村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2016年01月

天皇皇后両陛下は1月26日、フィリピンを公式訪問されました。
陛下は羽田空港での見送り行事においてこう述べておられます。
 
 
フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています。
 
 
わざわざ「マニラの市街戦」という言葉をおっしゃったところに陛下の見識が現れています。
 
マニラ市街戦は太平洋戦争でも有数の激戦でしたが、なぜか日本では戦史からはほとんど消されています。私はかなり戦争の本を読んできましたが、マニラ市街戦について書かれたものはありませんでした。ヒストリーチャンネルかなにかで放送されたアメリカ制作のドキュメンタリー番組で初めてマニラ市街戦の実態を知りました。
 
マニラ市街戦は約1カ月にわたって行われ、アメリカ軍の損害は戦死者約千人、負傷者約五千六百人にのぼりました。
フィリピン戦線における日本軍は、レイテ島などでボロ負けでしたから、日本人としては忘れてしまいたいところですが、マニラ市街戦に限っては1カ月にわたってアメリカ軍を苦しめたということで自慢していいはずです。
 
しかし、その結果、マニラは瓦礫の山になり、民間人約10万人が犠牲になったとされます。
日本軍が抗日ゲリラの疑いをかけて殺した民間人も多数いたということです。
また、山下奉文大将は、民間人の数が多すぎて避難は不可能なので、かつてアメリカがそうしたように無防備都市宣言をするつもりで現地軍にマニラを放棄するよう命令していたのですが、現地軍が命令に反して市街戦になったという事情もあります。
そんなさまざまなことから、日本人としてはなかったことにしてしまいたい戦闘だったのでしょう。
 
もっとも、去年NHKでマニラ市街戦についての番組が放送されました。陛下もこれをご覧になっていたのかもしれません。
 
埋もれた激戦「マニラ市街戦」 70年後の語り継ぎ
 
 
フィリピンは軍国日本を賛美したい人にとっては、ほかの点でも不都合な存在です。
 
というのは、アメリカ議会は1934年にフィリピン独立法を制定し、10年後の独立を約束していたからです。そこに日本軍が1942年に侵攻し、占領しました。ということは、フィリピンにとってはあと2年で独立できるときに日本に占領されたわけで、日本はむしろ独立の妨げでしかありませんでした。
右翼はよく、日本が戦争したことでアジアは植民地から解放されたのだと言いますが、少なくともフィリピンにはぜんぜん当てはまらないわけです。
 
また、反植民地主義の旗印は、日本ではなくアメリカに握られていたということも言えなくありません。

 
第二次大戦におけるフィリピン人の死者は111万人とされ、310万人とされる日本人の死者の3分の1余りになります。それも、まったく必要のなかった死者です。
また、フィリピンにおける日本人の死者は約52万人で、中国における死者約46万人よりも多い数です。
 
両陛下の今回のフィリピン訪問は、国交正常化60周年記念に当たってフィリピンからの招請に応えたものですが、両陛下においては慰霊の旅という思いが強いようです。

ベッキーが不倫問題で大バッシングを受けています。これまでベッキーがCMをやってきた10社すべてがスポンサーを降りたそうですし、「芸能界追放ほぼ確定」という記事も見かけました。
 
普通、既婚の男性と未婚の女性がつきあうと、男性が批判されるものです。昔だと「娘をキズモノにした」と親が男のところに怒鳴り込んだかもしれません。
 
今回、ベッキーがもっぱら批判されるのは、もともとベッキーのイメージがあまりにもよすぎて、批判しがいがあるからでしょう。
一方、「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音氏は自分でゲスの極みと言っているぐらいなので、あまり批判しがいがありません。それに、そもそも川谷絵音氏のことを知らない人も多かったでしょう。
 
ベッキーを批判する人は、ベッキーは川谷氏の妻を傷つけてけしからんと言います。
しかし、もしほんとうに川谷氏の妻のことを考えるなら、ベッキーを批判するより、川谷氏の妻に向かって言葉をかけるべきでしょう。しかし、川谷氏の妻のことも、その夫婦関係も知らないのですから、なにも言いようがないはずです。
結局、川谷氏の妻のことは、批判の口実にしているだけと思われます。
 
この問題の発端は、LINEの会話が流出したことですが、プライベートな会話が世間に出れば、誰でも不都合なことがあるはずです。
 
 
ベッキーの所属事務所はサンミュージックです。
サンミュージックは牧村三枝子、太川陽介、安達祐実、カンニング竹山、小野真弓などが属するそこそこの芸能事務所ですが、ジャニーズ事務所とは比べものになりません。そのためバッシングされやすいということがあるようです。
少なくともマスコミの対応は、SMAPのときとまったく違います。
 
ベッキーは1月6日に釈明会見をしましたが、一方的にしゃべるだけで終了し、そのあと質疑応答がなかったということでずいぶん批判されました。
しかし、SMAPはテレビに向かってわけのわからない“謝罪”をしただけで、記者会見すらしていませんが、ほとんど批判されません。
 
考えてみれば、あのわけのわからない“謝罪”も、周到な計算によるものだったかもしれません。ベッキーは「おつきあいではなく、友だち関係です」と言ったために、ウソだろうと批判されました。SMAPはまったく内容のあることをしゃべらなかったために、批判のしようがありません。
 
これまでベッキーはとにかく好感度の高いタレントで、マスコミも“ベッキーよい人伝説”みたいなことばかり書いていました。しかし、この騒ぎによってまさに手のひら返しのことを書いています。
 
 
不倫疑惑ベッキー、裏の顔と天狗ぶりが露呈…一般人に舌打ち、飲み物冷たくてADに激怒

(前略)
また、テレビ制作会社にADとして勤務していた女性は語る。
 
 「ベッキーは相手の立場を見て態度を変える典型的なタレントのひとりです。ベッキーの現場の飲み物は常温の水と決まっているのですが、あるロケでベッキーに常温の水を手渡したのですが、口をつけると冷たく感じたようで、『冷たいっ! 常温って言ってるでしょ!』とかなり怒っていました。監督やプロデューサーのような偉い人の前ではいつも笑顔で元気なのですが、私のような下っ端には接し方が全然違うのだなと思いました」
 
