村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2018年07月

日本の選挙運動を揶揄する言葉に「どぶ板選挙」というのがありますが、安倍首相の総裁選のやり方はまさに「どぶ板選挙」です。
 
西日本豪雨で各地に避難指示や避難勧告が出された7月5日の夜、安倍首相らが「赤坂自民亭」なる酒宴に興じていたことが批判されましたが、安倍首相が普段は出ない酒席に出たのは総裁選の選挙運動のためでした。
「“赤坂自民亭”で安倍首相が若手議員に地方行脚を売り込み」という記事にこう書かれています。
 
「安倍総理は宿舎の宴会で、『全国どこにでも行くから、演説会や懇親会をセットしてくれ』と若手議員たちに総裁選に向けた地方行脚を自らセールスしていたそうだ。幹部の1人がそのことを紹介すると、別の幹部は『安倍さんはもう総裁選しか眼中にないよな。まだ国会も終わっていないのに』と苦笑していた」(同前)
 日本上空に厚い暗雲が垂れ込める中、首相の眼中だけでなく、自民党幹部たちも、「総裁選」しか頭になかったことがよくわかる。
 
しかも安倍首相は翌6日の夜にも秘密会合をセッティングして、菅官房長官と無派閥議員らと会っていました。日本テレビ系のニュース番組「news every.」は“無派閥議員のとりこみ”と報じています。
 
選挙運動のやり方が、議員票については派閥や人脈を通じての取り込みですし、党員票については「どぶ板選挙」です。
 

そもそも現職の総理総裁がこんなに熱心に選挙運動をすることが異常です。
通常は、ひたすら首相としての職務に励んで、それを評価してもらうという姿勢でいるものです。
選挙運動を熱心にやるのは新人候補のほうです。

なお、自民党総裁選では公示日から投票日まで二週間の選挙運動期間が設けられていますから、今安倍首相がやっているのは「事前運動」です。
 
安倍首相は総裁選で勝利を確実にしていると見られています。
ということは、安倍首相はただ勝利するだけでなく、圧倒的な勝利をして、自分の権力基盤をさらに強化したいのでしょう。
まさに“権力亡者”です。
 
 
なによりも異常なのは、政策や理念についての議論がまったくないことです。
安倍首相は実績を問うという立場かもしれませんが、対抗馬の石破茂氏は安倍首相との違いを打ち出せていません。
念のために「石破茂氏と安倍首相の政策の違い」で検索してみたら、「防災省創設が安倍首相との違いをアピールできるテーマのひとつ」ということが出てきただけです。
 
総裁選不出馬を決めた岸田文雄政調会長も、もともと安倍首相との違いを打ち出していませんでした。
人気の点で安倍首相に対抗できるかもしれない小泉進次郎氏も、脱原発の方向性はあるかもしれませんが、それ以外の違いは見えません。
 
安倍首相がすばらしい政治をしていたら、違いを出せなくてもしかたありませんが、もちろんそんなことはありません。
安倍首相はトランプ大統領にひたすら合わせていますが、トランプ大統領はどんどん日本に敵対的なことを仕掛けてきます。プーチン大統領と仲良しのふりをしていますが、ロシアに経済協力をさせられるだけで北方領土はまったく返ってきません。かつては中国包囲網づくりに邁進していましたが、今は中国の一帯一路に協力的で、その方針転換の説明もありません。対北朝鮮外交はまったく破たんし、拉致問題解決の糸口も見えません。
安倍首相は経済の好調をアピールしていますが、財政赤字は増大する一方で、破たんに向かって進んでいるとしか思えません。
 
こういったことが総裁選でまったく議論されないので、安倍首相が「どぶ板選挙」に走るのは、ある意味当然かもしれません。
 
自民党は党全体が思考停止に陥っているようです。
行き着く先は、日本の財政破たんでしょうか。


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「世界経済のネタ帳」より

自民党の杉田水脈衆院議員が雑誌に「LGBTは生産性がない」と書いたことが批判されていますが、今のところ本人は謝罪していませんし、自民党の二階俊博幹事長は「人それぞれいろんな人生観がある」などと擁護しています。
水田議員はかねてから極右発言を連発していて、安倍首相のお気に入りでもあるようです。
 
ところが、意外なところから反論がありました。自民党の稲田朋美元政調会長がツイッターで「私は多様性を認め、寛容な社会をつくることが『保守』の役割だと信じる」と述べたのです。
稲田氏は政調会長時代に自民党に「性的指向・性自認に関する特命委員会」を立ち上げたことがあり、その理由は「LGBTの方々が自分らしく、人として尊重され、活躍できる社会を実現するため」だそうです。
稲田氏もやはり右翼思想の持ち主で、安倍首相のお気に入りです。
しかし、LGBTに関する態度は真逆です。
 
