村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2015年07月

アメリカ共和党の大統領候補ドナルド・トランプ氏が暴言を連発していますが、それでも大人気です。いや、それゆえに大人気というべきでしょう。暴言が多くの人の本音を代弁しているからです。
 
トランプ氏はメキシコ人差別発言もしています。メキシコからの移民について「麻薬や犯罪を持ち込む。彼らは強姦犯だ」と決めつけ、メキシコ国境に「万里の長城を築く」と公約しました。
 
アメリカでは黒人差別がよく問題になりますが、メキシコ人差別もかなりのものです。
 
私の世代は映画やテレビドラマでアメリカの西部劇をよく見ていたので、「私は人生でたいせつなことはすべて西部劇で学んだ」と前に書いたことがありますが、西部劇にはよくメキシコ人が出てきます。そして、出てくるメキシコ人は、思いっきり残忍な悪人と、思いっきり陽気なお調子者と、純真な子どもの3種類しかいません。
つまり「普通のメキシコ人」とか「人間的なメキシコ人」というのは出てこないのです。
 
これは今のハリウッド映画でもほとんど同じです。
 
同じ隣国でもカナダ人はちゃんと普通の人間に描かれますから、違いは歴然としています。
カナダ人はたいてい白人のアングロサクソン系ですから、これは人種差別というしかありません。
 
それにしても、メキシコはアメリカと国境を接しているのにずっと貧しいままで、犯罪組織ばかりがふえているようです。
日本人の感覚からすると、豊かなアメリカに接しているのは経済的には好条件と思えます。低賃金を生かしてアメリカに輸出する産業が発達するはずで、だんだんとアメリカ並みの豊かな国に近づいていきそうなものですが。
 
もっとも、アメリカに近い国、たとえばプエルトリコ、ハイチ、ジャマイカ、ニカラグア、ドミニカ、パナマ、コロンビアなどはみな同じようなものです。
いや、中南米すべてが似たようなものです。ブラジルやベネズエラは一時経済が好調でしたが、最近はそうでもありません。
ほとんどの国が貧困と犯罪に苦しんでいます。
 
これはアメリカのせいだと考えるしかありません。つまりアメリカに民主的な政権をつぶされ、親米独裁政権を支援されたために国民は政治的に成熟せず、アメリカの資本に収奪されて貧困層が多いために犯罪がふえるのだと思われます。
 
日本のネトウヨは、韓国に関わる国は不幸になる法則があると主張して、よく法則発動などといって喜んでいますが、実際のところは、アメリカに関わる国は不幸になるという法則のほうに現実味があります(ヨーロッパなどは別です。あくまでアメリカから差別的に扱われる国に関してです)
 
フィリピンはアメリカの植民地でしたから、今にいたるも政治的に成熟せず、主に出稼ぎで稼ぐような国になっています。
 
反面、キューバはアメリカに経済制裁されて貧しいですが、政治は安定していますし、犯罪も少ないとされています。
 
アフガニスタン、イラクなど中東の国も、アメリカとの関わりが大きいほど不幸になっています。サウジアラビアも産油国なので経済は豊かですが、最悪の独裁国です。
 
ヨーロッパ以外でアメリカと関わって幸福になった国は見当たりません。
 
そうすると、日本はどうなのかということになります。
日本は自民党の一党独裁が続いて、政治的にはまったく成熟していません。
経済面は、冷戦時代は高度成長で豊かになりましたが、このところずっと停滞しています。
 
安倍政権はますます日本をアメリカに従属させるつもりですが、そうするとアメリカに関わる国は不幸になるという法則もますます発動しそうです。

新国立競技場建設計画は白紙になりましたが、東京オリンピックについてもうひとつ気になることがあります。それは日程です。
2020年の東京オリンピックは、開会式が7月24日、閉会式が8月9日となっています。ちょうど今の時期です。こんな暑いときにやるのは殺人的です。
 
前の東京オリンピックは1010日が開会式でした。オリンピックをやるのにいちばん気候のいい時期を選んだのです。
今回はなぜこんな暑い時期になったのか調べてみると、秋はサッカーやアメフトなどの大きなイベントとぶつかり、またアメリカのテレビは9月から10月に新番組がスタートするので、この時期が好都合だったようです。日本は立候補した最初からこの時期の開催をうたっていたので、これは公約みたいなものです。ちなみに10月開催をうたっていたドーハは一次選考で落選しました。
 
結局、テレビ放映権の問題で、とりわけアメリカの力が強いわけです。アスリートの健康などそっちのけです。
 
今はまだ先のことですから、あまり真剣には考えられていませんが、開催時期が近づくにつれて問題化しそうな気がします。
「喉元すぎれば熱さ忘れる」という言葉とは逆に、これから喉元が近づくにつれ、忘れていた熱さ(暑さ)がだんだん思い出されてくる格好です。
 
新国立競技場建設計画も公約みたいなものでしたが、結局白紙になりました。開催時期も変更できないはずがありません。どうせ変更するなら早い目に手を打ったほうがいいと思うのですが。
 
 
ところで、新国立競技場問題では今のところ誰も責任を取らないようです。いつもながらの無責任体制ですが、責任追及にはマスコミの役割がたいせつです。
朝日新聞の次の記事はいろいろなことを考えさせてくれました。
 
