村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2016年11月

麺をずるずると音を立てて食べるのは不快だから、そういう食べ方をヌードルハラスメント、略してヌーハラというのだそうです。
最近、ラーメン好きの外国人がふえてきていますが、外国人には麺をすすって食べるという習慣がなく、日本人の音を立てる食べ方に苦情を言うことがあるそうです。
それに対して「日本の食文化について外国人に文句を言われる筋合いはない。それがいやなら食べにくるな」などと反論が出て、一種の文化摩擦になっています。
 
人がものを食べる音は生理的に不快なので、できる限り音を立てないで食べるというのは世界共通のマナーです。ところが日本では、とくに日本そばについては逆に音を立てて食べるのがマナーとされます。
その類推でラーメンも音を立ててかまわないとされているようです。
 
世界の常識とまったく逆のマナーがどうしてできたのかについて、前に書いたことがありますが、もう一度書くことにします。
 
そもそも細く切った麺が食べられるようになったのは江戸時代のことです。ウィキペディアの「蕎麦」の項目にはこう書かれています。
 
 
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。
(中略)
蕎麦切りという形態が確立されて以降、江戸時代初期には文献に、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書『料理物語』には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っている。17世紀中期以降に、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着していった。
 
 
「江戸を中心に急速に普及し」と書いてあるところがポイントです。
つまり、江戸にはそば切りがあるが田舎にはない、という一時期があったのです。
 
「すすって食べる」ということは、すぐにはできません。外国人が苦手としているのを見てもわかるように、何度も食べているうちにできるようになります。
 
江戸に住んでいる人間は、いち早くすすって食べることができるようになります。ところが、田舎から出てきた人間はできません。
ですから、そば切りの食べ方を見れば、その人間が田舎者かどうかわかるわけです。
 
当時の江戸はどんどん人が流入して人口が増え続けていました。要するにみんな田舎者なのですが、それだけにわずかの違いを見つけて差別化しようとします。そのとき、そば切りの食べ方はいい材料になりました。
 
そば切りをすすれる人間は、すすれない人間の前で、わざと音を立ててすすって違いを見せつけ、田舎者をバカにしました。
わざと音を立てることは、そば切りはこうして食べたほうがうまいのだと言って正当化しました。
これがそばを食べるときのマナーになり、いまだに続いているのです。
 
なお、江戸前寿司は手で食べたほうがうまいといって、手づかみがマナーとされたのも同じと思われます。
江戸っ子はせっかちですから手づかみで食べ、箸で食べようとする田舎者をバカにしたのでしょう。
 
上方では、そばではなくうどんが食べられましたが、うどんについては、音を立ててすするというマナーはありません。上方では田舎者差別がそれほどではなかったからと思われます。
 
 
もともと食事のマナーは、人に不快感を与えないためにつくられたものですが、文明の進歩とともに行き過ぎてしまって、差別の道具にも使われるようになりました。
高級な西洋料理や日本料理のマナーは、やたらに細かくて複雑で、人に不快感を与えないということを通り越しています。高級な料理を食べつけている人がそうでない人を差別する道具にしたのです。
麺を音を立ててすするというマナーも差別の道具として生まれましたが、江戸時代の一時期に発達した特殊なもので、本来のマナーと真逆ですから、すたれるのは時間の問題と思われます。
 
寿司は手づかみのほうがうまいと言って手づかみで食べる人も最近はあまりいません。
日本そばをわざと音を立ててすする人はまだいますが、それが不快だという声はふえてきています。
 
ヌーハラ論争を外国との文化摩擦ととらえるとおかしなことになります。
本来とは真逆に発達したマナーのおかしさを外国人から指摘されているととらえればいいのです。
 
もっとも、ラーメンや日本そばは庶民の食べ物ですから、高級西洋料理のような厳格なマナーを要求されても困りますが。

アニメ「この世界の片隅に」(片淵須直監督)を観て、これは今年のベスト1だと思いましたが、そのあとじわじわと感動の波がきて、これは五年に一度か、もしかして十年に一度の傑作かもしれないと思うようになりました。
このようにあとから効いてくる映画はめったにありません。
 
どうして感動するのかについていろいろ考えました。ネタバレにならないように、ふたつの点について書いてみます。
 
 
この作品の魅力はまず、時代考証がすごくて、戦時下の生活がリアルに描かれていることです。食糧難、配給制、隣組、空襲など、知識としてはわかっているつもりでしたが、主人公の体験として描かれると、「ああ、そうだったのか」と、いちいち納得させられます。
 
