村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2018年06月

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにどう答えるかという問題があります。今回はそれについて考えてみます。
 
この問いが問題になったのは、1997年、いわゆる酒鬼薔薇事件が起こって少年犯罪が注目され、「子どもたちに『「人を殺してはいけない』ということを教えるべきだ」という声が高まっていたころのことです。あるテレビ番組で一人の高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と発言し、居合わせた識者が誰も答えられないという出来事がありました。このことは多くの人にとってショックだったらしく、その後、私の知るところではふたつの雑誌が「『なぜ人を殺してはいけないのか』という問いにどう答えるか」という特集を組み、多くの識者が答えを寄せましたが、その答えはみごとにばらばらでした。
ということは、誰もまともに答えられなかったのです。
 
近代以前には、こうしたことはありえませんでした。道徳は宗教に根拠を持っていたからです。「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う者がいれば、「それは神の教えだから」とか「そんなことをすれば地獄に落ちるから」と答えればよかったのです。
近代社会では、宗教に代わる根拠が求められることになりました。その役割を担うのは倫理学ということになりますが、今の倫理学は残念ながらまったく役に立ちません。
 
ただ、私は科学的倫理学=進化倫理学という立場を標榜しているので、その立場から答えてみます。
 
 
まず今の世の中に「人を殺してはいけない」という道徳はありません。私たちは正当防衛で人を殺し、死刑制度で人を殺し、戦争で人を殺すことを容認しているからです。ハリウッド映画の正義のヒーローが大量殺人を犯すシーンでは拍手喝采しています。
ですから、正しくは「罪のない人を殺してはいけない」というべきです。
 
「罪」というのも面倒くさい概念なので、もっと単純に「悪くない人を殺してはいけない」ということにします。
つまり今の世の中は、「悪くない人を殺してはいけないが、悪い人、とくに極悪人なら殺してもかまわない」というのが主流の道徳になっています。
 
しかし、こういう議論になると、善と悪とはなにかという問題になり、倫理学不在の状況では誰も答えられません。
 
 
科学的倫理学=進化倫理学の立場からは、そもそも人に向って「人を殺してはいけない」と言うのが愚かなことです。
というのは、人間は誰でも人を殺したくないという本能を持っているからです。
自分がナイフか拳銃を持って人を殺す場面を想像すればわかるはずです。
「戦争における『人殺し』の心理学」(デーヴ・グロスマン著)という本によると、人間には同類を殺すことには強烈な抵抗感があって、訓練された兵士ですら戦場でなかなか敵兵を殺せないということです。

とはいえ現実に殺人事件はあって、なにも悪いことをしていない人間が殺されることがあります。
こういう場合、たいてい犯人には長期間にわたる強烈なストレスがかかって、人間性がゆがんでしまっているものです(酒鬼薔薇少年もそうでした)。
しかし、そういう人間に「人を殺してはいけない」と言っても効果はないでしょう。
 
人に向って「人を殺してはいけない」と言うことは、「お前はもしかして人を殺すのではないか」という不信感を表明しているのと同じです。
さらには「私は人を殺してはいけないことがわかっているが、お前はわかっていないだろう」と、相手を見下していることにもなります。
酒鬼薔薇事件のときはおとながパニックになって、見境なく若者に「人を殺してはいけない」と言ったので、不愉快になった1人の若者が「なぜ人を殺してはいけないのか」と反撃したのです。
 
ですから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対しては、「人を殺してはいけないなどと言ってすみませんでした」と謝るのが正しい答えです。

「遊んでばかりいないで勉強しなさい」というのは親の子どもに対する常套句です。
なぜ勉強しないといけないのか――というのは誰もが感じる疑問でしょうが、それ以前に、なぜ遊びと勉強があって、両者は対立する関係にあるのでしょうか。
 
いうまでもなく勉強させられるのは人間の子どもだけです。
犬の子や猫の子を飼ったことのある人はわかるでしょうが、彼ら彼女らは遊んでばかりいます。
 
猫の遊びというと猫じゃらしです。猫じゃらしを動かすと、つかまえようと飛びかかります。
これはもちろん無意味な遊びではなく、明らかに狩りで獲物を捕まえる練習です。
 
複数の猫がいる場合は、しばしば家中を走り回って取っ組み合いをします。これはまるで喧嘩をしているようですが、よく見ると、追いかけたり追いかけられたりと役割を交代しているので、遊びとわかります。これももちろん獲物を追いかけて捕まえる練習です。
 
それから、物陰に隠れて、突然人間を襲撃するということもします。じっと身構えて、突然ダッシュするということもします。これらも狩りの練習であることは明らかです。
 
高いところに飛び乗ったり、飛び降りたり、そのほかさまざまな動きをするのも、運動能力を高めることに役立ちます。
 
つまり猫の遊びというのは、ほとんどが狩りに役立つことばかりです。
 
犬も同じようなものです。
犬の場合は猫じゃらしのようなものではなく、ボールやフリスビーなどを追いかける遊びを好みますが、これは犬の祖先の狼が草原で狩りをしていたからです。
犬はよく物をかんで、スリッパや靴をだめにしたりしますが、犬は爪の威力はあまりなくて、もっぱらかむ力で獲物を仕留めます。物をかむことでかむ力が鍛えられます。
 
もちろん犬も猫も目的意識を持ってやっているわけではありません。その行為が楽しくてやっているのです。ですから、遊びです。
遊んでいるうちに生きる能力が身につくわけですから、遊びと勉強が一致していることになります。
 
 
人間も狩りをするサルですから、狩猟採集社会では遊びと勉強が一致していたはずです。
子どもの遊びの代表的なものに鬼ごっこがあります。オニが子を追いかけてつかまえるというものですが、これも狩りの練習です。
 