 
(日曜に想う)肥満のトカゲ、垂れたカキ 特別編集委員・山中季広
 
「白紙撤回にどう臨む」「再コンペに挑む気は」。新国立競技場問題で局面が動くたび、ロンドンのザハ・ハディド建築事務所に問い合わせをした。
 
 返事らしい返事はもらえなかった。代わりに別の建築家から、ハディド事務所幹部がフェイスブックに投じた謎の一文を教えられた。「槇と伊東はこの件で記憶されるだろう」
 
 捨てゼリフらしい。名指しされた建築家、槇文彦氏と伊東豊雄氏についてはハディド氏当人が昨年暮れ、英デザイン専門サイトに怒りをぶちまけている。両氏ら5人を日本の「偽善者」と呼び「自分たちは海外で盛んに仕事しながら、東京の国立競技場は外国人に建てさせようとしない」と非難した。
 
 槇氏は2年前の夏、競技場事業の進め方に疑問を投げかける論考を発表した。東京都豊島区の多児貞子さん(69)は深く共鳴した。槇氏の講演を聴いた知人らと「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」を立ち上げた。
 
 多児さんはかつて東京駅赤レンガ駅舎保存に黒衣として携わった。「日本では歴史ある建物を深く考えずに壊してしまう。保存を求めて担当者にかけ合うと困った顔をされる。『もう決まったこと』『上が決めたこと』。国立競技場問題でも似た顔をされました」
 
 「手わたす会」は旧競技場を改修して使うことを目標にすえた。解体された後は、ハディド案の見直しを訴え、勉強会を開いた。「これから先が大切。やり直しコンペで、同じお偉方が市民の声を吸い上げないまま同じ感覚で選ぶとしたら大問題です」
 
 たしかにイチからやり直すというのに、混迷を招いたお偉方はだれも退場していない。「明確な責任者が誰かわからないまま来てしまった」と文科相が言えば、「誰に責任があるとかそもそも論は言わない」と首相がかばう。60億円近い大金をムダにされた下々には納得しがたい展開である。
 
 大艦巨砲、干拓、ダム、五輪。戦前から日本では国策となるとお上がブレーキを失う。破綻(はたん)するや「内心は反対だった」と言い訳する。あげく「状況が変わった」「誰も悪くない」とかばい合う。これを無責任の体系と呼ぶ。
 
    *
 
 改めて調べてみると、ハディド作品は海外でも盛んに物議を醸していた。
 
 たとえばスイスの古都バーゼルでは音楽堂だった。コンペで選ばれたハディド案に「宇宙船みたい」と批判が噴出。有志が4千人の署名を集めて住民投票に持ち込んだ。反対が6割を超え着工は見送られた。8年前のことだ。
 
 有志代表のアレクサンドラ・ステヘリンさんは「奇怪な設計を見て立ち上がった。中世以来の街並みが台無しにされるところでした」と振りかえる。進むも引くもお上が決めてしまう日本とは好対照ではないか。
 
 お隣韓国では、ハディド建築に対し完成後も不満が尾を引く。東大門デザインプラザという公共施設だ。
 
 現地を見た。曲線がうねうねと波打ち、巨体が周囲を圧する。住民たちは「不時着した宇宙船」と酷評した。私の目には「肥満のトカゲ」と映った。
 
 「外観だけなら天下一品。でも建築士たちは曲面ばかりの難工事に泣き、館内で働く人々は使い勝手の悪さに泣いています」。建築家の兪ヒョン準・弘益大学教授(45)は容赦ない。
 
 そんなハディド作品が数々の国際コンペを制するのはなぜか。「流線形のデザインがお偉方の功名心を刺激するからです。斬新な建物を自分の治績にしたい、後世に名を残したいと思う政治家が飛びつく外観なのです」
 
    *
 
 さて森喜朗・元首相はあさって28日、マレーシアで始まる国際オリンピック委員会(IOC)の会合に出席する。2020年の本番に向け進捗(しんちょく)や意気込みを語る晴れ舞台である。だがその場でなぜハディド案をほごにしたか説明を求められるのは必至だ。
 
 「ドロッと垂れた生ガキのよう」「実は好きじゃなかった」。稚拙な言い訳は切に控えていただきたい。
 
 
責任問題を考える上で参考になりそうな情報がいろいろあって、なかなかいい記事だなと思って読んでいましたが、最後のところでズッコケてしまいました。
 
『「ドロッと垂れた生ガキのよう」「実は好きじゃなかった」。稚拙な言い訳は切に控えていただきたい』というのが記事の締めくくりですが、ということは、巧みな言い訳をしろということでしょうか。
私などは、森元首相がIOCの会合でも例の調子でしゃべってくれたら、日本のオリンピック組織の問題点が浮き彫りになって、かえって好都合だと思うのですが。
 
国際的会合でへんな発言をされると国の恥になるからという理屈かもしれませんが、「国の恥」なんていうことを考えているようでは、責任の追及はできません。むしろ恥をさらけだす覚悟が必要です。
 
そもそも森元首相は、いちばん責任がありそうな人間です。その人間に対してアドバイスをしようという発想が理解できません。
要するにこの特別編集委員の山中季広という人は、森元首相に同じ支配階級としての仲間意識を持っているのでしょう。だから、うまくやってくれとアドバイスするのです。
 
日本の無責任体制は、マスコミもその一翼を担っているのだなということを改めて感じました。

安倍首相の安保法案についての説明がめちゃくちゃなので、賛成派の人も混乱しているようです。そのため安倍首相に輪をかけておかしなことを言う人も出てきました。
たとえば、「BLOGOS」にこんな記事が載っていました。
 
