村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2020年01月

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「地球にやさしい」という言葉があります。
エコマークにも「ちきゅうにやさしい」という文字が入っています。

これは地球を擬人化した言葉ですが、この発想は広く見られます。
環境スローガン・標語をまとめたサイトから、そうした擬人化の言葉を拾ってみました。

助けよう 地球が今も 泣いている

守ろう、地球。創ろう、未来。

川や海 魚がぼくらを 見つめてる

青空ときれいな海は地球の笑顔

分別で 地球に返す 思いやり
https://matome.naver.jp/odai/2149906986349000101

人にやさしくするのはよいこととされます。それは人を幸せにするからです。
しかし、地球にやさしくしても、地球は幸せになりません。

この銀河系には2千億個以上の星があるとされ、宇宙には約2兆個の銀河があるとされるので、地球がどうなろうと宇宙にとってはどうでもいいことです。

ただ、人間にとっては話は別です。
地球が人間の住めないような星になっては困ります。
地球環境をよくするのは、あくまで人間のためです。
大気汚染や海洋汚染があっては、人間が住みにくくなります。

それから、いろいろな動物がいるのも、人間にとってはたいせつなことです。
公園にリスがいたり、庭にいろいろな野鳥がきたりするのを見ると、人間は豊かな気持ちになります。野山でキツネやウサギやシカを見たときも同じです。
おそらくいろいろな動物が棲める環境というのは、人間にとっても棲みやすい環境だからでしょう。
それと、餓えたときには獲って食べられるという安心感もあるかもしれません(人間は狩りをするサルなので)。

ニュージーランドにはかつてモアという巨大な鳥がいて、私は博物館でモアの剥製を見たとき、この鳥が生きて動いているところを見たかったとつくづく思いました。
ニホンカワウソはほぼ絶滅したようですが、日本の川にカワウソがいると楽しいだろうなと思います。

そういうことからWWF(世界自然保護基金)は生物多様性を守る活動をしています。

しかし、沖縄のハブが絶滅すると、ほとんどの人は喜ぶでしょう。
ヌートリア(南米原産の大きなネズミ)はカワウソと同じく水辺に棲みますが、農作物を食べ、堤防に穴を空けるというので、農水省は駆除を進めています。
ハムスターやモルモットはみんなかわいいと言いますが、ドブネズミやクマネズミは嫌われて駆除の対象です。

つまり生物多様性といっても、要するに動物の数の少ない動物園より動物の数の多い動物園のほうがいいというのと同じで、まったく人間本位のものなのです。


地球環境をよくしようとするのは、「人間のため」であって、それ以外の理由はありません。
ところが、「地球にやさしい」とか「地球のため」とか「環境のため」と言うのが普通になっています。

利己的な人間は周りからいやがられます。
そのため、商人は「お客さまに喜んでいただくために赤字覚悟でやっています」と言い、企業は「社会貢献」をうたい、政治家は「国家国民のために身命を賭す」と言います。
これは建て前やきれいごとなのですが、いつも言っていると、自分でもそれが本心と錯覚したりします。

同じことが地球環境問題でも起こっているのではないでしょうか。
そのため混乱が起きている気がします。


地球環境問題の目的は「人間が住みよい地球にする」ということだと認識すると、人間は全員一致できるはずです。
異星人から「地球人は地球のことばかり考えて利己的だ」と非難されることもありません。

対立が起きるとすれば、たとえば石油産業で生活している人と再生エネルギー産業で生活している人の間とか、自分の子ども世代のことを考える人と考えない人の間といったことで、原因が明快になります。

そして、地球温暖化問題がちょっと異質だということもわかるはずです。
大気汚染や海洋汚染は、人間にとってよいことはありません。しかし、地球温暖化にそうしたマイナスはありません。
人類は中央アフリカに発祥したとされるので、むしろ地球が温暖化したほうが住みやすくなるということも考えられます。
ですから最近は、温暖化そのものよりも、温暖化の過程で生じる異常気象などの気候変動を問題視する傾向が出てきています。

それから気になるのは、環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが、なにか崇高な目標のために活動しているかのような激しい口調で語ることです。
地球環境問題を、人類を超越した宗教的な問題のようにとらえているのではないかと心配です。
それではかえって人類の分断を招いてしまいます。
「みんながいっしょに住んでいる家をみんなできれいにしよう」ぐらいの感覚でやっていきたいものです。

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長男を殺害して懲役6年の実刑判決を受けた元農水省事務次官の熊沢英昭被告が保釈されました。
殺人事件で実刑判決の下った被告が保釈されるとは聞いたことがありません。