ちなみに狩りというのは、探索・発見・追跡・格闘・捕獲という要素から成っています。
遊びにはこの要素のいくつかが必ず入っています。テレビゲームなども同じです。
 
文明が進むとともに、子どもは遊んでばかりいられず、読み書きをさせられ、兵士になる訓練をさせられるようになりました。
つまり遊びと勉強の分離です。
 
近代産業社会では勉強の量があまりにも増大し、そのため遊びが極端に迫害されています。
しかし、遊びが人間の基礎をつくるということは今も変わらないはずです。
 
それに、ビジネスというのは狩りときわめて似ています。
なにかもうかることはないかと探索し、もうかりそうなことを発見し、追いかけ、ライバルと格闘し、もうけを捕獲するというのがビジネスです。
ですから、遊びをすることはビジネスにも役立つはずです。
 
また、勉強を遊びすなわち狩りのようにするということも考えるべきです。
たとえばゲーム感覚で勉強ができるアプリというのもできています。
 
子どもに「勉強しろ」ばかり言っていればいいというものではありません。

トランプ政権が国連人権理事会からの脱退を表明したのに対して、菅官房長官は6月20日の記者会見で、「他国の国際機関への対応について政府としてはコメントするべきではない」と語りました。
しかし、これは国連のことであり、かつ人権のことですから、コメントしても内政干渉にはなりません。とりわけ国連人権理事会は日本政府が拉致問題を訴えてきた場です。
もっとも、日本政府がアメリカになにも言えないのはいつものことです。
 
そもそものきっかけは、トランプ政権がイスラエルのアメリカ大使館を聖地エルサレムに移転すると決めたことです。それに反発したパレスチナのデモ隊にイスラエル軍が発砲し、多数の死傷者が出ました(たとえば5月14日には約60人が死亡、2000人以上が負傷)
武器を持たないデモ隊に軍が発砲して多数の死傷者が出れば、その国の政府が非難されるのは当然です。もしこれがロシアや中国で起これば、国際社会は大騒ぎでしょう。
しかし、イスラエルはアメリカが断固として擁護し、アメリカの影響力は強大なので、国際社会ではそれほど大きな騒ぎにはなりません。しかし、人権理事会は調査団の派遣を決めるなどアメリカの思い通りにならなかったので、今回の脱退表明にいたったわけです。
 
日本政府はいつものこととして、日本のマスコミはどうでしょうか。
朝日新聞がアメリカの人権理事会脱退に関する解説記事を書いています。
 
(時時刻刻)「国益優先」改めて鮮明 「反イスラエル」と非難 米、国連人権理を脱退
 トランプ米政権が「反イスラエルへの偏向」を理由に、国連人権理事会からの脱退を19日に表明した。温暖化対策の国際ルール「パリ協定」、イラン核合意、国連教育科学文化機関(ユネスコ)などに続き、国際社会が米国の意向に沿わなければ、国益を優先する姿勢が改めて鮮明に。人権侵害が指摘される現場からは、米国の地位が低下し、理事会での中国などの影響力が強まるとの見方も出ている。
 
 「政治的偏向に満ちた汚水だめ」「恥知らずの偽善」
 米国務省で19日に会見したポンペオ国務長官とヘイリー米国連大使は、人権理事会をあらゆる言葉を使って批判した。トランプ政権の主張は、人権侵害国家が理事国になり、理事会を隠れみのにし、イスラエルを不当に糾弾しているというものだ。イスラエルは米政界に強い影響力があり、トランプ氏支持のキリスト教福音派は親イスラエルだ。
(後略)
 
 
アメリカの今回の決定を批判しているようですが、実際はアメリカの側に立って、トランプ政権を擁護する記事になっています。
 
見出しに『「国益優先」改めて鮮明』とあります。
「国益優先」というのは国際政治の世界では当たり前のことです。そういう意味で、この記事はアメリカを批判していない記事と思われてもしかたありません。
もしアメリカの今回の決定を批判するなら、『「人権軽視」改めて鮮明』という見出しになるはずです。
 
それに、人権理事会脱退がアメリカの国益になるかというと、まったくなりません。むしろ国際的に孤立して、国益に反するはずです。現にこの記事にも「米国の地位が低下し、理事会での中国などの影響力が強まるとの見方も出ている」と書かれています。
つまり事実に反することを見出しにしてアメリカ擁護をしているのです。
 
それからこの記事は、「イスラエルは米政界に強い影響力があり、トランプ氏支持のキリスト教福音派は親イスラエルだ」と解説しています。
つまり人権理事会脱退はイスラエルとトランプ支持者のためだというのです。
これは嘘ではありませんが、わざと的の真ん中を外した書き方です。
 
的の真ん中というのは、パレスチナ人がイスラエル軍に殺されている、つまりパレスチナ人の人権が軽視されているということです。
アメリカはイスラエルと緊密な関係にあるのですから、当然イスラエルを止めてパレスチナ人の命を救わなければなりません。
それをしない理由は、アメリカもまたパレスチナ人の人権を軽視していること以外にはありえません。
 
トランプ大統領は人種差別主義者ですから、パレスチナ人を差別しているのは当然です。しかも、キリスト教思想からイスラム教徒を差別していますし、聖地エルサレムを完全支配下に置くためにじゃまなパレスチナ人を排除したいとも思っているはずです。
 
その理由はともかく、アメリカとイスラエルがパレスチナ人の人権を軽視しているのは現実の出来事で、それが問題の核心です。
 
 
ところが、朝日新聞の解説記事は、「アメリカはパレスチナ人の命をなんと思っているのか」という批判をせず、「重要な役割を果たしている国連人権理事会からアメリカが脱退するのは国際政治にマイナスだ」という政治力学のことばかり書いています。
 