  さらに、飛行機内でベッキーと遭遇したことがあるという女性は語る。
 
 CA(キャビンアテンダント)さんへの対応の粗雑さが目立ちました。スーパーシートに座っていたベッキーに、CAさんが気を遣って膝かけを持ってきたのですが、舌打ちして片手で払うような仕草をしたのです。テレビで見ていた印象とあまりにも違いすぎて驚きました」
 
  ベッキーのこうした振る舞いの背景について、大手芸能事務所関係者は次のように分析する。
 
 「酒井法子が覚せい剤事件で所属事務所のサンミュージックをクビになった後、ベッキーは同事務所の稼ぎ頭で屋台骨でした。事務所スタッフや社長までが当時まだ20代だった彼女に頼り切っていました。多忙だったことは事実ですし、彼女ひとりにかなりのストレスがかかっていたと思います。しかし、そんな状況の下でいつしか天狗になってしまったのでしょう」
 
  ベッキーの今後が思いやられる。
 
 
しかし、手のひら返しはマスコミだけではなく、一般の人も同じです。
 
今、ベッキーを擁護する声はほとんど聞こえません。
もともとベッキーを嫌いだった人が声を上げるようになって、ベッキーを好きな人は沈黙している、つまり攻守交替が起こったのだと考えることもできますが、ベッキーを好きな人なら今こそ擁護の声を上げていいはずです。
とすると、今までベッキーをほめていたのと同じ人が、一転してベッキー批判をしているのではないでしょうか。
 
「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」というのが私の基本的な考えです。
人間も動物ですから互いに生存闘争をしていますが、道徳を主要な武器にしているということです。
 
しかし、一般人がベッキーをたたいても自分の利益にはなりません。
うっぷん晴らしにはなるでしょうが、それは一時の快楽です。
所詮は弱い者イジメです。おそらく自分も弱い者のはずですから、いずれ自分に返ってきます。
「道徳という棍棒」は正しく使いたいものです。

SMAPの5人は1月21日、公開謝罪後初めての全員そろっての仕事として「SMAP×SMAP」の収録を行い、翌日のスポーツ紙各紙はその様子を「笑顔が戻る」などの見出しで大きく報じました。
私は22日の午後のワイドショーをチャンネルを変えながら見ましたが、どの局も「SMAP存続が決まってよかった」といったムード一色でした。キャスターもコメンテーターも、キムタク以外の4人が明らかに傷ついていることへの言及もなければ、もちろんジャニーズ事務所に対する批判もありません。
日本伝統の「翼賛報道」とはこのことかと思いました。
 
もっとも、「いろいろ納得いかないことはあるが、SMAPの分裂や解散が回避されて存続が決まったのはよかった」と思っている人は多いかもしれません。
しかし、かりにキムタクがジャニーズ事務所に残り、4人が独立していったとしても、SMAPがそのまま存続することは可能です。
 
たとえばAKB48やその姉妹グループの場合、各メンバーの所属事務所はバラバラです。
AKB48の現在の主要なメンバーの所属事務所はこうなっています。
 
小嶋陽菜 プロダクション尾木
島崎遥香 ビッグアップル
山本彩  KYORAKU吉本.ホールディングス
柏木由紀 ワタナベエンターテインメント
横山由依 太田プロダクション
 
ですから、SMAPの場合も、各メンバーの所属事務所が違ってもSMAPとして活動していくことは可能です。
ただ、ジャニーズ事務所は「SMAP」を商標登録しているということなので、ジャニーズ事務所がそれを許可しなければなりません。
SMAPの今回の騒ぎは中国や欧米でも報道され、SMAPは今や国民的のみならず国際的な存在ですから、「SMAP」の名前の使用を許さないとすれば、ジャニーズ事務所はあまりにも狭量です。それにSMAPの活動から利益を得ることもできます(5人全員を事務所にかかえているよりは少なくなりますが)
 
しかし、「メンバーがジャニーズ事務所を抜けても、ジャニーズ事務所はSMAPの存続を認めるべきだ」という意見を聞いたことがありません。
マスコミはジャニーズ事務所批判をしないだけではなく、ジャニーズ事務所に意見を言うことすらできないようです。
 
 
SMAPの生放送における公開謝罪についてはいろいろ意見がありますが、いちばんの問題は、そのあと記者会見が行われなかったことでしょう。
 
よく企業が不祥事を起こした場合、経営陣がそろって頭を下げる映像がニュースで流れますが、実際はあのあと記者との質疑応答が行われるわけです。
マスコミはつね日ごろ「説明責任を果たせ」と言っているのに、今回はなぜ言わないのでしょうか。
各メンバーがどういう思いでいるのかということと、経営陣からの説明を聞きたいところです
 
フジテレビ内における「SMAP×SMAP」の収録のときは、多数の警備員による厳戒態勢がとられ、「日刊スポーツ」によると、「メンバーが局内を移動する際は警備員がピタリと付くなど、ピリピリムードだった」「トイレに行く時もスーツ姿の警備員が付いた」ということです。
あるワイドショーでは「なにから厳戒しているのか」という声が上がっていました。
フジテレビ内ですから、あやしい人物がいるとは思えません。
ですから、どこかの記者が現れて、「中居さん、今の心境は?」などと声をかけてくることを警戒しているのでしょう。
 
そこまでシャットアウトされながら、ジャニーズ「翼賛報道」を続けるマスコミはつくづく情けない存在です。

SMAPを巡る騒動を見ていると、日本のマスコミやジャーナリズムのひどさが浮き彫りになった気がします。
 
SMAPのメンバーは18日に放送されたフジテレビ系「SMAP×SMAP」に生出演して、謝罪の言葉を述べました。





一応謝罪はしていますが、今後どうするかということはまったく語っていません。それでもマスコミは「分裂回避」「SMAP存続」と報道しています。
 
これについてファンの反応は、「見せしめ」「お通夜」「私が知っているSMAPじゃない。まるで別人」「見ていられない」「納得できていないまま立っているのが分かる」「言わされている感じ」「生放送での公開パワハラ」といったものが多いそうです。
 
