村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2019年04月

強制不妊救済法の成立に合わせて首相が謝罪を表明するという報道があり、ほんとうだろうかと思いました。
安倍首相は「謝らない人」だからです。
 
昭恵夫人は曽野綾子氏との対談で、「けんかをしても晋三先生の方がさっさと謝られるのでは?」と聞かれて、「そういえば、謝らない! 『ごめんなさい』というのを聞いたことがないです」と言っています。
 
強制不妊救済法が成立した4月24日、安倍首相は談話を発表し、その中に「政府としても、旧優生保護法を執行していた立場から、真摯に反省し、心から深くお詫び申し上げます」というくだりがありました。
一応謝罪しました。
 
しかし、これは強制不妊救済法の前文に「「われわれは、それぞれの立場において、真摯(しんし)に反省し、心から深くおわびする」とあるのをなぞっただけです。
しかも、これは「首相談話」となっていますが、文書として発表されただけで、首相の口から語られたわけではありません。
安倍首相はヨーロッパ訪問中ですが、記者団が同行し、テレビカメラもあるのですから、自分の口で語ることはできます。
文書を発表するのと、安倍首相が語るのとでは、被害者の受け止め方がぜんぜん違います。
 
安倍首相は慰安婦問題の日韓合意のときも同じことをしています。
日韓合意には「安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する」という言葉がありますが、これはすべて岸田外相が記者会見で語ったことで、安倍首相は一言も発していないのです。
 
韓国のムン・ヒサン(文喜相)国会議長は「安倍首相か日本を象徴する天皇が元慰安婦に『申し訳ありませんでした』とひと言いえば根本的な問題が解決される」と発言し、日本では暴言だと非難されました。確かに天皇陛下については暴言ですが、安倍首相については痛いところを突かれました。せっかくの日韓合意がうまく機能しないのは、安倍首相が姑息な手を使って、元慰安婦の人に誠意を示していないことが最大の原因でしょう。
 
 
やはり安倍首相は「謝らない人」であるようです。
 
もっとも、安倍首相も間違った答弁をしたときなどは謝っています。
この違いはなにかというと、罪の大きさです。人間の心理として、小さな罪については気楽に謝れるが、大きな罪については謝れないということがあります。
人に対して不妊手術を強制するというのはあまりにも大きな罪ですから、人間としてなかなか受け止められません。
 
凶悪な殺人事件が起こると、世の人々は犯人に向かって「謝れ」の大合唱をしますが、犯人が謝ることはほぼゼロです。罪があまりにも大きいからです。
凶悪犯に「謝れ」というのは時間のむだです(彼が謝る気になるのは人間の心を取り戻したときです)
 
「AAA」のリーダーである浦田直也氏がコンビニで面識のない20代女性を殴ったとして逮捕され、翌日に釈放されるとすぐに謝罪会見を開き、きっぱりと謝罪しました。
浦田氏の言い分によると、そのときは酒に酔っていて、なにがあったかまったく覚えていないということです。それが正しければ、心神喪失状態での犯行ですから、刑事事件としては無罪です。本人に罪の意識がないので、簡単に謝れます。
 
しかし、今度は謝罪に心がこもっていないということで非難されました。
確かに金髪だったのを黒く染め、ふだんメガネをかけていないのに黒縁のメガネをかけ、ダークスーツにネクタイという姿で、「今後お酒はいっさい飲まないです」と語るなど、絵に描いたような謝罪の仕方でした。
 
謝らないと非難されますし、謝ったら謝ったでまた非難されます。
ややこしい世の中です。
 
 
安倍首相が強制不妊問題で「謝らない人」になるのは、罪の大きさのほかに、この問題が「国家の犯罪」だからでもあります。
安倍首相は強制不妊問題に直接の責任はありませんが、自分と国家を同一視しているので、自分自身の罪になります。
 
「国家対民衆」という図式でいうと、左翼は民衆の側に立つので、この問題で国を批判します。
右翼は国家の側に立つので、さすがに国を擁護することはありませんが、国を批判する人はほとんどいません。
 
