村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2018年08月

トランプ大統領は6月にホワイトハウスで安倍晋三首相と会談した際「真珠湾攻撃を忘れないぞ」と前置きした上で、通商問題の協議を始めたということです。
相手の後ろめたいところをつくのは交渉術のひとつです。昔の中国は日本企業と交渉するとき、南京事件を初めとする日本軍の残虐行為を持ち出して交渉を有利に運ぼうとしたといわれますが、トランプ大統領のやり方もそれと同じです。
 
アメリカファーストのトランプ大統領と安倍首相が通商問題で対立するのは当然です。
ところが、菅官房長官は「指摘のような事実はない」と否定していますし、「官邸は火消しに必死」という報道もあります。
「トランプ大統領とタフに交渉する安倍首相」をアピールすればいいのに、そういう発想はないようです。
 
それにしても、トランプ大統領に「真珠湾」を持ち出されたとき、安倍首相はなんと反応したでしょうか。
 
当時、日本軍は宣戦布告をした直後に真珠湾攻撃を開始する予定でしたが、外務省のミスによりアメリカ政府への通告が遅れ、結果的に“だまし討ち”になってしまいました。
ところが、日本の右翼は、あの戦争は自存自衛の戦争だったとか、アジア解放の戦争だったとか言って、ひたすら日本を正当化しています。宣戦布告の遅れについても同じです。
「外務省の事務方のミスで、日本は悪くない」という「秘書がやった」的弁解、さらに「アメリカは暗号を解読して攻撃を知っていた」とか「アメリカやコミンテルンの謀略で日本は戦争に引き込まれた」とか主張して、だまし討ちではなかったということにしようとします。
ですから、日本の右翼はだまし討ちについてアメリカに謝ったことがありません(左翼はもともと日本の戦争は悪という立場です)
 
右翼の親玉たる安倍首相も同じです。
 
安倍首相にはアメリカに謝るいい機会がありました。
安倍首相は2015年4月にアメリカ議会上下両院合同演説会で演説し、「自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない」とアジアへの罪は認めましたが、アメリカとの戦争に関しては「真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙祷を捧げました」と感傷的な言葉を並べただけで、日本の罪は認めていません。
 
201612月にはオバマ大統領とともに真珠湾を訪れ、演説をしましたが、だまし討ちについての謝罪はありませんでした。
 
もっとも、だまし討ちを謝罪するだけでは不十分です。「先制攻撃」についても謝罪しなければなりません。真珠湾の先制攻撃により日米の戦争は、日本の侵略戦争、アメリカの防衛戦争ということになりました。
 
もちろん私が言いたいのは、日本は謝るべきところは謝って、それからアメリカに対して主張するべきところは主張せよということです。
 
 
安倍首相に限らず日本政府がアメリカに謝罪しないので、日本人はアメリカに対してずっと後ろめたい思いをいだいています。
それはアメリカにとって好都合なことですから、アメリカも日本に謝罪を迫るこことはなかったのでしょう。
 
ところが、トランプ大統領はなにも考えずに「真珠湾」を持ち出してきます。
ということは、日本人にとっても日米関係を考え直すチャンスです。
ところが、安倍政権はトランプ発言を否定しています。いつまでも偽りの日米関係を続けたいようです。
 
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を言っていますが、いくら憲法改正をしても、日米関係が変わらない限り戦後レジームは終わりません。

トランプ大統領が就任して1年7か月、世界は加速度的に混迷を深めています。
 
米朝合意は成立したものの、非核化がどうなるのかもわからないし、米朝合意がいつ破棄されるかもわかりません。
これは、北朝鮮がどう出るかわからないというよりも、主にトランプ大統領がどう出るかがわからないということによります。
 
トランプ大統領の保護貿易主義が世界各国と摩擦を起こし、とりわけ米中間の貿易戦争が激化しています。
最初のうちは、米中間の争いがこれからどうなるかという予測記事がけっこうありましたが、最近そういうものは見ません。誰も予測がつかなくなったからでしょう。
 
