村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2016年07月

相模原市の障害者福祉施設で19人が殺害された事件で、植松聖容疑者のナチスまがいの障害者排除の思想が注目されています。しかし、これは「おかしな人間のおかしな思想」ですから、相手にしてもしかたありません。もし植松容疑者がイスラム圏に生まれていたら、ISの思想を名目にテロをしていたでしょう。
 
植松容疑者は今年2月に措置入院させられましたが、医師の判断で12日後に退院しています。このことについて批判がありますが、これは株価が下がったのを見て、あのとき売っておけばよかったと言っているのと同じです。
それよりも私は、なんの犯罪もしていない、周りの人に暴力をふるうわけでもない、ただ過激なことを言うだけの成人を、よく措置入院させたなあと、その判断に感心します。植松容疑者は衆議院議長の公邸に手紙を持っていっており、警察が政治的な判断をしたのでしょうか。
 

この手の事件が起きると、私はいつも同じことを言っているのですが、今回もまた言ってしまいます。
 
犯人はどうしてこのような異常で残虐な事件を起こしたかというと、同じぐらい異常で残虐なことが原因になっているはずです。
それはどんなことかというと、幼児虐待以外には考えられません。
つまり犯人は幼児虐待の犠牲者なのです。
実に単純な話です。
 
植松容疑者の父親は小学校の教師です。母親はマンガ家だという報道が一部であります。植松容疑者は1人っ子です。
父親は教師ですから、なんらかの教育方針を持って子どもを育てたのでしょう。植松容疑者は教師志望で、教育実習もしていますから、父親の影響をかなり受けていると想像されます。
父親はどういう育て方をしたのか知りたいところですが、報道はいっさいありません。
 
植松容疑者は実家で一人で暮らしていました。両親が引っ越していったからです。
子どもがおとなになって実家を出て一人暮らしをするようになるというのが普通です。両親が実家を出ていって、子どもが実家で一人暮らしをしているというのは聞いたことがありません。
植松容疑者が両親に暴力をふるうので、両親がたまりかねて家を出ていったのではないかと想像されますが、なにも報道がないので想像でしかありません。
 
それにしても、私の知る限りでは、「両親が実家を出て、植松容疑者が実家で一人暮らしをしているのはどうしてか」ということ言うテレビのコメンテーターもいません。
 
植松容疑者が措置入院をしたとき、警察や市や病院は当然両親と連絡をとったはずですが、どんなやり取りがあったのかいっさい報道がありません。
また、退院したとき、病院が市に提出した資料には「退院後は家族と同居する」と書かれていたそうですが、同居はしていなかったわけです。その事情もわかりません。

マスコミは親を聖域に置いているようです。
 
植松容疑者の父親が出てくるのはこの記事ぐらいでしょうか。
 
 植松容疑者の父親は26日、都内で朝日新聞の取材に応じ、「今朝起きたばかりで、もうちょっと考えないといけない。すみませんが、もう少し時間をください」と話した。
 
結局、その後も父親はなにも語っていません。
 
もちろん父親や母親が出てこない理由はわかります。今出てきたら、猛烈にバッシングされるからです。
そういう意味では、マスコミがあまり親に触れないのもわからないではありません。バッシングされた親が自殺するというようなことも起こりうるからです。
 
ですから、みんなも真相追究がしたければ、バッシングしたくなる気持を棚上げにして、親の話を冷静に聞かなければなりません。
もっとも、ベッキーたたき、舛添たたきを見ていると、そういうときがくるとはとうてい思えませんが。

都知事選には21人が立候補していています。マスコミは主要3候補ばかり取り上げますが、テレビの政見放送では、どの候補もけっこうまじめに主張をしていて、ユニークな意見がおもしろいので、ついつい見てしまいます。
やはり多様性というのはたいせつだと改めて思います。
 
そういう意味では、小選挙区制というのは最悪の制度です。二大政党制がいいというのは、一神教からくる二元論的世界観ではないでしょうか。それに、小選挙区制にすると、二大政党制ではなく一大政党制になるはずです。
 
それにしても、供託金300万円を払い、泡沫候補と言われても立候補する人というのは、やはりちょっと変わった人です。
いや、立候補はしなくても、真剣に政治を考えている人というのは、やはりちょっと変わっているはずです。
自分の一票で当選者が変わる確率というのはひじょうに少ないですし、自分の政治活動で日本の政治が変わる度合いというのも極小です。それでも投票したり熱心に政治活動したりするのは、あまり合理的とはいえません。
 