しかし、「国家対民衆」という図式は時代遅れです。
強制不妊問題にせよ慰安婦問題にせよ、「人権問題」ととらえるべきです。
 
個々の犯罪者をむりやり謝らせても意味はありませんが、首相が謝るということは世の中の人権感覚を向上させることにつながります。
安倍首相は強制不妊問題では、「謝らない人」を返上して、自分の口から謝るべきでした。

4月23日のフジテレビ系「バイキング」を見ていたら、一般人を対象に「小室圭さんを応援するか・しないか」というアンケートをやっていました。
その結果は、正確な数字は忘れましたが、「応援する」は約4分の1で、「応援しない」は約4分の3でした。
 
おかしなアンケートです。小室圭さんは誰にとっても赤の他人ですから、「応援する」人が少ないのは当たり前です(4分の1でも多い気がします)
どうせアンケートをするなら、「眞子さまを応援するか・しないか」にするべきです。眞子さまは皇族ですから、国民にとって他人ではありません。
要するにこのアンケートは、小室圭さんたたきをするのが目的としか考えられません。
 
最近、佳子さまもたたかれています。大学卒業に際して発表した文書で「私は、結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので、姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」と述べたのが原因です。
佳子さまの考えは当たり前のことで、批判するほうがどうかしています。
とくに佳子さまの立場では、姉が自分の選んだ人と結婚できないと、自分も結婚相手を選べないということになるので、自分自身のためにも主張したいところです。
 
このようなマスコミの小室圭さんたたき、佳子さまたたきには、政府や宮内庁の意向があるに違いありません。
これは眞子さまが自分の結婚についての意志表示をすれば、すべて終わってしまう問題だからです。
宮内庁が眞子さまの発言を封じているのがいちばんの問題です。
 
秋篠宮さまが「兄が80歳のとき、私は70代半ば。それからはできないです」と語り、即位辞退の意向を表明したと報道され、これも批判されています。
しかし、今の天皇が高齢を理由に退位するのですから、同じ理由で即位辞退をしてもいいはずです。
秋篠宮さまは昨年の誕生日会見で、大嘗祭について「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と発言されました。政府の決定に異を唱えたということで、これも批判されました。
 
要するに皇族がなにか意見を言うと批判されるわけです。
 
皇族の人権は制限され、たとえば政治的発言などは許されません。
しかし、自分自身のことや皇室のことについては、意見表明の権利はあるはずです。
ところが、眞子さまは自分の結婚について語ることができませんし、雅子さまはかつてひどいバッシングにさらされましたが、そのころ記者会見などで意見表明する機会はまったくありませんでした(今も同じです)
 
このブログの前々回の記事「いじめ防止法の欠陥とはなにか」で、子どもに意見表明権があるのにその機会がまったく与えられていないということを書きました。
皇族も同じ状況に置かれています。
 
秋篠宮さまや佳子さまは珍しく意見表明をしましたが、そうすると批判されてしまいます。
 
批判する主体は、皇室を思い通りにしたい保守派や安倍政権でしょう。
彼らは直接批判するわけにいかないので、マスコミに批判させているわけです。
そうしてマスコミが連日のように皇族批判をするという異常事態になっています。
その結果、皇族の権威がどんどん低下しています。
 
前回に「私物化すると価値が下がる法則」という記事を書きましたが、それと同じことです。
保守派は天皇制を利用することしか考えていなくて、皇族への敬意や人権感覚がないので、結局天皇制や皇族の価値を下げてしまうのです。
 
もっとも、天皇制や皇族の価値が下がることは、日本の民主主義にとっていいことかもしれません。

「令和」の発案者は万葉研究者の中西進名誉教授であると複数の政府関係者が認めたという報道がありました。
 
元号の発案者は明らかにしないというのが政府の方針でしたが、中西氏はこれまでいかにも発案者であるかのような発言を繰り返していました。
4月14日に突然、「(令和の発案者は)私ではないのですよ」「元号をつくるのは神や天」と言ったので、おそらく政府から発言をやめるように言われたのかと思われました。
しかし、それからも発案者であるかのような発言を続けました。「元号をつくるのは神や天」という言葉は、「自分は神や天に匹敵する」という意味だったのでしょうか。
 
