村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2016年03月

この3月末で「らい予防法」廃止から20年になるそうですが、ハンセン病への差別というのは実にひどいものでした。今でもなくなったとはいえません。
 
しかし、ハンセン病差別が昔からあったかというと、そうではありません。
司馬遼太郎の小説を読んで知ったのですが、関ケ原の戦いで西軍の側で戦い、名将とされた大谷吉継はハンセン病を患っていて、関ケ原の戦いの際は頭巾をかぶって顔を隠し、部下の担ぐ御輿に乗って指揮をとったそうです。
ということは、部下たちは普通に大谷吉継と接していたのです。
 
ハンセン病はきわめて感染力が低く、進行も遅いので、当時は遺伝病と信じられていたそうです。隔離という発想がないのは当然です。
 
ハンセン病患者を隔離するという考え方は欧米から入ってきたものです。
厚生労働省の「わたしたちにできること~ハンセン病を知り、差別や偏見をなくそう~」というサイトにはこう書かれています。
 
 
明治になり、諸外国から文明国として患者を放置しているとの非難をあびると、政府は1907年(明治40年)、「癩予防に関する件」という法律を制定し、「放浪癩」を療養所に入所させ、一般社会から隔離してしまいました。この法律は患者救済も図ろうとするものでしたが、これによりハンセン病は伝染力が強いという間違った考えが広まり、偏見を大きくしたといわれています。
 
 
この文章は、まるで官僚に責任がないかのような書き方になっています。
 
『「らい病」と私たち』というキリスト教系のサイトにはこう書かれています。
 
 
一九〇七年 「癩(らい)予防ニ関スル件」制定
 
  患者が、全く治療されずに放浪したり、物乞いをしたりしているのを、欧米人から非難された明治政府は、近代国家としての体面を取繕うため、患者を収容して隔離することにしました。そのために制定された法律がこれです。
  実は、これより十年も前に開かれた「第一回らい学会」で、患者の隔離は特別の場合以外は必要ないとされていました。しかし、その意見は取り入れられずに法律は制定され、それに基づいて、放浪している患者の収容は強制的に行なわれました。およそ人間として扱っているとは思えないような方法がとられました。
 
 一九〇九年 公立療養所の設立
 
  患者の隔離施設がこの療養所です。青森、東京、大阪、香川、熊本の五ヶ所に作られました。医学的には、伝染力は弱いことは知られていたにもかかわらず、「らい病」は伝染する恐ろしい病気だと宣伝され、患者の収容が行われました。患者がいた家や触った物などは、徹底的に消毒されました。療養所内の患者の生活は、何の自由も認められず、殆ど囚人と同じ扱いでした。逃亡を防ぐため、療養所内でしか通用しない通貨を持たされたり、縞模様の服が支給されたりしました。
  このように、従来の遺伝病という迷信に加え、強い伝染病という誤った情報によって、ハンセン病に対する偏見と差別意識は日本社会に定着していきました。
 
 
日本に差別思想を植えつけたのは今の厚生労働省(昔は内務省衛生局)の官僚なのです。
彼らは欧米の学問や文化を学ぶときに、いっしょに差別思想も学んでしまったのです。
 
欧米でハンセン病差別が強かったのは、新約聖書で「レプラ」という言葉がライ病と解釈されたこともひとつの原因のようです(実際はレプラという言葉は皮膚病の総称だったと『「らい病」と私たち』には書かれています)

日本は欧米の優れた文化を学ぶことで進歩してきましたが、なんでも学べばいいというものではありません。

ちなみに欧米ではイスラム教差別も強烈です。そのため世界では戦争やテロが絶えません。

3月22日、ベルギーの空港と地下鉄で同時テロがあり、少なくとも34人が死亡しました。
マスコミは例によって盛大な差別報道をしています。朝日新聞は25日の朝刊もこの事件が一面トップでしたが、「地下鉄駅での爆発に関与したとみられる新たな容疑者が浮上した」というたいしたことのない内容です。
 
ベルギーのテロの3日前である19日にはトルコのイスタンブールで自爆テロがあり、4人が死亡し、その前の13日にはやはり自爆テロで37人が死亡しています。そのときの報道はある程度大きいものでしたが、あと追いの報道は、犯人はクルド系組織かISかといったものだけでした。
そもそもトルコではこの半年にテロで亡くなった人が180人以上になると毎日新聞が伝えています。
 
トルコ
自爆テロ、半年で4回 死者は計180人以上
 
トルコでのテロはあまり報道せず、ベルギーでのテロは大きく報道するというのは、どういうことでしょうか。人の命の価値に違いはないはずです。
 
20151113日にパリで同時多発テロがあり130人が死亡したときは大きく報道され、フェイスブックは顔写真のアイコンをトリコロールに変えられるサービスをするなどして、世界的に犠牲者を悼む声があふれました。しかし、その前日にはレバノンのベイルートで43人が死亡する連続自爆テロが起きていたのですが、こちらはほとんど顧みられませんでした。このときは「フランス人の命はレバノン人の命よりも重要なのか」という指摘があって、けっこう議論になりました。
そのときの教訓が今回に生かされたかというと、そんなことはぜんぜんありませんでした。
 
