村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2015年11月

1124日、トルコの戦闘機がロシアの戦闘爆撃機を撃墜しましたが、日本ではトルコを非難する声はまったくといっていいほどありません。
もしロシアがトルコ軍機を撃墜していたら、ロシアを非難する声があふれたのではないでしょうか。
 
冷戦が終わって、ロシアは資本主義国になり、一応選挙の行われる民主主義国になったのですから、NATOなどいわゆる西側は思想的にロシアを敵視する理由はありません。
それでもウクライナ問題などを見ていると、いまだに東西冷戦を引きずっている気がします。
日本のマスコミもこぞって西側つまりトルコ寄りの報道をしています。
 
国際ジャーナリストの田中宇氏は西側に偏らない見方のできる人です。
そもそもロシア軍機がトルコ領空を侵犯したのか否かという問題があるのですが、これについて田中氏は「トルコの露軍機撃墜の背景」という記事を書いているので、そこから引用します。
 
 
 トルコ政府が国連に報告した情報をウィキリークスが暴露したところによると、露軍機はトルコ領内に17秒間だけ侵入した。米国政府(ホワイトハウス)も、露軍機の領空侵犯は何秒間かの長さ(seconds)にすぎないと発表している。 (Russia's turkeyairspace violation lasted 17 seconds: WikiLeaks
 
 トルコとシリアの国境線は西部において蛇行しており、トルコの領土がシリア側に細長く突起状に入り込んでいる場所がある。露軍機はシリア北部を旋回中にこのトルコ領(幅3キロ)を2回突っ切り、合計で17秒の領空侵犯をした、というのがトルコ政府の主張のようだ。(The Russian Plane Made Two Ten Second Transits of TurkishTerritory
 
 領空侵犯は1秒でも違法行為だが、侵犯機を撃墜して良いのはそれが自国の直接の脅威になる場合だ。露軍機は最近、テロ組織を退治するシリア政府の地上軍を援護するため、毎日トルコ国境の近くを旋回していた。露軍機の飛行は、シリアでのテロ退治が目的であり、トルコを攻撃する意図がなかった。そのことはトルコ政府も熟知していた。それなのに、わずか17秒の領空通過を理由に、トルコ軍は露軍機を撃墜した。11月20日には、トルコ政府がロシア大使を呼び、国境近くを飛ばないでくれと苦情を言っていた。(Turkey summons Russia envoy over Syria bombing 'very close'to border
 
(2012年にトルコ軍の戦闘機が短時間シリアを領空侵犯し、シリア軍に撃墜される事件があったが、その時トルコのエルドアン大統領は、短時間の侵犯は迎撃の理由にならないとシリア政府を非難した。当時のエルドアンは、今回とまったく逆のことを言っていた)(Erdogan in 2012: Brief Airspace Violations Can't Be Pretextfor Attack

 
田中氏の「侵犯機を撃墜して良いのはそれが自国の直接の脅威になる場合だ」という主張はごく常識的なものです。
しかし、日本のマスコミはそういう主張をまったくしません。それをするとトルコを批判することになるからでしょう。
つまりいまだに“西側”に縛られているのです。
 
戦争反対、人命尊重という当たり前の観点からもトルコの行動は批判されるべきです。
 
 
それから、ロシア軍機から脱出した2人のパイロットがパラシュートで降下中に地上から銃撃され、1人が死亡しました。
これについて在日ロシア大使館の公式ツイッターアカウントが過激なツイートをしているというので、J-CASTニュースが記事にしています。
 
 
爆撃機撃墜めぐり「アメリカの報道官は頭大丈夫?」在日ロシア大使館がまたまた「らしからぬ」ツイート
 
 「過激」なツイートでたびたび物議を醸す在日ロシア大使館の公式ツイッターアカウントが、トルコ軍がロシア軍の爆撃機を撃墜した問題をめぐり、また踏み込んだツイートを連発している。
 
   「(アメリカの報道官は)頭大丈夫?」「トルコ大統領はISの権利を守っているのか?」など、公的機関の発信らしからぬ表現で怒りを表明。一部のネットユーザーから「口が悪いと信用失いますよ」とたしなめられるリプライが相次ぎ、ネット上の騒ぎになっている。
  20151124日、シリアとトルコの国境付近を飛行していたロシア軍の爆撃機を「領空を侵犯した」としてトルコ軍が撃墜。撃墜の際にパラシュートで脱出した乗員の1人が地上から銃撃されて死亡、救出に向かったヘリコプターも攻撃を受けた。これをうけ、ロシアがトルコとの軍事的な接触を中断するなど、両国の対立が深まっている。
 
   トルコのエルドアン大統領は25日、イスタンブールで開かれた企業家との会合で「ただ、我々の安全と、同胞(トルクメン人)の権利を守っているだけだ」と主張。対するロシアも、ラブロフ外相が25日にロシア機は領空を侵犯していないと会見で強調し、「トルコ政府は事実上、過激派組織『イスラム国』(IS)の側に立った」とトルコ側を強く非難した。
 
   そんな中、在日ロシア大使館のアカウントは26日、前出のエルドアン大統領発言について、「(守っているのは)シリアで活動しているいわゆるイスラム国(IS)やその他のテロ組織の同胞の権利ですか?」と疑問を呈した。
 