今の政治状況は、右翼と左翼の対立はほとんど無意味になり、もちろん進歩と反動というモノサシもありません。ですから、人権をどこまで深くとらえているかが唯一のモノサシになるといっても過言ではありません。
たとえば最近よく議論の対象になるのは、パワハラ、セクハラ、ヘイトスピーチ、学校でのイジメ、犯罪報道のあり方、芸能人不倫報道のあり方などですが、これらはすべて人権問題です。
 
 
朝日新聞というと進歩派で人権重視というイメージがありますが、人権についての認識はまったくいい加減です。そのため社会への影響力を失っていますし、逆に偽善的という批判を招いています。

「おねがいゆるして」などとノートに書き残して親に虐待され死亡した東京目黒区の船戸結愛ちゃん(5歳)の事件があまりに悲惨だったことから、安倍首相が関係閣僚会議において緊急対策を指示するなど、政府や自治体で幼児虐待への対策が進められています。
児童相談所間の連絡を密にするとか、法的に親権を制限するとかの議論があって、それも必要なことですが、幼児虐待対策というのは、結局は人です。
幼児虐待に直面した児童相談所の職員や警察官や近所の人などが適切に対応できるか否かがいちばん重要です。
ということは、適切に対応できない人もいるということです。いくら法制度を改善しても、そういう人が現場にいては意味がありません。
 
幼児虐待にうまく対応できない人はどういう人かというと、ちょうどよい見本がありました。
 
 
松本人志、5歳女児虐待死に心痛める「すぐに生まれ変わって、温かい家庭に」
 ダウンタウン・松本人志が10日、レギュラーコメンテーターを務めるフジテレビ系「ワイドナショー」に出演し、「おねがいゆるして」と書き込まれたノートが残された5歳女児の虐待死に関するニュースに心を痛めた。
 「この女の子はすぐに生まれ変わってね、温かい家庭に生まれてくることを願います」。2009年10月に第1子長女が誕生している松本が親の顔をのぞかせた。
 番組で取り上げるニュースのチョイスはスタッフに任せているという松本は、「今週、できたらこのニュースは扱いたくないなと思っていた」と神妙な面持ちを浮かべた。
 「家でテレビを見ていてもこのニュースになるとチャンネルを替えるんですよ。どういうニュースかは知っていますけど、それだけに見たくないんですよ」と沈痛な思いを吐露した。
 ゲスト出演したヒロミも「これはニュースを見ていて本当にムカついた」と怒りをにじませていた。
 
 
松本人志氏は、このニュースを見たくなくてチャンネルを変えるし、自分の番組でも扱いたくないということです。
もし松本氏が児童相談所の職員になってこの事件を担当したら、見たくないし扱いたくないので、「虐待は認められません」と言って逃げてしまうかもしれません。
「生まれ変わって温かい家庭に生まれてくることを願います」というコメントも、無意味というか、なにも言っていないのと同じです。思考停止状態なのでしょう。
 
 
松本氏が幼児虐待に対応できないのは、松本氏の思想に問題があるからです。
松本氏は体罰肯定論者です。テレビでも再三その立場で発言しています。
たとえば昨年、ジャズトランペット奏者の日野皓正氏が指導する男子中学生にビンタしたことが問題になったとき、松本氏は「本当に反省したのであれば指導として正しかったんじゃないかと思う」「我々くらいの世代はすごく体罰を受けた。なぜ今はだめで、昔は良かったんですか」「体罰を受けて育った僕らは、べつに今、変な大人になってないじゃないですか」などと語りました。
また、横綱日馬富士が貴ノ岩を殴ってケガさせたために引退したとき、「僕は引退する必要はなかったと思いますね。なぜ、相撲協会が(引退届を)受理したのか。根底にあるのは正義感だったと思ってるんですね」「稽古と体罰って、すごいグレーなところで、それで強くなる力士もいると思うんですね。だから、僕は日馬富士に関しては味方ですね」などと語りました。
 
体罰というのは、強い者から弱い者への一方的な暴力ですから、幼児虐待と基本的に同じです。体罰肯定論者の松本氏は、幼児虐待の悲惨さを見ると、自分の思想の間違いに気づかざるをえないので、幼児虐待から目をそむけてしまうのです。
 
松本氏みたいな人が幼児虐待対策の現場にいては、対策がうまくいきません。
 
児童相談所の職員というと児童福祉の専門家だと思われるかもしれませんが、そんな職員はごく少数で、ほとんどは一般の公務員が数年のローテーションで児童相談所に異動してきて去っていくだけです。当然その中には松本氏みたいな人もいます。
 
ですから、児童相談所職員はもちろんのこと、幼児虐待の現場に接触しそうな警察官、教師、医師、カウンセラーなどに対して虐待、体罰、しつけなどについての意識調査を行い、幼児虐待に対応できる人とできない人にあらかじめ分けておき、虐待案件と思われるときはそういう人が担当することにすれば、まずい対応は格段に少なくなるはずです。
 
虐待する親と虐待しない親がいるように、虐待に対応できる人と虐待に対応できない人がいるということを踏まえて、幼児虐待対策の法制度を整えていく必要があります。

トランプ大統領が人を評価する基準はなんでしょうか。
米朝首脳会談後、トランプ大統領は金正恩委員長について、「立派な人格」「あの年齢であれほどできる人は数万人に1人」「とても相性がいい」などと称賛し、直通の電話番号も渡したということです。
トランプ大統領はプーチン大統領も評価していますから、独裁者とウマが合うのでしょう。
 