もっとも、人々の関心が文明の進んだ国に向かいがちなのも事実です。アフリカのどこかの国で何十万人も餓死者が出ているといったことは、小さなニュースにしかなりません。
 
ただ、トルコはそんなに遅れた国ではありませんし、日本とは関係が深く、安倍首相も二次政権になってから2度も訪問しています。海外旅行先としても人気です。
それなのに日本のメディアがベルギーと差をつけるのはどうしてかというと、やはり欧米の文化を崇める気持ちがあるからでしょう。欧米コンプレックスという言い方もできます。
 
これはメディアだけではなく日本人全体の問題です。日本人は明治維新以来、欧米からさまざまなことを学んできましたが、そのときに人種差別、イスラム教差別も学んでしまったのです。
 
欧米における人種差別、イスラム教差別はひじょうに根深く、これこそがテロを生む原因です。
ベルギーを含む有志連合はISへの空爆を続けてきましたが、ISの戦闘員やイラク人、シリア人の民間人を殺すことをなんとも思っていないようです。これが差別意識です。
 
しかし、相手は人間ですから、やられっぱなしでいるわけはなく、報復してくるのは当然です。報復されて、あわてふためいているのはおかしなことです。
 
そもそもはイスラエルが独立を宣言したとき、アメリカなどが支援したのも、そこに住んでいたパレスチナ人などを人間と見なしていなかったからでしょう(アメリカとしては先住民を追い払って建国した歴史の繰り返しです)。
そのときから欧米キリスト教諸国が中東のイスラム教徒を迫害するという構図が始まり、軍事力でアメリカやイスラエルに勝てないイスラム教徒はテロを手段にするようになったわけです。
 
最近は自爆テロが当たり前になっています。死ぬ覚悟の人間を止める方法があるとは思えません。今のテロ対策はみんなごまかしです。
テロの原因となっている人種差別、イスラム教差別をなくすしかありません。
 
安倍首相はベルギー同時テロについて、「いかなる理由があろうとも断じてテロは許されない。日本と価値を共有するベルギー、欧州連合が困難に直面している今、強い連帯を表明する」と発言しました。
「日本と価値を共有する」とは、まるで人種差別、イスラム教差別を共有しているみたいです。
欧米に追随するだけでは世界になんの貢献もできません。

ショーンKことショーン・マクアードル川上(川上伸一郎)氏の学歴詐称が大きな騒ぎになっています。
 
私はショーンK氏のことを、報道ステーションにコメンテーターとして出演するようになって初めて知り、あまりのイケメンぶりにびっくりしました。テレビに出る文化人としてはイケメン・ナンバーワンではないでしょうか。
 
で、どんなコメントをするのかと注目しましたが、感心するようなコメントや記憶に残るようなコメントはまったくありませんでした。
ですから、ショーンK氏は世の中に対する影響力もないし、たいして重要な人物とも思えません。
 
それなのに、学歴詐称で大騒ぎになっています。私はショーンK氏のことよりも、騒いでいる人たちの心理のほうが気になります。
 
 
どうしてみんなが騒ぐのかというと、ひとつは「男の嫉妬」からでしょう。
 
ショーンK氏がコメント力や専門知識で実力を示していれば、学歴詐称があってもある程度許されたかもしれません。
たいして実力もないのに報道ステーションに出演しているのは、やはりイケメンだからでしょう。
美人で男から好かれるタイプの女性は、男社会ではなにかと有利ですから、こういう女性に同性から向けられるのが「女の嫉妬」です。
最近は男でもイケメンがもてはやされるので、「男の嫉妬」が出てきて当然です。
 
それからもうひとつに、「外人コンプレックス」という問題があります。
 
「外人」という言葉は、とくに欧米系の外国人のことを指します。アジア系の外国人は「外人」とはいいません。
日本人は欧米人に劣等感を抱き、アジア人、とくに中国人と韓国人に優越感を抱いています。これは日本人においてひじょうに根深い問題で、対米追随外交や慰安婦問題もみんなここからきています。
しかし、どうも自覚していない人が多いようです。
 
ショーンK氏は、実際の父親は日本人ではないのでハーフだと主張しているようですが、欧米系の名前(芸名)、ハーフっぽい顔、そしてハーバード大学でMBA取得といった「学歴」によってみごとに日本人の「外人コンプレックス」にはまり込みました。多くの日本人は「外人」風のショーンK氏にひれ伏したのです。まるで水戸黄門の印籠にひれ伏すみたいなものです。
本名の川上伸一郎だとこうはいかなかったでしょう。
 