 
安保法案を『違憲だ!違憲だ!』と叫ぶ全ての方へ 「勉強不足です。勉強してください」
 
日本国憲法の前文は、どんな人が読んでも感動すると思うよ
 
 
ふたつの記事はまったく同じ論理構成になっています。つまり安保法案の根拠を日本国憲法前文と国連憲章に求めているのです。
 
どちらの記事も、憲法前文のこの部分を引用しています。
 
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 
自国のことのみに専念してはいけないので、アメリカを助ける安保法案に賛成するべきだというのです。
 
確かに人助けはたいせつなことですし、他国を助けることも同じですが、それは他国が困っていたり、しいたげられていたりした場合です。なぜ世界一の強国であるアメリカを助けなければならないのでしょう。憲法前文に書いてあるのはそういうことではないはずです。
 
また、このふたつの記事は、国連憲章のまったく同じ部分(51条)を引用しています。
 
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
 
つまりこれは集団的自衛権を認めているので、安保法案は国連憲章にもかなっているというわけです。
確かに国連憲章は集団的自衛権を認めていますが、それはあくまで権利として認めているので、義務としているわけではありません。
 
そして、この自衛権も「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という限定つきです。
ところが、アメリカは国連とまったく関係なしに戦争をしています。これは明らかに国連憲章違反です。
 
日本国憲法前文も国連憲章も、戦争でひどい目にあう人をなくしたいという精神を表したものだと思いますが、アメリカは世界でいちばん戦争をする国です。アメリカを助ける理由に憲法前文や国連憲章を持ち出すのは、その精神に反します。
 
 
本来なら安倍首相は、「強いアメリカについていくのが国益だから安保法案が必要なのだ」と言えばいいのですが、立場上そうあからさまには言えません。ですから、それは安倍応援団が言うべきなのです。
 
「強いアメリカについていくのが国益」というのは現実主義的な考え方で、それなりに賛同者もいるはずです。
 
しかし、私の見る限りでは、そういうことを言う人はいません。
いないどころか、逆に憲法前文や国連憲章を持ち出す人がいるわけです。
安倍応援団は誰よりも憲法前文を否定する立場ですから、あまりにもご都合主義と言わざるをえません。
 
日本の右翼はこのところ劣化が進んでいますが、とうとう現実主義者もいなくなってしまったようです。

安倍内閣の支持率が急落しています。新国立競技場建設計画を白紙に戻したかいもなく、安保法制のゴリ押しがたたったようです。
 
安倍首相は安保法制をわかりやすく説明しようと次々とたとえ話を繰り出しますが、ますます墓穴を掘っています。
 
 
安保法案は「戸締まり」のため 安倍首相、みんなのニュースに生出演
 
安倍晋三首相が720日、フジテレビ系の「みんなのニュース」に生出演した。安全保障関連法案が衆院を通過したことを受けて、自ら「国民に向けて分かりやすく解説する」ことが目的。安倍首相は6日の自民党役員会で、法案への理解が進まない現状に関し「本当はテレビ番組に出たいのだが、どこも呼んでくれない」と漏らしていた。
 
冒頭で安倍首相は、視聴者から寄せられた「なぜ法制化を急ぐのか?」という質問に対して「戸締まりをしっかりするため」などと説明した。しかし、ネット上で「そんな話なの?」「余計分からないよ」といった戸惑いの声が広がっている。
 
■「前は雨戸だけ閉めておけばよかった」
 
フジテレビの伊藤利尋アナウンサーと、安倍首相のやり取りは以下の通り。
 
伊藤アナウンサー:番組では安保法制について、国民の疑問を100個、集めました。いろいろとあるんですが、「アメリカに言われたからではないか?」。「メリット、デメリットをはっきりと知りたい?」。「なんでこんなに焦ってらっしゃるのか」。結構、ふわっとした言い方ですが、もやもやした国民が多いと思うんですよ。
 
安倍首相:「なんでそんなに急ぐの?」と言われるんですね。戸締まりをしっかりしていこう。ということなんですね。かつては雨戸だけ閉めておけば、よかったんです。雨戸だけ閉めておけば、泥棒を防いで自分の財産を家に置いておいても、守ることができたんです。
 
でも、今はどうでしょうか。たとえば振り込め詐欺なんて、電話がかかってきますね。それへの対応もありますし、自分の財産が電子的に取られてしまうという事態にもなってます。そういう事態に備えていなければいけない。
 
たまたま今は何も起こってないけれど、備えていなければ、そういう事態が起こるかもしれない。まさにそうした『戸締まり』。国民の命や自由や幸福を守るためには、今からしっかりと備えをしておくことによってですね。何かよこしまな考えを持っている人が、『日本を侵略するのをやめておこう』となっていくんです。
 
つまり未然に防ぐための法律は、もう随分、安全保障環境が厳しくなってますから、私は政治家の責任というのは国民の命や幸せな生活を守ることですから、その責任を果たさなきゃいけないと思っているんです。
 
 
たとえ話でわかりやすくしようという方針は間違っていません。私も安倍首相を見習って、たとえ話をしてみたいと思います。
 
 
今の国際社会はイジメの横行する学校みたいなものです。
いや、学校だと一応先生がいて、「イジメはよくないことだ」と言って目を光らせていますが、今の国際社会には、国連先生はいるものの、ほとんど力がないので、イジメっ子のやりたい放題になっています。
 
