村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2015年10月

イギリスのブレア元首相がイラク戦争で謝罪したという報道がありましたが、よく読むと、判断にミスがあったことを謝罪しただけで、戦争そのものはむしろ正当化しているのでした。
 
 
■ブレア英元首相がイラク戦争で謝罪、イスラム国台頭の「一因」
[ロンドン 25日 ロイター] - 英国のブレア元首相は25日に放映された米CNNとのインタビューで、在任中の2003年に始まったイラク戦争が過激派組織「イスラム国」の台頭につながったと認め、戦争に踏み切る際の計画にミスがあったと謝罪した。
 
同戦争がイスラム国台頭の主な原因だと思うかとの問いに、ブレア氏は「いくらかの真実」があるとコメント。当時のフセイン政権を倒した米主導の有志国が現在の状況と無関係だとは言えないと認めた。
 
専門家らは、米国が旧イラク軍の解体を決めたことで、国内の治安に空白が生まれ、それが後にイスラム国誕生につながったとしている。
  
ブレア氏は、参戦前の計画や情報や戦後への準備において誤りがあったとして謝罪の意を示したが、フセイン政権を倒したことは正しかったと主張した。
 
 
当時、ブッシュ政権は大量破壊兵器があるという嘘の情報を意図的に採用し、戦争の理由としました。ブレア氏はだまされたのは自分のミスだとして謝罪したのでしょうが、本音では自分はだまされた被害者だという意識もありそうです(小泉元首相も同じような心境でしょう)
 
さらに、フセイン政権を倒したのは正しかったと主張しています。別の報道では、「サダム(フセイン元大統領)の排除については謝罪し難い。2015年の現代から見ても、彼がいるよりはいない方がいい」と言っています。
 
しかし、この主張は「民族自決権」をまったく無視しています。独裁政権より民主政権のほうがいいとしても、それはイラク国民がみずから選ぶことで、他国が戦争で押しつけることではありません。
 
「民族自決権」というのは個人でいえば「自己決定権」ということです。親がむりやり子どもを医者にするとか、一流大学に入れようとするとかは、子どもの「自己決定権」を侵害する行為ですが、ブレア氏はそういう親と同じようにイラクに民主主義を押しつけたことを正当化しています。
 
しかし、そういうやり方はうまくいきません。イラクは一応民主主義政権になったとはいえ、アメリカの傀儡政権みたいなもので、国民の支持はあまりありません。アメリカ軍が訓練した政府軍はイスラム国との戦争になると高性能の兵器を放り出して逃げてしまい、イラクで戦闘力があるのはシーア派民兵組織やクルド人部隊です。
アフガニスタンも一応民主主義政権ができていますが、いつまでたっても安定しません。
 
ところで、日本はアメリカから民主主義を押しつけられてうまくいっているようですが、もともとどこの植民地にもならずに自力で帝国憲法と帝国議会をつくって民主主義を取り入れた国です。この、自力で獲得したということがだいじなのだと思います。
 
今、イスラム諸国の民族自決権を尊重すると、イスラム国やタリバンみたいな過激な勢力が政権を取る可能性がありますが、アメリカやイギリスはそれを受け入れる度量を持たなければなりません。
最初は過激な政権でも、時間がたてばだんだんと穏健化・世俗化していくとしたものです。それに、フセイン政権を初め世界の独裁政権の多くは、アメリカがつくったり育てたりしたということも忘れてはいけません。
 
ブレア氏が平気で民族自決権を無視した主張をするのは、イスラム教徒やアラブ人に対する差別意識があるからです。
愚かなアラブ人やイスラム教徒は自分のこともまともに決められないので、私たち白人キリスト教徒が決めてやらなければならない、というわけです。
こうした差別意識は欧米に広く存在するので、ブレア氏の発言もとくに批判されていないようです。
 
日本人も欧米式の価値観に染まっているので、ブレア氏の発言を批判する人はほとんどいません。

米軍は1026日、南シナ海で中国が造成した人工島から12カイリの境界内に駆逐艦を派遣し、「航行の自由作戦」を実施しました。
この海域の領土問題にはフィリピンとベトナムが関わっているので、アメリカの行動はフィリピンとベトナムへの支援という意味があるのでしょう。
一方、アメリカは尖閣諸島問題では態度をはっきりさせません。日本はアメリカから軽視されているのではないでしょうか。
 
フィリピンはかつて広大な米軍基地をかかえていて、そういう意味では日本と同じような立場でした。
しかし、日本とはまったく違うということが次の記事を読んでよくわかりました。
 