トランプ大統領はトルコとの対立もどんどん激化させていますが、同盟国であるトルコとこれほど対立するとは、誰も予想しなかったでしょう。
 
私も最初のうちはトランプ氏の心理を推測し、行動を予想していましたが、最近はやめています。
 
そうした中、8月22日に安倍首相とトランプ大統領との電話会談が行われました。朝鮮半島の非核化と拉致問題について話し合ったということで、安倍首相は例によって「朝鮮半島の完全な非核化を実現するとの方針において、日米は完全に一致をしている」という得意のセリフを言いました。
今、トランプ大統領と一致していることを自慢するのは、世界中で安倍首相ぐらいのものでしょう。
 
トランプ大統領の行動がなぜ予測しにくいかは、次のニュースからもある程度理解できます。
 
 
トランプ氏、南アを刺激 人種隔離政策の傷痕に踏み込む
トランプ米大統領が南アフリカの土地政策にツイッターで「介入」し、波紋を呼んでいる。南ア政府が少数派の白人が所有する農地を収用できるようにする方針だと懸念を示し、ポンペオ国務長官に調査を命じたことを明らかにした。アパルトヘイト(人種隔離)政策の傷痕に踏み込む発言に、南ア政府は強く反発している。
 トランプ氏は22日夜、「ポンペオ国務長官に、南アの土地農地の収用問題と大規模な農家殺害について詳しく調査するよう頼んだ」とツイート。これに対し、南アフリカ政府は23日、公式ツイッターで「かつての植民地時代を思い起こさせる狭い見方を拒否する」と反発した。
 南アフリカでは1991年、少数派の白人が大半の土地を所有する結果を生んだアパルトヘイト関連法が廃止されたが、土地所有の現状は大きく変わっていない。ラマポーザ大統領は「不平等を是正する」とし、白人所有の土地を補償金なしで収用し黒人に再配分する方針を提示。7月には、これを可能にするための憲法改正を進めるとした。
 トランプ氏のツイートの直前、保守系の米FOXテレビがこの動きを取り上げ「人種差別的な土地没収だ」と報道。「トランプ政権はこの人権の悲劇にどう対処すべきか」と、経済制裁などの可能性に言及した。トランプ氏はこの報道に反応したとみられる。
(後略)
 
 
南アフリカは長年の白人支配によって今でも「白人の人口比率は全体の8%に過ぎないが、現在も農地の72%を白人農家が所有している」とのことです。
 
南アフリカの政策は戦後日本の農地解放のようなものだと思えば、アメリカが文句を言うのはおかしなものです。
それに、トランプ大統領が文句を言ったのは、明らかに黒人対白人の問題で白人に肩入れするためであり、黒人への差別感情からです。
 
そして、これはなによりも南アフリカに対する内政干渉です。
今の時点では国務長官に調査を命じただけですが、南アフリカの政策に言及しただけで立派に内政干渉になります。
 
しかも、そのきっかけがFOXテレビの報道であるようです。
トランプ大統領はひとつのテレビ番組を見ただけで行動を起こすのです。
 
行動のきっかけはテレビ番組で、動機は人種差別――トランプ大統領の行動が予測しにくいのは当然です。
 
アメリカでは「トランプが次になにをするのかわからない」「トランプがいつか核のボタンを押すのではないかと心配」という不安から精神を病む人がふえていて、「トランプ不安障害(TAD=Trump Anxiety Disorder)」という名前がついているそうです。
 
 
不安障害から逃れるひとつの手は、私みたいにトランプ氏の行動を予測するのをやめることですが、安倍首相のようにつねに「アメリカと完全に一致」と考える(思考放棄する)ことも、もうひとつの手かもしれません。

安倍首相は広島と長崎の平和祈念式、全国戦没者追悼式に出席し、式辞を述べました。
しかし、その言葉は白々しく、心が感じられません。
毎年同じ言葉だとか、核廃絶についての意志がないとか批判されますが、もっと根本的な問題があります。
それは「人の命」に対する認識です。