一方、メルケル首相やマクロン大統領は嫌っているようです。
この2人は先のG7でも公然とトランプ大統領を批判しましたから、当然のことではあります。
 
では、トランプ大統領は安倍首相のことをどう見ているのでしょうか。
こんな記事がありました。
 
 
トランプ氏「日本に移民送れば晋三は退陣」 G7で暴言
晋三、日本に大量移民を送れば、君はすぐに退陣するぞ――。トランプ米大統領がカナダ・シャルルボワでの主要7カ国首脳会議(G7サミット)で、安倍晋三首相に対し、移民問題に関して暴言を吐いていたと、米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)が15日報じた。トランプ氏はG7で通商問題を巡って他国と亀裂を深めていたが、不満や放言は他の問題でも炸裂(さくれつ)していたようだ。
 同紙がG7に参加していた欧州連合(EU)関係者に聞いたところによると、各国の首脳が移民問題を話し合っていた際、トランプ氏が安倍首相に「晋三、君の国には移民問題はないだろう。しかし、私は2500万人ものメキシコ移民を日本に送ることができるぞ。すると君はすぐに退陣だ」と語ったという。
 トランプ氏はG7で、移民に対し、より厳しい姿勢を打ち出したかったとみられる。
(後略)
 
 
「退陣」という言葉を口にするのも失礼ですが、それよりも問題なのは、トランプ大統領が安倍首相の意志と日本の国家主権をまったく無視していることです。
これは安倍首相と日本国に対する侮辱です。
安倍首相は即座に、「トランプ大統領、日本の移民政策は日本が決めることですよ」と言わなければなりません。
いや、笑って「そんなありえないことを言ってもしょうがないでしょう」と言ったほうがいいかもしれません。
2500万人というのはありえない数字ですが、そういうことではなく、「アメリカが日本に移民を送り込む」ということがありえないわけです。
 
安倍首相がどういう返答をしたのかわかりませんが、トランプ大統領にそういうことを言わせたこと、勘違いさせたことが安倍首相の大きな失敗です。
 
安倍首相はトランプ大統領との信頼関係を築こうといろいろやってきましたが、いちばんやってきたことはトランプ大統領に合わせることです。
安倍首相は口ぐせのように「日米は完全に一致」と言っています。
「安倍首相 日米は完全に一致」で検索すると、会談や電話会談のあとなどことあるごとに「日米は完全に一致」と言っていることがわかります。
お互いに歩み寄って一致するならいいのですが、トランプ大統領が歩み寄るわけがないので、安倍首相が一方的にトランプ大統領に合わせているわけです。
そういうことをやってきた挙句に、安倍首相はトランプ大統領に「なんでも言うことを聞くやつ」と思われたのでしょう。
 
トランプ大統領は腹心といわれたようなスタッフでもどんどんクビにしていく人間です。おそらく誰とも信頼関係などの人間的な関係を持てない人と思われます。
そんな人間がいるのかというと、いるのです。サイコパスといわれる人間です。
 
次はウィキペディアの「精神病質」からの引用で、サイコパスの特徴とされるものです。
 
 
良心が異常に欠如している
他者に冷淡で共感しない
慢性的に平然と嘘をつく
行動に対する責任が全く取れない
罪悪感が皆無
自尊心が過大で自己中心的
口が達者で表面は魅力的
 
 
トランプ大統領の特徴にぴたりと一致しています。
こういう人間は犯罪者にもなりますが、社会的に成功することも多いとされます。
 
トランプ大統領は「人と人の絆」などは理解できず、理解できるのは「取引」だけです。
金正恩氏は体制保障や経済援助を求めるので、こういう相手とはトランプ大統領も「取引」できます。そのためトランプ大統領は金正恩氏が気に入ったのではないでしょうか。
メルケル首相やマクロン大統領は、自由貿易とか地球環境という理念を持ち出してくるので、トランプ大統領も「取引」することができず、苦手に思っているはずです。
 
では、安倍首相はどうかというと、トランプ大統領に対して信頼関係や絆を求めてきました。これは八百屋で魚を求めるようなものです。
安倍首相は、こちらが譲歩すれば向こうは感謝してその分お返しをしてくれると思ったのでしょうが、トランプ大統領は譲歩する相手にはどんどん押し込んでくるだけです。
今では、トランプ大統領の頭の中では安倍首相はホワイトハウスのスタッフと同じような位置づけになり、そのため「いつでもクビにできるぞ」という発言になったのでしょう。

 
安倍首相はトランプ大統領の人間性をよく見きわめて、信頼関係を築こうなどという考えは捨てて、タフな取引をしなければなりません。
しかし、今のところトランプ大統領に「非核化の費用は韓国と日本が出す」と言われたら、なんの反論もせず北朝鮮と交渉しようとしているので、どこまでもトランプ大統領に従っていくつもりのようです。

異常な犯罪には異常な原因があり、多くの場合それは幼児虐待です。
新幹線3人殺傷事件で逮捕された小島一朗容疑者もそうに違いないということを前回の記事で書きましたが、根拠にする記事が限られていたため、あまり説得力がなかったかもしれません。
そうしたところ「週刊文春」6月21日号が実父に取材してかなり詳しい記事を書いていました。
その記事から何か所か引用してみます。
 
 
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記事によると、小島容疑者は愛知県一宮市で育ち、上に姉が一人います。実父であるS氏はいくつもの職業を転々とし、現在は車関係の会社に勤務。母親は団体職員としてNPO施設で働いています。小島容疑者は5歳のころ児童保育所からアスペルガー症候群の疑いを指摘されますが、母親は「そんなの大きくなれば治る」と無視します。父親は「学校の先生に『この子は普通ですよ』と言われた」と言っています。

 
 地元の公立中学校に進学した小島容疑者は、やがて不登校になってしまう。S家を知る人物が語る。
 
「父親は『男は子供を谷底に突き落して育てるもんだ』という教育方針で息子に厳しかった。共働きのS家では同居している(父方の)祖母が食事の用意をしていたようですが、『姉のご飯は作ったるけど、一朗のは作らん』とよく言っていた。実質的に育児放棄されていた。一朗君と家族の会話はだんだんと少なくなっていったようです。そんな彼が唯一慕っていたのが、母方の祖母でした」
 
