村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2017年08月

南軍のリー将軍像が白人至上主義者のシンボルになっているとして撤去されていることに対してトランプ大統領は「美しい像や記念碑を撤去することで、我々の偉大な国の歴史と文化が引き裂かれるのを見るのを悲しく思う」「リーらの次は誰だ? ワシントン、ジェファーソンか。ばかげている」とツイートしました。
 
実際は、リー将軍の次はコロンブスでした。
 
白人至上主義への抗議、各地のコロンブス像も矛先に
 
コロンブスはアメリカ大陸を「発見」しただけではなく、アメリカ大陸で植民地化を進め、先住民虐殺をしましたから、その像を撤去する理屈はわかります。それにコロンブスはスペインのために植民地化をしたので、今のアメリカからは批判しやすいということもあるでしょう。
 
では、ワシントン、ジェファーソンらは建国の偉人として評価され続けていくかというと、そうはいかないでしょう。アメリカ合衆国は先住民虐殺と黒人奴隷制の上に築かれた国ですから、建国した人間の責任がいずれ問われることになると思います。
 
昔の西部劇では、インディアンは奇声を上げて襲ってくるだけの野蛮人として描かれていましたが、少しずつ変わってきて、白人がむしろインディアンを虐殺したということになり、最終的には西部劇というジャンル自体がほとんどなくなりました。
建国の偉人の扱いが逆転しても不思議ではありません。
 
とはいえ、アメリカ建国には評価するべき面もあります。
 
英国王の支配を打ち破り共和制を打ち立てたというのは人類史上画期的な出来事です。
この影響でフランス革命も起きたのです。
人権思想を確立するとともに、人民の国として大衆的な文化も発達しました。音楽はその典型で、ヨーロッパがクラシック音楽に支配されているときに、アメリカではカントリー、ジャズ、ロックという音楽が発達し、世界に影響を与えました。
アメリカが「自由と民主主義」を標榜するにはそれなりの理由があります。
 
とはいえ、一方では先住民を虐殺し、黒人奴隷を働かせていたのも事実です(先住民や黒人に人権はありませんでした。人権思想のこの欺瞞がいまだに尾を引いて差別問題がこじれています)
つまりアメリカには二面性があるのです。
白人は自由と人権を獲得したという一面と、先住民と黒人から自由と人権を奪ったという一面です。
そして、昔は前者ばかりと思われていましたが、だんだんと後者に光が当てられるという流れにあります。
 
たいていの物事には二面性があるので、アメリカに二面性があるのも普通のことです。
ところが、日本ではことアメリカに関しては、白か黒か、天使か悪魔かという二分法になりがちです。
アメリカをどう評価するかでその人の政治的立場が判定されます。
有力政治家は「日米同盟は外交の基軸」という呪文を唱えなければなりません。
 
というわけで、今の日本はアメリカのよい面だけ見て、悪い面を見ないのが普通になっています。
 
しかし、ペリー提督が日本に来たのは西部開拓の延長上であり、日本は黒いアメリカに直面したのです。
今、沖縄の基地問題が解決しないのも、黒いアメリカのせいです。
 
トランプ大統領がツイッターでワシントン、ジェファーソンの名前を挙げたのをきっかけに、日本人もアメリカの歴史を振り返り、日米関係を考え直すべきでしょう。
 

バージニア州シャーロッツビルで白人至上主義者と反対派が衝突して1人が死亡したのは、南軍のリー将軍の像を撤去することがきっかけでした。
リー将軍の像や南軍旗が白人至上主義者のシンボルとして利用されているので、像の撤去が各地で行われているそうです。
 
しかし、これは方向性が違うと思います。
 
上野公園には西郷隆盛像があります。政府への反逆者の像が建てられていて、人々から敬愛されているのは不思議な光景ですが、社会の寛容さの表れともいえます。
リー将軍の像も同じように受け入れればいいのです。
 
アメリカの映画やドラマで南北戦争は数限りなく取り上げられていますが、正義対悪の戦いとして描かれることはまずありません。むしろ敗者の南軍側に同情的に描かれる傾向があります。そのため物語に深みが出ます。もっぱら南軍側の視点に立った「風と共に去りぬ」などはその典型です。
正義対悪の戦いを描く近ごろのハリウッド映画がみな薄っぺらになるのとは対照的です。
 