次が安倍首相の言葉です。
 
 
平成三十年 全国戦没者追悼式式辞
 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表、多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。
 苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たお)れた御霊(みたま)、戦禍に遭い、あるいは戦後、遠い異郷の地で亡くなった御霊、いまその御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
 今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧(ささ)げます。
 未(いま)だ帰還を果たしていない多くのご遺骨のことも、脳裡(のうり)から離れることはありません。一日も早くふるさとに戻られるよう、全力を尽くしてまいります。
 戦後、我が国は、平和を重んじる国として、ただ、ひたすらに歩んでまいりました。世界をより良い場とするため、力を尽くしてまいりました。
 戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、この決然たる誓いを貫いてまいります。争いの温床となる様々な課題に真摯に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する、そのことに、不断の努力を重ねてまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。
平成30年8月15日
 

「御霊」という言葉を連発しています。
安倍首相としては、ほんとうは「英霊」と言いたいところでしょう。
 
人が死ぬと霊になるなら、死はそれほどいたましいものではないことになります。英霊になるならなおさらです。
そういうことから安倍首相の追悼の言葉には心がないのです。
 
なお、これは追悼式であって、慰霊式ではありません。
天皇陛下のお言葉には「霊」という言葉はまったく出てきません。
 
天皇陛下のおことば
全国戦没者追悼式 平成30815日(水)(日本武道館)
本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に73年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,ここに過去を顧み,深い反省とともに,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

 
本来なら天皇陛下は神道につながる存在ですから、霊を語ってもいいはずですが、「人の死」を直視しています。
そして、この世に生きる人間を幸せにするのが政治家の仕事なのに、安倍首相は「御霊」を語るという、おかしなねじれが生じています。
 
 
また、安倍首相は「今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれた」と語っています。
「尊い犠牲」という言葉を、私は前から死を美化するものとして批判しています。
尊いのはあくまで命です。「尊い命がむごい犠牲になった」というべきです。
いや、「犠牲」という言葉も「神への捧げもの」という意味なので、少し死を美化しています。
ですから、「尊い命がむごく失われた」というべきです。
 
 
また、「祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たお)れた御霊(みたま)」という表現も気になります。
 
人間における最大の感情は、生きたい、死にたくないというものです。
ですから、戦場にたおれた若い兵士を思うなら、もっと生きたかっただろう、恋愛して、結婚して、いろんな楽しいことをしたかっただろうということですし、妻子のいる兵士なら、もっと家族といっしょにすごしたかっただろうということです。
「祖国を思い、家族を案じつつ」という言葉には、「自分が生きたい」という肝心のものが抜けています。
安倍首相の頭にあるのは、「祖国と家族のために進んで自分の命を捧げる」という理想の兵士のイメージのようです。
 
これでは戦没者追悼の言葉に心がこもらないのは当然です。

安倍首相は自民党の改憲案を次の国会に提出する意向を表明し、それに対して石破茂氏が「スケジュール感ありきでやるものではない」と批判し、改憲問題が総裁選の争点になってきました。
しかし、安倍首相の正確な発言を見てみると、決して次の国会に改憲案を提出するとは言っていません。
 
安倍首相は8月12日、下関市での講演において、憲法改正について「いつまでも議論だけを続けるわけにはいかない。自民党としての憲法改正案を次の国会に提出できるようとりまとめを加速すべきだ」と述べました。
どの記事を見ても同じ表現です。
「次の国会に提出できるようとりまとめを加速すべきだ」ですから、次の国会に提出するとは言っていません。
安倍首相は節目ごとに「改憲への意欲」を表明してきましたが、まったく進展はありません。私はこれを「改憲やるやる詐欺」と言っています。
 
安倍首相は昨年の5月3日の憲法記念日に、九条の1項と2項はそのままに、自衛隊を明記した3項を追加するという案を提示し、年内にまとめると明言しましたが、まとまりませんでした。
そして今年の3月、自民党憲法改正推進本部の全体会合において、改正案のとりまとめを細田博之本部長に一任することになりました。
 