ここにいたるいきさつについてはいろいろ書かれていますが、ひとつ確実に言えるのは、キムタク以外の4人はジャニーズ事務所の力に屈服させられたということです。
そういう意味ではまさに「生放送での公開パワハラ」です。
 
ジャニーズ事務所は芸能界において圧倒的な力を持っています。狭い芸能界でジャニーズ事務所ににらまれては生きていけません。4人が屈服したのはしかたのないことです(ジャニーズ事務所に対抗できる有力な事務所に移籍しようとしたのですが、その話が土壇場でだめになったということのようです)
 
問題はマスコミの報道のしかたです。
こういう芸能界の力学を解説するのではなく、SMAPのマネージャーと4人が事務所の恩を忘れて独立を画策し、キムタクにたしなめられて反省したというような“道徳の物語”になってしまっています。
要するにマスコミも芸能界の力学の中に取り込まれているのです。クラスの中にイジメがあるとき、イジメを止めるのではなく、イジメに加担しているみたいなものです。
 
 
ところで、マスコミの報道姿勢については、古舘伊知郎キャスターがインタビューで、「キャスターはどういう役割か」と聞かれて、「生意気な言い方だが、権力に対して警鐘を鳴らす、権力を監視する」「基本的にニュースキャスターは反権力であり、反暴力であり、表現の自由を守る側面もある」と語りましたが、産経新聞の記事がこれにかみついています。
 
 
 政権の政策には当然、評価に値し推進すべきものもあれば、問題があって修正すべきものもあります。それらを全て「反権力」の視点で、対案を示さずにあら探しばかりをしていたら、国民の間には政治不信が広がるだけで、政策は停滞してしまいますから、結果的に国益に反します。
古舘氏が12年間も放送法の規定を理解しないままキャスターを務めてきた責任は重く、まだ3月末まで続けるというなら、まずは先の「キャスターは反権力」という発言を撤回し、「政治的公平」に基づいた報道に徹してもらいたいと思います。
 
 
こんな考えだから、産経新聞は安倍政権批判の記事が書けないのでしょう。
この記事は人間性についての基本的な理解に欠けています。
 
たとえば、「政権の政策には当然、評価に値し推進すべきものもあれば、問題があって修正すべきものもあります」とありますが、これを書いた記者は自分はそれを正しく判断できると思っているのでしょう。しかし、権力がからむと、ほとんどの人は正しい判断ができません。人間は権力に尻尾を振るように生まれついていて、そこに認知バイアスがあるからです(人間は「反権力」でなければ「公平」な判断はできないわけです)。
 
権力に尻尾を振るのは、生きるのにそうしたほうがいいからです。たとえばサラリーマンが「反権力」の姿勢でいたら、出世なんかできません。
しかし、会社が赤字続きで、あるサラリーマンが経営改革案を出すプロジェクトチームのトップに任命されたとします。経営改革案というのは、これまでのやり方の非を指摘するものですから、当然会社の上層部と軋轢を生みます。「反権力」の姿勢がなければ正しい改革案は出せません。
 
ジャーナリストやキャスターは、世の中をよくするための役割が期待される職業ですが、どんな世直しも権力との軋轢を生みます。普通の人間は権力の網の目にからみとられて生きていますが、ジャーナリストはそれとは別のスタンスが必要なわけです。
 
芸能報道でも同じことです。「反権力」の姿勢がないマスコミは、芸能事務所と所属タレントの関係を正しく報道することができません。
しかし、一般のファンは芸能界の権力とは無縁の立場ですから、客観的に評価しています。
今回のSMAP報道で、権力に弱いマスコミの体質があらわになった感があります。

TBS系の報道番組「NEWS23」の岸井成格氏が3月末でアンカーを辞めることになりました。その後はTBS専属のスペシャルコメンテーターになるということですが、政府に批判的なゆえに降板させられたのではないかと思われます。
古舘伊知郎氏の3月降板といい、日本のテレビが案じられます。
 
岸井氏については、「放送法遵守を求める視聴者の会」なる団体が昨年11月に読売新聞と産経新聞に意見広告を出し、岸井氏を名指しで批判しました。このことが降板の直接のきっかけになっているようです。
 
「視聴者の会」はさらに岸井氏に対して公開質問状を出していますが、岸井氏とTBSは回答しないという方針だそうです。「視聴者の会」は素性の怪しい団体ですから、相手にしないという方針は理解できますが、それが逃げているという印象を与えるのも事実です。たとえば産経新聞は「公開質問状に回答しないのはテレビ報道の資格なし」というような記事を書いています。
今後も似たようなことが起こるかもしれないので、できれば公開討論会でもやって論破しておきたいところです。
 
そこで、「視聴者の会」の意見広告を読んで、自分なりの反論を考えてみました。
 
 
「放送法遵守を求める視聴者の会」の意見広告
 
 
岸井氏の「メディアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という発言を取り上げて批判しています。
全体がデタラメな主張なので、かえって反論しにくい感じがします。こういう場合は、いくつかに焦点を絞るしかありません。
 
たとえば意見広告にはこのような記述があります。
 
周知のように、安全保障法案は国民各界で意見が対立し、国論を二分した法案です。岸井発言は、TBSが、新聞や雑誌などと違い番組編集準則を踏まえなければならない放送事業者であるにもかかわらず、そのような多様な国民の見解を無視し、「法案廃案」を全国の視聴者に拡宣しようとした、放送法違反の発言としか言いようがありません。
 
「国民各界で意見が対立し、国論を二分した法案」と言いますが、これは事実に反します。衆院憲法審査会において与党推薦の参考人を含む3人の参考人全員が「安保法案は違憲」と述べ、憲法学者へのいくつかのアンケートでも、合憲とするのは3人とか4人、9割以上が違憲という結果が出ました。つまり憲法学会においてはほぼ違憲ということで一致したのです。
このことが明らかになった時点で、当然テレビ局の報道姿勢も変わりました。放送法は「政治的に公平」ということを規定していますが、安保法案は政治的ではなく法学的、社会科学的な問題になったのです。
違憲の疑いが濃厚な法案を「政治的に公平」に扱うわけにいきません。立憲主義が崩れると、「政治的」という枠組みさえ崩れるからです。
たとえばナチスがワイマール憲法を実質的に停止する「全権委任法」を出してきたときを考えればわかります。
 
