2018年度から教科化される小学校道徳の教科書の検定が行われ、文部科学省がパン屋を和菓子屋に、アスレチックの遊具のある公園を和楽器屋に変えさせました。学習指導要領にある「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点が足りないからだそうです。
ほかに「しょうぼうだんのおじさん」が「しょうぼうだんのおじいさん」に変えられました。これは感謝する対象に「高齢者」を含めるためだそうです。
検定全体では「244の意見がつき、このうち43が指導要領に合わず」ということなので、ここに挙げた例はその一部ですが、検定のバカバカしさはわかります。
これまでの道徳の副読本もバカバカしいものばかりでした。
私は道徳副読本についての本の書評を書いたことがあります。
「みんなの道徳解体新書」書評
ですから、検定に合格した教科書もバカバカしいものであることは想像がつきます。
というのは、教科書に書くべき道徳が定まっていないからです。
たとえば、人間性善説と人間性悪説とどちらが正しいのかわかりません。
これは教科書に書くということ以前に、現在の道徳の限界です。
そのため新自由主義的な自己責任論が正しいのかどうかもわからず、みんながいつも論争しているわけです。
ですから、道徳の教科で教えることができるのは、「世の中にはこういう道徳があります」ということしかありません。たとえば、儒教道徳やキリスト教道徳があるとか、武士には武士道があって、江戸期の商人には商人道があったとか、カントやニーチェの思想があるとかです。高校の「倫理」はそういうものです。
宗教教育というのも、世の中にはどんな宗教があって、その教義はどんなものかということを教えるものでしょう。もし宗教教育と称して、学校でキリスト教会で行われるのと同じような説教が行われたら問題になるでしょう。
ところが、日本の道徳教育では、子どもに道徳について教えるのではなく、道徳の説教をしようとしているのです。
実際のところは、道徳の説教をすると問題になるので、ほとんどは「〇〇について考えましょう」という形になります。
おとなが考えても結論が出ないので、子どもに考えさせるわけですが、結論の出ないことを考えさせるのは時間のむだです。
ただ、「日本スゴイデスネー」みたいなのは日本人において最大公約数的な支持がありますし、「親孝行をしましょう」はあまりに儒教的なので反発がありますが、「高齢者に感謝しましょう」は保護者の年齢層には支持されるでしょう。そういうことで今回の検定が行われたのかなと思います。
そういうことを考えると、教育勅語を支持する人がいまだに多い理由もわかります。
教育勅語は天皇の言葉という権威があったので、そのまま道徳を教えることができました。今の時代にもこういうものがほしいのでしょう。
しかし、教育勅語は戦後の国会で否定されましたし、今の天皇陛下が認められるはずもありません。天皇陛下が国民に生き方を教えるということは象徴天皇制に根本的に反します。
文部科学省や教科書執筆者はどんな資格で子どもたちに「道徳を」教えるのでしょうか。
道徳の教科は「道徳について」教えるものにするしかありません。