村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2016年08月

息子の高畑裕太容疑者が逮捕された女優の高畑淳子さんが1時間余りにわたって記者会見を行いました。
例によって成人した子どものことで母親が会見して謝罪することはないという意見があります。
しかし、この会見でいろいろなことがわかりましたから、大いに意味はあったといえます。
  



 
 
高畑容疑者
淳子さん会見一問一答(1)昨日15分会った
 
 
たとえば冒頭のこうしたやりとりについても、突っ込みどころは満載です。
 
 
−−ご自身は事件を聞いた時はどんな思いだったか。
 
 高畑さん 何のことかよく最初は正直分からなかったです。
 
 −−これまでも「不祥事を起こしたら私に仕事がなくなる。私から仕事を取らないで」と言ったと伝えられているが、それはどういう時にどういう気持ちで話した言葉だったのか。
 
 高畑さん 私どものように皆様の目に触れることが多い人間がいけないことをすると、お互い刺し違えて死ぬぐらいの覚悟でやらなければいけない仕事だ、と。そういうことが分かってもらえるなら、というつもりで言った言葉ではありますけれど、それがどう彼に響いていたのかはちょっと分からないです。
 
 −−やってはいけないことをやるかもしれない、という危うさがあったということか。
 
 高畑さん ……それは思春期とかそういう時代を……。そうですね、あったかもしれないですね。
 
 −−具体的には。
 
 高畑さん 危なっかしいと思っていました。日常生活がきちんと……例えば仕事の前にきちんと寝るとか、そういうことを見ていると、不安な要素はありました。
 
 −−いつごろから。
 
 高畑さん 小さい頃からあったように思います。
 
 
不祥事を起こしたらいけないのは、その行為そのものがよくないからです。ところが、高畑淳子さんは「私に仕事がなくなる」からよくないというのです。これではまともな倫理観が身につきません。母親を困らせるために不祥事を起こしてやろうということもありえます。
 
それから、「やってはいけないことをやるかもしれない」という危うさを小さいころから感じていたということです。つまり母親が子どもを信頼していないのです。
このやり取りだけで親子関係に問題があったとわかります。
 
子どもに危うさを感じていたということについてもう少し具体的なやり取りもあります。
 
 
−−裕太容疑者について感じていた不安な要素とは。
 
 高畑さん 規律をちゃんと守れないところが、学校時代の遅刻とか、うちへの帰宅時間とか、そういう思春期のころは皆さんあるんでしょうけど、細かいことで、今回の事件と比較してはいけませんけど、学校の授業態度とか、そういう一つ一つが……。
 
(中略)
 
−−裕太容疑者は思春期の頃、規律を守れないことがあったと話していたが、成人になってからも奇行、問題行動、不可解な発言などはあったのか。
 
 高畑さん 学校時代は揺すっても起きないこともあって勉強も嫌いだったんですが、お仕事が始まってからは、自分で目覚ましをかけて、行って……。ちょっと変わったところはある子でしたけど……夜きちんと寝ないとか心配なことはありましたけど、喜んで仕事をしてましたので、思春期の、あの困った状態の人がここまでになるんだと思っていました。
 
 
高畑淳子さんは裕太容疑者の遅刻問題に相当悩んでいたことがわかります。
そのため、裕太容疑者の夜更かしについてもうるさく注意していたのかもしれません。
 
しかし、裕太容疑者は仕事をするようになってからは、自分で目覚ましをかけて起きられるのです。ということは、裕太容疑者と学校が合わなかっただけのようです。高畑淳子さんは深刻に考えすぎていたかもしれません。
 
その結果、今も親子関係はあまり良好なものではないようです。
 
 
 
−−裕太容疑者とは自宅で一緒に暮らしていたのか。
 
 高畑さん はい。演劇大学が終わって1人暮らしをしていたのですが、連続して出演させていただける番組がうちの近くだったものですから、1年ぐらい前からまた戻ってきました。
 
 −−自宅で一緒に過ごす日が多かったのか。
 
 高畑さん 私は基本的に外に出ないので、仕事が早かった時は、多いかどうかは分かりませんが、自宅で(一緒に)いる時間もあったと思います。
 
 −−いつから群馬(のロケ)に行っていたのか。
 
 高畑さん 一度行ったのが8月の上旬、10日ごろに3、4日行きまして。そして今回、仕事先からそのまま群馬に向かったと思っています。
 
 −−最後に会ったのは。
 
 高畑さん 8月19日か20日ぐらい、朝出かけて行く時だと思います。
 
 −−その時はどういう会話を。
 
 高畑さん 早朝の仕事からそのまま群馬に行くということで、泊まりの物がいろいろ、タオルとかがなくなっていたので「あ、泊まりがけで行くんだな」ということで、顔を合わせておりません。
 