ですから、政治的な人が非政治的な人に向かって、もっと政治に関心を持つべきだと言っても、まったく説得力がありません。
18歳選挙権実施に伴って、主権者教育ということで若者にいろいろな働きかけが行われましたが、これも同じです。
 
では、どんな働きかけがいいかというと、「政治は“まつりごと”というぐらいでお祭りと同じだから、お祭りには参加したほうが楽しいよ」ということでしょう。
「同じアホなら踊らにゃ損々」というわけです。
 
アメリカ民主党大会が725日から始まり、サンダース氏がクリントン候補支持の演説をしましたが、サンダース人気は相変わらずで、会場は大いに盛り上がっていました。
アメリカの大統領選挙は長いお祭りみたいなものです。
 
日本の選挙運動はひじょうに窮屈で、期間も短いですが、選挙運動を担う人たちや熱心な支持者にとってはやはりお祭りです。先の参院選のときも、最終日は大いに盛り上がっていました。
もちろんデモなどは祭りそのものです。
 
1人がデモに参加したところでどれだけの意味があるのかということもいえますが、野球やサッカーのファンがスタジアムに足を運んで応援するのも同じことです。
スタンドから声援を送る人間が1人ふえたところでほとんど違いはありませんが、本人は少しは違いがあると思っており、なによりそうして参加するのが楽しいからしているのです。
 
したがって、若者に対しては、「好きな政党や好きな政治家を見つけて応援すると、世界が広がるよ」という言い方がいいのではないでしょうか。
 
だいたい政治的な人間というのは、自分の考えが正しいと思い込みすぎるきらいがあります。私もそうなので自戒したいと思います。

7月31日投票の都知事選は、世論調査によると小池百合子候補がリードしているようです。自公推薦の増田寛也候補、野党各党推薦の鳥越俊太郎候補の上をいくとは驚きです。
 
小池氏が立候補を表明したとき、自民党の都連関係者はいっさい聞かされていなかったようで、驚きや戸惑いの声が上がりました。根回しが重視される政治の世界ではまったくの常識破りです。
しかし、結果的に人気があるということは、おそらくこれがよかったわけです。自民党(の少なくとも都連)とは、なれ合っている姿を見せるよりむしろ対立しているぐらいのほうがいいという判断があったのでしょう。
 
小池氏の政治センスは天才的です。
2005年の郵政解散のとき、小泉首相は郵政民営化法案が参議院で否決されたために衆議院を解散するという筋違いなことをして、こんなことで国民の支持が得られるのかと、私を含めて多くの人が半信半疑でいたときに、小池氏はみずから刺客候補として名乗り出て、そこから一気に流れが決まりました。小池氏が流れをつくったとまではいわなくても、小池氏が流れを正しく読んでいたことは間違いありません。
 
小池氏は、私に見えないものが見えている人です。どうしてそうなのかということが気になります。
 
ウィキペディアの「小池百合子」の項目にこう書いてあります。
 
 
高校卒業後、関西学院大学社会学部に入学するも、「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」旨を伝える新聞記事をきっかけに、アラビア語通訳を目指すことにし、19719月に大学を中退してエジプトへ留学。カイロ市のカイロ・アメリカン大学(英語: American University in Cairo)でアラビア語を修めた後、カイロ大学に進学した。
 
このときから小池氏は時代の先を読んで行動するということをしていたわけです。
 
ただ、今のところ中東の国で経済的離陸を成し遂げたのはトルコぐらいで、テロリストの輸出国みたいになっている国もあります。小池氏の見通しとは違ったかもしれません。
小池氏はエジプトに留学したということをあまり言いません。アメリカに従属する日本ではあまりうれしくない経歴かもしれません。
 
小池氏は日本新党→新進党→自由党→保守党→自民党と所属を変えてきて、今回は無所属での出馬です。
 
小池氏の思想とか政治的立場とか、政治家としてやりたいこととかについて、私はなにも知りません。「小池ゆりこオフィシャルサイト」を見ると、「基本理念」がいろいろ書かれていますが、きれいごとばかりで、なにも響いてきません。
 