と同時に、それまでの知識は偏っていたなということも感じさせられます。
たとえば空襲というと、町が火の海になって命からがら逃げた、死体をいっぱい見た、グラマンの機銃掃射を受けて隣にいた人が死んだ、というようなことばかりです。「火垂るの墓」も「はだしのゲン」も基本的にそういうものです。しかし、それらはみな極限状態で、めったにないことです。日常的にあるのは「自分のところに爆弾が落ちてこない空襲」です。
 
主人公すずの住んでいる呉は軍港のある町であり、米軍の空襲が頻発します。米軍機が接近してくると、高射砲の発射音、空中での炸裂音がドカン、ドカンと響き、空に弾幕が広がり、高射砲弾の破片がバラバラと降ってきます。空襲とはこういうことかと体験した気持ちになります。
 
高射砲弾が炸裂した煙が色とりどりに描かれるシーンがあり、「あれ?」と思いましたが、のちに軍オタの人が書いたレビューを読むと、日本軍は高射砲弾の煙に色をつけていたので正しく考証ができているということでした(どの高射砲から撃った弾かを識別して、弾道を修正するためです)
 
リアルな描写を見て、私も亡き父親の言っていたことを思い出しました。
私の父親は海軍の技術将校で、呉と横須賀に勤務したということです。原爆の話は聞いたことがないので、戦争末期は横須賀だったのでしょう。空襲のときに空を見ていると、高射砲弾が米軍機の後ろでばかり炸裂していて、なんでもっと前を狙って撃たないのかと思ったという話をしていました。
中学生ぐらいだった私は、高射砲は米軍機の進む先を狙って撃っているはずで、そんなバカなことはないだろうと反論したのを覚えています。
しかし、実際はそういう間抜けな光景があったのでしょう。
 
ちなみに父親は、戦争中は毎日ビールを飲んでいたと言っていました。戦争中に苦労したという話は聞いたことがありません。むしろいい目をしていたのでしょう。戦争体験といっても人によってさまざまです。
 
戦時下の庶民の生活というと、竹やり訓練、バケツリレー、勤労動員といったことばかり取り上げられますが、それはごく一部でしかなく、この映画を観ていると、そうした認識の偏りが訂正され、当時の生活の全体像が見えてきます。
それがこの作品の大きな魅力ですし、多くの人に見てほしいと思うゆえんです。
 
 
作品の最後のころになると、主人公すずも身近な人を亡くし、自身も大きな苦難に見舞われます(ネタバレにならないよう微妙な書き方になっています)。
こういうとき、主人公は努力して苦難を克服し、その姿に観客は感動するというのが物語の常道です。
しかし、この作品では、すずは苦難を克服しません。少なくともそこまでは描かれません。ただ苦難を受け止めるだけです。
これがこの作品の感動の深さではないかと思いました。
 
この反対がいわゆる「感動ポルノ」です。
障害や難病を負った人が努力して障害や難病を克服する姿をメディアが描いて感動を呼ぶというのが「感動ポルノ」です。
 
「障害を克服した障害者」は健常者と同じですから、健常者のフィールドに迎え入れられます。
しかし、「障害を克服した障害者」などというのはフィクションでしかありません。
だから「感動ポルノ」と呼ばれるわけです。
 
「障害を克服した障害者」の姿に感動する人は、障害者差別の感情を持っているに違いなく、その感動は偽物と言わざるをえません。
 
すずは大きな苦難を背負ってしまいますが、克服はせず、ただ受け入れています。
しかし、受け入れているところに人間の強さがあり、そこに本物の感動があります。
 
つけ加えると、その強さは、周りの人間の絆や、育ててくれた両親の愛があったからこそと思われます。
 
「この世界の片隅に」は、いろいろなことを考えさせてくれるすばらしい作品でした。

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「この世界の片隅に」を観ました。
上映館数が少ないにも関わらず公開第1週も第2週も興行成績ベスト10入りしています。私は平日の昼間に観ましたが、最前列にわずかの空席があるだけで、ほぼ満席でした。
 
今年の邦画は「シン・ゴジラ」「君の名は。」とヒット作に恵まれ、私はそれらも観ましたが、「この世界の片隅に」がナンバー1だと思います。
 
こうの史代のマンガを片渕須直監督がアニメ化した作品です。私は原作のマンガも知りませんし、この映画のことも公開直前まで知りませんでした。
普通、公開前には監督や声優がメディアに露出してプロモーションをしますが、テレビ局は一部の地方局を除いてまったくこの作品を取り上げませんでした。映画評論家などの評価はひじょうに高いのに、主人公役の声優はのん(能年玲奈)さんで、のんさんが辞めた芸能事務所が大手のバーニング系列だったため、バーニングの圧力でテレビ局は取り上げないのだという情報がありました。
それで興味を持ってヤフー映画のレビューを見てみると、ほとんどの人が星5つをつけて絶賛しています。
 
