村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2018年10月

3年余の人質生活から解放され帰国した安田純平氏に対して、またしてもバッシングが起こっていますが、こうした現象は日本特有のようです。
もちろん日本人にもバッシングする人としない人がいます。この違いはどこからくるのでしょうか。
 
危険な紛争地の情報は、危険を冒して現地入りするジャーナリストによってしかもたらされません。そういう意味で安田氏のような存在は貴重です。
しかし、日本人の多くは中東情勢にほとんど関心がありません。そういう人は安田氏の仕事の価値がわからないので、「国に迷惑をかけた」というマイナス面だけ見ることになります。
とりわけ右寄りの人は中東情勢に関心がありません。なぜなら中東情勢の混迷は、主にアメリカとイスラエルがもたらしているものだからです。日本の右翼や保守はアメリカべったりなので、そういうことは見たくないわけです。
 
それから、紛争地からもたらされる情報は、ケガした子どもが病院に運ばれる映像とか、悲惨なものがどうしても多くなります。
右寄りの政治思想を持つ人は、こうした悲惨な映像に拒否反応を示すという科学的研究があります。
 
グロ画像を見た時の脳の反応で政治的傾向が右なのか左なのかがわかる?(米研究)
 
こうしたことから、安田氏をバッシングするのは、紛争地を取材する価値のわからない右寄りの人がほとんどです。
 
 
それから、権力に対する態度も関係します。
国家権力に従順な人は、安田氏が国の決めた渡航禁止地域に入ったことを批判しますが、それだけではありません。
身代金の問題でも安田氏を批判します。
 
日本政府は身代金を払っていないと言っていますが、カタール政府が払ったという報道もあり、間接的にせよ日本政府が身代金を払った可能性は高そうです。
日本政府が身代金を払ったという前提に立って話を進めますが、国民の税金を使わせたのはけしからんと安田氏を批判する人がいます。
しかし、身代金を払ったのはあくまで日本政府です。安田氏に日本政府を動かす力はありません。
ですから、身代金を払うべきでないと考える人は、日本政府を批判するべきです。
ところが、私の見る限りでは、身代金を払ったことで日本政府を批判する人はいません。
また、自己責任だから日本政府は安田氏を救出するべきでないと主張する人もいましたが、安田氏が救出された現在、そのことで日本政府を批判する人も見ません。
 
日本政府は権力があり、安田氏にはまったく権力がないので、権力に従順な人は安田氏のほうを批判するわけです。
 
身代金以外のことでも安田氏を批判する人がいます。
たとえば立川志らく師匠は「謝罪しなかったら人としておかしい」と言い、松本人志氏は「個人的に道で会ったら文句は言いたい」と言いました。
しかし、安田氏は犯罪被害者です。
安田氏を拘束したシリアの武装勢力は、いちがいに悪いとはいえませんし、テロリストともちょっと違います。ただ、ジャーナリストを拘束して誘拐ビジネスをすることについては単なる犯罪行為です。
犯罪被害者に謝罪しろというのはセカンドレイプと同じです。
 
シリアの武装勢力には武力や政治力があり、背後にはイスラム教もありますが、安田氏は単なる個人でなんの力もありません。
権力に従順な人は弱い者を批判する方向に行ってしまいます。
 
結局、安田氏を批判する人というのは、右寄りでかつ権力に従順で、日本政府も批判したくないし、イスラム武装勢力も批判したくないので、いちばん弱い安田氏を批判しているのです。

同じ暴言が繰り返されるというのは、暴言するほうに学習能力がないだけでなく、批判するほうも的を外しているかもしれません。
 
麻生太郎財務相は1023日の閣議後の記者会見で、「飲み倒して運動も全然しない人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられんと言っていた先輩がいた。良いことを言うなと思った」と言いました。
 
麻生氏は同じことを何度も言っています。総理大臣だった200811月には、「67歳、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらにかかっている者がいる」「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ」と言いました。
2013年4月には、「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで糖尿になって病院に入るやつの医療費は俺たちが払っているんだから、公平じゃない」「こいつが将来病気になったら医療費を払うのかと、無性に腹が立つときがある」と言いました。
 
こうした発言のつど批判されていますが、それでも繰り返しています。
 
元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏も2016年9月に「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」というタイトルのブログ記事を書き、炎上しました。
しかし、全国腎臓病協議会の謝罪の要求は拒否しました。
ただ、「殺せ」という表現はよくなかったとして、問題のブログのタイトルを「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と変更しました。
 
長谷川氏の主張も基本的に麻生氏の主張と同じです。要するに自堕落で不摂生な生活をして病気になった人間の医療費を負担するのはバカらしいというのです。
そして、この部分については二人とも謝罪も反省もせず、今も正しいと思っているようです。
 