 −−顔を合わせない状態がしばらく続いていたのか。
 
 高畑さん いえ、帰ってきて、夜ソファに転がっているのは見ています。
 
 −−多くの会話はなかった。
 
 高畑さん そうですね……。
 
 
1年ぐらい同じ家で生活していても、いっしょにすごす時間はほとんどなく、会話もなかったようです。
 
しかし、裕太容疑者は積極的に仕事に取り組んで、俳優業だけでなくバラエティ番組でも活躍して、22歳にして自立への歩みを始めていました。
子どもがみずからの意志で職に就いて、生活していけるようになれば、子育てとしては半ば以上成功でしょう。
 
裕太容疑者は、バラエティ番組での言動などを見ると、考えるよりも早く行動するタイプではないかと思われます。そういうところが高畑淳子さんには危なっかしく見え、なんとかおとなしい“普通の子”にしようとして、親子間の葛藤が生じたのではないでしょうか。
また、そういうタイプは学校でおとなしく勉強することも性に合いません。
 
ともかく、人間には生まれつきの性質というものがあるのですから、どんな性質であれ、それをそのまま受け入れるのが親の役割です。

 
裕太容疑者にとっては、仕事が順調にいき始めたところだけに、今回の事件が惜しまれます。
飲酒に加え、急に大きな仕事がきたことによるストレスから、ああした行動に出てしまったのでしょうか。親子間の長年の葛藤が根底にあったということも考えられます。
 
ともかく、そういうことがいろいろ推測できるのも、今回の記者会見があったからです。
子どもが成人すれば親は関係ないなどといわずに、こうした会見はどんどん行われるべきです。
 
たとえば、相模原市19人殺しの植松聖容疑者(26)の両親はまったく表に出てきません。
もしこのような記者会見を開けば、いろいろなことがわかるはずです。
引き出してさらし者にするということではなく、事実を知るためにみんなで拝聴するという形で記者会見が開けないものかと思います。

俳優の高畑裕太容疑者(22)がホテル従業員の女性に対する強姦致傷の疑いで逮捕されました。
高畑裕太容疑者の母親が女優の高畑淳子さんなので、例によって「親の責任」が問題になっています。
「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」というのが今の主流の考え方ですが、それは子どもが自立していればの話です。
次の記事を読むと、果たして自立していたのか疑問です。
 
 
坂上忍、高畑容疑者を「ガチで怒った」過去明かす
 
 俳優の坂上忍が24日、フジテレビ系「バイキング」で、強姦致傷の容疑で逮捕された高畑裕太容疑者に対し、番組で共演した時に「ガチで怒った」ことがあったと明かした。高畑容疑者は昨年8月、同局系「ダウンタウンなう」に出演した際、「僕、性欲が強くて」などと下ネタや奔放発言を連発。ダウンタウンらをあきれさせ、坂上は「オレ、親だったら絶対ブン殴ってる」と怒りモードになっていた。
 
 この日の「バイキング」では、高畑容疑者逮捕について冒頭から特集。坂上は「残念というよりとんでもないニュースが飛び込んできました」と番組を始めると、高畑容疑者の人となりについても言及。以前、ダウンタウンとともにバラエティ番組で高畑容疑者と共演した時の話として、「その時に怒ってるからね、俺。どこからが天然で、どこからがキャラ作りなのか、見えないんだよね。悪い子じゃないけど、ガチで怒った」と、芸能界の先輩たちに“失礼”な物言いがあったことを明かした。
 
 これを受け、高畑淳子の親友でもあるピーターは、裕太容疑者が小学校4年生の頃、母親と一緒に舞台に出ていたピーターの楽屋を訪れ「ピーター、よかったよ」と、呼び捨てで肩をたたかれたエピソードを明かした。
 
 「小学生に肩たたかれてね。こいつなんだと思ったけど、すごいのはそれが本気でそう思ってくれた感じがしたこと」と、失礼な言い方も、純粋さの裏返しだったのかもという見方を示したが、坂上は「俺だったら、ちょっとこっち来いってなってる」とコメントしていた。
 
