに応える新聞を目指すべきです。
もっとも、朝日新聞社員のエリート意識がじゃまをして、なかなかできないでしょうが。

朝日新聞が慰安婦報道について検証する第三者委員会報告書を発表しました。1223日朝刊で6ページ全面のスペースを使い、ほかに第1面のほとんどと第2面、第3面にも関連記事があります。読者にとっては、読みたくない記事ばかりが並んでいて、これこそが“報道被害”です。
 
私もほとんど読みませんでした。個々の事実を詳しく知っても意味がありません。その代わり、第三者委員会の7人のメンバーがそれぞれ総括的な感想を述べたところだけ読みました。それで全体的なことがわかると思ったからです。
 
その中でいちばん重要な指摘をしていると思ったのは、林香里委員の意見です。
 
■慰安婦問題と女性の人権 林香里委員
 
 第三者委員会の議論で、ほとんど取り上げられなかった、慰安婦問題と「女性の人権」の関係について、個別意見を述べたい。この論点が委員会で取り上げられなかった背景には、一つには朝日新聞の社内ヒアリングをしても「女性の人権」は争点となっていなかったため浮上してこなかったという報道・編成局内部の問題と、もう一つには、第三者委員会メンバーのうち、女性は私一人であり、さらに女性の人権の専門家も不在だったという委員会の構造的問題の二つがあると考えられる。
 
 今回、第三者委員会の指示で朝日新聞の取材網にインタビューさせた海外の有識者たちからも、また、海外15紙の新聞記事の検証からも、国際社会では、慰安婦問題を人道主義的な「女性の人権問題」の視点から位置づけようとしていることが見てとれた。海外の報道では、記事に登場する情報源の国籍・出自・職業の多様性も目についた。他方で、近年の日本国内の議論では、ほとんどの場合、日韓や日米などの「外交問題」、および「日本のイメージの損失」など、外交関係と「国益」の問題として扱われている。内外の議論のギャップが、改めて浮き彫りにされた。
 
 朝日新聞の杉浦信之・取締役編集担当(当時)による8月5日付の記事「慰安婦問題の本質 直視を」(1面見出し)においても、「女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです」と結論付けていた。それにもかかわらず、朝日新聞の過去の記事を調査すると、この点に十分な光が当てられていたという印象は薄い。また、社内ヒアリングをした際も、慰安婦問題を扱う現場の記者たちの中に、「女性の人権」という観点から専門家に取材したり、問題意識を共有したりしていた形跡はほとんどなかった。その上、記者たちからは、近年の朝日新聞の「慰安婦問題」に取り組む姿勢は、中途半端、あるいは消極的であったという声も複数上がっていた。ちなみに、私が調査したところ、日本の全国紙4紙の中で、「慰安婦」で検索した記事の割合は、2009年以降産経新聞がトップである。
 
 こうした環境の中で、結局、朝日新聞も、「国家の責任」「国家のプライド」という枠組みから離れることができないまま、「女性の人権」という言葉を急ごしらえで持ち出して、かねてから主張してきた「広義の強制性」という社論を正当化していた印象がある。「本質」と言いながら、慰安婦問題の本質と「女性の人権」とがどのような関係にあるのか。日本の帝国主義が、女性や被植民者の権利を周縁化し、略奪することで成立していた体制だったという基本的事実を、読者に十分な情報として提供し、議論の場を与えてきたとは言い難い。
 
 第三者委員の任務にあたり、慰安婦問題解決の複雑さ、困難さ、そして重要さを改めて実感した。だからこそ、日本社会において、このテーマを、女性はもちろん、外国人、専門家、一般市民など、多様で幅広い社会のメンバーが自由に議論できる土壌を耕し、議論の幅を広げていかなければならない。朝日新聞には、今回の一連の事件をきっかけに、ぜひその牽引力となっていってほしいと願う。
 
 
実を言うと、7人のメンバーのうち「人権」について言及しているのは林委員だけです。
 
ちなみに7人のメンバーは以下の人たちです。
 
元名古屋高裁長官で弁護士の中込秀樹氏(73)(委員長)
外交評論家の岡本行夫氏(68)
国際大学学長の北岡伸一氏(66)
ジャーナリストの田原総一朗氏(80)
筑波大学名誉教授の波多野澄雄氏(67)
東京大学大学院情報学環教授の林香里氏(51)
ノンフィクション作家の保阪正康氏(74)
 
女性が1人だけというのも問題ですが、年齢構成も林氏だけが50代で、あとはすべて60代以上というのも問題です。
権威ある人を選んだために年齢層が高くなってしまったのでしょうが、そのため考え方が古く、“上から目線”になり、とりわけ「人権」という観点がおろそかになってしまいました。
また、産経新聞に書いたほうが似合っているのではないかという人もいます。こういう“バランス感覚”も問題です。
 