リー将軍像を撤去しようとする人たちは、南軍は悪で、北軍やリンカーン大統領は正義だったという歴史観に立っているのでしょうか。
 
リンカーン大統領は偉大な人間のように思われていますが、普通の人種差別主義者でした。生物学者のスティーブン・J・グールドが差別主義に関する本の中で、リンカーン大統領自身の差別主義的な発言を紹介しているので、ここに引用しておきます。
 
「白人と黒人の間には肉体的相違があり、そのため、社会的、政治的平等の名の下に一緒に生活することは永久にできないであろう。彼らはそのようには暮らせないのだから、一緒に留まっている間には、優劣の立場が生じるに違いない。他の人々と同様、私も白人に優位な立場が与えられることを支持する。」(「人間の測りまちがい――差別の科学史」スティーブン・J・グールド著74ページ)
 
北軍対南軍といっても、要するにどちらも白人であって、人種差別主義者同士の戦いでした。そのため北軍が勝利しても、黒人は奴隷から解放されたとはいえ、人権は回復されず、選挙権も付与されませんでした。結局、黒人は下層労働者になるしかなく、奴隷制時代とそれほど変わらなかったのです。
 
奴隷解放戦争のあるべき姿は、当然ながら白人対白人ではなく、黒人対白人でなければなりません。
具体的に言うと、南部の黒人奴隷が一斉に蜂起して白人農場主たちに戦いを挑み、北部諸州の助けを得ながら戦いに勝利し、みずから黒人人権宣言を出して、白人と同等の権利を獲得する――。
もしこのような戦いがあれば、アメリカは黒人差別のない国になっていたでしょう。
 
現実のアメリカはいまだに差別大国です。
 
今、トランプ支持派と反トランプ派が差別問題を巡って対立していますが、報道を見ていると、反トランプ派で声を上げている人の多くは白人です。白人対白人というのは南北戦争と同じパターンです。
トランプ大統領の人種差別政策にもっとも反対なのは、黒人、ヒスパニック、アジア系などの人たちのはずです。そういう人たちが立ち上がって運動の前面に立ち、反差別主義の白人たちが加勢する形になって、戦いに勝利すれば、アメリカはすべての人種が平等な、差別のない偉大な国になります。
 
有色人種が立ち上がって前面に立つと、分断が深まったなどと批判されるかもしれませんが、気にすることはありません。アメリカにおいては自分たちも主人公なのです。
有色人種がハリウッド映画のヒーローのように果敢に戦って勝利すれば、白人至上主義者たちも考えを改めるでしょう(ついでにハリウッド映画も変わるでしょう)。

お笑いコンビ・ウーマンラッシュアワーの村本大輔氏が終戦記念日に「僕は国よりも自分のことが好きなので絶対に戦争が起きても行きません」とツイートしたことが話題になっています。
 
そもそもは村本氏が811日の「朝まで生テレビ!」に初出演し、司会の田原総一朗氏が「国民には国を守る義務があると思う」と発言したことに対し、村本氏が「絶対に戦争に行くことがない年寄りに言われてもピンともこないわけですよ」と反論する場面があり、それを踏まえてのツイートです。そのときよりも考えを深めたものと思われます。
 
「国より自分が好きなので戦争に行きません」というのは最強の論理です。「好き嫌い」を言う人間を論理的に説得することはできないからです。
「好き」を「愛する」に換えて「国より自分を愛しているので戦争に行きません」と言えば、「愛国心」にも勝てます。
「国を守る義務はある」と言われても、「義務より自分の命のほうがたいせつです」と言えばいいわけです。
 
 
しかし、戦争主義者にとってはこんな言い分が通ると都合が悪いので、いろいろ反論がなされています。「なぜ『戦場へ行く』という発想になるのか。今住んでいる町が戦場になると思わないのか」とか「家族や故郷を守ろうと思わないのか」といった具合です。
 
