村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2015年04月

ディズニー映画の「シンデレラ」(ケネス・ブラナー監督)を観ました。
 
このところ「アナと雪の女王」「マレフィセント」と、童話を題材にしたディズニー映画を観てきましたが、“王子様のキス”の価値が暴落しています。明らかにディズニー映画の価値観が変わっているのです。今回はどうなのでしょうか。誰でも知っているストーリーを今さら実写版でやるのですから、なにか新機軸があるはずです。
 
そう思って見始めましたが、ストーリーは思いっきりオーソドックスです。ほとんど原型のグリム童話そのままです。カボチャの馬車もガラスの靴も出てきます。
 
グリム童話と明らかに違うのは、シンデレラが舞踏会の前に王子と森の中で出会うところです。このとき王子は恋に落ちて、再びシンデレラと会うために国中の未婚の女性を招待した舞踏会を開催するわけです。
また、王子はシンデレラの顔を知っているのになぜガラスの靴に合う娘を探すのかといったことも、不自然にならないようにうまく設定されています。
 
王子は好青年ですし、シンデレラも計算高くガラスの靴を置いてきたなんていう女性ではありません。

舞踏会にシンデレラが美しいドレスで現れるシーンは、実写版ならではの壮麗さで、女性にはたまらないのではないでしょうか。
誰が観ても楽しめるディズニーらしい映画です。
 
グリム童話そのままのストーリーですから、最初は新機軸らしいものはなにもないと思いました。ただ、シンデレラをいじめる継母の側の事情も描いているところは新しいといえます。
 
シンデレラは両親から愛されて育ちますが、母親が病気で亡くなり、父親が再婚相手を連れてきます。
継母はあやしげな雰囲気の人間で、猜疑の目でシンデレラを見ます。しかし、継母が実の母のように子どもを愛してくれるということはめったになく、世の中はこれが普通でしょう。シンデレラは自分の部屋を義理の姉に譲らされ、屋根裏部屋に追いやられますが、前向きに受け止めます。
 
父親は亡くなった妻のことが忘れられず、シンデレラと亡き妻のことを語り合ったりします。それを継母が見てしまいます。これは継母が傷ついて当然でしょう。こうしたことが2度ほど繰り返されます。そして、父親が死ぬと、継母と義理の姉2人による本格的なイジメが始まります(義理の姉2人はただのバカっぽい人間として描かれます)
 
こうした継子イジメは、もともとのグリム童話にあるものですが、それをそのまま描いたところが新機軸ともいえます。
 
というのは、これまでのシンデレラの物語は、あくまで魔法の力で王子様と出会って結ばれるということに力点が置かれていたからです。
つまりこれは「恋愛第1、家族第2」という構成です。主人公が幸せになるのは恋愛によってです。
 
ところが、最近のディズニー映画は「家族第1、恋愛第2」という構成になっています。
「アナ雪」は、親から個性を封印されて育った姉が妹の力を得て自己回復を図るという物語ですし、「マレフィセント」は、オーロラ姫の呪いを解くのは王子様のキスではなく、親代わりとしてオーロラ姫を育てたマレフィセントのキスです。
 
今回の「シンデレラ」も、王子様との結婚で幸せになるという物語に見えるかもしれませんが、それよりも自分をイジメた継母との関係を清算することで幸せになるという物語と見るべきでしょう。それは最後の重要な台詞がシンデレラから継母へ向けられたものであることを見てもわかります。
 
私は「アナ雪」は親から個性を封印されて育った姉が妹の力を得て自己回復を図る物語だと言いましたが、こうした見方をする人はほとんどいません。親子関係にある問題というのは見えにくいものなのです。
 
ケネス・ブラナー監督といえば、私は「フランケンシュタイン」を思い出します。たいへん感動的な映画でしたが、当時はあまり評価されませんでした。もしかして早すぎたのかもしれません。
ウィキペディアを見ると、ケネス・ブラナー監督は「フランケンシュタイン」について、「父親に愛されなかった息子の物語」だと語ったということです。
そうするとこの「シンデレラ」については、「母親に愛されなかった娘の物語」だと語るのでしょう。
 
このように考えると、「アナ雪」「マレフィセント」「シンデレラ」と、最近のディズニー映画は家族関係、中でも親子関係をテーマにした映画をつくり続けているということになります。これがヒット連発の理由でしょう(もっとも、ヒロインが継母からイジメられながらも成長して幸せをつかむという物語は、昔は童話やマンガや少女小説にいっぱいあったので、先祖返りしただけともいえますが)。

これは戦後最大の必読書です。日本の問題をここまで明快に指摘した本はほかにありません。とても読みやすい本ですが、あまりにも内容が衝撃的なため、私は書かれていることを胸に収めるために、何度も読む手を休めねばなりませんでした。


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内容紹介
なぜ戦後70年たっても、米軍が首都圏上空を支配しているのか。
なぜ人類史上最悪の事故を起こした日本が、原発を止められないのか。
なぜ被曝した子どもたちの健康被害が、見て見ぬふりされてしまうのか。
だれもがおかしいと思いながら、止められない。
 日本の戦後史に隠された「最大の秘密」とは?
 