で、そうした「学歴」や欧米風の名前や顔つきなどがみんな偽物だとわかると、それまでひれ伏していた分、ショーンK氏への怒りが強まったというわけです。
 
今回のことは、「男の嫉妬」はともかく、「外人コンプレックス」について自覚を深めるいい機会ではないかと思います。

囲碁を打つ人工知能AlphaGoと韓国のイ・セドル九段の対決は、AlphaGoの4勝1敗となり、人工知能の強さが世間を驚かせました。
 
その対局の棋譜は、三村智保九段の解説つきのものがこちらで見られます。
 
三村囲碁jp
AlphaGO

 
実は私は囲碁がかなり強く、私の数少ない自慢のひとつです。大学時代は囲碁部に所属し、全国大会でベスト8に入ったこともあります。
 
私が見たところ(誰が見ても同じですが)AlphaGoのほうがイ・セドル九段よりはっきり強いです。4勝1敗というスコアがちょうど実力差を表しています。
そのAlphaGoの負けた一局も、AlphaGoが優勢な局面でイ・セドル九段が妙手を放ち、そのとたんにAlphaGoがまるで初心者みたいなおかしな手を連発して自滅するという負け方でした。つまりAlphaGoの欠陥が出たのです。ということは、その欠陥を修正してくると、もう人間は勝てなくなるかもしれません。
いや、AlphaGoは自己対戦を繰り返しながら学習するということですから、次は確実に今より強くなっているはずです。
 
第2局について三村九段はこんな感想を書いています。

 
2局も勝ったのはコンピューターだった。
 
黒番のAlphaGoは大胆な布石を見せた。明らかに損だと思える手がいくつもあった。
 
「それはダメでしょう?」と呆れさせるような。しかし進むに連れて評価を変えなくてはならなかった。
途中まではそう思えないのに、局面が進む程にAlphaGoの勝利が不動である事を思い知らされる。
 
これは、始めから最後までプログラムの打ち手が優れている為なのか、前半は下手だが後半があまりに上手いせいでそうなるのか、私の棋力では判断しかねる。
 
世界最強棋士達の研究と発表を待ちたい。
 
 
1局よりもこの敗戦のインパクトは大きい。AlphaGoが既に人間の棋力を凌駕している可能性を私は感じた。
 
1手ごとに見れば理解不能で良さが感じられないが、結果が優れている。これはつまりそういう事では無いか。
 
 
呉清源九段は囲碁界に革命を起こした天才棋士ですが、当時は不利とされていた定石を繰り返し打ちました。そして、その碁をことごとく勝ったので、やがてその定石は逆に相手が不利だと価値観が変わりました。AlphaGoは当時の呉清源九段を思わせます。
 
 
AlphaGoをつくったグーグルのスタッフの囲碁の腕前はどれくらいかというと、よく知りませんが、せいぜいアマチュアの強豪というところでしょう。つまり「出藍の誉れ」というか「トンビが鷹を生んだ」という格好です。
ということは、人工知能が人間以上の存在になって、人間を支配するとか滅ぼすということもあるかもしれません。ホーキング博士がその危険性を指摘しています。
 
人工知能が人間よりも優秀になっても、人間を支配したり滅ぼしたりしないようにプログラミングしておけばいいのですが、それをするには、人間が人間のことを正しく認識していなければなりません。
ところが、人間は人間のことをほとんど知らないのです。
 
「鉄腕アトム」でスカンク草井なる登場人物がこんなセリフを言います。
 
「アトムは完全ではないぜ。なぜなら悪い心を持たねぇからな」
 
人間と同じ心を持つロボットをつくろうとすれば、「悪」も組み込んでおかなければなりませんが、人間は「悪」を正しく認識していないので、それはできません。
しかし、人間がやらなくても、人工知能が勝手に「悪」を学習して、取り込んでしまうということがあるかもしれません。
 
AlphaGoにはディープラーニングという技術が採用されていますが、「NHKニュースWEB」によると、ディープラーニングとはこのようなものです。
 
ディープラーニングでは、あらかじめ「問題」と「正しい答え」をコンピューターに入力して学習を行います。しかし、その問題の「解き方」については入力しません。その部分はコンピューター自身に考えさせるのです。そうすることでコンピューターの内部にあるネットワークは、正しい答えにたどり着く経路が強化され、逆に間違った経路は弱まっていくことが分かったのです。
 これは人間の脳が学習していく仕組みに非常によく似ていると考えられています。これがディープラーニングと呼ばれている技術です。
 そして、学習量を増やせば増やすほど、コンピューターは、より難しい問題にも正解を出す能力が備わっていきます。より「賢い」人工知能ができあがるのです。もちろん、これはものすごく単純化した説明です。実際には、まだまだ解明されていない部分も多くあります。
 