一任をとりつけた細田本部長はその後、改正案をとりまとめたのでしょうか。安倍首相が「とりまとめを加速すべきだ」と言ったところを見ると、なにもやっていなかったようです。
 
そもそも九条加憲案というのは、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と書かれた次の行に「自衛隊を保持する」と書くわけですから、そんなものはまとまるはずがありません(自衛隊を「実力組織」として「戦力」と区別する案が示されていますが、所詮はごまかしです)
 
安倍首相としては、総裁選に出馬するのになにも訴えることがありません。アベノミクスは惰性ですし、外交は全方位で行き詰まっています。そこで、「改憲に意欲を燃やしている」という演出をしたのでしょう。
しかし、安倍首相は2015年に解釈改憲をやって新安保法制を成立させたので、もはや改憲する意味がほとんどなくなっています。
 
このところの安倍首相は、「小人閑居して不善をなす」を地でいっていて、カジノ法案を成立させたり、サマータイム制度の検討を党に指示したりと、ろくなことをしません。
首相の椅子にしがみつくことしか考えていない人間はみっともないものです。
 
石破氏は「スケジュール感ありき」を批判しましたが、私の考えは逆です。
安倍首相は改憲のスケジュールを公約にして、改憲の発議まで持っていくべきです。
もちろん国民投票をすれば改憲案は否決されるはずです。
そうすれば、日本の政治から改憲問題がなくなり、必要な課題にエネルギーを集中できます。
 
改憲問題がなくなることも“戦後レジームからの脱却”です。

全国戦没者追悼式における安倍首相のあいさつについて、新聞各紙は「加害責任に触れず」といった見出しをつけています。
この加害責任はもちろん、日本のアジアに対するもののことですが、加害責任にはもうひとつ、アメリカの日本に対するものもあります。
 
日本軍がアメリカの民間人を殺したのは、真珠湾攻撃で民間人に68人の死者が出たことぐらいしかありません。
一方、アメリカ軍の日本本土空襲によって、30万人から50万人の民間人が殺されました(100万人という説もあります)
沖縄戦では多数の民間人が亡くなっていますが、これは戦闘に巻き込まれたという見方もできます。
しかし、本土空襲は民間人を狙ったものでした。
また、民間人がグラマンの機銃掃射を受けたという体験談もいっぱいあるので、アメリカ軍の行為はかなり悪質です。
 
安倍首相は日本人犠牲者のためにもアメリカの加害責任に言及するべきです。
もっとも、そのためには日本のアジアに対する加害責任を認めなければなりませんし、アメリカに対する先制攻撃、つまり侵略戦争をしたことについても謝罪しなければなりません。
 
原爆投下も含めてアメリカの非人道的な大量虐殺に対して、日本人がなにも感じていないはずはありません。しかし、安倍首相は今年の広島と長崎の平和祈念式におけるあいさつでも、アメリカのアの字も言いませんでした。
安倍首相がアメリカの加害責任に言及すれば、アメリカ政府あるいはアメリカの世論が反発して、激しい論争が起こるかもしれません。
しかし、信頼関係というのは、そういう本音をぶつけ合うことから生まれるものです。
それに、その論争の中から植民地主義や人種差別への反省が生まれれば、世界にとってもよいことです。
 
安倍首相はつねに「日米関係の強化」を言いますが、アメリカの加害責任を口にできないのでは、いつまでたっても偽りの関係です。
アメリカの加害責任を追及せずに日本人の戦争犠牲者の慰霊はできません。

一度は退治したと思ったゴキブリが猛暑に乗じてわき出てきた感じです。
東京五輪大会組織委員会の森喜朗会長がオリンピックの暑さ対策としてサマータイム制度の導入を口にしたとたん、安倍首相が自民党に指示するなどして、実施への動きが加速しています。
 
サマータイムを導入したがるのはろくでもない人たちです。
というのは、2004年から「北海道サマータイム特区構想」として実験が行われていましたが、サマータイム実施国のほとんどが緯度の高い国です。つまり成功しやすいところで実験したのです。北海道で実験するなら同時に九州か沖縄でもするべきですし、どうしても一か所でしかしないなら、中部地方でするべきです。最初から「導入ありき」のインチキな実験でした。
 
