明けましておめでとうございます。
今年がみなさまにとってよい年となるようお祈り申し上げます。
 
紅白歌合戦を見ていたら、神田沙也加さんとイディナ・メンゼルさんがアメリカから「生まれてはじめて」と「ありのままで」をいっしょに歌うというシーンがありました。
去年、「アナと雪の女王」は大人気で、「日経トレンディ」が選ぶ年間ベストヒット商品の第1位でした。
 
もちろんそれは「アナ雪」が感動的な映画だったからです。
では、「アナ雪」はどうして感動的なのでしょうか。
 
私は「アナ雪」を見た感想として、男女の恋愛の物語だけではなく、親から抑圧された子ども(エルサ)が自己回復をする物語でもあると書いたことがあります。
 
「アナと雪の女王」映画評
 
親子関係の部分を見ないと、「アナ雪」が感動的であることの説明ができません(恋愛の描き方はむしろ中途半端です)
 
しかし、こうした見方をする人はほとんどいません。ただ、次のサイトは「アナ雪」についての論点をうまく整理していました。
 
エルサ=雅子妃説まで飛び出した!『アナと雪の女王』論争総まくり
 
ここの最後の部分だけ引用しておきます。
 
もうひとつ荻上氏は重要な話をしている。日本語版の「Let It Go」の歌詞は“ありのままの自分を受け入れよう”というストーリーになっているが、英語版はそれ以前に「いままで『いい子でいろ』とか、いろんなことを言われてきたという抑圧の歴史が語られてきて、“そうした社会の抑圧から自分は解放されようじゃないか”というストーリーになっている」という点だ。
 
 年末年始にかけて、きっと繰り返し「ありの〜ままで〜」という歌を聴くことになるかと思うが、あれは「開き直りの歌」でも「わがままを肯定する歌」でもない。現代に誕生した一種のプロテストソングだということを、どうか覚えていてほしいと思う。
 
「ありのままで」の日本語歌詞の翻訳がへんだということは前から聞いていましたが、これを機会にどうへんなのかを調べてみました。たぶんこのサイトがわかりやすいと思います。
 
アナと雪の女王 Let it go 日本語訳。 英語の歌詞にできるだけそって訳してみました。
 
こうして英語の歌詞と日本語訳を比べてみると、やはりそうとうにへんです。
英語には“the good girl”と“That perfect girl”という言葉があります。つまりエルサは“よい子”や“完璧な子”であることを求められてきたわけです。しかし、これからはそういうことにはとらわれず、本来の自分のままに生きていこうという歌になっています。
“よい子”や“完璧な子”であることを求めてきたのは誰かということは書いてありませんが、親であるということは容易に想像がつきます(エルサは王女ですから、親でなく社会という解釈もありえますが)
 
一方、日本語の歌詞には“よい子”や“完璧な子”という言葉はありません。ですから、エルサが悩んだり傷ついたりした理由がはっきりしません。誰かに抑圧されたためではなく、自分が魔法の力を持っているためだとも解釈できます。
 
もっとも、観客は映画のストーリーから判断できます。ただ、言葉として明示されないことにより、さまざまな解釈の余地があって、そのため論争が起きるのでしょう。
 
「親が子を抑圧する」という現実はつねに隠される傾向があります。「ありのままで」の日本語歌詞もそのひとつです。
 
世の中のほとんどの問題は、「親が子を抑圧する」という現実が隠されることから生じているといっても過言ではありません。
つまり人間社会はフラクタル図形と同じで、相似形の問題が積み重なって形成されているのです。
 
「親が子を抑圧する」というのが最小の図形で、そこから派生するのが、たとえばDV男が女性を支配し、女性がDV男に依存するという問題です。ブラック企業が若者を支配するとか、パワハラ上司が部下をイジメるというのも同じです。そして、最大の問題が独裁者が国民を抑圧するというものです。
しかし、独裁者が国民を抑圧していても、その現実は隠され、「国民は偉大な指導者を敬愛している」というふうに書き換えられるために、この問題はなかなか解決されません。
「ありのままで」の日本語歌詞が書き換えられているのと同じです。
 
しかし、現実がいかに書き換えられても、抑圧から解放される喜びは人間である限り同じです。
「アナ雪」で「ありのままで」が歌われるときの感動と、たとえば映画「レ・ミゼラブル」で「民衆の歌」が歌われるときの感動は相似形ですし、“アラブの春”でチュニジアの広場を埋め尽くした民衆が味わった感動も相似形でしょう。
 
親と子の関係と、国家権力と国民との関係が相似形であることは、当たり前のようですが、案外と認識されていないのではないでしょうか。