考えてみれば、保守や右翼がLGBT差別をしなければならない理由はありません。三島由紀夫は右翼でかつ同性愛者でした。
それに、日本の伝統も同性愛には寛容です。武士の世界では衆道といって同性愛が盛んでしたし、江戸時代には陰間といわれる男娼がいました。
 
古代ギリシャでも男の同性愛は盛んで、同性愛的結びつきが戦士の強さにもなっていたようです。
というか、同性愛は世界中でありました。ある程度の同性愛が存在するは自然な姿です。
 
むしろ同性愛への偏見が特殊なのです。
同性愛への偏見や恐怖をホモフォビアといいます。これはキリスト教とイスラム教に見られるものです。
イスラム教の多くの国では今でも同性愛が犯罪として罰せられます。
キリスト教では、ローマ法王庁が2014年の報告書に、教会は同性愛者を歓迎し尊重すべきだとする文言を盛り込むなど変わってきています。
ただ、アメリカはかなり特殊です。アメリカでは同性愛を公言する者は軍隊にいられませんでした。オバマ政権下で同性愛者が軍隊にいることが許容されましたが、トランプ大統領はトランスジェンダーの入隊禁止を表明しました。
 
日本は明治維新以降、欧米の文化を輸入し、同時にホモフォビアも輸入しました。
日本の右翼は、欧米化した明治時代のことを日本の伝統だと見なしているので、ホモフォビアも日本の伝統だと勘違いしているのでしょう。
 
LGBT差別は日本人を分断するものですから、右翼思想とも相容れません。
LGBTについての安倍首相の意見を聞いてみたいものです。

前回の「平和が先か、核廃棄が先か」という記事を書くとき、南アフリカの核保有のことを調べていたら、イスラエルが南アフリカの核開発に協力したとウィキペディアに書かれていました。
当時、アパルトヘイト政策のために世界中から批判されていた南アフリカに協力するとは、イスラエルもとんでもない人種差別主義国です。
 
そして、思ったのですが、アメリカやイギリスの情報機関が南アフリカの核開発を知らなかったはずはありません。
これまで北朝鮮、イラン、シリア、リビアなどが核兵器を開発しようとしたか、しようとしたとの疑いがかけられ、どの国のことも国際的に大きな問題になってきました。
ところが、南アフリカについては私の知る限り、そうした疑惑はありませんでした。まったく知られないうちに核保有国になっていたのです。
アメリカやイギリスは表向き南アフリカのアパルトヘイト政策を批判していましたが、少なくとも情報機関や外交軍事の当局は、白人国である南アフリカの核保有を容認していたようです。
 
外交軍事における人種差別というと、ファイブ・アイズ(UKUSA協定)というのもあります。
これはアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドというアングロサクソン系の5か国の情報機関が情報を共有するという協定です。かつては秘密協定でしたが、今は条文の一部が公開されているということです。
人種によって結束しているということに驚きます。日本はこうしたことを批判してもいい立場ですが、そもそも日本のメディアはこのことをほとんど報道しません。
 
UKUSA協定
 
核拡散防止条約も、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国という五大国だけに核保有を認めるというもので、人種差別とはちょっと違いますが、やはり差別的なものです。
日本はこんな差別的なものを認めるわけにはいかないので、かなり抵抗しましたが、結局アメリカの圧力に屈して批准しました。
そして今では、日本は核拡散防止条約をよりどころにして、核兵器禁止条約に反対するというおかしなポジションになっています。
 
日本やアメリカは北朝鮮に核廃棄を迫っていますが、それは差別的な世界を維持しようという間違った方向を目指すものです。
 
イスラエルは核保有国ですが、北朝鮮のように核放棄を迫られていません。
アメリカはイラン核合意から離脱し、トランプ大統領は7月22日、ツイッターでイランのロウハニ大統領に対して「アメリカを二度と脅迫するな。さもないと誰も経験したことがないような結末に苦しむことになるだろう」と脅しました。
 
差別的な世界は決して平和にはなりません。

「甲の薬は乙の毒」という言葉があります。
たとえばトランプ大統領の移民規制や保護貿易主義的政策は、アメリカの一部の人たちには薬ですが、世界にとっては毒です。
ただ「甲の毒は乙の薬」でもあります。
トランプ大統領の親プーチン外交は、アメリカ国内では圧倒的に反対されていますが、世界にとっては薬です。
 
