村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2019年06月

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大相撲観戦、ゴルフ、炉端焼きと必死で「おもてなし」をしたのに、なんの効果もありませんでした。
いや、効果がないどころか逆効果でした。

トランプ大統領は6月26日に放映されたテレビのインタビューで「もし日本が攻撃されれば、われわれは第3次世界大戦を戦うことになり、命を懸けて日本を守る。しかし、もしわれわれが攻撃されても日本はわれわれを助ける必要は 全くない。彼らはソニー製のテレビでそれを見るだけだ」と、安保体制はアメリカに不利だと主張しました。

24日にはツイッターで「中国は原油の91%、日本は62%、他の多くの国も同様に(ホルムズ)海峡から輸入している。なぜ、われわれが他国のために無償で航路を守っているのか。これらの国は、危険な旅をしている自国の船を自らで守るべきだ」と言いました。

ブルームバーグの25日の報道では「トランプ米大統領が最近、日本との安全保障条約を破棄する可能性についての考えを側近に漏らしていたことが分かった」「トランプ大統領は沖縄の米軍基地を移転させる日本の取り組みについて、土地の収奪だと考えており、米軍移転について金銭的補償を求める考えにも言及した」ということです。

安倍首相はせっせとトランプ大統領と個人的な関係を築いてきたのに、トランプ大統領はますます日本に冷たくなるとは、なんとも皮肉なことです。

人間は人になにかしてもらうと、「贈与の一撃」という言葉があるように心理的負債が生じ、お返しをしなければという気持ちになるものです。したがって、接待攻勢をかけるのは、一般的に有効なやり方です。
しかし、トランプ大統領にそういう通常の神経回路はありません。人間関係はすべて「取引」です。
来日して国賓としてもてなされたことも、トランプ大統領にすれば、「アベがぜひ来てくれというから、来てやった」と、むしろ恩を売ったぐらいに思っているはずです。

徹底的な自分ファースト、アメリカファーストの人間に「お返し」や「温情」を期待した安倍首相の戦略が間違いでした。

トランプ大統領は通商交渉でも要求を強めていますが、こちらは数字で表現されるのでそれほど一方的な要求はできませんし、交渉がまとまるまでに時間もかかります。
しかし、安全保障分野については、トランプ大統領が頼みさえすれば安倍首相はすぐにF35戦闘機もイージスアショアも買ってくれます。
安倍首相は安全保障については完全にアメリカに依存しているからです。
トランプ大統領はそこを見抜いて、安保条約を破棄するとか、ホルムズ海峡を自分で守れとかと、攻勢をかけてきているのでしょう。


それに対して安倍政権はなんの反論もしないので、言われっぱなしです。
菅官房長官は日米安保体制について「全体として見れば、日米双方の義務のバランスは取れていると思っている」と言いましたが、ただの一般論です。トランプ大統領は具体的に主張したのですから、反論も具体的でないといけません。
たとえばトランプ大統領が「ホルムズ海峡は自分で守れ」と言ったことに対しては「アメリカ軍が中東からいなくなれば、自分で守ることを考えるかもしれない」とか、「日本が攻撃されればわれわれは日本を守るのに、アメリカが攻撃されても日本は見ているだけだ」と言ったことに対しては「強い者が弱い者を守るのは当然だ」とか言えばいいわけです。

いや、トランプ大統領が「アメリカが攻撃されても彼らはソニー製のテレビでそれを見るだけだ」と言ったのは、日本への侮辱です。トランプ大統領は日本を侮辱することで強い大統領を演出して人気を得ようとしているのですから、ここは安倍首相が登場して「ソニー製のテレビがいかに優秀でも、アメリカが他国から攻撃されて日本に助けを求めるみじめな姿を映すことはできない」とでも言うべきです。
もっとも、安倍首相にそんなことは言えません。トランプ大統領に完全にマウントポジションを取られているからです。

そもそも安保条約は、アメリカが日本に軍事基地を置く必要性から結ばれたものです。アメリカと日本は圧倒的強者と弱者の関係ですから、アメリカが日本を守るのは当たり前のことで、逆のことは考えもできません。
ところが、日本国内に安保反対の声が強いので、自民党は「安保のおかげで日本は軽武装ですんで、経済発展できた」と国民に言い続けてきました。国民に言っている限りは問題ありませんが、愚かにもリップサービスのつもりでアメリカにも言うようになり、そのためアメリカで「安保ただ乗り論」が生まれて、日本が「見返り」を要求されるようになってきたのです。
今でもアメリカは圧倒的強者ですから、日本は「強い者が弱い者を守るのは当然」と言っていればいいのです。

新安保法制のときは集団的自衛権について議論されましたが、集団的自衛権においても強い者が弱い者を守るのが基本ですから、日本がアメリカを守ることを議論するのは時間のむだでした。


ともかく、トランプ大統領に「お返し」や「温情」を期待するのは間違いで、これからは「取引」や「交渉」をしなければなりません。
トランプ大統領は「安保破棄」という交渉カードをちらつかせてきました。
それに対して菅官房長官は「日米同盟は我が国の外交安全保障の基軸だ」といういつもの言葉を繰り返しました。
これでは「安保破棄」という相手のカードがオールマイティになってしまいます。

日本は当然「安保破棄やむなし」というカードを用意して交渉に臨まなければなりません。
これはもちろん言葉だけではなく、実際に腹をくくるということです。

トランプ大統領のおかげて日本政府も日本国民もようやく独立国としての気概が持てるかもしれません。

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              Daniela DimitrovaによるPixabayからの画像 

人間が生きて成長していくためにはさまざまな栄養素が必要で、ビタミンCが欠乏すると壊血病になり、ビタミンB1が欠乏すると脚気になり、カルシウムが不足すると骨が弱くなるということは栄養学によって明らかになっています。同様に、人間の心が成長するためには愛情という栄養素が必要で、愛情が不足すると愛情欠乏症になります。しかし、愛情はビタミンやミネラルのような物質ではないので、このメカニズムは科学としてはいまだ明らかになっていません。