過去に追い出したが…中国脅威を前に米軍再駐留を模索するフィリピン 国内から思わぬ反応
 
 
この記事によると、フィリピンにかつてあった米軍基地はひじょうに大きかったということです。
 
 
米軍がフィリピンに駐留していた頃、主要拠点となっていたのはクラーク空軍基地とスービック海軍基地で、どちらも非常に大規模なものだった。クラーク基地は現在、一部がフィリピン空軍の基地として使用されている。スービック基地は、インターナショナル・ニューヨーク・タイムズ紙(INYT)によれば、シンガポールとだいたい同じ広さだったという。後者は20世紀中の米軍の戦闘のほぼ全てに関わっていたという。米軍撤退後には経済特別区とされた。
 
 
フィリピンは米軍を完全に追い出してしまったのですが、中国が領土で拡張主義的な動きをすると、一転して米軍を引き戻そうとします。
 
 
昨年、フィリピンとアメリカは「米比防衛協力強化協定」という行政協定を結んだ。有効期限は10年とされている。この協定によって、米軍はフィリピン軍基地内で、人員の滞在、施設の建設、航空機や艦船の事前配備などが可能になる。ただしこれは常駐ではなく、一時的な滞在であることも協定に明記されている。というのも、現在のフィリピンでは、外国軍の常駐が憲法によって禁じられているからだ。
 
 
フィリピンのこうした動きは、産経新聞などによると、日本も米軍を追い出すと後悔することになるぞという記事としてまとめられます。
しかし、フィリピンは米軍を追い出したり、また引き戻そうとしたり、やりたいようにやっていて、アメリカもそれに応えています。
 
それだけでなく、フィリピンはアメリカから軍事援助を受けていました。
 
 
INYTは、フィリピンとアメリカの軍事協力の一形態として、フィリピンがアメリカに多額の軍事費の援助を求めていることも伝えている。
 
 INYTはフィリピン軍を、アジアで最も弱い軍の1つだと語っている。また、アメリカがかつてフィリピンを統治していたという歴史に加えて両国の軍事協力のもう1つの障害になっているのは、フィリピン軍のおんぼろな状態だ、と指摘している。さらに、フィリピン軍は昔から、無駄遣いと汚職を欠点として持っている、と畳み掛ける。
 
 アキノ政権は非公式協議でアメリカに対し、今年度、最大3億ドルの援助が必要だと強く求めているという。しかしオバマ政権はこれまでのところ、この要求をはねつけている、とINYTは伝える。汚職の心配があることと、それほどの資金流入をフィリピンが扱いきれるかどうかを心配しているためとのことだ。米国務省の報道官は、フィリピンはすでに東南アジアではアメリカの軍事援助の最大の受け手であると指摘している。
 
 
つまりフィリピンは東南アジアではアメリカの軍事援助の最大の受け手であるのに、さらに増額を要求しているのです。
 
一方、日本はアメリカのために辺野古に新基地をつくろうとし、思いやり予算を貢いでいます。
 
フィリピンはわがまま息子みたいなものです。アメリカの世話にならないと言って一旦自立したものの、うまくいかないとまた世話になりたいと言い、お金までもせびっています。
一方、日本はアメリカから勘当されるのが怖くて言いなりになり、自分のほうがアメリカよりたくさん借金をかかえているのにアメリカに仕送りをしています。
 
フィリピンはアメリカの旧植民地であるという事情はありますが、日本とあまりにも違います。日本も少しはフィリピンを見習ったほうがいいでしょう

北野武著「新しい道徳」が売れています。
私はこの本についてすでに書評を書きました。
 
北野武著「新しい道徳」書評
 
北野氏はこの本で、道徳についてさまざまな疑問を呈して、「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」と主張しています。ところが、北野氏は母親から「食べ物が美味しいとか不味いとかいうのは下品だ」とか「行列に並んでまで食い物を喰うのは卑しい」と教えられ、それは受け入れていて、奥さんの料理にも「うまい」と言わないのだそうです。
おいしいものを食べる喜びを家族で共有するというのは、人間の幸せのもっとも基本的な部分ですが、北野氏にはそれがないわけです。
 
なぜ北野氏は母親から教えられたことは無批判に受け入れてしまうのかということが気になって、北野氏の「たけしくん、ハイ!」を図書館から借りてきて読んでみました。
 
 
「たけしくん、ハイ!」は、1947年生まれの北野武(ビートたけし)氏が幼少期の思い出を書いた本です。貧乏な暮らし、塗装業だった父親の仕事を手伝ったこと、紙芝居、ベーゴマ、川遊び、凧揚げなどの遊びのことが細かく書かれています。テレビドラマにもなったので、ご存じの方も多いでしょう。ここでは、北野氏と母親との関係に注目して、引用してみます。
 