慰安婦問題は基本的に人権問題です。林委員が指摘しているように、海外でもそうとらえられています。強制連行の有無ばかり議論しているのは日本だけです。
 
そして、林委員によると、第三者委員会の議論でも人権はほとんど取り上げられなかったし、朝日新聞社内のヒアリングでも人権は浮上してこなかったということです。
朝日新聞社内の人権感覚にもそうとうな問題がありそうです。
 
7人の委員で人権にまともに言及したのは林委員だけですが、「人権派」という言葉は波多野澄雄委員が使っています。波多野委員の文章から一部だけ引用します。
 
 いわゆる「人権派」の一握りの記者が、報道の先頭に立っていた点も特徴的である。とくに、クマラスワミ報告書や女性国際戦犯法廷の意義を過剰に評価する記事は主に、彼らによるものであった。ある記者は、彼らの問題点を「運動体と一緒になってしまう」傾向と指摘する。朝日は、慰安婦問題の本質は女性の人権や尊厳の問題だ、としばしば説くが、現実的な選択肢を示せないまま、本質論に逃げ込むような印象を与えることは否めない。多様な読者に豊かな情報を伝える努力を奪う。
 
朝日新聞の人権感覚も「人権派」という言葉でかたづけられてしまう程度のもののようです。
 
私は前から何度も言っていますが、慰安婦問題は性差別、人種差別、職業(売春婦)差別という三重の差別の問題です。
朝日新聞再生の道は、人権感覚を磨くことしかありません。

ピースおおさか(大阪国際平和センター)の展示が「自虐的」だと批判され、現在展示内容の見直しが行われています。
それについて映画監督の森達也氏は次の文章を書いています。
 
自虐史観と呼びたければ呼べばよい。
でも、加害の記憶から目を背けてはいけない
 
長い文章ですが、要するに加害の歴史を記憶に刻むことのたいせつさを主張しています。
その主張には私も同感ですが、タイトルにある「自虐史観と呼びたければ呼べばよい」というところに引っかかります。こういうことを言っていては、自虐的だと批判している人はますます言うようになるかもしれません。
少なくとも、批判をはね返すような勢いが感じられません。
今、「自虐的」という言葉を使う歴史修正主義者の勢いが強いので、土俵際に追い詰められている格好です。
 
「自虐」という言葉は歴史修正主義者が好んで使う言葉で、歴史認識問題におけるキーワードといってもいいでしょう。
 
では、「自虐史観」批判をする歴史修正主義者は、自分の立場をどういう言葉で表現しているでしょうか。
日本における歴史修正主義者の元祖ともいうべき人物は藤岡信勝氏ですが、藤岡氏は自分の立場を「自由主義史観」と表現していました。これは「マルクス主義史観」に対する言葉です。しかし、今「自由主義史観」を標榜する人はまったくといっていいほどいません。
そして、それに代わる言葉はありません。
ということは、「自虐史観」を批判する人は、自分の立場を明らかにしていないのです。
 
自分の立場を明らかにしないというのはひじょうに有利な状況です。人から批判されることがないからです。
 
そこで私は、「自虐史観」を批判する人の立場を「自尊史観」と名づけたことがあります(一水会の鈴木邦男氏も「自尊史観」という言葉を使っていました)
 
しかし、最近考えが変わってきて、「自慢史観」のほうがより適切な表現ではないかと思うようになりました。
最近、「日本はこんなにすごい」ということをいうテレビ番組や本がいっぱいあるからです。
 
自慢する人というのは、本人はいい気分なのでしょうが、はたの人にすると不愉快なものです。日本もそういう国になっていないかと戒めるためにも「自慢史観」のほうが適切ではないかと思います(ほかに「自慰史観」という言葉もありますが、これは一般には普及しないでしょう)
 
そして、よく考えてみると、「自虐」の反対語はもうひとつあります。
それは「他虐」です。
 
「自虐史観」はけしからんという人は、必然的に「他虐史観」になります。
つまり、中国はけしからん、韓国はけしからん、アメリカはけしからんということになっているわけです。
 
「自虐史観」対「他虐史観」というふうにとらえると、正しいのはその中間にあるということがわかります。
 
当たり前の話ですが、正しい認識は自国にも他国にも中立・公正なものでなければなりません。
こういう当たり前の話がほとんどできていないのではないかと思います。

衆院選が終わって、冷静な頭で考えてみると、政治の世界というのはつくづく妙なものです。
たとえば、投票率が低いのはよくないので、選挙に行こうという呼びかけが盛んに行われました。
しかし、投票率が低くて困ることはなにもありません。
 
投票率が低いと組織票の強い政党に有利になり、投票率が高いと組織票の弱い政党に有利になるということがありますが、要するにプラスマイナスがあるということで、投票率が高いほうがいいとは単純に言えません。
むしろ選挙に行こうという呼びかけが功を奏して、あまり政治に関心のない人が投票するようになると、政治を真剣に考えている人の票を打ち消してしまう恐れがあります。つまり“投票の質”が下がるのです。
 