第二次大戦後、大量の孤児が発生し、孤児院などの施設に収容されましたが、衣食住が十分な環境であっても、孤児の死亡率が高いという現象が見られました。原因を探ったところ、母親的な存在との情緒的なつながりの不足と考えられ、子ども一人ずつに担当の看護婦を決めて世話をすることで改善しました。
以来、施設において愛情不足により、幼児の死亡率の高さ、身体の成長や言語の発達の遅れが生じることを
「ホスピタリズム(施設病)」というようになりました。
しかし、ホスピタリズムという言葉だと、施設特有の現象と誤解されるかもしれません。そのためかどうか、最近はほとんど使われなくなりました。

「愛情遮断症候群」という言葉もありますが、この言葉だと第三者が愛情を遮断したような誤解を生みます。
精神科医の岡田尊司氏は「愛着障害」という言葉を使っていて、これは割と広がっていますが、この言葉だと愛着するほうに問題があるようにも理解できます。

そこで、私は「愛情欠乏症」ないし「愛情欠乏症候群」という言葉を使っています。この
言葉がいちばん意味が明快ではないでしょうか。


最近、幼児虐待が社会問題化して、愛情不足の問題が否応なく認識されてきました。
わが子を殺したりケガさせたりする親は極端な例ですが、それ以外の親はみんな十分な愛情を子に与えているかというと、そんなことはありません。むしろどんな親も完全な愛情を与えられないというべきで、その不足の度合いによってさまざまな問題が生じてきます。

たとえば依存症が愛情欠乏のひとつの症状です。子ども時代に親に十分に依存できなかったために、なにかに極端に依存してしまうのです。
たとえば恋愛関係になると、恋人に極端に依存するので、「重い」と言われたりします。DVを受けても逃げられないのも、相手に極端に依存しているからです。振られてもその事実を受け入れることができずにストーカーになる人も同じだと思われます。
アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、買物依存症などは有名ですが、セックス依存症や仕事依存症、もっとほかにもあるはずです。

リストカットや摂食障害も愛情欠乏症です。これらはカウンセリングにかかることが多いと思われますが、カウンセラーもピンからキリまであるので、愛情不足に原因があると把握してくれる場合とそうでない場合とで、治り方がぜんぜん違ってきます。

私は以前、リストカットを繰り返す若い女性が出てくるドキュメンタリー番組を見たことがあります。その女性の手首には二十か三十くらいの傷がびっしりとついていて、私は見た瞬間、耐えがたいほどの痛々しい思いがしました。その女性の母親は、「死ぬのだけはやめてね」と言っていて、一見、娘の命をたいせつに思っているようですが、「私に迷惑をかけるのだけはやめてね」という意味としか思えません。娘は母親の愛情を得ようとしてリストカットを繰り返しているのでしょう。

不登校、引きこもり、家庭内暴力なども、原因はいろいろあるにせよ、愛情という心の栄養不足が根底にあります。 

人生になんの意味があるのだろうと悩む若者もいます。こういう悩みは哲学的だとしてほめる人もいますが、私の考えでは、これも愛情欠乏症の一種です。若いのに前向きに生きていけないのは、たいていは愛情不足が原因です。

 
これらをまとめて愛情欠乏症候群ということになりますが、愛情は客観的に測定できないこともあって、この病気に対する理解はまだまだです。

それに、親に向かって「あなたは子どもへの愛情不足です」と言うのは、最大級の人格否定になるので、なかなか言えません。
また、それを言うと子どもも傷つきます。親の愛情が足りないのは自分自身に愛される価値がないからだと思うからです。

しかし、「虐待の世代連鎖」という言葉があるように、親の愛情不足は多くの場合、その親自身が親から十分に愛されてこなかったことが原因です。また、夫婦仲が悪いとか低収入で生活が苦しいということも子どもへの愛情不足につながります。
いずれにせよ、子どもが栄養失調になるのは子どものせいでないように、子どもが愛情欠乏症になるのは子どものせいではありません。


愛情不足の親のあり方はさまざまです。暴力をふるったりネグレクトしたりするのはわかりやすいケースです。教育熱心は愛情の表れとされますが、愛情のない教育熱心はいくらでもあります。巧妙に子どもを支配する親は「毒親」と言われます。

愛情不足の親に対する子どもの反応はふたつに分かれます。
活動的で気の強い子どもは、親に反抗し、喧嘩し、家出したり、仲間といっしょに盛り場をうろついたりします。私はこれを「行動化する不良」と呼んでいます。若くして結婚して親元を離れることも多くあります。
活動的でなく気の弱い子どもは、争いを避けるために親に合わせるので「よい子」と思われたりしますが、心を病んで、不登校、引きこもり、家庭内暴力という方向に行きます。これを私は「行動化しない不良」と呼んでいます。

こうしたことはすべて親の愛情不足が原因ですが、世の中にはまだはっきりと認識されていません。しかし、いずれ脳科学や生理学や認知科学などが愛情を客観的に測定することを可能にし、そのときには栄養学と同様に愛情学が生まれ、世の中から愛情欠乏症候群は一掃されるでしょう。

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法律の世界に「予防拘禁」という言葉があります。犯罪をしそうな人間をあらかじめ拘禁するというものです。
もろんあってはならないことで、日本では戦前の治安維持法のもとで一時的にあっただけです。

元農水省事務次官の熊沢英昭容疑者が長男を殺害した事件で、熊沢容疑者は「川崎市で小学校児童など20人が死傷した事件が頭に浮かんだ。自分の息子が第三者に危害を加えるかもしれないと思った」と殺害理由を供述しました。
殺人事件を防ぐために殺人をしたという、いわば「予防殺人」の論理です。

もちろん自分の殺人を正当化するために言っているだけです。
ある人間が将来殺人事件を起こすかどうかは神でなければわからないことで、「予防殺人」など認められるわけがありません。

ところが、テレビのコメンテーターなどでこの論理に共感を示す人が少なくありません。
その筆頭が橋下徹氏です。弁護士でもある橋下氏はいったいどういう理屈で「予防殺人」を正当化しているのでしょうか。


橋下徹氏、長男殺害容疑の元農水次官に「同じ選択をしたかも」「責められない」
 前大阪市長の橋下徹氏(49)が3日、自身のツイッターを更新。元農林水産事務次官の熊沢英昭容疑者(76)が東京・練馬区の自宅で長男(44)を殺害したとされる事件に私見をつづった。