 結局怒った数日後、その後に、母の淳子が坂上のもとを訪れ、「ご迷惑を掛けました」と謝ってきたといい、「お母さんは本当にちゃんとした人だから」と話していた。
 
 
高畑容疑者が坂上忍氏に失礼なことを言ったあと、母親の淳子さんが謝りにきたというのはおかしな話です。ほんとうに失礼なことを言ったのなら、淳子さんは息子に「今度会ったら謝っておきなさい」と言うべきです。おとななのですから、本人が謝るのが当然です。
母親がこんなことをしていては、いつまでたっても子どもは自立しません。
 
そういう意味では、このケースは母親に大いに責任があるというべきでしょう。
 
 
ところで、「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」ということは、裏を返せば「子どもが20歳未満であれば親に責任がある」ということになるはずです。
 
8月23日に埼玉県東松山市の河川敷で16歳の井上翼さんが半ば砂に埋まった遺体で発見された事件で、知人の16歳の少年が父親に付き添われて警察に出頭し、警察は25日、殺人容疑で少年を逮捕しました。そして26日、警察はさらに少年4人を殺人容疑で逮捕しました。
 
容疑者はみんな20歳未満ですから、親の責任を問う声が沸き起こっていいはずです。
しかし、今のところそういう声は聞きませんし、おそらくこれからも聞かないでしょう。
要するに子どもが20歳以上であろうと20歳未満であろうと、親の責任が問われることはないのです(民事裁判では親が賠償責任を負ったりしますが、子どもに責任能力がないので親が肩代わりするだけで、親の行為の責任が問われるわけではありません)
 
オリンピックで選手がメダルを取ると、その選手を育てた親にも脚光が当たり、称賛されます。
だったら、若者が犯罪をすれば、その若者を育てた親が批判され、責任が問われるのは当然のことです。
 
この責任というのは「教育責任」のことです。
この責任が曖昧なために、かえって親への批判が陰湿化しています。
 
子どもが懲役10年の罪を犯した場合、親と子で折半して5年ずつ服役するというのがひとつのやり方です。
こうすれば親はいい加減な教育ができなくなり、真剣に教育に取り組むはずです。
あるいは、子どもの世話だけをして教育はしないというやり方もあります(これは結果的に子どもの人格を尊重することになります)
いずれにせよ、無責任な親が横行する今よりよくなることは確実です。

リオ・オリンピックが終わり、日本のメダル獲得総数は史上最多の41(12、銀8、銅21)でした。
ロンドン・オリンピックのときも日本は38個で、史上最多でした。
つまり少子化が進んでいるにもかかわらず、このところ日本のスポーツ界は健闘しているのです。
 
ゆとり世代が力を発揮しているのだという説があります。そうかもしれません。
 
水泳の男子800メートルリレーで銅メダルを獲得した江原騎士(えはら・ないと)選手は、いわゆるキラキラネームです。キラキラネーム世代も活躍する時代になりました。
 
国別メダル獲得数ランキングを見ていると、圧倒的な偏りのあることに気づきます。
 
リオデジャネイロ・オリンピック国別メダルランキング
 
上位を占めるのはほとんどがヨーロッパ系の国です。
 
一方、インドは人口が多く、経済成長も著しいのに、順位が67位、メダル総数が2個です。
スポーツがその国の文化と深く関わっていることがわかります。
 
アフリカの国で上位なのは、
ケニア15位、13個、
南アフリカ30位、10個、
エチオピア44位、8個。
 
中東の国で上位なのは、
イラン25位、8個、
トルコ41位、8個。
 
ヨーロッパ系の国が上位を占める中で健闘しているのが儒教系のこの3国です。
中国3位、70個、
日本6位、41個、
韓国8位、21個。
 
要するにヨーロッパ系の国に交じって儒教系の国もがんばっているという構図です。
 
ヨーロッパ系の国と儒教系の国がオリンピックで成績がいいのは、教育熱心、とりわけ幼児教育や早期教育に熱心だからだと思われます。
たいていのスポーツは、幼いころから始めるほど有利です。オリンピックのレベルはどんどん高くなっているので、幼児教育に熱心な国が好成績を出すのは当然です。
 
クラシック音楽もひじょうにレベルが高いので、幼児期から始めないと一流の域に達しません。スポーツもクラシック音楽に似てきたわけです。
 
そう考えると、最近の日本がオリンピックで好成績なのは、若い世代ががんばったからというより、その親の世代ががんばって子どもを教育したからといえるかもしれません。
この場合の教育というのはもちろんスポーツの早期教育です。
 