しかし、そうなるとまた疑いが芽生えます。「この世界の片隅に」はクラウドファンディングで資金を集めたので、たくさんの出資者がいます(エンドロールの最後に個人名がずら~と流れます)。出資者はネットで“工作活動”をする動機があります。
しかし、コピペみたいな書き込みではなく、それぞれ個人的な感想を書いていると判断して観にいったら、思った通り傑作でした(今回は当たりでしたが、今後クラウドファンディングで資金を集めた映画の評判には注意しないといけないかもしれません)
 
なお、のんさんの声優ぶりは素晴らしく、声優がほかの誰であっても、この映画の感動は何割か減じていたに違いありません。
こういう才能ある人が自由に芸能活動できないとは、まったく不当なことです。
 
戦争中、広島から呉へ18歳でお嫁に行ったすずという女性の日常生活が淡々と描かれるアニメです。
ストーリーの説明やこのアニメのよさについてはすでに語られていますし、ネタバレになってはいけないので、私はちょっと角度を変えて書いてみたいと思います。
 
 
今年ヒットした「シン・ゴジラ」は、いわば東日本大震災と原発事故の映画です。あのときああやっておけばあんなひどい事故にならなかったのにという悔しさはいまだにみんな持っていると思いますが、「シン・ゴジラ」を観ると、原発事故を追体験することでその悔しさが癒されます。
「君の名は。」は東日本大震災と津波被害の映画です。あのときみんな高台に逃げていれば津波の犠牲者の数は少なくてすんだのにという悔しさが、この映画を観ることで癒されます(未来に起こる災害から人を救おうとするストーリです)
そういう意味で、このふたつの映画が大ヒットしたのはよくわかります。
 
で、「この世界の片隅に」は、戦争と原爆の映画です。観ると戦争と原爆が追体験できます。それがやはりヒットしている理由でしょう。
 
普通、フィクションには「戦争反対」とか「命のたいせつさ」とかの訴えたいことがあって、それを最大限に訴えられるようにストーリーが構成されるものですが、「この世界の片隅に」のストーリーにはドラマチックなものがなにもありません。クライマックスも、あえて言えば「この世界の片隅に」という言葉が語られるシーンがそれでしょうが、クライマックスと言えるほど盛り上がるわけではありません。
 
それでもおもしろいのは、戦時中の生活が実に丹念に描かれることと、すずの周りに何重もの人間の絆があることが描かれるからでしょう。
 
あの大震災のときも“絆”ということが強調されましたが、わざとらしい言葉だとして反発する向きもありました。「この世界の片隅に」では、すずの実家の両親と兄、近所の人、幼なじみとの絆が嫁に行ってからも切れませんし、嫁ぎ先でも夫、義両親、出戻りの義姉とその子ども、近所の人、たまたま迷い込んだ遊郭の女性などとの絆が当たり前に描かれます。
 
それから、最近の映画の常道の物語は、「夢を持って努力する主人公が困難に打ち勝ち夢を叶える」というものですが、この映画にはそういう「夢を持って努力する人間」というのは出てきません。すずは絵を描くのが好きで、子どものころ展覧会で入賞したこともあるのですが、絵描きになりたいという夢があるわけではありません。周りの人間も、生活していける職があればいいという感じです。
 
つまりこの映画は、ドラマチックなストーリーもなく、普通の人間ばかりが出てくる映画です。それがかえって感動に深みを与えています(これは原作の力なのでしょう)
 
それにしても、今の時代は“絆”が強調され、“夢を持って努力する”ことのたいせつさが強調されますが、どうも人間観が薄っぺらになっている気がします(努力しない人間は貧乏になってもしかたがないという冷酷な価値観も広がっています)
 
 
原発事故を追体験できる「シン・ゴジラ」と、津波被害が追体験できる「君の名は。」は、大震災を経験した日本人にとって国民映画ともいえるものです。
そして、戦争と原爆を追体験できる「この世界の片隅に」も国民映画になるべきものです。
 
もっとも、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」を観ると、しきりに大震災の過去が思い出されますが、「この世界の片隅に」を観ていると、未来に起こることを見ているような気になります。