そのイジメっ子の中でも圧倒的に強いのがアメリカです。アメリカは中東や南米や東欧などでイジメを繰り返しています。
 
日本はアメリカの子分という立場です。アメリカが圧倒的に強いので、このポジションにいれば、ほかの子からイジメられることはありません。
アメリカからはパシリとして使われますが、ある程度はしかたがありません。ただ、これまでは一線を越えないようにしてきました。
 
しかし、日本はアメリカがいつまでも親分として守ってくれるだろうかと、だんだん不安になってきました。なにしろ日本はこれまでずっとアメリカの子分でいて、自立したことがないのです。
 
そこで、一線を越えてパシリをすることにしたのですが、なぜそんなことをするのかと聞かれると、自立心がないからだとは言えません。そこで、「この学校はどんどん危険になっているからだ」とか、「中国が力をつけているからだ」とか言っているわけです。
 
実際のところは、アメリカの子分にならなくてもイジメられていない子はいっぱいいますし、中国が力をつけてきたといってもアメリカとは比べものになりません。
 
日本をイジメそうなのは中国ぐらいですから、イジメられたくなければ中国と仲良くすればいいわけです。
 
そもそも学校一のイジメっ子であるアメリカとつるんでいるのが間違いです。
そういうことをしても尊敬されませんし、逆に恨みを買って、テロ攻撃の対象になりかねません。

国連先生を支えてイジメのない学校を目指すのが日本の進むべき道です。

安倍首相は7月17日、2500億円かかる新国立競技場建設計画を白紙に戻すと表明しました。あまりにも国民に不人気なので、あわてて方針転換したのでしょう。
 
一方、集団的自衛権行使を認める安全保障関連法案も不人気ですが、こちらはあくまで成立を目指すようです。
この違いはなにかというと、新国立競技場のほうはソロバン勘定だけなのに、安保法案のほうは複雑な心理がからんでいることです。
 
もちろん安保法制はアメリカの要請があってやっていることですが、安倍政権はアメリカの要請以上に前のめりになってやっています。その理由は、白井聡氏が「永続敗戦論」で書いたところの「敗戦の否認」でしょう。
日本人は「敗戦」を「終戦」と言い換えたように、敗戦という事実を心理的に受け入れることができず、その結果「永続敗戦」状態になっているというのが白井聡氏の説です。
 
日本はサンフランシスコ講和条約締結によって主権を回復したことになっていますが、そのときはまだアメリカの属国状態でした。しかし、敗戦を否認している人は属国状態も否認するわけで、そのため今にいたるも属国状態を解消することができていません。
 
その現実をごまかし通そうというのが日本の右翼のやり方です。
たとえば、憲法9条改正はアメリカの要請ですが、右翼は憲法9条はアメリカの押しつけだから改正するのだと主張するので、わけがわかりません。
 
もっとも左翼も、もともと日本を属国化するためのものである憲法9条を人類の理想だと言ってごまかしているわけですが(米軍に頼っているのでは理想になりません)
 
右翼も左翼も日本が属国状態にあることを否認しているので、安保法制についての議論がわかりにくくなります。たとえば、安倍首相はこんなたとえ話をしました。
 
「安倍は生意気だから殴ろうという不良が突然、(安倍を助けてくれようと一緒にいて)前を歩いていた麻生さんに殴りかかったとしよう。このような場合は私も麻生さんを守る。今回の法制で可能だ」
 
このたとえ話については、戦争を不良の喧嘩にたとえるのはおかしいという批判があり、このケースは個別的自衛権で対応できるという批判もあります。
 
さらに言うと、この場合の「麻生さん」というのはアメリカのことです。世界最強のアメリカに殴りかかる国があるかという疑問がありますし、かりに殴りかかる国があったとしても、アメリカは日本の助けなどなしに対処できるはずです。
 
集団的自衛権というと、弱い国が助け合うようなイメージがありますが、アメリカの国土が侵略を受けて、日本の助けが必要とされるという状況は絶対に考えられません。
アメリカが攻撃されるのは、アフガンでもイラクでもそうですが、アメリカが侵略して、向こうが自衛権の発動として攻撃してくる場合です。侵略されるほうは、アメリカ軍が世界最強であろうが戦います。
その場合、日本が「後方支援」すると、侵略の片棒を担ぐことになります。
 
アメリカ軍はなぜ中東にいるのでしょうか。中東の安定のためとかイスラエルを守るためとか言うでしょうが、日本はそれに賛同できるでしょうか。
 
安保法制に反対するほうもこうした議論をしません。アメリカ批判がタブーのようになっているからです。
 
安保法制批判をするよりアメリカ批判をしたほうが、手っ取り早くてわかりやすいはずです。

7月13日、ユーロ圏首脳会議はギリシャへの金融支援を行うことで大筋合意しました。これでギリシャの経済危機を巡る騒動はとりあえず沈静化するようです。
 
この騒動を見ていて思ったのは、ギリシャは小国にも関わらず世界を振り回す根性があるなあということです。
フランス、ドイツなどユーロ諸国を向こうに回すだけでなく、ロシアに接近するふりをすることでアメリカを巻き込み、ルー米財務長官の「EUはギリシャの債務を再編するべきだ」という発言を引き出しました。日本でいえば、中国に接近するふりをすることでアメリカを動かすみたいなものです。
もちろん日本にそんな外交力はありません。GDPは日本がギリシャの20倍ぐらいありますが、外交力はギリシャのほうが20倍くらいあります。
 