しかし、こんなことを言う人の戦争のイメージはどんなものでしょうか。イラクの民兵組織みたいなことを考えているのでしょうか。
弥生時代には外敵を防ぐ環濠集落があって、そのころなら家族や共同体のために戦いました。しかし、武士の時代になると、武士は自分の領地のために戦ったので、郷里や共同体のために戦ったのではありません。西洋の騎士も同じで、戦争は基本的に傭兵がするものでした。
近代国民国家では、国民は国家のために戦います。自衛隊に入っても、自分の故郷防衛の任務につくなんてことは、奇跡でもない限りありません。むしろ家族を置いてどこかへ行くわけで、しかも死んでしまう可能性があるので、家族を守りたければ自衛隊に入ってはだめです。
 
戦争に負ければ家族が守れないから戦争に行くべきだという意見もあります。
しかし、1人の人間が軍隊に入っても、たとえば10万人の軍隊であれば、10万分の1の戦力強化にしかなりません。いや、今の自衛隊ならイージス艦や戦闘機の性能などが戦力の大きい要素を占め、上層部の作戦指揮能力も重要ですから、1兵卒の戦力が勝敗を左右するなどということはほとんどありません。
 
つまり自分と家族の幸せを考えれば、軍隊に入って戦争に行くという選択肢はありません。
 
 
したがって、個人が戦争に行くには非合理的な理由が必要です。
昔の日本は天皇を神格化して、天皇のために戦うという理由をつけました。
今の日本は、国旗国歌、靖国神社、教育勅語などを活用して、国家そのものを神格化しようとしています。
 
誰であれ自分の生き方としては、戦争に行くという選択肢はありません。
しかし、国家規模で考えると、他人を戦争に行かして自分は戦勝国の国民として利益を得るという選択肢があります。冒頭の田原氏の主張がそうです。安倍首相などもそう考えているに違いありません。
戦いは国と国だけではなく、国内の個人と個人でも行われているということを認識して、だまされないようにしないといけません。
 
 
ところで、村本氏は「ファンの女の子に手を出した」というような自分のゲスぶりをさらして笑いを取るという特殊な芸風で、さまざまな問題発言をするので“炎上芸”とも言われています。
「国より自分が好きなので戦争に行きません」というのも炎上覚悟の勇気ある発言です。
平和主義者は戦いを好まないので、「憲法9条を守れ」というような守りの姿勢になりがちですが、平和を守るにはこのように戦う姿勢も必要です。
 

トランプ大統領はバノン主席戦略官を更迭しました。
バノン氏はトランプ大統領と思想的にいちばん近い人間です。「お前はクビだ!」が決めゼリフとはいえ、この調子では味方が誰もいなくなります。
トランプ政権が崩壊の過程に入ったことは明白です。
 
トランプ大統領は敵をつくり、攻撃することで人気を得てきました。
こういう政治家は普通、人気を得るための戦略でやっているものですが、トランプ大統領の場合は、それが本性で、戦略ではありません。
そのため、身内で結束するということもできず、身内にも敵をつくってしまいます。
 
バージニア州シャーロッツビルで白人至上主義団体と反対派が衝突し、1人が死亡した事件について、トランプ大統領は白人至上主義団体を名指しで非難しなかったことで世論から批判されました。そのため翌日、トランプ大統領は紙を読みながらKKKなどを非難し、「人種差別は悪だ」などと述べました。ところが、その翌日の記者会見で記者に質問されたことをきっかけに、「突撃してきた反対派の『オルト・レフト』はどうだ? 彼らに罪はないのか?」「両者に非がある」などと語り、またも世論から批判されました。
 
こういういきさつを見ると、トランプ大統領は戦略よりも感情を優先させて失敗していることがわかります。
 
戦略よりも感情の人というのは、選挙戦のときのテレビ討論などでは有利に働きました。瞬間的に相手に反論できるからです。
大統領になれば戦略的に行動するようになるだろうという期待がありましたが、大統領になってもツイッターで、誰かを批判することと、自分をアピールすることを言い続けました。政権運営よりも“自分ファースト”の感情を優先させたのです。
 
ところが、今でも新聞などは、「トランプ大統領が白人至上主義者擁護の発言をしたのは白人支持層をつなぎとめるためだ」などとトランプ大統領の“狙い”を解説したりしています。
北朝鮮問題に関しても、マスコミや識者はトランプ政権の対北朝鮮政策についていろいろ解説したり推測したりしています。しかし、トランプ大統領に戦略などあるわけがなく、推測するだけむだです(ただ、共和党主流派や軍は戦争をする気がないのははっきりしていると思います)