【追記】
この映画評の続きを次に書きました。
『感動ポルノの逆を行く「この世界の片隅に」』

安倍首相は1117日、ニューヨークでトランプ氏と会談し、そのあと「2人でじっくりと胸襟を開いて、率直な話ができた。ともに信頼関係を築いていくことができる、そう確信の持てる会談だった」と語り、2人が笑顔で握手する写真が公開されました。
差別されている者が差別している者にのこのこ会いに行って笑顔を見せるとは、世界中に恥をさらしました。
差別に鈍感な者は自分が差別されても気がつかないようです。
 
トランプ氏は安倍首相についてこんな発言をしています。
「日本の安倍は(米経済を)殺す者だ、やつは凄い。地獄の円安でアメリカが日本と競争できないようにした」
「安倍は頭が切れる。キャロライン・ケネディは安倍氏に飲まされ食わされ、日本が望むことを何でもするようになった」
 
これは安倍首相を評価した言葉ではありません。日本にアメリカがやられているといって(差別主義的な)アメリカ人の屈辱感を刺激した言葉です。
白人至上主義者にとって、安倍首相は所詮有色人種です。
トランプ氏は安倍首相を「猿の惑星」の猿のように位置づけて、聴衆をあおっているのです(トランプ氏が「メルケル首相は頭が切れる。アメリカはメルケルにやられっ放しだ」と演説しても、聴衆はまったく盛り上がりません)
 
 
また、トランプ氏は日本人についてこう語ったということです。
 
 昭和63(1988)年に日本のテレビ番組でドナルド・トランプ氏にインタビュー取材した一橋大学非常勤講師の植山周一郎氏(71)=グローバルビジネス論=は、選挙戦での過激な暴言について、「勝つための戦術だったのではないか」と指摘した。
 トランプ氏は取材当時、日米貿易が米国に不利だと言及した上で「(いい条件を設定できる)日本人は米国人より頭がいい。尊敬する」と持ち上げたという。
 
「日本人は頭がいい」というのはまさに差別主義者の言葉です。
ユダヤ人差別主義者が「ユダヤ人は頭がいい」と言うのと、あるいは私たちが「チンパンジーは頭がいい」と言うのと同じです。
 
日本人をひとからげにして一言で評価するのは、まさに差別主義者のやり方です。
 
「日本人を尊敬する」というのも同じです。
 
トランプ氏はクリントン候補とのテレビ討論会で女性蔑視発言を追及されたとき「私ほど女性を尊敬している人はいない」と反論しました。
女性といってもいろいろな人間がいるのですから、普通の人なら「女性を尊敬する」などとは言いません。トランプ氏にとっては女性はひとくくりにしていいものなのです。
 
 
トランプ氏は外交では「中国やメキシコ、日本には強硬姿勢で臨む」と再三表明しています。
カナダやオーストラリア、ドイツなどはやり玉に上げません。明らかに人種的偏見があります。
トランプ支持派の集会は白人ばかりだということです。
トランプ氏の当選は「白人至上主義者の逆襲」なのです。
 
ですから、オバマ大統領はトランプ氏と面会したとき、笑顔ひとつ見せませんでした。
差別主義者の大統領はごめんだというアメリカ人も多くて、アメリカではいまだに反トランプの動きがあります。
 
そうしたところに安倍首相がトランプ氏と笑顔で面会したわけです。
これではトランプ氏やその支持者は、自分たちの差別主義的政策は間違っていないのだと勘違いしてしまいます。
 
安倍首相はせめて会ったあと、「トランプ氏が人種的偏見の政策を打ち出すことがないか、これから注視していきたい」ぐらい言うべきでした。

各国はトランプ氏とどうつきあっていくか悩んでいるようですが、プーチン大統領は明快なスタンスを持っています。
プーチン大統領がトランプ氏と電話会談をしたというニュースを見ても、そのことがわかります。
 
 
米ロ関係、改善へ一致 トランプ氏とプーチン氏、電話会談
 
 ロシアのプーチン大統領は14日、米大統領選で勝利したトランプ氏と電話で会談した。
(中略)
ロシア側は電話についてどちらからかけたかを明らかにせず、「双方の合意に基づいて実現した」と説明している。
 プーチン氏はトランプ氏に「平等、互いの尊重、相手国の内政への不干渉という原則」を基盤に新しい米国の指導部と対話をする用意があると表明した。
(後略)
 
 
プーチン大統領は「平等」という言葉を使って釘を刺しています。
もっとも、トランプ氏がそれに同意したかどうかはわかりません。
いや、たぶん同意はしていないでしょう。
 