 
小学校6年生ぐらいのとき、北野氏は母親といっしょに神田に行って、5教科全部の参考書や問題集を買ってきます。
 
そんで、帰ってきたら、
「さぁ、勉強しろ」
って始まっちゃってさ。
で、初めは目新しいから、一応すわってやるんだよね。そしたらおふくろ、にやにや笑って喜んでるわけ。三日目になったら、おっぽりだして、なにもやらなかったら大変よ。なぐるけるでさ、すごかったよね。
もう、パンチの雨なんだもの、うちのおふくろ。押し入れの中にまでけっとばされたりしてさ。鬼のようだったね。本当に、鬼子母神のようだったよ。恐かったなぁ、あれ。
そういう母親なんだもん。まぁ、すごい母親だったね。あれ。そいで、おやじが、酔っぱらいであれだもんね。異常な世界だよ、俺んとこ。
 
 
俺もほんと悪いガキだったけど、やっぱりおふくろだけには勝てなかったよね。
なにがダメというより、なにをやってもおふくろにもう見破られたってとこあるからね。なにやったって俺しかいないんだから、悪いことすんのは。だからあのころ、何をするにもおふくろとの対決だったんだよ。おふくろをだますか、見つかっておこられるかのどっちかだったからね。
 
 
あるとき、近所の質流れの店にお兄さんといっしょにグローブを買いに行きます。それもなぜか台風の日に必死で行くのですが、わずかにお金が足りなくて買えません。
 
兄きは異常に口惜しがってね。ついに泣きだしちゃったんだよ、質屋の前でね。それがまたすごく悲しくてさ、二人で泣きながら帰ってきたんだ、うちまでね。
うちまで泣きながら帰ってきたら、おやじがおふくろをぶんなぐってるの。夫婦ゲンカしてるのよ、いつものね。それ見て情けなくなっちゃってさ。情けないっていうか、もうなんとも悲惨だったんだ、あのころ。
日曜日だし、雨降ってるからペンキ屋できないわけよね。仕事はできねえし、おふくろは仕事がねえからって、おやじのことののしったらしくてさ。おやじは一升ビンかなんかで酒飲みながら、おふくろをけっとばしたりして。兄きは兄きで、グローブ買えなかったのが口惜しくて泣いてるし。とりあえずオレも泣かなきゃしょうがないって、意味もなくオレも泣きだしちゃってね。ほんと、それが情けなかったんだ。
おやじはいつも殴ってたんだよね、おふくろのことを。婆さんが出てくると、その婆さんまでけっとばしたりしてたんだもの。おやじの実の母をだよ。おやじのおふくろは、義太夫の師匠でさ。俺のおふくろと、つまり嫁と姑の仲がいいわけよね。そんで婆さんは、自分の息子であるおやじがどうしょうもないダメ人間なのを知ってるから、
「すまないね、すまないね」
って、いつもおふくろにあやまってるんだ。それをきくとおやじはいつも怒ってさ、
「テメェの息子に対して、なんだこのババァが」
とかいって、けっとばすんだよ、婆さんをね。八〇いくつの婆さんをだぜ。ムチャクチャなんだから、もう。地獄なんだ、俺んち。
 
 
この本は、古きよき時代を描いたノスタルジックなムードの本と思われているようですが、よく読むと、ドメスティック・バイオレンスと幼児虐待の本でもあります。私は読んでいて、元少年Aの家庭に近いのではないかと思いました(時代が違うので、こちらの家庭は開かれていますが)
 
母親はとても学歴にこだわる人で、北野氏はきびしく勉強を強制され、明治大学に進学しますが、結局中退して母親の期待を裏切ってしまいます。
当然北野氏には母親に対する恨みなど複雑な思いがあるはずですが、ウィキペディアの「ビートたけし」の項目によると、『1999年(平成11年)8月に母が死去した際には通夜の後に記者会見で、「俺を産んで良かったと思って欲しい…」と絶句し、泣き崩れる場面を見せた』ということです。
 
父親については、暴力だけではなく、人間的な描写がいろいろとあります。たとえば、ある年のクリスマスに高校生のお姉さんがケーキを買ってきます(母親はクリスマスらしいことをしなかったようです)。そこに酔っぱらった父親が帰ってきて、ちゃぶ台の上のケーキを見て、「バカヤロー。ペンキ屋の家でクリスマスパーティーもなにもあるかい」と言ってちゃぶ台をひっくり返し、北野氏とお姉さんはぐずぐずになったケーキを見てわんわん泣いて、父親はまた家を出ていってしまいます。しかし、よく見たら玄関に大きな紙袋が置いてあって、ひげのついたセルロイドのめがねと、クラッカーが入っています。おそらく父親は必死の覚悟でそのクリスマスセットを買ったものの、それを子どもに出すことができず爆発してしまったのだろうと察して、そのとき北野氏は泣いてしまったそうです。
 