安保法案が法学上の問題になったとき、法案賛成派は正々堂々と議論ができなくなり、「憲法を守って国が滅びていいのか」みたいなことを言うだけになりました。そのため、この「視聴者の会」みたいなものを作って、議論そのものを封じ込めようとしたのだと思われます。
 
 
意見広告にはこのような記述もあります。
 
岸井氏は報道番組「NEWS23」のメインキャスター、司会者であり、番組と放送局を代表する立場の人物です。そのような立場から、一方的な意見を断定的に視聴者に押し付ける事は、放送法第四条に規定された番組放送準則に明らかに抵触します。
 
「番組と放送局を代表する立場の人物」とありますが、岸井氏は番組を代表する人物ではあるかもしれませが、放送局を代表する人物であるわけがありません。基本的な事実認識が違います。
 
また、「一方的な意見を断定的に視聴者に押し付ける」とありますが、岸井氏の問題とされた発言「メディアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」は、視聴者に向けたものではなく、岸井氏の仲間であるメディアに向けたものです。それを「視聴者に押し付ける」と理解するとは、まったく読解力がありません。
 
岸井氏はほかにもいろいろ発言していますから、当然視聴者に向けたものもあるでしょう。しかし、それはあくまで意見を表明しているだけです。どんなキャスターであれ、「視聴者に押し付ける」ということはできません。
 
「視聴者の会」はどうしてここに「押し付ける」という言葉を持ってきたのでしょうか。つね日ごろ「憲法はアメリカの押し付けだ」と主張しているので、その習性が出たのかもしれません。
日本国憲法の制定時、日本はアメリカの占領下にありましたから、アメリカは確かに「押し付ける」ことができました。
しかし、現在の日本では、どんなキャスターであれ、視聴者に意見を「押し付ける」ことはできません。
 
おそらく「視聴者の会」は「権威」と「権力」の区別がついていないのでしょう。
占領軍には「権力」がありますが、現在のキャスターにあるのは「権力」ではなく「権威」です。
 
「権力」は「押し付ける」ことができます。問題はこちらのほうです。
たとえば安倍首相は、「NEWS23」に出演したとき、街頭インタビューが偏っているとしてブチ切れ、「これ、問題だ」と文句をつけましたが、放送局を所轄する総務大臣と総理大臣は放送局に対して「権力」を持っていますから、これこそが放送局の「政治的に公平」を冒す行為です。
「視聴者の会」はこちらのほうこそを問題にするべきでしょう。
 
しかし、「視聴者の会」がそんなことをするはずがありません。最初に述べたように素性の怪しい団体だからです。
「リテラ」にこんな記事があります。
 
NEWS23』岸井攻撃の意見広告を出した団体の正体! 謎の資金源、安倍首相、生長の家、日本会議との関係
 
デタラメな団体は、主張することもデタラメです。
こういうデタラメな主張は、公開討論会でもやって笑いものにするのが正しい対応です。

2011年に書いた『「試し行動」って知ってた?』という記事に今でもけっこうアクセスがあります。「試し行動」について詳しく書いたサイトがほかにあまりないようです。
 
 
「試し行動」は里子に見られるだけではなく、実の親子関係でも男女の恋愛関係でも見られるものですが、「試し行動」についての知識がないと、それが「悪意の行動」に見えて、人間関係がこじれてしまいます。ですから、ぜひとも知っておきたい重要な概念です。
 
そうしたところ、朝日新聞に専門家が「試し行動」について詳しく語るインタビューが載っていました。
私の記事よりもはるかにためになると思われるので、全文引用を避けるために一部だけ省略して、以下に紹介します。
 
 
 
「自分は愛されているのか」 親の覚悟を試す子ども
 
■家庭養護促進協会大阪事務所理事 岩﨑美枝子さんに聞く
 
 多くの人にとって最も大切で、かつ面倒くさい人間関係のひとつが「親子」ではないだろうか。親子関係の本質とは何か。複雑に絡んだ関係の糸をどうほぐせばよいのか。実の親が育てられない子の育て親を新聞を通じて募集し、血縁のない人同士が「親子になる」ことを50年近く支援してきた岩﨑美枝子さんに聞いた。
 
 ――実の親子でも悩みの種は尽きません。血縁のない人同士が親子になるには、並々ならぬ苦労があるのでは。
 
 「確かに、実の親子なら小さなトラブルで済むようなことが、大ごとになる場合もある。だけど、意識的に親子になろうとする分、逆に親子関係の本質が見えてくる面もあります」
 
 ――どういうことですか。
 
 「だいたい1歳半以降の子どもたちが、施設から育て親の家庭に移った際に、共通して見られる行動パターンがあります。引き取って1週間ぐらいはみな聞き分けのよいお利口さんで、私たちは『見せかけの時期』と呼んでいます。だけど、その後は豹変(ひょうへん)する。赤ちゃん返りをしたり何かを激しく求めたり、様々な形がありますが、親が嫌がったり困ったりすることを執拗(しつよう)に繰り返すのが特徴です」
 
 「例えば、お母さんが女の子を引き取るのでじゅうたんを新調したのに、子どもがその上でお漏らしをしてしまった。その時に『せっかく買ったのに』と顔をしかめたらそれを見て、おしっこをする時に必ず同じじゅうたんの上に行って『おしっこ出る出る、出たあ』とやるんです」
 
 「スナック菓子しか口にせず、食べ残しを床いっぱいにばらまく子。色とりどりのビーズをひもに通すよう親に求め、それができると、バラバラにしてはまたひもに通させる、ということを延々と続ける子。私たちはそれらを『試し行動』と呼んでいます。個人差はありますが、平均すると半年ぐらいはそれが続きます」
 
 ――言葉もまだ十分にしゃべれない子どもたちが、大人を「試す」のですか。
 
 「どこまで意識してやっているのか分かりませんが、弱点を見抜き、そこを的確に攻め込んでくる。親の嫌がる雰囲気は子どもに確実に伝わっていると思います。その上で『嫌がることを繰り返す私を、あなたはどれだけちゃんと受け止めてくれるのか』を確かめようとしている。子どもたちの中には、『そこまでやらないと大人を信じられない』という何かがあるのではないか」
 