熊沢被告は昨年12月16日に実刑判決を受け、弁護人の保釈請求を東京地裁は18日に却下しましたが、東京高裁は20日、保釈を認めました。
保釈された熊沢被告は自宅に戻らず、奥さんと都内の高級ホテルに宿泊したということです。

保釈を認めた裁判官は熊沢被告とは顔見知りだったと「NEWSポストセブン」が報じています。

異例の保釈決定の裏には「奇しきめぐりあわせ」が影響した可能性があったかもしれないという。大手紙の司法記者が話す。

「熊沢被告に異例の保釈を認めた東京高裁裁判長の青柳氏は、かつて被告の同僚として同じ職場で働いていたんです。青柳裁判長は、入所7年目だった1987年に裁判官に与えられている『外部経験制度』によって農林水産省食品流通局に2年間の研修に出ています。その時、同局にいたのが入省21年目だった熊沢被告です」

両者が1987年からの2年間、同じ食品流通局に在籍していたことは、当時の「農林水産省職員録」(協同組合通信社)および2010年刊の「全裁判官経歴総覧」(公人社)確認することができる。

 さらに、元農水省職員で、同局に出入りすることも多かったという男性からも証言を得ることができた。

「熊沢被告は砂糖類課長、青柳氏は企画課長補佐というポジションだったので、直属の上司部下ではありません。しかし、同じ食品流通局の同僚だったことには変わりない。当時、同じ部屋で机を並べ、毎日顔を合わせる関係だったと記憶しています」(元農水省職員の男性)

 一方で、熊沢被告の保釈審査を、かつての“同僚”が担当することは、公正が求められる司法のプロセスとして適切だったのか。東京高裁広報係に質すと「事件の配転(※裁判官の配置転換)は事務分配規定に基づいて行われるとしか申し上げられません」との回答。熊沢被告と青柳氏の縁故を把握していたかどうかについては「法解釈に関する事項なのでお答えできません」とのことだった。
https://www.news-postseven.com/archives/20191231_1519996.html/2

熊沢被告の弁護人は12月25日、一審判決を不服として控訴しました。
控訴審の判決も不服なら、さらに上告するでしょう。
熊沢被告は76歳ですから、刑務所に入らないで人生を全うするということもありそうです。

“上級国民”はなんとも恵まれたものです。
世の中も犯罪者にはつねに厳罰を求めるものですが、熊沢被告の保釈についてはそれほどきびしい声は上がりませんでした。

もっとも、厳罰にすればいいというものではありません。問題は被告が反省しているか否かです。


「弁護士ドットコム」に裁判の傍聴記が載っていました。
熊沢被告は長男英一郎さんに対して過保護過干渉でしたが、その実態が改めて明らかになりました。

主治医の尋問直後に行われた熊沢被告人の被告人質問では、英一郎さんの進路から就職、住居や老後のことまで、熊沢被告人が様々に気を配っていたことが明かされる。この年代の男性としては珍しいほど、子どもの世話をしていたようだ。過保護といっていいほどだが、家庭内暴力やうつに苦しむ妻には任せられない事情もあったのだろう。

高校卒業後、日本大学に進学した英一郎さんが「製図の授業に拒否感があった」ため、代々木アニメーション学院へ進学させた。卒業後、日本大学を退学、別の大学に編入させたのち、再度の代々木アニメーション学院への入学。

卒業のタイミングが就職氷河期のため「すぐに仕事が見つからない。何か後で役に立つかも、技術を身につけたら、とパン学校に通わせた」。

卒業後は先述の病院会長が経営する関連施設に就職させたが、熊沢被告人がチェコ大使を退任する頃、退職した。
https://www.bengo4.com/c_1009/n_10606/

「代々木アニメーション学院へ進学させた」
「別の大学に編入させた」
「パン学校に通わせた」
「関連施設に就職させた」
と、すべて「使役」の助動詞で語られています。
それに、ここでは「退職した」と書かれていますが、これも実は「退職させた」のです(このことは私の以前の記事で書きました)。

英一郎さんは自分の人生を生きていたのではなく、熊沢被告の決めた人生を生きていたのです。

熊沢被告は自分のやったことを反省したのかというと、この記事の最後にこう書かれています。

前日に証人出廷した妻は「アスペルガーに生んで申し訳ない」と語った。熊沢被告人は涙を流しながら言った。

「毎日毎日、反省と後悔と悔悟の毎日を送っております。精神的な病を持って生まれてきた息子に、私としては寄り添って生きてきたつもりでしたが、大変つらい人生を送らせてしまって、かわいそうに思っています。