中西氏がなぜ政府の方針に反してこうした発言を続けたのかというと、安倍首相の言動が影響したかもしれません。
安倍首相は「令和」発表直後にテレビに出まくって「令和」の宣伝をしました。まさに元号の私物化、手柄の独り占めです。中西氏はそれを見て、考案者は自分だとアピールしたくなったのではないでしょうか。
少なくとも、「首相がやっているのだから自分も」という気持ちにはなったでしょう。
 
安倍首相は元号の私物化によって内閣支持率の爆上げに成功しました。共同通信社が4月1日、2日に行った世論調査によると、内閣支持率は3月調査から9.5ポイントも上昇しましたし、他社の世論調査でも軒並み数字を上げています。
 
しかし、「令和」の価値はというと、安倍首相と中西氏が二人して私物化し、制定過程も詳しく報道されたことで、すっかり俗化してしまいました。「平成」のときはすべてがブラックボックスだったのとは大違いです。
今は一時的に「令和」ブームとなっていますが、ブームが去ると、「令和」は「平成」よりも軽んじられるでしょう。
 
安倍首相は自分の支持率を上げるために元号の私物化をし、それによって元号の価値を下げたというわけです。
 
 
4月13日に安倍首相主催の「桜を見る会」が開かれ、多数の芸能人のほかに百田尚樹氏、有本香氏、ケント・ギルバート氏、竹田恒泰氏らのネトウヨが招かれ、安倍首相といっしょに写真に収まりました。また、安倍政権になってから「桜を見る会」の規模は年々拡大し、自民党議員が招待券を高値で売っているという報道がありました。つまり金さえ出せば誰でも出席できるようなのです。
 
首相主催の「桜を見る会」というと、天皇・皇后主催の「園遊会」に似たイメージがありましたが、安倍首相の私物化によって、すっかりイメージダウンしてしまいました。
 
 
国民栄誉賞は、そもそもは王貞治氏の偉業をたたえるためにつくられた賞ですが、安倍内閣はすでに7人に授与し、中でも23歳の羽生結弦選手に授与したことは安倍内閣の人気取りだと批判されました。
安倍首相が人気取りのために利用したことで国民栄誉賞の価値も下がってしまいました。
 
 
そして、極めつけは、新天皇が即位後初めて会見する国賓がトランプ大統領に決まったことです。
安倍首相は新天皇との初めての会見という栄誉を与えることでトランプ大統領の歓心を買おうとしたのでしょう。
まさに天皇の私物化です。
 
トランプ大統領と会見した場面が世界に報じられると、天皇の価値が下がります。
日本の保守主義者がこれに対して黙っているのが不思議です。
 
 
自分の人気取りのためになにかを利用すると、そのものの価値が下がるのは当然です。
安倍政権の長期化によって日本の価値そのものがどんどん下がっています。

「いじめ防止対策推進法」が施行されて今年の9月で5年になり、改正の機運が盛り上がっているそうです。
 
いじめ防止法は、2011年に大津市で中学2年の男子生徒が飛び降り自殺し、「自殺の練習」を強要されるなどのいじめを受けていたという報道があって世論が沸騰し、急遽まとめられた法律です。たったひとつの事件で法律ができるのですから、法律の世界も大衆迎合になりました。
いじめ防止法にいじめ防止効果はあったのでしょうか。
 
尾木ママこと尾木直樹氏の記事によると、「法律施行前の四年間に自殺した児童生徒の人数は七百九十三人だったのが、施行後四年間では九百四十二人。法律が施行されたにも関わらず百四十九人も激増したことになる」とのことです。
 
やはり泥縄式の法律ではうまくいかないようです。
法律の付則に、施行後3年を目途に見直すと書かれているので、遅まきながら改正の機運が盛り上がってきたのでしょう。
 
では、どこを改正すればいいのでしょうか。
私は改めて法律を読んでみました。
 
別添3 いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)
 
読んでみれば、欠陥は明らかです。
一言でいえば「子ども不在」の法律です。
 
子どもの権利条約は子どもを「権利を持つ主体」と位置づけています。
ところが、いじめ防止法には「主体としての子ども」の姿がありません。
いや、一行だけありました。
 
(いじめの禁止)
第四条 児童等は、いじめを行ってはならない。
 
これは当然の規定です。
そして、この規定があれば、次にいじめられた子どもについての規定があるはずです。
たとえば、「いじめにあった児童は、身を守らなければならない。それが困難なときは担任に報告しなければならない」といった具合です。
さらに、「いじめを見聞きした児童は、いじめをやめさせるよう努めなければならない」という規定もあって当然です。
つまりいじめは、とりあえず子ども自身が解決するべきで、うまくいかない場合におとなが出てくるという順番になるはずですが、この法律には子どもがいじめにどう対処するべきかが書かれていません。
つまり子どもの主体性をまったく無視しているのです(いじめっ子の主体性を制限することだけはしています)
 