 ――それは、子どもたち自身の経験が影響しているのですか。
 
 「そうだと思います。大多数の赤ちゃんは、生まれてまもなく親に抱きとめられ、母親の胎内で感じていたであろう安心感がそのまま引き継がれる。だけど、何らかの事情で生まれてすぐに親から引き離された子は、自分が守られるべき世界が突然なくなった恐怖を感じたはずです」
 
 「乳児院で育てられても、何人もの保育士が赤ちゃんをケアするから、特定の大人と信頼関係を取り結ぶことはなかなか難しい。そんな中で、子どもたちは『誰かに心の底から受け入れられたい』という欲求をあきらめてしまう。育て親になろうという人が現れ、『この人なら受け入れてもらえるかも』という思いが芽生えた時、受け入れへの欲求が再び目覚め、試し行動が始まるのでしょう」
 
 ――たとえ血がつながっていても、心の底から親に受け入れられることを、あきらめてしまった子どもも多いのでしょうね。
 
 「確かに、うちで世話する子どもたちは、関係が固まってしまった実の親子よりも、試し行動という形で育て親に素直に欲求を出しやすいとも言えます」
 
 「試し行動をやめさせようとすると、かえってひどくなる。最近のケースでも、2歳の女の子が『いやや、いやや!』と泣きわめくばかりで、おしめも換えられないし、お風呂にも入れられない。親御さんは『そんなにつらいことがいっぱいあるねんな。ごめんな、何もできなくて。あなたがどれだけ泣いても付き合うわ』と話しかけ、待ち続けた。その対応がよかったのか、泣き続けるのは3日ほどで終わりました」
 
 「泣きやまずに近所から虐待を疑われたり、施設に戻されたりするケースもあります。逆に片時も親から離れようとせず、トイレに行く時までくっついて、親を疲れ果てさせる子も多いです」
 
 ――試し行動を受け入れ、終わりを待つしかないのですか。
 
 「待ち方にも色々ある。いくら泣きわめこうと『私はあなたの親になるつもりで付き合っているねんから、それを分かってよ』というくらいの覚悟が親にあると、子どもはその覚悟を読みます」
 
 「高い所に立って『こっから落ちて死んでやる!』と言った5歳の男の子に、『あんたが死んだらお母ちゃんも死ぬ!』と叫んだ親がいる。そしたら『お母ちゃんは死んだらあかんから、僕も死なない』と。そういうことをとっさに言えるのが覚悟の表れでしょう」
 
 ――頭で考えた生半可な言葉では子どもは納得しない、と。
 
 「誰にもなつかない子、神経質で難しい子ほど、本当は育てがいがある。ひとたび心を開けば表情が柔らかくなり、ほおずりをしたり、顔を見つめて何度でも『かあちゃん』と呼んでくれたり。かつては試し行動に疲れ果てていた育て親が『抱きしめると、ふわーっと体にもたれかかってきて、本当にかわいいんですう』と報告しに来たりもします」
 
 ――一方で、思春期に育て親との関係がこじれてしまう子も少なくないと聞きます。
 
 「血のつながりがあってもなくても、思春期は『第二の試し』の時期です。『私はそれなりに親に愛されてきたから、自信をもって世の中に出ていける』ということを確信するため、親にもう一度揺さぶりをかける。それまでの子育てで手抜きがあると、親子関係が壊れてしまうこともあります」
 
 ――家庭養護促進協会編の「親子になろう!」という本には、3歳の時に引き取った中学2年の娘に対する、母親の嘆きが紹介されていますね。「自己確立がなく、周囲とのトラブルが際限なく起こります。1歳なら1歳、2歳なら2歳の時に刷り込んでおかないといけないことは、後年になってどんなに努力しても、その子自身の血や肉にはならない」と。
 
 「生まれてからの3年分を取り戻すのは大変です。このケースでは、子どもが試し行動として赤ちゃん返りを起こしましたが、母親が十分応えられなかった。子どもは『この人なら自分を受け入れてくれるかも』という期待を裏切られた。思春期になり、その揺り返しが出たという見方もできます」
 
 ――親自身も、自分の親から受け入れられて育ったとは限らない。親に厳しすぎませんか。
 
 「確かに100%の親はいません。逆に『親のどこが悪かったんやろう』と私たちが首をひねるケースもあります。親が逃げようとしたり、自分を正当化したりすれば、子どもはますます反抗する」
 
 「子どもに『こうあって欲しい』と望み過ぎる親や、子どもが本当は何を求めているのか理解できない親は、子どもにとってしんどい。『お母さんは自分の中の弱さを認めてくれなかった。それがすごくつらかった』と、大人になってから話してくれた子もいました。だけどたいていの子どもたちは、親が子を見捨てさえしなければ、いつか親のところに戻ってくる。そう信じさせてくれる子どもたちを見てきました」
 
 ――なぜ、しんどい仕事を50年近くも続けているのですか。
 
(中略)
 
 「周囲に対して、バリアーを張っている強情な子がいる。そういう子がちらりと見せる笑顔や、ちょっとした時の目つきに、しびれるぐらいの魅力を感じます。その子の奥に何があるのか、私は見たい。人間が好きだし、人間がおもしろいからです」(聞き手・太田啓之)
 
     ◇
 
《家庭養護促進協会》 児童相談所と協力し、新しい家庭が必要な子どもに育て親を探し、縁組する「愛の手運動」を1962年から行う公益社団法人。縁組後の支援もする。大阪と神戸に事務所があり、大阪は毎日新聞、神戸は神戸新聞とラジオ関西で子どものプロフィルを紹介し、育て親のなり手を募集している。

オバマ大統領は1月12日、議会で一般教書演説を行いました――とはいうものの、「一般教書」とはなんでしょうか。
「教科書」なら知っていますが、「教書」なんていう言葉は、見たことも聞いたこともありません。
私は長年もやもやしていましたが、こんなことは検索すればすぐわかることです。
 