批判する側は、病気のことがわかっていないとか、患者の気持ちを傷つけたといったことを挙げますが、これが通じていないようです。
確かにこの批判は的を外していると思われます。
批判するべきは、麻生氏と長谷川氏の人間観です。
 
彼らは、人間には「自由意志」があると思っているのです。
ですから、「人間は自分の意志によって節制した生活ができるのに、やらなくて病気になるのは本人が悪い。そんな人間の医療費を払うのはバカらしい」ということになります。
 
人間に自由意志があるか否かは、古くからの哲学上の問題です。時事的な問題や政治的な問題にそういう哲学的問題を持ち込むわけにいかないとメディアや多くの人は判断しているのでしょう。しかし、それではいつまでたってもこのような議論が続くことになります。
それに、この問題はほぼ決着がついています。
 
科学的には、すべての物事は自然法則の因果律の中にあり、例外は発見されていません。人間は進化論によって自然界の中に位置づけられたので、人間の精神は特別だという主張も成り立ちません。脳科学などによってもこれは裏付けられます。
 
思想的には、マルクス主義は唯物論ですから、「存在は意識を規定する」という言葉のように自由意志を否定します。マルクス主義の影響力がなくなったことで自由意志派が盛り返してきたのが現状です。
たとえば新自由主義的な自己責任論もそのひとつです。自己責任論はつねに批判の対象になっていますが、主張する人はいつまでも主張し続けています。
 
刑法学の世界にも自由意志論は生きています。犯罪は基本的に本人の自由意志によるものとされます。ただ、凶悪犯の脳を調べると器質的な異常の発見されることが多く、自由意志論の根拠は危うくなっています。
 
現在、自由意志は科学的には否定され、思想の分野も科学にどんどん浸食されてほぼ否定されています。
 
麻生大臣の主張は、「人間には自由意志があり、その気になればいくらでも健康によい生活ができる」ということが前提になっています。
ですから、麻生大臣が「飲み倒して運動も全然しない人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられん」と言ったときは、「麻生大臣は人間には自由意志があると思っているんですね」とか「人間は心がけ次第でどんなこともできるというお考えなんですね」と聞いて、その主張の背後にある人間観を問題にすればいいのです。
 
「人間には自由意志がある」と言うと、最初は賛否両論があるでしょうが、最終的には科学による結論を受け入れることになるはずです。
失言があるたびに同じ議論をするのは時間のむだです。

トランプ政権は、万国郵便条約からの離脱表明に続いて、ロシアとの中距離核戦力(INF)全廃条約からの離脱を表明しました。
トランプ流がますます加速しています。
マティス国防長官の辞任も取り沙汰されています。
マティス長官はトランプ氏の暴走を止める重しとしての役割を期待されていますが、もともとは“狂犬”という異名を持ち、危険な国防長官と見られていました。トランプ政権の陣容がどんどん変化して、かつての“狂犬”が今は穏健派の位置づけになったわけです。
 
そうした中、ペンス副大統領が10月4日にアメリカのシンクタンク、ハドソン研究所で行った演説が注目を集めています。
 
【ペンス副大統領演説:全文翻訳】「中国は米国の民主主義に介入している」:ハドソン研究所にて
 
要するに中国を徹底的に“悪の帝国”か敵性国家と見なした演説です。
これはアメリカが中国に対して覇権争いをするという宣言と理解されています。
トランプ大統領のことですから、ペンス副大統領の言うこととまったく違うことをするということもありそうですが、このところトランプ大統領は中国にきびしい政策をとっているので、これは政権の方針なのでしょう。
 
アメリカと中国が覇権争いをするということは、日本にとってはチャンスでもあります(戦争にならなければという条件つきですが)。両者の間でうまく立ち回ればいいわけです。
もっとも、日本の外交力ではなにもできそうにありません。安倍首相はちょうど今月25日から訪中することになっていますが、パンダ貸与を要請しているという話があります。安倍政権にとってはパンダをもらうことが“外交の成果”なのでしょう。
 
 
今の国際社会は力のあるものが支配する社会です。
トランプ政権はもっとも基本となる国家安全保障戦略において「力による平和」をうたっています。この「力」はもちろん「アメリカの力」のことです。アメリカに従えば平和になるが、アメリカに逆らえば戦争になるということです。この方針はトランプ政権に限らずアメリカの基本的な方針です。
 
アメリカが力で世界を支配してもアメリカが公正な国ならそれでもいいという考え方があるかもしれませんが、アメリカは公正な国ではありません。
アメリカは国際連盟に加盟しませんでした。国際連合には加盟しましたが、常任理事国には拒否権があるからです。国際司法裁判所にも国際刑事裁判所にも参加していません。
つまりアメリカは自分勝手にふるまうというポジションをつねに確保しているのです。
 