この法律には、もっぱら国や地方自治体や学校設置者がするべきことが書かれています。
たとえば、地方自治体や学校はその地域や学校の実情に応じた「いじめ防止基本方針」を作成しなければならないと書かれています。
現実には、法律に定められているからということで、お役所仕事的に、形式的に「方針」が作文されているのでしょう。
しかし、正しい「方針」が作成されればいじめ防止に力を持つはずですから、この規定は重要です。
では、どうすれば正しい「方針」が作成できるかというと、子どもの意見を聞くことです。
 
子どもの権利条約には「子どもの意見表明権」および「表現の自由」が規定されています。
 
12
1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。
13
1 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
2 1の権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。
 
a)他の者の権利又は信用の尊重
b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護
 
ですから、いじめ問題について子どもは意見表明の権利を持っています。
子どもの意見を聞かずにおとなだけで「いじめ防止基本方針」を作成するのは、子どもの権利条約の精神を無視しています。
 
いじめについていちばん真剣に考えているのは子どもです。子どもがいい意見を言わないはずがありません。
子どもの意見を取り入れて各学校で「いじめ防止基本方針」を作成するのが、とりあえずの最善の策です。
 
子どもの意見を聞くのはいじめだけに限りません。
たとえば小学校での早期英語教育とかプログラミング教育についても、小学生の意見を聞くべきです。
子どもはそんなこと考えていないという反論があるかもしれませんが、意見を聞かれることで自分の意見が形成されていきます。
そういう意味でも、さまざまな場面で子どもの意見を聞くことはたいせつです。
 
それにしても、文科省が子どもの権利条約に反して子どもの主体性をまったく無視してきたのにはあきれます。
文科省のそういう「子ども不在」の教育や学校運営こそがいじめを生む大きな要因でしょう。

 いじめ防止法の見直しをするなら、学校での「いじめ防止基本方針」の作成に際して「必ず児童の意見を聴取する機会を設ける」などの規定を加えるべきです。

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映画「バイス」(アダム・マッケイ監督)を観ました。
 
息子ブッシュ大統領のもとで副大統領を務めたディック・チェイニーを描いた映画です。
クリスチャン・ベイルがチェイニーの20代のころから70歳ぐらいまでを演じていますが、特殊メイクがすごくて、ほんとうにその年齢に見えます。
ブッシュ大統領を演じたサム・ロックウェルはブッシュ大統領にそっくりで、よくこんなそっくりな俳優を見つけてきたなあと思いましたが、これも特殊メイクを使っていたのでしょう。
 
今も存命の実在の人物を批判的に描いているので、訴えられないように徹底的に事実にこだわったのでしょう。それがおもしろいと同時に、物足りないところでもあります。
たとえば、20代のチェイニーは大学を中退して田舎で電気工をしていて、飲酒運転で警察に逮捕されます。のちに結婚する恋人リンに「私が見込んだのはこんな男じゃない。このままだと別れる」と泣かれ、そこから一念発起して大学に入り直し、政治の道に入ってどんどん頭角を現していきます。
そのときどのように心を入れ替えたのかを知りたいところですが、それは描かれません。わかったことだけが描かれているからでしょう。
 
映画というのはストーリーの流れが中心にあるものですが、この映画では事実がレンガのようにいっぱいあり、それがうまくつながっていません。ただ、ひとつひとつの事実がおもしろく、観客は自分なりに頭の中でそれをつないで観ていくことになります。
 
.11テロのあと、イラク戦争へ突き進んでいくところが見どころです。ありもしない大量破壊兵器をあることにし、ありもしないイラクとアルカイダの関係をあることにします。なにも考えていないブッシュをチェイニーがあやつります。パウエル国務長官は国連でイラクは大量破壊兵器を持っていると不本意な演説をします。イラク戦争でチェイニーが大株主である石油会社ハリバートンは大儲けします。それらのことは当時の報道からもだいたいわかっていましたが、はっきり示されるとやはり衝撃的です。
 