 

著者の矢部宏治氏は出版プロデューサーとして「〈戦後再発見〉双書」を手がけた人です。私はその中の「戦後史の正体」(孫崎享著)を読んでいますが、これもたいへん素晴らしい本です。今回、自分で本を書いたということは、その集大成を目指したのでしょう。
 
現在の政治の混迷は、民主党政権が失敗し、政権交代の可能性がほとんどなくなってしまったことからきています。
では、なぜ民主党政権は失敗したのか。これについてマスコミや政治学者ははっきりしたことを語りません。
しかし、本書は明快にその理由を語ります。
 
 
第1章では基地問題が取り上げられます。
ここに書かれていることの多くは、私もあらかじめ知っていたことです。たとえば、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したとき、米軍が現場を封鎖し、大学関係者、マスコミはもとより日本の警察すら立ち入れなかったこと、砂川判決を出す前に日本の最高裁は判決内容をアメリカに伝えていたこと、米軍基地の騒音訴訟などで裁判所は騒音被害は認定しても米軍機の飛行差し止めは決して認めないこと、鳩山政権が辺野古移設問題でアメリカと交渉していたとき、日本の外務省の官僚がアメリカの交渉担当者に対して助言していたことなどです。
マスコミはこれらのことを報道しますが、その背後にあるものはまったく伝えません。しかし、本書はこれらの事実の背後には法律や条約や協定や(アメリカ側で公表された)密約があることを示します。
 
ところで、鳩山政権が辺野古問題で迷走しているころ、私は「日本辺境論」(内田樹著)を読んで、日本に外交力がまったくないことに妙に納得してしまいました。ただ、これはもっぱら文明史の観点から論じた本です。
それに対して本書は、もっぱら法制面から論じています。その分、具体的ですから、誰もが納得せざるをえないでしょう。
 
第2章は原発問題が取り上げられます。
これについては私も知らないことがいっぱいでした。
 
アメリカではトモダチ作戦に参加した米軍兵士が被曝の補償を求めて東電を訴えており、原告の数は200人にもなったということが報道されていますが、日本ではこうした訴訟はありません(これを書いたあとで知りましたが、日本でも訴訟は行われていました)。
その理由は日本の法律にあるということを初めて知りました。
 
大気汚染防止法 第27条 1項
この法律の規定は、放射性物質による大気の汚染およびその防止については適用しない」
土壌汚染対策法 第2条 1項
この法律において『特定有害物質』とは、鉛、ヒ素、トリクロロエチレンその他の物質(放射性物質を除く)であって()
水質汚濁防止法 第23条 1項
この法律の規定は、放射性物質による水質の汚濁およびその防止については適用しない」
 
また、環境基本法は、放射性物質については「原子力基本法その他の関係法律で定める」となっていますが、実はなにも定めていないということです。
 
これでは訴えられないのは当然です(健康被害は訴えられそうですが、これは水俣病裁判がそうだったように立証するのがたいへんです)
 
また、野田政権は原発稼働ゼロを目指すエネルギー戦略を閣議決定しようとしましたが、いつのまにか再稼働容認に変わってしまいました。これについて当時の報道で納得のいく説明はありませんでした。
 
本書によると、藤崎一郎駐米大使がアメリカのエネルギー省のポネマン副長官と国家安全保障会議のフロマン補佐官と面会し、日本政府の方針を説明したところ、「強い懸念」を表明されて、それで方針転換したのだということです。
 
これだけでは陰謀論のようですが、こうしたことの背後には日米原子力協定があるといいます。この協定は「アメリカの了承がないと、日本の意向だけでは絶対やめられない」ような取り決めになっているのです。
 
これを読んだとき、小泉純一郎元首相が「原発ゼロの方針を政治が出せば、必ず知恵のある人がいい案を作ってくれる」と繰り返す理由がわかりました。日本が原発をやめるには、なにか特別な知恵が必要なのです。

第3章以降は、こうした構造の解明と、歴史的な成立過程の解明に当てられます。
 
国際条約や国際協定は国内法の上位にあるとして、憲法はどうなのだということが論じられます。原発再稼働や危険な普天間基地の米軍使用は、健康で文化的な生活を営む権利を侵害する憲法違反なのではないか。
しかし、日本の最高裁は、安全保障のような高度な政治的判断を必要とすることには判断しないと決めています。これは「統治行為論」などと呼ばれますが、世界の法学の常識にはありません。国民の人権が侵されても裁判所はそれになにも言わないというのですから。
 
そのため安保条約や日米地位協定や日米原子力協定などの安保法体系は日本国憲法の上位に位置することになります。そして、日本の官僚は憲法ではなく安保法体系(とアメリカ)に忠誠を誓っているというわけです。
 
そして、安保法体系がつくられた過程を戦時中と占領時代にさかのぼって解明していくところも、きわめて説得力があります。
 
ほんの一例を挙げると、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、「自分はどうなってもいいから国民を救ってほしい」と言ったので、マッカーサーは感激して天皇制を存続させることにしたという話があります。私はこういう“美談”は眉唾ものだと思いますが、本書はまったく別の説をとっています。昭和天皇はアメリカに占領された場合は自分が助かる可能性があるが、ソ連に占領されると処刑されるに違いないと思っていて、原爆投下ではなくソ連の参戦によって降伏を決意した。戦後も、共産主義革命が起こると自分は殺されると思っていて、そうならないように米軍駐留を望んだというのです(「沖縄メッセージ」と言われる)
 
つまりこれは「自発的隷従」というべきものですが、これが隠されているため、日本に共産主義革命の起こる可能性のなくなった今でも「自発的隷従」から抜け出すことができないというのです。
いや、ますます「自発的隷従」が強まっていることは、最近の安保法制の議論を見ていればよくわかります。
 
