村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2015年01月

安倍首相は1月28日午前、後藤健二さんがイスラム国に拘束され、殺害までの期限が24時間とされたことに関して、「きわめて卑劣な行為であり、強い憤りを覚える」と語りました。


テロを形容するときに「卑劣」という言葉がよく使われます。


しかし、テロリストの行動はほんとうに「卑劣」と形容できるでしょうか。


テロリストはみんな、自爆テロリストはもちろんのこと、命懸けでやっています。ビン・ラディンやザルカウィも殺されるぐらいですから、地位の高い人間も同じでしょう。


自分の命を懸けている人間を普通「卑劣」とはいいません。


日本のテロリストとしては、血盟団や2.26事件の青年将校たちがいますが、彼らを「卑劣」とは言いません。


ちなみに「卑劣」とはこのような意味です。


(デジタル大辞泉の解説)
ひ‐れつ【卑劣/×鄙劣】
[名・形動]品性や言動がいやしいこと。人格的に低級であること。また、そのさま。「―な行為」


具体的には、自分の利益のためにずるく立ち回ることなどが「卑劣」の典型でしょう。


自分は安全な場所にいて人を攻撃するというのも「卑劣」でしょう。たとえばネットで匿名で人を攻撃するなどです。


アメリカ軍の無人機はアメリカ本土にいる兵士が操縦している場合もあるそうです。自分は絶対安全な場所にいて人を殺しているわけで、まさに「卑劣」です。


フランスの風刺新聞社がテロ攻撃にあったとき、世界各国の首脳が「テロに屈しない」ことを示すためにデモ行進をしましたが、国家の首脳というのは万全のセキュリティ体制で守られているわけです。そして、彼らが「テロに屈しない」と叫んでテロリストと敵対することで、一般国民がテロの危険にさらされます。国家首脳が「テロに屈しない」と叫ぶことも「卑劣」でしょう。


安倍首相は1月17日、エジプトでスピーチを行い、「イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」と言いました。

ところが、イスラム国(ISIL)が日本人2人の殺害予告をすると一転して、イスラエルでの記者会見で「2億ドルの支援枠は、避難民を救うための食料や医療サービスを提供する人道支援です」と「人道」を強調しました。

これなどまさに「卑劣」でしょう。



以上は、「卑劣」という言葉を軸にして考えたもので、もちろん別の観点から考えることもできます。


なお、罪もない民間人を標的にするからテロリストは「卑劣」だという意見もありますが、アフガン、イラク、パレスチナなどで、テロリストが殺すよりもはるかに多くの罪もない民間人を殺しているのがアメリカ軍とイスラエル軍です。


イスラム国の人質になっていた2人のうち、湯川遥菜さんが殺害されたもようです。
こうしたショッキングなことが起こると、人間はますます近視眼的になりますから、こうしたときこそ事態を広い視野で、かつ客観的に見ることが必要になります。
 
安倍首相は湯川さんの殺害について、「言語道断で許しがたい暴挙だ」と言っていますが、客観的に見ると、ここで失われたのはひとつの命です。
湯川さんの命にくっついているさまざまな情報や価値観をふるい落とすことで現実が見えてきます。
 
現在、イスラム国については、湯川さんの命と同じ命が刻々と失われています。
 
 
ISIS戦闘員の6千人殺害、半数は指揮官 駐イラク米大使
ワシントン(CNN) 米国主導の有志連合がイラクやシリアで続けるイスラム過激派「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」の掃討作戦で、駐イラク米国大使は24日までに、これまでの軍事行動でISIS戦闘員の推定6000人以上を殺害し、うち半数は指揮官となっていることを明らかにした。
 
 掃討作戦を統括している米中央軍も言及を避けてきたこの種の数字が公表されたのは初めて。スチュアート・ジョーンズ大使は中東のテレビ局アルアラビーヤに対し、ISISは壊滅的な被害を受けていると作戦の成果を強調した。
 
ヘーゲル米国防長官は同大使が触れた数字は確認せず、殺害されたISIS戦闘員は数千人規模と述べるにとどまった。
 
 米国防総省当局者によると、6000人以上との数字は米中央軍がまとめた。イラクやシリアで有志連合が実行するISIS拠点などへの空爆で殺害した戦闘員の数としている。
 
ただ、正確な数字の把握は出来ないと説明。空爆機の操縦士の戦果報告や、標的となった現場に関する空爆実施の前後の諜報(ちょうほう)などを参考材料にしたという。
 
 米情報機関によると、ISISの兵力は推定で9000人から1万8000人の間。ただ、他の武装勢力から数千人規模の戦闘員を集める能力があるとされ、その場合の兵力は3万1000人にも達する可能性がある。
 
 一方、ケリー米国務長官は滞在先の英ロンドンで記者団に、ジョーンズ大使の発言に同調し、イラクでISISの支配下にあった広さ700平方キロ以上の地域を奪還したとも主張した。有志連合の作戦はISISの勢いを止めたとの認識も示した。
 