人工知能が人間の行動を学習するうちに、当然「悪」についても学習するはずです。そうすると、人間の「悪」と人工知能の「悪」がぶつかり合うことになります。
人間は「悪」を正しく認識していないので、その事態を制御することができません。
ホーキング博士の心配はもっともです。
 
 
ところで、人間はなぜ「悪」を正しく認識することができないのでしょうか。
それは、自分の中に「悪」があることを認めないからです。
「相手が悪い。自分は正しい」というのが、ほとんどの人間の認識です。私はこれを「天動説的倫理学」と呼んでいます。
こういう認識ですから、戦争も夫婦喧嘩も止められません。
そこに人工知能も参入してくるわけです。
そうなる前に「天動説的倫理学」から「地動説的倫理学」へとコペルニクス的転回をしなければなりません。

卒業式と入学式の季節になると国旗国歌について議論が起きますが、この問題については馳浩文科相がおもしろいことを言っています。
 
岐阜大学が卒業式などで国歌斉唱をしない方針を表明したことについて、馳文科相は「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と言いました。
つまり国歌斉唱をするべき理由を「恥ずかしい」という個人的な感覚で説明したのです。
 
馳文科相はこの2日後、また同じ問題について、「国費も投入されている。日本社会のすべての方々に感謝の気持ちを表現する場合に、儀礼的な側面を重要視する必要がある」と言いました。どうやら「恥ずかしい」と言ったことを反省して、言い直したものと思われます。
 
しかし、「感謝の気持ち」や「儀礼的な側面」を持ち出しても、国歌斉唱をしなければならない理由にはなりません。
 
だいたい税金を投入しているから感謝の気持ちを表現しろというのは、とんでもない理屈です。
税金を投入するのは投入するべき理由があるからですし、それを受けるのは納税者として当然の権利です。そこに「感謝」など入ってくるわけがありません。
 
また、「儀礼的な側面」というのが問題です。
人が人に対しておじぎをするのは礼儀ですが、モノやシンボルに対しておじぎをするのは果たして礼儀でしょうか。
 
日本で国旗国歌への崇拝が強制的に行われるようになったのは、第一次近衛内閣が1937年から始めた「国民精神総動員」運動においてです。このときは「国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遥拝」が3点セットになっていました。
宮城におられる天皇陛下は現人神ですから、これは明らかに宗教行為です(国家神道)。イスラム教徒がメッカの方向に礼拝するのと同じです。
 
今、学校で強制されているのは国旗掲揚と国歌斉唱だけです。宮城遥拝はさすがに宗教色が強すぎるので省かれているのでしょう。しかし、基本精神は昔と同じです。
馳文科相がうまく説明できないのも当然です。
 
外国人のいるとき、外国旗に礼をして外国に敬意を表するというのは意味のある行為ですし、国際試合などで国旗国歌を使って雰囲気を盛り上げるというのも意味がありますが、日本人しかいないところで国旗におじぎをして、直立不動で国歌を歌うことにはなんの意味もありません。
こういうむなしい行為を強いられるのは、普通の人間にとっては苦痛です。
 
宗教系の学校で、生徒に校門や校舎に対してお辞儀をさせているところがありますが、公立学校で同じことをさせたら問題になるでしょう。国旗国歌への崇拝も同じことです。
 
学校における国旗国歌の崇拝は宗教行為だと見なすとよく理解できると思います。
 当然これは憲法違反です。
少なくとも合理的行為でないことは明らかです。公立学校はもっぱら税金で運営されているのですから、不合理で無意味な行為は許されません。

昨年8月に東京都中野区のマンションで劇団員の加賀谷理沙さんが殺害された事件で、警察は3月12日、戸倉高広容疑者を逮捕しました。加賀谷さんの遺体から検出された男性のDNA型と戸倉容疑者のものが一致したということです。
しかし、戸倉容疑者は容疑を否認しており、戸倉容疑者の実家への家宅捜索でも証拠品は発見されていません。今のところDNA型の一致が唯一の証拠です(14日の昼ごろになって、戸倉容疑者が「私が殺しました」と容疑を認めたというニュースがありました)。
 
警察はどうして戸倉容疑者のDNAを入手したのかというと、戸倉容疑者が「任意提出」したのだということです。
戸倉容疑者がもし犯人なら、どうして「任意提出」したのか不思議です。
いや、「任意提出」していたのは戸倉容疑者だけではありませんでした。
 