 橋下氏は、熊沢容疑者が川崎の20人殺傷事件を踏まえて「長男も人に危害を加えるかもしれないと思った」などと供述したとする報道に関し「何の罪もない子供の命を奪い身勝手に自殺した川崎殺傷事件の犯人に、生きるための支援が必要だったと主張する者が多いが、それよりももっと支援が必要なのはこの親御さんのような人だ。自分の子供を殺めるのにどれだけ苦悩しただろうか」とツイート。

 さらに「自分の子供が他人様の子供を殺める危険があると察知し、それを止めることがどうしてもできないと分かったときに、親としてどうすべきか?今の日本の刑法では危険性だけで処罰などはできない。自殺で悩む人へのサポート体制はたくさんあるが、このような親へのサポート体制は皆無」とした。

 続けて「他人様の子供を犠牲にすることは絶対にあってはならない。何の支援体制もないまま、僕が熊沢氏と同じ立場だったら、同じ選択をしたかもしれない。本当に熊沢氏の息子に他人様の子供を殺める危険性があったのであれば、刑に服するのは当然としても、僕は熊沢氏を責められない」とつづっていた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190603-00000107-sph-soci

「もっと支援が必要なのはこの親御さんのような人だ」と支援の必要性を訴え、現状では「このような親へのサポート体制は皆無」と言っています。
しかし、引きこもりをかかえる親や家庭内暴力に悩む親へのサポート体制は、十分とはいえなくても、ちゃんとあります。
では、橋下氏はどんなサポート体制が皆無だというのでしょうか。
それは、「自分の子供が他人様の子供を殺める危険があると察知し」て悩む親へのサポート体制のことです。
そんなサポート体制があるわけありません。
そういう人がいるとすれば、必要なのは妄想性の精神病へのサポートです。
橋下氏は、「予防殺人」を正当化するために、「サポート体制の不備」という問題をでっちあげているだけです。


「他人様の子供を犠牲にすることは絶対にあってはならない」というのが橋下氏のもっとも強く主張することのようです。
しかし、「他人様の子ども」を犠牲にしないために「自分の子ども」を犠牲にするというのは、ありえない理屈です。

人の命に軽重をつけるのは安易にやってはいけないことですが、はっきりとやれる場合もあります。それは「自分の子ども」の命にかかわる場合です。
たとえば、暴走車が突っ込んできて、自分の子どもか他人の子どもかどちらかしか救えないというとき、誰でも自分の子どもを救うに決まっています。
自分にとっていちばんだいじなのは自分の子どもの命です。これは自分の遺伝子を残したいという生物のもっとも基本的な本能です。

ところが、橋下氏は他人の子どもを救うためなら自分の子どもを殺すべきだという考えなのです。
自分の子どもの命をたいせつにしない人間が他人の命をたいせつにするわけがありません。
私は橋下氏のこの主張を聞いただけで、橋下氏のすべての主張が信じられなくなります。

橋下氏はどうしてこういう考え方をするのでしょうか。
軍国主義の時代には、自分の子どもの命を国家に捧げることが称揚されました。そうした価値観の影響を受けていることが考えられます。
それから、自分の体面ばかり考えている人間、つまり外づらのいい人間は、自分の家族をないがしろにします。それが極限までいってしまったのでしょう。

ちなみに熊沢容疑者も外づらのいい人間でした。長男が家庭内暴力をするようになっても、そのことを隠し続けました。外部に助けを求めていれば、まったく違っていたでしょう。

橋下氏には7人の子どもがいます。どういう父親であるかというと、プレジデントオンラインの「橋下徹通信」で「僕は子育てを妻に任せっきりにしてきた。今の風潮からすれば、完全に父親失格である」と書いて、さらにこう書いています。

うちの子供たちだって今後、他人様を傷つけることがあるかもしれない。子育てには常にそのようなリスクが付きまとう。だからこそ、「他人様を絶対に犠牲にしちゃいけない。それはたとえ自分が死を決意したときでも」と、僕はうちの子供たちに言い続けていく。
https://president.jp/articles/-/28837?page=4

自分の子どもが人を殺すかもしれないと思っているのです。
熊沢容疑者と同じです。
橋下氏が熊沢容疑者と同様に「予防殺人」を肯定するのも納得です。

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                 Enrique MeseguerによるPixabayからの画像

なぜ人間社会に幼児虐待という悲惨なことがあるのでしょうか。

幼児虐待は世代連鎖するとされます。つまり子どもを虐待する親は、自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いというのです。
そうすると、その親も子どものころ虐待されていたことになります。そして、その親もまた……とどんどんさかのぼっていくと、「人類最初の虐待親」にたどりつく理屈です。
もちろんそんな正確に連鎖するわけがありませんが、思考実験として「人類最初の虐待親はいかにして生まれたか」を考えるのもおもしろいでしょう。

反対に、いちばん最初から考えるという手もあります。
人類のいちばん最初のことは神話に書かれています。
もちろん神話は事実ではありませんが、なんらかの“真実”があるということもいえます。

旧約聖書の「創世記」に最初の人間であるアダムとイブのことが書かれています。アダムとイブは知恵の木から知恵の実を取って食べたためにエデンの園を追放された――と思っている人が多いのではないでしょうか。私も昔はそう思っていました。
しかし、実際は「知恵の木」でもなければ「知恵の実」でもありません。
この違いは重要です。

今はネットで簡単に聖書が読めます。次のふたつのサイトを参考に、要点をまとめてみました。

創世記(口語訳) - Wikisource

Laudate | はじめての旧約聖書 - 女子パウロ会


神は最初の人であるアダムをつくってエデンの園に住まわせた。エデンの園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」があった。神はアダムに「あなたは園のすべての木から満ち足りるまで食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。必ず死ぬからである」と言った。神はさらにイブをつくって、二人は夫婦となった。二人とも裸だったが、恥かしくはなかった。生き物のうちでもっとも狡猾な蛇はイブに、善悪の知識の木について、「食べてもあなた方は決して死ぬようなことはありません。 その木から食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者になることを神は知っているのです」と言った。イブはその実を取って食べ、アダムにも食べさせた。すると二人の目は開け、自分たちが裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、イチジクの葉で腰を隠した。二人が善悪の知識の木から食べたことを知った神は「人はわれわれの一人のように善悪を知る者となった。彼は命の木からも取って食べ、永久に生きるものになるかもしれない」と言い、アダムとイブを楽園から追放し、以後、人間は苦しみに満ちた生活を強いられるようになった――。