中国はアメリカのふるまいを見て、自分も同じことをするようになってきたわけです。
覇権争いが生じるのは必然です。
 
アメリカと中国の覇権争いにおいて、日本はとりあえずアメリカについていくことになります。
しかし、覇権がアメリカから中国に移ると、今度は中国についていくことになります。
覇権主義の支配する世界では、国益を考えるとそうするしかありません。
 
民主主義国のアメリカと独裁国の中国は違うという意見もありそうですが、それは国の内部の違いで、外から見たらどちらも同じ覇権国です。
 
民主主義を言うなら、国際社会が民主化されなければなりません。
つまり国際法が民主的に決められ、すべての国が国際法に従うようになればいいわけです。
これは具体的には国連中心主義ということになりますが、これまで日本ではアメリカべったりの国際政治学者がさんざん国連をおとしめてきたので、最近国連中心主義ということはあまり言われません。
だったら、「国際社会の民主化」と言えばいいわけです。
民主主義の価値を信じるなら、「国際社会の民主化」を実現するしかありません。
 
アメリカに従うか、中国に従うか、それとも第三の道を目指すかという単純な問題なので、答えは明らかです。
 

松本人志氏がまたしてもフジテレビの「ワイドナショー」におけるコメントで炎上しました。
愛媛県の地元アイドルだった大本萌景さん(16)が3月に自殺したのは所属事務所によるパワハラのせいだとして遺族が所属事務所を提訴した件について、「死んだら負けや」と言ったのです。
 
「スポーツ報知」の記事から発言の部分を引用します。
 
「正直言って、理由なんて自殺、ひとつじゃないと思うんですよ。いろんな複合的なことが重なって、許容範囲を超えちゃって、それこそ水がコップからあふれ出ていっちゃうんだと思うんです。これが原因だからってないんです」
「これは突き止めるのが不可能で、もちろん、ぼくは事務所が悪くないとも言えないですし、言うこともできないんですけど、我々、こういう番組でこういう自殺者が出てこういうニュースを扱うときになかなか亡くなった人を責めづらい、責めれないよね。でも、そうなんやけど、ついついかばってしまいがちなんだけど、ぼくはやっぱり死んだら負けやっていうことをもっとみんなが言わないと、死んだらみんながかばってくれるっていうこの風潮がすごく嫌なんです」
「勉強、授業でも死んだら負けやぞっていうことをもっともっと教えていくべきやと」
 
普通に生きている人間には負けたくないという気持ちがありますが、死のうとする人間にそんな気持ちはありません。松本氏は死のうとする人間の気持ちがまったくわかっていません。
「死んだら負け」発言は「自分でなんとかしろ」という意味であり、死を考えている人間を追い詰めます。
しかもこの発言は、パワハラ疑惑の事務所を擁護することにもなります。
炎上したのは当然です。
 
 
松本氏はこれまでも炎上発言を繰り返していますが、その多くは体罰肯定発言です。
前にこのブログでも書いたことですが、繰り返しておきます。
 
昨年、ジャズトランペット奏者の日野皓正氏が男子中学生にビンタしたことが問題になったとき、松本氏は「本当に反省したのであれば指導として正しかったんじゃないかと思う」「我々くらいの世代はすごく体罰を受けた。なぜ今はだめで、昔は良かったんですか」「体罰を受けて育った僕らは、べつに今、変な大人になってないじゃないですか」などと語りました。
また、横綱日馬富士が貴ノ岩を殴ってケガさせたために引退したとき、「僕は引退する必要はなかったと思いますね」「根底にあるのは正義感だったと思ってるんですね」「稽古と体罰って、すごいグレーなところで、それで強くなる力士もいると思うんですね。だから、僕は日馬富士に関しては味方ですね」などと語りました。
 
今回の発言は体罰肯定ではなくパワハラ肯定ですが、基本的には同じようなものです。
 
そして、「死んだら負け」発言が批判されたあと、松本氏はツイッターで「自殺する子供をひとりでも減らすため【死んだら負け】をオレは言い続けるよ。。。」と発言しました。
 
まったく反省がありません。
この調子では体罰肯定論も繰り返しそうです。
 
どうして松本氏は自説を変えないのでしょうか。
松本氏は「我々くらいの世代はすごく体罰を受けた」「体罰を受けて育った僕ら」と発言していますから、実際に体罰を受けたのでしょう。
体罰を受けた人間は脳が萎縮・変形するおそれがあるということは、厚生労働省が展開する「愛の鞭ゼロ作戦」でも明言されています。
松本氏の脳は萎縮・変形しているのではないでしょうか。
松本氏の独特の毒のある笑いはそこからきていると考えられます。
 
脳の萎縮・変形ではなくトラウマやPTSDで説明することもできます。
ひどい暴力を受けた人間は、そのトラウマから人に対して暴力をふるうことがあります。「暴力の連鎖」です。
 