 
知恵蔵miniの解説
 
一般教書演説
米国大統領が連邦議会両院の議員に対して行う施政方針演説のこと。「教書」とは「国の状況についての報告及び政策提案」のことを言い、議会による特別な招待の下で、大統領が上下両院議員に対して教書を口頭で演説することが慣習化したもの。通常1月に行われ、「予算教書」「大統領経済報告(経済教書)」と合わせて三大教書と呼ばれる。179018日、初代大統領ジョージ・ワシントンが行ったのが初の一般教書演説で、第33代大統領ハリー・S・トルーマン以来、テレビ中継が行われるようになった。
 
 
要するに日本の「施政方針演説」に当たるもののようです。
とすれば、どうして「施政方針演説」と訳さないのでしょうか。
英語では「State of the Union Address」というのですが、「一般教書演説」は直訳ですらありません。わざわざわかりにくい言葉になっています。
 
大統領制のアメリカと議院内閣制の日本は違いますから、「施政方針演説」という言葉は使えないのでしょうか。それなら「年頭演説」でもいいはずです。
とにかく翻訳とか通訳は、わかるように訳すのが基本です。わからない言葉を持ち出してほしくありまぜん。
 
 
それから、アメリカには「国務長官」がいます。今の国務長官はジョン・ケリーで、その前はヒラリー・クリントンでした。
 
「国務長官」というぐらいですから、私は国のこと(内政)をする役職だと思っていました。国務長官が外交をしていることは知っていましたが、国のことをやりつつ外交もしているのだと思っていました。
 
しかし、アメリカの国務長官は実は外交を担当していて、ですから「外務長官」と呼ぶべきものなのです。
私は恥ずかしながら、このことを数年前に知りました。
 
ウィキペディアにはこう書いてあります。
 
 
アメリカ合衆国国務長官(アメリカがっしゅうこくこくむちょうかん、United States Secretary of State)は、アメリカ合衆国の外交を担当する閣僚。日本の外務大臣に相当する。
 
 
この場合は直訳です。「Foreign」という言葉がないので、「外務長官」とは訳しにくいかもしれません。
しかし、実質は外交担当なのですから、やはり「外務長官」と訳すべきだと思います。「国務長官」では私と同じに誤解している人も多いのではないでしょうか。
 
「一般教書演説」といい「国務長官」といい、わかるように訳すという基本ができていません。
どちらもアメリカの中枢に関する言葉です。
アメリカの中枢に関することは、日本人にわかりやすく訳す必要はない、日本人のほうが努力して理解するべきだという属国根性からきているのでなければ幸いです。

111日は各地で成人式が行われ、早くも成人式にまつわるトラブルがいろいろ報道されています。毎年“荒れた成人式”が問題になるのはどうしてでしょうか。
 
成人式が荒れるのは、式のあり方にも問題があるからではないかと思います。
たとえばこんなニュースがあります。
 
 
成人式「きちんとした服装で」奇抜な衣装に苦情
 
 
北九州市は成人式に参加する出席者に対し、「きちんとした服装」で参加するよう呼びかけを行ったというのです。
「きちんとした服装」の例として、男性はダークスーツ、女性は振り袖などが挙げられています。
 
奇抜な服装の出席者が多いためということですが、それにしても、自治体が主催する会合、それも全員参加が前提の会合に服装について要望するなどありえないことです。自治体主催の講演会とか、PTAの会合に服装を指定されることを考えてみればわかります。
つまり服装について要望するのは、新成人をまだ一人前の人間と認めていないわけです。
 
もっとも、厳粛であるべき成人式に奇抜な服装で参加する非常識な若者がいるのだから、服装を注意するのもしかたないのではないかという意見もあるでしょう。
 
しかし、成人式は厳粛であるべきというのは誰が決めたのでしょうか。
 
成人式が厳粛であってうれしいのは、壇上であいさつする市長とか市会議員とかの偉いさんです。みんながかしこまって聞いてくれるからです。
しかし、成人式の主役はそういう偉いさんなのでしょうか。
 
結婚式の主役は新郎新婦ですから、列席者は、男ならダークスーツ、女性も派手なドレスは避けます。
葬式も主役()は故人ですから、列席者はもっとも地味な服装です。
ノーベル賞などの授賞式では、もちろん主役は受賞者ですから、一般の列席者は失礼のないような服装でなければなりません。
 
もし成人式の主役が壇上であいさつする市長などの偉いさんであれば、新成人はダークスーツなどがいいことになります。
しかし、どう考えても、成人式の主役は新成人です。
だったら、どんな服装でもかまわないはずです。
 
 
成人式の主役が新成人であるとすると、今の成人式のあり方は根本的に間違っていることになります。
 
今の成人式は、若者に人気のある人の講演とかコンサートとかもあるようですが、基本は偉い人のあいさつとか訓示で、新成人は1人が代表として決意表明をするぐらいです。それ以外の新成人はじっと座って聞いているだけです。これでは偉い人のための式です。
正しい式のあり方は、旧成人は1人が代表として祝福の言葉を述べるぐらいで、あと壇上に上がるのは新成人ばかりでよいはずです。
いや、そもそも主役のほとんどがじっと観客席に座っているというのはどうなのでしょうか。
 
ほとんどの参加者は、式そのものには期待せず、式のあと久しぶりに友だちと会って、いっしょに遊びにいくことに期待しているのではないでしょうか。
それならば、式そのものをパーティ形式にすればいいのです。
 
会社の創立記念式典とか文学賞の授与式とかは、たいていパーティ形式で、壇上のあいさつなどは短時間で切り上げて、あとは飲み食いしながらの「歓談の時間」になります。
成人式も、会費を徴収して、パーティ形式にすればいいのです(会費を払いたくないという人のために従来型の成人式も同時にやる必要があるでしょうが)
 
新成人が酒を飲むと、いろいろとトラブルが起きるでしょうが、それもおとなへのステップです。
盛装してパーティに出るという経験は、若い人にとってそれ自体価値があるはずです。
 