つまり「知恵の木」ではなく、「善悪の知識の木」ないし「善悪を知る木」なのです。

「善悪の知識の木」はヘブライ語の「エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ」の直訳です。
どうしてそれが「知恵の木」と訳されることが多いかというと、「善と悪」には「すべての」という意味もあるからだというのです。つまり「すべての知識の木」だから「知恵の木」というわけです。
しかし、それは間違った解釈でしょう。
「知恵の木」と訳すと、そのあとの「神のように善悪を知る者になる」という言葉とつながりません。

神が善悪の判断をする限りは問題ありません。正しく判断するか、正しくなくても人間は受け入れるしかないからです。
しかし、人間が善悪の判断をすると、自分に都合よく判断します。
みんなが自分に都合よく判断すると、対立と争いが激化します。


この物語は基本的に、幼児期は母親に守られて幸せだった人間が自立するときびしい現実の中で生きなければならないことのアナロジーになっています。そのため誰でも心の深いところで共鳴するものがあるはずです。

子どもが自立するのは、昔なら十二、三歳でしょう。
しかし、善悪の知識を得た人間においては、親は子どもを善悪で評価します。子どもが言葉を覚えたころからそれが始まるでしょう、親から「悪い子」と見なされた子どもは、怒られたり、叱られたり、体罰をされたりします。
つまり人間が善悪の知識を得たことから幼児虐待は始まったのです。

楽園追放の物語は、人間は善悪を知ることで不幸になったということを教えてくれます。

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                           creisiによるPixabayからの画像             
                                                                              

幼児虐待についての悲惨なニュースが続いています。
幼児虐待をなくしたいと思わない人はいないはずです。
しかし、どうすればいいかを考えようとしても、ほとんどの人はそこで思考停止に陥ってしまいます。
「灯台もと暗し」と言いますが、幼児虐待は自分自身の足元の問題だからです。

考えるには手がかりが必要です。
虐待のある家庭と虐待のない家庭を比較するのがひとつの手です。
虐待のない家庭というのは、要するに普通の家庭です。
そこらにあるのが普通の家庭ですから、たまたま目についた数日前の朝日新聞の投書を、一部省略して紹介します。


(ひととき)わが家の小さな花束
 若い頃の私は、庭仕事には全く関心がなく、草取りが最も嫌いな家事だった。
(中略)
 そんな私を変えたのは、幼い娘だった。ある夜、娘は「明日、保育園にお花を持っていく」と言った。突然のことに「でも家にはお花なんてないよ」と言うと娘は泣き出した。困った私は娘をつれて外に出た。近所の空き地に白いクローバーの花が咲いていた。娘は数本摘んで、小さな花束を作って言った。「これでいい」。娘がとてもいじらしく、小さな庭があるのに何もしなかった自分を恥じた。「ごめんね。そのうち花束を作ってあげる」
 心を入れ替えた私は、雑草を取り、土を耕し、花の苗を植え世話をした。失敗も多かったが、念ずれば通ずるなのか、何とか花が咲いた。バラや宿根草が根付き、庭らしくなった。娘は小中高校時代、毎年1回は花束を抱え、うれしそうに登校した。花束を作るたびにあの夜の罪ほろぼしをしているような気持ちになった。これで少しは許してもらえるかな。
 今は、孫たちに花束を作っている。喜んで持っていく姿を見るのはうれしい。
 (千葉県柏市 主婦 65歳)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14050538.html?rm=150


いい話です。愛情が感じられます。
ただ、この話だけだと、なんの教訓も得られません。
そこで、虐待のある家庭だとどうなるかを想像してみます。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言い、「家にはお花なんてないよ」と言うと、娘は泣き出しました。夜なので花を買いにいくこともできません。ここで、「わがままを言ってはいけません」と叱る母親も多いのではないでしょうか。叱られた娘はますます泣いて、母親もますます叱ってと、負のスパイラルに入ると、虐待が生じてしまいます。

しかし、この母親は娘といっょに家を出ます。「どこにも花はない」と言葉で説得しても娘は納得しないので、いっしょに花を探して、ないことがわかれば納得してくれると思ったのでしょう。
ここがこの母親の偉いところです。言葉で説得するのはおとなの論理です。

娘はクローバーの花を見つけ、「これでいい」と言います。小さい花ですが、ほかにないことがわかったので、それで自分を納得させたのでしょう。子どもでも現実と向き合えば、最善の判断ができるということです。
母親は、娘が小さな花でがまんしたことがわかり、いじらしく思い、庭仕事をしなかった自分のせいだとも思い、それから庭仕事に精を出します。

ここでもほかの母親なら、「そんな小さな花はやめなさい」とか「そんなのを持っていったらお母さんが恥をかくからだめ」とか「昼間自分で摘んだらいいじゃない」とかと、おとなの論理を振り回して、娘とバトルを演じたかもしれません。


この母親は娘の気持ちに寄り添っているので、虐待などは起こりようがありません。
しかし、このように娘の気持ちに寄り添えたのは、母親に気持ちの余裕があったからです。
たとえば家計が苦しくて、借金のことで頭がいっぱいだったとすれば、いくら娘が泣いても、母親は家を出て花を探しにいこうという気にはならず、娘を叱ることで対応していたでしょう。
虐待の起こる家庭というのは、たいてい貧困層で、夫が無職というケースが多いことを見てわかります。

しかし、母親に気持ちの余裕がなくても、夫や親族や近所の人などのささえる人がいれば、やはり虐待は起こらないでしょう。

ですから、生活の余裕と周りのささえが虐待防止にはたいせつなことですが、これは今さら言うまでもないことかもしれません。
あと、もうひとつ、誰も言わない重要なことがあります。
それは「道徳」を持ち込まないということです。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言ったとき、それを「わがまま」ととらえる親がいます。
そして、娘が泣き出すと、「わがまま」がさらにエスカレートしたと見なし、こうしたことを放置すると限りなくわがままになると考えて、叱ってわがままを言わさないようにします。
こうしたやり方が虐待の第一歩です。