松本氏はマスメディアを使って「暴力の連鎖」「体罰の連鎖」を社会に拡大しています。
それを止めるのはメディアの責任です。
本来なら松本氏自身の責任ですが、脳の萎縮・変形やPTSDがある人間に責任を求めるのは違うかもしれません。
 
松本氏が今後も「ワイドナショー」で体罰肯定・パワハラ肯定発言を繰り返すなら、それはフジテレビの責任でもあります。

善と悪については、定義もないし客観的な基準もありません。ですから、善と悪は使いものにならない概念です。学問の世界では、善悪を切り離す善悪相対主義が当然のこととされています。
正義についても同じです。正義の定義はなく、正義論は正義を論じる思想家の数だけあります。
ところが、多くの人は善悪や正義を価値あるものと勘違いしています。
その勘違いの原因は、映画や小説に描かれる勧善懲悪の原理にあると思われます。
 
もともと「勧善懲悪」という言葉は儒教にあるものですが、江戸時代の歌舞伎や読本の物語の原理を説明する言葉として一般に使われるようになりました。ハリウッド映画や「水戸黄門」はもちろん、推理小説や刑事ドラマなども基本的には勧善懲悪の原理で成り立っています。
 
物語は単純です。善人が悪人に苦しめられているところに正義のヒーローが現れ、悪人をやっつけ、善人を救い、めでたしめでたしとなります。
 
こうした物語に年中触れているために、現実も同じだと勘違いしている人が多いのではないでしょうか。
 
勧善懲悪はもともと物語の原理を説明する言葉として使われてきたもので、現実には当てはまりません。
物語では悪人と善人が一目見ただけでわかるようになっていますが、現実ではそんなことはありません。物語では正義のヒーローが必ず勝ちますが、現実では負けるかもしれません。そうすると勝った悪人が正義を名乗り、負けた正義のヒーローは悪人とされます。
つまり現実では、善人と悪人と正義のヒーローの区別はつかないのです。
 
また、物語には必ず終わりがありますが、現実に終わりはありません。かりに悪人をやっつけたとしても、仲間が復讐にくるとか、また新たな悪人が出現するとかして、かえって事態が悪化するということがありえます。
終わりがないと、悪人をやっつけた正義のヒーローはその場に君臨することになるでしょうが、絶対的強者だけに傲慢になり、悪人になるかもしれません。
 
つまり勧善懲悪の原理は物語の中だけで有効なのです(そのように物語がつくられているわけです)
 
しかし、倫理学がまったく役に立たない学問なので、代わりに勧善懲悪が俗流倫理学として社会に採用されています。
 
勧善懲悪はもちろん勧善と懲悪に分かれます。
昔はある程度両者のバランスがとれていたと思います。「一日一善」ということがよく言われ、小さな親切運動とか、社会を明るくする運動などが盛んに行われていました(調べると、小さな親切運動と社会を明るくする運動は今も行われています)
今は懲悪に比重がかかっています。ハリウッド映画は悪人をやっつけるシーンがどんどん派手になっていますし、世の中には凶悪犯罪が起こるたびに死刑にしろという声があふれます。
 
ですから、今の俗流倫理学を一言でいえば、
「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」
というものです。
 
いや、「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」と言うと、「ほんとうにそれで世の中はよくなるのか」と反論されるに違いありません。
ですから、世の中で言われるのは、
「悪いやつをやっつけろ」
ということです。
悪いやつをやっつけると気分がスカッとするので、みんなそれだけで満足し、やっつけたあとどうなるかは知ったことではないようです。
 
ヘイトスピーチも移民排斥もトランプ大統領の言っていることも、要するに「悪いやつをやっつけろ」ということです。
 
「悪いやつをやっつけろ」という俗流倫理学が世の中を動かしている状況はかなり滑稽です。

善と悪の定義もないのに道徳科が成立するわけがないということを、前回の「なぜ道徳教育は不可能なのか」という記事で書きました。
善と悪の定義がなくてもたいした問題はないという意見があるかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば夫婦喧嘩はたいてい「お前が悪い」という認識から始まりますが、これについてはいくら議論しても解決しないので、どんどん問題がこじれていくのです。
 
なぜ善と悪の定義がないかというと、善と悪について根本的な認識の間違いがあるからです。それはさまざまな逆説的状況として表れているので、列記してみます。
 
 
「悪人」「悪党」「悪漢」「悪女」などの言葉にはどこか魅力的な響きがあるが、「善人」「善良な人」などの言葉にはあまり魅力的な響きがない。
 
若いころは不良だったと自慢する人はいるが、若いころはよい子だったと自慢する人はいない。
 
非行、登校拒否、家庭内暴力などの問題行動を起こす子どもは、小さいころよい子とされていたケースが多く、そのため最近は「よい子」とカギカッコつきで表記されることが多い。
 