もう少し息子に才能があれば、アニメの世界に進めたと思います……」

限界を迎えた中での犯行。英一郎さんの体には30箇所以上もの刺し傷があった。成人した息子を甲斐甲斐しく世話をし続けながらも、社会に適応できない長男について「才能のなさと、精神疾患が原因である」と判断し、誰にも相談しなかった。生前の英一郎さんは、どんな思いを抱えて、泣いていたのだろうか。

熊沢被告は「反省」と言っていますが、言葉だけです。
自分が英一郎さんをアニメ学校に行かせておいて、結果がうまくいかないと、英一郎さんの才能のせいにしています。
「相手が悪い、自分は悪くない」という論理です。

熊沢被告は「相手が悪い、自分は悪くない」という論理でライバルを打ち負かして出世したのかもしれません。
トランプ大統領も「相手が悪い、自分は悪くない」のパワーバージョン版です。


「アスペルガーに生んで申し訳ない」と語った奥さんも、産み分ける能力などないのですから、反省していません。アスペルガーのせいにしています。

夫婦そろって「子どもが悪い、自分は悪くない」という態度で子育てしていたら、子どもは追い詰められます。
その挙句の家庭内暴力であり、引きこもりであったのでしょう。

わが子を殺して反省のない夫婦と、それを批判しないマスコミ。
これが今の世の中です。



私は前からこの事件を追いかけていて、以下の記事を書いています。

「元事務次官の子殺しは幼児虐待と同じ」

「熊沢英昭被告はいかにして長男の自立の芽をつんだか」

「“毒親”を理解しない残念な判決」

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子どもの家庭でのゲームは1日60分以内とする――こんな条例が香川県で制定されそうで、物議をかもしています。

この条例は「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例(仮称)」といい、子どもをネット・ゲーム依存症から守ろうという趣旨で、18歳未満を対象に、「コンピュータゲームの利用は1日、平日60分、休日90分までとする」「義務教育修了前は午後9時まで、それ以外は午後10時までに利用を終える」などとしますが、努力義務で、罰則はありません。

「ゲームばっかりしてないで勉強しなさい」と親がいくら言っても、子どもはなかなか言うことを聞かないので、条例の助太刀があればいいという発想でしょう。
WHOが2018年にゲーム依存症を疾病と認定したことで条例がつくりやすくなったと思われます。
しかし、ゲーム依存症はおとなも子どももなります。子どもだけを対象にした条例は理不尽です。

この条例案に対して「家庭のことに行政が介入するな」とか「ゲームをするのは悪くない」という反対の声が上がっています。


私が子どものころは、「テレビばっかり見てないで勉強しなさい」と言われ、おとなたちは子どものテレビ視聴時間を制限しようと躍起でした。
今も昔もおとなのやることは同じです。
実はこの条例案も、最初は「スマートフォン等」の使用を制限するものでした。つまりスマホでネットを見ることも制限しようとしたのです。
これに反発の声が強かったことから「スマートフォン等」から「コンピュータゲーム」に変更されたという経緯があります。

今になって思えば、子どもがテレビを見てどこが悪いのかということになります。
テレビを見なければ、その分勉強時間がふえるというものでもありません。
だらだらすごすよりテレビを見たほうがためになります。
今の子どもがスマホを見たりゲームをしたりするのも同じことです。
ネットを見ると知識が得られますし、ゲームをすると集中力が身につきます。

アルコール依存症や薬物依存症は体に悪く、ギャンブル依存症は財産をなくしますが、ゲーム依存症にはそういう問題はありません(ゲーム課金を抑えればですが)。
ゲームなどは、やる以上は中途半端にやらずにとことんやるべきです。そうすると、やがて飽きがきて、興味が次のことに移っていきます。そのときにとことんやった体験は財産になります。

興味がほかのことに移らず、同じことをやり続けると、それはそれで道が開けます。
藤井聡太七段は5歳で将棋を覚えてはまり、それからやり続けているわけです。

2018年のゲーム市場の規模は1兆6700億円で、出版市場は紙と電子を合わせて1兆5400億円です。
作家はステータスは高いですが、少数の人しかなれません。
ゲーム制作には物語、ビジュアル、音楽などの才能が必要で、クリエイティブな仕事をしたい人は、ゲーム業界を目指すのが現実的です。

2020年度から小学校でプログラミング教育が必修化されます。
eスポーツは世界的に盛り上がっています。
スマホやゲームを規制しようというのは、完全に時代遅れな発想です。


おとなの発想が時代遅れになるのは、ある程度しかたがありません。
ですから、子どもの発想も同時に入れることです。

子どもの権利条約は子どもの意見表明権を規定しています。

第12条
締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。 
このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。 