あと、日本国憲法制定過程や国連憲章の敵国条項などについても「目からウロコ」のことが次々と出てきます。
 
今後、日本のあり方について議論しようとする者は、本書の主張に賛同するかどうかは別にして、本書に書かれている個々の事実を無視するわけにはいかないでしょう。そういう意味でも必読書です。

安倍首相は4月20日に出演したテレビ番組で、戦後70年談話に「侵略」や「謝罪」を盛り込むかどうかについて、「(過去の内閣の歴史認識を)引き継いでいくと言っている以上、これをもう一度書く必要はない」と述べ、否定的な考えを示したということです。

 
おかしな理屈です。「引き継ぐと言っている以上、もう一度書くのは当然」というのがまともな理屈です。
そもそも「戦後70年談話」なのですから、いくら未来志向にするにしても、まず戦争についての認識を書くことになるはずです。 前と同じにしたくないなら、表現を進化させるか、内容を踏み込むかしかありません。
「謝罪したくない」という感情が理屈を超えているのです。
 
ところで、こうした議論の前提として、謝罪の対象は中国や韓国やその他のアジア諸国に限定されていると思われます。おそらくアメリカのことは誰も考えていないでしょう。
しかし、安倍首相は4月末に訪米して、日本の首相として初めて上下両院合同会議で演説します。当然そのとき、戦後70年の節目として戦争に触れないわけにいきません。
 
安倍首相はアメリカに謝罪するのでしょうか。
 
日本は宣戦布告前に真珠湾攻撃をするという卑怯なだまし討ちをしました。
日本としては、宣戦布告が遅れたのは事務的なミスであるという言い訳があるわけですが、それは対外的には通りません。筋としてはだまし討ちについて謝罪するべきでしょう。
 
また、先制攻撃はパリ不戦条約違反です。日本は侵略戦争、アメリカは自衛戦争をやったことになります。
フィリピン占領は、植民地からの解放という弁明の余地があるかもしれませんが、アッツ島、キスカ島はアメリカ領なので、この占領は完全な侵略で、弁明の余地がありません。
 
4月20日の朝日新聞に、アメリカで「バターン死の行進」を記念して6000人近くが参加したメモリアルマーチが行われたという記事が載っていました。
 
(戦後70年)米に「敵国 日本」の記憶
 
1998年に天皇陛下がイギリスを公式訪問されたとき、イギリスでは日本軍の捕虜となった退役軍人たちが補償と謝罪を求めるデモをしました。同様の感情はアメリカにもあるに違いありません。
安倍首相が謝罪すれば、こうした感情はある程度清算できます。
 
もっとも、日本のほうにも言いたいことがあります。広島、長崎への原爆投下と、都市への大規模な無差別爆撃は非人道的行為であるということです。
当然これは、アメリカが謝罪するのが筋です
 
日本は謝罪すべきは謝罪して、アメリカも謝罪すべきは謝罪して、それでよりよい両国関係が築けるはずです。
 
しかし、そうはならないでしょう。
 
日米関係は、日中、日韓関係と根本的に違うからです。
どう違うかというと、日本がアメリカの属国だからというしかないでしょう。
謝罪するしないというのは、対等の関係だから生じる問題です。属国と支配国の関係では生じません。
 
ですから、これまでアメリカは日本に謝罪せよと要求することはありませんでした。
 
アメリカは安倍首相の靖国参拝に文句をつけますが、これはあくまで中韓に配慮せよということで文句をつけているのです。中韓が日本に文句をつけてくるのとは根本的に違います。
 
安倍首相は米議会での演説で、「強固な日米同盟」を誇るでしょうが、実は「忠実な属国」であることを誇っているのです。
憲法改正についても語るかもしれませんが、「アメリカに押し付けられた憲法を改正する」と言うのではなく、「よりアメリカに協力するために改正する」と言うでしょう。
拍手する議員たちは、内心で安倍首相と日本を見下しているに違いありません。

愛川欽也さんが亡くなりました。私が愛川さんで思い出すのは、「愛川欽也パックインジャーナル」という番組です。
この番組は朝日ニュースターというCS局でやっていたので、知らない人も多いでしょう。ニュース解説番組で、愛川さんはこういう硬派な一面も持っていました。
 
私が加入している地元のケーブルテレビで、朝日ニュースターは基本料金で見ることができたので、たまたま見たときにおもしろさに気づき、毎週見るようになりました。
 
この番組が始まったのは1999年で、私はたぶん始まった1年後ぐらいから見始めたと思います。左翼リベラルの立場から、レギュラーとゲストの合計6~7人がニュースについて解説や議論をするもので、愛川さんは司会役です。
左翼リベラルという立場はかなり鮮明で、テレビ局がこういう偏った番組をやっていいのかと心配になるほどでしたが、考えてみれば「チャンネル桜」なんていうのもあるぐらいで、CSは放送法の「政治的に公平」という縛りは受けないのでしょうか。
 
最初のころは、めっぽうおもしろかったものです。普通のテレビや新聞が報じない情報も多く、左翼リベラルの切り口も私の感覚に合っていました。
実際、番組の人気はかなりのものだったと思います。
 