妻のリンはすごく優秀な女性ですが、当時のアメリカでは女性が社会的に活躍する道はほとんどないので、チェイニーを成功させることで自分も成功を手にしようとします。
チェイニーの娘は同性愛であることをカミングアウトします。これはチェイニーの保守主義と相容れませんが、チェイニーは受け入れます。
こうしたことをチェイニーがどう思っていたのか、よくわかりません。しかし、保守主義の矛盾が浮き彫りになります。
 
マイケル・ムーア監督の映画のように笑えるシーンがいくつもあり、コメディ映画だともいえます。しかし、映画館では笑い声は起きませんでした。アメリカの愚行は世界にとって深刻なことですから、笑う気になれません。
マイケル・ムーア監督の映画はドキュメンタリーですが、この映画はそれをドラマ仕立てにしたともいえます。
 
チェイニーは何度も心臓発作を起こし、心臓移植手術を受けます。検索してみると、手術は71歳のときでした。71歳の老人が心臓移植手術を受けるには、かなりの金と権力を使ったのでしょう。
 
この映画を観ると、アメリカの政治がいかに金と権力によって動いているかがわかります。
日本の政治も基本的に同じでしょうが、レベルが違います。
 
小泉首相はイラク戦争のとき、自衛隊をサマワに派遣しました。国連とは関係なく、占領軍の一員として行ったので、まさに他国の領土を軍靴で踏みにじったわけです。
イラクに大量破壊兵器がなかったことで、自衛隊のサマワ派遣は日本の歴史の汚点になりました。
しかし、大方の日本人は、「アメリカが間違ったのだから、日本の責任ではない」という感覚でしょう。独立国としての意識に欠けています。これではアメリカに対抗できませんし、辺野古移設問題が解決できないのもわかります。
 
アダム・マッケイ監督が脚本も書いています。よく事実を調べた上で物語にしたなあと感心します。俳優の演技も素晴らしく、きわめて完成度の高い映画です。
 
トランプ大統領のようなおかしな大統領が出現したのも、この映画を観ると納得できます。

麻生財務相は4月9日、紙幣のデザインを刷新すると発表しました。
4月1日の新元号の発表と日が近いこともあって、どうしても両者を比較してしまいます。
そうすると、そこに日本のかかえる問題が浮き彫りになってきました。
 
新元号「令和」は、それまで漢籍を典拠としてきたのと違って、初めて万葉集という国書を典拠としたことが売りです。
もっとも、万葉集の典拠となったその部分は漢文であり、しかも漢籍の名文とされる表現をなぞったものでした。そもそも元号制度も漢字も中国からきたものです。
それでも、安倍政権は“国書”にこだわることで、日本文化のすばらしさをアピールしたかったようです。
 
新紙幣のデザインに採用された人物は、1万円札が渋沢栄一、5千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎でした。
この人選には、日本文化のすばらしさをアピールするものがまったくありません。
というか、むしろ日本文化の否定です。
 
渋沢栄一は幕末の1867年に将軍の名代である徳川昭武の随員としてパリ万博に行き、その後もヨーロッパ各国を歴訪して産業・軍備を学び、帰国後はフランスで学んだ株式会社制度を実践するなどして実業家として成功し、「日本資本主義の父」とも呼ばれます。
 
津田梅子は1871年に6歳にして岩倉使節団に随行して渡米、語学のほか自然科学、心理学、芸術を学び、1882年に帰国しますが、そのときは通訳が必要なほど日本語ができなくなっていたといいます。英語教師や通訳として働いていましたが、1889年に再び渡米、生物学、教育学などを学び、そのときに日本の女性教育に関心を持ったとされます。1892年に帰国し、1900年に現在の津田塾大学の前身の女子英字塾を設立して、日本における女子教育の先駆者とされます。
 
北里柴三郎は東京医学校(現在の東京大学医学部)を卒業して、内務省衛生局に勤務、1886年から6年間ドイツに留学、ローベルト・コッホに師事し、破傷風に対する血清療法を確立して世界的な名声を博し、のちにはペスト菌も発見、伝染病研究所や北里研究所などを設立して、「日本の細菌学の父」とされます。
 