政治をよくするには、投票率を上げることではなく、“投票の質”を上げることです。
そのためには、「よく考えて投票しよう」と呼びかけるべきです。
それから、「政治のことをよく考えている人は投票して、あまり政治のことを考えていない人は投票するのをやめよう」と呼びかけるべきです。
 
政治のことを考えていない人はどうせ投票しないでしょうから、後者の呼びかけは必要ないかもしれません。
それよりも、「所属する組織の指令や人に頼まれたからということで投票せず、自分の判断で投票しよう」という呼びかけのほうがいいでしょう。つまり組織票の質の向上をはかるのです(結果、組織票でなくなるかもしれませんが)
 
魅力的な政党や候補者がどんどん出てきて投票率が上がるならけっこうなことですが、政治のあり方はそのままで投票率だけ上げても意味がありません。いや、意味がないどころか、むしろ政治の質の低下を招いてしまいます。
 
選挙に行こうと呼びかけている人は、当然自分自身は選挙に行くわけで、政治的な人間でしょう。
政治的な人間はみな衆愚政治やポピュリズムを批判しますが、みずから衆愚政治やポピュリズムを招いているわけで、バカとしか言いようがありません。

衆院選は予想通り与党勝利という結果でした。
この結果を招いたのは、やはり野党第一党である民主党がふがいなかったからでしょう。海江田代表が比例でも復活できず落選したというのがその象徴です。
 
民主党のだめさは、民主党のテレビCMで女性が笑顔で「夢は正社員になること」と語るシーンを見てもわかります。ほとんどの人は「えっ、夢ってそういうこと?」と思うでしょう。
安倍首相は選挙運動の最終日である13日、秋葉原で演説したときに、「あのテレビCM、恥ずかしいと思いませんか?」と言いました。安倍首相にまでバカにされています。
 
「正社員」という言葉をキーワードにCMをつくるなら、怒りあるいは悲しみの表情で「こんなに一生懸命働いてるのになぜ正社員になれないのですか」と語る女性を出したほうがよほどアピールします。
 
CMのつくり方というのは、小さな問題のようですが、大きな問題につながっているような気がします。
 
根本的なことを言えば、民主党は政権運営に失敗したのですから、そのあと反省して党が変わったことを示さなければ、有権者は投票する気になりません。それができていなかったということでしょう。
 
 
今後、そうとう長期にわたって自民党中心の政権が続きそうです。そうなると、日本はどうなるのか、これからのシナリオを考えてみました。
 
私自身は、安倍政権がどんどん右傾化していくということはそれほど心配していません。今の時代に“一国軍国主義”というのは不可能だと思うからです。
 
問題は、経済と国家財政です。
アベノミクスといっても、実態は小渕政権や森政権や麻生政権がやってきたバラマキと変わりません。これは結局、財政赤字をふやすだけです。
ただ、日銀による異次元の金融緩和が資産バブルを発生させているので、景気がよくなっているように見えますが、バブルはいずれはじけて、より深刻な不況を生みます。
 
安倍首相は「アベノミクスは経済の好循環を生む」と言っていますが、藻谷浩介著「デフレの正体」によると、労働人口が減少する社会がデフレになるのは当然だとされますし、水野和夫著「資本主義の終焉と歴史の危機」によると、歴史の長期的なサイクルでは先進国に投資してももうからない時代に入っているということで、安倍首相の言うようにはならないでしょう。
 
エコノミストにはアベノミクスに期待する人がたくさんいますが、おそらく1年、2年という目先の利益を考えて言っているだけで、長期的に経済成長が続くと思っている人はいないのではないでしょうか。現に2期連続でGDPはマイナスですし。
 
遅かれ早かれアベノミクスが失敗し、財政危機が表面化し、国債がデフォルトするか否かという事態になるのではないかと思われます。
 
そうしたことを避けるには歳出削減をしないといけませんが、民主党政権での事業仕分けのイメージがひじょうに悪いので、今、歳出削減を主張する声はほとんど聞かれません。
こういうイメージ戦略を仕掛けているのは官僚組織でしょうが、目先の利益だけを考えてのことです。
 
 
考えてみれば、私の人生はほとんど自民党政権とともにありました。民主党のCMではありませんが、「夢は政権交代」と想い続けて、今はその夢も失せてしまったわけです。
 
しかし、政権交代とか革命とかクーデターとかで変わるのは、社会の上部構造です。社会の下部構造、つまり人と人の関係から変えていくということを地道に続けていくしかないと思っています。

まったく盛り上がらない選挙ですが、麻生太郎財務相が1人でがんばって問題発言を連発して盛り上げてくれています。
「利益を出していないのは経営者に能力がない」発言に続いて、「子どもを産まないのが問題」発言です。
 
ただ、後者の発言については、全文を読むと問題発言ではないと指摘するブログが「BLOGOS」に紹介されていました。
マスコミが発言の一部を切り取って真意をねじまげるというのはありがちなことです。マスコミの尻馬に乗って無実の人をバッシングしてはいけないと思い、それを読んでみました。
 