しかし、そういうインチキな実験をしても反対論がどんどん強くなり、最終的に2012年に日本睡眠学会がサマータイム導入で健康障害が起こる可能性があるとの報告を出して、これでサマータイム導入の動きは息の根を止められました。
 
日本睡眠学会の一般向けの報告はこちら。
 
「サマータイム―健康に与える影響―」
 
これで終わったと思っていたら、森喜朗会長の一言からまたぶり返しました。
もともとサマータイム導入は経済界と経産省が望んでいたものですが、よほど大きな利権があるようです。
 
しかし、反対論も強力です。健康問題に加えて、IT関係で膨大なコストがかかるとも言われています。アジアで導入している国はないということや、ヨーロッパでも反対論が強まっているということなども紹介されています。
ただ、反対論は出尽くしているようでも、文化的な面については意外と誰も指摘していないので、それについて書いてみます。
 
たとえば、日本人特有の季節感の問題です。
日本人が秋の訪れを感じるのは、虫の声とか紅葉とかうろこ雲とかいろいろありますが、いちばんわかりやすいのは、「秋の日はつるべ落とし」というように、日が短くなったなあということです。ところが、サマータイム制になると、日没時刻や日の出時刻で季節の変化を感じるということができなくなってしまいます。
日本文化における季節感の重要性を思えば、季節感を狂わせるだけでもサマータイム制を否定する十分な理由になるのではないでしょうか。
 
それから、「時間を変える」あるいは「時間を支配する」ということは、本来人間にはできないことで、“神の領域”です。
こういう発想はキリスト教特有のものです。キリスト教では、神と人間の間に葛藤があり、人間はつねに“神の領域”を侵そうとして、ときに神から罰せられたりします。
サマータイム制がもっぱら欧米で行われているのもそのためです。
サマータイム制では、時間を決める権力者がまるで神のように民衆を支配している格好になります。
 
別の例をあげれば、ニワトリは日照時間の長くなる春によく卵を産んで、日照時間の短くなる秋にはあまり卵を産まないという性質があるので、養鶏場では人工的な照明で秋を感じさせないようにしています。サマータイム制はそれに似ています。労働者を家畜のように管理して、よく働かせるための制度です。
 
 
日本で政治家や官僚が執拗にサマータイム制の導入をはかるのは、そういう支配者気分を味わいたいということもあるのかもしれません。
 
ともかく、今回のサマータイムの話はあまりにも唐突だったため、たぶんうまくいかないと思いますが、自分たちの利権のことしか考えない人たちが日本にいかにたくさんいるかということを思い知らされました。
そういう利権屋は、安倍政権の今こそチャンスだと思って、ゴキブリのようにはい出てきたのでしょう。

インターネットで炎上しやすい事案のひとつに、「公共の場で子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりしているのに親がなにもしない」というのがあります。
「親はちゃんと子どもを叱れ」とか「親は泣いてる赤ん坊をその場から連れ出せ」という怒りの声がある一方、「子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは当たり前。怒るおとながおかしい」という声もあります。
 
こうした議論が起こるのは、「公共の場」についてのとらえ方に根本的な問題があるからと思われます。
 
コンサート会場のような特殊な場とか、私的な会合の場とかなら、子どもや赤ん坊を連れた親は出ていけと言われてもしかたありません。
 
では、飲食店はどうでしょうか。公共の場とはいえませんが、誰でも利用できる場だけに、それに近いところもあります。
高級レストランで子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりすると顰蹙を買うでしょう。
では、ファミレスではどうでしょうか。ファミリーレストランというぐらいですから、ファミリーで利用するのが前提で、ファミリーには子どもも赤ん坊もいます。子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのがいやだという人はファミレスを利用するべきではないでしょう。
 
ちなみに居酒屋では大声で騒ぐグループ客がよくいます。おそらく子どもが騒ぐ声よりも物理的に大きい声を出しているはずですが、誰も文句を言いません。居酒屋で騒ぐのは当たり前という認識があるからです。
ファミレスで子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは当たり前という認識があれば、問題はなくなるはずです。
 
