この1年を振り返ると、このブログで書いてきたのは、ヘイトスピーチ、慰安婦問題、安倍政権などが多かったと思います。
三つとも、「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」という私の思想にぴったりの題材だからです。
道徳という棍棒で殴り合う傾向は、ここ数年でどんどん強まっています。
その理由のひとつは、インターネットで匿名の発信ができることです。普通、われわれは人のことを批判すると、「そういうお前はどうなのだ」というリアクションを覚悟しなければなりませんが、匿名なら一方的に批判することができます。
もうひとつの理由は、学校でイジメを体験した人がふえて、イジメるかイジメられるかという発想が社会をおおうようになったことでしょう。
そして、そうした流れにうまく乗っているのが安倍政権です。調子に乗りすぎて、小学生のふりをして「どうして解散するんですか」というサイトを運営した大学生を安倍首相は自身のFacebookで批判し、首相が個人攻撃をしていいのかと批判されて、あとで削除するという騒ぎもありました。
一方、その流れに乗れていないのが民主党であり、朝日新聞でした。
たとえば、次の朝日新聞の社説には、なんともいえない気持ちの悪さがあります。
(社説)靖国参拝 高市さん、自重すべきだ
高市総務相が、17日からの例大祭にあわせ靖国神社に参拝する意向を示している。
だが、高市さん、ここは自重すべきではないか。
そもそも、首相をはじめ政治指導者は、A級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社に参拝すべきではない。政教分離の原則に反するとの指摘もある。
しかも、北京で来月開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)での日中首脳会談の実現に向けて、関係者が努力を重ねているときである。それに水を差しかねない行為を慎むのは、閣僚として当然だ。
戦争で命を失った肉親や友を悼むため、遺族や一般の人々が靖国で心静かに手を合わせる。それは自然で尊い行為だし、だれも否定はできない。
一方、かつての戦争指導者がまつられている場所にいまの政治指導者が参拝すれば、その意味は全く変わってしまう。
A級戦犯が罪を問われた東京裁判には、勝者による裁きといった批判がある。それでも、日本はサンフランシスコ平和条約で裁判を受け入れ、これを区切りに平和国家としての戦後の歩みを踏み出した。
靖国に参拝する政治家たちは、「英霊に尊崇の念を表すのは当然だ」という。だが、A級戦犯は、多くの若者をアジアや太平洋の戦場に送った側にある。送られた側とひとくくりにすることはできない。
そこをあいまいにしたまま政治家が参拝を続ければ、不快に思う遺族もいる。また、中国や韓国のみならず欧米からも、日本がかつての戦争責任や戦後の国際秩序に挑戦しようとしているとの疑いが出てくる。
高市氏は、戦後50年の「村山談話」などにかねて疑問を示してきた。最近も、ナチスの思想に同調しているとみられる団体の代表と写真を撮っていたことが海外で報じられた。
自民党政調会長や総務相として安倍首相に重用され続けている高市氏の言動は、個人の思いにとどまらず、政権の意思と受け止められかねない。
その高市氏が靖国神社に参拝すれば、国際社会が抱きつつある疑いをますますかき立てることになりはしないか。
戦後70年が控えているというのに、いまだ歴史問題にピリオドを打てないのは不幸なことだ。だれもが参拝できる新たな追悼施設をつくるといった、抜本的な解決策を真剣に検討すべき時だ。
戦没者への強い思いがある高市氏ならばこそ、こうした課題に取り組むべきではないか。
朝日新聞は高市総務相の靖国参拝に反対しているのですから、当然強い口調で批判し、攻撃しなければならないところですが、妙になれなれしい口調になっています。ボクサーがリングに上がって、殴り合うかと思ったら、いきなり(クリンチでなく)ハグしたみたいな気持ちの悪さです。
世の中の基本は、競争であり戦いです。戦うところで戦わないとなにも得られません。
ですから、平和主義者は戦争主義者と戦って打ち負かさないと、平和を達成することはできないのです。
もちろんここにはパラドックスがあります。これはフィリップ・マーロウの「タフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」という言葉にうまく表現されています。
そして、土光敏夫の母親の「正しきものは強くあれ」という言葉が解決の方向を示しています。
ただ、根本的な解決は、善か悪かという道徳的思考を脱して、愛か憎しみか、寛容か不寛容かという思考に転換することです。