   これで怒りが収まらなかったのか、トルコも参加する対ISの有志連合を主導するアメリカにも批判の矛先が向けられた。25日の会見でトルコ軍が脱出した乗員を銃撃したのは「正当防衛」と述べたアメリカのトナー国務省副報道官に対して、「丸腰のパイロットに対する非道な行為。頭大丈夫??」と責める言葉をつぶやいた。
   こうしたツイートには、「口が悪いと信用失いますよ」「領空侵犯した時点で何もいえません」といったリプライが寄せられている。しかし、112618時半現在、公式アカウントはこれに反応しておらず、自身のツイートも削除していない。発信しているのが誰なのかも不明だ。
(後略)
 
 
アメリカのトナー国務省副報道官に対して「頭大丈夫??」とツイートしたことが問題にされていますが、それよりも副報道官が脱出したパイロットを銃撃したことを「正当防衛」と述べたということのほうが大問題でしょう。ほんとうに述べていたら「頭大丈夫??」ぐらい言われて当然です(調べてみるとその発言は確認できなかったので、ロシア大使館の誤解の可能性もあります)
 
いずれにせよ、パラシュートで降下する戦闘機のパイロットを下から銃撃するのは「ジュネーブ条約違反の戦争犯罪」であると田中宇氏も指摘しています。ジュネーブ条約を持ち出さずとも、それが犯罪的であることは容易にわかります。敵艦が沈んだとき海上に浮かぶ乗組員を銃撃するようなものだからです。
 
ロシア軍機のパイロットを銃撃したのは、トルコの正規軍ではなく、シリアにいる武装勢力のようです。
そのときの動画がありますが、撃ちながら笑い声も上がっています。
 
YOUTUBE パラシュートで降下中のパイロットを銃撃する

 
この武装勢力はトルコの支援を受けているのではないかと推測されますが、もし同じことをISがやったら、犯罪だ、残虐だと大合唱が起きているはずです。

在日ロシア大使館の公式ツイッターは、トルコ軍機はシリア領空に侵犯してロシア軍機を攻撃したとも主張しています。パイロットがシリア領土に降下したことを考えると、その可能性は大いにありそうですが、このこともマスコミはまったく問題にしていません。
 
欧米や日本のマスコミは、もともと人種差別とイスラム教差別で中東情勢を報道していましたが、ISへの空爆が始まってからはISを悪者に仕立て上げ、ロシアが介入してからはロシアを悪者に仕立て上げるので、中東情勢はますますわけのわからないことになっています。

前回の記事で、パリ同時多発テロで妻を亡くしたフランス人ジャーナリストの文章を読むと、“憎しみの連鎖”を断ち切るようなものではなく、ぜんぜん共感できないということを書きました。
しかし、あまり説得力がなかったかもしれません。こういうことは、比較する対象があるとよくわかるものです。
 
そこで、同じくテロ被害にあったマララさんの国連総会でのスピーチの一部を引用します。
フランス人ジャーナリストの文章も再掲するので、比較してください。
 
 
マララさんの国連演説の全文(翻訳)から
 
親愛なるみなさん、2012109日、タリバンは私の額の左側を銃で撃ちました。私の友人も撃たれました。彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。でも失敗しました。私たちが沈黙したそのとき、数えきれないほどの声が上がったのです。テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えたのでしょう。しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。
 
私はこれまでと変わらず「マララ」のままです。そして、私の志もまったく変わりません。私の希望も、夢もまったく変わっていないのです。
 
親愛なる少年少女のみなさん、私は誰にも抗議していません。タリバンや他のテロリストグループへの個人的な復讐心から、ここでスピーチをしているわけでもありません。ここで話している目的は、すべての子どもたちに教育が与えられる権利をはっきりと主張することにあります。すべての過激派、とりわけタリバンの息子や娘たちのために教育が必要だと思うのです。
 
私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。
これは、私が預言者モハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。
これは、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、そしてムハンマド・アリー・ジンナーから受け継がれた変革という財産なのです。
これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そしてマザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。
そして、これは私の父と母から学んだ「許しの心」です。
まさに、私の魂が私に訴えてきます。「穏やかでいなさい、すべての人を愛しなさい」と。
 
 
テロで妻を失ったレリスさんのメッセージ和訳全文
 
 金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
 
 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。
 
 今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
 
 私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。
 
 
マララさんもレリス氏もテロにあって心が傷ついたはずですが、根本的なところで違います。マララさんはテロリストを憎まず、許していますが、レリス氏は「幼い彼の人生が……君たちを辱めるだろう」と、テロリストに対する勝利予告をしています。
 
ノーベル平和賞受賞者と一ジャーナリストを比べるのは不公平かもしれません。
それに、マララさんとテロリストはどちらもイスラム教徒ですが、レリス氏はおそらくキリスト教徒で、レリス氏にとってテロリストは異教徒であるという違いもあります。
また、マララさんのスピーチはテロにあってからかなり時間がたっていますが、レリス氏が文章を書いたのはテロ直後ということもあります。
ですから、レリス氏の文章に不十分なところがあってもしかたのないことです。
 