もともと思想とか政治的立場のない人なのでしょう。ですから、なにかに執着するということがなく、時代の風を読んで、それに合わせていけるわけです。
 
思想とかやりたいことがあると、逆風でも向かっていこうということになりますから、小池氏のようにはできません。
 
思想があればよいというものではありません。たとえば憲法学者の小林節氏は今回の参院選に「国民怒りの声」を組織して全国比例代表と東京選挙区に候補を擁立しましたが、惨敗しました。時代の風も国民感情も読めていなかったわけで、野党票を分散させただけです。
 
冷戦が終わってイデオロギーが終焉した時代には、小池氏のような政治家が活躍するのかもしれません。橋下徹氏やトランプ氏も同じタイプだと思います。
政治家の役割が国民の思いを政治に反映させることだとすれば、小池氏タイプがいちばんいいことになります。
 
いや、小池氏タイプの最終的な目的は「自分活躍」ですから、結局国民は裏切られることになるはずです。
 
ただ、私も思想が過剰なタイプなので、正反対の小池氏の時代の風を読む能力などは学ばなければと思います。 

橘玲著「言ってはいけない残酷すぎる真実」(新潮新書)が売れているようです。
 
進化生物学、脳科学、認知科学などによる人間の科学的・実証的な研究がどんどん進んで、今や人間観を根底から変えなければならない時代です。しかし、この手の本はどうしても専門的になり、むずかしいし、おもしろくありません。
その点、橘玲氏は作家だけにおもしろく読ませる力がありますし、犯罪、暴力、お金、セックスなど読者が食いつきたくなる題材を扱い、専門家でないために総合的な視野もあります。
 
そういうことでおもしろく読め、いろいろなことも学べます。
 
たとえば、われわれは面長の男性と顔の幅の広い男性とを見比べると、顔の幅の広い男性のほうを攻撃的と判断して、この判断はかなり正確なのだそうです。というのは、男性ホルモンであるテストステロンが濃いと顔の形が幅広になるからだというのです。
私は昔から、政治家というのはなぜかブルドッグみたいな顔の人が多いなと思っていましたが、これを読んでその理由がわかりました。攻撃的な人が政治の世界で出世するのです。
トランプ氏も幅の広い顔で、いかにも攻撃的です。
一方、オバマ大統領や谷垣禎一自民党幹事長は面長で、政治家としては異色です(谷垣幹事長は自転車で転倒して入院中ですが、自転車が趣味というのも政治家としては異色です)
 
こんな興味深い話がいろいろ書かれているのですが、読んでいるうちにこれは“残念な本”だということもわかってきます。
 
たとえば、アメリカにおいて白人の知能の平均を100とすると黒人は85になるのだそうです。この数字が正しいか否かは別にして、人種と知能に関係があっても不思議ではありません。
 
本書では、容姿の美しさについてもいろいろ書かれ、「美人とブスでは経済格差は3600万円」だそうです。
私の経験では、美人とブスの問題にも人種は関係あります。ラテン系は美人が多いですが、アングロサクソン系にはあまりいません。東南アジアの女性は鼻が横に広く、あまり美人はいません。日本と韓国では韓国に美人が多い気がします(ネトウヨによると整形のせいだそうですが)。また、国内でも地域差があって、私はこれまで京都、名古屋、東京に住んできましたが、京都と東京には美人が多く、名古屋にはあまりいません。
 
ところが、本書には美人と人種の関係についてはなにも書かれていません。知能に関するところにだけ人種が持ち出されるのです。
しかも、知能と人種の関係を論じることはタブーにふれることだと強調されます。そのため「個人差」ということが無視されてしまいます。

黒人はみな肌が黒く、白人はみな肌が白いので、「黒人の知能は白人より劣る」と言われると、黒人はみな白人より知能が劣ると思う人がいるかもしれません。しかし、これは間違っていて、これが差別主義です。
 
自然界の現象の多くは釣鐘型(ベルカーブ)の正規分布になることが知られていて、知能も同様です。白人の平均知能が100、黒人が85だとすると、それぞれ釣鐘型に分布するのですから、かなりの部分が重なり合うでしょう。ですから、ある白人とある黒人の知能を比べると、黒人の知能が高いケースはいくらでもあることになります。これは差別主義者にとっては「残酷すぎる真実」でしょう。
 