つまり父親についてはそうした人間的な弱さを洞察しています。しかし、母親についてはそういう描写がありません。
母親から「食べ物が美味しいとか不味いとかいうのは下品だ」と言われたとき、母親は料理が苦手だからそんなことを言うんだろうという洞察があれば、その教えに縛られることはなかったでしょう。
親から虐待された子どもは、それを虐待と認識することができず、逆に親をかばいます。北野氏はいまだそういう段階にあるのではないかと思われます。
 
「新しい道徳」は道徳について深く考察した本ですが、母親との関係が洞察できていない分、不徹底になってしまいました。

消費税の軽減税率について自民党と公明党がもめていますが、新聞業界もこれにからんでいます。新聞に軽減税率の適用を求めているのです。
 
軽減税率というのは、貧困層のために食料品などの生活必需品の税率を低くしようというものですが、今の時代、新聞は生活必需品とはいえず、むしろ贅沢品です。
新聞業界の要求は、我田引水もはなはだしいものですが、それだけではなく、新聞業界の自殺行為でもあります。
 
1015日に新聞大会が行われ、こんな決議がなされています。
 
 
<第68回新聞大会決議> 戦後70年、新聞は平和と自由を希求し、多様な言論で国民的議論を深化させる役割を担ってきた。日本の安全保障政策が大きく転換しようとしている中、改めて新聞人として責任を自覚したい。民主主義の根幹である報道の自由は、戦後社会が最も尊重してきた理念の一つだ。しかし、政界の一部にそれを軽んじる風潮が見られる。われわれは、いかなる圧力にも毅然(きぜん)たる態度で臨み、国民の知る権利に応えていく。日本はいま、内外のさまざまな構造変化を受け、多くの課題を抱えている。新聞は未来に向け、あるべき社会を読者とともに考え、公共的な使命を果たしていくことを誓う。
 
 
 <軽減税率を求める特別決議> 新聞は民主主義社会の維持・発展や文化水準の向上に大きく寄与し、生活必需品として全国どこでも安価に入手できる環境が求められる。そうした環境を社会政策として構築するため、消費税に軽減税率制度を導入し、新聞購読料に適用するよう強く求める。
 
 欧米諸国は、「知識に課税せず」との理念に基づき、新聞の税率には特別措置をとっている。知識への課税は文化力の低下をもたらし、国際競争力の衰退を招きかねない。新聞への課税は最小限度にとどめるべきである。
 
 
決議の前半には「報道の自由」について立派なことが書かれています。
しかし、後半の<軽減税率を求める特別決議>はそれと矛盾します。
 
軽減税率を導入することがまだ決まっていないので、それがどんな法案になるのかわかりませんが、私が与党の政治家なら、その法案に「軽減税率を適用する品目については2年ごとに見直しを行う」といった規定を盛り込みます。
実際、どんどん新商品が生まれてきますし、世の中の価値観も変わってくるので、こうした規定は必要でしょう。
 
そうなると、2年ごとに(別に2年でなくてもいいのですが)、与党の政治家は新聞業界に対して「新聞を軽減税率の適用から外すぞ」という脅しをかけることができます。
ということは、新聞業界は与党に対してまったく頭が上がらなくなります。
 
法案にそういう規定がなくても、国会における多数党はいつでも法律を改正して新聞への適用を廃止することができますから、やはり新聞業界は政権与党に頭が上がりません。
一度軽減税率の甘いアメをしゃぶってしまうと、アメなしでの生活は考えられなくなります。
 
決議では欧米諸国の新聞も軽減税率の恩恵に浴しているように書かれていますが、欧米では少なくとも日本よりは報道の自由が尊重されていると思われます。
日本では政治家が平気で報道の自由を侵害するような発言をしますし、それに対する世論の反発もあまり強くありません。それに、軽減税率の適用を外すぞという脅しは水面下ですることができます。
 
そういうことを考えると、新聞に軽減税率が適用されることは“新聞の死”といっても過言ではないと思います。

1019日は安保法案成立からちょうど1か月で、国会前などで法案の廃止を訴える集会が開かれました。
1か月もたつと、私も冷静に考えられるようになり、賛成派の言い分にも目配りできるようになりました。
たとえば、ダウンタウンの松本人志氏は920日の「ワイドナショー」において、安保法案について「日本が自立するための法案なら賛成なんですよ。ただ、アメリカに言われて泣く泣くやってるものだったら反対なんです」と言いました。
「そこが肝心のところなんだから自分で判断しろよ」と突っ込みたくなりますが、松本氏はもともと安保法案賛成派で、反対デモについて「完全に平和ボケですよね」と言ったりしていましたから、そのときからは考えが“進化”したようです。
「日本が自立するための法案か否か」ということが問題の本質をついているのは確かです。
 
 
石破茂地方創生担当相は自民党でも安全保障政策の第一人者で、もちろん賛成派に決まっていますが、この問題について意外な言葉を使いました。石破氏のブログからその部分を引用します。
 