7月16日の米ロ首脳会談でトランプ大統領がプーチン大統領と親密さを見せつけたことについて、アメリカ国内であまりにも反対が強いので、トランプ大統領は米大統領選へのロシア介入疑惑を否定したことについて、17日の記者会見で「二重否定にするべきところを言い間違えた」と苦しい弁解をしました。
これでトランプ大統領は軌道修正をするのかと思ったら、19日には「ロシアとの首脳会談は大きな成功だった」とツイートし、会談に否定的なメディアを「真の国民の敵であるフェイクニュースのメディア」と攻撃しました。そして、プーチン大統領を今秋にワシントンに招待する方向で調整するように指示したということです。
 
トランプ大統領は17日には「敵意や衝突よりも、外交と契約の方が素晴らしいという強い信念で首脳会談に臨んだ」と語っています。
これは正論です。この点についてはアメリカの世論よりもトランプ大統領のほうが正しいといえます。
 
 
トランプ大統領は、米朝関係でもかなり正論を言っています。
たとえば米韓合同軍事演習を中止したことについて、「演習は高くつく」「(北朝鮮に対して)非常に挑発的だ」と言っています。
 
日本では米朝合意について、非核化の道筋がはっきりせず、北朝鮮の時間稼ぎに使われているという批判があります。
しかし、非核化は最終目的ではありません。あくまで平和が最終目的です。
もし平和が達成されたら、核兵器はあってもなくてもどうでもいいことです。
 
たとえば南アフリカは1980年代に秘密裡に核開発し、核保有国になりました。当時はアパルトヘイト政策をとっており、周辺の黒人国への恐れからとされます。
南アフリカはアバルトヘイト政策をやめるとともに、1990年にみずから核保有国であることを公表し、IAEAの監視のもとで核兵器を廃棄しました。
また、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンはソ連の崩壊によって独立し、同時に核保有国になりましたが、核兵器は段階的にロシアに移管され、今では非核保有国です。
つまり核兵器は、その国が必要ないと判断すれば、自主的に廃棄されるものです。
 
北朝鮮も、アメリカ、韓国、日本と友好関係を確立し、もう攻撃される恐れがないと判断すれば、自主的に廃棄することがありえます。
逆に、アメリカなどが強硬に核廃棄を迫れば、核廃棄すれば攻撃されるという恐れを強くして、ますます核兵器にしがみつくということになります。
そうすると、核廃棄を後回しにするというトランプ大統領のやり方が結果的に核廃棄を実現させるということも十分に考えられます。
 
ともかく、トランプ大統領がプーチン大統領や金正恩委員長と親密であるのは、アメリカの体制派や日本の対米従属派にとっては毒ですが、世界にとっては薬です。

「平和を望まない人間はいない」とよく言われますが、ほんとうでしょうか。

トランプ大統領とプーチン大統領は7月16日、フィンランドのヘルシンキで米ロ首脳会談を行いましたが、この会談を評価する人がほとんどいません。
アメリカで、もともと反トランプ派の人が批判するのは当然として、最近はトランプ支持を強めている共和党保守派も口をそろえて米ロ首脳会談を批判しています。
NATO諸国からも評価する声は聞こえてきまません。
「日米は完全に一致」が口ぐせの安倍首相も、今のところ評価する発言はしていません。
日本のメディアもどちらかというと批判的です。
 
私はトランプ大統領のほとんどすべてに否定的ですが、唯一肯定できるのは、トランプ大統領がロシアと仲良くしようとしている点です。
アメリカとロシアがどんどん友好を深めて、平和条約を締結することになれば、世界は激変します。
 
ベルリンの壁が崩壊してロシアが資本主義国になると、アメリカとロシアが対立する理由はなくなりました。しかし、なぜかいまだに冷戦が続いています。
今、アメリカとロシアの間にある問題は、ロシアのクリミア併合、ロシアのシリア内戦への介入、ロシアによるアメリカ大統領選挙介入疑惑、それとロシアの元スパイがイギリスでノビチョクによる攻撃を受けて重体となったことなどです。つくられた問題もありそうですし、クリミア併合などは認めてしまえばそれで終わりです。
どの問題もアメリカが乗り越えようとすれば乗り越えられるものです(つまり冷戦を継続させているのはアメリカです)
 