 
それから、チプラス首相を初めとする与党の急進左派連合は、官僚をうまく掌握してユーロと交渉していたと思います。
 
ウィキペディアによると、急進左派連合が結成されたのは2004年のことで、2012年の総選挙で第2党に躍進し、2015年の総選挙では第1党となり、チプラス党首が首相に就任しました。ですから、議員のほとんどは与党経験がないはずです。
チプラス首相自身は、2009年の総選挙で初当選ですから、国政の経験は6年しかないわけです。
そういう経験の浅い政治家たちが国をまとめてユーロと交渉を行ったわけです。
 
一方、わが国では自民党の長期政権から民主党政権へと政権交代が起きました。民主党の議員たちはギリシャの急進左派連合より経験があるはずですが、民主党政権はまったくといっていいほど官僚を掌握できませんでした。
その象徴が普天間基地移設問題と八ッ場ダム建設問題です。

民主党政権(当時は鳩山政権)の、普天間基地の辺野古移設を見直し国外県外へという方針と、八ッ場ダム建設を中止するという方針が正しいことは、(一部の利権関係者を除けば)誰の目にも明らかでしたが、官僚組織は徹底的に抵抗し、マスコミもそれに同調したために、国民もまともな判断力を失ってしまいました。そのため辺野古基地と八ッ場ダムが民主党政権のつまずきのもとになったのです。
 
もちろん民主党の力不足ということもあるのですが、日本では官僚組織が政権に抵抗するということがまかり通るわけです。
ギリシャの政権交代がうまくいっているのを見ると、改めて日本の異常さがわかります。
 
日本を統治しているのは、官僚組織とマスコミです。そして、その背後にはアメリカがいます。
ですから、辺野古移設見直しはまったくできない一方、安保法制のほうは国民の反対があってもどんどん進んでしまいます。
 
現在、新国立競技場の建設費が2500億円にふくらんで大きな問題になっていますが、八ッ場ダム建設が止められない以上、こうしたことが起きるのも当然です。
 
ギリシャを見ていると、政権交代とは本来こういうことなのだなとうらやましくなります。
 

岩手県矢巾町で中学2年生の少年が電車にひかれて死亡した事件で、その父親がイジメによる自殺だとして、学校の対応を批判しています。
これは2012年に大津市のマンションから中学2年生の少年が飛び降りて自殺し、少年は同級生から「自殺の練習」をさせられるなどのイジメを受けていたということで、父親が学校や教委の対応を批判した出来事にひじょうによく似ています。
 
 
「先生に助け求めていたのに…」男児の父親が悲痛な訴え
 
岩手県矢巾町(やはばちょう)のJR矢幅(やはば)駅で中学2年の村松亮君(13)が列車にひかれ死亡した事故で、村松君がいじめ被害をほのめかす内容をノートに記述し自殺したとみられることについて、飲食店を営む父親(40)が9日、産経新聞の取材に応じた。死体検案書には「鉄道自殺」と明記されており、長男の死について「真相を明らかにしてほしい」と訴えた。
 
 ノートは村松君の自宅で見つかった。担任に提出していた「生活記録ノート」で、いじめの苦しみや自殺をほのめかす内容が随所につづられていた。
 
 「先生に助けを求めていたのに…。無視された」。父親が最も衝撃を受けたのは、村松君が亡くなる6日前の6月29日に書かれた内容だった。
 
 「ボクがいつ消えるかはわかりません。ですが、先生からたくさん希望をもらいました。感謝しています。もうすこしがんばってみます。ただ、もう市ぬ場所はきまってるんですけどね。まあいいか」(原文ママ)。「市ぬ」は「死ぬ」の意味とも読める。遺書ともとれる深刻な内容だが、7月1、2日に秋田県仙北市で予定されていた1泊2日の宿泊研修の直前で、担任の女性教諭は「明日からの研修たのしみましょうね」と記しただけだった。
 
 「髪の毛をつかんで顔を机に打ち付けられていた」「複数の男子生徒に殴られていた」「しつこく砂をかけられていた」
 
 村松君の死後にノートの存在を知った父親のもとには、村松君の悲痛な訴えを裏付ける証言が、同級生や保護者からもたらされた。
 
 父親は4年前に飲食店を開店。当初は経済的に苦しく、給食費を期日に納められなかったこともあったという。村松君は、昼も夜も懸命に働く父親に心配をかけたくない思いからか、苦しみを吐露したのは同居する祖父だけだった。父親によると、「おじいちゃんに言って少し楽になった」と話していたという。
 
 
大津市イジメ自殺事件にきわめて似ているのに、世の中の反応が当時とはかなり違います。
 
当時は、学校や教委を批判する声が圧倒的でした。私は、少年の自殺には学校でのイジメよりも父親による虐待のほうが原因としては大きいのではないかと主張しましたが、こんなことを言っているのは私一人ぐらいでした。
 
父親による虐待があったか否かは別にして、一般論として、子どもが学校でどんなにイジメられていても、家庭が温かく子どもを受け入れていれば、子どもは自殺しないと思います。子どもが自殺したということは、家庭にも問題があったのです。ですから、親が学校を一方的に批判するというのは基本的に間違っています。
 