卓球の福原愛ちゃんの母親が愛ちゃんを熱心に指導したのは有名な話ですが、最近は似たようなことがいっぱいあるようです。「リテラ」がそのことを書いています。
 

伊藤美誠、白井健三、池江璃花子…五輪選手の親はみんな“毒親”なのか?感動物語の裏で虐待スレスレの英才教育

 
もちろんオリンピックなどで脚光を浴びるのはごく少数の人だけです。一流を目指してスポーツの早期教育をされた子どものほとんどは、やったことがむだになってしまいます。
いや、むだだけならまだいいのですが、きびしい早期教育は人格形成に問題をもたらします。
 
ゆとり世代がのびのびとやって好成績を出したならいいのですが、早期教育で多数の若い人が押しつぶされているなら問題です。いったいどちらでしょうか。

相模原市19人殺害事件の植松聖容疑者は、障害者を殺した自分を正当化する供述を繰り返しているそうです。
植松容疑者はどうしてそういう優生思想を持つようになったのでしょうか。
 
「女性自身」の報道によると、植松容疑者の母親はホラーマンガ家だそうです。読者が投稿してきた恐怖体験をマンガ化してホラー雑誌に載せていたということですから、メジャーなマンガ家ではなさそうですが。
 
猟奇犯罪とホラーマンガやホラービデオの関連というのはマスコミの好む題材です。
ですから、母親がホラーマンガ家ということに当然マスコミは飛びついてくるものと思いましたが、後追い報道はまったくといっていいほどありません。
確かに犯罪とホラーを結びつけるのはむりがあるのですが、もし植松容疑者の本棚にホラーマンガが何冊もあったら、きっとマスコミは飛びついていたはずです。
 
母親がホラーマンガ家だったことはどうでもいいとしても、植松容疑者と母親との関係がどうであったかは重要な問題です。それの報道がないのは納得いきません。
小学校の教師である父親との関係についてもまったく報道がありません。
 
 
親を聖域に置いたままで犯罪動機が解明できるとは思えませんが、植松容疑者本人についてはマスコミはどこまで迫れたでしょうか。
一応、大麻と入れ墨については報道がありますが、それだけのようです(大麻には興奮作用がないので、直接に犯罪とは結びつきにくいとされます)
 
植松容疑者は帝京大学教育学部の卒業で、教師志望で、教職課程を取り、教育実習もしています。植松容疑者の本棚には大学の教科書など教育関係の本がいっぱいあるはずです。
教育学や教育思想と植松容疑者の優生思想との関連を誰も論じないのが不思議です。
 
学校というのは、学業成績というひとつのモノサシで人間が測られるところです。
「世界に一つだけの花」という考えはありません。
 
教育の世界では、「知能」という言葉は差別に結びつきかねないとしてあまり使われません。しかし、「成績」を決める最大の要素は「知能」です。
ですから、教育思想と優生思想は紙一重です。
 
もともと学校は兵隊や産業戦士を育てるところですから、そういう教育思想で子どもを競争に追い立てるのは当然かもしれません。
一方、家庭には別の原理があり、それでバランスが取れているものでした。
 
家庭の原理とは要するに「愛情」ということです。
そして、親の愛情の論理とは、「バカなほどかわいい」というものです。
赤ん坊や幼い子どもは、おとなから見ればバカです。しかし、親はだからこそ愛情をかき立てられます。子どもが成長して賢くなり、分別がついてくると、親の愛情は薄れていきます。
 
植松容疑者の父親は小学校の教師です。家庭に教育思想を持ち込んで、つまり成績だけで子どもを評価して、「バカなほどかわいい」という親の愛情を忘れていたのではないかと想像されます。
植松容疑者は子どものころから、学校でも家庭でも成績だけで評価され、そのためそれが人間を評価する唯一のモノサシだと思い込んだのではないでしょうか。そこから優生思想へは紙一重です。
 
 
今は、家庭でも子どもの成績を重視し、子どもを叱責して勉強に追い立てるのが当たり前になっています。
第2、第3の植松容疑者が出現しても不思議ではありません。

8月15日の全国戦没者追悼式において、天皇陛下は「おことば」で、
「かけがえのない命」
「深い悲しみ」
「深い反省」
とおっしゃいました。
 
一方、安倍首相は「式辞」で、
「戦場に斃(たお)れられた御霊(みたま)」
「皆様の尊い犠牲」
「戦没者の御霊に永久(とわ)の安らぎ」
と言いました。
 
命の尊さをおっしゃっている天皇陛下と、戦死の尊さを言っている安倍首相。
まったく対照的です。
同じ追悼式に出ているのが不思議です。
 
このふたつの考え方の対立は今年に始まったことではないのですが(私は一昨年も同じようなことを書いています)、今年は天皇陛下が生前退位の意向を示され、それに対して安倍首相があからさまな不快感を示すということもありました。
 