ロシアとの冷戦が終われば、アメリカがヨーロッパに軍事基地を置いている意味はなくなり、アメリカは大きな経費削減ができることになります。
アメリカと北朝鮮の友好関係が確立されても同じことが起きます。
アメリカは在韓米軍を引き上げることが可能ですし、さらには在日米軍の存在理由も大幅になくなります。
 
「平和の配当」という言葉があります。冷戦が終結すれば軍事費が削減でき、それをほかに回せるという意味です。
クリントン政権のとき、「平和の配当」は実際にありました。1989年にはアメリカのGDPの5.9%を占めていた軍事費は1996年には3.6%にまで下がり、おかげでアメリカ経済は好調でした。
ところが、9.11テロをきっかけにアメリカはアフガン戦争、イラク戦争で軍事費を増大させ、「平和の配当」をほとんど失ってしまいました。
 
 
トランプ大統領がなにを考えているのかわかりません。ロシアとの友好を模索する一方で、NATOに対しては軍事費を増大するように要求していますから、なんの戦略もなさそうです。
しかし、トランプ大統領がロシアと北朝鮮との友好を進めていけば、世界は「平和の配当」を受け取れる理屈です。
ここは「豚もおだてりゃ木に登る」に習って、トランプ大統領をおだてあげて木に登らせればいいのです。

考えてみれば、米ロ友好や米朝友好を批判する声が多いのは、軍事利権につながる人たちがいかに多いかということなのでしょう。
「平和の配当」か「戦争の配当」かで綱引きが行われているのです。

上川陽子法相はオウム真理教の7人の死刑執行を発表するとき、国民の理解を得るために「ポア」という言葉を使うべきでした。
「本日、オウム真理教の7人をポアしました。目には目を、歯には歯を、ポアにはポアをです」
ふざけるなという声もありそうですが、上川法相も松本智津夫元死刑囚も同じ人間で、やったことも同じです。
さらに、もうひとつ同じことがあります。
 
オウム真理教はなぜあのような恐ろしい犯罪をしたのかということについていろいろと議論されますが、私の答えは単純です。オウムは疑似国家だったからです。
 
主権国家はどんな犯罪をしても罰せられません。
北朝鮮は拉致事件をみずから認めましたが、罰せられることはありません。アメリカは暗殺やらクーデターやら誤爆による殺人などをいっぱいやっています。ジェームズ・ボンドが殺しのライセンスを持っている設定になっていることを誰も怪しみません。
日本の戦争指導者は東京裁判で裁かれましたが、法的には疑義があります。
 
オウムは1990年の総選挙で惨敗してから国家転覆計画を実行に移し、鉄工所を乗っ取って自動小銃の製造を試みたり、サリンなどの化学兵器、生物兵器の製造をするようになります。1994年には省庁制を始め、科学技術省、自治省、厚生省、諜報省などをつくって疑似国家になります。
殺人を肯定する教義はその前からあったらしく、坂本弁護士一家殺人事件は1989年です。しかし、一家を拉致して山中で殺害するというのはヤクザでもやりそうな犯罪です。
地下鉄サリン事件はまったく違います。これは疑似国家としての行為で、日本国に対する戦争といってもいいでしょう。このスケールの大きさに日本国民はびっくりして、オウム事件は特別な事件になりました。
 
自分を国家と見なすことで、倫理のタガが外れてしまったのです。
 
オウムの教義はヨガや仏教からきているようですが、それだけなら普通の犯罪をする程度です。
しかし、教団が疑似国家となると、まったく違ってきます。
 
現在、オウムの後継団体にきびしい監視の目が向けられていますが、麻原を神格化する程度ではたいした危険はないでしょう。団体が疑似国家になるか否かという点に注意すればいいのではないでしょうか。
 
オウム事件に関しては、高学歴者がなぜあんな事件を起こしたのかということがよく言われます。
しかし、ウィキペディアによるとオウムの公称信徒数は1990年で5000人だということですから、ある程度高学歴者がいるのは当然です。疑似国家を運営するには高学歴者が適任なので抜擢されたのでしょう。
彼らにしてみれば、ヨガや仏教の修行をしようとしていたら、いつの間にか国家の運営をさせられ、犯罪をさせられていたというところです。

オウム事件は、疑似国家の疑似戦争だと理解すると、戦争指導者は松本元死刑囚だけです。ほかの人間は戦時下に国を裏切るわけにはいきません(国家の論理では)。それで死刑になるのは気の毒な気もします。
 
佐川宣寿氏も官僚になり、国家の運営をしていたら、虚偽答弁や公文書改ざんをさせられていました。
上川法相も国家運営の中枢に入ったために、7人もまとめてボアする執行命令をさせられました。
 