今回の岩手県矢巾町での自殺事件では、とりあえず2ちゃんねるの反応を見ると、イジメをした同級生や学校を批判する声がある一方で、父親を批判する声がかなりあります。大津市イジメ事件のころとは大違いです。
 
前回の「ネット私刑」書評の記事で書いたことですが、無関係な人のプライバシーをさらして訴えられた30代無職男性は、子どものころ学校でイジメにあい、父親は薄々そのことを知りながら対応せず、逆に子どもを叱咤していたということで、それが引きこもりやネット私刑の原因ではないかということが示唆されます。
 
安田浩一著「ネット私刑」書評
 
 
人間には安心感の得られる場所が必要です。それは普通は家庭であり、とりわけ母親の懐です。
しかし、それがなくても、代わりがあればなんとかなります。
 
酒鬼薔薇事件の元少年Aの場合、母親に叱られたとき、祖母の部屋に逃げ込んで、祖母に慰められていました。祖母が母親の代わりをしていたのです。
しかし、祖母が亡くなると、元少年Aはどこにも逃げ場がなくなり、追い詰められます。彼の場合、自殺ではなく殺人に向かうというレアケースでしたが。
 
岩手県矢巾町の自殺事件の場合、両親は離婚していて、子どもの逃げ場がなかったということも大きかったのではないかと想像されます。
 
家庭や親の役割の重要性が認識されてきたのはいいことですが、2ちゃんねるの場合は、学校や教師を批判するだけでは物足りずに、さらに親を批判するという格好になっています。
私の言う「道徳という棍棒を持ったサル」状態です。
しかし、この場合は親の愛情不足が問題なのですから、批判するのは方向が違います。批判されて愛情が湧いてくるということはありません。
必要なのは、親に対するカウンセリングなどの支援です。
 
とはいえ、子どもが自殺した場合、親の責任が問われるようになったのはよい傾向と思います。 

安田浩一著「ネット私刑」を読みました。
安田浩一氏といえば「ネットと愛国」で在特会の実態を取材したジャーナリストです。
 

ネット私刑(リンチ) (扶桑社新書)  2015/7/2  安田浩一 ()

内容(「BOOK」データベースより)
正義を大義名分にネットで個人情報を暴露・拡散する悪行=ネットリンチ。さらす人、さらされた人それぞれの実態に、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した気鋭のジャーナリストが迫る!川崎の中学生殺害事件の現場を直撃取材!
 
ヘイトスピーチなどネットで起こっていることは、リアルの世界にも影響を与えて、ますます重要になっています。
たとえば、自民党の大西英男議員が党の勉強会で「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」と発言しましたが、これはネットの中では昔から言われていて、実行もされてきたことです。
また、安倍首相は衆院予算委員会において、民主党議員に対して「日教組!」とヤジを飛ばし、さらに答弁で「日教組は補助金をもらっている」と述べましたが、これなどもまさにネットで見たことを真に受けたものでしょう。
 
本書には、上村遼太君が殺された川崎中1殺害事件、大津いじめ自殺事件、「ドローン少年」として逮捕された15歳の少年のこと、著者の知り合いである在日コリアンの女性が男子高校生から嫌韓のヘイトスピーチを受けた出来事、フジテレビへのデモの現場、フリーライターの李信恵氏や参議院議員の有田芳生氏へのヘイトスピーチなどが扱われ、ネット上で殺人犯扱いされたお笑い芸人のスマイリーキクチ氏へのインタビューも載っています。
 
大津いじめ自殺事件では、まったく無関係の人間が加害者側の親族として誤認され、プライバシーをあばかれ、勤務先に多数の抗議電話がかかってくるなど、たいへんな目にあいました。また、教育長がリアルで男子大学生に襲われるということもありました。このようなリンチを行う人間はどんな人間で、どのような論理で行っているのかということが具体的に書かれています。なんでもかんでも在日や反日や日教組のせいにする彼らの論理は、ネットでは当たり前になっていますが、こうして具体的に書かれると、そのおかしさが際立ちます。
たとえば「在日特権」のひとつとして大手マスコミには「在日枠」なる採用枠があって、そのために偏向報道が行われているなどということを真面目に信じているようなのです。
 
著者はネット上でヘイトスピーチやリンチをする人間にリアルで取材しているので、そこが本書の値打ちでしょう。
私がとくに興味深かったのは、大津いじめ自殺事件で無関係の人間を「加害者の祖父」としてネット上で攻撃し、刑事告訴されて罰金30万円の略式命令を受け、さらに損害賠償裁判も起こされているという30代無職の男性のことです。
著者は彼を取材しに行ったときのことをこのように書いています。
 