 小島容疑者は自室に籠もり、インターネットやテレビアニメに夢中になるなど自分の世界に没頭するようになる。食事も自炊をするか、作り置きのものを一人で食べるだけだった。
 
2のときに、後の凶行に繋がる事件が起きる。
 
 この事件について、父のS氏は本誌に次のように証言している。
 
(子供たちが)新学期だから水筒が欲しいと。それで妻が渡したんですが、姉が新品で、彼のが貰い物だった。そうしたら、その日の夜中、彼が障子を蹴破って、私と妻が寝ている寝室に怒鳴りながら入ってきて……。ここが核心に迫るんですけど、ウチにあった包丁と金槌を投げつけてきたんですよ。殺気はなかったですけど、でも刺されるかも、死ぬかもなぁ、と。だけど見当違いのほうに投げたんで、私からヘッドロックのような形で抑えにいって、10分ぐらい揉みあって、(妻に)『おい、はよ警察よべよ!』と」
 
――キレやすかった? 
 
「元々からかわれて、カッとなると手が出ちゃうこともあったけど、そこは子供の喧嘩ですから」
 
 小島容疑者は、駆けつけた警察官に対して、「新品の水筒を貰ったお姉ちゃんとの“格差”に腹が立った」と語ったという。
 
 この事件は父子関係に決定的な亀裂を生んだ。父親は息子を避けるようになり、小島容疑者も父親を嫌悪するようになる。
 
 
これを読むと、たかが水筒のことで包丁を持ち出した小島容疑者が異常であるようですが、「男は子供を谷底に突き落して育てるもんだ」という父親がそれまで虐待を繰り返していて、大きくなって体力的にも対抗できるようになった小島容疑者が初めて反撃に出たということではないでしょうか。
そして、父親はこの出来事をきっかけに“教育の放棄”を宣言します。
 
 
――それ以前に、虐待やネグレクトがあったのか? 
 
「虐待はありえない。この(夫婦の寝室で暴れた)とき、うちの子がお巡りさんに『虐待を受けている』と言ったんですよ。でも、アザとかケガはないから(警察も信じなかった)。その日が、僕が決断した日ですよ。(息子への)教育を放棄した。彼にやりたいことをやらせましょう。外の空気を吸って自立を証明しろ、と」
 
――相談所に預けたことは後悔していない? 
 
「していないですね。仕事を辞めるまでは、よく頑張った。大人になった」
 
――施設に預けたことで、親の愛情が薄かったのではという意見もあるようだ。
 
「放棄と言われたら放棄だし、父親失格という表現になるのもわかる。ただ僕なりにやれることはやった」
 
 
この父親は、虐待するか育児放棄するかの選択肢しか持たないようです(育児放棄も虐待ですが)
 
小島容疑者が今回の事件を起こしたことで母親は、知人に「私は生きていていいですか……」と漏らすなど憔悴しきっているということですが、これは当然の反応です。
しかし、父親は違います。
 
 
事件後、世間の耳目を集めたのが実父S氏の存在だった。
 
 テレビや新聞の取材に応じたS氏は、時折、薄ら笑いを浮かべながら、「私は生物学上のお父さんということでお願いしたい」と語り、小島容疑者のことを赤の他人のように「一朗君」と呼び続けた。
 
 S氏の真意はどこにあるのか。本誌はS氏の自宅で150分にわたり話を聞いた。
 
――「一朗君」という呼び方が波紋を呼んだ。
 
(昨日の囲み取材で)『元息子』と言ったのも、けしからん父親だと炎上しているみたいで。じゃあどういう言葉が正しいんですか。(記者から)『お父さん』と言われると、最初に出ちゃうのが『生物学上の産みの親です』なんですよ」
 
――今でも父親であるという思いはありますか。
 
「はい。じゃあどういう表現をしていいの?」
 
――小島容疑者に食事を与えていなかった? 
 
「一緒に食べないから作らないだけで、彼が自分で料理したものをとりあげたり、冷蔵庫を開けるなと言ったことはない。これを虐待と表現されると難しい」
 
――彼が自分でつくるようになった? 
 
「冷凍食品とかですね。そこはひとつの自立みたいな。僕もこの年になって自分で作ったことない。申し訳ない(半笑い)。だから僕より大人だったんです」
 
(中略)
 
――小島容疑者と最後に会ったのは? 
 
2年前の岡崎での法事のときですね。会社の給料で買った2万円の時計をしていて、『いいじゃん』って。立派になったなって。あの頃が彼のピークだったんじゃないかな」
 
――息子の私物とか、写真は実家にあるのか? 
 
「今はもうない。捨てたと言ったら捨てた。(段ボールや物が積み上げられた室内を見渡しながら)見ての通りのゴミ屋敷ですので()、彼の部屋は今は物置になっていて」
 
 
小島容疑者が発達障害だったとしても、それと犯罪が結びつくものではありません。「発達障害」(文春新書)の著書がある昭和大学医学部岩波明教授はこのように語っています。
 
 
「今回の事件を見ていると、必要な時期に適切な愛情を受けて育たなかったということはかなり決定的な気がします。大切に育てると社会的な予後が違う。犯人は、かなり自分に不全感を持っていて、それは親から見捨てられたという感情から来ているものもあったと思います。自殺も考えたということは衝動的な感情が内に向いていたということ。それが今回は逆に外に向かい暴発したともいえる。自分の内に向かうものが外へ向く、こうしたスイッチはわりと起こりやすい。今回の事件が発達障害の典型例かというとそうではないが、衝動的な行動パターンを選んでしまうというのは一つの特徴ではあります」
 