しかし、「アメリカ大統領は偉大である」という思い込みの強い人は、なかなか現実が見えません。
また、「強固な白人支持層がいる」ということでトランプ大統領を評価する人もいますが、その白人支持層というのは要するに白人至上主義者で、経済的には黒人よりもはるかに恵まれています(2012年のアメリカ国勢調査で黒人の貧困率は27.2%、白人の貧困率は12.7)
 
トランプ大統領の支持率が下がったことに対して、誰かが立て直しの戦略を立てたところで、トランプ大統領がその通りに行動することはないので、立て直すことは不可能です。
 
これから考えなければならないのは、どうやってトランプ政権崩壊をソフトランディングさせるかということです。

 
なぜこういう人がアメリカ大統領になったかというと、インターネットの普及でヘイトスピーチが当たり前になった世の中の流れに乗ったからです。
トランプ政権の崩壊で、ヘイトスピーチをする人間がいかにだめであるかが誰の目にもはっきりすれば、この愚かな政権に世界が振り回されたこともむだではなかったということになります。

「平和」と「安全」は別の概念ですが、政治の世界では「安全」や「安全保障」という言葉が「平和」と同じような意味で使われています。
たとえば、防衛省のホームページの「わが国の安全保障」と題された文章の冒頭は、「平和と安全は、国民が安心して生活し、国が発展と繁栄を続けていく上で不可欠です」となっています。
「平和」と「安全」が同列になっています。
 
世界が平和なら自国も安全になります。そのため平和と安全が似た概念と思われるのかもしれません。
 
しかし、世界が戦争をしていても自国が安全だという場合があります。たとえば第二次世界大戦のときのスイスなどがそうです。これは安全保障政策としては成功したことになります。
 
戦争しながら自国が安全だという場合もあります。たとえば日清、日露、日中戦争をしていたときの日本がそうです。これも安全保障政策としては成功していたことになります。日本国民は兵隊以外、空襲にあうまで安全な生活を享受していました。
アメリカはアフガニスタン、イラクで戦争をしているとき、一部にテロはありましたが、自国は基本的に安全でした。
 
つまり安全と戦争は両立しうるのです。
いや、安全の追求が戦争を起こすといったほうがいいかもしれません。
 
昔の日本も、「満蒙は日本の生命線」などと言って海外で戦争をしたわけですし、アメリカはテロや大量破壊兵器からの安全を求めてアフガニスタンやイラクに攻め込んだわけです。
 
現在の日本では、敵基地攻撃能力を持つべきだという意見が一部にあります。もし日本が北朝鮮のミサイル基地を先制攻撃したら、自国の安全のために他国の安全を侵したことになります。

平和というのは相手とともに享受するものですが、安全というのは、相手の安全を侵して自分だけ安全になるということが可能です。
しかし、そのような利己的な振る舞いは、結局うまくいかないものです。
 
よく「一国平和主義」はだめだと言われますが、「一国平和主義」というのは言葉として矛盾しています。「一国安全主義」ないし「一国安全保障主義」というべきでしょう。
戒めるべきは「一国安全保障主義」です。
 
安倍首相は「積極的平和主義」という言葉を使いますが、これも「積極的安全保障主義」と言うべきでしょう。平和主義とは別物です。
 

終戦記念日が近づき、戦争と平和について考える季節になりました。
 
森友学園の幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させ、軍歌を歌わせていたように、日本人の中にはまだ軍国主義時代に戻りたいと思っている人たちがいます。
一方に、憲法九条を守ることにこだわっている人たちがいます。
この両者は、角突き合っているうちに角がからまって身動きがとれなくなった二頭の雄鹿のようです。
どちらも過去にこだわっているので、未来志向の平和論が出てきません。
 
政治学では、平和とは「戦争が発生していない状態」という意味です。
これは「ローマの平和」という言葉があるように、「力の支配による平和」という意味でもあります。
 
しかし、私たちが普通に思う平和とは、「みんなが仲良くなって戦争が起こらない状態」のことです。
これは「真の平和」です。
 
世の中には「力の支配による平和」を目指している人と「真の平和」を目指している人がいて、両者の考える「平和」の意味が違うので、それを区別しないと議論が混乱します。
 
 
「力の支配による平和」よりは「真の平和」が好ましいのは当然で、私は「真の平和」はどうすれば実現できるかと考えてきました。
 
古代の戦争を研究する「戦争考古学」という分野があって、それによると戦争が行われるようになったのは農耕が始まってからで、狩猟採集社会では戦争と呼べるほどの争いはなかったということです。ですから、戦争は人類の本能というわけではありません。
このことはこのブログでも書きました。
 