子どもがかたづけをしない、食べ物をこぼす、言いつけを守らないなどのことを「わがまま」や「悪」と見なし、しつけをして矯正しなければならないというのが虐待親の認識です。
ですから、事件を起こして逮捕された親は決まって「しつけたのためにやった」と言います。

今の世の中は、親が子どもをしつけるのはよいこととされているので、逮捕された親が「しつけのためにやった」と言うと、誰も反論できません。

道徳は言葉でできています。おとなは言葉を自由にあやつれますが、子どもは言葉が十分に使えません。そのため、道徳はおとなに有利にできています。その道徳に従ってしつけをすると、むしろ親がわがままになり、どうしても虐待につながっていくのです。

愛情のある親は直感的にそのことがわかっているので、子どもにしつけをするにしても、ほどほどにするので、虐待には至りません。

道徳やしつけを根本的に見直すことが幼児虐待防止にはなによりたいせつです。


昔、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」という番組に「良い子・悪い子・普通の子」というコーナーがありました。
娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言って泣いたときの母親の対応をそれにならって言うと、

「悪い母親」は、娘を叱る。
「普通の母親」は、娘の前でおろおろする。
「良い母親」は、娘といっしょに花を探しに出かける。

ということになります。

娘といっしょに花を探しに出かけたら、いろんなたいせつなものを見つけたというお話です。

ハタコトレイン・給料


ハタコトレイン


阪急電鉄が6月1日から運行を始めた「ハタコトレイン」が大炎上して、運行中止になりました。
ハタコトレインというのは、企業ブランディングを手がけるパラドックスという会社と阪急電鉄とのコラボ企画で、働くことに関する経営者などの名言を車内に掲示するというものです。

炎上のきっかけになったのは、次の言葉です。

毎月50万円もらって
毎日生き甲斐のない生活を送るか、
30万円だけど仕事に
行くのが楽しみで
仕方がないという生活と、
どっちがいいか。
研究機関/研究者・80代


月30万円ももらえない人も多いという労働環境のきびしさがわかっていないということで炎上したのかと思いました。
しかし、そういう単純なことではありませんでした。

私たちの目的は、
お金を集めることじゃない。地球上で、いちばん
たくさんのありがとうを集めることだ。
外食チェーン/経営者・40代


この言葉は、ワタミ創業者の渡邉美樹氏の言葉と同じだと言われていますが、ブラックに通じる精神主義がうかがえます。
成功者の上から目線、説教くささ、それが炎上の原因のようです。

おもしろいので、ほかの言葉も集めてみました。

甲子園に行きたかったら、
朝から晩まで、土日だって練習するでしょう。
でも、社会に出たとたんに、
それは「ブラック企業」になってしまう。
人材サービス/経営者・50代

転職や再就職も恐れることなんてないんですよ。
日本の中で、ちょっと人事異動しただけなんです。
人材サービス/営業・30代

格差社会だ。
でも、ある意味実力社会だ。
広告/コピーライター・30代


どれもブラックを推進するような言葉です。
教訓の言葉もありますが、教えられるというよりもいやみのほうが強い感じです。

お金持ちになって、銀剤の高級ブランド店で、
「ここからここまで全部くれ」って本当に
やってみた。その時、やっぱりわかったんだ。
お金は安定はくれるけど、幸せはくれないって。
情報処理/経営者・40代

人のために、という使命感のある人は、
どんどん成長していく。
建設業/役員・20代

部下の役目は、上司を育てること。
人材派遣/営業・20代

お客様は怒ってるんじゃない。
困ってるんです。
インターネット事業/コールセンター主任・30代

まずは、おおまかなものでいい。
人生の設計図を描いてみてほしい。
建設・土木業/経営者・50代


中にはこれらの言葉に感動したとか教えられたという声もありますが、批判のほうが圧倒的に多かったようです。「ブラック企業の朝礼みたいだ」という言葉が的確です。

こうした言葉は企業の中で、つまり上司が部下に言っている限り問題になりません。言われるほうは不愉快でも、力関係で受け入れざるをえないからです。

ところが、阪急電鉄が車内に掲げたのは問題でした。鉄道会社と乗客は、むしろ客のほうが上の立場だからです。
「なんで鉄道会社にまで説教されなきゃならないんだ」という反応が出たのは当然です。

これら説教や教訓などの大もとにあるのは「道徳」です。
道徳は上下関係の中で成立します。部下が上司に道徳を説くとか、子どもが親に道徳を説くということがありえないことを考えればわかるはずです。

ところが、タテマエでは道徳は普遍的な人間の生き方を示す指針とされるので、ときどき勘違いする人が出てきます。
たとえば、田中角栄首相は、前の佐藤栄作首相が不人気だったこともあって、首相に就任すると庶民宰相として大人気になりました。それで調子に乗ったのか、「五つの大切、十の反省」という道徳をつくって、国民に教えようとしたので、国民の大反発を受けました。総理大臣は国民の上に君臨していると勘違いしたのでしょう。民主主義国では政治家より有権者のほうが上です。

自民党は今でも勘違いしていて、改憲草案などに道徳を盛り込んで、国民の不興を買っています。
学校での道徳の教科化など道徳教育の推進は実現しましたが、これはおとなの有権者には関係ないからでしょう。

道徳はあくまで上下関係、権力関係の中で成立するものです。
これを忘れるとハタコトレインみたいに炎上します。

ヤフーブログサービスが間もなく終了するため、ここライブドアブログに引っ越してきました。
まだ操作に慣れないのでまごついていますが、今後ともよろしくお願いします。


ブログの引越しを機会に、改めて私の基本的な考え方を説明しておきます。

動物は基本的に利己的な存在で、互いに生存闘争をしています。人間以外の動物は牙や角や爪を武器にしますが、人間は主に言葉を武器にします。言葉を武器にして戦ううちに言葉は次第に進化し、その中から道徳が生まれました。
つまり「道徳は人間の利己心から生まれた」のです。