 
私は今回の取材で彼の自宅を訪ねた。
兵庫県内の山間部に位置する小さな町だった。彼はそこで両親とともに暮らしている。
彼の知人によれば、子どものころから人づきあいを苦手とするタイプだったという。地元の高校を卒業してからは仕事を幾度も替えた。どれも長続きしなかった。そこまではよくある話だ。今どき珍しくはない。
彼が熱中したのはネットだった。そしてハマった。朝から晩まで、寝る時間を惜しんでネットに夢中になった。「ネットの世界こそがすべてではなかったのか」と、その知人は話す。
自宅のドアを叩くと、顔を見せたのは父親だった。
父親は私が取材者だと知ると激怒し、そして落ち込んだ表情を見せた。
「親の気持ちがわかりますか?」
ため息とともに苦しげな声を漏らした。
「うちの子をあなたに会わせるわけにはいかない。わかってほしい」
顔に刻まれた深い皺が、父親の苦悩を表していた。なんとしてでもわが子を守りたいという愛情が伝わってくる。
「あの子なりの正義感だったとは思う。親として止めることができず、残念でならないんです」
パソコンの画面を見つめるだけの毎日。叱っても、励ましても、わが子は自室から動かなかった。
明け方になっても明かりの消えない部屋を、父親は情けない思いで見ていた。
父親はネットのことをよく知らない。自分とは違って、外に刺激も交流も求めないわが子を弱い人間だと思った。だから「強くなれ」と何度も叱咤した。今から振り返れば、それがプレッシャーになったのではないかとも感じている。
わが子が大津の事件に必要以上の興味と関心を抱いたことには、「心当たりがないわけではない」と漏らした。
「息子は子ども時代、私には何も言わなかったけれども、おそらくいじめられっ子だった。私も薄々とそのことは感じていた。今にして思えば父親として力になってやることができなかったのが悔しい。うちの子はそのときの傷を抱えたまま大人になったに違いない。いじめ事件に異常な反応を示したのも、そうした彼の経験が背景にあるのではないか」
そう話すと父親は、さらに深いため息をつき、下を向いた。
彼は彼の世界で闘っていたのだろう。理不尽ないじめに、そしてそれを許容している社会を相手に。
彼は自殺した少年の姿を自分と重ねていたに違いない。だから許せなかった。許してはいけなかった。情報の正誤など考えている余裕はなかった。
正義の名のもとに、彼は理不尽な社会悪を倒さねばならなかったのだ。
30万円の罰金刑を受け、警察からも相当に絞られた。そうしたこともあり、わが子も深く反省をしているという。
だが、私が訪ねた日も、彼は自室でネットの世界に籠もっていた。
「私の闘いはまだ続いているんですよ」
苦悩で震える父親の声は、一筋縄ではいかない未来を暗示しているようでもあった。
 
 
私は前から、ネットリンチをする人間はたいてい学校でいじめを体験しているに違いないと思っていましたが、彼はその典型的な例です。
 
ちなみに著者の安田氏も子どものころ転校を繰り返していじめられ、いじめられないために自分もいじめるという経験をしたそうです。
 
学校がどんどん息苦しくなり、その影響が社会全体に及んでいる気がします。
 
それから、この父親は息子がいじめられていることを薄々知りながら、なにもしませんでした。いや、息子を叱咤したことがいじめみたいなものです。そのため息子は引きこもり状態になってしまったのではないでしょうか。
 
ちなみに大津いじめ自殺事件において、私は自殺した少年は家庭で父親から虐待を受けていて、学校でのいじめよりむしろそれが自殺の主な原因ではないかと推測し、そういう観点からこのブロクでいくつも記事を書きました(「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめてあります)
 
酒鬼薔薇事件の元少年Aも母親からひどい虐待を受けていました。
 
この国は、学校と家庭の両方で生きづらくなっており、それがネットリンチやヘイトスピーチやさまざまな犯罪となって現れているのではないかと思います。
「ネット私刑」を読んで、改めてそのことを感じました。

異常な事件を起こす犯人は、ほとんどの場合、幼児期に虐待を受けていたと考えて間違いありません。
酒鬼薔薇事件の少年Aの場合、当時14歳だったのですから、親による虐待以外の理由は考えられません。
これは私だけが思っているわけではなく、一部の人には常識です。
 
少年Aが受けた虐待の実態を詳しく述べているサイトはいくつもあります。
 
「絶歌」元少年Aの犯罪、原因は母親にあった? 
 

神戸連続児童殺傷事件「酒鬼薔薇聖斗」が生まれた原因は母親の愛情不足【時事邂逅】

 
少年Aの母の「懺悔」はあるのだろうか
―神戸事件で思うこと―
 
 
親や教師の責任を問わずに、もっぱら14歳の少年を非難するというのは、弱い者イジメ以外の何者でもありません。
元少年Aを非難する人は、犯罪というものを勘違いしているのだと思います(今は元少年Aは犯罪者ではないのですが)
 
私は「科学的倫理学」というのを標榜しているのですが、「科学的倫理学」から犯罪を見るとどうなるのかということを改めて説明しましょう。
 
 
たとえば終戦直後の日本で、お腹を空かせた戦災孤児が屋台から食べ物を盗んだとします。その子が飢え死にしそうであったとしても、それは犯罪として取り締まられます。屋台も商売をしているのですし、そういう盗みが許されたら商売が成り立たないからです。
しかし、その子の行為が「悪」かといえば、そうは言えません。つまり「悪」と「犯罪」は別なのです。
 
一方、飢えた子がいるときにも、金持ちの家ではご馳走が食べられています。
飢え死にしそうな人間の前で自分だけうまいものを食べても犯罪にはなりません。しかし、これは人間としては「悪」でしょう。
 
奴隷制社会では、監督官がどれだけ奴隷を鞭打っても犯罪ではありませんが、奴隷が少しでも監督官に反抗すれば犯罪です。
 
つまりなにが犯罪かというのは、強者に都合よく決められているのです。
 
なにがテロかというのも同じです。強者であるアメリカが決めます。
今はイスラム国の残虐行為が盛んに報道されますが、実際はアメリカの空爆、アサド政権のほうがたくさんの人を殺しています。
 