イラクでは現在、ISISが陥落させた北部のモスル市の奪還が軍事作戦の焦点となっている。イラク軍による進攻作戦の実行も予定され、米軍などの空爆も最近拡大している。
 
 
戦闘員6000人以上を殺害したということですが、戦闘員以外はまったく殺さなかったということはないでしょう。それに、戦闘員なら殺していいというものでもありません。
 
アメリカは敵の血だけ流して、自分たちの血は流さないという作戦で、今のところそのように展開していますが、その代わり、アメリカ人ジャーナリストが殺害されたり、フランスの新聞社で12人が殺害されたりして、今回日本人も殺害されたというわけです。
 
殺された命の数はきわめてアンバランスです(ほかにイスラム国軍とイラク軍やシリア軍との戦闘による死者もありますが、これはそれほど差はないと思われます)
 
2014年にイスラエル軍によるガザ侵攻がありました。きっかけはイスラエル人の少年3人が行方不明になり、のちに死体で発見されたことですが、イスラエル軍の侵攻によってパレスチナ側の死者は2000人余りで、内7割は民間人、イスラエル側の死者は73人で、内民間人は7人でした[ウィキペディアの「ガザ侵攻(2014)」より]
 
アメリカ軍とイスラエル軍はきわめて強力なので、死者数が極端にアンバランスになっています。
 
命の価値についてはさまざまな考え方があります。たとえば、肉親の命は特別なものですし、国民国家においては自国民の命と他国民の命に差があります。子孫を残すという生物学的な本能からは、男の命より女子どもの命の価値が高くなります。人種、宗教によって差別する考え方もありますし、日本においては「自己責任」という考え方もあります。
 
とはいえ、アメリカ軍は無人機や精密誘導弾などハイテク兵器で一方的な殺害をしており、これ自体がモラルハザードです。
つまり喧嘩は許されてもイジメは許されないというのが一般的なモラルだからです。
 
アメリカとしては、銃を持たない先住民を殺戮した歴史の繰り返しなのでしょうが、この一方的な殺戮を問題にしない国際社会もどうかしています。
 
そして、アメリカに肩入れした安倍首相もどうかしています。
 
ほとんどの人はテロリストを批判しますが、テロの原因を放置してテロリストだけ批判するのは間違っています。
とりあえず命の数を数えるという基本から出発するべきです。

忘れられているかもしれませんが、私は小説家でもあります。これまでに5冊の小説本を出版してきましたが、今回そのうちの1冊が電子版として角川書店より発売されましたので、お知らせします。
 
 
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  夢魔の通り道
 
   著者 村田基
  ジャンル 文芸 日本文学 ホラー
  レーベル 角川ホラー文庫
  出版社名 KADOKAWA / 角川書店
  配信開始日 20150122
  ページ概数 357
 
 
 
著者の描き出す奇怪で不気味な物語たち。ホラーファン待望の精選短編集!
 
「夢」と「現実」の隙間から這い出してくる虫。あらゆる生物が生きたまま腐敗する世界。たった一日で悟りを得られる宗教の流行。植物と交わる女。子供を教育することが許されない未来、突如おのれの寿命を悟ってしまう人々の出現、永遠に終わらない悪夢の中に閉じこめられた男、などなど……。轟音とともに、この世界が崩壊する。13の研ぎ澄まされた悪夢の剣。ホラーファン待望の精選短編集!
 
(C) Motoi Murata 1997
 
価格272円(+税)294(税込)(01/29 23:59までの価格です)
 
 
 
「夢魔の通り道」(ブックウォーカー)
 
「夢魔の通り道」(アマゾン)
 
 
要するにホラー小説の短編集です。
 
このブログを読む人にはあまり興味はないかもしれません。
 
ただ、私がこのブログで書くことと、私がホラー小説を書くことは密接に関わっています。私はホラー小説から人の心の奥底を見ることを学びました。
一方、私はSF小説も書きます。SFからは、文明や人類を大きな視野でとらえることを学びました。
この両者がドッキングしたところに私の思想が生まれました。
この思想を「科学的倫理学」と名づけています。
 
今問題になっているイスラム過激派のテロですが、「科学的倫理学」からすると、決して悪ではありません。むしろアメリカ中心の国際社会のほうが悪です。
アメリカはテロ組織の殲滅を目指しています。おそらくうまくいかないでしょうが、かりにうまくいったとしても、それはよい社会ではありません。おそらくものすごい監視社会になります。
では、よい社会とはなにかというと、テロリストがテロをする動機をなくしてしまうような社会です。
こういう考え方が「科学的倫理学」というわけです。
 
私は「科学的倫理学」にかまけて、小説を書かなくなってしまいました。
小説に集中していたら、どんな人生になっていたかということは考えますが、これも必然なので、しかたありません。
 
ホラー小説が好きな方には電子版「夢魔の通り道」はお勧めだと思います。

日本人2人がイスラム国の人質になり、日本政府は身代金2億ドルを要求されています。
 
テロリストの活動資金になるから身代金は払うべきではないという意見がありますが、そのほかに、テロリストとはいっさい交渉するべきではないという意見もあります。
なぜテロリストと交渉してはいけないのかという理由はありません。なにがなんでもテロリストと交渉してはいけないというのです。
「テロリストと交渉しない」原理主義とでも呼ぶべきでしょう。
 