 
東京・中野の女性殺害
容疑者逮捕 1000人のDNA型捜査 任意提出受け照合
 
 東京都中野区の自宅マンションで劇団員、加賀谷理沙さん(当時25歳)が殺害された事件は、発生から半年以上が過ぎ、急展開した。警視庁中野署捜査本部は、事件当時近所に住んでいた戸倉高広容疑者(37)を殺人容疑で逮捕した。加賀谷さんの遺体からは男性のDNA型が検出されており、捜査本部は、加賀谷さんの近所にいた住民や知人らのDNA型の任意提出を受けて照合したところ、戸倉容疑者のものが一致した。これまでに任意提出を受けたのは約1000人に上るという。【山崎征克、神保圭作、深津誠】
 
 
 事件は昨年8月26日夜に発覚した。自宅玄関付近で見つかった加賀谷さんの顔にはタオルケットがかけられ、衣服を身に着けていなかった。また、加賀谷さんが直前まで着ていたワンピースや布団カバーなど十数点がなくなっていた一方、携帯電話はそのまま残されていた。
 
 現場付近は防犯カメラが少なく、目撃情報も乏しかった。捜査関係者によると、事件直後に現場付近から行方が分からなくなった人物などが捜査線上に浮上したが、いずれも容疑者ではなかった。「犯人の動機が分からないことがこの事件の難しさ」。そうつぶやく捜査幹部もいた。
 
 最大の手がかりは、加賀谷さんの遺体に残されていたDNA型だった。捜査本部は知人らからDNA型の任意提出を受けるなど「つぶしの捜査」を地道に進めた。捜査の過程で、戸倉容疑者が事件後に転居していたことをつかみ、任意提出を求めたのが2月中旬。DNA型が一致することが判明したのは、逮捕の数日前だったという。
(後略)
 
 
要するに捜査当局は、被害者の関係者や近所の人からしらみつぶしに「任意提出」させていたのです。
その中の戸倉容疑者のものが一致したので逮捕したということのようです。
 
もし戸倉容疑者が犯人なら、「任意提出」は絶対拒むはずです。結果的に提出したというのは、警察のプレッシャーがよほど強烈だったのでしょう(もし戸倉容疑者が犯人でなくて、警察のDNA鑑定がでたらめだとすると、それも恐ろしい話です)
 
DNA検査というのは、綿棒を使って口腔内の粘膜から細胞を採取するというのが一般的なやり方のようです(唾液そのものには細胞がなく、毛髪はすり替えが可能なので)
 
千人もの人が検査に応じたというのは驚きです。戸倉容疑者まで応じたくらいですから、警察はよほど断れない雰囲気で迫ってきたのでしょう。
マスコミはぜひ、「任意提出」した人たちに取材して、警察のやり方はどんなものだったのか報道してほしいものです。
 
警察のやり方がまったく批判されないのは不思議です。
このやり方が許されるなら、事件現場に犯人の指紋が残されたとき、関係者や近所の人から指紋を「任意提出」させるということも行われるようになります。
そして、それらのDNAや指紋がその事件の捜査にだけ使われるならまだしも、警察にデータとして残され、ことあるごとに“活用”される恐れもあります。
やがて全国民のDNAと指紋を採取してデータベース化し、捜査に役立てようという議論も出てくるかもしれません。
 
私がこのようなことを言うと、「捜査に役立つならいいではないか。反対する者は自分が犯罪をするつもりなのか」と反論する人がいるかもしれません。そういう人は“警察性善説”や“権力性善説”を信じているのでしょう。
個々の犯罪も恐ろしいですが、警察全体が犯罪組織化することはその千倍は恐ろしいといえます。
 
とりあえずマスコミには、「任意提出」がどのように行われたのか、「任意提出」した人はどんな気持ちだったのかを報道してもらいたいものです。

震災から5年がたちましたが、死者、行方不明者約2万人という重みはなかなか受け止めきれません。原発事故も継続中です。そんな中で原発が稼働しているのはなんとも奇妙なことです。
 
政府主催の追悼式で天皇陛下の述べられたお言葉の中にこんなくだりがあります。
 
日本は美しい自然に恵まれていますが、その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし、国民皆が防災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。
 
このお言葉が反原発を意味するとは必ずしも言えませんが、少なくとも原発稼働が「より安全な国土が築かれていくこと」に反することは明らかです。
 
 
高浜原発は大津地裁により運転差し止めの仮処分がくだされましたが、おそらく上級審でひっくり返されるでしょう。原発稼働は「国策」で、司法当局は「国策」を推進する側ですから。
 
「国策」を決めるのは誰でしょうか。ネットで検索していたら、
「国が一度やろうと思ったことは、戦争もダムも必ずやる」
という言葉を見つけました。60歳になってから初めてカメラを手にして、ダムで沈む予定の岐阜県徳山村を撮り続けて「カメラばあちゃん」と呼ばれた増山たづ子さんの写真集にある言葉です。
「戦争もダムも」に「原発も」という言葉をつけ加えてもいいでしょう。
 