いや、居酒屋の客の多くは男ですが、ファミレスの親子連れはたいてい母親と子どもです。母親と子どもという弱者だから文句を言うということもありそうです。
 
あと、赤ん坊に泣くなというのはさすがに理不尽ですから、誰もいいません。代わりに、母親を責めるということがよく行われます。たとえば松本人志氏は、「新幹線で子供がうるさい」「子供に罪はなし。親のおろおろ感なしに罪あり」とツイートしたことがあり、多くの賛同の声があったということです。しかし、こういう考え方が親を追い詰めるのは確かなことで、少子化の原因でもあるでしょう。
 
 
「公共の場」というのは、公道とか公園とか駅とか公共交通機関とか、誰でも利用できるところです。当然、子どもも赤ん坊もいます。子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは自然なことです。
 
公共の場には老人も身体障碍者もいます。
のろのろ歩く老人は、急いで歩いている人のじゃまになることがありますが、だからといって、公共の場では速く歩けとか、速く歩けない老人は公共の場から出ていけなどという人はいません。もしいたら、それこそ炎上騒ぎです。
車椅子の人も周りのじゃまになることがありますが、だからといって公共の場に車椅子で来るなという人はいません。
 
ところが、子どもや赤ん坊については、騒ぐなとか泣いたら連れ出せなどという人がいます。
子どもに騒ぐなというのは、老人に速く歩けというのと同じです。
泣いた赤ん坊を連れ出せというのは、公共の場に赤ん坊はいるべきでないといっているのと同じです。
 
どうやら世の中には、公共の場はおとなのものだと思っている人がいるようなのです。
そういう人は、子どもや赤ん坊は公共の場ではおとなのようにふるまうべきであり、それができないなら出ていくべきだと思って、そう主張するのでしょう。
 
しかし、公共の場はおとなだけのものではなく、おとなと同様に子どもや赤ん坊も利用する権利があります。
そのことを理解すれば、「公共の場で子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは許せない」という考え方もなくなり、おとなと子どもの共生が進むのではないでしょうか。

安倍首相は8月6日の広島平和祈念式でスピーチをしましたが、その内容は去年のものとほとんど同じでした。
この一年間に、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のノーベル平和賞受賞、朝鮮半島の非核化を含む米朝合意の成立、昨年7月に採択された核兵器禁止条約の署名国の増加など、核を巡る状況は激変しています。
安倍首相は思考停止に陥っているようです。
 
安倍首相は総裁選の選挙運動も熱心にしていますが、政策や理念を訴えるということはしません。ここでも思考停止です。
 
安倍首相は内政でも外交でも、アメリカ追随が基本です。
いや、これは自民党の基本です。自民党は結党のときからCIAの資金提供を受けていました。
安倍政権は2016年に新安保法制を成立させ、アメリカ追随すなわち“売国”を完成させました。
これによって安倍首相は外交安保に関する目標を失いました。
 
九条改憲は、安倍首相にとってはライフワークのようなものでしたが、安保法制のときに解釈改憲をしたので、改憲の価値が半減してしまいました。
 
もともと右翼にとって九条改憲は、戦前回帰への象徴的な意味と、アメリカの要請に応えるという現実的な意味と、ふたつの意味がありましたが、解釈改憲をしたので、現実的な意味はなくなりました。
ですから、最近の安倍首相は九条改憲の目的を、「多くの憲法学者が自衛隊を違憲というから」とか「『お父さんの仕事は憲法違反なの?』と問う自衛隊員の子どもがかわいそうだから」とか言っています。
そんな理由で手間のかかる改憲をするのは、誰が考えても愚かなことですから、もはや改憲は不可能になったと思われます。

対米従属が完了すれば、もはや外交安保で日本が自主的に動けることはありません。 
ということで、安倍首相は目標を失って、思考停止に陥ってしまったのです。
 
総裁選に出馬するのも、なにかやりたいことがあるからではなく、首相の椅子にしがみつきたいという権力欲だけです。
しかも、森友加計問題で嘘をつき通したために、国民に対して直接語りかけるということができません。
 