とにかく、壇上の偉い人の訓示に価値のあるものなどひとつもないと断言できます。
各自治体は、新成人にとって価値ある成人式を企画するべきです。

世の中にはクチャクチャと音を立ててものを食べる人がいて、たいへんいやがられています。そういう人をクチャラーというのだそうです。「クチャクチャ食べ」で検索すると、恋人が立てるクチャクチャ音に悩む人、子どものクチャクチャ食べをどうして直せばいいのかと相談する人など、深刻な声がいっぱいです。
 
食事のときに、音を立ててスープを飲むとか、ナイフとフォークをカチャカチャさせるとか、音を立てるのはマナー違反です。とくに生理的な音はいやがられますから、クチャクチャと音を立てるのはよくないに決まっています。
 
しかし、ものを咀嚼するときに音が出るのは避けられません。誰もが音を出しているはずです。
クチャクチャ音を気にするほうに問題があるということも考えられます。
 
 
私は中学生のころ、父親が口にいっぱい食べ物を頬張って、クチャクチャと大きな音を立てているのがひじょうに気になったことがありました。そのとき、あまりに不快だったので、自分の不快感をしげしげと観察してしまったほどです。
そして、自分の感覚に問題があるのかもしれないとも思いました。父親が食べ物をいっぱいに頬張るのはいつものことですが、それまでそれを不快に思ったことはないからです。
 
結局、父親のクチャクチャ音が気になったのはその一度と、あと一度あったかどうかぐらいでした。
 
そして、やはり中学生のころ、1歳年上の兄が、いったいなにを食べていたのかよくわからないのですが、ポクポクと音を立てながら食べるのがひじょうに気になったことがありました。口を閉じて勢いよく咀嚼しているので、ポクポクという音がしたのです。
そのときもたいへんな不快感がして、もしいつもこんな不快感がするなら、これから先、兄といっしょに暮していけるか不安に思ったものです。たいていいっしょに食事していたからです。
 
もっとも、不快に思ったのはそのときぐらいで、そのあととくに不快に思うことはありませんでした。
 
ちなみに家には母親もいましたが、私は母親の食べる音を不快に思ったことはありません。
 
結局、私の場合、咀嚼音を不快に思ったのは、父親と兄だけで、それも一時的なものでした。
一時的なものですから、食べ方の問題ではなく(食べ方はいつも同じはずです)、私自身の感じ方の問題だと思いました。
 
友人や職場の人などと食事をともにする機会もいっぱいありましたが、とくにクチャクチャ食べが気になったということはありません。
ラーメン屋や牛丼屋のカウンターで、隣の人の食べる音が気になったこともありません。近いだけに大きな音がしているはずですが。
 
家族間の複雑な感情が咀嚼音に対する不快感という形で現れたのだと、私自身は結論づけていたのですが、クチャクチャ食べについて語る人はみんな食べ方の問題だと思っていて、中には「食べ方を直接注意したら直った」ということを言う人もいますから、今ひとつ自分の考えに自信が持てませんでした。
 
そうしたところ、明快に結論づけている記事を見つけました。
 
 
食事中の「くちゃくちゃ」、気にしすぎは病気か
 
 米カンザス州ミッションヒルズ在住のクリスティン・ロビンソンさん(49)は、夫のロバートさん(53)との夫婦水入らずでのディナーを楽しみにしていた。彼女は野菜のピザを焼き、カベルネのワインボトルの栓を開け、キャンドルをともした。
 
 夫はワインを一口すすり、口の中で回して味わった。その後、バリバリと音をさせながら、ピザをほおばった。「生地のパリパリという音、ピザのトッピングをかむ音、ワインをすする音、それが(その後の夫婦げんかの)原因だった」。妻クリスティンさんはそう述懐する。
 
 クリスティンさんはすっくと席を立ち、クラシック音楽をかけた。しかし、それでも夫のかむ音がなお聞こえ、音量を上げたが、それでもダメだった。そこで夫にこう頼んだ。「お願いだから、ゆったりして食事を楽しみましょう」。
 
 すると、夫は「申し訳ないけれど、そんなに気になるのなら、同じ部屋にはいられないね」と言い返し、部屋をすっと出て行った。
 
 食事中に他人が出す音に耐えられないとき、その人が口を閉じてかむべきなのだろうか。それとも、口を閉じて我慢すべきなのは、あなたのほうだろうか。
 
 専門家たちは、あなた方が我慢すべきだと指摘する。
 
 確かにマナーの悪い人は存在する。しかし、気になるからと言って、他人の食べ方を変えさせることはできない。
 
 特定の音を極端に嫌う人は、いわゆる「ミソフォニア(音嫌悪症)」に悩まされている。何かをかむ音や唇を鳴らす音など「口から出る音」を嫌う人が最も多いが、貧乏揺すりの音、ペンをカチカチ鳴らす音、鼻をすする音などを嫌がる人もいる。日常生活で一部の音を不快に思う人は少なくないが、音に過敏なことで生活に支障が出ている音嫌悪症の人は、人口の20%に上る可能性があると専門家は指摘する。
 
 これを精神疾患として扱うべきか否かについては、医師たちの間で現在議論が交わされている。音嫌悪症を扱ったドキュメンタリー映画「Quiet Please...(原題)」は来年夏に公開される。
 
 201410月に医学誌「Journalof Clinical Psychology」に掲載された483人を対象にした研究論文によると、音嫌悪症に悩まされる人々は、生活に最も大きな支障が出ている要因として、職場や学校での食事の際に出る音に自分たちが敏感なことを挙げている。家族との食事の際はそこまでは敏感にならないという。
 
 研究では、音嫌悪症に悩む人に不安症、強迫神経症ないしうつの症状がしばしばみられることが判明した。だが、それらと音嫌悪症の因果関係は分からないと研究チームは指摘している。専門家は音嫌悪症の原因の1つとして、脳の聴覚系、辺縁系、自律神経系間の神経結合の高まりにあるかもしれないと論じている。
 
 中には、ポップコーンを食べる音が気になるために劇場で映画を見られない人、ガムをかむ音が気になるために店で列に並べない人や、スープ類が出された時は家族のそばにいられない人もいる。どの食べ物、どの食事、どの人が最も嫌な音を出すかについての見方は、人によって異なる。
 