上川法相もオウムの死刑囚も、国家の運営に深く関わったために人をポアすることになった点では同じです。
 
もちろん疑似国家と本物の国家の違いはありますが、それだけの違いともいえます。

オウム真理教関係の7人が死刑執行されたあと、松本智津夫元死刑囚の遺骨の行方が問題になっています。
松本元死刑囚は執行前に遺体は四女に引き渡すように意思表示したということですが、松本元死刑囚にそんな理性的な判断と意志表示ができたのか疑問に思っていたところ、案の定、松本元死刑囚の三女がブログでこんなことを書いていました。
 
 
しかしながら、東京拘置所は、最初は親族間で争いがあるという理由を挙げ、わたくしたちが母を含め、四女以外はただ父の死を家族だけで静かに悼むという同じ願いを持っているとお伝えすると、「本人が(遺体の引取先として)指定した人がいる」という旨おっしゃり、遺体の引き取りはできないとのことでした。能力的に父が意思表示などできるはずがないと申し上げると、今度はそのようなことは言っていないと、言葉をひるがえしています。
 
 報道によれば、父が指定した相手は、わたしの妹、父にとっては四女の聡香だということになっております。遺言状はありません。何度もおうかがいをしたにもかかわらず、東京拘置所は7月9日現在にいたるまで、父が指定した相手が四女だということを、わたしたちには話をしてくださいませんでした。
 
 わたし自身は、父が四女を遺体の引取先として指定したという話について、父が東京拘置所の職員と意思疎通ができなかったという客観的な事実からも、作られた話ではないかと感じております。
 
 
どう考えても、法務省が嘘をついているようです。安易に嘘をつくのも“アベ化”のひとつでしょうか。
四女は松本元死刑囚の子どもの中でただ一人教団との縁を切っているので、法務省は四女に引き渡すために嘘をついたと思われます。
四女は、今遺骨を引き渡されると「身の危険を感じる」として拘置所でしばらく保管するよう求めていましたが、その後、遺骨をパウダー化して太平洋に散骨するという意向を表明しました。これが法務省の望むシナリオなのでしょう。
 
 
上川陽子法務大臣は死刑執行の日の午後に記者会見しましたが、なぜこの時期に死刑執行をしたのか、なぜこの7人を選んだのかについてはなにも説明しませんでした。
また、死刑制度の必要性や意義についても語りませんでした。
もちろん語るべき言葉がないのでしょう。マスコミは「国民感情」や「被害者遺族感情」を死刑の理由に挙げますが、同じことを法務大臣が言ったら、それは世界に報道されますから、そんなことは死刑の理由にならないと世界から批判されたでしょう。
 
ちなみにEUは死刑執行のあった6日、日本政府に対して、死刑は犯罪抑止にならないことや冤罪の場合に取り返しがつかないことを理由に、死刑制度の廃止を前提とした執行停止を訴えました。
これに対して日本政府が死刑の必要性を訴えるとしたら、「正義」しかありません。「われわれは正義を行った」と主張したら、EUもなかなか反論できないでしょう。
 
もっとも、死刑の理由に正義を挙げると、犯罪者もそれをまねするようになります。つまり誰かを殺したいほど恨んでいるとき、正義を理由にすれば殺してもいいのだということになって、殺人を後押しすることになります。また、自分が不幸なのは世の中が悪いからだと思っている者は、世の中の人を殺すことは正義だとして通り魔事件を起こすかもしれません。
 
正義を理由に人を殺すのは、法の論理かもしれませんが、犯罪者の論理でもあります。
 
もっとも、これに対しては「死刑は殺人に対する報いとしてあるので、ただの殺人とは違う」という反論があるかもしれません。しかし、自分は死ぬほどの苦しみを味わっていると思っている人間の主観では同じことです。
 
 
人間には人を殺したくないという本能があります。
日本の絞首台には、本物のボタンとダミーのボタンがあって、3人ないし5人の刑務官が同時にボタンを押して、心理的負担を軽減するようになっているそうです。
軍隊で銃殺刑をするときは、一丁だけ空砲の入った銃を混ぜておくという習わしがありました。
 
日本で裁判官になるということは、死刑判決を出すかもしれないということです。裁判官を志す人間というのは、人間のもっとも土台である本能が毀損した人間ではないかと私は思っています。
裁判官だけではありません。死刑制度の維持に必死になっている法務官僚も同じです。
彼らは収入もあって社会的地位も高いので、犯罪をすることはありませんが、もし社会の底辺にいて、なにもかもうまくいかなくなれば、殺人事件を起こしているかもしれません。
現につまらない嘘をついて松本元死刑囚の遺骨を思い通りにしようとしています。
 