前回の『「朝貢貿易」を求めるトランプ氏』という記事でも書いたことですが、トランプ氏が勝利宣言で言ったことをもう一度引用しておきます。
 
 
そして、世界に向けて宣言します。私たちは、常にアメリカの利益を最優先しますが、全ての人・国に公正に対応します。
 
 
これは、アメリカは世界に君臨すると言っているのと同じです。
もし中国の習近平国家主席が「私たちは、常に中国の利益を最優先しますが、全ての人・国に公正に対応します」と言ったら、日本人は「傲慢だ」と言って怒るはずです。
 
プーチン大統領は「平等」という言葉を使って、トランプ氏をけん制したわけです。

 
国際政治においては平等などありえず、大国や強国が勝手な振る舞いをするのだという考え方もあるでしょう。
そうすると、日本は大国アメリカとの関係で、不平等条約を押し付けられるなど、なんらかの不利益をこうむっているはずです。
どのように不平等で、どういう不利益をこうむっているのかということを明らかにするのは国際政治学の役割です。しかし、そのようなことを言う国際政治学者を見たことがありません。
 
どうしてそうなのかということを「永続敗戦論」で注目された白井聡氏が「戦後政治を終わらせる」という本で書いていました。その部分を引用します。
 
 
学問の世界から一例を挙げると、国際政治学という学問があります。国際政治学者が書いた本を書店で手に取ると、われわれプロは、目次より何よりまず著者の学歴経歴を見ます。翻訳書の場合は訳者の学歴経歴です。学歴経歴を見るだけで、その本に書いてある内容の八割九割はわかってしまう。どうしてか。まず国際関係論とか国際政治学を専攻している学者の多くがアメリカ関係の研究をやっています。日米関係やアメリカ外交ですね。戦後の日米関係の重要性に鑑みれば、国際政治学の専門家の多くがアメリカに関する研究をすること自体は不自然ではありません。
問題は、この人たちがどのような教育を受け、どのようにキャリア形成をするかということです。その人たちの多くは、アメリカに留学をし、場合によってはアメリカで学位を取る。
アメリカにおける国際関係論とはどういう学問なのか。これは「アメリカの国益を最大化するためにはどうするべきかを考える学問である」と明快に定義されています。アメリカ人がそういった学問――これほど政治的目的を前面に出した学問を学問と呼ぶべきなのか微妙ですが――をやるのは勝手ですが、日本人がアメリカに行って、この分野で学位を取り、当地の人脈をつくり、そして帰国後に日本の大学や研究機関で職を得て、講義や教育、あるいは政府の政策に助言をしたりする。そのことの意味を、よく考える必要があります。
なぜわれわれが、国際政治学者の本を見るとき、学歴経歴から見るのか、察しがつくでしょう。何年アメリカで学んだのか、そこで学位は取ったのか、帰国後の就職活動で苦労しているか――こうした点を見れば、本の内容はおおよそ推測できます。つまりある国際政治学者のアメリカ滞在歴が長く、帰国後あっという間に良いポストに就職しているというような場合、その著者の主張は、「日米同盟は永遠に続くべきである」というものであると、見当がつくのです。そのような結論ありきで書かれた書物に、当然知的緊張はありません。
(白井聡著「戦後政治を終わらせる」103105ページ)
 
 
日本人が「アメリカの国益を最大化するためにはどうするべきかを考える学問」を学んでいるのも妙なものですが、それを「日本の国益を最大化するためにはどうするべきかを考える学問」に転換させればいいわけです。しかし、転換させなければ、ただの売国学者です。
そして、どうやら日本には売国学者がいっぱいいるようです。
 
政治学というのはろくでもない学問だと前から思っていましたが、白井聡氏の本を読んでそのことを改めて認識しました。

トランプ氏は反グローバリズム、反TPPを主張しています。
グローバリズムもTPPもむしろアメリカの利益になるはずで、トランプ氏がそういう主張をするのが不思議でした。
 
また、トランプ氏はアメリカ・ファーストというスローガンを掲げています。
そうすると、たとえば日本がジャパン・ファーストを掲げると、トランプ氏はどう反応するのかということが疑問でした。
 
安倍首相は17日にニューヨークでトランプ氏と会談することになりました。
安倍首相が「私もあなたと同様にジャパン・ファーストでやっていく」と語れば、安倍首相はトランプ氏と意気投合し、互いの健闘をたたえ合うということになるのでしょうか。
 