実に単純なことですが、これまで誰も指摘しませんでした。
これまでの考え方は「道徳は利他心ないしは人間ならではの知性や理性や精神から生まれた」というものです。
それとまったく違うので、私は「道徳観のコペルニクス的転回」と呼んでいます。

道徳は基本的に「人に親切にするべきだ」とか「人に迷惑をかけてはいけない」というように利他的な行動を勧めるものなので、道徳が利己心から生まれたということと矛盾していると思う人がいるかもしれません。しかし、言葉は基本的に目の前の人間に対して発するものです。相手が利他的な行動をしてくれれば自分の利益になるのですから、少しも矛盾しません。逆に利他心から「人に親切にするべきだ」という言葉が発されたとすると、その言葉は目の前の相手のためではなく、そこにいない誰かのために発されたことになり、説明しようとすると、ひじょうにややこしいことになります(そのため倫理学はひじょうに難解でした)。

また、道徳は自分を律するためのものだと考える人も多いでしょう。少なくとも道徳を説く人は、相手が道徳で自分を律してくれることを望んでいるはずです。
しかし、人間は外界に対応するのに精一杯で、自分を省みることにあまり時間やエネルギーを費やしていられません。自分を省みるのは、寝る前の少しの時間か、なにか失敗をしてひどく落ち込んだときぐらいです。しかも、その内省の思考は言葉として表現されることはありません。例外は文学作品の中ぐらいです。
つまり「自律の道徳」はないわけではありませんが、世の中に流通するのは「他律の道徳」ばかりです。

ですから、道徳でよい社会をつくることはできませんし、道徳教育でよい人間をつくることもできません。
たとえば福祉政策の中に道徳を持ち込んで、生活保護の申請者を「働き者」と「怠け者」に分類するなどすれば、混乱するだけです。
国際政治の世界で「正義の戦争」などが唱えられると、ひどいことになります。
家庭の中にも道徳が持ち込まれ、夫婦が互いに道徳的に非難し合ったり、子どもを「よい子」にしようとしたりすると、決まって不幸な結果になります。


説明しているときりがないので、このへんでやめますが、現在、これを本にするべく執筆中です。
ただ、従来の倫理学を全否定しなければなりませんし、この説は進化倫理学の中に位置づけられますが、進化倫理学も否定しなければなりません。
これまでの進化倫理学はダーウィンの説をもとにしていましたが、ダーウィンの説が間違っていたのです(したがって、私の説を進化倫理学だというと誤解されるので、「科学的倫理学」という名前を使ったりしています)。
浅学菲才の身で大きなことを思いついてしまったので、そういう学問との関連づけに苦労しています。

それに、一般の人にどれだけ理解してもらえるかという懸念もあります。
なにしろこれは、従来の倫理学や道徳観が天動説だとすれば地動説みたいなものだからです。みんなが天動説を信じている中世において、いきなり「太陽が動いているのではない。地球が動いているのだ」と言ったら、狂人扱いされてしまいます。
今の世の中に宗教裁判はありませんが、否定されたり無視されたりしないようにしなければなりません。
どういう表現が説得力あるかということを確かめる目的もあって、このブログを書いています。
時事的な問題のとらえ方の背後に道徳観の違いがあることを見ていただければと思います(道徳観と関係のないことも書きますが)。


道徳はあなたの心を縛る透明な鎖です。道徳を正しくとらえれば、自由な生き方をすることができます。

「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」というのは、一般にアピールするために考えたキャッチフレーズです。
スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンからきています。

農水省元事務次官の熊沢英昭容疑者が長男の熊沢英一郎を殺害した事件について、殺人を擁護する声が広がっています。
橋下徹氏がツイートで「自分の子供を殺めるのにどれだけ苦悩しただろうか」「僕は熊沢氏を責められない」などと擁護したことは前に書きましたが、「リテラ」の記事によると、ほかにもいっぱいいるそうです。
 

農水省元事務次官の「子ども殺害」正当化は橋下徹だけじゃない!竹田恒泰、坂上忍、ヒロミも…「子は親の所有物」の価値観

 
元事務次官という“上級国民”なので、殺人も許されるという理屈でしょうか。
 
もちろん背景には川崎市20人殺傷事件の連想があると思われます。
しかし、川崎市殺傷事件の犯人の岩崎隆一(51)と、元事務次官の父親に殺害された熊沢英一郎氏(44)には、なんのつながりもありません。
「引きこもり」というキーワードでつながっているようですが、引きこもりの人はいっぱいいます。
しかも、熊沢英一郎氏は「引きこもり」といえるかどうか疑問です。
 
文春オンラインの次の記事が熊沢家のことを割と詳しく書いています。
 
元農水次官を追い詰めた 長男の「真っ先に愚母を殺す」【全文公開】
 
この記事から一部を引用します。
 
 事件前の約10年間、英一郎氏は実家ではなく、都内の別の場所で一人暮らしを続けていたが、ゴミ出しなどを巡り、近隣住民とトラブルが絶えなかった。昨年5月には〈323,729円 これが今月の私のクレカの支払額だ。君達の両親が必死で働いて稼ぐ給料より多いんだよ〉とツイッターに書き込んでいるが、こうしたゲーム代や生活費もすべて親持ちだった。英昭はしばしば息子の様子を見に行っていたようだ。
 
 コミックマーケットを通じ、10年間にわたって交流があったという男性が打ち明ける。
 
「私は0405年頃、同人誌を作っていたのですが、英一郎氏にコミックマーケットで作品を購入してもらったことがきっかけで彼と知り合った。その後、都内で開催された同人誌の即売会で会うたびに談笑するといった交流を続けてきました。当時、彼は『(アニメなどの)専門学校を中退した』と話していた。また、一時期パン職人をやっていたそうで、彼が作ったというシュトーレン(ドイツ発祥の菓子パン)をもらったこともあります。女性関係については『かつては彼女がいた。今はいないが童貞ではない』と。彼は好きなものには妄信的で、そうでないものは蛇蝎(だかつ)の如く嫌う性格。特に母親への憎悪は根深いと感じました」
 