この原理主義の意見はかなり広く存在していて、「テロリストと交渉するべきだ」という意見が言いにくい雰囲気があります。
 
しかし、かつてブッシュ大統領は「テロとの戦争」を宣言しました。もしテロリストと戦争しているなら、和平交渉も選択肢になければなりません。 
 
アルカイダのような、はっきりした組織がないところとは交渉しようがないということもあるでしょうが、イスラム国とかボコ・ハラムのように、一定の地域を支配下に収めている組織とは十分に交渉することができます。
 
私は、「テロリストとは交渉しない」という主張を聞くと、近衛内閣の「国民政府を相手にせず」を思い出します。
みずから進んで泥沼に入っていくときの言葉です。
 
こういう原理主義的な考えは、アメリカ人が得意とするものでしょう。ヨーロッパや日本、つまり騎士道や武士道のある国では、戦争は勝ったり負けたりするものです。
しかし、アメリカにとっての戦争は、自分たちは正義で、相手は悪だというものです。ですから、日本も東京裁判で裁かれてしまいました(先住民を虐殺したときの論理もこれでしょう)
 
こうした考えの背後には、相手を蔑視する心理があるでしょう。軍国日本は中国を蔑視し、今のアメリカはイスラム勢力を蔑視しているのです。
 
とはいえ、アメリカも朝鮮戦争やベトナム戦争など、明らかに泥沼状態になれば、敵と和平交渉をします。
 
イギリスにおいては、ロンドンのハロッズデパートで爆弾事件を起こすなど凶悪なテロを行ってきたIRAに対し、サッチャー首相は「テロリストと交渉しない」という強硬な姿勢をとりましたが、ブレア首相は方針を転換し、結局交渉することでテロを終わらせました。
テロリストは普通の犯罪者と違って明確な政治的主張があるのですから、むしろ交渉しやすい相手です。
 
オバマ大統領は一般教書演説で「イスラム国の壊滅を目指す」と言いましたが、これは泥沼への道です。
日本はむしろ「アメリカ政府を相手にせず」と言って、テロリストと交渉する道を進むべきです。

ムハンマドの風刺画を載せた新聞社がテロ攻撃を受けたことから、「表現の自由」が議論になっています。
「表現の自由」はたいせつだとされる一方で、ヘイトスピーチはフランスでも法的に禁止されています。
「表現の自由」と「ヘイトスピーチ禁止」は一見矛盾しています。この関係はどうなっているのでしょうか。
 
これは「権力」という補助線を引いてみればよくわかります。
 
権力者は権力を利用して自分への批判を封殺しようとしがちです。そうならないように「表現の自由」「言論の自由」「報道の自由」がたいせつになります。つまりこれは民衆や弱者の武器です。
 
一方、「ヘイトスピーチ」は強者が弱者に対して行うものです。
ですから、これは「弱い者イジメ」と同じです。
ただ、ヘイトスピーチは弱者がより弱い弱者に対して行うことが多く、「在日が日本を支配している」「ユダヤ人は世界支配の陰謀をくわだてている」といった妄想による被害者意識を伴っているので、わかりにくくなっていますが。
 
このように考えると、パリのデモに各国首脳が参加して、「報道の自由」を訴えたのはおかしなことです。首脳たちは自国内で「報道の自由」をいかに抑圧しているかということをこのサイトが皮肉っています。
 
「シャルリー・エブド」を支持する抗議デモに参加した各国首脳、Twitterで偽善を暴かれる
 
また、各国首脳はデモの先頭に立っていたかのように報道されましたが、実際は安全な別の場所で撮影をしていたのでした。
 
【露呈】フランスのデモ行進はテレビ報道映像用の撮影風景での「指導者たちの演技」|また、メディアが「真実」を報道していないことがわかってしまった
 
 
さて、そうすると、風刺新聞シャルリー・エブドがムハンマドの風刺画を掲載したことはどう考えるべきでしょうか。
 
シャルリー・エブドはイスラム教に限らず全宗教を風刺しているということです。カソリック教会はいまだに権力がありますから、これを風刺するのは「表現の自由」として守られなければなりません。また、イランは聖職者が実質的に支配しているような国ですから、こうした聖職者を風刺することも同じです。
 
しかし、ムハンマドを風刺することは、イスラム教そのもの、あるいはイスラム教徒すべてを風刺することです。
 
現在、中東のイスラム諸国はアメリカ、イスラエル、NATOの軍事力に圧倒的に押さえ込まれています。つまりフランスは強者の側で、イスラム諸国は弱者の側です。
フランスのメディアがイスラム教全体を風刺するということは、誰か弱者の味方をしているわけではなく、強者が弱者を風刺、つまり侮蔑していることになります。
ですから、これはヘイトスピーチの類です。
 