 
子どものころ虐待されたからといって犯罪をしていいことにはなりませんが、親から愛されなかった人間にまともな人間になれと要求するのも酷です。
 
こうした犯罪をなくすには、世の中から幼児虐待をなくすことと、虐待の被害者の心のケアをする体制をつくることです。これは遠回りのようですが、確実な道です。

6月9日に新幹線車内で1人を殺害、2人にケガを負わせた小島一朗容疑者(22)は「誰でもよかった」と供述しているそうです。
こういう犯罪は防ぎようがありません。新幹線にも持ち物検査を導入すべきだという議論が起きていますが、小島容疑者は新幹線にこだわったわけではないので、的外れの反応です(社会不安を起こすことが目的のテロリストは新幹線を標的にする可能性があるので、その対策としてなら意味があります)
 
対策があるとすれば、「誰でもよかった」という動機はどうして生じたかを解明することです。
 
 
小島容疑者は中学2年生のときに家を出て自立支援施設に入り、その後は祖母の家にいました。どうして親といっしょに暮さなかったのでしょうか。
 
母親が報道機関に発表したコメントにはこんな記述があります。
 
「一朗は小さい頃から発達障害があり大変育てにくい子でしたが、私なりに愛情をかけて育ててきました」
「中学生の時、不登校になり、家庭内での生活が乱れ、将来を心配して定時制高校に入れること、また自立支援施設に入れることを本人に提案したら、素直に応じてくれ」
「昔から岡崎のおばあちゃんに懐いており、一緒に暮らしたいと本人も希望していたので、岡崎へ行かせました。私の提案で岡崎のおばあちゃんと養子縁組をし、居場所を確保しました」
 
母親は本人のためにやったように書いていますが、ほとんど子どもを捨てたのに近いのではないでしょうか。
 
父親はマスコミの前に出て、いろいろなことをしゃべっています。
 
「(小島容疑者が14歳の時)しつけに関しては、何も私はしなくなりました」
 
 また、(愛知県)一宮市に住む容疑者の父親は、「水筒が欲しいというので、中古の水筒を与えたら、「なんで中古の水筒なんだ」と言って刃物を持って私の方へやってきた。
 取り押さえて、警察が来るのを待った。
思ったことはまげない」などと話していました。
 
自立支援施設代表は小島容疑者について、「うちにいたころは非常に真面目で、何か問題をおこすとか一切なかった」と語っています。
父親に対して刃物を持ち出したのは、どちらに問題があったのでしょうか。
 
 
小島容疑者が家を出たのは14歳のときです。まだ一人で生きていけない年齢ですから、親と対等ではありません。なにか問題があったら、すべて親に原因があるといってもいいぐらいです。
 
ところが、マスコミの報道は、まるで親子が対等であるかのような書き方です。
 
「父親とは中学時代から折り合いが悪く、愛知県岡崎市の祖母に引き取られ」
 
「親族によると、小島容疑者は小学校卒業まで、同県一宮市で両親と同居。ただ、中学生の頃から両親らと不仲になり」
 
「実家の両親とトラブルがあったため、2016年4月ごろから愛知県岡崎市の伯父方で暮らすように」
 
「父親とは折り合いが悪く」「両親らと不仲になり」「両親とトラブルがあった」という表現は、すべて対等の関係におけるものです。中学生の子どもと親のものとは思えません。
男と女の関係でセクハラやレイプがあったとき、「二人は折り合いが悪く」と書くみたいなものです。
マスコミはセクハラについては認識を深めてきているようでが、幼児虐待についてはいまだに隠蔽しています。

 
おりから東京目黒区で両親から虐待されて死亡した船戸結愛ちゃん(5歳)がノートに「もうおねがいゆるして」などと書いていたことが人々の涙をさそっていますが、結愛ちゃんの父親は「しつけ」と称して虐待をしていました。小島容疑者の父親が「しつけ」という言葉を使っているのも同じようなものだったのではないでしょうか。
結愛ちゃんが死ななくて成人していたら、そして結愛ちゃんが男の子だったら、いつたいどんな男になるだろうと想像してみたら、小島容疑者のことも理解できるのではないでしょうか。
 
あらゆる出来事には原因があります。
小島容疑者が子どものときに父親に刃物を持ち出したのにも原因があります。
新幹線の中で刃物をふるったのにも原因があります。
それを知ることが対策の第一歩です。 

両親から虐待を受けて死亡した船戸結愛(5歳)ちゃんがノートに「もっともっときょうよりかあしたはできるようにするからもうおねがいゆるして」などと書き残していたことがあまりに悲惨だということで、「児童相談所はなにをしていたのだ」といった声が上がっていますが、児童相談所にできることには限界があります。
幼児虐待も元から断たないとだめです。
 
動物の世界では、たとえば哺乳類においては、親が養育困難な状況だと判断すると生まれたばかりの子どもを食べてしまったり、障害のある子どもの養育を放棄したり、オスのライオンがハーレムを乗っ取ったときに前のオスの子どもを全部殺してしまったりということもあります。しかし、人間のように育てながら虐待するということはありません。
 
なぜ人間は自分の子どもを虐待するのでしょうか。
幼児虐待をする親は、自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いとされ、幼児虐待の世代連鎖といわれます。
そうすると、虐待の世代連鎖をどんどん過去にさかのぼっていくと、「人類最初の虐待親」にたどりつく理屈です。
もちろんそんなに正確に世代連鎖するわけはありません。これはあくまで思考実験です。
「人類最初の虐待親」がどのようにして誕生したかがわかると、幼児虐待が発生した理由がわかり、対策もわかるはずです。
 