要するに3人とも、欧米に行って向こうの文化や学問を学び、日本に広めた人です。その業績は日本にとっては価値がありますが、世界的に見ると、右のものを左に移しただけのことです。
したがって、世界に対して誇れる人ではありません(北里柴三郎の業績は別ですが)
 
日本人が海外旅行をしたときもそうですが、その国の紙幣に出ている人物は誰かということには興味があるものです。どこの国でも“建国の父”みたいな人か、世界的に知られる偉人を紙幣にしています。ベトナムだとホーチミン、イギリスだとダーウィンという具合ですが、世界的な偉人もいないし、“建国の父”も有名でない国の紙幣は、「これ、誰?」ということになります。
そういう意味で、紙幣の肖像を見るとその国のレベルがわかります。
軍人風の人物か文化人風の人物かで、その国の思想も少しはわかります。
 
外国人観光客が日本に来て、紙幣の渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎を見たとき、知っているという人は誰もいないでしょう。こういう人物だと説明を聞かされれば、日本人は日本文化よりも欧米の文化を尊重しているのかと思うはずです。
 
紙幣の肖像は、外国人に日本文化をアピールするのに格好の手段です。
ただ、日本に世界的に知られる偉人はあまりいません。葛飾北斎か黒澤明監督ぐらいでしょうか。
しかし、ビジュアルでアピールすることを考えれば、たとえば相撲の横綱とか、歌舞伎役者とか、三百年の平和を築いたショーグンの徳川家康とか、ラストサムライの西郷隆盛とか、柔道の嘉納治五郎とかでいいわけです。その人物のことを説明すれば日本文化のアピールができます。あるいはゴジラとか鉄腕アトムといった手もあるかもしれません。
 
渋沢、津田、北里の人選には、日本文化をアピールするという要素がまったくありません。
そういう意味では、新元号が国書典拠をアピールしたのとまったく逆です。
 
いや、元号の場合は、日本対中国の問題でした。
紙幣の肖像は、日本対欧米の問題です。
つまり安倍政権は、中国に対しては日本文化を誇りますが、欧米に対しては日本文化を誇らないのです。
 
これは安倍政権だけでなく、日本の右翼とか保守派に共通する問題です。中国韓国には優越感、欧米には劣等感を持っています。
そのため、中国韓国には歴史認識などでトラブルを起こしますが、アメリカには従属するだけです。ロシアにもなにも言えません。
 
新紙幣の渋沢、津田、北里を選んだ人たちの頭の中には、鹿鳴館時代の価値観が今も生き続けているようです。

新学期が始まりました。
学校では1年か2年ごとにクラス替えがあり、せっかく友だちができても引き離されてしまいます。子どもにとっては酷な制度です。
なぜこんな制度があるのかというと、地元の友だちとの絆を薄くして、将来地元を離れて就職しやすくするためです。
と同時に、会社に入って知らない人ばかりに囲まれても対応できるようにするためです。
 
クラス替えと同時に担任も変わります。
担任の良し悪しは大問題です。体罰をする教師とか、えこひいきする教師とか、教え方のへたな教師とかもいて、教師のせいで勉強嫌いになったり不登校になったりすることもあります。しかし、子どもや親は担任を選べませんし、拒否権もありません。
子どもが担任を選べないというのも、将来会社に入ったら上司を選べないことに慣れさせるためです。
 
日本の学校教育は、戦前は「富国強兵」のためのものでした。
戦後は「強兵」が取れて「富国」のためのものになりました。
子どもが将来よい労働力になれば国が豊かになりますし、今のおとな世代も潤います。
よい労働力とは、もちろん仕事をする能力が高いことですが、それを別にすれば、どんな職場にも適応して、転勤もいとわず、どんな上司にも仕える人間です。
要するに今の学校教育は、汎用性の高い労働力、使い勝手のいい人間をつくる制度になっているのです。
 