目標がないのは、総裁選における対抗馬である石破茂氏も同じです。
石破氏は外交安保について安倍首相との違いを示していません。改憲については違うと言っていますが、どちみち改憲は不可能なことなので、たいした意味はありません。
 
解釈改憲をして安保法制を成立させたことで、安倍首相は“戦後レジーム”を完成させ、売国政党である自民党も役割を終えました。
これからは「アメリカからの自立」が外交安保のテーマになると思います。

杉田水脈議員については、「LGBTは生産性がない」という発言ばかりが注目されていますが、ほかにもトンデモ発言をしています。
201410月の衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と言ったのです。
男女平等を否定しているのです。
 
正確な発言はこうです。
 
「日本は、男女の役割分担をきちんとした上で女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名のもと、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です。男女共同参画基本法という悪法を廃止し、それに係る役職、部署を全廃することが、女性が輝く日本を取り戻す第一歩だと考えます」 (20141031日、本会議)
 
要するに「良妻賢母」とか「男を立て、男に従う女性」が「輝いている女性」だということです。
本会議場での発言ですから、安倍首相も聞いています。安倍首相は杉田議員をひいきしていましたから、安倍首相のいう「女性が輝く社会」がどういうものかもわかります。
 
杉田議員の発言のキーワードは「反道徳」です。
「道徳」とか「道徳的」という言葉は普通よい意味で使われます。自民党は道徳教育を推進してきましたから、とくに道徳をよいものと思っているでしょう。
しかし、差別について考えるときは、道徳はいい意味ばかりではありません。杉田議員も自民党もそのことを理解していないようです。
 
ということで、道徳と差別の関係をここで整理しておきたいと思います。
 
 
人類の祖先が道徳をつくりだしたのは文明の黎明期であったと思われます。そして、文明とともに差別も生まれました。
古代ギリシャ・ローマでは、周辺民族をバルバロイとかバーバリアンと呼んでさげすんでいました。古代中国では、やはり周辺民族を東夷、西戎、北狄、南蛮などと呼んでさげすんでいました。
ということは、道徳と差別は一体のものであったと考えられます。

奴隷制社会には奴隷制社会の道徳があって、奴隷を奴隷として扱うのが道徳的なことです。そんな扱いをしたらかわいそうだとか、奴隷を解放するべきだとか主張すると、不道徳的だとか反道徳だとか非難されます。
 
1964年の公民権法成立以前のアメリカ南部において、白人が黒人の友人を連れてレストランに入ってくれば、その白人は不道徳なふるまいをしたとしてひどく非難されます。レストランから黒人を追い出すのが道徳的なふるまいです。
 
時代の変化とともに黒人の地位が変わって、そうすると道徳も変わります。昔の道徳のままに黒人を扱うと、それは差別だとされます。
 
つまり「差別とは、今は否定されたひと昔前の道徳」です。
 
ですから、差別主義者とは昔気質の人でもあります。アメリカでいえば、親が黒人を差別しているのを見て育ち、自分も同じようにしていると、あるときからそれは差別だと批判されるわけです。批判する人たちは、時代の変化に敏感な知識人などです。昔気質の人は自分こそが道徳的だと思っているので、なかなか差別をやめません。
 
 
道徳が差別に変わるきっかけは、公民権法の成立などもありますが、根本的には科学や学問の世界における人間観の変化です。
黒人は昔は人間よりも動物に近いと思われていました。ダーウィンも人種の違いを重要なものと考えていましたが、生物学の進歩で人種はほとんど無意味な概念だとなって、黒人に対する昔の道徳的な扱いは人種差別とされるようになりました。
男と女の違いも、昔は本質的なものとされていましたが、文化人類学や生物学などによりたいした違いではないとされ、昔の道徳は性差別とされるようになりました。
同性愛も昔はよく理解されていませんでしたが、だんだんと解明されてきて、少なくとも趣味や嗜好の問題ではないとされ、同性愛嫌悪は差別だとされるようになりました。
 