子どもの意見を聞かずに子どもの行動を規制する条例をつくるのは、子どもの権利条約違反です。

日本では、子どもの意見を聞かずにおとなが勝手に子どものことを決めることが横行しています。
大学入学共通テストに英語民間試験を利用する制度の導入で混乱が生じたのも、受験生の意見をまったく聞かずに制度をつくったからです。
学校では子どもの意見を聞かずに校則をつくるので、おかしなブラック校則がいっぱいできています。

香川県のゲーム規制条例は“ブラック条例”です。

パラサイト


「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督)を観ました。
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞、アカデミー賞では作品賞など6部門でノミネートされている注目作です。

キム・ギテク(ソン・ガンホ)の一家は貧民街の半地下の家に住んでいます。窓のすぐ外で立ち小便する男がいたりと、衛生状態も劣悪です。父親は失業中、息子のギウと娘のギジョンも浪人中で、まったく先が見えません。
そうしたところ、ギウが友人から家庭教師の仕事を紹介されます。紹介された家は有名建築家の建てた豪邸で、父親は金持ちのIT社長、母親は美人、大学受験の娘と小学生の息子がいます。
まったく対照的なふたつの家族の物語です。

ギウは文書を偽造して大学生と偽り、母親の信頼を得て娘の家庭教師になります。そして、小学生の息子が絵を描いているのを見て、妹の経歴を偽らせて、美術の家庭教師として紹介します。ギウとギジョンは家庭教師として金持ちの家に出入りするうちに、あくどいやり方で家政婦と運転手を辞めさせ、代わりに自分の母親と父親を、やはり経歴を偽らせて家政婦と運転手として雇わせます。キムの一家は互いに他人のふりをして、金持ちの一家に入り込んだわけです。
ここまでが前半で、このあと予想外の展開になっていきます。

いろんな出来事が次々と起こって、退屈するということがありません。ずっとジェットコースターに乗っている気分です。詰め込みすぎともいえます。じわじわと盛り上がってクライマックスに至るという物語ではありません。

笑える場面がいっぱいあります。しかし、周りの観客は誰も笑っていませんでした。日本人の映画の観方に問題があるかもしれません。


貧乏一家と金持ち一家を描くことで、おのずと韓国の格差社会があぶりだされます。
ただ、人間の描き方が常識とまったく逆です。
ギウとギジョンは罪もない家政婦と運転手をきたない手を使って追い出します。それに四人全員が経歴を偽っています。
つまり貧乏一家は悪人です。
一方、金持ち一家のほうは、父親も母親も善人で、紳士的な教養人です。子どもも普通に子どもらしくて、“金持ちの子ども”のいやらしさがありません。

だいたいエンターテインメントの物語では、金持ちは高慢で、横柄で、つまり悪人として描かれ、貧乏人は善人として描かれるものです。
この映画は逆ですが、観客は悪人の貧乏一家の側に感情移入して観ることになります。
もちろんそちら側の視点で描かれるからですが、それだけではありません。やはり韓国の格差社会の深刻さが背景にあるからです。

ヤクザ、ギャング、殺し屋、詐欺師などを主人公にした映画はいっぱいありますが、彼らは犯罪はしても弱い者いじめはしません。弱い者いじめをする人間に観客は感情移入することはできないのです。
キム一家は罪もない家政婦と運転手をきたない手で追い出しますが、弱い者いじめにはなりません。キム一家のほうがもっと弱い立場だからです。


格差社会といえば、この前観た「ジョーカー」(トッド・フィリップス監督)はアメリカの格差社会を背景にしていました。
「ジョーカー」はアカデミー賞の11部門にノミネートされていて、今は格差社会を描く映画がトレンドのようです。

しかし、同じ格差社会を描いても「ジョーカー」と「パラサイト」ではかなりの違いがあります。
「ジョーカー」では、格差社会に押しつぶされた主人公が最後は一人で立ち上がります。「パラサイト」では、一貫して家族の絆が描かれます。
また、「ジョーカー」では正義と悪の構図になっていますが、「パラサイト」では善と悪はあっても正義はありません。
このあたりにアメリカと韓国の価値観の違いが出ています。

テレビの「水戸黄門」は、単純な正義と悪の物語でした。出てくる善人はつねに貧乏ですが、これは封建的身分制度の問題ですから、格差社会の問題ではありません。ですから、単純に楽しむことができました。

社会主義思想の物語では、資本家は悪、労働者は善、革命家は正義という図式でした。これを信じれば希望はあります。

「パラサイト」には正義が出てきませんし、格差社会が解決するという希望もありません。
個人が貧乏から成り上がることが唯一の希望ですが、それはあまりにもはかない希望です。

格差社会が深刻化すると、エンターテインメントの映画もむずかしくなってきます。

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JOC(日本オリンピック委員会)は「全員団結プロジェクト」なるものを始めました。上に掲げたのがその理念です。