強者の行為は「悪」であっても、たいてい犯罪とはなりません。
贈収賄をするのは強者ですが、時効が贈賄罪は3年、収賄罪は5年と短くなっていますし、政治資金として届け出れば賄賂とは見なされないので、めったに摘発されることがありません。
 
今は犯罪報道が民衆にとっての娯楽になっています。凶悪犯罪はとくに喜ばれます。
これは古代ローマでコロシアムでの闘技が民衆の娯楽になっていたのに似ています。
 
テレビのワイドショーでコメンテーターが元少年Aをたたくのも同じです。元少年Aの犯罪は凶悪中の凶悪ですから。
 
しかし、いくら凶悪犯罪者をたたいても世の中はよくなりません。
世の中を悪くしているのは、犯罪者とはされない強者だからです。

このところ続けて「絶歌」を読んだ感想を書いています。
 
14歳の少年が異常な殺人事件を起こしたら、その少年の家庭はどのようなものだったのだろうと誰もが考えます。
今ならその少年は幼児虐待の被害者ではないかと疑われるでしょう。幼児虐待は“魂の殺人”とも言われます。自分が殺されるような体験をしていたら人を殺しても不思議ではありません。
 
しかし、酒鬼薔薇事件が起きた1997年には、幼児虐待はまだあまり社会的に認知されていませんでした。そのため少年Aは普通の家庭で普通に育ったのに異常な殺人を犯したということで「心の闇」ということが言われたのです。
 
それに対して、秋葉原通り魔事件が起きたのは2008年です。犯人の加藤智大は当時25歳でしたが、この時代には幼児虐待が社会的に認知されていたので、週刊誌は加藤が子ども時代に母親から虐待されていたことを派手に報道しました。
その報道は加藤の認識にも影響を与えたのでしょう。彼は獄中で4冊も本を出して、中の1冊は「殺人予防」というタイトルです。私は読んでいないのですが、おそらく幼児虐待が犯罪の原因になることを言っているものと思います。
 
そう判断するのは、加藤は「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人である渡邉博史の被告人意見陳述書に共感して、手紙を「月刊創」の篠田博之編集長に送ってきたからです。渡邉の意見陳述書は自分の犯罪の原因を悲惨な幼児期に求めたものです。
つまり秋葉原通り魔事件の加藤も、「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邉も、自分の幼児期の虐待が犯罪の原因であるという認識を持っているのです。
 
このへんの事情は次の記事に書きました。
 
「黒子のバスケ」脅迫事件被告からのメッセージ
 
元少年Aもそうした認識を持っていいはずです。
元少年Aの場合は、とりわけ母親にきびしくしつけられました。小学校3年のときにこんな作文を書いています。
 
・「ま界の大ま王」  914923(小3
 
 お母さんは、やさしいときはあまりないけど、しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、あたまから二本のつのがはえてきて、ふとんたたきをもって、目をひからせて、空がくらくなって、かみなりがびびーっとおちる。そして、ひっさつわざの「百たたき」がでます。お母さんはえんま大王でも手が出せない、まかいの大ま王です。
 
ところが、「絶歌」にはそうしたことはまったくといっていいほど書かれていません。むしろ逆に母親は事件の原因ではないと書かれています。
 
母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった。事件後、新聞や週刊誌に「母親との関係に問題があった」、「母親の愛情に飢えていた」、「母親に責任がある」、「母親は本当は息子の犯罪に気付いていたのではないか」などと書かれた。自分のことは何と言われようと仕方ない。でも母親を非難されるのだけは我慢できなかった。母親は事件のことについてはまったく気付いていなかったし、母親は僕を本当に愛して、大事にしてくれた。僕の起こした事件と母親には何の因果関係もない。母親を振り向かせるために事件を起こしたとか、母親に気付いてほしくて事件を起こしたとか、そういう、いかにもドラマ仕立てのストーリーはわかりやすいし面白い。でも実際はそうではない。
(中略)
「僕の母親は、“母親という役割”を演じていただけ」
「母親は、ひとりの人間として僕を見ていなかった」
少年院に居た頃、僕はそう語ったことがある。でもそれは本心ではなかった。誰も彼もが母親を「悪者」に仕立て上げようとした。ともすれば事件の元凶は母親だというニュアンスで語られることも多かった。裁判所からは少年院側に「母子関係の改善をはかるように」という要望が出された。そんな状況の中で、いつしか僕自身、「母親を悪く思わなくてはならない」と考えるようになってしまった。そうすることで、周囲からどんなに非難されても、最後の最後まで自分を信じようとしてくれた母親を、僕は「二度」も裏切った。
(中略)
あんなに大事に育ててくれたのに、たっぷり愛情を注いでくれたのに、こんな生き方しかできなかったことを、母親に心から申し訳なく思う。
母親のことを考えない日は一日もない。僕は今でも、母親のことが大好きだ。
 
これはいかにもそらぞらしい文章です。「絶歌」には留置所に面会にきた母親に「はよ帰れやブタぁー!」と叫ぶ場面も書かれているので、それとも矛盾します。
しかし、「絶歌」に対する反応を見ていると、これをそのまま信じている人もいます。
 
好意的に解釈すれば、母親がこれ以上社会的に非難されないように配慮したのかもしれません。
しかし、私自身は、元少年Aは自分が社会に受け入れられるために社会の常識に合わせて書いたのではないかという気がします。
 
現に「絶歌」はベストセラーになっています。
 
しかし、真実を偽ったのでは、むなしいベストセラーというしかありません。

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