生前退位について国民は圧倒的に支持しています。高齢で公務を果たすことのたいへんさを考えれば当然でしょう。摂政を置けばいいという説もありますが、国務大臣の認証式などは摂政でも問題はなくても、国民参加の行事への出席とか外国の賓客との面会とかは、摂政と天皇陛下本人では大違いです。
 
首相や官邸が生前退位に反対する理由は、天皇の神格化に不都合だからということのようです。
自民党改憲草案も天皇の元首化を規定しています。
「年取ったから引退する」というのはいかにも人間的な行為で、確かに神格化には不都合かもしれません。
 
天皇陛下は国民へのビデオメッセージにおいて、「象徴」という言葉を何度も使われましたが、これは象徴天皇であることを強調して神格化・元首化に反対する意図であると解釈されています。
 
天皇の地位に関しても、天皇陛下と安倍首相は激しく対立しているわけです。
 
 
安倍首相が天皇を神聖だと思っているなら、天皇の意思を無視するのは矛盾しています。
しかし、安倍首相が実際に天皇を神聖だと思っているはずはありません。天皇を神聖化しようとしているのは、あくまで天皇の利用価値を高めるためです。
天皇陛下がそんな安倍首相に反発するのは当然です(天皇の意思表明は憲法違反ではありません)
 
安倍首相にとっては戦死者の御霊や英霊も同じでしょう。
ほんとうに英霊を信じているわけではなく、英霊を政治利用しているだけです。
 
稲田防衛相もそうです。稲田防衛相は以前、「靖国参拝は、私にとって絶対に譲れない一点です」と語っていましたが、防衛相に就任した今年は、ジブチ訪問を理由に靖国参拝をやめてしまいました。
もともと靖国神社を信仰していたわけではなく、靖国参拝を自分の政治活動に利用していただけですから、参拝をやめるのも簡単です。
 
「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は今年の8月15日、約70人の国会議員が靖国神社に参拝したそうです。
「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」とは、まるで冗談みたいな名前です。靖国神社を政治利用しますと言っているようなものだからです。
 
自分のことしか考えていない政治家と、国民のことを考えている天皇陛下と、あまりにも対照的です。

「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督・脚本)を観ました。
庵野監督というと「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズですから、なんとなくオタク的な人かと思っていましたが、本作は国の統治機構のあり方に迫る骨太な作品です。
 
今回のゴジラは、一言でいうと東日本大震災と原発事故そのものです。暗喩という言葉がありますが、そういうレベルを超えて、なにもかもが東日本大震災と原発事故を想起させます。
 
国の統治機構がリアルに表現される中で、リアルでは存在しえないゴジラが出現することにそれほど違和感がありません。「個体が進化する」という一応の理論づけ()がされていることに加えて、私たちは東日本大震災と原発事故という「想定外」のことを目の当たりにしたので、ゴジラという「想定外」が出現してもおかしくないという気持ちになるからでしょう。
 
主役は内閣官房副長官役の長谷川博己、ヒロインは日系人の米国大統領特使役の石原さとみです。長谷川博己はあまり政治家っぽくないし、石原さとみは大統領特使っぽくありません。この2人は「進撃の巨人」でも重要な役でしたから、東宝がイチ押しの俳優なのでしょうか。あるいは、庵野監督があえてそれらしくない俳優を起用したのでしょうか。
有名俳優が多数、ちょい役で一瞬だけ出てくるのも見どころです。
 
ストーリーを説明するわけにはいきませんが、東日本大震災と原発事故を体験した日本人には必見の映画だと思います。
日本とアメリカの関係にも踏み込んでいて、「属国」という言葉も出てきます。
 
人間は衝撃的な体験をすると、繰り返し思い出したり夢に見たりします。その体験を心におさめるためにそうした作業が必要なのです。肉親を亡くしたときに“喪の仕事”といわれる心の作業が必要なのと同じです。
東日本大震災と原発事故はあまりにも衝撃的な体験なので、日本人はまだ心におさめることができていないはずです。追体験するには恰好の映画です。
 
 
考えてみれば、初代「ゴジラ」や多数の怪獣映画も、戦争体験、とりわけ空襲体験を追体験するためにつくられたようなものです。
ゴジラが東京の街に現れると、人々はリヤカーや大八車を引いたり、また荷物を背負ったりして逃げまどいます。ゴジラに対して自衛隊の戦車や戦闘機が雨あられと砲弾、ロケット弾を浴びせかけますが、ゴジラに傷ひとつ負わせることができません。これはB29の編隊に対して日本軍が無力だったことの再現です。そして、東京の街は破壊されます。
 