宗教批判がいけないということではありません。日本人はよく「一神教は不寛容でよくない」と言いますが、こうした批判は建設的なものにつながる可能性があります。
 
テロを正当化するわけではありませんが、イスラム教徒すべてを侮辱するようなことは、「表現の自由」の問題ではなく、ヘイトスピーチと見なすべきです。

フランスの風刺新聞をねらったテロはもちろん許せないことですが、それに対するフランスの反応を見ていると、これにも首をかしげてしまいます。
表現の自由がたいせつだからといって、意地になってムハンマドの風刺画を掲載するのは明らかに筋違いです。
 
1月14日の朝日新聞に載った投稿川柳がその感じをうまく表現していると思いました。
 
 テロにノー「私はシャルリー」に少しノー(神奈川県 桑山俊昭)
 
フランスのバルス首相は“宣戦布告”をしました。典型的な暴力の連鎖です。
 
仏首相:「テロとの戦争に入った」…治安強化を表明
 【パリ宮川裕章】仏週刊紙襲撃テロ事件で、フランスのバルス首相は13日、国民議会(下院)で演説し、「フランスはテロとの戦争に入った」と宣言した。治安対策の強化に乗り出す方針を表明し、「われわれは世俗主義と自由のために戦う。(テロ再発防止のために)あらゆる手段を取る」と語った。バルス首相は演説で「これはイスラム教やイスラム教徒との戦争ではない」と強調し、「テロリズム、聖戦思想、過激思想との戦いだ」と語った。
 
 また、当局による盗聴強化の検討などに言及。自国の若者らの間で過激思想の宣伝や勧誘が拡大するのを防ぐため「その危険性について若者を教育する必要がある」と語った。
 
 フランス政府は事件を受けて、軍兵士1万人と警官ら約5000人を投入して国内警備を強化している。
 
「これはイスラム教やイスラム教徒との戦争ではない」と言いつつも、実際はイスラム教やイスラム教徒と戦うわけです。
 
フランスには公共の場所でブルカやスカーフの着用を禁じるブルカ禁止法というのがありますが、これは明らかにイスラム教徒を標的とした法律です。国ぐるみでイスラム教徒を差別しているとしかいいようがありません。
 
風刺新聞社を襲撃した犯人は、サイド・クワシとシェリフ・クワシという兄弟ですが、シェリフ・クワシは印刷会社の事務所に立てこもっているとき、電話インタビューに対して、イエメンのアルカイダ系組織から指示を受けたと語りましたし、「アラビア半島のアルカイダ」という組織が犯行声明を出しました。
ところが、フランス政府は対イスラム国の作戦を強化する方針を打ち出しました。
 
対「イスラム国」で空母派遣=緊張高まる恐れも―仏
【パリ時事】フランスのオランド大統領は14日、仏軍主力空母「シャルル・ドゴール」の艦上で行った軍への新年あいさつで、イラクなどで台頭するイスラム過激組織「イスラム国」に対する空爆に同空母を参加させる意向を表明した。仏軍は20149月に米国などが実施するイラクでの空爆に加わり、今月13日に作戦の継続を決めたばかり。
  仏風刺紙シャルリエブドなどを狙った連続テロ事件を踏まえ、仏国内ではイスラム過激派に反発する世論が高まっている。一方、イスラム国側は同紙がイスラム教を侮辱したと非難しており、空母派遣を機に両者の緊張がさらに高まる恐れもある。 
 
イスラム国はアルカイダと対立しているという報道もあり、少なくとも別の組織です。しかし、フランス政府の首脳にはイスラム勢力はみんな同じに見えるのでしょう。
これは、ブッシュ大統領がアルカイダから攻撃されてイラクに攻め込んだのに似ています。
アルカイダは原理主義的なところがあり、イラクのサダム・フセインは世俗主義で、両者はむしろ相容れないのですが、ブッシュ大統領の目にはみな同じイスラムに見えるのでしょう。
 
また、クワシ兄弟はアルジェリア系フランス人です。生まれはフランスですが、両親がアルジェリア人で、しかも両親は兄弟が幼いときに亡くなって、施設で育ったということです。
アルジェリアはフランスの植民地でしたから、アルジェリア系フランス人というのは日本でいえば在日朝鮮人みたいなものです。兄弟はさまざまな差別の中で育ったに違いありません。
 
フランス政府はいまだに過去の植民地支配について謝罪をしていません。
 
フランス政府は攻撃する対象を間違っています。
自国内にあるイスラムへの差別、旧植民地出身者への差別こそ攻撃するべきです。

1月12日は成人の日でした。今のところ“荒れる成人式”のニュースはないようです。
 
それにしても、成人式というのは妙なものです。自治体が主催して、市長だの市会議員だのが壇上から訓示を垂れます。役所の窓口なら未成年でも1人の市民として遇されるのに、成人式では成人が見下されます。
いや、式の始まりはそれでいいかもしれません。しかし、式の最後には、市長など“偉い”人たちが新成人と入り混じって交歓し、肩を組みながら歌をうたうなどするのが成人式の趣旨にかなうはずです。
 