ヤクザ、マフィア、ギャング、殺し屋、詐欺師、悪徳警官などを主人公にした小説や映画が多数存在し、読者や観客は主人公に感情移入している。
 
親鸞が言ったとされる「善人なおもて往生す、いわんや悪人においてをや」という言葉に深い感銘を受ける人が多い。
 
性善説と性悪説とどちらが正しいのかわからない。
 
「必要悪」という言葉がある。
 
 
善と悪は、人間がつくりだした概念で、人間に適用するものです。自然界に立脚していないので、人間の都合だけでどんなふうにもつくれます。そのためこんなおかしなことになっているのです。
 
善悪や道徳には根拠がないので、つねに暴走しがちです。
ですから、社会では道徳を制限するということが行われてきました。
 
たとえば、悪いことをしたことがない人はいないので、誰でも悪人と認定される可能性があります。それは困るので、あらかじめ法律を決めておき、法律に違反した場合だけ悪人と認定される制度になっています。法の支配とか法治主義といわれるものです。
マスコミも、逮捕されるまでは悪人扱いしないという不文律を守っています。
ただ、逮捕されるとマスコミは悪人として徹底的に非難し、容疑者に厳罰を与えるべきだと主張します。つまり道徳の暴走です。
ただ、これについても法律は、「懲役〇年以下」とか「罰金〇万円以下」というように刑罰に上限を決めています。
もしこうした法律がなく、道徳だけで裁かれるようになれば、恐ろしいことになるに違いありません。
 
道徳は人間を働き者と怠け者に分けます(これは善人と悪人のバリエーションです)
生活保護のような福祉の窓口で、担当者が来訪者を働き者か怠け者かを判定するようになると、福祉の業務が混乱することは必至です。働き者か怠け者かということに客観的な根拠はないからです。
 
政治の世界でも、レーガン大統領が「悪の帝国」と言い、ブッシュ(息子)大統領が「悪の枢軸」と言ったことがありますが、国際政治の世界に道徳を持ち込むのは危険なこととして批判されました。
トランプ大統領は平気で「悪いやつ」といった言葉を使っていますが、危険なことです。
 
学校教育に道徳を持ち込むのも、同様に危険なことです。
生活保護の担当者が受給希望者を働き者か怠け者かを判定するように、教師が子どもをよい子か悪い子かを判定するようになれば、教室が混乱するだけです。
教師はむしろ善悪のメガネを外して、ありのままの子どもを見つめることがたいせつです。

今年度から小学校で道徳科(特別の教科道徳)の授業が始まりましたが、教師はどのように成績をつけているのでしょうか。
常識的にはこういう五段階評価になるはずです。
 
よい子
ややよい子
普通の子
やや悪い子
悪い子
 
「欽ドン!」の「良い子・悪い子・普通の子」のようですが、子どもを道徳的に評価すればこうなるしかありません。
 
しかし、文科省は「数値による評価ではなく、記述式とすること」としています。
そして、なにを基準に評価するかというと、「一面的な見方から多面的・多角的な見方へと発展しているか」と「道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているか」ということを挙げています。
 
「多面的・多角的な見方」はたいせつなことですが、それは道徳科で学ぶというより、歴史や社会や国語を学ぶ中で身につけていくことではないかという気がします。
「道徳的価値」にいたっては、文科省だって理解していないはずです。
成績をつけるのに苦労している教師が多いというのももっともです。
 
 
そもそも道徳を教えるということはまったく不可能なことです。
というのは、道徳の中心概念である善と悪についての定義がないからです。
善とはなにか、悪とはなにかという問いに誰も答えられないのですから、教えられるわけがありません。
 
「善」を国語辞典で引くと、「よいこと」とか「道義にかなっていること」などとありますが、これは言い換えているだけです。
 
百科事典ではどうかということで、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「善」の項目を見てみました。
 
一行目に「意志を満足させるゆえに積極的価値をもつと判断されるものすべて」と書かれています。
わかりにくい文章ですし、「意志」という、これも定義の定かでない言葉を前提としています。ヒトラーの意志でもいいのかと突っ込みたくなります。
二行目以降はこうなっています。
 
ソクラテスは善を美や有用性と同一視し,善はキュレネ派では快であり,キュニコス派では苦の欠如である。プラトンでは善は存在の根拠,美や真の原理。アリストテレスは人間における善を幸福とし,すべて現実的なものは善であり,善はまず個物に存在するが,一般にはそのものの類的本質の実現にあるとした。彼はまたそれ自体善であるものと,それとの関係で善であるものとを区別した。スコラ哲学は存在と善を等置し,個物の善はそのものが神の意志したとおりのものであること,すなわちそのものの完全性にあるとされた。 T.ホッブズでは善は努力の目標となるもの,功利主義者にとっては幸福は最大の快,最小の苦であり,J.ベンサムは快楽計算を試み,B.スピノザもまた善の相対性,主観性を強調した。 I.カントはそれ自体善である倫理的善を,手段としての善である有用性とはっきり区別した。プラグマティズムは功利主義的相対論を継承し,G.ムーアらの分析哲学派も善か否かは判断される対象がおかれている場に依存することを強調している。
(後略)
 