 冒頭に紹介したクリスティンさんは、夫の食事の音に耐えられないと最初に気付いたのは20年前だった。当時、2人はデートを重ねる間柄で、より静かな自宅で食事する機会が増え始めていた。
 
 クリスティンさんは長い時間をかけて、あらゆる対処法を試した。ジャズ音楽をかける、ヘッドホンをする、自宅でシリアルを禁止する、家族で朝食を抜く、耳をふさいで「ラララ」と口ずさむ、部屋を出る、などだ。彼女は何年もの間に何百回もの食事を逸してきたと推測する。それでも、いまだにかじる音やすする音で家族ともめる。娘の1人も今では、かむ音に極めて敏感だという。
 
 クリスティンさんは、夫だけでなく、他の人のかむ音にも悩まされている。医師から診断を受けたわけでないが、音嫌悪症であることは自覚しており、自分だけが悩んでいるわけではないと知って心が軽くなったと話している。
 
 冒頭のディナーで、怒った夫が出ていった時、彼女は後を追いかけ、またしてもこう言った。「悪いのはあなたではなく、わたしの方だ」と。
 
 一方、夫のロバートさんは「障害がある人と生活しているようなものだと思っている。家族と充実した時間を過ごしたいのであれば、わたしがそれに配慮しなければならない」と話した。
 
 専門家たちの意見ははっきりしている。音をうるさく思う人が変わる必要のある人で、対応法を学ぶ必要のある人だ。
 
 
明快というか、ちょっと一方的すぎるかもしれません。多少は食べ方の問題もあるはずです。食べ方2割、感じ方8割というところでしょうか。
 
ネットを見ると、子どものクチャクチャ食べを直そうとして何年も注意し続けているという母親がいたりします。これは注意するほうもされるほうも不幸です。このお母さんは子どもではなく自分を直すべきなのです。

音を立てずに咀嚼することはできません。自分だってクチャクチャという音を立てているに違いないのです。
 
「汝自身を知れ」ということのたいせつさを改めて思います。

1月4日の株式市場は日経平均600円近く下げ、波乱の船出となりました。
これまでアベノミクスで株価は順調に上がってきましたが、そろそろ反転するかもしれません――などと私が経済予測を語っても、まったく説得力がありません。
ただ、デフレ脱却の成否については、経済指標ではなく要人の発言から自分なりに見通しています。
 

安倍首相は1月4日の年頭記者会見で、「デフレではないという状況を作り出すことができたが、残念ながら道半ばだ」「デフレ脱却というところまで来ていないのも事実」などと語っています。

丸3年やってきて、まだデフレ脱却ができていないのです。
 
では、黒田東彦日銀総裁はどういう認識かというと、昨年6月にこんな発言をしています。
 
 
日銀総裁、心はピーターパン?「疑えば永遠に飛べない」
 
「飛べるかどうかを疑った瞬間に永遠に飛べなくなってしまう」――。日本銀行の黒田東彦総裁は4日、都内で開いた日銀主催の国際会議で、ピーターパンの物語に出てくる言葉を引き、物価や景気が思い通りでなくても、世界の中央銀行が「前向きな姿勢と確信」をもって政策を進める重要性を呼びかけた。
 
 会議には世界の中央銀行関係者が出席した。黒田総裁は、大量に市場に資金供給をする量的緩和などを各国で続けていても景気回復が緩やかで、かじ取りが難しいことを指摘。「ピーターパン」を持ち出し、課題の克服を訴えた。
 
 日銀が目指す前年比2%の物価上昇率も、2016年度前半ごろまでは実現が難しいと日銀自身が認める。だが、人々に「物価が上がる」と思ってもらうことが重要だとして、黒田総裁は強気なメッセージを出し続け、政策への信頼をつなぎとめようとしてきた。
 
 2月27日の講演では、「ロケット」が登場。「強力な地球の引力圏から離れる時のように、大きな推進力が必要だ」と、デフレからの脱却には2%の物価上昇を早期に実現することが重要だと強調した。
 
 追加の金融緩和をした直後の昨年11月にあった講演では緩和策を「薬」に例え、「デフレという慢性疾患を完全に克服するため、薬は最後までしっかりと飲み切る必要がある。中途半端な治療はかえって病状をこじらせる」と追加の意義を強調した。(福田直之)
 
 
ピーターパンが空を飛べるのは、ティンカー・ベルの魔法の力と、それを信じる心によるということになっています。
 
これは単におもしろいたとえ話かと思っていたら、昨年1219日の日経新聞ではこう書かれていました。
 
 
日銀の政策決定会合内にも木内登英審議委員を筆頭に、「2%にこだわるべきではない」との意見が台頭してきた。対する黒田総裁は「ここで目標を下ろしたらデフレの引力に負けてしまう」との考えを変えていない。
 
 
「デフレの引力」という言葉が出てきます。
「デフレの圧力」とか「デフレの罠」とか、ほかの言い方もあったはずですが、「引力」という言葉を使ったのは、ピーターパンのたとえとつながっています。
 
黒田総裁がほんとうにデフレ脱却に自信があったら、「引力」という言葉は逆の意味で使うはずです。
たとえば、「今の政策を続けていけば、いずれリンゴは木から落ちるだろう」といった具合です。
あるいは、記者から「デフレ脱却の兆しはまったくないではないか」と責められたら、「それでも地球は回っている」をもじって、「それでもデフレは脱却する」と言えばいいわけです。
 
ピーターパンのたとえは、黒田総裁自身がデフレ脱却を信じていない証拠です。
 
もっとも、黒田総裁はみんながピーターパンになればバブルが起きて、デフレ脱却ができると思っているのかもしれません。
しかし、日本人はバブル崩壊の記憶がまだ鮮明なので、バブルに踊るということはないでしょう。外国人が日本株を買ってくるときは、つねに日本の個人投資家が売りに回っているのが実情です。
 
そもそも3年やってだめなものは、4年やっても5年やってもだめでしょう。
 
ところで、私が今年は株価が反転するのではないかと予測するのは、アメリカが利上げして金融引き締めに転じたからです。
予測としてはありきたりです。ありきたりの予測はたいてい当たらないものです。

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