こういう人間観は常識と違うかもしれませんが、すべての偏見をなくして、ありのままの人間を見れば、死刑囚も法務官僚も同じです。

日本は世界的に犯罪が少ない国なので、そのことを世界にアピールすればいいのに、なぜか死刑大国であることをアピールしています。
7月6日、オウム真理教の松本智津夫ら7人への死刑が執行されました。
世界の潮流に逆らって死刑制度に固執する日本の司法当局はなにを考えているのでしょうか。
 
ジェームス・ボンドがカッコいいのは、たぶんに007という「殺しのライセンス」を持っているからです。
日本の司法組織もそれと同じで、死刑制度という「殺しのライセンス」を持っているとみずからの権威が高まると思っているのでしょうか。
 
それから、日本はこのところ毎年犯罪が減少して、刑法犯は2002年のピーク時と比べると2016年には約三分の一になっています(「平成29年版犯罪白書」)。このままでは警察司法関係の予算をへらされてしまいますから、少年法改正、時効延長、厳罰化、共謀罪新設などにより「犯罪の水増し」をはかってきました。当然、死刑制度もやめるわけにはいかないでしょう。
 
司法組織は「原子力村」に似ています。専門家性をタテにみずからの利権を追求して、誰も止められません。
 
 
そもそもなぜ死刑制度が必要かというと、日本ではもっぱら「国民感情」が理由とされます。アンケートで死刑賛成が多数だからというのです。
しかし、そのアンケートはこんな文面です。
 
死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか。
「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」
「場合によっては死刑もやむを得ない」
「わからない・一概に言えない」
 
「どんな場合でも」と「場合によっては」、「廃止すべき」と「やむを得ない」という非対称の文章で答えを誘導しようとしています。
「死刑制度に賛成」「死刑制度に反対」といった対称的な文章にするべきでしょう (ついでにいうと、「どんな場合でも」と制度の「廃止」をつなげるのは日本語として間違っています。「どんな場合でも死刑は行うべきでない」とするべきです)
 
マスコミは殺人事件があった場合、被害者遺族に取材して、「死刑にしてほしい」といった発言を引き出し、「被害者遺族感情」を前面に出した報道をします。
しかし、死刑が執行されたとき死刑囚遺族に取材して、その感情を報道するということはしませんから、ここでも非対称になっています(もっとも、殺人犯というのはたいてい崩壊家庭で育っているので、死刑囚の死を悲しむコメントをする人はまずいませんが)
 
今の死刑制度は、「国民感情」だの「被害者遺族感情」だのというあやふやなものを根拠に行われています。
そんなことをしていると、誰も身寄りのない人が殺された場合、「被害者遺族感情」が存在しないわけですから、その殺人犯は罪が軽くなることになってしまいます。
 
また、「加害者の人権は守られているのに被害者の人権は守られていない」ということも死刑や厳罰の根拠としてよく言われます。しかし、加害者を死刑にしても被害者の人権が守られるわけではありません(人権の中に復讐権というものがあるとすれば別ですが)
 
 
「国民感情」や「被害者遺族感情」や「被害者の人権」はどれも死刑の理由にはなりません。
死刑の理由があるとすれば「正義」です。これしかありません。
 
「正義」とはなにかというと、「悪い人は殺してもかまわない」とか「極悪人は殺すべきだ」という道徳のことです。
ハリウッド映画はこの道徳でつくられ、正義のヒーローが悪人を殺すと観客は喝采します。
 
ですから、死刑賛成派は「国民感情」などというあやふやなものを持ち出さずに「正義」を主張するべきです。
もっとも、そうすると「なぜ悪い人を殺してもいいのか」と聞く人が出てくるので、答えなければなりませんが。
 
 
 
以上のことは、つい最近書いた次の記事と対称になっているので、併せて読んでください。
 
「なぜ人を殺してはいけないのか」に答える

若者が異常な殺人事件を起こした場合、犯人はほぼ確実に幼児虐待の犠牲者です。それ以外に原因がありえないからです。
 
6月26日、島津慧大容疑者(21歳)は富山市の交番で警官を刺殺して拳銃を奪い、さらに近くの小学校の警備員を射殺するという事件を起こしました。
6月9日には小島一朗容疑者(22)が新幹線車内で刃物で3人を殺傷する事件を起こしていて、このふたつの事件はよく似ています。
 