 次官まで務めた父親は自慢の種だったようだ。
 
12年頃のある日、彼がコミケに年配の男を連れてきたことがあった。彼はその人を指して『父です』と紹介してきました」(同前)
 
 
10年間、実家を出て一人暮らしをしていて、コミケで出会った人と交流もしているので、「引きこもり」の定義にはまったく当てはまりません。
「アニメ・ゲームおたくのニート」というところです。父親は天下りしてたっぷりと資産を持っているので、両親が死んでからも一生ニートを続けることができたでしょう。
 
川崎事件の岩崎隆一は、親代わりの伯父夫婦が高齢化して介護が現実問題になり、将来を悲観して事件を起こしたと想像されますが、英一郎氏がそうした事件を起こす理由はありません。
 
英一郎氏は英昭容疑者に「家に戻りたい」と電話して、事件の10日ほど前から実家に戻っていました。
そして、英一郎氏は両親に暴力をふるいました。警察は英昭容疑者と妻の体にアザがあると認めているので、家庭内暴力は確かなようです。
事件の6日前にも暴力があって、英昭容疑者は妻に「今度暴力を受けた時は危害を加える」とほのめかしていたということです(これは川崎事件の前のことです)
 
英一郎氏が中学2年生のころから家庭内暴力は始まっていたという報道があります。それなのになぜ英昭容疑者は家に戻ることを認めたのでしょうか。
コミックマーケットに親子でいっしょに行くというのもあまり聞かない話ですし、かなりの金銭的援助もしていました。
父親が子どもの自立を妨げていた面もあると思われます。
 
そして、川崎事件の4日後、英昭容疑者は凶行に及びます。
その日、家の隣の小学校で運動会が行われていて、英一郎氏が「運動会の音がうるせえ。子供らをぶっ殺すぞ!」と叫んだそうです。
「川崎の事件が頭をよぎり、周囲に迷惑が掛かると思った。怒りの矛先が子どもに向いてはいけない」と英昭容疑者は犯行の動機を説明しているということです。
英昭容疑者は包丁で英一郎氏を刺し殺し、その傷は数十か所もありました。
 
英一郎氏が「子供らをぶっ殺すぞ!」と叫んだというのは英昭容疑者の供述で、実際に叫んだかどうかわかりません。
実際に叫んだとしても、そのことから川崎事件のようなことが実際に起きると考えるのは飛躍のしすぎです。
 
実際のところは、英昭容疑者は前から殺意を固めていて、そこにちょうど川崎事件が起きたので、殺害を正当化する理由に使ったのではないでしょうか。
 
ところが、ネットには「容疑者は長男の凶行を防ぎ、罪のない小学生を守った」「親としての責任を果たして立派」などの声があり、テレビのコメンテーターなども容疑者を擁護しています。
 
 
なぜ殺人事件の犯人を擁護する人がいるのでしょうか。
これは「引きこもり」の問題とされていますが、実際は「家庭内暴力」の問題です。
家庭内暴力の子どもを親が殺したという事件です。
 
親が子どもに体罰をするのは肯定して、子どもが親に暴力をふるうのは異様に嫌う人がいます。権力者体質、パワハラ体質の人です。熊沢容疑者を擁護しているのはそういう人ばかりです。
 
子どもが親に反抗したら殺してもいい――これは幼児虐待をする親の論理でもあります。
親の言うことを聞かない子どもをそのままにすると、子どもはモンスターになるので、徹底的にしつけしなければならないと思ってやっているうちに子どもが死んでしまう。そのときになっても反省せず、「しつけのためにやった」と言って、自分を正当化する。これが幼児虐待をする親の典型です。
 
そもそも子どもが家庭内暴力をふるうようになるのは、親の育て方に問題があるからです。
熊沢容疑者は高級官僚という仕事柄、おそらく家庭のことはほとんど顧みなかったでしょう。父親不在の家庭で母親が子どもの教育を生きがいにするのはありがちなことです。
文春の記事にもこう書かれています。
 
「とにかく奥さんが教育熱心だった。官舎中で『熊沢氏の奥さんは教育ママだ』と話題になるくらいだった」(当時を知る元官僚)
 
勉強や習いごとを過剰にさせられ、進路も一方的に決められる。体罰があったかどうかはわかりませんが、過干渉の幼児期をすごし、中学生になって体力がつくと暴力をふるいだしたということでしょう。
そのときに親が専門家に相談するなどして養育態度を反省すればよかったのですが、自分の体面を保つことを優先させ、問題を隠しました。周りにはいつもにこやかで愛想のいい夫婦と見られていたようです。
 
この事件は基本的に、親が子どもを殺した幼児虐待事件です。
幼児虐待を、子どもが中年になってから完了させただけです。
 

川崎市登戸のスクールバス襲撃事件の影響か、このところ引きこもりにまつわる事件が連続して発生し、話題をさらっています。
2、3か月前は千葉県野田市の栗原心愛さんが虐待死した事件を中心に、幼児虐待が話題になっていました。
家族関係の問題というのは、論じるほうも感情的になり、極論や暴論が出がちなので、議論が盛り上がります。
 
暴論の代表的なのは、松本人志氏がフジテレビ系「ワイドナショー」において川崎市登戸事件の犯人を「不良品」呼ばわりしたことです。
 
 
番組では、528日に川崎市で小学生ら20人が殺傷された事件を特集。自殺した容疑者に対する「死にたいなら1人で死ぬべき」という意見の是非に触れた。その際、松本は以下のように持論を展開した。
「僕は、人間が生まれてくる中でどうしても不良品って何万個に1個、絶対これはしょうがないと思うんですよね」
東野幸治(51)が「なんか先天的、とかいう、犯罪者になるという……」と口を挟むと、松本は続けて「それを何十万個、何百万個に1つぐらいに減らすことは、できるのかなあって、みんなの努力で。正直、こういう人たちはいますから絶対数。もうその人たち同士でやりあってほしいですけどね」と語った。
 
 
人間を「不良品」と呼ぶことも問題ですが、「不良品」になる理由をなにも示していないのがいちばんの問題です。工場から不良品が出る場合も、調べれば不良品になった理由はわかります。
最低限、遺伝か環境かということを議論しなければ話になりません。
「不良品」という言葉を思いついて、自分で気に入って使っただけでしょう。
 