もちろんそこには司会の愛川さんの力も大きかったと思います。
庶民の代表というスタンスから、素朴な疑問や怒りをぶつけて専門家の話を引き出しました。
 
しかし、5~6年前からでしょうか、どんどんおもしろくなくなって、私はすっかり見なくなってしまいました。
 
2012年には朝日ニュースターの方針変更で「パックインジャーナル」は終了することになりましたが、一部に根強いファンがいたために有料のインターネットテレビに移行して継続することになりました。
最初のころのおもしろさがあれば私も有料で見たと思いますが、そのころにはそういう気にはなりませんでした。おそらく視聴者もあまりいなかったのではないでしょうか。
 
あれだけおもしろかった番組がなぜおもしろくなくなったのか、愛川さんの訃報をきっかけに考えてみました。
 
おもしろくなくなった直接の理由は、愛川さんの感情的な発言が多くなり、それも同じことを繰り返すようになったからです。
愛川さんはカリスマ的な司会者なので、誰もそれを止めません。
よくも悪くも「パックインジャーナル」は愛川さんの番組だったのです。
 
愛川さんが感情的な同じ発言を繰り返すようになったのは、お年を召されたということもひとつの理由でしょうが、それだけとは思えません。
 
「バックインジャール」がいちばん盛り上がったのは、民主党政権誕生のころだったでしょう。愛川さんも民主党誕生を喜んで、大いに期待していました。
しかし、その結果はご存知の通りです。
そして、民主党政権失敗の原因がきちんと総括されていません。
これは「パックインジャーナル」の問題ではなくて、日本全体の問題ですが。
そして、そのことが現在の安倍政権の暴走につながっています。
 
そうした現実を前にして、愛川さんも感情的になるしかなかったのかなあと思います。
 
愛川さんの政治的な思いの原点にあるのは、ご本人も再三言っておられたように、学童疎開の経験です。戦争の悲惨さを体験したので、反戦の思いが強く、「憲法9条を守る」という立場を鮮明にしていました。
典型的なオールド左翼です。
 
オールド左翼の主張が時代遅れになっているのは事実です。
たとえば安倍政権が目指すのは、アメリカの対テロ戦争への参戦です。自衛隊は中東のどこかで戦うことになるのでしょう。それに反対するのに、昔の戦争の悲惨さを持ち出しても説得力はありません。
また、「憲法9条を守る」という守りの姿勢では、戦争勢力の攻勢に後退する一方になってしまいます。
 
結局、愛川さんは俳優や映画づくりやテレビの司会などをして豊かな人生を送ったと思いますが、政治的な思いとしては敗北感の中で亡くなったのではないでしょうか。
 
最期にきて、とんでもない時代に居合わせてしまったのは残念なことでした。ご冥福をお祈りします。

自民党がテレ朝とNHKの経営幹部を呼びつけて、事情聴取をするそうです。
まったく理解しがたい事態です。大っぴらに犯罪を行おうとしているようなものだからです。
 
自民の調査会、テレ朝とNHKの経営幹部呼び聴取へ
自民党の情報通信戦略調査会(会長=川崎二郎衆院議員)が17日に、テレビ朝日とNHKの経営幹部を呼び、それぞれの報道番組の内容について、事情を聴くことが分かった。
 
 同調査会が事情聴取するのは、テレビ朝日については、「報道ステーション」でコメンテーターの元経済産業省官僚の古賀茂明さんが「菅(義偉)官房長官をはじめ、官邸のみなさんにはものすごいバッシングを受けてきた」などと発言した問題。NHKについては、「クローズアップ現代」で「やらせ」が指摘されている問題を取り上げる。
 
 古賀氏の発言をめぐっては、菅官房長官が記者会見で「事実無根」「放送法という法律があるので、まずテレビ局がどう対応されるかを見守りたい」と批判。自民党の調査会は、こうした経緯も踏まえて事実関係の確認を求めるとみられる。
 
これは朝日新聞の記事ですが、ただ事実を伝えるだけの小さな記事になっています。朝日新聞はまともな判断力を失っているようです。こんなことだから自民党が増長してしまいます。
 
ただ、今回はさすがに自民党のやることには批判が出ています。
 
自民の放送局聴取が波紋=野党「番組干渉は違法」
 自民党が、テレビ朝日とNHKの番組内容を聴取するため、17日の党の会議にそれぞれの幹部を呼ぶことが波紋を広げている。政権党による番組チェックが報道機関を萎縮させ、言論の自由を侵しかねないためだ。野党内には「個別番組への干渉は、(番組編成の自由を保障する)放送法に違反する大問題」(民主党中堅)との声もある。
  放送局幹部から聴取するのは自民党情報通信戦略調査会(会長・川崎二郎元厚生労働相)。先月27日、テレビ朝日の「報道ステーション」に出演した元経済産業官僚の古賀茂明氏が「菅義偉官房長官らからバッシングを受けてきた」と、自らの番組降板の背景として官邸の圧力を示唆したことを問題視した。
  古賀氏は政権批判を繰り返しており、調査会関係者は「テレビ朝日としてどう考えているのか確認する必要がある」と話す。17日はNHK幹部からも、報道番組「クローズアップ現代」のやらせ疑惑について説明を受ける。
  自民党の動きの背景には、独立した立場で放送内容を審査する放送倫理・番組向上機構(BPO)が機能していないとの不満がある。菅官房長官は、今回の聴取を「報道に圧力をかける趣旨ではない」と強調している。
  ただ、自民党は昨年の衆院選前、在京各局に選挙期間中の公平性確保を文書で求め、テレビ朝日には別途、放送された内容を踏まえて「公平中立な番組作成」を文書で要求している。
  民主党の枝野幸男幹事長は15日の記者会見で「報道内容に関して(放送局関係者を)呼ぶのは抑制的であるべきだ」と強調。共産党の穀田恵二国対委員長は会見で「腹の底がよこしまだ。意図が透けて見える」と批判した。 
 