戦争考古学のススメ
 
しかし、文化人類学によると、狩猟採集段階の未開社会ではけっこう部族間の争いがあって、ほとんど戦争と呼べるぐらいです。原始時代とはちょっと違うようです。
 
生物学によると、なわばりを持つ動物はつねになわばり争いをしています。各個体はつねに公平より少し利己的に振る舞うようにできているからです。ただ、なわばり争いはそれほど深刻にはなりません。
 
人間も本能レベルでは公平より少し利己的に振る舞うのは同じです。しかし、その振る舞い方は本能レベルにはとどまらず、どんどん激化していき、戦争をするようになったと考えられます。
 
みんなが仲良くなって争わないという「真の平和」は、限定的な場面では生じることがありますが、外部と交流したり、次の世代が生まれたりすると、崩れてしまいます。
「真の平和」という理想は長続きしないのです。
 
結局のところ、長続きする平和は、「力の支配による平和」ということになります。
昔の村でも、長老の裁定による村八分という秩序維持システムがありました。
今の社会には警察があって、それで個人の利己的な振る舞いを抑えて治安を維持しています。
国際社会もそれと同じはずです。
 
 
われわれは「真の平和」は当面諦めて、「力の支配による平和」を目指すしかありません(「真の平和」は人類がもっと知恵をつけた未来に実現するかもしれません)。
そうすると、アメリカに頼って、アメリカの力で平和を維持してもらおうということになりますが、これはよくありません。
なぜならアメリカもまた利己的に振る舞うからです。
「ローマの平和」といいますが、多くの人はローマ帝国に支配され、奴隷にされていたわけで、それと同じことになります。
 
アメリカであれ中国であれ、覇権国が世界を支配すると、支配される側は不幸です。
 
となると、民主的に運営される機関、つまり国連の力で世界を支配してもらおうという「国連中心主義」が正しいという平凡な結論になります。
 
 
ともかく、今の日本には、
「真の平和」を求める理想主義的な人、
アメリカの覇権を望む人、
国連中心主義の人、
の三種類の人がいると考えると、議論がわかりやすくなります。
 
ただ、アメリカの覇権を望む人は、自分の正体を隠そうとするのでやっかいですが、たいてい国連をバカにしたことを言うので見きわめられます。
 

就任以来、失言連発の江崎鉄磨沖縄北方担当大臣ですが、8月8日の記者会見で「日米地位協定、もう少し見直さないと」と言ったのは、失言というよりも正論です。
しかし、案の定、その後「見直し」を「改善」と言い換えました。
 
江崎大臣が日米地位協定見直し発言をしたきっかけは、オーストラリア沖合で米軍のオスプレイが墜落事故を起こしたことについて聞かれたことです。
江崎大臣は、名護市の海岸でオスプレイが墜落事故を起こしたことを持ち出しました(大臣は「1か月ぐらい前だったですか」と言っていますが、正しくは昨年1213日の事故)
このときオスプレイの乗組員に死者は出ませんでしたが、機体は大破して、「不時着」か「墜落」かという議論が起きました。
 
江崎大臣の言葉をニュース番組から書き起こしてみます。
 
「このときも事故の報告をと米軍に願ったのですが、いまだ報告されておらんのかな。要するに最低でもね、操縦ミスだったか、機体が好ましくないのか、返事いただきたいよね」
 
私はこれを聞くまで、この事故の報告がされていないということを知りませんでした。江崎大臣はよく知っていたなあと思いましたが、おそらく会見の直前にレクチャーを受けたのでしょう。
 
米軍が事故報告をいまだにしていないということは、ほとんど報じられていません。検索してみて、「琉球新報」の8月7日の社説でやっとわかりました。
社説の一部を引用します。
 