「国策」ですから、時の政権や内閣や与党が決めそうなものですが、そうではありません。「国策」は「政」ではなく「官」が決めるのです。
 
あの十五年戦争は、政党内閣ではなく軍官僚が勝手に始めて、どんどん暴走していったものです。
 
ダム建設については、「コンクリートから人へ」を掲げる民主党政権が止めようとして、八ッ場ダムを巡って国交省とバトルを繰り広げましたが、結局民主党政権が敗れました。
 
私はそれを見て、この国の真の支配者は誰かわかった気がしました。
ただ、わからない人も多いでしょう。マスコミも官僚と利益共同体なので、官僚が内閣の方針に従わないことの異常さを指摘しないからです。
 
 
明治政府は最初、元勲たちが郷里の人間を取り立ててつくったので藩閥政府と呼ばれました。その後、帝国大学を出た人間がどんどん政府に入ってきましたが、彼らはなにしろ優秀で、欧米の学問や行政のノウハウを学んでおり、さらに天皇の権威を利用して(とくに統帥権)、政府における主導権を握りました。政治家は彼らに太刀打ちできません。
 
そのときからずっと日本は官僚の支配する国です。
戦後、昭和天皇がマッカーサーとバトンタッチし、官僚の利用するのが天皇からアメリカに変わっただけです。
 
官僚には思想や目標があるわけではなく、ただ自分たちの利権を第一に行動しているだけです。司令塔もなく、つかみどころがありません。
 
ただ、先兵としての役割を担っているのが検察であり裁判所です。
アメリカの意に反して独自の外交をした田中角栄首相、外務省で権勢をふるった鈴木宗男議員、原発稼働を認めなかった佐藤栄佐久福島県知事らはみな逮捕され、有罪となりました。
 
小泉純一郎首相も構造改革を進め、官僚の利権を脅かすようになってきたので、小泉首相の要請で郵政選挙に立候補したホリエモンが逮捕されました。これは次は小泉首相をやるぞという検察による警告です。その警告を受けて、まだまだ人気のあった小泉首相はあっさりと引退しました。
 
官僚の支配はきわめて巧妙です。鳩山由紀夫元首相と菅直人元首相はいまだに人格攻撃をされますが、野田佳彦元首相にそうしたことがまったくないのを見てもわかります。
 
今の安倍政権は官僚にもアメリカにも逆らいません。菅官房長官はコワモテで、官僚を支配しているようですが、官僚のいやがるような改革はやりません。
 
原発を止めようとすれば、官僚に打ち勝つような政治力が必要です。
民主党と維新の党が合併した新党が目指すのはそこでしょう。 

シリーズ「横やり人生相談」です。
彼氏と価値観が合わないとき、彼氏を取り換えるというのは手っ取り早い解決策です。しかし、自分が間違った価値観を持っていると、よりだめな彼氏をつかまえてしまうことになります。
 
これは「ヤフー知恵袋」にあった相談です。
 
 
付き合っている彼氏のことで皆様にご相談があり
 
付き合っている彼氏のことで皆様にご相談があり質問させていただきました。
 付き合って半年、私は27歳で彼は26歳です。
 彼は誠実でお酒やタバコ、ギャンブルなどももちろんしませんし、大事にもしてくれていま す。
 
 しかし、少し気になることがあり、彼に自覚してもらって直して欲しいところがあります。
 TPOがわきまえられないと感じるところが多々感じられます。
 例えば、外食した際に胡座をかく、私の会社の人が割と近くにいるときにも靴を脱いでベンチで胡座をかく。
 私は最初ビックリして、「お行儀悪いよ、小さい時胡座かいたり、立て膝ついたりしたら怒られたでしょう?」
 と伝えたんですが、「楽やから。誰にも迷惑かからへんやん」と言われてしまいました。
 最近は毎回なので「脚!」とか、キツく言ってしまいます。
 
 他にも、彼は営業職なのですがボロボロのクツを履いたり、穴の空いたスーツを着たり、冬場に夏物のスーツを着たりします。
 また、私の職場の人と関わるときも短パンにスリッパで来ます。
 「クツ綺麗な方がかっこいいよ、スリッパは止めて欲しいなー」
 と、伝えても
 「使いふるした方がビンテージ感出る」とか、「スリッパじゃなくてサンダルやし、俺がしてるのが一番かっこいーから」
 と言われて困っています。
 
 私自身も完璧では無いですし、彼もプライドがあるのでしつこく言ったり、強くいうのは控えていますが、
 私自身だけの問題でなく、彼の評判や営業先の信頼性なども関係してくると思うので心配です。
 また、もし結婚したら子供がそういうところを絶対に見て育つので早く直してもらいたいです。
 
 長文になり申し訳ありませんが、いい説得の仕方や伝え方のアイディアがありましたら教えてください。
 
 
彼は誠実でお酒やタバコ、ギャンブルなどもしないし、彼女を大事にしてくれています。営業職についているということなので、職業面も問題ないのでしょう。
問題はなにかというと、服装と行儀です。
 