改めて放送法について調べてみようとしたら、「放送法に『中立』の言葉なし」と書いてあるサイトがありました。
確かに「中立」という言葉はありません。それらしいところを引用すると、こうなっています。
 
 
第一条
   放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
 
 
(放送番組編集の自由)
第三条   放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。
 
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条   放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
   公安及び善良な風俗を害しないこと。
 
   政治的に公平であること。
 
   報道は事実をまげないですること。
 
   意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
 
 
確かに「中立」という言葉はありませんが、「不偏不党」や「政治的に公平」という言葉があるので、似たようなものです。
 
それよりも重要なのは、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と書いてあることです。
自民党の行為は明らかに「干渉」であり、違法行為でしょう。
 
それだけでなく、自民党の行為は、テレビ局の「中立」や「不偏不党」や「公平」や「自律」を侵す行為です。
自民党は事情聴取をしたかったら国会の場に呼び出すべきなのです。
 
ですから、テレ朝とNHKは自民党の要請を断るのが当然です。自民党だけに事情を説明すれば、テレビ局の不偏不党が疑われます。
 
そういうことを考えると、テレビ局の経営者や幹部が何度も安倍首相と会食しているのも問題です。安倍首相は首相であると同時に自民党総裁でもあるからです。
 
ただ、テレビ局は放送免許を政府に認可してもらわないと営業できないので、弱い立場です。
ですから、ここは新聞が強く自民党を批判しなければならないところですが、朝日新聞の腰の引けた態度は情けない限りです。

官邸や自民党がテレビの報道内容に干渉していることについて、マスコミも世間も反応が鈍いのが気になります。
ことは「報道の自由」に関しています。「報道の自由」のない国は独裁国になります。
 
自民、個別番組に異例の「中立」要請 専門家から批判も
 自民党が昨年の衆院選前、テレビ朝日の番組内容に対し、「公平中立」を求める文書を出していた。自民は「圧力ではない」と説明するが、メディアの専門家によると、個別番組への文書は異例だといい、番組への介入と受け取られかねない行為との指摘もある。
 
 自民の文書は昨年11月26日付で、福井照・報道局長名で出された。衆院解散後の昨年11月24日、テレビ朝日の「報道ステーション」がアベノミクスについて報じた内容について、「アベノミクスの効果が大企業や富裕層のみに及び、それ以外の国民には及んでいないかのごとく断定する内容」と批判。「意見が対立している問題については、多くの角度から論点を明らかにしなければならないとされている放送法4条4号の規定に照らし、同番組の編集及びスタジオの解説は十分な意を尽くしているとは言えない」と指摘した。
 
 報ステの報道は、約9分間にわたって「2014衆院選①『アベノミクスを考える』 金融緩和の“恩恵”は……」と題して放送された。古舘伊知郎キャスターが「安倍政権になって2年。株価は2倍以上になった。確かにいいことだ」と話したうえで、「株があがってくれたんでポジティブになる」など、アベノミクスの恩恵を受けた人の話に多くの時間を割いた。
 
 一方、実質賃金が伸びていないこともグラフで指摘。専門家の「若年層は資産がなく所得が増えない中、切り詰めた消費を続けているのが現状だ」という指摘も紹介した。
 
 自民は昨年11月20日付で、衆院選の報道について在京のテレビ局各社に対して「公平中立、公正の確保」を求める文書を送り、野党から「政治的な圧力だ」との批判を受けた。今回わかったテレ朝への文書は、各局への文書に加え、個別番組に対しても出されていたことになる。菅義偉官房長官は10日の記者会見で「事実関係を掌握していないが、報道に対して圧力を加えるものではない」と述べた。
 
     ◇
 
元日本テレビ報道ディレクター、水島宏明・法政大教授(メディア論)の話 
 
 政権与党が個別の番組に注文を付けるなど、前代未聞。一種の威嚇と言えるだろう。昨年の衆院選では自民党の要請を受け、街頭インタビューを取りやめた番組も実際にあると聞く。テレビ局は表向きは「影響はない」と言うが、報道の現場では萎縮が既に起きている。
 
 アベノミクスをどう報じるか、バランスに「正解」はない。扱いが難しいものは取り上げないということにつながりかねない。
 
 安倍政権はメディアを監視し、意に沿わない報道に対して「偏っている」と注文を付ける姿勢が顕著だ。かつては権力の側に「ジャーナリズムは厳しく批判を加えるものだ」という見識があり、健全な民主主義を育ててきた。「一強政治」の中で、そうしたたしなみが失われている。
 
 一方、メディアの側も、日本民間放送連盟や日本新聞協会といった組織で抗議の声を上げるべきだ。それができないのは、政権との距離感の違いから「メディアの分断」とも言うべき状況が生まれているから。ジャーナリズム全体が弱体化したと言わざるを得ない。(聞き手=中島耕太郎)
 
この朝日新聞の記事も、扱いが小さいですし、専門家の意見に依存しているところも、腰の引けた感じがします。
 
そもそも安倍首相は、昨年11月にTBSのニュース番組に出演したとき、街の声が偏っているとして番組にクレームをつけましたが、これを批判されると、「表現の自由だ」と開き直りました。これに対して有効な反論がなされていないと思います。
民主党の細野豪志議員は「人権侵害だ」という的外れな批判をしました。「テレビ局が萎縮する」という批判に対しては、安倍首相は「それぐらいで萎縮するのは情けない」と切り返しています。
 