つまり善についての考え方は人それぞれなのです(しかも、どれもわかりにくい)
 
岩波書店の「哲学・思想事典」で「善」を引いてみると、三ページ余りにわたって「西洋」「インド・仏教」「中国」「日本」の四項目に分けて説明がされています。ということは、これもばらばらだということです。
 
悪は善の対立概念とされるので、善がわからない以上悪もわかりません。
 
哲学者ジョージ・E・ムーアはこのような状況を踏まえて、「倫理学原理」という著作で善を定義することは不可能だと述べました(善は直観で理解するものだというのがムーアの立場です)。定義が不可能だということには異論がありますが、善に定義がないということは、これによって広く認められました。
 
それまで倫理学は、人間の善い生き方を探究する学問とされていましたが、善の定義がないということで、善とはなにか、道徳とはなにかということを探究しなければならなくなりました。その分野は「メタ倫理学」と呼ばれます。
従来の人間の善い生き方を探究する倫理学は「規範倫理学」と呼ばれます。
そして、生命科学の進歩によって生まれた生命倫理学、地球環境問題が生じたことによって生まれた環境倫理学などの新しい分野は「応用倫理学」と名づけられました。
つまり現代倫理学にはメタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学という三つの分野があるわけです。
 
しかし、少し考えればわかることですが、メタ倫理学が善とはなにか、道徳とはなにかを解明しないと、規範倫理学も応用倫理学も成立しませんし、倫理学そのものも成立しません。
 
ということで、今は倫理学という言葉はありますが、倫理学の実体はないも同然です。
ですから、「道徳的価値」なるものは誰にもわかりません。
「良い子・悪い子・普通の子」もギャグにしかなりません。
こんな状況で道徳科をつくっても、教えることはなにもないし、教えた結果を評価できないのも当然です。
 
どうしても道徳を教えたければ、宗教と一体でやるしかありません。
欧米では、道徳教育をする場合はキリスト教倫理に基づきます。
戦前の日本の修身は、現人神である天皇からくだされた教育勅語を根拠としていました。
ですから、教育勅語を復活させたいという動きがあるのはわからないではありませんが、もはや天皇は現人神ではなく、教育勅語の中身も時代に合わないので、無意味なことです
 
道徳科をつくるという間違った政策のために、道徳を教え、評価するという不可能なことをさせられている教師が気の毒です。

今年のノーベル平和賞に決まったコンゴの婦人科医デニ・ムクウェゲ氏とイラクのナディア・ムラド・バセ・タハさんは、どちらも戦時下の性暴力と戦ってきた人です。
「戦時下の性暴力」といえば、日本の場合は従軍慰安婦の問題がありますが、これがひじょうに情けないことになっています。
 
吉村洋文大阪市長は、10月2日付けで姉妹都市の解消を通告する公開書簡をサンフランシスコ市長宛てに送付しました。姉妹都市を解消する理由は、サンフランシスコ市の市有地に慰安婦像と碑が設置されたことです。
 
その公開書簡は次で読めます。
 
サンフランシスコ市長宛公開書簡(参考和訳)
 
吉村市長は書簡の中で「女性の尊厳と人権を守る活動については大いに取り組むべき」と述べていますが、やっていることはまったく逆で、人権感覚のなさを世界に発信しています。
 
そもそも慰安婦問題は日本と韓国の問題ですが、いつのまにか大阪市とサンフランシスコ市の問題になっています。
しかも、「慰安婦」問題ではなく、「慰安婦像」問題になっています。
すっかり矮小化されているのです。
 
 
矮小化といえば、旭日旗問題もそうです。
韓国の済州島で1011日に開かれる国際観艦式で、韓国は自衛艦に旭日旗を掲揚しないよう日本に要請してきましたが、日本はそれを拒否し、観艦式に参加しないことを決めました。
これもほんとうに小さな問題です。
自衛艦が旭日旗を掲揚しようがしまいが、国益になんの関係もありません。
 
韓国が旭日旗にこだわるのは、いまだに植民地支配の屈辱があるからだろうと想像できます。
では、日本が旭日旗にこだわるのはどうしてでしょうか。
いまだに軍国主義時代を正当化したい人たちがいるからということもあるでしょう。
しかし、それだけとは思えません。
やはり日本人にも屈辱があるからです。
 
日本人は外交でつねに屈辱を感じています。
アメリカに関しては、最近のことに限っても、辺野古にアメリカの基地をつくらされ、そこまでしても自動車に関税をかけるぞと脅かされて、二国間交渉を飲まされました。
ロシアに関しても、日本は経済協力はしても北方領土返還の約束は得られず、プーチン大統領に前提なしに平和条約を締結しようと言われても安倍首相はニヤニヤ笑いを浮かべるだけです。
 