 
同盟のジレンマなど
 
安全保障法案について、本欄をご覧の皆様にどうしてもお考え頂きたいのは「同盟のジレンマ」、すなわち「戦争に巻き込まれる恐怖」と「同盟国から見捨てられる恐怖」についてです。前者のみが強調され、国会においての議論も集中したように思われますが、後者についてどのように考えるべきなのか。
  有史以来、集団的自衛権という概念が確立する遥かに前から、同盟を結んだあらゆる国々は、このジレンマの相克に悩みながら自国の安全保障について政策を立案してきたのですし、成功例も、失敗例も枚挙に暇がありません。
  日本において前者のみが強調され、後者についてほとんど議論がなされないことがいかに異様で、いかに恐ろしいものなのか。後者が現実となった時に慌てふためいても、装備の造成にも、部隊の錬成にも、恐ろしく長大な時間と膨大な労力とがかかるのであり、これらを為さないままに辿るであろう国家国民の運命に思いを馳せたことがあるのだろうか。それが国民に対して責任ある国家の為すことなのか。私は決してそうは思いません。長くこの仕事に関わってきた者として、痛切な反省とともにそう思います。
 
 
石破氏が「同盟国から見捨てられる恐怖」という言葉を使ったのは意外でしたが、これが実に本質をついた言葉だと思います。
賛成派の本心はこの言葉に尽きるでしょう。
 
石破氏は「同盟を結んだあらゆる国々は、このジレンマの相克」に悩んだと言いますが、そんなはずはありません。日本は日英同盟、日独伊三国同盟を経験していますが、そのときに「同盟国から見捨てられる恐怖」があったとは思えません。いや、今の日米同盟において、アメリカが「同盟国から見捨てられる恐怖」を感じているかどうかを考えればわかります。
 
同盟関係とは本来対等の立場で、双方の合理的判断によって結ばれるものだと思いますが、そういう意味では日米同盟は同盟たる要件を欠いています。“同盟もどき”です。
 
石破氏は「同盟国から見捨てられる恐怖」という言葉で安保法案を正当化しようとしたのですが、逆に安保法案はもとより日米同盟の異常さを浮き上がらせてしまいました。
 
「同盟国から見捨てられる恐怖」というのは心理学上の問題ですから、外交や防衛でなにをやっても解消することはできません。逆にやればやるほど「同盟国から見捨てられる恐怖」のもとである依存心が強まってしまいます。

ユネスコが「南京大虐殺」の資料を世界記憶遺産に登録したことに自民党がかみつき、菅官房長官も「中国はユネスコを政治利用している」「日本がユネスコに拠出する分担金の停止を検討する」と表明しました。
 
自民党においては、かつて大西英男議員が「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。経団連などに働き掛けてほしい」などと発言したことがあり、分担金停止というのはそれと同じ発想です。
大西議員の発言は国内だけにとどまっていましたが、菅官房長官の発言は世界に報道され、恥をさらしました。
 
それにしても、日本はもっぱら韓国や中国に文句を言うだけで、ユネスコのような国際機関に文句を言うのはきわめてまれです。不思議に思ったら、やはり理由がありました。パレスチナがユネスコに加盟したことに抗議してアメリカが2011年から分担金の支払いを停止していたのです。
要するにアメリカの真似をしたというか、アメリカの後ろに隠れてやっている格好です。
 
それに、アメリカは靖国参拝や慰安婦問題ではいろいろと日本に言ってきますが、南京事件について言ったことはほとんどありません。ですから、これについては言ってこないだろうという判断もあったかもしれません。
 
いわば隙間を狙った“犯行”です。
 
自民党の二階俊博総務会長も「そのままのうのうと引き下がってよいのか」と述べ、自民党外交部会は「中国が申請した『南京事件』資料のユネスコ記憶遺産登録に関する決議」をまとめるなど、自民党は大いに盛り上がったようです。
 
ところが、思いもかけずロシアから批判の矢が飛んできました。
 
戦後のシベリア抑留者の引き揚げ記録「舞鶴への生還」も同時に世界記憶遺産に選ばれたのですが、ロシアがこれについて「ロシアは日本に対し、登録の申請を行わないよう働きかけたにもかかわらず申請が行われた。日本は2国間で解決すべき政治問題をユネスコに持ち込んだ」として、ユネスコに登録取り消しの要請をするということです。
 
菅官房長官はこれに反論しましたが、「(申請した)京都府舞鶴市が姉妹都市であるロシア・ナホトカ市の理解と協力を得ている」「ロシアと連携している」と語ったのが笑えます。まるで沖縄県を日本政府より優先させるような理屈だからです。
 