名古屋には京都や東京より美人が少ないといっても、名古屋出身の美人女優やモデルがいっぱいいることを見てもわかるように、ごくわずかの差です。ですから、私も本来ならこんなことは言いません。問題はあくまで「個人差」です。
 
 
橘玲氏は性差についても同じような議論を展開します。
幼い子どもに絵を描かせると、女の子は暖色を多く使って人物やペットや花や木を描き、男の子は寒色を多く使ってロケットやエイリアンや車など動くものを描こうとする。これは親や教師が「男の子らしい」あるいは「女の子らしい」絵を描くように指導したからではなく、生まれつきの性差によるのだ。文化や教育が性差をつくってきたというフェミニストの主張は間違いだ。
 
確かにフェミニストは生物学的性差を軽視ないしは無視してきて、これは間違いです。
しかし、橘玲氏の主張も「性差」を強調するあまり「個人差」を無視しています。
生物学的性差の男らしさ、女らしさにも「個人差」があり、釣鐘型に分布するので、女の子らしい男の子、男の子らしい女の子も存在することになります。
橘玲氏の主張はLGBTの人への差別につながります。
 
 
ダーウィンの進化論以来、社会ダーウィン主義、優生学、エドワード・O・ウィルソンの社会生物学と、科学と差別主義を結びつけることが行われてきて、本書もその末席に連なることになりました。
読んでためになることもいっぱい書かれているので、なんとも“残念な本”と言わざるをえません。
 

4泊5日でベトナム旅行に行っていたためブログの更新が遅れました。
 
旅行中、テレビはもっぱらBBCニュースを見ていましたが、次々と事件が起こって、世界は大揺れという感じでした。
最初は、常設仲裁裁判所が南シナ海問題で中国の主張を否定したというニュースです。これはけっこう大きく扱われていました。
それから、ニースでトラックによるテロが起き、臨時ニュースでそのことばかりやっていると思っていたら、今度はトルコのクーデターです。
 
これらはみな関連しているというか、根はひとつではないかと思いました。
つまりすべての元にアメリカの存在があるのです。

 
南シナ海問題は中国の覇権主義に原因があると考えられますが、覇権主義の元祖はアメリカです。中国はアメリカを見て、同じ程度のことは許されると思ったのでしょう。
 
アメリカのティモシー・キーティング海軍大将は米上院軍事委員会公聴会で、中国海軍の高官が「太平洋を分割し、米国がハワイ以東を、中国が同以西の海域を管轄してはどうか」と提案したことを証言しています。
この提案がどの程度本気のものかわかりませんが、中国海軍の高官が覇権国同士で会話をしているつもりであることは明らかです。
 
アメリカは中国に対して、判決に従うように求めていますが、アメリカ自身は判決の根拠である国連海洋法条約を批准していません。国際条約なんかに縛られたくないからです。
中国はアメリカのまねをしているだけですから、アメリカが文句をつけるのは矛盾しています。
 
アメリカの勝手な振る舞いのせいで、国連の権威はどんどん低下しました。そのため中国も平気で判決を無視できます。
 
アメリカの覇権主義を野放しにしてきたことが現在の南シナ海問題を引き起こしたともいえます。
 
 
ニースのテロは、BBCで最初「トラック・アタック」で80人が死んだと報じられていたので、てっきりトラック爆弾によるテロかと思いました(私の英語力のせいもあります)。ところが、大型トラックで人をひきながら暴走したということで、それで84人も殺したのでした。
爆弾を用意するのは容易ではありませんが、大型トラックを用意するのは簡単です。こんなことで多数の人を殺せたわけです。
 
先月、フロリダ州オーランドのナイトクラブでアフガン系アメリカ人による銃乱射テロがあり、このときは50人が死亡しました。これは突撃銃1丁による犯行でした。
 
最近のテロは最小の手間で最大の効果を生むものに“進化”してきているようです。こんなテロは防げるわけがなく、アメリカの対テロ政策の誤りは明らかです。
 
 
トルコで軍事クーデターが起こるのは今回だけではありません。1960年と1980にも起こっていますし、1997年には軍の圧力で連立政権がつぶされました。トルコ国民はイスラム主義的ですが、軍や司法組織は完全な世俗主義です(世俗主義とはいいますが、実際は欧米化原理主義みたいなものです)。イスラム色の強い政権ができると軍がつぶすということが繰り返されてきました。
そして、そんなトルコをNATOは受け入れてきました。
つまりNATOは、その国が反イスラム主義政権であれば、民主主義国でなくてもよかったのです。
 