欧米には卑屈で、アジアには傲慢というのが日本人の伝統的な態度でしたが、最近は中国の力が強くなってきたので、中国に対して傲慢な態度はとりにくくなりました。
ですから、日本人が傲慢になれるのは北朝鮮と韓国に対してだけです。
 
日本と韓国は間接的な同盟国であり、経済的にも密接につながっているので、決定的に対立するわけにはいきません。
その点、慰安婦像や旭日旗はあくまでシンボルですから、日韓ともに屈辱を晴らす材料としてはちょうどいいわけです。
 
それにしても、日本は韓国の旧宗主国ですから、同じレベルで対立しているのは情けないことです。
いや、韓国とのことはそれほど重要ではありません。
問題は対アメリカです。
 
日本政府はオリンピックに備えて羽田空港の国際線の発着便をふやそうとしましたが、アメリカが認めないためにうまくいかないということをNHKがスクープしました。
 
 
羽田空港 新飛行ルート 日米の調整難航で運用できないおそれ
2018104 442
東京オリンピック・パラリンピックに向けて、羽田空港の国際便の発着便を増やすための新たな飛行ルートをめぐって、日本とアメリカの間の調整が難航し、運用できないおそれが生じていることがわかりました。政府内からは、外国人旅行者を2020年までに4000万人にするという目標に影響が及ぶことを懸念する声も出ています。
東京オリンピック・パラリンピックに向けて、政府は、羽田空港の国際線の発着便を大幅に増やそうと、先に東京都心の上空を通過する新たな飛行ルートを2020年までに設ける方針を決め、関係自治体などを対象に説明会を開くなどして理解を求めています。
 
一方、この新たな飛行ルートは、在日アメリカ軍横田基地が航空管制を行う空域を一時的に通過することから、政府は、羽田空港を発着する航空機の上空通過を認めるとともに、航空管制も日本側が行うことを前提に、アメリカ側と調整を続けてきました。
 
しかし、アメリカ側が、ことし夏ごろになって、上空通過も日本側が航空管制を行うことも認められないという意向を伝えてきたため、飛行ルートが運用できないおそれが生じていることが政府関係者の話でわかりました。
 
このため政府は、危機感を強めアメリカ側との協議を続けていますが、事態打開の見通しはたっておらず、政府内からは、安倍政権が掲げる外国人旅行者を2020年までに4000万人にするという目標に影響が及ぶことを懸念する声も出ています。
 
これは日本の国益の問題です。
私はこのニュースを受けて、「アメリカはけしからん」という声が上がるかと思いました。その声が大きければ、日本政府の後押しになって、交渉が有利に運ぶということがありえます。
しかし、そうした声はほとんど上がりません。
日本政府だけでなく、日本人もアメリカに対して卑屈であるようです。
日本人がこういうメンタリティーである限り、沖縄の基地問題の解決も遠そうです。
 

10月2日に発足した第4次安倍改造内閣を安倍首相は「全員野球内閣」と名づけました。
思わず失笑しかけたのですが、失笑するほどおかしくもありません。
なにも目標がないから「全員野球」と言ったのでしょう。
新閣僚の顔ぶれを見ても、入閣待望組の中から安倍首相に近い考えの人間を入れただけです。やるべきことがあれば実力者を配置するはずです。
「目標喪失内閣」とか「やる気なし内閣」と名づけたいところです。
 
党役員には改憲に向けた人間を配置したと言われ、安倍首相も改憲を口にしていますが、これはポーズだけだと思います。解釈改憲をして安保法制を成立させたので、改憲する実質的な理由がなくなっています。
そもそも安倍首相は去年の憲法記念日に、憲法九条に第三項を加えて自衛隊を明記するという「加憲案」を提示し、年内にまとめると表明しました。ところが、年内どころか今になってもまとまっていません。
改憲派は改憲案が具体化しそうになると方針を転換するということを繰り返してきました。「理想の改憲案」という青い鳥を追いかけているのです。
 
安倍政権は安保法制、共謀罪、カジノ法、裁量労働制など、やるべきことをほとんどやりました。すべてアメリカと財界のためです。これ以上やることがなくなって、目標喪失になったのはわからないでもありません。
 
それから、森友加計問題が影響していることも考えられます。
安倍首相は国民に嘘をつき通したため国民に顔が向けられなくなって、なにか目標を提示して国民を引っ張っていくということができなくなったのでしょう(とすると安倍首相にも多少の良心があったことになります)
 