しかし、レリス氏の文章に感動したり共感したりすると、間違った方向に行ってしまいかねません。
 
ふたつの文章を比較すると、テロに打ち勝つにはどちらの道を行かなければならないかというのは歴然としています。
 
それにしても、パリ同時多発テロ以降の欧米の反応を見ていると、「汝の敵を愛しなさい」というキリストの教えはすっかり忘れられているようです。

パリ同時多発テロ以降、フランスはIS(イスラム国)への空爆を強化しています。まさに“憎しみの連鎖”です。
そうした中、パリ同時多発テロで妻を亡くしたフランス人ジャーナリストのアントワーヌ・レリス氏がフェイスブックに書いた文章が世界中に共感の輪を広げたということで、日本でも各紙が取り上げています。
 
「君たちに憎しみという贈り物はあげない」――。パリ同時多発テロで妻を亡くした仏人ジャーナリストが、テロリストに向けてつづったフェイスブック上の文章に、共感が広がっている。
 
憎しみの連鎖を断ち切るには寛容の精神が必要です。そういうことを訴えているのかと思って読んでみると、どうも様子が違います。
 
 
テロで妻を失ったレリスさんのメッセージ和訳全文
 
金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
 
 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。
 
 今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
 
 私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。
 
 
レリス氏の言っていることは、空爆による報復とは一線を画していて、そういう点で共感されるのはわかります。
 
しかし、私が気になったのは「上から目線」です。
 
「君たちと同じ無知に屈することになる」という表現は、相手をきわめて下に見ています。
「君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国」という表現も、妻と自分は天国に行けるが君たちは行けないという意味で、宗教的対立の宣言です。
 
それから、戦いを意味する表現がいくつもあります。
「君たちの負けだ」とか「君たちの小さな勝利を認めよう」とか「世界中の軍隊よりも強い」とか「君たちを辱めるだろう」とか「彼の憎しみを勝ち取ることもない」とかです。
つまりレリス氏は心理的には戦闘モードにあって、テロリストと戦っているのです。
 
ただ、その戦い方が、武力によるのではなく、精神的に優位に立とうとする戦い方なのです。
 
全体の印象をいえば、レリス氏は見下していた相手から一撃を受けて倒され、その屈辱感を解消するために、相手より精神的に優位に立とうとしてこの文章を書いたという感じです。
 
オランド大統領は屈辱感を空爆の強化によって解消しようとしています。手段は違いますが、それだけの違いでしかありません。
 
テロリストを自分と同じ人間と見なして許すというのが寛容の精神ですが、そういうものはまったくありません。
 
フランスはアルジェリアの独立運動を弾圧して残虐な拷問などを行いましたが、植民地支配についてはいまだに謝罪していません。
日本人にも植民地支配を謝罪しない人がいますが、フランス人はもっとひどいわけです。
やはりそこには人種差別とイスラム教差別が根強くあると思います。
 
ヨーロッパ人でレリス氏の文章に共感する人がいるのはわかりますが、日本人はこの文章にはあまり共感できないはずですし、好意的に紹介する日本のマスコミもどうかしています。

パリ同時テロ以来、マスコミには犠牲者を悼む声があふれています。
しかし、パリ同時テロの前日にベイルートで起きた連続自爆テロでは46人が死亡し、同じくIS(イスラム国)が犯行声明を出しましたが、こちらの死者を悼む声はほとんど報道されないということが指摘されています。
 

フランス人の死は、レバノン人よりも重要なのか?同時多発テロが招いた議論

 
もちろんこれは人種差別とイスラム教差別があるからです。
 
これは被害者側のことですが、加害者側のことでも同じ問題があります。ISが人を殺すと残虐だという報道があふれるのに、アメリカなど有志連合が空爆で人を殺すことはほとんど報道されません。
 
今年1月、ISの人質になっていた湯川遥菜さんが殺害されたときも、ISの残虐さが強調されましたが、その時点で有志連合の空爆で6000人を殺害しているという報道がありました。ISと有志連合のどちらがより残虐なのでしょうか。
 
その後、空爆で何人殺したという報道は見かけません。
ISが何人処刑したという報道はいっぱいあります。
 
こうした非対称の報道は、人種差別とイスラム教差別によるものという面ももちろんあるでしょうが、考えてみればこれは報道ではなく、“戦時プロパガンダ”なのです。
このことはNHKスペシャル「憎しみはこうして激化した~戦争とプロパガンダ~」を見ていて気がつきました。
 
第二次世界大戦当時、アメリカ政府は国民に対して、日本人は残忍で狂信的であるというプロパガンダを盛んにしました。
もちろん日本政府も同じことをしていましたが、日本の場合は「鬼畜米英」というスローガンを繰り返すような単純なものだった気がします。アメリカの場合は、映像を使うなどして具体的です。
たとえば、クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」で描かれたことですが、まだ硫黄島で激戦が行われている最中にプロパガンダ用の映像を撮っていたのです。
 
湾岸戦争の前、アメリカ議会でナイラという少女が、イラク兵が病院に入ってきて保育器の中の赤ん坊を床に投げ捨てて殺したと証言し、これでアメリカの世論が沸騰して戦争に傾斜するということがありましたが、のちにこの証言は嘘であったことがわかりました。
 