しかし、このときは菅官房長官もロシアに反論して、なかなか骨のあるところを見せていたわけです。
しかし、とうとうアメリカが参戦しました。
 
 
南京大虐殺の世界記憶遺産で日中対立、米がくぎ刺す
 
 ユネスコの世界記憶遺産に「南京事件」が登録され、日本と中国との対立が強まっていることについて、アメリカの政府高官は関係の改善を進めるよう釘を刺しました。
 
  米NSC(国家安全保障会議)アジア上級部長・クリテンブリンク氏:「アジア太平洋地域のすべての国に未来と和解に重点を置いてほしい」
  NSCのクリテンブリンクアジア上級部長は、歴史認識を巡る問題は複雑だとしながらも、関係国が協力して取り組んでいくことの必要性を強調しました。また、国務省のラッセル次官補は、来月1日に予定されている日中韓の首脳会談について「地域の戦略的環境を議論する良い機会だ」と歓迎しました。南京事件の登録を巡っては、日本がユネスコへの拠出金の減額を検討するなど日中間の対立が強まっています。
 
 
これで流れがガラリと変わりました。
 
岸田外務大臣は訪問先のカタールで、「南京事件」を巡る資料の「記憶遺産」への登録を受けた政府の対応について、ユネスコに対して制度の改善を求める一方、分担金や拠出金の支払い停止などは慎重に検討する考えを示したということです。
 
安倍首相も自民党外交部会の幹部と会った際、「なぜこういう事態に至ったのか検証し、(次の登録審査がある)2年後に備えていくべきだ」と語っただけで、ユネスコの分担金などについては言及しませんでした。
 
どうやらこれで、この問題は終了したようです。
鶴の一声ではありませんが、アメリカがなにか言うと、日本では全員が黙ってしまいます。
 
菅官房長官もロシアに言ったような勢いで、「ユネスコの分担金停止はアメリカもやっていることなのに、なぜ日本がやろうとすると文句をつけるのか」ぐらい言ってもいいはずですが、沈黙したきりです。
 
日本はつねにこのパターンです。
日本が中国や韓国に強硬な態度に出て問題を起こす。そうするとアメリカがそれをたしなめる発言をする。日本はアメリカにはいっさい反論せず、結局アメリカの言いなりになる。慰安婦問題にしても安倍戦後70年談話にしてもそうです。
ですから、このブログでも同じようなことを何度も書いている気がします。
 
111日に韓国で日中韓首脳会談が行われる予定になっていますが、安倍首相はその際に日中、日韓の首脳会談も「必ずやる」と語ったということです。
これなども安倍首相らしくなく、アメリカに操られているとしか思えません。
日本独自の外交など夢のまた夢です。

ネオファースト生命のテレビCMに「ゲゲゲの鬼太郎」の目玉おやじが出てくるのを見て、水木しげる先生はおもしろいキャラクターを考えたなあと改めて思いました。
 
目玉おやじというのは鬼太郎の父親で、一度死ぬのですが、鬼太郎のことを案じるあまり、腐った死体の目玉に魂が宿って蘇ったという設定です。
体が小さいのでたいしたことはできませんが、妖怪のことはなんでも知っているので鬼太郎にいろいろなことを教えてくれますし、鬼太郎の心のささえにもなっています。
 
鬼太郎が生まれたときに母親は死んでいるので、父親も死んでしまったら鬼太郎は天涯孤独になって、かわいそうすぎます。かといって父親が健在であれば、主人公の鬼太郎の存在感が薄くなってしまいます。そこで、目玉だけの存在になったのではないかと思われます。
 
目玉だけの存在なので、基本は鬼太郎を見守ることしかできません。それがいいのだと思います。
 
世の中には目玉おやじとまったく逆の、「子どもに背中を見せる」というポリシーを持った背中おやじがいます。
「子どもは親の背中を見て育つ」という言葉があるので、そこからきているのではないかと思いますが、この言葉は、親は子どもの前でいくら格好をつけても、子どもは親のほんとうの姿を見ているといった意味です。それを曲解して、親は子どもに向き合わずに背中だけ見せていればいいのだと思っているわけです。
 
「背中を見せる」ということは、子どもを見ていないということですから、目玉おやじの逆です。
 
普通に生活していれば、子どもは父親の背中も腹も、全部見ます。「背中を見せる」というのは、意識的に子どもに向き合うことを拒否しているわけです。
実際は仕事ばかりして家庭を顧みないということでしょうが、職業人としていくら立派でも、それによっていい父親になるわけではありません。
 
背中おやじは目玉おやじを見習うべきです。
 
目玉だけの存在にならずに、人間として子どもと向き合うのがいちばんよさそうですが、必ずしもそうとはいえません。父親が子どもと向き合うと、どうしても教育熱心になって、星一徹みたいに子どもの人生を乗っ取ってしまいかねないからです。
 