怪獣は繰り返し日本の都市を破壊してきました。それを見ることで日本人は戦争体験を心におさめてきたのでしょう。
 
「シン・ゴジラ」はそうした過去の怪獣映画を踏まえていますから、必然的に戦争を想起させる映画でもあります。
自衛隊の全面協力を得て、さまざまな兵器が出てきます。そして、自衛隊がゴジラを攻撃しますが、通常兵器はすべて無力です。むしろ自衛隊の兵器でないものを使っての攻撃が有効だったりします。
 
牧悟郎というゴジラを研究していた異端の学者がいるのですが、すでに死んでいて、写真のみの出演という形になります。その写真が故・岡本喜八監督です。
「シン・ゴジラ」は岡本監督の「日本のいちばん長い日」を意識しているのかもしれません。また、岡本監督は「肉弾」など戦争の愚かさを描く映画を多数つくってきました。
 
牧悟郎は暗号化された謎の資料を残していて、それを読み解く方法は、その紙を折り鶴の形に折り曲げることでした。
「折り鶴」も平和のメッセージでしょう。
 
東日本大震災と原発事故を追体験でき、戦争についても考えさせられるということで、日本人なら誰が見ても損はない映画だと思います。
 

“フィリピンのトランプ”といわれるロドリゴ・ドゥテルテ大統領が絶好調です。今年6月30日にフィリピン大統領に就任し、7月21日の調査では大統領の信任率が91%に達したということです。
「半年以内に麻薬と犯罪を撲滅する」という公約が達成されつつあることが評価されているようです。しかし、そのやり方が問題です。
 
 
比大統領「人権は気にしない」、麻薬犯罪者の射殺命令継続を明言
 
86 AFP】フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領(71)が、現職中は麻薬犯罪者の射殺命令を撤回しないと明言し、「人権は気にしない」と述べていることが分かった。
 
 社会から麻薬と犯罪を撲滅するという公約を掲げ、そのためならば何万人でも犯罪者を殺害すると宣言したドゥテルテ氏の動向を追っている地元メディアによれば、今年5月の大統領選で同氏が圧勝して以降、麻薬密売容疑などで殺害された人数は約800人に上るという。
 
 ドゥテルテ大統領は自身の出身地、南部ダバオ(Davao)での記者会見で、「任期の終わりまで私が生きていたとしたら、最後の日まで、射殺命令は継続される」と述べた。
(後略)
 
 
要するに犯罪者をどんどん射殺していくというやり方です。ですから、ドゥテルテ大統領は“フィリピンのダーティハリー”とも“ドゥテルテハリー”とも呼ばれています。
殺されることを恐れてみずから出頭する犯罪者も多くなって、刑務所は超過密状態だということです。
 
犯罪にきびしく対処しろということは、アメリカのトランプ氏も言っていますし、日本でもワイドショーなどの基本的な論調です。ネットではそれ以上です。
 
しかし、犯罪にきびしく対処することで犯罪がなくせるなら、人類はとっくの昔に犯罪を克服しているはずです。
犯罪をなくすことは一時的には可能です。フィリピン国民もそこを見て大統領を支持しているのでしょう。
しかし、このやり方では警察が犯罪組織化します。
警察が犯罪組織化すると、それを取り締まる組織がないだけにやっかいです。
フィリピン国民もいずれその事態に直面して、ドゥテルテ大統領を支持したことを後悔するはずです。
 
警察が犯罪組織化する前に、ドゥテルテ大統領が独裁化するかもしれません。
いや、もうすでに独裁化しているようです。
 
 
フィリピン大統領、「麻薬に関与」の政治家ら160人以上を名指し
(前略)
 ドゥテルテ大統領は7日の夜明け前に行った演説で「私が話すことに適正手続きなど関係ない。そんな手続きはないし、弁護士もない」と述べた後、麻薬との関与が疑われる人物として判事9人、元議員や現職議員、市長など自治体長50人以上、さらに現職および退職した警察官や兵士の名前を挙げた。その上で、こうした高官らの護衛の引き揚げを命じ、彼らの武器所持許可を取り消し、制裁を受けることになるだろうと警告した。
(後略)
 