そうなっていないということは、新成人と壇上の人たちとの間には根強い序列意識とか階層意識があるのでしょう。つまり新成人は、軍隊でいえば入営したばかりの二等兵で、壇上の市長などは部隊長とか将校というわけです。
 
そのように思えば、成人式は荒れたほうが正常のような気がします。
 
ともかくおとなたちは、成人であろうが未成年であろうが、若者に訓示を垂れるのが好きです。
次の朝日新聞の成人の日の社説も、むりやり若者に訓示を垂れようとするためおかしな文章になっています。
 
 
成人の日に考える―答え合わせと黒のスーツ
問いを立てる。
 
 自分なりの答えを出す。
 
 それらを持ち寄り議論する。
 
 政治や社会を動かしていくための、大事な営みだ。
 
 だがどうだろう。いまの日本社会では、問いよりも、答えを出すことよりも、「答え合わせ」に重きがおかれてはいないだろうか。なぜそのような答えを出したかは吟味されず、答えをつき合わせて、同じであれば安心する。でも、ひょっとしたらそれは答えではなく、ただみんなが空気を読んだ結果に過ぎないかもしれない。
 
 きょう、成人の日。
 
 若者をとりまくこの社会のありようについて考えてみたい。
 
■自分の言葉で語る
 
 関東在住の専門学校生、菜々子さん(21)は昨秋、ある医院の就職面接を受けた。「その場で内定をもらって。うれしかった」。その後雑談していたら、恋人とはどこで出会ったの?と聞かれた。どうしよう。でもここでうそをつくのはなんか違うよな、えっと、はい、私は政治に興味があって、彼とはデモを通じて知り合ったんです――。軽い調子で、でも丁寧に言葉を選んだ。大学生ら若者が主催していること。党派性のないカッコいいデモであること。徹底して非暴力であること。
 
 数日後、医院から電話があり、今回はなかったことにしたい、という趣旨のことを言われた。医院側は「正式に働いてもらう約束をしたという認識はなかった」。だが菜々子さんは、「私が政治の話をしたからじゃないかな。どうしても、そう思ってしまいます」。
 
 だって、これまで何度も経験してきたから。原発とか戦争とか政治の話をし始めると一変する場の空気、「そんな話やめろよ」という有形無形の圧力。母親に、就職ダメになったと伝えたら、政治と宗教の話はタブーなのに、何をやっているんだと責められた。
 
 そんなことは知っている。だけど私たちの生活はどうしたって政治につながっていて、私はその話をしただけじゃないか。
 
 怒りがわいてきた。医院にではなく、この社会に対して。
 
 おかしいと思っても、気づかないふりをしないと生かしてくれない社会って何だ。自分の頭で考え、自分の言葉で語ろうとするほど疎外されるこの社会っていったい何なんですか?
 
 若者の政治的無関心を嘆き、叱咤(しった)してきた「大人」は、菜々子さんのこの問いに、怒りに、どう答えたらいいのだろうか。
 
■脱リクルートスーツ
 
 就職活動シーズンに街にあふれる黒のリクルートスーツ。強制されていないのに制服化しているのは、「答え合わせ」を重ねた結果なのかもしれない。
 
 シーズンが終わっても、リクルートスーツを着ている学生は、「就職先未定」という貼り紙を身にまとっているようなものだ。「個性を大切に」と言ってきたはずの学校や企業、社会はなぜ、この真っ黒な世界をよしとしているのだろうか。
 
 そんな現状に、「就職内定率100%」で近年注目を集める、国際教養大学(秋田市)が一石を投じた。昨秋、学内の就職説明会で、黒のリクルートスーツは着なくてもいいと学生に伝え、40社を超える企業からも了解を得たという。
 
 どうしてそんなことを? 
 
 「なぜ黒のスーツでなければならないのかと問われた時、誰も答えられないからです」と、三栗谷俊明・キャリア開発センター長(54)。なぜ黒なのか。ベージュじゃだめなのか。真夏にジャケットを着る必要はあるのか――。学生だけでなく、社会全体が考えるきっかけになればいいと思う。
 
 「グローバル化の時代に、みんなと同じなら安心という感覚はそぐわない。自分で考え、その上で、やっぱりリクルートスーツを着るという答えを出すなら結構なことですよね」
 
 理由は、ほかにもある。
 
 就活において地方の学生は大きなハンディを背負っている。名の通った企業の多くは東京に本社を置く。お金がない学生は8時間以上高速バスに揺られて移動し、インターネットカフェに寝泊まりする。だからせめて、堅苦しいリクルートスーツを、着なくて済むように。
 
■「異物」がいていい
 
 地方の大学が社会に投げ込んだ小さな一石。だが、就活、グローバル化、都市と地方など、照らし出す問題は幅広い。
 
 黒のリクルートスーツを着ずに就活にのぞむ学生は、「異物」扱いされるかもしれない。でもそれによって、新たに見えてくることがきっとあるだろう。その「異物」に触発され、後に続く学生が出てくれば、違う道が開かれる可能性もある。
 
 問いを立てる。自分なりの答えを出す。そうして社会は少しずつ動いていく。その流れが滞っているのなら、考え、動くべきはこれから社会に出ていく若者ではなく、この社会を形づくってきた「大人」の側である。
 