結局、安倍政権を批判する側がまともな議論をする能力がないので、安倍政権のやりたい放題になっているのです。
 
首相がテレビの報道番組にクレームをつけるのは、もちろん「表現の自由」ではありません。日本のテレビ局は総務省から放送免許を認可されて事業を営んでいるので、総務大臣や首相はテレビ局に対して「職務権限」を持っています。そういう立場の者がテレビ局に対して意見を言うことは、当然「圧力」となり、放送の中立を侵すことになります。
 
もちろん総務省は放送免許の認可は公正に行うと主張するでしょうが、許認可権を持った役所はその業界ににらみをきかし、天下りなどの利権を持つのが常です。
 
免許更新のときのテレビ局はこのようなものだそうです。
 
知らぬは一般国民ばかりなり
放送局に免許剥奪がない理由
 通常、再免許の時期が近づくと、放送事故や不祥事などでスネに傷を持つ放送局は、ビクビクしながら1年以上前から事情聴取の準備を進める。総務省に対しては、主に①免許期間中の事業継続性、②番組の編成計画を説明し、求められた資料はすべて提出する。
 そこには、度重なる不祥事の詳細な調査レポートや再発防止策なども盛り込まれるので、「1つの放送局だけで1000ページ前後の文書になる」(業界紙の元編集者)。
 
それに、安倍首相は、ニュース番組で紹介された街の声が偏っていると文句をつけたわけですが、そうすると安倍首相は、テレビで紹介される街の声の賛否の配分は世論調査に準ずるべきだと考えているのでしょう。しかし、テレビは傾聴に値する意見を選んで紹介するのが当然です。世論調査と同じ配分にする必要はありません。
 
それに、あのときは安倍首相がゲストとして出演していたのです。議論を盛り上げるために、安倍首相に反対する意見を多くするのは当然です。
安倍首相は街の声に反論することで自分の意見を主張するいいチャンスをもらったのに、「表現の自由」を放棄して、テレビ局の編集権に文句をつけるという愚行に走ったわけです。
 
つまりあのときの安倍首相は、「職務権限」のある人間がテレビ局の編集権に口を出すという間違いを犯し、さらに、言っている内容も間違うという二重の間違いを犯したわけです。
 
 
世の中には、自民党がテレビ局に「公正中立」を求めるのは間違っていないという意見もありますが、愚かな意見です。というのは、自民党自体が中立の存在ではないのですから、テレビ局に対して中立を求める資格がないのです。
 
自民党や安倍首相は、自民党に不利な番組には中立を要請しても、自民党に有利な番組には中立を要請したことはないはずです。
野党も自民党と同じことをすればいいのだという意見があるかもしれませんが、与党は「職務権限」のある総務省とつながっていて、野党にはなんの権限もないのですから、両方が同じことをすれば、やはり放送の中立が侵されます。
 
中立でない安倍首相や自民党がテレビ局に中立を要請するとはお笑いぐさです。

天皇皇后両陛下は4月9日、パラオ共和国のペリリュー島を慰霊のために訪問されました。
その前日のレメンゲサウ大統領主催の晩餐会における天皇陛下のあいさつの中にこんなくだりがありました。
 
しかしながら、先の戦争においては、貴国を含むこの地域において日米の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に、安全な場所への疎開を勧める等、貴国民の安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。ここパラオの地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。
 
これを読んで思い出したのが、安倍首相が3月22日、防衛大学校の卒業式でした訓示です。そこでもペリリュー島の話が出てきました。
 
南太平洋に浮かぶパラオ・ペリリュー島。この美しい島は、70年前の大戦において、1万人を超える犠牲者が出る、激しい戦闘が行われた場所であります。
  守備隊長に任ぜられた中川州男中将は、本格的な戦闘が始まる前に、1000人に及ぶ島民を撤退させ、その命を守りました。いよいよ戦況が悪化すると、部下たちは、出撃を強く願いました。しかし、中川中将は、その部下たちに対して、このように語って、生きて、持久戦を続けるよう、厳命したそうであります。
  「最後の最後まで務めを果たさなければならない。」
 
日本軍は島民を退避させてその命を守ったという美談です。
しかし、天皇陛下のごあいさつでは「日本軍は……貴国民の安全に配慮したと言われておりますが」と伝聞にした上で逆接にし、そのあと「犠牲者が生じた」となっています。
つまり、安倍首相の美談を否定した格好になっているのです。
 
天皇陛下は安倍首相の訓示を知った上で自分のあいさつを考えられたのではないか――と思いましたが、これは邪推かもしれません。偶然かぶったということもあります。
いや、偶然ということもないでしょう。安倍首相は天皇陛下がペリリュー島を訪問されることを踏まえて、自分の訓示で言及したのではないかと思われます。
 
しかし、同じペリリュー島の戦いを語っても、そのとらえ方がまったく違います。
天皇陛下は現地島民の犠牲に言及した上で、「先の戦争で亡くなったすべての人々」を追悼しています。さらに「その遺族」にも思いをはせています。
 
一方、安倍首相の訓示では持久戦という「務め」を果たしたという物語になっています。
 
安倍首相の訓示は防衛大学校の卒業式のためのもので、追悼目的のものとは違いますが、「平和」という言葉を何度も使い、「戦争の惨禍」という言葉も使っています。
ほんとうに「平和」の価値や「戦争の惨禍」がわかって使っているとは思えません。
 