「全員団結」とは気持ち悪い言葉です。
案の定、このプロジェクトは炎上しています。

中には「ラグビーの『ONE TEAM』はよいのに、この『全員団結』はなぜだめなのか」という意見もありますが、ラグビーは選手の団結を言っているのに、この「全員団結」は選手のことではなく国民のことです。

「全員団結プロジェクト」ホームページには次のように書かれています。

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それぞれが好きな競技や好きな選手を応援しようということならわかりますが、応援するのに団結する意味がわかりません。
「国民が全員団結」して応援しようということは、応援に参加しない人間は許されないということでしょうか。
また、外国人選手を応援することも「国民が全員団結」することに反するので許されないということでしょうか。

JOCは東京都とともに東京大会を主催する中心的な組織です。参加国を平等に扱わなければならない立場のはずです。
日本人の観客が日本人選手ばかり応援することをJOCは目指しているのでしょうか。


「全員団結」というのはパラリンピックの精神に反するのではないかと思ったら、このプロジェクトはオリンピックだけが対象でした。いつも「東京オリンピック・パラリンピック」とくどいくらいに言葉を重ねるのに、ここだけパラリンピックが排除されています。

また、自国選手だけを応援するのはオリンピック精神にも反するはずです。
そう思ってオリンピック憲章を見てみると、やはり「オリンピズムの根本原則」には普遍的な原理ばかりが書かれています。
「国」という言葉が出てくるのは一か所だけで、それも「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、 国あるいは社会的な出身、 財産、 出自やその他の身分などの理由による、 いかなる種類の差別も受けることなく、 確実に享受されなければならない」と、否定的な文脈の中でした。


JOCがオリンピック精神に反するプロジェクトをやっているとは驚きですが、これはやはり安倍政権の意向を受けたものでしょう。
安倍首相は「年頭所感」の冒頭で「いよいよ、東京オリンピック・パラリンピックの年が幕を開けました」と言ったように、オリンピックを政権浮揚に結びつける気が満々です。
このプロジェクトの「スペシャル応援団員」に吉本興業所属のお笑い芸人が何人も加わっていることを見ても、このプロジェクトがJOCというよりも安倍政権主導のものであることを感じさせます。

安倍政権はこういう根本精神がまったくだめです。
カルロス・ゴーン被告がレバノンに逃亡したことについて、森まさこ法務大臣は記者会見で「潔白だというのなら、司法の場で正々堂々と無罪を証明すべきである」と発言し、国際社会から「日本は推定無罪の原則がないのか」と批判されました。
森法務大臣は「無罪の『主張』と言うところを『証明』と言い違えてしまいました」と訂正しましたが、記者会見のあとのツイッターでも「司法の場で正々堂々と無罪を証明すべき」と書いていたので、言い間違いではなく、そう思っていたのです。

JOCの「全員団結プロジェクト」は、森法務大臣の発言と同じぐらいの国辱ものなので、即刻中止したほうがいいでしょう。

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障害者施設で19人が殺害された「やまゆり園事件」の裁判が1月8日から始まりました。
この事件は、植松聖被告が「重度の障害者たちを生かすために莫大な費用がかかっている。安楽死させるべきだ」などと語り、その優生思想とも言える考え方に注目が集まっていました。
判決は3月16日が予定され、26回の公判が行われるということです。

裁判でも被害者の名前は公表されていません。
京アニ事件でも被害者の名前はなかなか公表されませんでしたから、最近の傾向ではありますが、やはり障害者への差別があるからでしょう。

そうした中で、殺害された女性(19歳)の母親が被害者の「美帆」という下の名前を公表しました。
公表したのは「裁判の時に『甲さん』『乙さん』と呼ばれるのは嫌だったから」「美帆の名を覚えていてほしい」という思いからだそうです。
母親は美帆さんの4枚の写真とともに手記を公表しました。