幼児虐待が動物の世界になく人間の世界にだけあるとすれば、その発生は文明の黎明期までさかのぼれるはずです。
文明の黎明期になにがあったかというと、たとえば火の使用です。火の使用こそ人間が文明をつくる第一歩だったでしょう。
火は危険です。おとなはそのことがわかっていますが、小さな子どもはわからないので、火傷するかもしれません。親は子どもが火に近づかないよう監視し、近づくと止めなければなりません。
土器をつくるようになると、土器は壊れやすいので、注意して扱う必要があります。しかし、子どもは土器の周りでも平気で遊び回ります。ぶつかって壊してしまわないよう、ここでも親は子どもを監視し、動きを止めなければなりません。
つまり文明が始まると、親は子どもを監視し、動きを制限しなければならなくなったのです。
 
そして、たとえば子どもが水の入った土器を壊して、住まいである洞窟の中を水浸しにするということがあったかもしれません。そのとき親が怒って子どもをたたいたら、それが「人類最初の虐待親」ということになります。
 
親は文明人であっても、生まれてくる赤ん坊はすべてリセットされて、原始人として生まれてきます。
文明が進めば進むほど、親と子どもは乖離していきます。
 
江戸時代には、江戸や上方では庶民もいい家に住み、洗練された文化的な生活をするようになりました。だからといって、洗練された文化的な赤ん坊が生まれてくるわけではありません。子どもは、障子やふすまを破り、畳に食べ物をこぼし、さらには床の間に飾ってある高価な掛け軸や置物を壊すかもしれません。そうならないように親は「しつけ」を行うようになりました。
「しつけ」はもともと武士階級で子どもに礼儀作法を身につけさせることを意味する言葉でした。江戸時代には庶民階級もしつけを行うようになったわけです。
子どもは成長すれば、障子は破るものではなく、置き物は壊すものではないとわかるし、食べ物をこぼさずに食べることもできるようになります。しかし、親はそれを待っていられないので、しつけをするわけです。
 
 
現代のような高度な文明社会では、文明人である親と、原始時代のままの子どもは、大きく乖離しています。
文明人が未開人を見ると、なかなか未開人の考えや気持ちがわかりません。文明人が赤ん坊を見ても同じです。
ですから、文明人の親は自分の子どもができると、子どもの地点まで下りていくという心の作業をしなければなりません。
それをしないと子どもと心の交流ができません。
 
それが簡単にできる親もいます。自分がそういう親に育てられてきたからです。あと、生まれつきの共感能力も関係しているようです。
一方、子どもの気持ちのわからない親に育てられ、かつ生まれつき共感能力が低い人は、文明人の意識のままで子どもに対することになります。
いわば「上から目線」で子どもを見てしまうのです。
そうすると、子どもの自然なあり方に対して「なぜこんなことができないのか」「なぜこんなことがわからないのか」と不満を募らせ、ついには虐待にいたってしまうことになります。
 
冒頭の事件の結愛ちゃんは、小学校入学に備えてひらがなの練習をさせられていました。文明人の論理、おとなの論理の子育てです。
これは教育熱心ということで社会的には評価されます。
 
では、この両親になにが足りなかったかというと、子どものところまで下りていくという心の作業です。
そのため子どもの気持ちがわからず、文明人の論理、おとなの論理を一方的に押しつけてしまったのです。
 
これまで人類は文明の進歩をよしとして、前へ前へと進んできました。
親が原始人へと戻る心の作業をすることはベクトルが逆なので、これまで社会的には無視されてきました。そのため親はそれぞれ個人的にその作業をしてきたわけです。
しかし、それも限界にきているようです。
 
よく運転免許と同じように子育てにも免許や資格がいるようにすればいいという議論があります。
では、子育ての資格はどうすれば取得できるかというと、どんな文明社会でも赤ん坊はすべて原始時代と同じ状態で生まれてくることを理解し、文明の論理やおとなの論理を頭から追い出して子どもと向き合うようになることです。
 
今の子育てはむしろ逆で、子どもの論理を無視して、子どもを親の論理に従わせることが勧められており、これは虐待を生むもとです。
 
動物の世界では、親はしつけも教育もしないので、子どもは親の周りで自由に遊んでいます。子どもが親にぶつかったり親を踏みつけたり親の眠りを妨げたりしても、親は子どもを怒ったりしません。親が子どもに強制力を行使するのは、天敵が接近して子どもを守らねばならないようなときだけです。
人間の子どもも幼いときは、動物と同じような親子関係でいるのがいいと思います。

財務官僚は、頭はよくても想像力は足りないようです。
財務省は公文書改ざん問題についての調査結果を発表しましたが、嘘のつき方があまりにもへたくそです。
 
公文書改ざんは誰がやらせたのか――ということが問題になっています。
推理小説なら、公文書改ざんをする動機がある人間は誰かと考えて、犯人を絞り込みます。
この場合は簡単です。公文書改ざんで得をするのは安倍首相しかいません。安倍首相は国有地払下げに私や妻が関係していれば首相も議員も辞めると言いました。佐川氏の虚偽答弁と公文書改ざんのおかげで安倍首相は今も首相を続けていられるのです。
 
しかし、財務省は主犯は安倍首相であるという事実をなんとしても隠さなければなりません。
そこで、佐川氏を主犯に仕立て上げました。ところが、動機にまで考えが及んでいないのです。
名探偵が「犯人は佐川だ」と言ったものの、動機を示すことができないという推理小説があったら、読者は金返せと言いたくなります。財務省の調査結果はそういうものです。
 
もっとも、世の中には動機なき犯罪というのもあります。たとえば愉快犯といって、犯罪そのものを楽しむものです。殺人だと快楽殺人といいます。殺人そのものに快楽を感じるわけです。
しかし、佐川氏は虚偽答弁や公文書改ざんそのものを楽しんでやっていたのだという説明は、さすがにむりがあるでしょう。
 