 
名護市の墜落事故の時も米軍は「機体の安全性には問題がない」として、事故から6日後に飛行を再開した。ところが米側はこの事故の調査報告書をいまだに日本側に提供していない。
 事故調査報告書は日米合同委員会で、日本が米国に「公表可能な報告書の写し」の提供を要請し、6カ月以内に提供されることになっている。名護市の事故でも日本政府は6日後に報告書の写しの提供を要請している。6月19日が期限だったが、米側は日本側に提供せず、提供できない理由などの通知もしていない。
 6カ月以内に提供できない場合、米側は調査終了見込み日を日本側に通知することになっている。その日米合意もほごにしたまま、現時点でも提供されていない。そして今回、墜落事故が起きた。米軍のやりたい放題ではないか。
 調査報告書の遅れは「機体に問題はない」とするこれまでの見解に、疑問符がついているからではないか。2010年のオスプレイ墜落事故の際に「機体に問題があった」と結論付けた調査報告書に対して、空軍上層部が「人為的ミス」と改ざんするよう圧力を掛けていたことがあるため、そう疑わざるを得ない。
 
 
期限がきても報告しないとはけしからん話です。
こういうことを踏まえて江崎大臣は「地位協定見直し」を言ったわけです。
 
つまり江崎大臣の発言は、「米軍は名護市の事故の報告をいまだにしない」ゆえに「地位協定の見直しが必要だ」という論理になっているのです。
 
ところが、江崎大臣が名護市の事故に言及したことを報じたニュース番組は、今回調べたのですが、報道ステーションだけでした。ほかのニュース番組は、そのことに触れないので、まるで江崎大臣が唐突に、理由なく地位協定見直しを言い出したようになっています。
 
沖縄県民以外の日本人で報道ステーションを見ていなかったほとんどの人は、米軍がいまだに名護市の事故の報告書を提出していないという事実を知らないはずです。
人間は具体的な事実に心を動かされるものです。
 
1995年に沖縄で12歳の少女が3人の米兵にレイプされるという事件があり、3人の米兵が日本側に引き渡されなかったために、沖縄で地位協定見直しを求める大規模な運動が起きましたが、このときも本土のマスコミはレイプ事件そのものをまったく報じませんでした。
そのため、本土と沖縄では大きな温度差が生じたのです。
 
報道ステーション以外のマスコミは、江崎大臣が問題提起した「名護市の事故報告の遅れ」をどうして無視するのでしょうか。
いや、名護市でオスプレイの事故があったという事実さえもが無視されています。

沖縄差別はこういう形で現れます。

オスプレイがオーストラリア沖合で事故を起こしたことを受けて小野寺防衛相は日本国内でのオスプレイ飛行自粛を米軍に申し入れましたが、8月7日午前中に沖縄の普天間飛行場からオスプレイが飛び立つのが確認されました。
日米関係を象徴するような話です。
日本国内のことなのに、日本はアメリカにお願いするだけです。
 
これは日米関係だけでは終わりません。北方領土問題にも及んできます。
 
昨年12月、安倍プーチン会談が安倍首相の地元の山口県で行われ、北方領土問題で大きな進展があるのではないかと期待されましたが、北方領土での「共同経済活動」をするなど経済協力の合意だけに終わりました。
なぜそうなったかというと、交渉過程で谷内正太郎国家安全保障局長がロシア側から「2島を引き渡した場合、島に米軍基地は置かれるのか」と聞かれて、「可能性はある」と答えたからです。
「米軍基地はつくらせない。約束する」と答えればいいのに、バカじゃないかと思いました(念のために日米地位協定を見てみましたが、アメリカが一方的に基地をつくれるというような規定はありません)
 
ただ、これは水面下の交渉を朝日新聞などが報じたもので、どこまで真実かわかりませんでした。
しかし、プーチン大統領は6月1日、世界の主要通信社の代表と会見した際、北方四島について「日本の主権下に入れば、これらの島に米軍の基地が置かれる可能性がある」と述べ、現状では日本への返還は難しいとの認識を示しました。
 
これに対して日本政府はなにも反論をしていませんから、実際に交渉のときに「米軍基地が置かれる可能性がある」と言ったのでしょう。
 
北方領土に米軍基地ができるかもしれないなら、ロシアが北方領土を返そうとしないのは当然です。
 
安倍政権がなぜ北方領土返還をだめにするようなことを言ったのか不思議でしたが、そのわけがやっとわかりました。
 
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』の著者である矢部宏治氏が「現代ビジネス」で次の記事を書いていました。
 