【美帆さんの母の手記】
大好きだった娘に会えなくなって3年が経ちました。時間が経つほどに会いたい思いは強くなるばかりです。会いたくて会いたくて仕方ありません。
 本当に笑顔が素敵でかわいくてしかたがない自慢の娘でした。アンパンマン、トーマス、ミッフィー、ピングー等(など)のキャラクターが大好きでした。
 音楽も好きでよく「いきものがかり」を聞いていました。特に「じょいふる」が好きでポッキーのCMで流れるとリビングの決まった場所でノリノリで踊っていたのが今でも目に浮かびます。
 電車が好きで電車の絵本を持ってきては、指さして「名前を言って」という要求をしていました。よく指さしていたのは、特急スペーシアと京浜東北線でした。
 ジブリのビデオを見るのも好きでした。特にお気に入りは、「魔女の宅急便」と「天空の城ラピュタ」。他のビデオも並べて、順番に見ていました。
 自閉症の人は社会性がないといいますが、娘はきちんと外と家の区別をしていて、大きな音が苦手でしたが、学校ではお姉さん顔をしてがんばっていたようでした。
 外では、大人のお姉さん風でしたが、家では甘ったれの末娘でした。児童寮に入っていた時、一時帰宅すると最初のうちは「帰らない、家にいる」と帰るのを拒否していました。
 写真を見せて「寮に帰るよ」と声かけすると、一応車に乗り寮の駐車場に着くものの車からは出てきません。
 「帰らない」と強く態度で表していました。パニックをおこして大変だったけれどうれしい気持ちもありました。2年くらいは続いていましたが、それ以降は自分で寮で生活するということがわかってきたようで、リュックをしょって泣かずに帰っていくようになりました。親としてはさびしい気持ちもありましたが、お姉さんになったなあといつも思っていました。
 月1くらいで会いに行き、コンビニでおやつと飲み物を買い一緒にお庭で食べるのですが、食べおわると部屋にもどることがわかっていて、食べている間中「歌をうたって」のお願いをされ、よくアンパンマンの「ゆうきりんりん」とちびまる子ちゃんのうた、犬のおまわりさん等、うたっていました。私のうたをBGMにしておやつをおいしそうに食べていました。
 自分の部屋にもどる時も「またね」と手を振ると自分の腰あたりでバイバイと手を振ってくれていました。
 泣きもせず、後おいもせず部屋に戻っていく後ろ姿を見ているとずいぶん大人になったなと思っていました。
 美帆はこうして私がいなくなっても寮でこんなふうに生きていくんだなと思っていました。
 人と仲よくなるのが上手で、人に頼ることも上手でしたので職員さんたちに見守られながら生きていくのだなと思っていました。
(後略)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/news_jp_5e156ecbc5b66361cb5c9f65


愛情の感じられる文章です。
美帆さんは、たぶん“生産性”がなく、社会には役に立たない人間でしょう。
植松被告に言わせると、生きる価値のない人間です。
しかし、母親にとっては価値のある人間です。


優生思想の問題は、人間の価値はなにかという問題でもあります。
売り上げの多いセールスマンは、売り上げの少ないセールスマンより価値があり、早く走る陸上選手は遅く走る陸上選手より価値があり、勉強のできる生徒は勉強のできない生徒よりも価値があるというように、人間はさまざまなモノサシで測られます。
美帆さんは、そういう社会で用いられるモノサシで測ると、なにも価値がないということになるかもしれません。
しかし、母親にとっては価値ある存在です。
母親は「愛」というモノサシで測っているからです。

また、配偶者や恋人が余命3カ月と診断され、ベッドから起き上がれなくなったら、植松被告の思想では、価値のない人間なので、さっさと捨てたほうがいいということになるでしょうが、現実にそんな判断はありえません。配偶者や恋人への愛があるからです。

そういう意味では、愛は人間の価値を測る最後のモノサシです。


人間には「人権」という価値があります。これは誰にも等しくあるとされるので、人間の究極の価値と言えます。
しかし、人権は近代になってからできた概念で、抽象的で、理解しにくい面があります。
これは愛と結びつけると理解しやすくなります。
たとえば、ナチス支配下でユダヤ人を助けた人は、「ユダヤ人にも人権があるから」と思って助けたわけではないでしょう。「あの人がかわいそうだ」という愛情、共感、思いやりなどの感情から助けたはずです。

優生思想は人権思想によって否定されますが、人権思想は愛の裏付けがあって初めて力を持ちます。
「仏つくって魂入れず」という言葉にならって言うと、「人権つくって愛を入れず」になってはいけません。


しかし、今の時代、親の愛も平等にあるわけではありません。親から虐待されて死ぬ子どももいます。
やまゆり園で被害にあった人たちも、誰もが美帆さんのように親から愛されていたとは限らないでしょう。

そうすると、植松被告はどうでしょうか。
社会の役に立たない人間は生きている価値がないという思想を身につけたのは、自分が社会のモノサシでばかり測られて、一度も愛のモノサシで測られたことがなかったからではないでしょうか。

植松被告の父親は小学校の教師で、母親は一時ホラーマンガを描いていたという情報はありますが、それ以外のことはなにもわかりません。

美帆さんの母親は姿を見せましたが、植松被告の両親はまったく姿を見せないところに、この事件のいちばんの闇があります。

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人間に裏表があるのは当たり前です。
しかし、ネットの世界では裏表の区別もつかない人が多いようです。