そういう意味では、見守るだけの目玉おやじというのは絶妙の存在に思えます。

内閣改造で加藤勝信氏が「一億総活躍担当大臣」に就任しました。
この「一億総活躍担当大臣」という名称が少々物議をかもしています。
当然でしょう。「一億総活躍」というのはあくまでスローガンで、それを役職名につけるというのはこれまでの常識にはありません。
 
最近の安倍内閣はどんどん言葉が軽くなっています。
安保法案のことを「平和安全法案」と名付けたのはその最たるものです。
 
「新三本の矢」には、2020年度にGDPを600兆円にするという目標が掲げられていて、エコノミストや経済界から不可能だという声が上がっています。
また、「介護離職ゼロ」という目標もあります。介護離職というのは、家族の介護のために仕事を辞めることで、年間10万人程度にのぼるそうです。しかし、どんなによい介護施設や訪問介護システムができたところで、他人の手ではなく自分の手で介護したいという人はいるはずです。GDP600兆円はなんかの間違いで達成できてしまうかもしれませんが、「介護離職ゼロ」の達成は絶対に不可能です。
 
「一億総活躍」も絶対に達成不可能な目標です。あくまでスローガンです。
 
しかし、このスローガンは病人やハンディキャップのある人を無視しているので、差別的です。
 
それから、「活躍」に価値を置くというのは、日本人の伝統的な価値観に反します。
表に出て活躍する人がよくて、活躍しない人はよくないという価値観は、アメリカ的なものでしょう。
 
「縁の下の力持ち」という言葉がありますが、ここに日本人の価値観が表れていると思います。
 
もっとも、私が子どものころ、この言葉を聞いたときはあまりいい気がしませんでした。「誰からも評価されなくても働け」と言われている気がしたからです。
しかし、社会に出て仕事をしてみると、誰からも知られずに他人のミスをカバーするといったことの重要性がよくわかります。
 
しかし、最近「縁の下の力持ち」という言葉はさっぱり聞きません。死語になったのでしょうか。
マンション住まいなどで縁の下というものにイメージのわかない人が増えたこともあるのかもしれません。
 
「縁の下の力持ち」の類義語を調べてみましたが、同じ意味の言葉はなさそうです。「裏方」という言葉はありますが、裏方の働きは知る人は知っています。「縁の下の力持ち」は誰からも知られないところで重要な働きをすることです。
 
「一億総活躍」という言葉は、「進め一億火の玉だ」や「一億総玉砕」という昔の日本の言葉を下敷きにしています。その上にアメリカ的な、新自由主義的な価値観が乗っているので、木に竹を接いだようなおかしさがあります。
 
もっとも安倍首相ら日本の右翼は、軍国主義的な価値観を持ちつつアメリカへの従属を深めているので、これも同じパターンです。

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「ドローン・オブ・ウォー」(アンドリュー・ニコル監督)を観ました。
この映画は従来の戦争映画とはまったく違います。戦争映画というよりも、「あるIТ技術者の日常生活と仕事の苦悩を描いた映画」に近い感じです。
 
アメリカ軍は前からアフガニスタンやパキスタンなどでドローンを使った攻撃をしていましたが、その実態はまったく報道されないので、イメージがわきませんでした。この映画はフィクションですが、「事実に基づく」という字幕が出るので、かなり現実に近いものではないかと思われます。報道統制がきびしいので、「アメリカン・スナイパー」もそうでしたが、戦争の現実を知るには報道よりも映画に頼らなければならない時代です。
 
イーガン少佐(イーサン・ホーク)はラスベガス近郊の空軍基地に勤務しています。基地には“ボックス”と呼ばれるコンテナのようなものがずらっと並んでいて、その中に入ってドローンの操縦をします。
操縦といっても、ドローンはほとんど上空を旋回しているだけなので、もっぱらモニターを見て、攻撃対象を発見するのが仕事です。「この地域に目標となる司令官がいる」というように、ある程度情報が提供されています。モニターは、人物が識別できるくらいの解像度があります。
ターゲットを特定すると、レーザーを照射し、ミサイルを発射します。着弾するまでに10秒前後かかります。
 
殺されるのはターゲットだけとは限りません。銃を持った武装グループを狙ってミサイルを発射すると、近くにいる民間人もいっしょにやられます。あるいは、発射したら、そこにボール遊びをしている子どもが走ってきて、ちょうどその瞬間に着弾します。
 
同じ地域をずっと監視していると、女をレイプするひどい男を発見します。しかし、この男はターゲットではないので、見逃します
 
イーガン少佐は仕事に疑問を持ちますが、そこにCIAが関与してきて、CIAの指示を受けて仕事をすることになります。上官は、CIAは軍の交戦規定とは別の規定を持っているが、それに従えと言います。
 
狙っていた司令官が車で帰ってきて家の中に入ります。家の中には妻と子どもがいることがわかっていますが、CIAはそれでも撃てと指示します。イーガン少佐はしかたなく撃ちます。
 