新幹線殺傷事件については週刊文春が小島容疑者の家庭環境についてけっこう詳しい記事を書いていたので、このブログで紹介したことがあります。
 
小島一朗容疑者の父親像
 
そして、富山市交番襲撃事件についても週刊文春7月12日号が「富山交番襲撃犯 元PTA会長で少年補導員だった父の“鉄拳教育”」という記事を書いていました。

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この記事から何か所か紹介してみます。
 
 
記事によると、島津慧大容疑者の家庭環境は、共働きの両親と姉の4人暮らしです。
地元の小・中学校に通っていたころは親しい友人はあまりいなかったということです。
 
 
中学二年生の途中からは、家にこもりがちになった。その頃、島津家は修羅場と化していた。
「父親が若いときは、玄関先で息子の胸ぐらをつかんで『お前!』と叫びながら、殴っていたのを何回も見ました」(前出・親族)
だが、島津が成長すると、関係は逆転していった。アメフト経験者で身長百八十センチを超える父親も音を上げるほど息子からの暴力は激しくなり、数年前には警察を呼ぶこともあった。
「両親と一緒に出掛けた帰り、車から降りた途端に助手席のドアを蹴っ飛ばしているのを見ました。その強さはボディを凹ませるほどでした。奇声もよく聞こえ、夜中の一時とか二時とか、多いときは何時間か続く時も。両親に対して言っているように聞こえる時もあった。とにかく、『オォォー』とか壁を叩く音が凄かった」(同前)
耐えかねた父と母、姉は近くに別の家を探し、出ていった。一人残された島津は、高校には行かず、およそ三年半の間、自宅に引きこもっていた。
自宅二階のカーテンが引き裂かれるなど、外からでも荒れ具合が見て取れる。
しかし、島津は三年前に一念発起し、自衛隊への入隊を決意する。
「お父さんはとても喜んでいて『おらんとこの息子でも間に合うんかの。行ってくれるゆうからよかったちゃ』と言っていました。この子ならやっていけると思った」(自衛隊関係者)
両親も家に戻り、うまくいくかと思われた。しかし親族の見方は違ったようだ。
「とんでもないところに入ったなと思いました。入れてはいけないヤツを入れてしまったというのは、今回の問題点ですよ」
 

島津容疑者は2年間で自衛隊を辞め、そのころから銃へ強い関心を示すようになって、自宅からはモデルガンや銃器に関する書籍も押収されたということです。一時は電気工事会社に就職しますが、長続きせず、フリーターになります。

 
事件の原因について、親族は父親との関係が影響していると語る。
「子供を捨てたのが失敗だった。思春期に広い一軒家に二年半もひとりで暮らしていたら、おかしくなると思いませんか?」
その父親は島津の通う小・中学校でPTA会長や地域の少年補導員も務めていた。息子が出席していない学校行事で、挨拶する姿も確認されている。
「教育に関する講演もされていました。よく松下幸之助の十カ条をたとえに出すなど教育には熱心だったと思います。ただ、思い込みの激しい一面もあって、人の意見を聞かないところがあった」(元PTA役員)
 
 
父親の職業はこの記事には書いてありませんし、今のところ検索してもわかりません。しかし、「教育に関する講演」もしていたというので、教育関係者かそれなりの社会的地位のある人間かもしれません。
 
親族は二年半ひとり暮らしをさせたのが失敗だったと言っていますが、そのときはすでに島津容疑者の家庭内暴力がひどくて、そうするしかなかったのでしょう。むしろひとり暮らしで少しはまともになって、それで自衛隊に入ろうという前向きの気持ちが出たのではないかと思われます。
 
もちろん問題は、父親の暴力です。幼児期に親から振るわれた暴力は、人格形成にきわめて深刻な影響を及ぼします。
 
幼児期に虐待されたからといって、それだけで犯罪者になるわけではありません。虐待にも程度がありますし、そのほかのさまざまな要素も関係します。島津容疑者にしても、たとえば自衛隊に適応するとか、いい女性との出会いがあるとかすれば、まったく変わっていたでしょう。
 
しかし、普通に育った人間であれば、たとえば離婚して、事業に失敗して、人生のどん底に落ちたとしても、人を殺してやろうという発想にはなりません。
その意味で、「異常な犯罪の最大の原因は、犯人が幼児期に虐待されたことである」ということがいえるのです。
 
しかし、マスコミを初め世の人々はなかなかこの事実を認めようとしません。
今回の事件でも「バイト先でのトラブルが事件の動機だ」といった報道がけっこうあります。
島津容疑者はバイト先のファストフード店で店長を殴って店を飛び出し、その日に犯行に及んだというのは事実のようです。しかし、バイト先でのトラブルは「動機」ではなくあくまで「きっかけ」です。
 