麻生さんの発言の全文のどこに問題があったのか、じっくり聞いて書き起こしてみたよ
 
麻生大臣の問題発言とされるところの全文がこれです。
 
「それをしない限り日本の場合は少子高齢化になってて、昔みたいに働く人6人で高齢者一人の対応をしていたものが、今はどんどん子供を産まないから。なんか高齢者が悪いようなイメージを思い切り作ってる人がいっぱいいるけど、子供を産まないのが問題なんだからね。長生きしたのが悪いことなんか言ってもらっちゃ困りますよ。子供が生まれないから、結果として子供3人で1人の高齢者、もう少しすると2人でひとりになります。そら間違いなく税金が高くなるということですよ。それを避けるためにはみんなで少しずつ負担してもらう以外に方法がありません。ということで、私どもは消費税ということを申し上げております。」
 
この発言に対して、ブログ主の永江一石氏はこのように書いています。
 
すいません。どっか変ですか??
 
子供を作りたいという将来の夢がない社会にしたのは誰だっていう点はあるが、言ってることはごく当たり前。仮に「子供を産まない」主語が「おまえら」なのであれば「おめーら国民が子供を産まないのが悪い」と取れなくもないが、聴衆は老人ばっかりだし、話の前後を見ると「社会構造」の話をしているわけで、「子供を産まない社会が問題」のような気がします。話の前後に「最近の若い奴は遊ぶのに夢中で」とか「自分の生活を大切にしたいと子供も作らない」と言ってるならまだしも、そんなこと言ってないよ。
 
マスコミもこの発言の一部だけを切り出して、世界中に報道して日本の信用を損なうより、どうすれば少子化を食い止められるのかくらいの案くらい出して欲しいわ。
 
うーん、これはひどいです。残念ながら読解力がありません。国語の試験で『「子供を産まない」の主語はなにか』という問題があれば、永江氏の答えは「×」です。
 
その場にいる聴衆が老人ばっかりだから、主語は「おめーら国民」ではないなんていう理屈はありません。
それに、麻生大臣という社会体制を代表する人間が「社会が問題」なんていう社会改革家みたいなことを言うはずもありません。
 
「子供を産まない」の主語は当然、「子どもを産むべき世代」つまり「若いやつら」です。
 
 
そもそも麻生発言でおかしいのは、「高齢者が悪いようなイメージを思い切り作ってる人がいっぱいいる」というところです。そんな人がほんとうにいっぱいいるでしょうか。
「長生きしたのが悪いことなんか言ってもらっちゃ困りますよ」とも言っていますが、「長生きしたのが悪いことだ」と言っている人がいるでしょうか。
2ちゃんねるには「年寄り氏ね」とかいう書き込みはありますが、責任ある人が「長生きするのが悪い」と言うことなどありえないと思います。
 
もし「長生きするのが悪い」と言っている人がいるとすれば、それは若い人しかありえません。つまり麻生大臣はここで、むりやり若い世代を悪者に仕立て上げているのです。
 
なぜそんなことをするかといえば、聴衆が老人ばかりだからです。
「若いやつらは『長生きするのが悪い』なんて言ってあなたたちを批判するけど、ほんとは子どもを産まないあいつらが悪いんだよ」というのが麻生発言の真意です。
 
その場にいない人間を悪く言って、その場にいる人間の受けを狙う――というのが麻生大臣の常套手段です。
たとえば、2008年に愛知県で洪水があったとき、名古屋駅前の演説で「安城や岡崎だったからいいけど、名古屋で同じことが起きたらこのへん全部洪水よ」と言って問題になったのが典型です。
 
ですから、麻生大臣はここでは子どもを産まない若い世代を悪者に仕立てていますが、もし秋葉原で演説したら、若者に受けるために年寄りを悪く言うということも当然ありえます。
 
麻生大臣には、安倍首相や稲田政調会長のようなイデオロギー臭がなく、その分愛されキャラとなっていますが、自民党議員のもうひとつの典型である利益誘導型の政治家です。そのため、目先の聴衆に言葉で“利益誘導”をしてしまうわけです。
 
それにしても、「BLOGOS」の永江一石氏の記事には「支持する」のカウントが現時点で129にもなっています。
支持しているのは自民党支持者でしょうが、もっと日本語の読解力をつけてもらいたいものです。

厳罰化の風潮が強まる中で、珍しく裁判員裁判で殺人事件に執行猶予つきの判決が出ました。
普通、殺人事件の判決というと、「人間性のかけらもない」とか「身勝手で冷酷」とかの言葉で被告が断罪されるものですが、この判決は被告に同情的です。どういう事情があったのでしょうか。
 
 
「妻と娘を守る義務がある」 三男殺害、父への判決
 就寝中の息子の胸を刃物で刺し、命を奪った父に告げられたのは、執行猶予付きの判決だった。東京地裁立川支部で先月下旬にあった裁判員裁判。裁判長は「相当やむを得ない事情があった」と述べた。ともにプラモデル作りが好きで、二人三脚で大学受験に臨むほど仲が良かった父子に、何があったのか。
 