しかし、これはもはや時代遅れでしょう。
汎用性の高い労働力ができる仕事というのは、たいていAIや外国人労働者でもできる仕事です。
 
 
そもそも子どもを汎用性の高い労働力にすることは、子どもの幸せのためではありません。
給料は少なくても友だちがたくさんいる地元で生きていく幸せというのがあります。
クラス替えに子どもの希望を反映させるようにすれば、子どもは友だちとの絆が深くなり、学校生活も楽しくなります。いじめもほとんどなくなるはずです。
こんな簡単ないじめ対策をなぜやらないのか不思議です。
 
もちろん高い学力をつけることは子どもの幸せに直結します。
今はそのために子どもにむりやり勉強させようとしています。
しかし、それは誤った対応です。優秀な教師さえいれば子どもの学力は自然と向上します。
 
では、どうして優秀な教師をつくるかというと、子どもに選ばせるようにすればいいのです。
小学校では担任を選ぶことになりますが、中学高校では生徒が好きな教師の授業を選択できるようにすればいいのです。
予備校や学習塾では子どもや親が教師や塾を選んでいます。その中からきわめて教えるのがうまい予備校教師などが生まれています。
江戸時代の寺子屋も親や子どもが選ぶシステムですが、世界的に見ても高い教育水準になっていました。
 
子どもが教師を選ぶと、教師同士の競争が起きて、つまり市場原理によって、教師のレベルが向上します。体罰教師もいなくなりますし、子どもが教師にいじめを訴えても聞いてもらえないということもなくなるはずです。
 
子どもが教師を選ぶというシステムはすぐにはむずかしいかもしれませんが、子どもが教師を評価するというシステムならすぐにでも導入できます。
 
なお、能力別クラス編成がよく議論されますが、子どもが選別されるのは傷つきますが、子どもが自分に合ったクラスを選ぶ形にすれば問題ないわけです。
 
 
ところで、子どもにまったく選択権のない今の教育システムは、将来軍隊に入ったときに適応できるようにするという、いまだに「強兵」を引きずったものと見ることができます。
今は就職先も自分で選ばなければならないのですから、教育システムも変わらなければなりません。
 
今の学校システムは欧米から入ってきたものですが、欧米では、おとなと子どもは画然と区別され、子どもはおとなが規律を教えなければならない存在とされていました。
日本はもともと子どもをたいせつにする文化があって、おとなと子どももそれほど区別されません。そこからマンガ、アニメ、カワイイなどの文化が生まれました。
ですから、教育改革も日本が世界の先頭を行っていいはずです。
 
日本が活力を取り戻すには、子どもの主体性を尊重する教育改革しかありません。

幼児虐待の原因として「虐待の世代連鎖」があることは最近知られてきました。つまり親から虐待された子どもが親になると自分の子どもに同じことをするということが次々に連鎖していくのです。
しかし、虐待の原因は「虐待の世代連鎖」だけではありません。「虐待の社会連鎖」もあります。
 
「虐待の社会連鎖」というのは私の造語です。
要するに虐待を次の世代にするのではなく、同時代の身近な人間にすることです。
 
たとえば、会社で部長から理不尽な怒られ方をした課長が自分の部下に当たる。その部下は家に帰ると妻に当たる。妻は子どもに当たるというようなことです。
こうした「当たる」という行為は、一見理不尽ですが、実際は広く行われています。プロ野球の監督は、選手が失策をすると、ベンチやロッカーに当たっています。
 
「やられたらやり返せ」という言葉があります。本来は自分をやった相手にやり返せという意味でしょう。しかし、自分がやられたということは、相手は自分より強いはずで、やり返すことはほとんど不可能です。そこで、自分より弱い相手にやり返すわけです。それでもやられた屈辱感や敗北感はある程度解消できます。
 
とはいえ、なにも悪いことをしていない人に対して、自分の不満を解消するために、悪いことをしたと言って非難したり暴力をふるったりするのは、誰が見てもよくないことです。
そのため、このような「当たる」という行為が広く行われていることは隠されてきました。
人間はもう少し理性的で道徳的だと思いたいのでしょう。
しかし、対人関係のストレスが極限までたまった人間は、ところかまわず当たりちらします。それを表現する「八つ当たり」という言葉もあります。
 