ドコモショップの店員から「クソ野郎」とののしられたとして怒っている人がいて、それがきっかけで炎上しています。

「親が支払いしてるクソ野郎」 ドコモ代理店の書類に信じられないメモ書き 受け取った本人に話を聞いた
ドコモショップの書類に残されていた信じられないメモ書きがTwitterで拡散されています。「親が支払いしてるから、お金に無トンチャク」「つまりクソ野郎」と利用客を侮辱したうえで、プランの追加を勧めるよう指示が記されています。
編集部では、メモを受け取ったAさんに取材。あわせてNTTドコモ本社にコメントを求めました。

 以下は編集部がAさんに電話取材した内容です。

「場所は機種変更で訪れた千葉県のドコモショップです。その際、店員からプランの変更を勧められ、ホチキスで綴じられた資料を渡されました」

「やりとりの中で店員がPCを操作し始め、手持無沙汰な時間ができました。それなら変更内容を確認しておこうと資料のページをめくったところ、『クソ野郎』などのメモが書かれていたという経緯です。本来は客に見せない紙が紛れ込んでしまったのだと思います」

「『親が支払いしてる』とありましたが、うちは一家で自営業を営んでおり、父親の名義でまとめて支払うと都合がいいというだけの理由です。顧客情報から勝手に事情を推測して、このような指示を出しているのでしょうか。信じられません」

「メモを発見しすぐに責任者を呼びました。納得できる説明を求めましたが、『すみません』とへらへら謝るばかりで、らちがあきませんでした」

「ドコモ本社に報告したいと申し出ましたが、『コールセンターしかありません』と説明され、直通の電話番号などは教えてもらえませんでした。そのコールセンターも、代理店が用意した番号だったので、ちゃんと本社まで話が通っていたかは分かりません」

「Twitterで話題になってから、ようやく代理店よりお詫びのメールが届きました。何度もなかったかのようにだんまりを決め込んでおいて、事が大きくなって初めて連絡してくるのもおかしな話だと思います」

「インターネット回線もドコモ光の契約を検討していましたが、今回の一件で躊躇(ちゅうちょ)してしまいました」
(後略)
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2001/09/news126.html
NTTドコモはこの事実を認めて、「お客様にご不快な思いをさせてしまったことを大変申し訳ないと考えております」と謝罪しています。


要するに客に見せるべきでないメモを見せてしまったことで生じた問題です。
メモを客に見せたのは店のミスです。
「クソ野郎」などと書いたのはよくありませんが、客が見なければどうでもいいことでした。

客の側も、これが純然たる私的なメモなら、目にしても読まないのがマナーですが、自分のことが書かれているのですから、読むのは当然です。
そこに「クソ野郎」などと書かれていれば、腹が立つのも当然です。
で、文句を言いたくなるのも当然ですが、ここが考えどころでした。

自分は本来読むべきでないものを読んだので、それほど堂々と文句を言える立場ではありません。
それに、文句を言って謝罪させたところで、なにか得をするわけではありません。この人はコールセンターに電話して文句を言ったようですが、まったくの時間のむだです。

店の対応が悪い場合、クレームをつけることで店の対応が改善されることが期待でき、少しは世のため人のためになります。
ところが、この場合は店の対応が悪いわけではないので、クレームをつけてもなにも改善しません。

要するにこれは、人のひそひそ話がたまたま耳に入ってきて、自分の悪口を言っていたので、怒って謝罪を要求したというのと同じです。
そこは、聞いて聞かないふりをするのがおとなというものです。



ただ、この人が腹を立てたのはわかります。
問題は、この人に便乗してネットで炎上させた人たちです。
店の人やドコモを攻撃し、店長の名前や写真をネットにさらしたりしています。
これは世のため人のためにならないばかりか、むしろ逆です。
NTTドコモは「全店舗に対して今まで以上に指導徹底し、再発防止に努めてまいります」と表明していますが、店員同士がやり取りするメモまで監視されるようになると、働きにくくなります(監視する手間もむだです)。
この店員は、「この客は親が料金を払っているので、高いプランを勧めてもうまくいくかもしれない」という業務連絡のメモを書くのに、それだけではつまらないので、「クソ野郎」という言葉を入れたわけです。誰にも迷惑をかけずに、つまらない仕事を少しでもおもしろくしようという工夫です。


いわゆる「バイトテロ」も同じ構図です。
若いバイト店員が悪ふざけをして、SNSに動画や写真をアップして仲間内で楽しんでいると、それを拡散して、攻撃する人が出てくるわけです。バイト店員の悪ふざけは個人的な行為ですし、隠れてやっている限り問題はありません(若者が悪ふざけをするのは自然な姿です)。それを拡散させて攻撃するほうに問題があります。