その答えは、トランプ氏本人が9日の勝利宣言の中で言っていました。
 
トランプ新大統領が勝利宣言「私は全てのアメリカ人の大統領になる」(演説詳細)
 
その演説の中から、アメリカと他国の関係について語っている2か所を引用します。
 
 
私たちには素晴らしい経済プランがあります。国の成長を倍増させます。世界で最も強い経済を作り出していきます。また、私たちと「良好な関係を築きたい」という国とは、うまく付き合っていきます。素晴らしい関係を築けることを期待しています。
 
 
そして、世界に向けて宣言します。私たちは、常にアメリカの利益を最優先しますが、全ての人・国に公正に対応します。紛争や対立ではなく、この機会にパートナーシップを。共通認識を探っていきます。
 
 
アメリカと他国は対等だとは言っていません。他国に公正に対応すると言っています。
アメリカは偉大な国として君臨し、従う国は公正に扱ってやるということです。
 
トランプ氏が目指しているのは「朝貢貿易」です。
 
TPPはアメリカも含めた各国が共通のルールに従おうというものですから(例外は山ほどありますが)、トランプ氏がやろうとしないのは当然です。
 
トランプ氏は、カナダ、メキシコが再交渉に応じないならNAFTA(北米自由貿易協定)を離脱すると主張してきましたが、トランプ氏の当選を受けてカナダ、メキシコは再交渉に応じると表明しました。トランプ氏はアメリカに都合のよいものに変えるつもりでしょう。
 
次は日本の番です。トランプ氏が目指す「朝貢貿易」を受け入れることが求められます(だから安倍首相はトランプ氏のもとに飛んでいくわけです)
 
ロシアのように最初からアメリカに朝貢する気がない国は、気楽にトランプ氏の当選を喜んでいます。
中国はこれからどう対処するのか見ものです。
 
 
それにしても、トランプ氏が他国を公正に扱ってやると公言していることがまったく問題にされないのはどうしてでしょうか。
国際政治はある程度力によって動くので、弱い国は強い国のむりな要求を受け入れなければならないこともあります。しかし、それを屈辱と感じる感性がないのではお話になりません。

アメリカ大統領選挙はまさかのトランプ候補の勝利となりました。
これはイギリスのEU離脱の国民投票に似ています。国民の不満や怒りの大きさがメディアなどにはとらえきれなかったのでしょう。
 
トランプ政権の今後を占うと、ブッシュ政権と似た軌跡をたどるのではないでしょうか。
ブッシュ大統領は最初はきわめて不人気で、「インターネッツ」などの“ブッシュ語”を連発して、国民からもバカにされていました。しかし、そこに9.11テロが起きて人気が急上昇、アフガン戦争、イラク戦争に突き進んで、再選を果たしました。
 
トランプ大統領も最初は細かいことでぎくしゃくして、無知な発言が国民からバカにされるのではないかと思います。
保護主義的な経済政策が成果を出すとも思えません。
そこに9.11テロのようなことが起こることはなくても、テロは年中起こっているわけです。テロ組織やイランかどこかの国を標的に軍事行動を起こすということになるのではないでしょうか。
 
そうなると日本では、アメリカの軍事行動についていくかどうかでうんざりするような議論が起きそうです。
 
 
現在、戦争へのハードルがとても下がっています。ロシア、サウジアラビア、トルコがそれぞれ勝手に軍事行動を起こしています。トランプ大統領はそのハードルをさらに下げそうです。
 
トランプ氏はプーチン大統領とウマが合いますから、ロシアとの関係はうまくいくかもしれませんが、中国とは経済問題で摩擦を起こしそうですし、メキシコがメキシコの予算で国境に壁をつくるとも思えませんし、日本も無理難題を突き付けられ、世界中でトラブルが起こるでしょう。“アメリカ・ファースト”とはそういうことです。
 
“アメリカ・ファースト”に対抗して各国が“自国ファースト”に走るというのが最悪のシナリオで、第三次世界大戦への道です。
 
日本はそういう事態を避けるために、「自国中心主義からの脱却」という観点での外交をしなければならないところですが、そんな外交力があるわけがなく、結局、屈辱的な対米従属外交をするのでしょう。
そして、その屈辱をごまかすために、みずから望んで対米従属をしているのだという格好にするのでしょう。いつものパターンです。

アンパンマンは、空腹の者に自分の顔を食べさせるという、正義のヒーローとしてはちょっと変わった存在です。作者のやなせたかし氏は正義についてどう考えていたのでしょうか。その一端が朝日新聞の「折々のことば」に出ていました。
 