ナイラ証言 - Wikipedia
 
アメリカを初めとする有志連合がISへの空爆を開始してから、アメリカは戦時プロパガンダを実施しているはずです。
「ISは残忍で狂信的」というイメージの報道があふれたのはそのためだと考えるとよくわかります。
 
ISが残虐な処刑をしているというのはある程度事実でしょう。しかし、IS以外の武装勢力が敵の捕虜や裏切り者を処刑していないかというと、そんなことはないはずです。しかし、そういう報道はまったくありません。
また、サウジアラビアは公開死刑やむち打ち刑など残虐な処刑を行っていますが、これらの報道もほとんどありません。
 
有志連合の空爆は、正確にテロリストだけを狙っているなどということがあるわけはなく、多数の民間人を殺害して、そこには修羅場と愁嘆場が繰り広げられているはずですが、そうした報道もまったくありません。
 
アメリカの戦時プロパガンダによって「ISは残忍で狂信的」というイメージを植え付けられていると、パリ同時テロを見る目も曇ってしまいます。
いや、そもそもパリ同時テロ報道自体が戦時プロパガンダかもしれないのです。

1113日、パリで同時多発テロがあり、百数十人が亡くなりました。
これについてIS(イスラム国)が犯行声明を出しています。
 
 

パリ同時テロISが犯行声明

 
パリの同時テロ事件について、過激派組織IS=イスラミックステートを名乗るグループは、14日、インターネット上に「キリスト教徒の国フランスに対するパリでの聖なる攻撃」と題する犯行声明を出しました。
 
声明の中で、このグループは、「パリの選び抜いた場所で8人のメンバーが自動小銃と体に巻き付けた爆発物で攻撃を行った」として、スタジアムやコンサートホールの名前を挙げるなどして、これらの場所を同時に攻撃したと主張しています。
そのうえで、「フランスはISの攻撃対象であり続ける。なぜならイスラム教の預言者を侮辱したり、ISの領土に空爆を加えたりしているからだ。今回は最初の攻撃にすぎず、その通告として行ったものだ」と述べ、フランスの空爆を非難するとともにさらなる攻撃をほのめかしています。
 
 
フランスは有志連合に加わってISへの空爆をしていますから、それに対する報復ということでしょう。コンサートホール「ルバタクラン」で銃を乱射した犯人は「オランドのせいだ。お前らの大統領のせいだ。シリアに介入すべきではなかった」と言っていたという報道もあります。
空爆されたからやり返すというのは、彼らとしては当然の論理です。
 
これに対してオバマ大統領は「市民を恐怖に陥れる非道な企てだ。これはフランスに対する攻撃ではなく、世界的な人権に対する攻撃だ。米国は、フランスとともにテロや過激主義に立ち向かう」と語りました。
また、オランド大統領は「攻撃はフランス国内の支援を得て、海外で計画され組織されたものだ。フランスに対してだけでなく自由な声を発する多くの国に対して行われたもので、フランス国内外でISに対して容赦ない措置を取る」と語りました。
 
ぜんぜん話がかみ合っていません。ISは「空爆への報復」だと言っているのに、オバマ大統領は「世界的な人権に対する攻撃」だと見なし、オランド大統領は「自由な声を発する多くの国」に対する攻撃と見なしています。
オバマ大統領やオランド大統領は、「ISへの空爆は正当なものだ。それに報復するのは不当な逆恨みだ」というふうに主張してこそ、ISへ反論したことになります。
 
オバマ大統領やオランド大統領は武力を使うのは得意ですが、言論を使う能力を欠いているようです。これではISがどんどん支持を広げるのは当然です。
 
9.11テロのときも同じことがありました。ビン・ラディンはアメリカの中東政策に反対してテロを行ったのに、ブッシュ大統領は「文明への挑戦」と見なして、武力行使に走りました。このときブッシュ大統領はビン・ラディンに公開討論を申し入れるということもできたはずです。
 
つまりアメリカはテロに対して言論の力を行使せず、もっぱら武力行使をしてきたわけです。
一方、テロリスト勢力は武力ではアメリカに負けるため、言論の力を頼りにせざるをえませんでした。
その結果、「ペンは剣よりも強し」というように、アルカイダは勢力を伸ばし、インターネットをより巧みに使うISはさらに勢力を伸ばしてきたわけです。
 
今私たちは、武力でテロを抑え込もうとするのか、言論の力でテロを解決するのか、分かれ道に立っています。
 
なにも公開討論をする必要はありません。アメリカはテロリスト勢力と交渉すればいいのです。
イギリスのブレア首相はIRA(アイルランド共和国軍)と交渉して、IRAのテロを終わらせました。話し合えばテロは解決できるといういい例です。
 
田原総一朗氏もツイッターでこのように発信しています。
 
 
田原総一朗 ‏@namatahara  
パリのテロでフランスは非常事態宣言をした。テロは許し難い行為ではあるが、イスラム国の攻撃を激しくしてもテロは収まらない。むしろ思い切って外交による交渉をすべきだ。どこか沖縄県と日本政府の対立と似ている。なぜ政府はもっと時間をかけて沖縄と話し合えなかったのか。
 