 三男(当時28)への殺人罪に問われたのは、東京都八王子市の父親(65)。黒のスーツに青紫のネクタイを締め、法廷に現れた。事件までは、監査法人の会社員。同僚からは「まじめ」「誠実」と思われていた。
 
 事件の経緯を、検察の冒頭陳述や父親の証言からたどる。
 
 約10年前、三男は都立高2年のとき、精神の障害と診断された。通信制高校に移るなどしたが、浪人生活を経て大学にも進学。充実した学生生活を送った。卒業後はガス会社に就職した。
 
 しかし、次第に変化が生じる。仕事がうまくいかず、職を転々とした。「自分をコントロールできない」と本人も悩んでいた。昨年夏ごろから家族への言動が荒くなり、次第に暴力も始まった。
 
 今年5月下旬、母親が三男に蹴られ、肋骨(ろっこつ)を骨折。「これから外に行って人にけがさせることもできる」。三男はそんな言葉も口にした。
 
 父親は、警察や病院、保健所にも相談を重ねた。
 
 警察からの助言は「入院治療について、主治医と話し合って。危害を加えるようでしたら110番して下さい」。保健所でもやはり、「入院について主治医と話して下さい」。
 
 一方、主治医の助言は、「入院してもよくなるとは言えない。本人の同意なく入院させれば、退院後に家族に報復するかもしれない」。ただ、「警察主導の措置入院なら」と勧められたという。
 
 措置入院とは、患者が自身や他の人を傷つける恐れがある場合、専門の精神科医2人が必要と認めれば、本人や保護者の同意がなくても強制的に入院できる制度だ。
 
 主治医は法廷で、「家族の同意によって入院させた場合、三男は入院についてネガティブに考えると思った。警察主導の措置入院なら、本人の認識を変えるきっかけになると思った」と証言した。
 
 ただ、警察は措置入院に前向きではなかった。被告が相談に行っても、「措置入院には該当しないのでは」との返答。三男は暴れても、警察が駆けつければ落ち着いたし、警備業のアルバイトを続けられていたことなどが理由だった。
 
 いったい、どうすればいいのか――。父親は追い詰められていった。
 
 6月6日、事件は起きた。
 
 この日、父親は1人で病院に行き、主治医に三男の入院を相談。ソーシャルワーカーを紹介されたが、入院については、あくまでも警察主導の措置入院を勧められた。
 
 午後8時半。妻からメールが入る。妻が誤って三男のアルバイト先の仕事道具を洗濯してしまい、三男が「殴る蹴る以上のことをしてやる」と怒鳴っている――。そんな内容だった。
 
 父親は急いで帰宅した。暴れる三男を目にして、110番通報した。
 
 駆けつけた警察官に、父親は再度、措置入院を懇願した。三男はこの日、両親の顔を殴るなど、いつも以上に暴力を振るっていた。しかし、三男は警察官が来てからは落ちついた。「措置入院にするのは難しい」。警察官は言った。
 
 警察官が帰ると、三男は就寝し、父親は風呂に入った。
 
 弁護人「風呂では、何を考えた?」
 
 父親「主治医や警察に入院をお願いしたが、最終的には措置入院もできなかった。今の精神医療の社会的仕組みでは、私たち家族は救えないのではないか。そう思いました」
 
 弁護人「今後ますます暴力は激しくなると」
 
 父親「はい。三男は『今度は刃物を使うから覚悟しろよ』と言っていた。今度は刃物を振り回すと思った。私は逃げられても、妻はひざが悪いので逃げられない」
 
 一家は当時、両親と三男、三男の妹である長女の4人暮らし。ただ、母親も長女も三男の暴力におびえ、追い詰められていた。
 
 弁護人「家族で逃げることは考えなかったのですか」
 
 父親「家を出ても、三男は私の勤務先を知っている。職場に怒鳴り込んでくると感じました」
 
 弁護人「警察に被害届を出すことは」
 
 父親「警察に突き出すことは、三男を犯罪者にしてしまうこと。その後の報復を考えると、それは出来ませんでした」
 
 父親は法廷で、「三男は自分が犯罪者になることを恐れていた。家族がそうさせることはできなかった」とも話した。
 
 7日午前3時前。父親は風呂を出ると、2階にあった出刃包丁を持ち出し、三男の部屋に向かった。寝ている三男の横に中腰で座り、左胸を1回、思い切り突き刺した。
 
 父親「わたしは、妻と娘を守る義務がある。警察や病院で対応できることには限度があるが、暴力を受ける側は悠長なことは言っていられない。私は夫として、父として、こうするしか思いつきませんでした」
 