週刊文春は新幹線殺傷事件といい今回の富山交番襲撃事件といい、容疑者の育った家庭内部のことをよく報道しています。
幼児虐待は子どもの心をひどく傷つけるので、それがうまく癒されない限り、のちに重大な問題を引き起こす可能性があるのは当然のことです。

このところ内閣支持率が上昇しています。検察が森友学園関係の国有地払下げや公文書改ざんを不起訴にしたからでしょう。
安倍首相は「国有地払下げに私や妻が関係していたら首相も議員も辞める」と言いましたが、これは国有地払下げが不正であることを前提としていたはずです。
検察審査会の決定でまだ起訴される可能性はありますが、とりあえず不正の程度は軽いということになって、国民も許す気分になったのでしょう。
安倍政権は検察と警察をコントロールしているのが圧倒的強みです。
 
こうなると、野党も攻め方を考えなければなりません。
「安倍首相は嘘をついた」と批判しても、嘘をつくこと自体は犯罪ではないので、無視されれば終わりです。
ですから、国民を動かして世論の力で安倍政権を追い詰めるように持っていかなければなりません。
その点で参考になるのはトランプ大統領です。トランプ大統領は人を言葉で攻撃する天才です。
 
 
ホワイトハウスのサンダース報道官はバージニア州レキシントンのレストランに食事に行ったところ、店の経営者にトランプ大統領のもとで働いていることを理由に入店を断られるという出来事がありました。これに対してトランプ大統領はツイッターで「サンダース報道官のような立派な人への接客を拒否するよりも、汚い扉や窓をきれいにすることに力を入れるべきだ。外観が汚ければ中身も汚い」と店を名指しで攻撃しました。
普通だと「サンダース報道官の入店を拒否するとはけしからん」とか「店は客を平等に扱うべきだ」とか言って批判するものです。
しかし、トランプ大統領の発想は違います。店にとっていちばん打撃になるのはなにかと考えて(おそらく店の写真を見て)、「店が汚い」という攻撃をしたのです。
「入店を拒否するのはけしからん」という批判では、店側も覚悟しているのでこたえないでしょう。「店が汚い」というのは、店側にしても予想していない方向からのパンチです。それに、「店が汚い」というのは店のイメージダウンになって経営にも響くかもしれません。
 
また、ハーレー・ダビッドソンがEUの関税を回避するために生産拠点を米国外に移すと発表しましたが、これに対してトランプ大統領はやはりツイッターで「ハーレー・ダビッドソンが全ての企業の中で白旗を振った最初の企業になろうとは驚きだ」「がまんしろ!」と批判しました。
「アメリカ国民への裏切りだ」という批判はありがちですが、「白旗を振った」というのは戦争中の裏切りですから、グレードが上です。
また、ハーレー側としては工場移転の経済合理性を主張したいはずですが、「がまんしろ!」という道徳的な批判に反論するのは困難です。
 
トランプ大統領は、普通の人の発想を上回る言葉を繰り出して人を攻撃する特別な才能を持っていて、この能力はインターネットの時代に絶大な効果を発揮します。
 
 
日本では「法の支配」が頼りにならなくなっているので、こうした言葉の力で国民世論を喚起するしかありません。
ところが、野党はこの点でも安倍首相に押されています。たとえば、安倍首相は「嘘つき」と言われると決まってキレるので、野党は「嘘つき」という言葉を封印しています。
しかし、嘘つきでない人間はいないので、「嘘つきを嘘つきと言ってどこが悪い」と開き直って攻撃すればいいのです。
「安倍首相は嘘をついた」と「安倍首相は嘘つきだ」とでは印象がぜんぜん違います。
 
また、「行政をゆがめた」ということもよく言われますが、表現が抽象的です。
安倍首相は佐川宣寿氏や柳瀬唯夫氏に嘘をつかせ、財務省職員に公文書改ざんをさせたのですから、「部下を犠牲にした」と言うべきです。
「部下を犠牲にする上司」というのは、犯罪でなくても世の中でもっとも嫌われるもののひとつです。
 
とはいえ、森友加計問題は「犯罪」にならなくなった時点で重要度が低下しました。納得いかなくても、検察が安倍政権の支配下にある現状では受け入れるしかありません。
野党もこれからは、外交や経済問題で安倍政権を追及する方向にシフトしていくべきではないでしょうか。

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