 
デモに参加したと言ったために医院に就職内定を断られた話と、国際教養大学で黒のリクルートスーツを着なくてもいいという指導が行われているという話と、ふたつの具体例が取り上げられています。
 
医院に就職内定を取り消された話は、どう考えても医院の内定取り消しが不当です。『若者の政治的無関心を嘆き、叱咤(しった)してきた「大人」は、菜々子さんのこの問いに、怒りに、どう答えたらいいのだろうか』などと悠長なことを言っている場合でなく、とりあえず内定取り消しをした医院を批判するべきです。
 
菜々子さんに対して、あるいは若者一般に対してなにか言うとすれば、不当な内定取り消しに泣き寝入りせずに戦うべきだということでしょう。
あるいは、今の世の中はこんなものだから、デモに参加したなどという話はするべきでないというのも現実的なアドバイスです。
 
リクルートスーツの話は、若者にとってなにか教訓の得られる話ではありません。
 
だいたい就活生はリクルートスーツを着たくて着ているのではありません。採用担当者の価値観(及び企業文化)に合わせているだけです。普段はちゃんと個性的な服を着ているのです。
 
ですから、ここで注目するべきは国際教養大学です。私はこの大学のことを知りませんでしたが、「就職内定率100%」ということですから、就職戦線では勝ち組の大学なのでしょう。そのような勝ち組だからこそ、リクルートスーツ不要という方針を决め、40社を超える企業から了解を得ることができたのです。
そして、このことは学生にも歓迎されるはずです。「あそこの大学に入れば就活のときリクルートスーツを着なくてもいい」となれば、入学希望者がさらにふえるでしょう。
その結果、学生の質が上がり、大学の評価もさらに上がるかもしれません(もっとも、国際教養大学のこの方針が成功するかどうかわかりませんが)
 
ですから、この話はほかの大学の就職課にとって参考になる話です。
 
ところが、朝日の社説は、一般の就活生に対してリクルートスーツを捨てて「異物」になってみないかと勧めているように読めます。そんなことをすれば、就職に失敗する可能性が大きくなるだけです。
 
全体としてこの社説は、おとなの戒めとなる話を持ち出しているのに、むりやり若者に教訓を垂れようとしているので、わかりにくいし、イヤミな感じになっています。
 
20歳の新成人というのは、おとな社会では序列の最下層です。
成人式もこの社説も、そのことを自覚させるのが目的であるようです。

フランスの風刺週刊新聞の編集部がテロリストに襲われ、12人が殺害されるという事件があり、犯人もまた殺害されました。
犯人はアルカイダと関わりがあったという報道もありますが、それまで普通にフランスで生活していたわけですから、基本的には個人の信念に基づく犯行と見るべきでしょう。
 
銃が1丁あれば誰でもこういうことが可能です。
となると、テロ対策も変わらなければなりません。
ロイターのコラムがそのことを指摘しています。
 
今回の事件を含む欧州で最近発生している一連の事件は、新たなタイプのリスクを示唆している。つまり、こうした暴力行為が必ずしも組織的に行われるのではなく、社会から孤立した個人によって引き起こされるということだ。そこでは、伝統的な司法の理念では問題は簡単には解決しない。
(コラム:仏紙銃撃事件の対応めぐるジレンマ)
 
つまりテロ対策は、「組織から個人へ」と転換しなければならないはずです。
 
組織を相手にする場合は、組織の壊滅という目標が立てられます。たとえばオバマ大統領は、昨年9月のNATO首脳会議において、イスラム国との戦いの目標は「壊滅させることだ」と明言しています。
しかし、組織の壊滅はできても、構成員を皆殺しにできるわけはなく、個々の構成員がテロを起こすことに対する対策はないわけです(これは日本の警察の暴力団対策も同じですが)
 
個人テロの対策をやろうとすれば、個人の動機に踏み込み、また個人の置かれている状況を知らねばなりませんが、今そういう目線はほとんどないと思われます。
 
というのは、すべて欧米目線でものを見ているからです。
日本のマスコミも欧米目線です。
 
そうしたマスコミの偏向を現地目線で指摘しているのが次の記事です。
 
ボコ・ハラム:日本メディアが報じない「ナイジェリア政府軍」の蛮行
 
ですから、中立的な見方をしようとすると、あえてイスラム過激派の立場に立って考えないといけません。
そうして考えると、現在のテロの原因として、イスラム国に対する一方的な空爆がひじょうに大きいのではないかという気がします。
 
現在、イスラム国空爆に参加しているのは、アメリカを含むNATOの10カ国、それに中東の5カ国であるようですが、これはまったく一方的な攻撃です。シリアでヨルダン機が撃墜され、パイロットが拘束されたという報道がありましたが、それ以外に空爆する側に被害は出ていません。
 
戦争というのは、勝利した側もある程度損害が出るものですが、イスラム国に対する空爆はそうした戦争の概念とはかけ離れています。
戦争ではなく“一方的殺戮”というべきでしょう。
 