天皇陛下のごあいさつが安倍首相の訓示を踏まえたものであるという根拠はありませんが、そう思いたくなるぐらいに両者は対照的です。

4月5日、翁長雄志沖縄県知事は菅義偉官房長官と会談した際、『上から目線の「粛々」という言葉を使えば使うほど、県民の心は離れて、怒りは増幅していく』と語りました。
「上から目線の言葉づかいはけしからん」という主張は、自分は相手と対等かそれ以上だという認識に基づいています。
今や“日本のプーチン”と化した菅官房長官を相手にこのような口の利き方をしたのには驚かされました。
 
そして、菅官房長官は会談の翌日、「不快な思いを与えたということであれば、使うべきではない」と語り、「粛々」という言葉は今後使わない考えを表明しました。
 
政治は格闘技です。ここは翁長知事が菅官房長官に対してマウント・ポジションを取って、ポイントを挙げたことになります。
 
ここにどういう力学が働いていたのかを考えてみました。
 
翁長知事は何度も菅官房長官との面会を断られ、相当怒りをためていたのでしょう。それに、背後に沖縄県民の思いを負っているということも自信になったでしょう。また、「抑止力のために沖縄に海兵隊がいる必要がある」という政府の主張に対する理論武装もできていたはずです。
 
しかし、それだけで菅官房長官に対して優位に立てたとは思えません。菅官房長官のほうの弱みもあったはずです。
 
アメリカは辺野古基地建設が延びに延びていることに苛立ち、日本政府に不信感を持っています。安倍首相は4月末に訪米する予定ですから、それまでになんとかメドを示さなければなりません。
これが菅官房長官の側の弱みです。
 
アメリカはすでに辺野古移設を諦めてもいいと考えているようです。
 
ナイ元国防次官補、辺野古「再検討を」 地元民意を重視
【ワシントン=問山栄恵本紙特派員】米クリントン政権で米軍普天間飛行場返還の日米合意を主導したジョセフ・ナイ元国防次官補(現米ハーバード大教授)は2日、日米両政府が進める普天間飛行場の名護市辺野古への移設について「沖縄の人々の支持が得られないなら、われわれ、米政府はおそらく再検討しなければならないだろう」と述べ、地元同意のない辺野古移設を再検討すべきだとの見解を示した。ワシントン市内にある米有力シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)で琉球新報に答えた。米外交政策に影響力を持つ米国防省元高官が辺野古移設に疑問を投げ掛けていることは、沖縄の民意を無視する形で工事が進むことに米国内でも懸念が広がっていることの表れとみられる。
  ナイ氏は辺野古移設に反対する翁長雄志知事が就任するなど、県内移設反対の声が根強いことについても「承知している」と述べ、沖縄と日本政府は話し合う必要性も強調した。
  ナイ氏は昨年の知事選後、日本メディアに対し、辺野古移設に関して「長期的には解決策にはならない。固定化された基地の脆弱(ぜいじゃく)性という問題の解決にならないからだ」と指摘し、中国の弾道ミサイルの射程内にある沖縄に米軍基地が集中することが対中国の軍事戦略上、リスクになるとの見方を示した。ただ「今後10年といった短期間で考えれば宜野湾市の負担を軽減したいわけだから、施設や海兵隊を辺野古に移す方がいいと言えるだろう」とも述べ、短期的な解決策としては有効だとした。これに対して、ナイ氏は「その通りだ。変わらない」と強調した。
  ナイ氏は冷戦後の日米同盟を再定義する「ナイ・イニシアチブ」を推進した。リチャード・アーミテージ元国務副長官との連名で、超党派の対日専門家による政策提言書「アーミテージ・ナイ報告」を発表し、集団的自衛権の行使容認などを求めてきた。米外交政策に最も影響力を持つ国際政治学者の一人として知られ、2014年10月、ケリー国務長官に助言する外交政策委員会のメンバーに就任している。
 
アメリカはもとから中国の近くに海兵隊を置いておきたくないので、辺野古移設にはこだわっていないのです。
 
翁長知事は菅官房長官との会談のときに、「私は辺野古の新基地は絶対に建設することができないという確信を持っている」とも語っています。
この言葉は当然アメリカ政府にも届きます。そうすると、アメリカ政府は辺野古移設を諦める可能性があります。
これが翁長知事の自信にもつながっているのでしょう。
 
つまり、翁長知事と菅官房長官がバトルを演じたようですが、実は2人ともアメリカの視線を意識しながらやっているのです。
 
ほんとうの「上から目線」はアメリカの目線というわけで、これがどんどんアメリカの属国化を強める日本の実態です。

このところ園子温監督の活躍が目立ちます。私は監督のファンで、その作品の8割ぐらいは観ています。
最近、園子温監督の「非道に生きる」と「けもの道を笑って歩け」という本を続けて読んだら、「けもの道を笑って歩け」の中にこんなくだりがありました。
 
1990年代の初め、僕は東京ガガガというパフォーマンス集団をやっていました。学生や社会人が何十人も参加してくれて、渋谷や吉祥寺の街頭でパフォーマンスをやったりしていました。
吉祥寺のアーケードでは、ストレッチャーを何台も連ねて、コスプレ看護師が点滴患者を延々と運び続けるパフォーマンスをやりました。渋谷では、スクランブル交差点を占拠して、鍋を囲んで一家団欒が始まるという、ドリフのようなコントをやりました。車がキーッと停まって、最後には拍手喝采が沸き起こった。
みんな学校や会社でつまらない時間を過ごしているのか、もう大盛り上りでした。
 