 
連載:折々のことば 570 
正義って、普通の人が行うものなんです。偉い人や強い人だけが行うものではないのね。
やなせたかし
 
 目の前に溺れかけている子どもがいたら誰もが迷わず飛び込むだろう。正義とはそういうものだと、「アンパンマン」の作者である漫画家は言う。
(以下は有料ページにつき)
矢崎泰久編「永六輔の伝言」から。(鷲田清一)
 
 
あれ、これは正義ではなくて善のことではありませんか。
孟子は、性善説の根拠として、井戸に落ちそうになっている子どもを見れば誰でも助けようとするということを挙げました。それと同じです。
 
正義と善はまったく違う概念です。
科学的倫理学に立脚すれば、どう違うかは簡単に説明できます。
 
たとえば電車の中で、老人や妊婦に席を譲る人は善人です。
老人や妊婦が立っているのに席を譲らない人は悪人です。
そして、悪人に向かって注意する人は正義の人です。
 
善人に力はいりません(電車の中で立っていられるぐらいの体力は必要ですが)
しかし、悪人に注意すると反撃してくるかもしれないので、正義の人には力が必要です。
言い換えると、悪人と戦うだけの力がないと正義は行えません。
 
勧善懲悪の物語のパターンは決まっています。
善人が悪人に苦しめられています。善人は力がないので、自力ではどうしようもありません。そこに正義のヒーローが現れて、悪人をやっつけることで善人を救います。
 
力関係を示すとこうなります。
 
正義>悪>善
 
つまり正義は最強なのです。
正義のヒーローには誰も逆らえません。
 
そうなると、堕落するのが人間の常です。
いや、そもそも正義のヒーローというのは、最初から最強の悪人が正義を自称しているだけかもしれません。
つまり「正義の力」か「暴力」か容易に区別がつかないのです。
 
今はそういう認識が広がってきて、正義というのはあまり信用されなくなりました。
凶悪犯を死刑にしろという主張も、「正義のため」ではなく「被害者遺族の感情のため」ということが理由にされます。
 
やなせたかし氏も、そういう認識のもとに、正義を説明するのに善を持ち出したのかもしれません。
 
おそらくやなせたかし氏の頭の中にあったアンパンマンの正義のイメージは、難民救済のようなことだったでしょう。
しかし、難民救済活動を正義とは言いません。人道、博愛、慈善と言います(難民を生み出す元凶をやっつけることが正義です。ただ、正義が難民を生み出しているのかもしれません)。
やなせたかし氏も混乱していたと思われます。
 
 
「折々のことば」を執筆しているのは哲学者の鷲田清一氏です。
鷲田氏が正義と善を取り違えた説をそのまま紹介しているのはいただけません。

小池都政が発足3カ月になりました。
「小池マジック」という言葉があるように、小池百合子都知事の政治的センスは抜群です。
都知事選のときに小池氏を支持した自民党の区議七人を「七人の侍」と最初に言ったのも小池氏です。
その後、「七人の侍」という言葉が独り歩きしていきました。自民党が七人をなかなか処分できないのは、この言葉のせいもあるのではないでしょうか。
 
築地市場の豊洲移転に関しても、豊洲新市場がほぼ完成しているのにストップをかけたときは無謀ではないかと思いましたが、盛り土や謎の地下空間のことが連日マスコミに取り上げられ、小池知事の思惑通りに進展しているようです。
 
専門家会議は新市場の土地に全面的に盛り土をするように提言しましたが、いつのまにか計画が変更され、主要な建物の地下にモニタリング空間がつくられていました。この計画変更の経緯が不透明で、小池知事は11月1日、都の職員とOBの8人を懲戒処分対象とすると発表しましたが、なぜ地下空間がつくられたかについては曖昧なままです。
 
なにかの利権とか業者からの賄賂で計画変更がされたというならわかりますが、そういうことではなさそうです。
となれば、答えはひとつです。
そのことは次の記事にも示唆されています。
 
幹部「空洞作らないとダメ」 都の「盛り土」方針を覆す 豊洲問題、発案者は特定されず (1/2ページ)
 
この記事から3か所を引用します(「同法改正」とあるのは土壌汚染対策法改正のこと)
 
当時、市場は同法改正の動きを注視。図面作成に携わった当時の担当者は調査に、上司から「土壌汚染が発生したら掘り返して浄化するスペースが必要」などと指示されたと証言した。
 
報告書によると、当時部長だった宮良真氏は、会議での自身の発言について「(モニタリング空間を)造らないのはダメだと言っただけ」と説明。ほかの出席者からは「『汚染が出たら掘削除去しに行く準備をしていこう』と力強い発言があった」などの証言があった。
 