 
ドゥテルテ大統領のやり方が法的に問題にならないのはどうしてかと不思議に思っていましたが、判事も殺すと脅していたからかもしれません。
 
また、現職議員も名前を挙げて犯罪者呼ばわりしています。
これでは、自分の政敵はみんな抹殺していくことができます。
 
こうしたことが国民の支持を得ているのは、国民が犯罪者は「あちら側」の人間で、警察や大統領は「こちら側」の人間と認識しているからではないかと思われます。
しかし、実際のところは「あちら側」の人間も「こちら側」の人間も同じ人間です。
民主主義国の主権者は正しい人間観を持たないといけません。

リオ・オリンピックが始まりました。
開会式を生放送で見ましたが、森林破壊、地球温暖化、海面上昇など環境問題を前面に出し、サンバやカーニバルなどブラジル風の祭りの要素も入れて、なかなかいいものでした。
聖火ランナーが登場したときは、風が強くてトーチの火が吹き消されそうでした。もし消えたら、ライターでつけるわけにもいかず、予備の火を持ってくるのを待たないといけません。大丈夫かなと心配しましたが、火は消えることなく、すばらしいモービルつきの聖火台に着火しました。
開会式はとくにトラブルはなかったそうです。
 
考えてみれば、風でトーチの火が消えるなんていうドジなことが起こるわけありません。
このところリオについての報道は、治安が悪いということと、選手村でお湯が出ないとか、トイレが流れないとか、クーラーが動かないとか、そんなことばかりでした。偏見に満ちた報道に影響されていたのかもしれません。
 
上海ディズニーランド開業のときの報道が客のマナーが悪いということばかりだったのを思い出しました。日本のマスコミは一斉に同じ方向に走るという習性を持っているので、うっかりするとそれが偏見と気づかないことがあります。
 
 
偏見といえば、オリンピック自体がヨーロッパ的偏見に満ちたものです。
 
今の若い人は知らないかもしれませんが、昔のオリンピックはアマチュアリズムということにひじょうにこだわっていました。プロ選手はもちろん排除され、アマチュア選手が企業からわずかでもお金や便宜を提供されるときびしく処罰されました。共産圏の選手はステートアマと呼ばれ、アマチュアリズムに反するものと批判的に見られていました。
 
しかし、1974年にオリンピック憲章からアマチュア規定が削除され、プロも参加できるようになりました。そうなったからといってなにも問題はなく、それまでこだわっていたアマチュアリズムはなんだったのかということになりました。
今ではアマチュアリズムという言葉は死語です。
アマチュアリズムとは、お金や商業主義に対する偏見の別名だったのでしょうか。
 
オリンピックの標語は「より速く、より高く、より強く」です。
昔はオリンピックというと必ずこの標語が紹介されました。
しかし、最近この標語を目や耳にすることはほとんどなくなっています。
考えてみれば、これも「人類は進歩するべきだ」という進歩主義思想の現れでした。
 
五輪のマークは、5つの大陸を表し、全世界の人がスポーツのもとで手をつなごうという意味だそうです。
しかし、5大陸が平等ということではなさそうです。
というのは、入場行進の先頭はギリシャと決まっていて、聖火の採火式が行われるのもギリシャのオリンピア遺跡です。
これはもちろん近代オリンピックが古代オリンピアの祭典をもとに考案され、第1回大会がアテネで開かれたことからきています。
しかし、参加国はみな平等であるべきです。ギリシャだけ入場行進の先頭という特権的な地位を得ているのは不当です。
 
ヨーロッパの人たちは古代ギリシャの文化に特別な価値を見出しています。そして、自分たちはその流れをくんだ特別な存在だと思っています。
つまりヨーロッパ文化は世界の文化に優越していると思っているのです。
 
今、ヨーロッパ人が人種的に優越しているなどと言うと、人種差別だとして批判されます。
ヨーロッパ文化がほかの文化よりも優越していると露骨に言うと、やはり批判されるでしょうが、さまざまな形で巧妙に表現されています。オリンピックにおけるギリシャの特権的な立場はそのひとつです。
 
ヨーロッパ(とアメリカ)の文化はほかの文化に優越しているという考え方は、植民地主義、帝国主義を生み、今もイスラム諸国や中国などとの対立を招いています。
 
リオ・オリンピックの開会式はとてもカラフルで、いかにも熱帯の国という感じがしました。
今やオリンピックは世界のものです。ヨーロッパ中心思想はさっさとゴミ箱に捨ててしまいたいものです。

