元少年Aが書いた「絶歌」を読んで感じたことの続きです。
「絶歌」についてはさまざまな批判があります。反省がない、文学趣味に走りすぎ、自己顕示欲だ、金もうけ目的だなどですが、どれもうわべの批判です。どうせ読まずに批判しているのでしょう。
「週刊ポスト」最新号に「ビートたけし『元少年Aは下品すぎだぜ』」という記事があったので、立ち読みしてみたら、やはり読まずの批判でした。
もし「絶歌」が上品に書かれていたら、そのほうがよほど批判に値します。それに自分は下品なギャグを言っているのに人のことを下品と批判するのもおかしなことです。
「絶歌」を批判する人の脳内では、おそらく元少年Aが今も14歳の少年Aのままなのでしょう。
実際はあれから18年たって、法的な償いが済んでいることはもちろん、人格も変わっています。
そこには「育て直し」を行った医療少年院のスタッフを初めとする多くの人の力があります。元少年Aを批判する人は、元少年Aを傷つけるのはもちろん、元少年Aの更生に力を尽くした多くの人も傷つけています。
私は元少年Aを擁護していますが、「絶歌」の内容を擁護しているわけではありません。むしろ誰よりも「絶歌」の内容を批判しているかもしれません。
今回はそれを書いてみます。
元少年Aはあの犯行の原因や動機を正しくとらえていません。むしろごまかしています。ここが「絶歌」の最大の問題点です。
犯行の動機については、少年Aの精神鑑定書に一応書かれています。「性的サディズム」が原因だというのです。
しかし、「性的サディズム」というのは、言い換えればSM趣味のことで、SM趣味はアダルトビデオでは一大ジャンルを形成しているぐらいありふれたものです。SM趣味があるから殺人をするということはありません。
精神鑑定書では、そこに祖母の死を持ってきて、性的サディズムと死を結びつけるという“物語”をつくっています。そこのところを元少年Aは「絶歌」でこのように書いています。
精神鑑定書には次のように書かれている。
未分化な性衝動と攻撃性との結合により持続的かつ強固なサディズムがかねて成立しており、本件非行の重要な要因となった。
最愛の祖母の死をきっかけに、「死とは何か」という問いに取り憑かれ、死の正体を解明しようとナメクジやカエルを解剖し始める。やがて解剖の対象を猫に切り換えた時にたまたま性の萌芽が重なり、猫を殺す際に精通を経験する。それを契機に猫の嗜虐的殺害が性的興奮と結び付き、殺害の対象を猫から人間にエスカレートさせ、事件に至る。
実に明快だと思う。ひとかけらの疑問も差し挟む余地がない。しかしどうだろう? もしもあなたが、多少なりとも人間の精神のメカニズムに興味を持ち、物事を注意深く観察する人であるならば、このあまりにもすんなり「なるほどそういうことか」と納得してしまう、“絵に描いたような異常快楽殺人者のプロフィール”に違和感を覚えたりしないだろうか?
かなり皮肉な書きぶりです。ここだけ読むと、元少年Aは精神鑑定書の“物語”を否定しているのかと思えます。
しかし、その後の展開は逆です。精神鑑定書の性的サディズムと祖母の死が結びついたという“物語”を補強するのです。
彼は祖母の死後、よく祖母の部屋に行って、祖母の思い出にひたります。そしてあるとき、祖母の愛用の電気按摩器を取り出します。
祖母の位牌の前に正座し、電源を入れ、振動の強さを中間に設定し、祖母の思い出と戯れるように、肩や腕や脚、頬や頭や喉に按摩器を押し当て、かつて祖母を癒したであろう心地よい振動に身を委ねた。
何の気なしにペニスにも当ててみる。その時突然、身体じゅうを揺さぶっている異質の感覚を意識した。まだ包皮も剥けていないペニスが、痛みを伴いながらみるみる膨らんでくる。ペニスがそんなふうに大きくなるなんて知らなかった。僕は急に怖くなった。
不意に激しい尿意を感じた。こんなところで漏らしては大ごとになる。だがどうしても途中でやめることができなかった。苦痛に近い快楽に悶える身体。正座し、背を丸め前のめりになり、按摩器の振動にシンクロするように全身を痙攣させるその姿は、後ろから見れば割腹でもしているように映ったかもしれない。
遠のく意識のなかで、僕は必死に祖母の幻影を追いかけた。祖母の声、祖母の匂い、祖母の感触……。涙と鼻水とよだれが混ざり合い、按摩器を掴む両手にポタポタと糸を引いて滴り落ちた。
次の瞬間、尿道に針金を突っ込まれたような激痛が走った。あまりの痛さに一瞬呼吸が止まり、僕は按摩器を手放し畳の上に倒れ込んだ。
(中略)
僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを思いながら、射精を経験した。
僕のなかで、“性”と“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。
要するに初めての射精は、祖母の部屋で祖母の思い出にひたりながらだったので、そのために性と死が結びついたというのです。
この文章には三島由紀夫の「仮面の告白」の影響が感じられます(元少年Aは三島由紀夫と村上春樹に傾倒しています)。
かりにここに書かれていることが実際にあったとしても、“死”と“殺人”は違います。
偶然人が殺される場面を目撃したときに性的興奮を覚えて、それから殺人シーンを思い浮かべながらオナニーするようになったという“物語”なら多少説得力があるかもしれませんが、祖母は普通に病院で死んだのですし、元少年Aは祖母を慕っていて、その死を悲しんでいます。どうしてそこに“殺人”が出てくるのでしょうか。
もともと性的サディズムに祖母の死を結びつけるという精神鑑定書の“物語”にむりがあったのですが、そのむりの上にむりを重ねた格好です。
ネクロフィリアといって死体を愛好する変態性欲がありますが、ネクロフィリアの人が殺人をするわけではありません。SM趣味の人が殺人をするわけでないのと同じです。
人を殺すというのはよほどのことです。よほどのことが原因になったに違いありません。
14歳の少年といえば、家庭と学校に完全に管理されています。元少年Aの場合、不良グループに属していたということもありません。
そうなると、家庭と学校の責任が問われます。
それはおとなにとってひじょうに都合の悪いことです。
しかも少年は「さあ、ゲームの始まりです」という犯行声明文を出したので、おとな社会は震撼しました。
そこですべて14歳の少年の内面に責任があることにしようというのが精神鑑定書の“物語”です。
「少年法の厳罰化」が打ち出されたのも、おとなの責任から目をそらさせるためでしょう。
現在、「絶歌」を抹殺しようという動きがひじょうに激しいのも、そうした流れを受け継いでいると思われます。
しかし、「絶歌」の内容は、精神鑑定書をなぞったものになっているので、おとなたちにとって不都合なものはなにもありません。
元少年Aは“おとな”になったのです。
「絶歌」の内容をひと言でいえば、「さあ、ゲームの終了です」ということになります。
私からすれば、そこが「絶歌」のいちばんの問題点です(考えてみれば私も過激思想の持ち主ですね)。