 
一方、橋下徹氏は、元農林水産事務次官の熊沢英昭容疑者が長男英一郎を殺害した事件について、殺人を肯定するという暴論を述べています。
 
 
橋下徹氏、長男殺害容疑の元農水次官に「同じ選択をしたかも」「責められない」
 前大阪市長の橋下徹氏(49)が3日、自身のツイッターを更新。元農林水産事務次官の熊沢英昭容疑者(76)が東京・練馬区の自宅で長男(44)を殺害したとされる事件に私見をつづった。
 
 橋下氏は、熊沢容疑者が川崎の20人殺傷事件を踏まえて「長男も人に危害を加えるかもしれないと思った」などと供述したとする報道に関し「何の罪もない子供の命を奪い身勝手に自殺した川崎殺傷事件の犯人に、生きるための支援が必要だったと主張する者が多いが、それよりももっと支援が必要なのはこの親御さんのような人だ。自分の子供を殺めるのにどれだけ苦悩しただろうか」とツイート。
 
 さらに「自分の子供が他人様の子供を殺める危険があると察知し、それを止めることがどうしてもできないと分かったときに、親としてどうすべきか?今の日本の刑法では危険性だけで処罰などはできない。自殺で悩む人へのサポート体制はたくさんあるが、このような親へのサポート体制は皆無」とした。
 
 続けて「他人様の子供を犠牲にすることは絶対にあってはならない。何の支援体制もないまま、僕が熊沢氏と同じ立場だったら、同じ選択をしたかもしれない。本当に熊沢氏の息子に他人様の子供を殺める危険性があったのであれば、刑に服するのは当然としても、僕は熊沢氏を責められない」とつづっていた。
 
 
橋下氏の論は、松本氏の論と一見違うようです。
しかし、根は同じです。どちらも引きこもりを「不良品」と見ています。
橋下氏は「不良品」を出荷する前に処分したのはよかったと言っているのです。
 
引きこもりを犯罪者予備軍のように見るのはまったくの偏見です。内閣府は40歳から64歳までの中高年の引きこもりを61万人と発表しています。犯罪発生率で見ると、きわめて低いといえます。ほとんど家のなかにいるのですから当然です。
 
川崎殺傷事件の岩崎隆一容疑者は、一般的な引きこもりとは区別したほうがいいと思います。
岩崎容疑者は、幼くして両親が離婚、伯父夫婦のもとで育てられ、伯父夫婦の子どもはカリタス学園に通っていたということです。「まま子いじめ」があって、その恨みをカリタス学園のスクールバスに向けたのかと想像されます。「虐待の連鎖」があらぬ方向へ飛び火した格好です。
 
とはいえ、一般的な引きこもりも、家の外に出て働くという普通のことができないのですから、人間的に問題があり、その表現はともかくとして、「欠陥品」といえなくもありません。
しかし、「欠陥品」が「欠陥品」になったのは、当人の責任ではありません。
世の中には「製造物責任」という概念があり、製品の欠陥は製造者が負うことになっています。
子どもが「欠陥品」になったら、教育やしつけをした親の責任であり、さらには学校や社会の責任です。
 
「欠陥品」を排除するのではなく、同じ人間として抱合していくことは、共生社会実現の第一歩です。

凶悪犯罪が起きると、テレビのコメンテーターは口をきわめて犯人を非難します。
ところが、川崎市登戸でスクールバスが襲われ、2人が死亡、17人が負傷した事件は事情が異なります。犯人がその場で自殺して、非難の対象がいなくなってしまったのです。
そこで考え出されたコメントが「死にたいなら一人で死ね」でした。
 
このコメントは誰に向けられているのでしょう。
気分としては自殺した犯人に向けて言いたいのでしょうが、死んだ人間に向かって言っても無意味です。
ですから、これは、これから人を殺して自殺するかもしれない人間に向けたものということになります。
 
人を殺して自殺しようかとまで思い詰めている人間に対して、これはあまりにも冷たい言葉です。自殺や殺人を後押ししかねません。
 
ですから、生活困窮者支援のNPOほっとプラス代表理事の藤田孝典氏が、こうしたコメントは控えるべきだと緊急に発信したのは誠に適切でした。
 
川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい
 
もっとも、これに対しては反対の声のほうが大きいようです。
とりわけテレビのコメンテーターはほとんどが反対ないし納得いかないという反応です。
 
たとえば梅沢富美男氏は、「(犯罪者への非難は)控えなくていい。巻き添えになった子がいるんだよ」「被害者の気持ちになってみろ」とコメントしています。
 
被害者や被害者遺族が犯人に激しい怒りや憎しみを感じるのはわかります。
しかし、梅沢富美男氏などのコメンテーターは、自分が被害にあったわけでも肉親を失ったわけでもないのに、激しい怒りのコメントをします。
テレビに合わせた“職業的怒り”です。
 
また、メディアは「なんの罪もない人が犠牲になった」という悲劇性を強調するため、死亡した小山智史さんはミャンマー語担当の外交官で、「ミャンマーが好きなのでやりがいをもって働いていた」とか、死亡した小学校6年生の栗林華子さんはチェロ教室に通っていて、「周囲にお菓子を配るやさしさもあった」といった報道をしています。
こうした報道は犯罪への怒りをあおりますが、やはり犯人はすでに死んでいるため、その怒りが間違った方向に行く可能性があります。
たとえば、犯人の岩崎隆一はひきこもりだったため、ひきこもりをみな危険視する偏見がすでに生まれているようです。
 
 
こうした凶悪な犯罪に触れると、触れた人の心にも凶悪な感情が芽生えます。
その感情が「厳罰にしろ」「死刑にしろ」という声を生み出します。
これは「悪の連鎖」です。
「悪の連鎖」は断ち切らなければなりません。
ところが、メディアは逆に「悪の連鎖」を増幅しています。
 
今回、犯人はすでに自殺し、藤田孝典氏の冷静な指摘があったことで、「怒りをあおるメディア」の異様さが浮き彫りになりました。
ここは冷静になって、犯罪を抑止する具体的方法を考えるべきときです。

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