今回の軍事クーデターは、エルドアン政権がどんどんイスラム色を強めてきたために起こったものと思われます。ということは、アメリカなどNATOの反イスラム主義的価値観が招いたクーデターだともいえます。
 
 
考えてみると、現在の日本の混乱もアメリカに原因があるといえます。
山本太郎議員が国会で安倍政権の政策は第三次アーミテージ・ナイレポートの完コピではないかと追及したように、安保法制もアメリカの要請に応えたものです。
 
アメリカが日本に軍事基地を置いていたり、南シナ海で「航行の自由」作戦を実施したりするのはなんのためでしょうか。
要するに「世界に冠たるアメリカ」を示すためです。それ以外には考えられません。
 
世界に混乱をもたらしている最大の原因はアメリカの覇権主義です。

参院選の結果は、改憲勢力が3分の2を超すことになりました。
それにしても、改憲勢力3分の2を阻止するか否かが最大の焦点になるというのは、五十五年体制とまったく同じです。
第一次安倍政権が失敗したときは、もう改憲はまったく不可能に思えました。オセロゲームで白黒が全部ひっくり返ったみたいでした。
ところが、民主党政権の失敗でもう一回ひっくり返って、元に戻ってしまったわけです。
 
改憲勢力が3分の2を超えたからといって、発議できるだけです。国民投票では否決される公算が大だと思います。
だいたい憲法のどこを変えたいのかよくわかりません。解釈改憲をした今、九条を変える必要性は少なくなっています。そのため緊急事態条項を加えるという議論があります。
つまりなにかの必要性があって改憲するのではなく、改憲のための改憲なのです。
 
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を言っています。日本国憲法は戦後レジームの象徴なので、なにがなんでも変えたいのでしょう。
 
しかし、ほんとうの戦後レジームは安保体制や駐留米軍の存在です。安倍首相はそこには手をつけようとしません。逆にどんどん対米従属を強めています。
 
「永続敗戦論」の著者白井聡氏は、それは「敗戦の否認」からくるものだと言っています。敗戦という事実を受け入れないので永久に負け続け、アメリカに従属し続けているというわけです。
 
 
民主党改め民進党の場合は、民主党政権が失敗したということを認めない「失敗の否認」です。
失敗したということを受け入れないので、同じ失敗を繰り返してしまいます。いや、今のところ政権の座についていないので、失敗は繰り返していませんが、もし政権を取ったら失敗を繰り返すに違いないと国民に思われているので、今回のような選挙結果になりました。
 
自民党の「敗戦の否認」と民進党の「失敗の否認」がぶつかり合っているので、本来あるはずの政策論争が起きません。
たとえば、民進党の公約の「地位協定の改定」について、そんなことができるのか、どうやってするのかといった議論があっていいはずです。
今回の選挙は各党が言いたいことを言っているだけでした。
 
 
それに加えて、日銀黒田総裁の「敗勢の否認」もあります。
 
黒田総裁は「戦力の逐次投入はしない」と見栄をきって異次元の金融緩和を行いましたが、「2年で2%の物価上昇」という目標は達成できず、第二次、第三次の金融緩和を行い、結果的に戦力の逐次投入に陥っています。しかも、今は投入できる予備兵力も底をついてきました。完全にガダルカナル状態です。それでも楽観的な見通しを語るので、最近は「大本営発表」と言われるようになっています。
 
日銀はETFとRIETという形で大量の株式と不動産を購入しています。目標通りに物価が上がれば高く売れますが、上がらないと損失になってしまいます。黒田総裁の任期は2018年4月までですが、これからどうなるでしょうか。
 
 
安倍政権の「敗戦の否認」、民進党の「失敗の否認」、日銀黒田総裁の「敗勢の否認」と、誰も不都合な現実と向き合おうとしません。
 
ただ、黒田総裁の「敗勢の否認」はタイムリミットがあります。つまりアベノミクスの失敗が顕在化するはずです。ここから日本が動き出すのではないかと思っています。

参院選について、対中国政策がまったく論じられていないのはおかしいという指摘があって、なるほどと思いました。
日中間には、中国公船が尖閣諸島周辺に侵入を繰り返し、スクランブルした自衛隊機と中国軍機が攻撃動作をしたとかしなかったとか、年中なにか騒ぎが起きています。このままでいいはずがありません。
 