渋谷のスクランブル交差点の真ん中で鍋を囲んで一家団欒をやるというのに驚きました。
もし今、同じことをやったら、やった人間は大バッシングを受けるでしょう。
 
今は、バイト店員が冷蔵庫に入ったというような、誰にも迷惑をかけない行為ですら炎上してしまいます。
 
ちなみに「東京ガガガ」は、インターネットもない時代に口コミでどんどん広がって、2000人が参加する規模になり、NHKの朝のニュースで取り上げられたりします(私はテレ朝の「トゥナイト」か「トゥナイト2」で見たことがあります)。「ガガガ」と叫びながら街中を練り歩くというのが一般的なやり方ですが、デモの届けもなしにやっているので、毎回メンバーが警察に捕まります。
 
右翼と左翼の両方から勧誘の電話が園子温監督のところにかかってきたそうですが、監督はそうした政治的な思いはありません。ただ、純粋におもしろがってやっていただけです。
 
もちろんその経験は監督の作品の中に生きています。たとえば、実質的にメジャーデビューの作品となった「自殺サークル」(2002)には、数十人の女子高生が新宿駅などのホームに手をつないで並び、一斉に線路に飛び込んで自殺するというシーンがありますが、これも無許可でゲリラ的に撮影されたものです(線路に飛び込むことまではやっていませんが)
 
これも今、同じような撮影手法を行えば、やはり社会的なバッシングを受けて、その作品を一般公開することができないのではないでしょうか。
 
今は、このように意味のないことをおもしろがってやることは、バッシングされるのでほとんどやれなくなり、一方、ヘイトスピーチのデモや反ヘイトスピーチのデモのような政治的なことは行われるようになっています。
世の中の進む方向が間違っているのではないかと思いました。

「報道ステーション」で古賀茂明コメンテーターが“官邸の圧力”を告発した件ですが、“古舘キャスターと古賀コメンテーターがバトルをした”みたいなとらえ方が多いようです。また、テレビにおけるコメンテーターの役割についても議論が起きています。
 
しかし、こうした議論は安倍政権の思うツボです。
残念ながらこんなことも起きています。
 
テレ朝、番組内で謝罪…NHK会長めぐる発言「適切でなかった」
 テレビ朝日は1日、報道情報番組「ワイド!スクランブル」の番組内で、3月17日の放送でコメンテーターが不適切な発言をしたとして謝罪した。
 
 報道フロアからのニュースを伝えた後、橋本大二郎キャスター(68)とともにMCを務める同局の大下容子アナウンサー(44)が「この番組で3月17日に報道内容についてお詫びがあります」と切り出し、「この日の放送ではNHKの籾井勝人会長が私用のゴルフに用いたハイヤー代をNHKが立て替えていた問題についてお伝えしました。その中で今回の問題を犯罪や業務上横領などとする発言がありました。こうした表現をしたことは適切ではありませんでした。番組として関係者並びに視聴者の皆様にお詫び申し上げます」と謝罪した。
 
  17日の番組では、教育評論家の水谷修さんが「業務上横領じゃないか」「すぐに自首してほしいくらい」などと発言した。
 
  テレビ朝日広報部は「事前に水谷さんから相談があったが、スタッフが適切な注意喚起をすることができなかった」としている。
 
コメンテーターの発言についてテレビ局が謝罪したことは、これまであったでしょうか。
コメンテーターというのは、それなりの見識を持った人物をテレビ局が選んで、あとはコメンテーターの責任で発言するものだと思っていました。
コメンテーターの発言でテレビ局が謝罪するなら、コメンテーター自身は謝罪しなくていいのかということにもなります。
また、テレビ局はコメンテーターの発言をすべて管理しなければならず、そうすると自由闊達な議論は失われてしまいます。
 
要は「報道の自由」に関することですから、肝心なのは官邸がテレビ局に圧力をかけたか否かということです。
そういう方向に議論が行かないのは、菅義偉官房長官の特異なキャラクターがあるからではないかと思っています。
 
菅官房長官は最近の政治家には珍しい経歴です。秋田県の高校を卒業後、集団就職で上京し、段ボール工場で働きながら法政大学の夜間部を卒業、議員秘書を経て政治家になりました。まさに叩き上げです。
 
性格も、押しが強く、頑固一徹で、絶対に相手にしたくないタイプです。
とりわけ官僚はこういうタイプが苦手で、こういう政治家が活躍すると、官僚支配が揺るいでしまいます。
こういうタイプとしては、小沢一郎氏、鈴木宗男氏がいますが、結局検察の力で止められました。ホリエモンも似たタイプで、選挙に出たりしたので、検察に止められたわけです。
 
菅官房長官は検察に止められることなく政権の中枢に入りました。そのため今では圧倒的に官僚を支配しています。
第一次安倍政権のときは総務大臣を勤め、総務省は放送免許を主管していますから、テレビ局に影響を与えるやり方も熟知しています。
 
そういうわけで、今では官僚もテレビ局も菅官房長官の威に屈しています。

菅官房長官は“日本のプーチン”です。
日本のマスコミは、ロシアのプーチンは批判しても、“日本のプーチン”は批判できないようです。

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