テレビのニュースでは精密誘導弾で建物などを爆破するシーンがよく流されますが、当然その建物の中には人がいるわけです。その残酷さは映像からはわかりません。
また、その建物に非戦闘員がいないという保証もありません。
空爆によって何人が殺害されたかという報道もありません。
つまり、空爆の残虐さというのはまったく目に見えないわけです。
 
一方、風刺新聞の編集部が襲撃されて12人殺害されたことは、残虐な犯行だとして大々的に報道されます。
まったく非対称になっているわけです。
 
イスラム国に対する空爆は、空爆する側の損害は想定されていませんが、そんなうまい話のあるわけがありません。
ことわざにも「タダより高いものはない」といいます。
 
人間、一方的にやられたままでなにもしないということはありません。なんとかしてやり返そうと思いますし、軍事施設を攻撃することが不可能なら、一般人を攻撃するテロという形になるのは当然です。
 
今回のテロは、イスラム国に対する空爆のツケという面が大きいのではないかと思います。
テロ対策のやり方を変えないと、今後同様のことが繰り返されるのではないでしょうか。
 

麻生太郎財務相が内部留保をふやす企業を「守銭奴」といって批判したことが波紋を呼んでいます。
麻生大臣においては毎度おなじみの失言ですが、これはアベノミクスの成否ともつながっている問題です。
 
内部留保は「守銭奴」…麻生氏、賀詞交歓会で
 麻生副総理・財務相は5日、東京都内で開かれた信託協会の賀詞交歓会であいさつし、企業が手元にためる内部留保(利益剰余金)が増えていることについて、「まだお金をためたいなんて、単なる守銭奴に過ぎない」と述べた。
 
 麻生氏はこれまでも、黒字企業が積極的に設備投資や賃上げをしていないと批判してきたが、「守銭奴発言」で波紋が広がりそうだ。
 
 麻生氏は「内部留保は昨年9月までの1年で304兆円から328兆円に増えた。毎月2兆円ずつたまった計算だ」と指摘。「その金を使って、何をするかを考えるのが当たり前だ。今の日本企業は間違いなくおかしい」と強調した。
 
 一方、経団連の榊原定征さだゆき会長は、5日に都内で開かれた連合の賀詞交歓会に歴代の経団連会長として初めて出席し、「賃金の引き上げに向けて最大限の努力をしていきたい」とあいさつした。今後、経済界がどれだけ「本気度」を示せるかが注目される。
 
お金をためこんでいる企業を批判する声は、麻生大臣に限らずこれまでもありました。ですから、麻生大臣の発言を擁護する意見もあります。
 
しかし、「守銭奴」という言葉はやはり問題でしょう。これは道徳的非難の言葉だからです。
 
経済の世界に道徳を持ち込んではいけません。
 
もし麻生大臣の「守銭奴」発言が認められるなら、次は資産を持っている高齢者も「守銭奴」と非難されるようになるでしょう。
あるいは、工場を海外に移転させた企業をなぜ「売国企業」といって非難しないのかということにもなります。
 
このように経済の世界に道徳を持ち込むと、わけのわからないことになってしまいます。
 
経済の世界に精神主義を持ち込むのも同じです。
不景気が続くと、「景気は気から」などといって、「みんなが悲観主義に陥っているから景気がよくならないのだ。もっと元気を出そう」などという声が出てきますが、そんなことで景気がよくなるなら経済政策などいらないことになります。
 
ところが、麻生大臣だけでなく、安倍首相も同じようなことを言っています。
 
安倍首相の年頭所感は、あまりマスコミに取り上げられませんでした。内容がどうでもいいものだったからでしょう。その後半の部分だけ引用します。
 
安倍内閣総理大臣 平成27年 年頭所感
(前略)
 「なせば成る」。
 
上杉鷹山のこの言葉を、東洋の魔女と呼ばれた日本女子バレーボールチームを、東京オリンピックで金メダルへと導いた、大松監督は、好んで使い、著書のタイトルとしました。半世紀前、大変なベストセラーとなった本です。
 
 戦後の焼け野原の中から、日本人は、敢然と立ちあがりました。東京オリンピックを成功させ、日本は世界の中心で活躍できると、自信を取り戻しつつあった時代。大松監督の気迫に満ちた言葉は、当時の日本人たちの心を大いに奮い立たせたに違いありません。
 
 そして、先人たちは、高度経済成長を成し遂げ、日本は世界に冠たる国となりました。当時の日本人に出来て、今の日本人に出来ない訳はありません。
 
国民の皆様とともに、日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく。その決意を、新年にあたって、新たにしております。
 
 最後に、国民の皆様の一層の御理解と御支援をお願い申し上げるとともに、本年が、皆様一人ひとりにとって、実り多き素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
 
平成27年1月1日
 内閣総理大臣 安倍晋三
 
 
今さら「なせば成る」という言葉を持ち出したのにはあきれます(省略した前半にも「改革断行の一年」「アベノミクスをさらに進化」「成長戦略を果断に実行」といった抽象的な言葉しかありません)
 