ただ、誰にでも当たるわけではなく、あくまで自分よりも弱い者に対してです。
強い人間は当たる相手がいっぱいいますが、弱い人間にはあまりいません。
 
幼児虐待は貧困家庭に多く発生することが知られています。
貧困な人は、貧困自体がストレスであるだけでなく、社会の下層にいるということで、周りの人間に対して劣等感や敗北感を抱きがちです。
それを解消するために当たる相手は自分の子どもしかいないということで、幼児虐待は貧困家庭に多く発生すると思われます。
 
つまり幼児虐待には、「世代連鎖」と「社会連鎖」のふたつの原因があると考えると、その発生が正しくとらえられるのではないでしょうか。
 
 
「虐待の社会連鎖」というのは、自分より弱い者をいじめてうっ憤晴らしをするという行為が広く行われ、最終的にいちばん弱い者にいじめが集中することをいいますが、そうすると、それは幼児虐待のほかに学校のいじめもあります。
 
親は子どもを学校に行かせ、勉強させ、生活態度を細かく注意し、教師は子どもに勉強させ、規則を守らせ、集団行動に従わせます。これらはすべて子どものストレスになりますが、親や教師にやり返すわけにはいかないので、結局子ども同士で解消をはからねばならず、結局いちばん弱い子どもがいじめられることになるのです。
 
ストレス解消のために弱い者いじめをするのは、誰が見てもひどいことです。
ですから、そんなことをするのは幼児虐待をする親とかいじめっ子とかの特殊な人間だということにしておきたいので、私たちは虐待親やいじめっ子を非難することに熱心です。
しかし、実際は「虐待の社会連鎖」は広く存在していて、誰も無縁ではいられません。

菅官房長官が「令和」の文字を示したとき、私はテレビを見ていましたが、記者たちは「ほう」とも「へえ」とも言わず、会見場は完全な沈黙に包まれました。
気持ちが引いたのだと思います。
私自身も同じです。
「令」という字は命令を意味しますし、「冷」にも近いので、気持ちを冷ます字です。
 
「令」には「姿形がよい」という意味もありますが、これは命令によって秩序立ったさまをいっているわけで、あくまで二次的な意味です。
ちなみに「令嬢」は親におとなしく従っている娘のことで、奔放な生き方をする娘は「令嬢」とはいいません。
 
「令和」の決定には安倍首相の意向が強く反映されたようです。しかも、安倍首相は発表のあとテレビに出まくって、「令和」の宣伝をしまくりましたから、ますます「令和」に安倍色がついてしまいました。そのため安倍支持の人は「令和」に好感を持ちますが、反安倍の人は「令和」に反感を持って、元号が国民を分断しているのは不幸なことです。
 
安倍首相にとっての「令和」とは、「命令のもとに国民が一丸となっている」というイメージでしょう。安倍首相の好きな「一億総○○」という言葉と同じです。
 
「令和」はまた、「力による平和」という意味にも取れます。
安倍首相の言う「積極的平和主義」と同じです。
トランプ政権は国家安全保障戦略において「力による平和」をうたっていますから、それとも同じです。
 
安倍首相はこれらのことを意識して「令和」を選んだと思われます。
 
それから、おそらくは無意識の思いも込められています。
 
日本は天照大神のつくった国で、「日出ずる国」です。日の丸、旭日旗も太陽を描いています。
「昭和」の「昭」という字は「明るく照らすさま」であって、やはり太陽と結びついています。
ところが、「令」は万葉集の序文の「令月」から取られていて、つまり月と結びついています。
 
「令和」は「昭和」と対置されていると思われます。
「昭和」は敗戦という大きなつまずきはありましたが、右肩上がりに発展してきた時代です。
「平成」はバブル崩壊とリーマン・ショックがあって、横ばいの時代でした。
そして、「令和」はというと、太陽に対する月、陽に対する陰であって、右肩下がりの時代を暗示しています。
 
安倍首相は、これからの日本が行き詰まることを予感していて、無意識のうちに陰のイメージの言葉を選んだのではないでしょうか。
 
ところで、「平成」の元号ができたときというと、あの額を掲げる小渕官房長官の顔ばかりが思い浮かびますが、竹下首相の時代でした。竹下首相は表に出なかったので、「平成」には政治色がなく、国民に共有されたと思います。
 
安倍首相は改元を政治利用して自分の顔を出し、もともと冷たい「令和」のイメージをさらに悪くしてしまいました。

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