標的のいる家を撃つと、壊れた家から人を助け出そうと、人々が集まってきます。その連中はほとんど仲間だから、それも撃てと指示されるので、撃ちます。
 
司令官を殺すと、人々が遺体を運び出して、葬儀が始まります。葬儀には司令官の弟も参列するという情報が入ります。葬儀は数十人で行われますが、そこにもミサイルを撃ち込みます。
 
イーガン少佐の部下は、こんなことをしてはかえってテロリストをふやすだけではないかと言いますが、上官は、テロリストを見逃すとそれだけアメリカの安全が脅かされるという論理を示します。
 
ドローンは3000メートル以上の高空を飛んでいるので、地上からは見えないそうです。ミサイルも見えません。地上の人にすれば、突然爆発が起こり、人が死ぬわけです。まったく不条理な状況です。
 
イーガン少佐は毎日車で基地に通勤しています。家に帰れば妻と子どもがいますが、だんだん酒びたりになり、妻や子どもとの関係もうまくいかなくなります。
イーガン少佐は実際の戦闘機に乗る勤務を希望しますが、希望は叶えられません。
 
ドローン操縦の仕事は、誰にとっても過酷なようです。どんどん人が辞めていき、つねに新人を入れなければなりません。
 
普通の戦争は、こちらが撃たなければ相手に撃たれるという状況です。したがって、相手を撃つことは正当防衛という意味もあります。しかし、この戦争は、こちらは絶対的に安全ですから、一方的な殺戮です。
これが逆に精神的なダメージになるようです。
 
一方的な殺戮は、映画を観ていても楽しいものではありません。
わが身を危険にさらすからヒーローになれるので、この映画にはヒーローはいません。
ただ、ハリウッド映画らしく、最後に少しカタルシスがあるようなストーリーになっています。
 
この映画の戦争シーンは、すべでモニターの中の映像です。
ドローンが離着陸したり、ミサイルを発射したりするシーンもありません(基地に止まっているドローンは映ります)
CIAの人間も姿は現さず、ただ電話で指示してくるだけです。
それがバーチャルな戦争というものを実感させてくれます。
 
そんなに楽しい映画ではありませんが、今の戦争を知るということではとてもいい映画です。 

ロシアが9月30日からシリアへの空爆を開始し、それに対してアメリカはイスラム国(IS)以外を空爆していると非難しています。
ロシアはイスラム国を空爆するということで空爆を始めたので、言っていることとやっていることが違います。
 
とはいえ、「イスラム国を空爆するのはよいが、ほかの武装勢力を空爆するのは悪い」というアメリカの論理にも説得力はありません。
 
もともとアメリカがイスラム国への空爆を始めたのは、20146月にイスラム国がイラク第2の都市モスルを陥落させ、さらにバクダッド近郊に迫り、イラク政府の存立が危うくなったからです。
アメリカは2014年8月にイラクでの空爆を始め、9月にはシリアへと空爆の範囲を広げました。
 
しかし、アメリカはシリアのアサド政権を否定する立場です。アサド政権と戦うイスラム国を空爆するのは矛盾しています。
アメリカとしては、アサド政権を否定し、イスラム色の強いイスラム国やヌスラ戦線なども否定し、欧米が支援する自由シリア軍に勝利させようというもくろみですが、そんなにうまくいくわけがありません。
 
ロシアは、ロシアのシリア空爆は国際法上も正しいものだと主張し、プーチン大統領は「軍事支援には、国連安全保障理事会の決議か、当該国の要請が必要だが、シリアでは守っていない国々もある」と、名指しこそしないもののアメリカなどを批判しています。
この点はロシアの主張がもっともです。アメリカがイラクで空爆を始めたのは、イラク政府の要請があったからで、集団的自衛権の行使といえますが、シリアでの空爆は無法行為です(ロシアの空爆はアサド政権の要請を受けています)
 
 
アメリカと有志連合が無法行為の空爆をするため、空爆のハードルが下がり、サウジアラビア、トルコ、そして今回のロシアと、空爆する国がふえました。
サウジアラビアはイエメンのシーア派武装勢力を空爆し、トルコはアメリカに同調してシリアのイスラム国を空爆すると言いつつ実際はクルド人勢力を空爆しているとされ、ロシアはアサド政権を守るために反政府勢力全般を空爆しています。
 
国際連盟も国際連合もなかった第一次世界大戦以前の世界に戻ってしまったようです。
いや、あのころはまだ宣戦布告して戦争をするというルールがあっただけましかもしれません。
 
こうした事態を招いたのはアメリカです。しかし、アメリカを批判する声はほとんどありません。まともなことを言っているのはプーチン大統領ぐらいです(ロシアのやっていることはアメリカと大してかわりませんが)
 
日本も本来ならアメリカをいさめなければなりませんが、残念ながら逆方向に行っています。

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