田原総一朗 ‏@namatahara

沖縄とイスラムを同一視してるのではないです。沖縄に沖縄の論理があるように、イスラムにはイスラムの論理がある。アメリカやフランスがイスラムの論理を踏みにじって武力で封じ込めようとするからテロが起きるのだ。

 
 
このような発想は日本人としては当たり前のことだと思いますし、こうしたことを世界に訴えるところに日本のよさが発揮できます。
 
ところが、安倍首相は「共通の価値観を奉ずるフランスが、いま困難に直面している。日本国民はフランス国民とともにある」とか「日本ができることはなんでもする」とか言っています。武力行使がしたくてたまらないようです。

私は京都生まれなので、子どものころはお寺や神社の境内で鬼ごっこやかくれんぼや木登りなどをしてよく遊んだものです。家の近くの広い空間というと、どうしてもお寺や神社ということになるのです。
そんな私にとってはびっくりの記事がありました。
 
 
「子を叱るのは親の責任」世界遺産の神社に置き紙 ネットに共感の声、書いた神職の思いとは
 
 世界遺産にも登録されている京都の「宇治上神社」。この神社が作った参拝者向けの紙が話題になっています。「小さなお子様をお連れの親御様へ」と題したメッセージ。内容についてネット上では「当然のこと」「ここまでの注意書きが必要とは」といった声が上がっています。神職はどんな思いで書いたのか? 話を聞きました。
 
 
A4サイズの1枚の紙
 
 神社建築では日本最古の本殿がある宇治上神社。お守りなどが並んでいる棚のあたりに、神社の説明文などとともにA4サイズの紙が置いてあります。そこには、こう描かれています。
 
  「ここは神社です。皆様が心を静めてお参りをされる場所です。テーマパークでもファミリーレストランでもありません。サービス業ではないのです。『お客様は神様』の自論は通用しません。本当の神様は目の前においでです。当然、不敬な行動は叱ります。親御さんがお子様をしっかり御監督なさって下さい。お子様を叱るのは、親の責任ですし、親が不行き届きで、周りの人に叱っていただいたなら、逆切れではなく、『ありがとうございます』です。自分本位な考えの大人になられないように、正しい教育で共にお子様の健やかなる成長を見守りましょう」
.
 
ネット上の反応は
 
 この貼り紙に対して、ネット上では以下のような声が上がっています。
 
  「まったくもってその通り」
  「全参拝者が読むべき」
  「当たり前のことを掲示しなければいけない悲しさ」
  「神社にこんな貼り紙がしてあるって本来異常なことだよね」
  「神社だけでなくサービス業の店員であっても注意すべきだと思う」
.
 
書いた神職に聞きました
 
 この貼り紙、どんな思いで書かれたものなのか? 神職の片岡剛さんに話を聞きました。
 
  ――書いたきっかけを教えてください
 
  「世界遺産になってから参拝者も増えています。そんな中、私たちが子どもを注意すると、逆にその親から苦情を言われるケースが増えてきたためです。他の参拝者のためにも、守っていただきたい一般的なことを書きました」
 
  ――どんな思いを込めたのでしょうか
 
  「子どもの頃にやりたいことをやって、そのまま大きくなったら大変なことになりかねません。子どものうちに、しっかりと親や周囲の大人が教えることが必要だということが伝わればと思っています」
 
  ――文字の色やフォントを変えたり、「お客様は神様」という表現を引き合いに出したり、工夫されていますね
 
  「当たり前のことを当たり前に書いても読んでもらえないと思ったからです。気にとめてもらえないし、堅い内容だと読むのがしんどくなりますから。ただ、この紙は神社の紹介文などと一緒に置いてあるもので、大々的に訴えているわけではありません」
 
  ――「神社に限らず、世間一般に当てはまる指摘だ」といった声もあります
 
  「子どもたちは宝です。健全に育つように周りの大人が見守っていける、そんな社会であったらいいなと思います」
 
 
この神職は「ここは神社です。皆様が心を静めてお参りをされる場所です」と書いていますが、なにか勘違いをしているのではないでしょうか。
神社といえば祭りをするところです。縁日もあります。今私が住んでいるところの近くの神社では、神楽、和太鼓、カラオケ大会などにぎやかな催し物をよくやっています。
初詣のときの有名神社はどこも押すな押すなの大賑わいで、「心を静めてお参り」できるとは思えません。
そもそも鰐口を鳴らして柏手を打つという参拝の形式も静かなものではありません。
「心を静めてお参り」する場所というのは、お寺やお墓のことではないでしょうか。
 
とはいったものの、この宇治上神社になにか事情があるのかもしれません。
今年、靖国神社はみたままつりでの屋台の出店を中止しました。若者が増えて、強引なナンパや未成年の飲酒・喫煙などが問題になってきたからだということです。
この神社も世界遺産になってから参拝者が増えてきたということですから、いろいろとトラブルが増えて、そのため子どもをスケープゴートにしているのかもしれません。
 
それにしても、その論理はめちゃくちゃです。
「本当の神様は目の前においでです。当然、不敬な行動は叱ります」と書いていますが、「七歳までは神のうち」というのが日本人の伝統的な考え方です。神様である子どもを叱るなど神職としてはありえないことです。
 