「外食した際に胡座をかく」というのは、きっと椅子の上のことなのでしょう(畳や床なら胡坐は当たり前ですから)。おしゃれなレストランでこれをするとかなりみっともないですが、ファミリーレストランや居酒屋ではたいして問題にならないような気もします。
 
「靴を脱いでベンチで胡座をかく」というのも、周りの状況がよくわかりませんが、靴を脱ぐという配慮もできていますし、「誰にも迷惑かからへんやん」という言い分が正しいような気がします。
もしかしてこの女性は、胡坐はすべて行儀が悪いと思っているのでしょうか。
 
とにかくこの女性は、彼氏の見かけを気にするのですが、「私の会社の人が割と近くにいるときにも」とか「私の職場の人と関わるときも」とあるように、自分の会社の人の目が気になるようです。かっこいい彼氏を自慢したいのに、彼がラフな服装でくるのが不満なのでしょう。
 
「穴の空いたスーツを着たり、冬場に夏物のスーツを着たり」というのはかなりへんですが、要するに服装に無頓着な人なのでしょう。彼はそうして生きてきたのですから、この女性が「彼の評判や営業先の信頼性など」を心配するのはよけいなお世話というものです(問題があれば彼の上司が注意してくれます)。
 
私が思うに、この彼はなかなかいい性格をしています。
普通の男なら、女性から「脚!」とかキツく言われたら、険悪な雰囲気になりそうなものです。彼はかなり鷹揚な性格なのでしょう。
 
また、彼女の会社の人にも気楽に会っているようです。どんな状況かわかりませんが、短パンにサンダルでくるのですから、休日なのでしょう。ちゃんとあいさつもしているようです(この女性は服装のことだけ気にしているので、そのほかのことはできているはず)
彼女の会社の人に会うなんて面倒くさがる男も多いと思われます。こういう社交性は貴重です。
 
服装と行儀に多少の難はありますが、それぐらいしか難がないとも言えます。
ところが、この女性は服装と行儀ががまんできないので、なんとかしたくて相談しました。
この相談に対する回答は、価値観の違いはどうにもならない、彼を変えるのはむずかしい、気になるなら別れたほうがよい、といったものです。
で、彼女も別れる気になっています。
 
彼女は次は、行儀がよくてちゃんとした服装のできる男、つまり見栄えのする男を選ぶのでしょう。
しかし、そうしたことは幸せな結婚とはあまり関係ありません。性格のいい男を選んで結婚したほうが幸せになれます。

ですから、ここは思考のベクトルをぐるりと転回して、男のことを考えるより、自分の「男を見る目」について考えるべきです(これを「認知について認知する」という意味で「メタ認知」と言います)

私ならこの女性に対して、男にはあまり問題はない、見た目ばかり気にする自分の価値観のほうが問題だとアドバイスします。
男を替えるより自分の価値観を変えたほうが幸せになれます。
 

川崎市の有料老人ホームで高齢者3人が相次いで転落死した事件で今井隼人容疑者(23)が逮捕され、その動機や介護事業での勤務体制などが問題となっています。しかし、警察の捜査はほとんど問題になっていません。
 
この事件は、2014年の11月4日から1231日までの2か月足らずの間に同じ老人ホームで、87歳男性、86歳女性、96歳女性がいずれも自室のベランダから転落死したというものですが、最初の2件は事故として処理され、3件目で初めて事件の疑いがあるとして司法解剖されました。
私はこのことを知ったとき、神奈川県警が天下りとかでこの老人ホームと癒着しているのかと思いました。そういうことがないと説明のつかない愚かさです。
しかし、なんの報道もないので、なんとなく忘れていました。
 
なぜ報道がなかったのか、「選択」3月号の次の記事に事情が書いてありました。
 
 

川崎老人ホーム殺人の異様な報道警察批判を自主規制するメディア

 
 川崎の老人ホームで三人の入居者が立て続けに転落死した事件の報道が異様だ。
 
  不自然な転落をしているにもかかわらず、警察は最後の三人目まで司法解剖を行わなかったが、メディアはその部分にはほとんど切り込まない。司法解剖を行わなかった事実と警察の「初動捜査に問題があった」という通り一遍のコメントを流すだけだ。某紙横浜支局の記者は「警察批判は相変わらずタブー」と明かす。ある新聞社では現場記者が出した検視や司法解剖の問題点についての記事を、上が握りつぶしたという。
 
  逮捕後の神奈川県警による記者レクチャーで、朝日新聞の記者がこの点について執拗に質問をしていた。しかし蓋を開けるとその日の夕刊で、朝日はこの点を記事にしていなかった。昨年九月にこの問題が発覚したのは朝日のスクープによるものだった。「捜査が難航し、警察上層部が立件断念に傾いたことを危惧した捜査関係者が情報源とみられている」(前出某紙記者)。朝日の対応も警察への異常なまでの配慮のようだ。
 