しかし、考えてみると、対中国だけでなく、外交政策そのものが選挙の争点になっていない気がします。
 
各党の外交政策は次のサイトで見られます。
 
政策比較表2016参院選【外交・防衛(沖縄含む)】
 
民進党は「安保法制は白紙撤回」と言っていますが、安保法制の問題は外交問題というより、立憲主義という観点からの国内問題のような感じがします。
 
自民党は尖閣問題にアメリカを引き込むことばかり考えていて、日本が中国にどう対応するかという発想はなさそうです。
 
外交政策がないのは、やはり日本が属国だからでしょうか。
 
日本は民主主義国ですが、属国であることと両立します。
それはイラクとアフガニスタンを見ればわかります。
イラクもアフガンもちゃんと選挙をやって議会をつくり、アフガンでは大統領選挙もやっています。
しかし、両国とも治安はよくなりません。
バクダッドで3日に起きた爆弾テロでは二百人以上が亡くなり、ISが犯行声明を出しました。
アバディ首相はテロ現場を視察に訪れましたが、「帰れ」という罵声とともに、公用車に靴や瓶が投げつけられたということです。政府そのものが信用されていないのでしょう。
 
選挙が行われているとはいえ、ISやタリバンは最初から排除されていますし、アメリカの価値観に合わない勢力が伸長して政権を取りそうになれば、軍事クーデターや暗殺などの方法で排除されるのでしょう。アメリカは南米で何度もそうしたことをしています。
 
イラク軍もアフガン軍もアメリカが訓練し、兵器を提供して育てた軍隊です。
その国の軍を抑えたら、その国を抑えたも同然です。
 
イラク政府もアフガン政府も実質的にアメリカの支配下にあるので、国民は支持せず、それが治安の悪さとして表れています。
 
 
終戦直後の日本政府も今のイラク政府やアフガン政府と同じようなものだったでしょう。そして、そのまま今にいたっています。
今ではアメリカに支配されているという意識すらなくなっています。
 
安倍首相は、憲法をアメリカに押し付けられたとか、日本人は占領軍に洗脳されたとか言いますが、これはあくまで国内向けの発言で、アメリカに対してはなにも言いません。日本は属国であるという現実にうまく対応しています。安保法制や辺野古移設の問題でも同様です。
 
一方、民進党は公約に「日米地位協定の改定」を掲げていますが、属国の立場でそんなことができるとは思えません。
「安保法制は白紙撤回」にしても、それがアメリカと摩擦を起こすことに対する配慮はなさそうです。
安倍首相は「気をつけよう。甘い言葉と民進党」と言っていますが、このことについては的確な批判かもしれません。
 
今回の参院選はもうほとんど結果が見えています。
日本は属国であるという現実に適応している自民党と、その現実が見えていない民進党の差です。
 
もちろん私は日本が属国でいいと思っているのではありません。
そこから脱却するのは容易なことではないと言いたいわけです。

バングラデシュ・ダッカのテロ事件で日本人7人も亡くなり、安倍首相は「この卑劣なテロに対して強い憤りを覚える」「世界の国々と共有している価値に対する挑戦であり、断固非難する」などと語りました。
テロに対して無為無策であると言っているのと同じです。
もっとも、それは安倍首相だけでなく、世界各国の首脳も同じことです。
 
世界はテロに対して無策です。
テロだけではなく犯罪に対しても同じです。
要するに人類は悪に対して無策なのです。
 
この機会に改めて、悪について哲学者、思想家はどう考えてきたのか調べてみました。
 
ウィキペディアで「倫理学」の項目を引いてみると、ソクラテスは問答法を通して徳の探求をし、プラトンは善のイデアを探求し、アリストテレスは最高善を究極目標にして善を探求したということです。
古代ギリシャ哲学ではもっぱら徳や善を探求して、悪についてはあまり考察していないようです。
 
ちょっと古い倫理学事典や思想事典で「悪」の項目を引くと、たいてい「悪とは善の欠如である」と定義されています。これは中世の神学者トマス・アクィナスによる「神学大全」に書かれていることです。この定義は広く西洋社会に受け入れられました。
 