安倍首相はまた、経済団体の新年祝賀パーティでこんなことも言っています。
  
安倍首相「楽観主義が必要」=ゴルフ成績引き合いに
 「私たちが必要としているのは楽観主義だ。きょうよりあす、今年より来年、間違いなく良くなっていく日本をつくっていきたい」。安倍晋三首相は6日、経済3団体共催の新年祝賀パーティーで、年始の2回のゴルフでスコアが好転したことを引き合いに、楽観主義の意義を説いてみせた。
  首相は3日に経団連の榊原定征会長らと、4日は富士フイルムホールディングスの古森重隆会長夫妻らとゴルフを楽しんだ。自身のスコアについて、首相は「(初日は)すごく立派ではなかったが、(2日目は)2打改善した。『たった2打』と考えずに、たった1日で2打も改善したと思うことが今年のテーマではないか」と話し、会場の笑いを誘っていた。
  
こういう精神主義が持ち出されるのは、現実がうまくいっていないときです。日本軍がアメリカ軍に戦力的に対抗できなくなるとどんどん精神主義に傾斜していったのがいい例です。
 
安倍首相や麻生大臣の言葉を見ると、ご本人たちも(半ば無意識に)アベノミクスがだめだと自覚しているようです。

朝日新聞に「人類の未来のために」と題された人類学者の川田順造氏のインタビュー記事が載っていました。
川田氏は西アフリカ内陸の無文字社会に調査に行ったときの体験を語り、その中に、民話についての常識的な見方をひっくり返す部分があって、びっくりしました。
 
 
「初め私は、文字を持つことを人類の歴史の上で一つの達成とみて、無文字社会がその達成のない段階と考えていました。しかし彼らと暮らすうち、コミュニケーションが実に多様で豊かなことを知り、『文字を必要としなかった』とも思い至ります。むしろ、文字に頼り切った私たちが忘れているものを思い起こさせられました」
 
 「今でも思い出すのは、農閑期の夜、熾(お)き火を囲み、子供たちがお話を皆に聞かせるときの、素朴な喜びの表情です。昼間は大人にこき使われていた子供たちのどこから、こんな傑作な話が、いきいきした声で出てくるのか。文字教育で画一化されていない『アナーキーな声の輝き』と私は呼びました。録音を日本に持ち帰って友人に聞かせたら、声の美しさにみな驚きました。伝える喜びに満ちた躍動がありました」
 
 ――聞いてみたくなる声です。アフリカ。干ばつや飢餓、内戦など、自然や社会環境の厳しさというイメージが強いですが。
 
 「そうした話題でないと新聞記事になりにくいですからね。多くの人々は強大で荒々しい自然にうちひしがれ、受け身ながらも、日々をしぶとく楽しんでいます。野生植物を巧みに利用して生き抜く知恵のすばらしさ。富は分け合うものという了解もあった。最終的に私は、人々の驚くべき生命力と、おおらかな自己肯定感に感嘆せずにいられないのです」
 
 
子どもがお話をみんなに聞かせているというのにびっくりしたのです。
お話というのは、年寄りや親が子どもに聞かせるものだと思っていたからです。
「遠野物語」にしても「グリム童話」にしても、年寄りや親が子どもに語り聞かせ、それが代々受け継がれてきたものだと思っていました。
 
しかし、考えてみれば、伝承されてきた民話にしても、最初は誰かが話をつくったわけです。
誰がつくったかというと、おそらく年寄りではないでしょう。小さな子どもを持つ親がつくったのかもしれません。しかし、それよりも子どもがつくった可能性のほうが高い気がします。桃から子どもが生まれるとか、サルとカニが喧嘩するとか、子どもの奔放な想像力の産物ではないでしょうか。
 
現にアフリカの無文字社会では、子どもが話をつくっているわけです。
これは民話とかおとぎ話というより、多くは個人的な体験に基づく「すべらない話」みたいなものかもしれません。
しかし、たくさんの話がされるうちに、平凡な体験の話は伝承されず、創作でもおもしろい話が伝承され、そこに因果応報とか、欲張りはよくないとかの、おとなの好む教訓が入って、民話となっていったのでしょう。
 
 
では、現代の子どもは話をつくっているでしょうか。
学校では自由題の作文を書いているでしょう。しかし、これは先生に評価されるために書くわけですから、書いていても少しも楽しくないはずです。
 
アフリカの無文字社会では、子どもの語る話を周りの子どもやおとなたちが喜んで聞き、だからこそ子どもも喜びの表情で、生き生きした声で語るわけです。
 
近代社会というのは、子どもは労働者や兵士やエリートに仕立て上げられるだけの存在で、子どもの創造力が生かされるとか、子どもがなにかを発信するということのない社会です。
「口裂け女」や「白いメリーさん」みたいな“現代の民話”と称されるものはありますが、インパクトの強さで伝承されているだけで、たぶん子どものつくった話ではなく、子どもの喜ぶ話でもありません。
 
社会の停滞感を打ち破るためにも、「子どもの創造力」を見直すべきではないかと思いました。

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