調査チームは地下空洞について「法改正への対応と新市場建設を両立させるための合理的な解決策として考え出された」と分析し、担当者の「日本でだれもやったことのない土壌汚染対策工事を短期間で仕上げた」「『プロジェクトX』だと思って取り組んだ」との証言を紹介した。
 
 
つまり、都の職員たちは、盛り土だけでは汚染対策が十分ではないと判断し、汚染が出てきたときに備えて、重機を入れて作業できる地下空間をつくったのです。
 
もちろん都の職員が勝手にそんなことを判断していいわけがありません。専門家会議の提言に問題があると思うなら、それなりの手続きを踏んで訂正するべきです。ですから、職員たちも自分たちは正しいことをやったとは主張できなかったのでしょう。
 
 
ただ、問題は、盛り土だけで汚染対策は十分だとする専門家会議の提言が正しいのか、それとも盛り土だけでは不十分で地下空間が必要だとする都の職員の判断が正しいのかということです。
 
私は土壌汚染の専門家でもないし、現場のことを知っているわけでもありませんが、二者択一で判断しろと言われたら、都の職員のほうが正しいに違いないと判断します。
というのは、専門家会議というのは、原子力の専門家を考えてもわかるように、たいていろくなものではないからです。
一方、都の職員はおそらくなんの利権もなしに純粋に判断したはずです。
 
もともと築地市場の豊洲移転は、豊洲の土壌汚染がわかって疑問の声が噴出しても強行されたというのが私の印象です。
築地は銀座に近い一等地で、そこに2階建ての広大な市場があるわけです。ここに高層マンションとショッピングセンターを建設すれば巨大な利権が発生します。
専門家会議が盛り土で汚染対策は十分とする提言をしたのは、結果的にこの利権を後押ししました。
 
小池知事は、都の職員とOB八人の処分を発表しましたが、これは「八人の侍」を処分したことになるかもしれません。

大阪府警の機動隊員が沖縄でヘリパッド建設反対派に対して「土人」発言をしたのを擁護する人がいます。
松井一郎大阪府知事は「活動家の皆さんもあまりにも過激な活動をしている」「機動隊に勤務ご苦労様と言うのは当然だ」と府議会で答弁しました。
要するに向こうが暴言をしているのだから、こっちも暴言するのは当然だ、という理屈です。
「土人」発言を擁護しているネトウヨなどもみな同じ理屈です。
 
しかし、公務中の警官が「売り言葉に買い言葉」みたいなことをしていいわけがありません。
松井知事は、暴力団と対峙している警官がヤクザと同じ言葉づかいをするようになっても擁護するのでしょうか。
 
この点は、橋下徹氏のほうがまともです。橋下氏は大阪市長だった2012年4月の新規採用者発令式でこう語りました。
 
「公務員たる者、ルールを守ることを示さないと。皆さんは国民に対して命令する立場に立つ。学生のように甘い人生を送ることはできない」
 
「国民に対して命令する立場」という表現はへんですが、とくに警官は国家権力の実行部隊で、拳銃を携行しているのですから、高いモラルが求められるのは当然です。暴動が起こったとき、警官が暴徒といっしょになって興奮していたら、仕事になりません。
 
「売り言葉に買い言葉」という理屈が通用するのは一般人の場合、たとえば右翼団体と左翼団体がぶつかり合っているような状況です。
ヘリパッド建設反対派は左翼でしょうから、松井知事などは警察を右翼団体だと思っている理屈です。
 
実際のところ、戦前の警察は左翼や反戦派を弾圧し、戦後は冷戦構造の中で左翼を敵視してきましたから、右翼団体みたいなものです。
しかし、こうしたことは許されません。冷戦は終わったのですから、なおさらです。
 
自民党は、教員など公務員の政治的中立にはうるさいのに、警察の偏向は放置しています(というか、自民党が偏向を促進してきたようなものです)
自民党にしても松井知事にしても、自分が偏向しているので、警察の偏向は認識できないわけです。
 
なお、警察の偏向の実態については例によって「リテラ」が記事を書いています。
 

「土人」発言の背景…警官に極右ヘイト思想を教育する警察専用雑誌が!ヘイトデモ指導者まで起用し差別扇動

 
 
「土人」発言をきっかけに、警察の政治的偏向に焦点が当たるといいのですが、マスコミはまったくと言っていいほど警察批判はしないので、残念ながら望み薄です。

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