なぜ日本はアメリカの「いいなり」なのか?知ってはいけないウラの掟
内閣改造でも絶対に変わらないこと
 
そこから一部を引用しますが、ぜひ「現代ビジネス」で全文を読んでいただきたいと思います。
 
 
さらにもうひとつ、アメリカが米軍基地を日本じゅう「どこにでも作れる」というのも、残念ながら私の脳が生みだした「特大の妄想」などではありません。
なぜなら、外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方増補版」198312月)のなかに、
○アメリカは日本国内のどんな場所でも基地にしたいと要求することができる。
○日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することはできず、現実に提供が困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない。
という見解が、明確に書かれているからです。
つまり、日米安全保障条約を結んでいる以上、日本政府の独自の政策判断で、アメリカ側の基地提供要求に「NO」ということはできない。そう日本の外務省がはっきりと認めているのです。
 
 
つまり密約があるというわけです。
こういうことは陰謀論だとかたづけられやすいですが、プーチン大統領の発言を日本政府がまったく否定しないのは、密約があるからだと考えるしかありません。
 
また、日本のマスメディアは、プーチン大統領の発言を追及したり、北方領土返還がうまくいかなかった理由を追及したりすることがまったくありません。それをすると日米の密約にぶつかることがわかっているからです。
 
沖縄の基地問題がまったく解決しないのも、こうした密約があるからと考えるしかありません。
 
自民党政権はこうしたことにまったく無力です。
なんとかできる可能性があるのは民進党と共産党ぐらいです。
少しずつ情報公開を進める形で日米関係をまともなものにしていってほしいものです。

安倍改造内閣でちょっと驚いたのは、河野太郎氏が外務大臣に起用されたことです。
河野太郎氏は行政改革に熱心な人ですから、内政向きのはずです。
 
どうして河野氏が外務大臣かということにはいろいろな説がありますが、中国や韓国に配慮したものではないかという見方もあります。河野氏の父親の河野洋平氏は慰安婦問題で河野談話を出した人で、中国や韓国の受けがよさそうだからです。
現に韓国のメディアはこの人事を好意的に伝えています。
 
安倍首相はずっと「地球儀を俯瞰する外交」と称して中国包囲網づくりに力を入れ、中国の周辺国にバラマキ外交を行ってきました。
ところが、安倍首相は6月初めに、中国の「一帯一路」構想に協力する意向を表明しました。
その少し前には、二階幹事長が日本政府はアジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加を決断すべきだとの考えを表明しています。
 
つまりこの時点で、安倍政権は中国包囲網づくりをやめて、中国と協力していく方向に転換したと思われます。
このことはこのブログでも書きました。
 

「安倍首相は中国へすり寄るつもりか」


河野氏の外務大臣起用もその流れにあると思われます。
 
これは日本外交の大転換です。
しかし、このことはあまりメディアでは論じられないので、私の考えすぎかと思っていたら、「選択」8月号にこんな記事がありました。
 
 
20日中首脳会談実現の舞台裏 習近平に拝み倒した安倍官邸
 七月八日にドイツ第二の都市ハンブルクのホテルで日中首脳会談が行われたが、裏では日本側が譲歩を重ねていた。
 会談実現に向けて日本側は五月から準備。谷内正太郎・国家安全保障局長が、来日した楊潔篪国務委員を箱根に招いて実施を頼み込んだのだ。しかし中国側は態度を明らかにせず、七月に入り、主要二十カ国・地域(G20)首脳会議の開催の直前になってようやく了承を伝えてきた。しかも、この段階になって、「面会するなら宿泊先に来い」という要求をしてきたのだ。まるで日本側が呼び出されたような格好だが、首相官邸はこれを了承した。当初、七日に開催される予定だったが、これも中国側の意向を忖度して八日に変更した。というのも七月七日は盧溝橋事件が起きた日だったため、「習近平氏の感情を損ないかねない」という見方が出たのが原因のようだ。
 現地時間の七日午前、G20会合に出席した安倍晋三首相は会場で習近平主席に「会って話をしましょう」と直接話しかけた。日本側がこうした涙ぐましい努力を重ねたものの、中国から正式な連絡を受け取ったのは七日夜になってからだった。土下座せんばかりに拝みこんで実現したものであったことがよくわかる。
 