 刃物を胸に突き刺すと、血が流れ出る音がした。しばらくして、手を三男の鼻にかざした。息は止まっていた。
 
 父親はそのまま、三男に寄り添って寝た。
 
 弁護人「何のために添い寝を」
 
 父親「三男とは、もとは仲が良かった。三男のことを考えたかった」
 
 父親は法廷で、何度か三男との思い出を口にした。
 
 ともにプラモデルが好きで、かつて三男は鉄人28号の模型を自分のために作ってくれた。大学受験の時には一緒に勉強し、合格通知を受け取った三男は「お父さん、ありがとう」と言った。大学の入学式、スーツ姿でさっそうと歩く三男をみて、とてもうれしかった――と。
 
 弁護人「あなたにとって、三男はどのような存在でしたか」
 
 父親「友達のような存在でした」「三男にとっても、私が一番の話し相手だったと思います」
 
 朝になり、父親は家族に事件のことを話さぬまま、警視庁南大沢署に自首した。
 
 家を出る前、「主治医に相談に行かない?」と尋ねた妻に、「行くから。休んでて」とだけ告げたという。
 
 母親「主人は子どもに向き合い、とにかく一生懸命でした」
 
 証人として法廷に立った母親は、涙ながらに語った。
 
 母親「私は三男と心中しようと思ったが、できませんでした。警察などに何回も入院をお願いしても、できなかった。どうすれば良かったか、私にはわかりません」
 
 一方で父親は、事件から半年を経て、いまの思いをこう語った。
 
 父親「今から思えば、三男を家族への暴力行為で訴え、世の中の仕組みの中で更生の道を歩ませるべきでした。三男の報復が怖くても、三男のことを思えば、そのように考えるべきでした」
 
 地裁立川支部は11月21日、父親に懲役3年執行猶予5年を言い渡した。検察側の求刑は懲役6年だった。
 
 裁判長「被害者の人生を断ったことは正当化されないが、相当やむを得ない部分があったと言わざるを得ない。被告は、被害者の人生の岐路で、父親として懸命に関わってきた」
 
 ただ、こうも続けた。
 
 裁判長「家族を守ろうとしていたあなたが、最終的には家族に最も迷惑をかけることをした。これからは、もっと家族に相談するよう、自分の考えを変えるようにして下さい」
 
 父親は直立し、裁判長の言葉を聞いた。
 
 法廷には、母親のすすり泣く声が響いていた。(塩入彩)
 
 
裁判員と裁判官は被告に同情して寛容な判決を下したのでしょう。
これは基本的によいことだと思います。被告つまり犯罪者の心理をよく理解することは、判決を下す上での大前提です。
それに、刑を重くすれば反省するというものでもありません。逆に寛大な判決で人の心の温かさに触れて反省する可能性があります(インサイダー取引とか贈収賄のような経済的利益を求める犯罪には厳罰が抑止力になるので、話は別です)
 
では、この判決に問題はないかというと、そんなことはありません。殺された被害者への同情がほとんどうかがえないのです。
いや、同情とかではなく、被害者の命の重さが無視されています。
これは大問題です。
なぜこんな判決になってしまったのでしょうか。
 
被害者は「精神の障害」と診断されたということです。
統合失調症かとも思いましたが、転職が多いだけで普通に勤めていますし、措置入院を何度も断られていることからして、統合失調症ではなさそうです。おそらくなんらかの発達障害でしょうが、高校2年生で初めて診断されたということは、それまで目立たなかったわけで、発達障害でもごく軽いものではないかと思われます。
とはいえ、「精神の障害」というレッテルが貼られているわけで、これが裁判員の判断に影響したということはありえます。
つまり裁判員に、精神障害者への差別意識があったのではないかということです。
 
また、この事件は親が子どもを殺したという事件で、昔風にいえば卑属殺人です。
昔の刑法では、子が親を殺す尊属殺人は特別に刑が重くなっていました。卑属殺人の刑を軽くするという刑法の規定はありませんが、尊属・卑属という言葉が親と子の差別的な関係を示しています。「子どもは親の所有物。煮て食おうと焼いて食おうと親の勝手」という価値観です。
今の刑法に尊属・卑属という区別はありませんが、昔風の価値観が今回の判決に入り込んでいる可能性があります。
 
それから、被告は監査法人に勤める65歳の会社員で、被害者は当時28歳のフリーターです。つまり社会的立場にかなりの上下があります(通り魔事件などの殺人事件は、社会に恨みを持つ若いフリーターが普通の社会人を殺すというケースが多いのですが、この事件では逆です)
裁判員の判断に社会的地位の上下が影響したということも考えられます。
 
つまり精神障害者への差別、尊属・卑属という差別、社会的地位への差別という三重の差別があって、被害者の命が軽んぜられたのではないかと思うのです。
 
つけ加えると、普通の殺人事件では被害者遺族がいて、犯人への憎しみや厳罰を求める声を上げるのが普通ですが、この事件の場合はそうした声を上げる人がいません。犯人に甘い判決を下しても、裁判員は誰からも批判されないわけです。
 