ですから、財務省は佐川氏を犯人にするなら、動機もちゃんと考えておかなければなりません。
財務省が考えないので、私が代わりに考えてみました。
 
やはりきっかけは、安倍首相が自分や妻が関係していたら首相も議員も辞めると言ったことです。
佐川氏はきわめて小心で神経質な性格で、もし自分が答弁で言い間違いをしたために安倍首相が辞任することになったらたいへんだと思い、交渉記録をすべて捨てたことにして、具体的な答弁をしないことにしました。国会で野党に責められるうちに心理的に追い詰められ、決裁文書のなんでもない記述まで気になり、すべて改ざんするように指示しました。すべて佐川氏の異常心理のせいでした――。
 
別のやり方もあります。
佐川氏はきわめて野心的な性格でした。事務次官への出世がむずかしくなり、妻からも期待外れだと責められていたところ、安倍首相の発言がありました。佐川氏は安倍首相に忠誠を尽くす姿を見せれば事務次官への出世が叶うかもしれないと思い、必要もないのに虚偽答弁をし、決裁文書改ざんを指示して、自分の働きをアピールしました――。
 
あまり説得力はありませんが、動機を示さないよりましです。
財務省は佐川氏が主犯だという嘘を書いたのですから、動機も嘘を書くべきでした。
 
 
今後、佐川氏はまた証人喚問されるかもしれません。今度は刑事訴追の恐れを理由に証言拒否をするわけにいきません。改ざん指示の動機を問われたら、なにか言わないわけにいかないので、今から考えておいたほうがいいでしょう。
もっとも、嘘は具体的につけばつくほど、つじつまが合わなくなるものですが。
 

山本真千子大阪地検特捜部長は公文書改ざんについても国有地不正払下げについても不起訴にすると発表しました。
その記者会見にテレビカメラは入っていません。「ちゃんと顔をさらして発表しろよ」と思いましたが、地検特捜部が記者会見をしたこと自体が特別の配慮だそうです。
山本特捜部長は、安倍政権への遠慮はなかったかと記者に問われて、「政治的な意図というものはまったくございません」と言ったそうですが、どんな顔で言ったのか見たかった気がします。
 
人間は顔を見れば、嘘をついているかどうかだいたいわかるものです。日大アメフト部の宮川選手の記者会見と、内田監督、井上コーチの記者会見を見比べれば歴然です。
 
加計学園の渡辺良人事務局長は愛媛県庁を訪れ、加計理事長と安倍首相の面会はなかったとして謝罪しましたが、誰が嘘を言ったのかと質問され、「あのメンバーならぼくしかいない」「その場の雰囲気で、ふと思ったことを言った」「うそというか、そういう思いをもって説明したんだと思う」などと、曖昧な言葉を並べ立てました。しかも、そのときの表情が、立憲民主党の枝野幸男代表が言うように「ヘラヘラ笑いながら」でしたから、誰が見ても嘘だとわかります。
 
しかし、意外と「嘘をつくな」といったストレートな反応はありません。「安倍首相と加計理事長が面会していないとすると整合性がとれない」といった反論が主です。
渡辺事務局長はおそらくまじめな人なのでしょう。加計理事長から「自分が嘘をついたと言ってこい」と言われて愛媛県庁に出向いただけです。監督やコーチから言われて悪質タックルをした宮川選手みたいなものです。
ですから、渡辺事務局長を批判するのも気の毒ではあります。悪いのは渡辺事務局長に指示したと思われる加計理事長ですが、加計理事長はまったく表に出てきません。
 
日大の田中英寿理事長も表に出てきませんが、内田前監督、井上前コーチは完全に嘘つき認定されて、日大の経営陣に対する批判が高まっています。
それに対して、森友加計問題における佐川氏、柳瀬氏、そして今回の渡辺事務局長は、明らかに嘘をついているのにそれほど批判されず、安倍政権も内閣支持率は落ちているものの、それほど追い詰められていません。
 
この違いはなにかと考えると、日大の田中理事長、内田前監督は権力者であるとはいえ、それは日大内部のことです。一般の国民には関係のないことですから、遠慮なしに批判できます。
ところが、安倍政権は日本全体を支配する立場にあり、とりわけ読売新聞、産経新聞、日経新聞、そしてすべてのテレビ局は政権の走狗と化すか意向を忖度するかしています。また、検察も今回、政権の支配下にあることがわかりました。
安倍首相は玉木雄一郎議員に対して、「嘘つき」と言われたと言ってキレたり(実際には玉木議員は「嘘つき」とは言っていません)、福島瑞穂議員が安倍首相と加計理事長の関係を追及したとき、安倍首相は「特定の人物の名前を出した以上、確証がなければその人物に対してきわめて失礼ですよ。あなた責任とれるんですか」と恫喝したりしています。これはパワハラです。日本人は権力に弱い傾向があるので、こうしたパワハラに萎縮する人もいるかもしれません。
今回の大阪地検特捜部の決定に対しても、国民から怒りの声はそれほど上がりません。
 
日大アメフト部の部員たちは声明文を発表しましたが、きわめて優等生的な作文で、コーチ陣の入れ替えなどの要求はありませんでした。日大内部にいるとこうしたことになってしまいます。
日本国民も安倍政権下にいるので、日大アメフト部員みたいになっているのではないでしょうか。
いわば日本国の日大アメフト部化です。
 
もちろん日大アメフト部と日本国はまったく違います。運動部の部員は監督の支配下にあるかもしれませんが、民主主義国家の国民はむしろ首相を支配する立場にあります。
日大の田中理事長や加計学園の加計理事長を批判するよりももっと遠慮なしに安倍首相を批判すればいいのです。

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