杉田議員はそうした人間観の変化を理解せず、性差別やLGBT差別をいまだに道徳だと思っているのです。
 
 
差別を克服するには、正しい人間観を持つことが第一ですが、同時に道徳と差別の関係を知っておくことも必要です。

「LGBTは生産性がない」で大炎上している杉田水脈衆院議員はいまだに謝罪せず、かといって自説の正当性を主張するわけでもありません。じっとしていれば嵐が過ぎ去ると思っているのでしょうか。
 
杉田議員は批判された当初、ツイッターで次のように反論していました。
 
「自民党に入って良かったなぁと思うこと。『ネットで叩かれてるけど、大丈夫?』とか『間違ったこと言ってないんだから、胸張ってればいいよ』とか『杉田さんはそのままでいいからね』とか、大臣クラスの方を始め、先輩方が声をかけてくださること」
LGBTの理解促進を担当している先輩議員が『雑誌の記事を全部読んだら、きちんと理解しているし、党の立場も配慮して言葉も選んで書いている。言葉足らずで誤解される所はあるかもしれないけど問題ないから』と、仰ってくれました。自民党の懐の深さを感じます」
 
正確には「反論」ではありません。自分にはこんなに味方がいると言っているだけです。
これに対しては「先輩議員とは誰だ」「自民党はそんな党か」と批判が拡大し、これらのツイートは削除されました。
もっとも、削除の理由は次のようなものです。
 
『先日、自分はゲイだと名乗る人間から事務所のメールに「お前を殺してやる!絶対に殺してやる!」と殺人予告が届きました。これに対して被害届を出しました。警察と相談の上、一連のLGBTに関連する投稿は全て削除いたしました』
 
殺人予告があったから削除したわけで、自分のツイートが間違っていたことを認めて削除したわけではありません。
7月23日のこのツイートを最後に、今のところ杉田議員はなんの発信もしていません。
 
杉田議員の対応を見ていると、ほかの人も指摘していましたが、ひじょうに「幼稚」な感じがします。
 
 
杉田議員はどういう人でしょうか。ウィキペディアによると、鳥取大学農学部卒、住宅メーカー、西宮市役所勤務を経て、日本維新の会より出馬して衆院議員に当選、次の選挙で落選しましたが、落選中に右翼的な言論活動で注目され、安倍首相が「杉田さんは素晴らしい」と絶賛して自民党から出馬して当選したということです。
 
稲田朋美議員もそうですが、安倍首相は右翼的なことを言う若い女性が大好きなようです。
安倍首相だけでなく、右翼業界ではこういう女性は喜ばれます。杉田議員としては、右翼的なことを言えば言うほど喜ばれるので、舞い上がってしまったのでしょう。
それだけに、その主張はまったくいい加減です。
たとえば「旧ソ連崩壊後、弱体化したと思われていたコミンテルンが息を吹き返しつつあり、そのターゲットが日本になっている」という陰謀論を主張し、保育所不足が騒がれるのは、「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳教育をする。旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデルを21世紀の日本で実践しようとしている」からだということです。
 
「コミンテルンの陰謀」というのは右翼業界ではよく出てくる説で、田母神俊雄氏は問題になった論文で、日本の真珠湾攻撃もコミンテルンの陰謀だと主張していました。その時代には実際にコミンテルンがありましたが、今の時代にコミンテルンが息を吹き返しているなどということはあるはずがなく、ネトウヨの主張としてももっとも低レベルのものです。誰かに批判されたら反論できないのは当然です。
 
右翼業界でしか通用しない幼稚な人間を政治家に引き上げてしまった安倍首相の罪は重いといわねばなりません。


【追記】
杉田議員は2日、事務所を通じて「自民党性的指向・性自認に関する特命委員会の古屋圭司委員長からご指導をいただきました。真摯に受け止め、今後研鑽につとめて参りたいと存じます」とのコメントを出しましたが、謝罪はしていません。

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