 
私が思うに、この判決は被害者のことをまったく考えない判決です。被害者の立場に立って考えると、事件はまったく別の姿を見せるはずです。
 
被告すなわち父親は三男と「大学受験の時には一緒に勉強し」たということですが、父親が大学受験をする息子といっしょに勉強するという話を私は聞いたことがありません。
また父親は、三男は「友達のような存在でした」「三男にとっても、私が一番の話し相手だったと思います」とも語っています。
このことから父親は三男に対して過保護・過干渉だったと想像できます。
そのため三男は父親から自立できなかったのです。
 
三男は家庭において父親から自立するための戦いをしていましたが、家庭以外ではちゃんと勤務もしていますし、主治医や保健所や警察の前では普通だったのでしょう。だから、誰も措置入院させようとしなかったのです。
 
三男はまた、「これから外に行って人にけがさせることもできる」「今度は刃物を使うから覚悟しろよ」と警告を発しています。父親はこの警告を受け止めて、自分を変えるチャンスがあったわけですが、結局入院させることと三男を殺すことしか考えられなかったわけです。
 
とはいえ、この父親を批判する気にもなれません。この父親はどうしても自分自身の問題を認識することができなかったのです。これは「バカの壁」です。
 
とはいえ、三男においては悲惨なだけの人生です。
 
相田みつをの詩に「育てたように子は育つ」というのがあります。
この三男は、育てられたように育った挙句、育てた人間に殺されてしまったわけです。
そして、裁判員から同情されることもなく、おそらくこの新聞記事を読んだ読者からもほとんど同情されることなく、犯罪被害者として扱われることもなく葬り去られていくのでしょう。

インターネットでいくらでもモロの性器が見られる時代に、警察はなにをしているのかというのが率直な感想です。税金の無駄遣いとしか思えません。
ろくでなし子さんと北原みのりさんが逮捕されました。事件の概要はこのようなものです。
 
ろくでなし子さんと北原みのりさん「逮捕」 ――今回は「わいせつ物公然陳列」容疑も
女性器をモチーフにした作品を制作している芸術家「ろくでなし子」さんが123日、警視庁に再び逮捕された。
 
「ろくでなし子弁護団」の南和行弁護士によると、ろくでなし子さんは123日、警視庁の家宅捜索を受け、逮捕されたという。ろくでなし子さんからは、警察署を通じて、弁護士に接見要請があったという。
 
ろくでなし子さんは、自らの女性器をかたどった立体アート作品「デコまん」というシリーズを制作している。ろくでなし子さんは今回、その作品を個展や作家・北原みのりさんの経営するアダルトグッズショップなどで展示していたとして、わいせつ物公然陳列などの容疑で逮捕されたという。
 
同弁護団の山口貴士弁護士は3日、「"Rokudenashiko" was arrested again」と英語でツイート。さらに、「北原みのりさんも逮捕されました」「今回、警視庁が彼女を逮捕したことは明らかに不当であり、間違っていると考えています」と指摘した。
 
ろくでなし子さんは今年7月、自らの女性器をスキャンし、3Dプリンターで出力するためのデータを配布したとして、「わいせつ電磁的記録記録媒体頒布罪」の疑いで逮捕・勾留されたが、その後、釈放された。今回、その容疑などでも再び逮捕されている。
 
南弁護士は「逮捕は不当。検察官は勾留請求すべきではないし裁判官は勾留を許してはならない」と話している。
 
私がまず思うのは、女性器のオブジェが「わいせつ物」かということです。たとえば医学書には女性器の写真があったりしますが、男がそれを見て性的に興奮するかというと、しないでしょう。
女性器のドアップの写真はエロというよりはむしろグロです。
 
ただ、エログロという言葉があるように、エロとグロはつながっています。
そう思ったとき、「右翼はグロ画像に強い拒絶反応を示す」という科学的研究があったことを思い出しました。
私はこれについて次の記事を書きました
 
「右翼思考の謎が解けた!」
 
グロに拒絶反応を示す右翼は、当然エロにも拒絶反応を示すのではないでしょうか。
となると、左翼はエロを許容する傾向があるはずです。
 
そこで今回はエロを軸に、右翼と左翼について考えてみました。
 
ろくでなし子さんとともに逮捕された北原みのりさんは、左翼的なライターです。警察は左翼をねらっているのでしょうか。
 
そもそも昔から警察が「わいせつ」を摘発するとき、反対の声を上げるのは決まって左翼です。右翼が「表現の自由」や「芸術」を擁護する主張をしているのを見たことがありません。
いや、右翼でも「表現の自由」や「芸術」はたいせつだと思っているはずです。要するに「エロ」を擁護したくないのでしょう。
 
昔、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが、平和を訴えるために2人でベッドに入る「ベッド・イン」というパフォーマンスをしましたが、これなどいかにも左翼的です。
 