 
やっぱり安倍首相は中国包囲網づくりはやめて、中国にすり寄っていたのです。
しかし、このときもメディアはこの会談のことをあまり大きく報じませんでした。日中首脳会談実現というと、普通は大きなニュースなのですが。
 
それにしても、中国に土下座せんばかりに頼み込んで会談を実現したというのは情けない限りです。
私は、安倍政権の外交方針の転換は、アメリカべったりから、アメリカと中国を天秤にかけるしたたかな外交への転換かもしれないと思ったのですが、そういうことではなかったようです。
自主独立の外交をやったことがないので、アメリカ依存か中国依存かという二者択一になってしまうのでしょう。
 
もちろん背景には、中国の台頭と、トランプ政権のでたらめさがあります。
ということは、安倍外交の迷走はこれからも続くはずです。
メディアや野党はもっと追及するべきです。

蓮舫氏の辞任に伴う民進党代表選に枝野幸男氏と前原誠司氏が立候補する見込みです。
民進党の不人気は、民主党政権の失敗をちゃんと反省していないからです。この両者はどうでしょうか。
 
2009年、民主党は総選挙で「コンクリートから人へ」を訴えて大勝して政権を取りましたが、そのときのマニフェストに「八ッ場ダム事業中止」があり、国交相に就任した前原氏は就任記者会見で八ッ場ダム事業中止を明言しました。
これに対して強烈な反発が起こり、紆余曲折があって、最終的にダム事業再開が決定されました(そのときは馬淵澄夫国交相)
現在、本体工事中で、2020年完成予定です。
 
この八ッ場ダムは、普天間基地の辺野古移設見直しと並んで、民主党政権の目玉政策でした。両方とも挫折したことが民主党政権の失敗を決定づけました。
 
辺野古移設見直しは、私の考えでは、方向性としてはよかったのですが、鳩山首相が甘い見通しで政策として打ち出してしまい、力不足のために失敗したということです。しかし、民進党は今にいたるまで、はっきりした見解を出していません。
八ッ場ダムについても同じです。
 
前原氏は八ッ場ダム問題の当事者なのに、私の知る限り、なにも反省の弁を述べていません。
反省といっても、ふたつの方向があります。
事業中止という目標はよかったが、実行するだけの力がなかったという反省か、それとも、ダム建設は必要な事業で、それを中止しようとしたこと自体が間違いだったという反省かです。
どちらの反省かによって、民進党の進む方向が変わってきます。
こんないい加減なことでは民進党に支持が集まらないのは当然です。
 
前原氏は代表選に出るのですから、八ッ場ダム問題の総括についてちゃんと語るべきです。
 
 
枝野氏については、私自身は、原発事故処理をうまくやったという印象を持っています。
あのとき、東電、経産省、原子力安全保安院の無能ぶりは目をおおわんばかりで、唯一まともに機能していたのが官邸でした。
ただ、マスコミ対策とか、国民にアピールするということがまったく欠けていました。
自民党は菅内閣の原発事故処理が不手際だと攻撃しましたが、それに対して、原発事故が起きたのは自民党政権のせいだといった反撃をするべきでした。そうすれば、支持率はそれほど下がらないし、のちの原発再稼働を阻止することにも役立ったでしょう。
 
今の安倍政権はマスコミ対策と国民へのアピールをやりすぎるぐらいにやっていて、こういうことも政権維持にはたいせつです。
当時の民主党政権は政権運営だけで手いっぱいだったのでしょうが。
 
 
今の安倍政権は完全に手詰まりで、これほど野党から攻めやすい状況はありません。
森友、加計問題だけでなく、外交は中国包囲網づくりが完全に失敗し、北方領土問題も経済協力をさせられるだけで終わりそうです。経済も、物価目標はいまだに未達で、長すぎる金融緩和への疑問が高まっています。
 
日本維新の会や都民ファーストの会は、目指すところが自民党と同じようなものです。
ここはやはり民進党にがんばってもらわなければなりません。
代表選では、民主党政権の失敗について議論してほしいものです。

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