8月3日に発足した第三次安倍再改造内閣で稲田朋美氏が防衛大臣に任命されましたが、稲田氏は毎年終戦記念日に靖国神社に参拝しており、今年も参拝するようだと中韓との関係を悪化させるのではないかと懸念されます――とマスコミは例によって紋切り型の文章を書いています。
 
閣僚や政治家の靖国参拝は、中韓との関係を損なうからいけないのではありません。なによりも政教分離に反する疑いがあるからいけないのです。
そのため一応マスコミも、本人に公人としての参拝か私人としての参拝かを問いただしていますが、公人か私人かというのは微妙な問題で、ごまかすことも可能です。
 
それよりも私が思うのは、マスコミはどうして「英霊を信じているのですか」と聞かないのだろうということです。
 
靖国に参拝していながら「英霊を信じない」と言う人はいないでしょう。
たぶん「英霊を信じている」と言うはずです。
これ自体は信仰の自由ですから、批判はされません。
 
しかし、政治家が「英霊を信じている」と言うと、一般の人はかなりおかしいと思うのではないでしょうか。
 
英霊というのは、全知全能の神や八百万の神とは違って、戦死したというだけの普通の個人の霊です。
戦死者の遺族が信じたくなるのはわかりますし、靖国神社をちゃんと信仰している人もいるでしょうが、私などから見ると、「英霊を信じている」というのは、「幽霊を信じている」とか「心霊現象を信じている」というのに近いものがあります。
 
政治家が「英霊を信じている」と言ったとき、一般の人がどういう反応をするか見てみたいものです。
 
なお、個人としては信仰の自由がありますが、信仰と政治家の職務が反する場合もあります。
たとえばクエーカー教徒は非暴力主義ですから、クエーカー教徒の防衛大臣というのはありえないでしょう。
逆に、英霊を信じている人が防衛大臣になると、戦死者が出ることをあまり気にしないので、これもありえないはずです。
 
そういう意味でも、稲田防衛相がもし靖国参拝をしたら、マスコミは「英霊を信じているのですか」とか「靖国神社を信仰しているのですか」と質問してほしいと思います(ただ、すでにアメリカの副報道官が稲田防衛相の靖国参拝をけん制する発言をしているので、たぶん参拝はないでしょう)。
 

東京都知事選の結果は、小池百合子候補の圧勝となりました。
当選後、小池氏は都政の透明化に向けて「利権追及チーム」を立ち上げ、東京五輪などの事業をチェックしていくと表明しました。ひじょうにまともです。勝つべくして勝ったというところでしょうか。
 
一方、鳥越俊太郎候補は、最初は期待させましたが、その後の失速ぶりはひどいものでした。
週刊誌に女性スキャンダルを書かれたことなど、トランプ氏なら一笑に付して終わらせていたのではないでしょうか。演説で「51年間報道現場にいて権力側についたことは一度もない」と反権力の姿勢を強調したそうですが、都知事という権力の座を目指しているのですから、おかしな話です。
私は「左翼小児病」という古い言葉を思い出しました。
 
反安倍勢力が自滅してくれるのですから、安倍政権としては楽なものです。
 
反安倍勢力の問題点は、一言でいえば「戦略の欠如」です。
 
鳥越氏としては、都知事選で勝利することで安倍政権の暴走に歯止めをかけようとしたのでしょう。
都知事選で勝利するには、都民が都政になにを求めているかを知り、それに合わせた政策を用意し、ほかの候補との違いを示し、場合によってはほかの有力候補を攻撃するといった戦略を立てるのは当然のことです。
ところが、鳥越氏(の陣営)は、反安倍の主張を前面に出してしまいました。
 
なぜそうなったかというと、反安倍の感情が強すぎたのでしょう。
それと、最終目標が見えていなかったということもあると思います。
 
戦略というのは、最終目標を設定し、そこから逆算して立てていくものです。しかし、政権交代という最終目標が誰にも見えていないわけです。
せいぜい「安倍に一泡吹かせる」とか「安倍に一矢報いる」といった気分だったのではないでしょうか。
 
民進党は、岡田克也代表が辞任を表明しましたが、これも政権交代という目標が見えてこなかったからではないかと思います。
ということは、次期代表選びは、政権交代のビジョンを示せる人物は誰かということで行われなければなりません。
 
私の考えでは、対米関係の一からの見直しがポイントです。
安保法制、改憲、普天間基地問題、尖閣諸島問題、テロ対策など日本が直面する問題のほとんどはアメリカがらみだからです。
「ジャパン・ファースト」を掲げるかどうかは別にして、アメリカとタフに交渉できる政権が求められています。

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