また、子どもを叱ることは子ども自身のためであると考えているようですが、子どもが騒ぐのは自然な姿ですから、それを叱ってやめさせると子どもの正常な発達を阻害します(叱って“おとなしい子”や“よい子”にすると、のちのち問題が生じます)
 
子どもが騒ぐのは迷惑だから叱るというのは、年寄りがのろのろ歩くのは迷惑だから叱るというのと同じです。
 
とはいえ、神社の側の都合で、子どもが騒ぐのは困るということもあるでしょう。そういうときは、子どもを傷つけないように、やんわりと子どもに騒がないように頼めばいいのです。
それができるのがおとなというものです。

問題発言を連発しているホリエモンこと堀江貴文氏が、今度は寿司職人の修業について発言して、議論を呼んでいます。
 
 
ホリエモン「寿司職人が何年も修行するのはバカ」発言 数か月で独り立ちの寿司はうまいか?
 
 寿司職人として一人前になるためには「飯炊き3年、握り8年」の修行が必要、などという話があるが、ホリエモンこと堀江貴文さん(43)がツイッターで、問題なのは職人としてのセンスであり「何年も修行するのはバカだ」と切り捨てた。
 
   寿司職人になるためには修行をするのはナンセンスで、料理学校に数か月間通えばなれるものだし、自己流でやっている人もいる、というのだが本当だろうか。
 ホリエモンは20151029日にツイッターで、寿司職人に関してバカなことを書いているブログがあると指摘し、
 
“「今時、イケてる寿司屋はそんな悠長な修行しねーよ。センスの方が大事」
 
とつぶやいた。フォロアーからご飯を炊く時の水分調節やシャリを握るのはそう簡単に会得できるものではない、と意見されると、
 
“「そんな事覚えんのに何年もかかる奴が馬鹿って事だよボケ」
 
と返した。長い期間の修行や苦労によって手に入れたものは価値がある、というのは偏見であり、寿司職人の修行というのは若手を安月給でこき使うための戯言に過ぎないというのだ。
 
   ホリエモンは20141226 日にYouTubeで配信している「ホリエモンチャンネル」で寿司職人について語っている。コロンビアに寿司店を出したいという男性からの相談に答え、その中で寿司職人になるには10年くらいかかると言われてきたけれど、半年くらいでプロを育成する専門学校も出来ている。長い期間修業が必要なのは「1年間ずっと皿洗いしていろ」などと寿司作りを教えないから。今は独学で寿司を出したり、短期養成の専門学校に行って寿司職人になる人が増えている、問題は寿司を作る人のセンスだ、などと語った。
(後略)
 
 
ホリエモンの言っていることは、半分正しくて、半分間違っています。そのため賛否両論を呼んで、議論が盛り上がってしまうのでしょう。
 
寿司職人の修業というのは、確かに非合理なものです。
私は若いころ中小企業向け経営雑誌の編集の仕事をしていたので多少知識がありますが、寿司に限らず飲食業や理美容業など“手に職をつける”という言葉の当てはまる業界では、若い人は下働きばかりさせられて、なかなか仕事を教えてもらえません。“徒弟制度の名残り”というふうに言われていますが、同じ徒弟制度だった大工修業などはどんどん合理化されてきました。飲食業や理美容業は個人的なセンスが関わる職種だからでしょうか。
 
これは学校の野球部などで一年生が球ひろいばかりさせられるのに似ています。“根性を鍛える”みたいな理屈で正当化されていますが、もちろんどんどんボールを使って練習したほうが上達するに決まっています。
 
そういう意味でホリエモンの言っていることは正しいのですが、「何年も修業するのはバカ」と言われると反発する人も多いでしょう。
これについて松本人志氏はこんなことを言いました。
 
 
松本人志、ホリエモンの「寿司職人が何年も修行するのはバカ」に持論
 
お笑いコンビ・ダウンタウンの松本人志(52)が、8日に放送されたフジテレビ系トーク番組『ワイドナショー』(毎週日曜10:0010:55)で、"ホリエモン"こと堀江貴文氏の発言に関して持論を述べた。
(中略)
この日は、『ラスト・ナイツ』(1114日公開)でハリウッド初監督を務めた紀里谷和明氏がゲスト出演。番組内で堀江氏の発言が取り上げられ、紀里谷氏は「お寿司屋さんがどういうプロセスでなるのか分からないから言えませんが」と前置きし、「少なくとも自分は、カメラマンや映画監督になるための下積みは必要ないと思う。自分もしてないですし」と意見。仮に下積みの相談をされた場合は、「今すぐに写真を撮れ。映画も同じ」とアドバイスするという。
 
一方の松本は「堀江さんの言っていることは何も間違っていないと思います」と共感。ただ、否定的な声が上がる原因を「間違ってないんですけど、モヤモヤっと何でするんやろうと思うと、たぶんこの人が寿司の皿を一枚も洗ったことがないからだと思うんです」と分析し、「寿司職人の名人と言われる人が全く同じセリフを言ったら誰も何も文句もない。気持ち良く聞けるんですけど」「たぶん言う人が違うんやろうなと。セリフは間違ってない」と語っていた。
 