悪が善の欠如であるなら、善の実現をはかれば悪は消滅する理屈です。
そういうことで西洋哲学は善や徳ばかりを探求し、悪を軽視してきたのでしょうか。
 
もっともその一方で、マルキ・ド・サドの、悪を肯定する「悪の哲学」という極端なものが生まれたりもしました。
 
非西洋では、儒教における性善説と性悪説、親鸞の悪人正機説などがあり、むしろ悪を正面から受け止めてきたかもしれません。
 
西洋哲学が悪を軽視してきたのは、宗教の影響もありそうです。
ユダヤ・キリスト教では最後の審判、ハルマゲドンなどによって悪が裁かれます。ですから、悪の問題は神に任せておけばいいということになります。
 
裁判官は黒い法服を着ますが、あれは明らかに宗教家を連想させるものです。また、裁判の象徴として剣と天秤を持つ正義の女神が使われますが、これはギリシャ神話に由来します。
つまり悪を裁くことは、いまだに宗教や神話の権威を利用して行われているのです。
 
 
進化論の登場は悪について考え直すチャンスでした。
人間はなぜ戦争をするのかとか、なぜ限りなくなわばりを広げて帝国を築くのかとか、考えるべきことはいっぱいあります。
ところが、ダーウィンは悪についてではなくもっぱら善や徳について考えました。道徳性を持っているのは人間だけではない、動物も子どもの世話をしたり仲間を助けたりする道徳性がある、それが進化して、そこから道徳が生まれた、という具合です。
これが進化倫理学と呼ばれるものになりました。
 
ダーウィンがもっぱら善や徳について考えたのは、古代ギリシャ哲学からの伝統だったかもしれません。
 
その結果、進化倫理学は悪についてなんの説明もできません。
そこをねらったように社会ダーウィン主義や優生学が猛威をふるったりしました。
 
 
ともかく、西洋哲学では悪を人間の営みとしてとらえ、思想的に解決しようという視点がほとんどありません。
そのため、イスラム過激派のテロリストに対して、アメリカなども実は宗教で対峙していて、宗教戦争状態になっています。
悪を軽視してきた西洋哲学の弱点が表れた格好です。
 

今回の参院選から18歳選挙権が実施されます。若者への投票呼びかけや有権者教育が行われていますが、若者の側からの盛り上がりはほとんど感じられません。
 
文部科学省は「私たちが拓く日本の未来」という副教材を教師用指導資料として配布していて、これはネットでも公開されています。
 
政治や選挙等に関する高校生向け副教材等について
 
それにしても「有権者教育」とは妙な言葉です。政府が有権者を教育するというのは本末転倒です。
  
副教材は、タイトルこそ「私たちが拓く日本の未来」と若者が主語になっていますが、サブタイトルは「有権者として求められる力を身につけるために」と、受け身表現が出てきます。
 
選挙権は権利なのにまるで義務のような感じです。
 
マスコミや有識者も若者に投票するべきとか政治に関心を持てとか呼びかけますが、こういうことも義務感を強めます。
 
7月1日の「報道ステーション」を見ていたら、街頭インタビューで渋谷かどこかの若い女性が「強制じゃなくて、興味ある人だけで選挙していればいい」と言っていました。投票の呼びかけが「強制」と受け取られているのです。
スタジオの小川彩佳アナも「勉強しろと言われているのと同じような感じ」と若者の気持ちを代弁していました。
 
今まで「勉強しろ」と言われるだけだったのに、今度は「投票しろ」とまで言われるようになったら、選挙権は若者にとって災難でしかありません。
 
ともかく、今は選挙に関して、おとなが熱心になればなるほど若者はやる気を失うという構図になっています。
 
では、おとなはどうすればいいかというと、「信じて見守る」しかありません。
勉強でも選挙でも同じことです。
 
 
ところで、今18歳以上とされている普通運転免許年齢が16歳以上に引き下げられたとします。当然そのことは周知されなければなりませんし、免許取得の手続きとかやり方とか費用とかも、知りたい人にはわかるようになっていなければなりません。しかし、若者に向かって「免許を取るべきだ」とは言わないでしょう。
選挙権も同じようなものではないでしょうか。

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