国民に顔が向けられないということでは、外交もそうです。
安倍首相は昨年9月に国連総会で演説したときは、演説の8割を北朝鮮問題に割いて、制裁と圧力の必要性を説きました。ところが、今年の国連総会の演説では、北朝鮮問題にはわずかに触れただけで、制裁も圧力も言わず、代わりに「金正恩委員長と直接向き合う用意があります」と言いました。もちろんトランプ政権に追随したためですが、安倍首相はそのことを説明していません。
北方領土問題についても、安倍首相はプーチン大統領との個人的信頼関係でうまくいくようなイメージをふりまいていましたが、まったくうまくいっていないことが明らかになりました。
トランプ大統領との個人的信頼関係もアピールしてきましたが、日本が通商問題で二国間交渉に応じることについてトランプ大統領は、「『交渉しようとしないならあなたの国からの車にものすごい関税をかける』と言った。そうしたら日本は『すぐに交渉を始めたい』と言ってきた」と語り、恫喝されている実態がバレてしまいました。
これまで「外交の安倍」を誇ってきましたが、そういう顔もできなくなったわけです。
 
これまで経済が比較的好調だったことも安倍政権の支持率の高さにつながってきましたが、経済の好調さは異常な低金利と財政赤字拡大のたまものです。これはいつまでも続けられないので、安倍政権が終わるまでに金融政策の出口と財政再建の道筋を示すべきだというプレッシャーが強まりつつありますが、安倍首相は具体的な方針を示していないので、これについても国民に合わす顔がありません。
 
朝日新聞は今回の内閣改造について「組閣内向き」という見出しを掲げていましたが、国民に合わす顔がないために内向きになったのです。
 
考えてみれば、安倍政権はこれまで嘘とメディア操作で人気を保ってきたわけで、ここにきてさすがにそれが通用しなくなったのでしょう。
そして、安倍首相にその事態を打開する気力もアイデアもないようです。
「全員野球内閣」という言葉にそれが表れています。

 
沖縄知事選は玉城デニー氏の当選となりました。
沖縄県民は基地問題を重視したということでしょう。
しかし、辺野古移設の中止などは、知事が代わっても容易なことではありません。
 
沖縄の基地問題は、「アメリカ対日本」と「日本政府対沖縄県」というふたつの支配・差別構造から成り立っていると考えるとわかりやすくなります。
アメリカは日本に基地を押しつけています。
そして、日本政府は沖縄県に基地を押しつけています。
つまり、
アメリカ政府→日本政府→沖縄県
という構図です。
 
沖縄の基地負担を解消するには、本土がもっと米軍基地を受け入れて、日本全体で負担するようにすればいいわけです。つまり「県外」です。
しかし、そういう声は本土からほとんど上がりません。とくに米軍基地の必要性を説く保守派はまったく言いません。
これはどういうことかというと、保守派も米軍基地の必要性をほとんど認めていないということです。
ということは、辺野古に新基地をつくる必要性もないということです。
 
ですから、沖縄の基地負担を解消するには「国外」しかありません。
これは日本政府がアメリカ政府と交渉する問題です。
 
アメリカが日本に基地を持っているのは、戦勝国の権利という意味もありますが(アメリカはドイツとイタリアにも基地を持っています)、根本的には覇権主義のためです。
アメリカは世界を支配したいという半ば無意識の野望を持っているのです。
日本から米軍基地をなくすには、アメリカに覇権主義を捨てさせなければなりません。これは日本一国でできることではなく、世界で取り組む問題ですし、アメリカ国民の意識を改革するという問題でもあります。
 
ですから、容易なことではありませんが、トランプ政権の今は絶好のチャンスです。
トランプ大統領は覇権主義者でないからです。
話題のボブ・ウッドワード著「恐怖 ホワイトハウスのトランプ」によると、トランプ大統領は米軍の韓国駐留に多額の経費をかけている理由をマティス国防長官に問い、マティス長官が「われわれは第三次世界大戦を防ぐためにやっている」と答えてもまだ納得しない様子で、マティス長官は「小学校五、六年並みの理解力だ」と嘆いたということです。
しかし、私の考えでは、マティス長官の言っていることこそ意味不明で、納得しないトランプ大統領のほうがまともです。
 
トランプ大統領は米軍のヨーロッパ駐留や日本駐留に多額の経費をかけていることにも納得していないはずです。
したがって、日本が駐留米軍を大幅にへらすように提案すれば、トランプ大統領が乗ってくる可能性は大いにあります。
 
米朝合意にホワイトハウスで賛成する人は誰もいないと言われますが、それでもトランプ大統領はやりました。
在日米軍の大幅削減も、ホワイトハウスも米議会も圧倒的に反対するはずですが(覇権主義ゆえに)、トランプ大統領がその気になればできます。
安倍首相とトランプ大統領の話し合いで沖縄の基地問題が一気に解決するというのは、外交の醍醐味です。一度そういうのを見てみたいものです。
 
もっとも、安倍首相の頭の中にそんな考えはかけらも浮かんでこないでしょうが。

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