 
松本氏は「言う人が違うんやろうな」と結論づけていますが、私の考えは違います。私の結論は「言う相手が違うんやろうな」ということです。
 
ホリエモンは寿司修業をする若い人に向かって言っています。しかし、問題は若い人にあるのではなく、業界の非合理なシステムにあるのですから、意見を言うなら業界に向かって言うべきです。
 
就活シーズンになると、大企業の経営者が若い人に向かって「失敗を恐れるな」とか「グローバルな人材になれ」などと説教する意見がメディアに出ますが、ホリエモンの発言は基本的にこれと同じです。
こんな意見はいくら言っても、世の中はなにも変わりません。
 
もっとも、業界のシステムを変えろと言ってもなかなか変わらないでしょう。
となると、とりあえず業界を志望する若者にどう意見するべきかということも考えなければなりません。
 
ホリエモンは短期間で技術を習得することは可能だという前提で意見していますが、これはかなり甘い考えだと思います。半年ぐらいでプロを養成する専門学校があるということですが、学校だけではだめで、やはり現場で経験を積む必要があります。それもある程度以上のレベルの店が望ましいとなると、結局業界のシステムに入っていかざるをえないのです。
短期間の修業で一人前としてやっていけるのは、よほど優秀な人だけです。
 
ホリエモンはもちろん優秀な人ですから、そういう人が一般の人をバカ呼ばわりしたら、反発を買うのは当然です(ホリエモンの問題発言はいつもこのパターンです)
 
業界を志望する若い人になにか言うとすれば、「業界のシステムは理不尽だが、それにめげずにがんばれ」ということでしょう。バカ呼ばわりするのではなく、エールを送るというのが正しいやり方です。

昔は若い男女が同棲するというと、「ふしだら」などと言われたものですが、今は親公認の同棲も珍しくないようです。しかし、これがいいこととは限りません。
 
「ヤフー知恵袋」にこんな相談がありましたが、“自立”ということのむずかしさを改めて考えさせられました。
 
 
娘が同棲中の彼のご両親に旅行に誘われたのですが
 

娘が同棲中の彼のご両親に旅行に誘われたのですが行きたくないと返事をしたのに彼を通じて再度誘われ困っておりました。

 
行きたくない理由は部屋は一部屋しか取っておらず車の運転を彼にさせるためと娘は細々ご両親の世話をさせるために誘ったというのが見え見えだったためです。
 
 費用は向こうのご両親が出すと言っても連休を気を遣うのがわかっている旅行で潰すのは嫌なのでゆっくり家でしたいからと断ってるのに「そんなこといわずに」と彼経由で言ってきてそれでも断ってるのに私のところに「せっかくだから、娘さんに行くようにと」言ってきました。
 

 義理の父になる予定とはいえ赤の他人の男と同じ部屋なんて気遣いはしてくれないしお付きのような旅行になんて娘を行かせる必要もないし第一本人が行きたくないと言ってるのになんてしつこいんだろうと思い「本人が乗り気じゃないし」と答えておきました。

 
 娘の彼が板挟みになって不貞腐れ結局彼とご両親だけで旅行は行って娘は実家に帰ってきています。
 
 籍も入れてないし式もあげていないのにこんなことで煩わされるなんて娘を大事にしてくれるとは思えなくて帰らせてもいいかなと思案しています。
 
 娘が彼のタイプだったらしくいいことばかり言われて同棲するようになったのに自分の勤め先や出身校を鼻にかけるとか娘の保育士と言う仕事を肉体労働というとかの言葉も引っかかり同棲するマンションには帰りたくないと言っています。
 

 我慢することも大事だし、あくまでも娘の気持ちが優先ではありますが帰りたいと言っても止める必要はないでしょうか?

 
 
この同棲は双方の親が公認していますし、親同士も連絡を取っているので、ほとんど結婚と同じようなものです。
結婚にせよ同棲にせよ、子どもはつがいになることによって親から独立していくものですが、このカップルはそうではないようです。
 
彼の両親は息子といっしょに旅行したがっています。一概にそれが悪いとは言えませんが、子ども離れできていないということは言えます。とくにこのケースは、そのために息子と彼女の関係が悪化したのですから、やはり両親の態度はよくありません。
 
そして、この息子も親離れできていません。自分の彼女がいやがっているのですから、自分が両親に断ればいいのです。そうすればなにも問題はありませんでした。
 
相談者の娘も親離れができていません。旅行に誘われて困っていることを親に伝えていたようですし、向こうの親が相談者に娘を説得するよう頼んできたのも、娘が親離れしていないことを見抜いているからでしょう。
 
 
そして、なによりも問題なのは、相談者が子離れできていないことです。
 
たとえば、「お付きのような旅行になんて娘を行かせる必要もないし」と書いていますが、「娘を行かせる」という表現には、娘をまだ支配下においている感覚が表れています。「帰らせてもいいかなと思案しています」という表現も同じです。
「あくまでも娘の気持ちが優先ではありますが」とも書いていますが、この表現にも決定する主体は自分であるという意識が感じられます。
 
そもそも同棲を解消するか否かという問題を、当事者ではなく親が相談しているということからして間違っています。
親が介入しなければ、娘は自分で問題を解決するしかなく、それによって成長することができます。親は成長と自立の妨げになっています。