 
2人続けて転落死しているのに事故としか見なかった警察の無能ないし怠慢は異常です。
もしこの時点で事件の疑いを持って関係者に事情聴取していれば、今井容疑者はいちばん疑われる立場ですから、おそらく3件目の殺人はできなかったでしょう。
そう考えると警察の責任は重大で、おおいに批判されて当然です。
推理ドラマの趣もあるので、テレビのワイドショーなどは喜んで飛びつきそうなネタです。
 
しかし、テレビも新聞もほとんど警察批判をしていないところを見ると、「選択」の記事にあるように「警察批判は相変わらずタブー」であるようです。
 
考えてみれば、テレビのワイドショーが取り上げるのは、ベッキーとか育休不倫議員とか号泣元県議とかばかりです。甘利明元大臣となると、ほとんど取り上げません。
要するに弱い者イジメしかできないのです。
 
テレビ局が安倍政権批判をしないのは周知の事実です。しかし、警察批判は安倍政権批判ではありませんし、放送法の「政治的に公平」とも「不偏不党」とも関係ありません。
 
連続転落死における警察の失態について、私も「選択」の記事を読むまでつい忘れていました。
マスコミの役割はたいせつです。
警察批判もできないのでは情けなさすぎます。

安倍政権のマスコミに対する攻撃がますますひどくなっています。
安倍首相といい高市総務相といい、自民党の人間だから政治的に偏向しています。政治的に偏向した人間が放送法にある「政治的に公平」を求めるのは、それ自体がマンガです。
いや、安倍首相も高市総務相も「政治的に公平」を求めているのではありません。「自分に有利」な報道を求めているのです。
そのことは、2月29日の衆院予算委員会での安倍首相の報道についての発言からも明らかです。
 
安倍首相「隠し子がいると断定された」「総裁選でイメージ操作があった」 質疑応答詳報
 
首相という立場から報道のあるべき姿を述べているのかと思いきや、もっぱら自分がマスコミからひどいことをされたといううらみつらみを述べています。
テレビのテロップにまで抗議しています。
 
「例えば、私が米国で講演したときに、英語で講演したのですが、日本語のテロップ、私の講演に対して聴衆がコメントを述べているんですが、大変、私自身が言うのもなんなんですが、『思慮深い方だ』というコメントをしたんですが、(笑いながら)『短気で怒りっぽい』、どういうわけか、訳が出た。しかし、音はちゃんと録っていましたから、その番組を見た人が違うと、私は見ていなかったのですが、おかしいという指摘があり、私も調べたところ、真逆の訳が出ていた。これは報道ステーションだったと思います。その後、私は抗議をしました。そういう抗議もいけないんでしょうか」
 
これは要するに否定と肯定を取り違えて訳したのでしょう。意図的でないのは明らかです。もし意図的なら、音を消して、わからないようにするはずだからです。
こんなことまで抗議する首相というのも情けない限りです。
 
また、週刊誌にも文句を言っています。
 
私はもう週刊誌によっては、例えば隠し子がいるということを、実は週刊誌に断定されたことがあります。そういうことに対して抗議をしていました。週刊誌も事実と違うことを書くことは、まぁまぁ、あります。
 
隠し子がいると書かれて抗議したのはかまいせんが、あくまで個人的な問題です。
ところが、この記事にはこう書かれています。
 
安倍晋三首相は29日の衆院予算委員会で、自身が過去に週刊誌で「隠し子がいると断定された」と“嘘”を書かれたと主張し、誤った報道に訂正を求めるのは政府・与党であっても当然との考えを示した。
 
個人が報道に訂正を求めることと、政府・与党が報道に訂正を求めることはまったく違います。政府はテレビ局に対して、免許を認可する立場だからです。

それに、マスコミに間違ったことを書かれるのは安倍首相だけのことではありません。弱い立場で反論できない人もいます。そういう人のことを考えるのが首相の役割というものですが、安倍首相は自分のことしか考えられないようです。
 
安倍政権は、週刊誌などには多少批判的なことも書かれますが、読売新聞や産経新聞から過分な支援を受けています。週刊誌に文句を言うなら、読売と産経に対する感謝も同時に言うのが「公平」というものです。
 
また、NHKはまったくと言っていいほど安倍政権批判をしません。内閣支持率を見ると、支持と不支持はそれほど違わないのですから、批判的なことを言わないのは明らかに不公平です。安倍首相や高市総務相がほんとうにテレビ局に「政治的に公平」を求めるなら、テレ朝やTBSに抗議するよりもNHKに抗議するべきでしょう。
 
「偏向した人間が公平を求める」という矛盾をついて、マスメディアはもっと安倍政権に反撃してほしいものです。

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