エロと戦争は両立しがたいものがあるようです(エロと性欲は違います。従軍慰安婦は性欲を処理する存在です)。
 
右翼作家百田尚樹氏の「永遠の0」は「愛」の物語ではありますが、「エロ」の物語ではありません。
「エロ」を書く作家はだいたい左翼的か非政治的です。右翼作家で「エロ」を書いたのは三島由紀夫ぐらいではないでしょうか。
 
性教育が行きすぎていると騒ぎ立てるのは決まって右翼です。
 
エロもグロも人間の身体性につながっています。
右翼は人間の身体性から目をそむけて、もっぱら「誇り」や「名誉」といった観念に逃げています。
昔、左翼は観念的なものとされていましたが、今は逆になっているようです。
 
 
ところで、冒頭に掲げた記事は「BLOGOS」に載ったものです。コメント欄を読むと、みんなろくでなし子さんや北原みのりさんの行為についてよし悪しを論じていますが、これは問題のとらえ方が違います。警察の行為や意図について論じるべきです。インターネットで偉そうに議論している人も、“お上”に対しては従順であるようです。

菅原文太さんが亡くなりました。
高倉健さんに続いての訃報ですが、「これでひとつの時代が終わった」などと慨嘆するのは短絡的でしょう。
とはいえ、必然的に「ヒーロー像の変遷」ということは考えてしまいます。
 
文太さんの代表作は「仁義なき戦い」シリーズと「トラック野郎」シリーズということで一致しているようです。
それまでヤクザ映画のヒーローだった健さんは「仁義なき戦い」シリーズにはいっさい出ていないので、ここでヒーローの交代が起こったといってもいいでしょう(私の年齢だとどうしてもそのころのことを中心に考えてしまいます)
 
健さんのヤクザ映画は「正義対悪」の図式で成り立っています(エンターテインメント映画は基本的にみなそうです)。健さんは正義のヒーローです。
 
しかし、実録ものヤクザ映画にそのような図式はありません。むしろ暴力団同士の抗争は「悪対悪」として描かれます。
もっとも、文太さんら主人公の側は、さすがに弱い者イジメをするようには描かれません。最初の「仁義なき戦い」では、終戦後の混乱期に“男気”を武器にのし上がっていく者同士が抗争する物語となっています。
 
正義でもなく、ただ抗争するだけの男に観客は感情移入して観ていたわけですが、それは不思議でもなんでもありません。それらの男はサラリーマンにも似ているからです。
 
サラリーマンの世界も、同業者と抗争し、同僚と競争し、なめられないようにハッタリをきかし、ときには損得を度外視して義侠心を発揮するわけで、ヤクザの世界とそんなに違いません。
ここにおいて、金子信雄さんが演じた山守組組長の存在が絶妙です。この組長は文太さん演じる広能昌三の上司に当たる存在で、自己保身のことしか頭になく、そのために陰で卑劣なことをいくらでもするのですが、それでいてどこか憎めないところもあります。こういうダメ上司がいることで、広能昌三は組織の一員でありながら、時には組織に背いて行動しなければならず、そういうところも共感を呼んだと思われます。
 
一方、健さん演じる正義のヒーローは、正義や人情のために命をかけるわけで、しかも最後の殴り込みの場面では、1人で大勢の敵をみんなやっつけてしまいます(加勢の仲間がいても1人か2人です)。つまり超人的なわけで、憧れの対象ではあっても、昔の映画スターと同様に雲の上の存在です。
その点、「仁義なき戦い」の文太さんは等身大に近くなっています。
 
「トラック野郎」シリーズの文太さんはもっと等身大です。なにしろ自営業の長距離トラック運転手ですから。
トラック運転手がヒーローになることにも、それなりの理由があります。彼らは一匹オオカミの気風を持ちつつ、仲間意識もあり、取り締まりをする警察とは敵対関係です(このあたりは企画した愛川欽也さんの左翼的な面が出ていますが、昔は普通の発想でもあります)
映画のクライマックスでは、文太さんが理由あって荷物を時間内に届けるため猛烈にトラックを走らせ、それを助けてくれる仲間と、阻止しようとする警察とで大騒動になるというのがお決まりのパターンです。
 
警察的価値観が世の中に広まって、ヤクザ映画がつくりにくくなった時代に、ヤクザ映画のファンだった人たちが拍手を送った映画だったと位置づけられるでしょうが、この映画のおかげで文太さんはますます身近なヒーローになったのです。
 
ちなみに今の時代、ヤクザ映画はありませんし、テレビドラマも刑事や検事や弁護士が主人公のものがふえていて、時代の変化を感じます。
 
健さんはヤクザ映画で超人的な正義のヒーローを演じたために、その後も、どんな役をやっても、どこか超然とした人間を演じ続けました。
そのため、私生活でもあまり素顔を出すことがありませんでした。
 
文太さんは、それよりは等身大のヒーローでしたから、ある程度素顔をさらし、晩年は自分の信念を世の中に訴えるということもできました。
そういう意味では幸せな人生だったのかなと思います。

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