結局、この登場人物は全員が親離れ子離れできていないのです。

 
そして、最大の問題は、この相談に対する回答かもしれません。
ベストアンサーに選ばれたのは、「向こうが非常識だから別れたほうがいい」という意見です。
ほかに13の回答がありましたが、「娘が自分で決めるべきだ」というのはふたつぐらいしかありません。
ほとんどの人は、娘の問題を親が相談しているのをおかしいと思っていません。
親離れ子離れできないことが問題だと認識されていないのです。
 
日本がうまくいかないのも、多分にそのせいであるような気がします。
石破茂氏は安保法制の必要性を「同盟国から見捨てられる恐怖」という言葉で表現しましたが、これは親離れしていない人間の発想です。
安倍首相はやたら祖父の岸信介にこだわり道を誤っていますが、自分の両親との関係に問題がありそうです。
「新しい道徳」が売れている北野武氏も、自分の母親のことになると批判するべきことが批判できません。
 
個人が自立しないと国家も自立できない理屈です。 

北野武著「新しい道徳」は、道徳について深く考察していて、もしかして道徳に関する本としては世界最高水準かもしれません。
朝日新聞の書評でも精神科医の斎藤環氏が「『道徳』の授業の副読本として強く推奨したい」と書いていました。
もっとも、これは皮肉です。絶対に副読本に採用されることはないからです。
 
北野武氏の考え方と文部科学省、自民党の考え方はまったく違います。
一般の人も文部科学省、自民党の考え方に近いでしょうか。
 
そうした一般の人の代表的な意見が朝日新聞の読者投稿欄に出ていました。
 
 
(声)しつけとは我慢を教えること
 中学校教員 (男性)(長崎県 48)
 
 登校中の小学生で、時には茶髪や奇抜な頭髪を見かける。中学校に進学してきたら指導が大変だろうと思う。一般的にそんな子の親は「人に迷惑はかけてないからいいじゃないか」と言う。そのような論理に立てば、ピアスもネックレスも許される。指導もいらない。校則がないほうが教員にとっては楽に違いない。でも、本当にそれでいいのか。
 
 「褒めて伸ばす」とか「個性の尊重」は悪いことではない。しかし、それは基本的なしつけがあった上での話だ。私は、しつけというのは子どもに我慢を教えることだと思っている。そして、基本的なしつけは親の仕事のはずだ。
 
 保護者と教員の意見が一致していれば問題はないだろうが、両者の思いがすれ違うことが増えているように感じる。学校は集団で生活するところだ。子どもたちは教科の学習をするだけでなく、社会のルールを学び、社会性を身につけていく。そのためにわがままはほとんど許されない。
 
 親にとって子どもはかけがえのない存在だ。だからこそ将来の我が子の姿を思い浮かべながら、学校での指導が何のために行われているのか冷静に判断してほしい。
 
 
「子どもに我慢を教えることのたいせつさ」を主張する意見はよくあり、これはその典型です。そして、あまり反論されることもないので、この手の意見はまかり通っています。そこで、この機会にちょっと反論してみようと思います。
 
この投稿者は「子どもに我慢を教える」と書いていますが、具体的にどうやるのかは書いていません。
子どもに向かって「我慢をしなさい」とか「我慢をすることはたいせつだ」と言ったりするのでしょうか。それで子どもに我慢を教えたことになるのなら、道徳教育とは簡単なものです。「努力しなさい」とか「イジメはよくない」とか言っていればいいわけですから。
 
おそらく投稿者は、子どもに実際になにかを我慢させて、それをもって「子どもに我慢を教える」ことだとしているのでしょう。投稿者は中学教員ですから、子どもがやりたいことを禁止するとか、やりたくないことをやらせるとかはむずかしいことではありません。
 
しかし、そうして我慢させると、子どもはどうなってしまうでしょうか。
 
ひとつの可能性として、我慢させられることが嫌いで、反抗的な子どもになってしまうことが考えられます。
もうひとつの可能性として、我慢させられることが当たり前になり、意欲のない子どもになってしまうことも考えられます。
どちらにしても、ろくなことではありません。
 
この投書の主張の根本的な問題は、「我慢する」ことと「我慢させられる」ことの区別がついていないことです。
 
人生で「我慢する」ことはたいせつですが、「我慢させられる」ことはできる限り少なくしたいものです。
いや、主体的に生きている人間は、「我慢させられる」ことはないはずです。会社で「我慢させらせる」ことがあっても、自分がその会社にいることを選択しているのですから、実際は「我慢している」わけです。
 
一方的に「我慢させられる」人間というのは、奴隷です。
「我慢させる」教育というのは、奴隷の教育です。
 
富国強兵時代の教育は、産業の発展に役立ち、戦争においては命令に従う人間をつくることが目的でしたから、奴隷の教育でした。
今もその流れを引き継いで、この投書みたいな主張があるわけです。
 
道徳教育というものは、子どもの主体性を無視した人間が行うものです。
「子どものわがままは許さない」というおとなは、自分がわがままなのです。
 
もっとも、こういうことは「新しい道徳」の中にちゃんと書いてあります。
「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」と。 

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