ところが、拡散させて攻撃するほうは圧倒的多数派で、攻撃されるほうは個人です。そうすると、多数派のほうが正義だという世論が形成されます。


人間に裏表があるのは当たり前で、たまたま裏を見て、「表と違う」と怒るのは愚かです。
こういう問題は、多数派に影響されずに、各個人がしっかりとした倫理の軸をもって判断することがたいせつです。

ただ、最近は炎上させる側を「正義マン」とか「道徳警察」という言葉で批判する傾向も出てきました。
私自身は「道徳という棍棒を持ったサル」という言葉を使っています。

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米軍によるソレイマニ司令官殺害は、どう見ても無法行為です。
アメリカはソレイマニ司令官をテロリストに指定していましたが、勝手に指定して、勝手に殺しただけです。
イラン国会はこの事件を受けて、すべての米軍をテロリストに指定する法案を可決しました。
無法の世界がどんどん拡大しています。

無法の世界といえば、西部劇がそうです。
私の世代は西部劇を見て育ったようなものです。子どものころ、映画はもちろんテレビでもアメリカ製の西部劇のドラマをいっぱいやっていました。

西部劇では、保安官は登場しても重要な役割は果たさず、主人公は自分の力で悪漢(あるいはインディアン)を倒さなければなりません。
法より力――というのが西部劇の基本原理です。

現在のアメリカは法の支配が行われていますが、銃を所持する権利も絶対視されています。法の支配は表面的なもので、一皮めくれば「法より力」の原理が現れます。

トランプ政権は2017年12月、安全保障政策のもっとも基本となる「国家安全保障戦略」を発表しましたが、その「四本柱」は次のようなものです。

I. 国土と国民、米国の生活様式を守る 
II. 米国の繁栄を促進する 
III. 力による平和を維持する 
IV. 米国の影響力を向上する
https://jp.usembassy.gov/ja/national-security-strategy-factsheet-ja/

「法の支配」も「世界」もありません。「アメリカ・ファースト」があるだけです。
「力による平和」は、銃で自分の身を守るという西部劇の原理です。

今のアメリカは法の支配が行き渡り、腰に銃をぶら下げていなくても警察が守ってくれますが、アメリカ人にとってフロンティアは世界に拡大し、アメリカ国外が西部劇の世界になりました。
世界に法の支配を広げるのではなく無法状態を広げるのがアメリカのやり方です。無法の世界では力のある者が得をするからです。

よくアメリカのことを「世界の警察官」にたとえますが、警察官なら法に従います。
今のアメリカをたとえるなら「自警団のボス」か「ギャングのボス」というべきです。

しかし、長い目で見れば今の無法の国際社会は過渡期で、いずれ法の支配が行き渡るに違いありません。

今の日本は「自警団のボス」に従っていますが、いつまでもこの状況は続きませんから、自分の手を汚さないようにしないといけません。


アメリカはソレイマニ司令官を殺害し、イランは米軍基地に弾道ミサイルで報復攻撃をしましたが、今のところアメリカもイランも抑制された対応をしているようです。
これはなぜかというと、「法の支配」はなくても「経済の支配」があるからです。
ソレイマニ司令官殺害の瞬間に株価は下がり、原油価格は上がりました。本格的な戦争になれば双方に大きな経済的損失が生じるのは目に見えています。

平和は「法の支配」でなく「経済の支配」でも達成できるのかもしれません。

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Photo by Jordy Meow on Unsplash

トランプ大統領の指令によりアメリカ軍はイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を空爆で殺害しました。
これはなんと言えばいいのでしょうか。暗殺でしょうか。それとも殺人でしょうか。

アメリカ国務省高官は「1942年にヤマモトを撃墜したようなものだ」と語りました(正しくは1943年)。
ウォール・ストリート・ジャーナルも「トランプの合法的な権限」という題名の社説で、山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機撃墜になぞらえて、ソレイマニ司令官殺害の正当性を主張しました。
アメリカのシンクタンク、ブルッキングス研究所のシニアフェロー、 マイケル・オハンロン氏も「ソレイマニ司令官殺害は、民間人指導者への攻撃より、山本五十六元帥の搭乗機撃墜により類似している」と述べました。
ソレイマニ司令官殺害を山本長官機撃墜になぞらえる発言が続々です。

しかし、当時の日米は戦争をしていましたが、今のアメリカとイランは戦争をしているわけではないので、状況がまったく違います。
ソレイマニ司令官が殺害されたのはイラクのバクダッド国際空港の近くで、車に同乗していたイラクのイスラム教シーア派武装組織の司令官らも死亡したとされます。
空港の近くですから、イラクに潜入して軍事作戦の指揮をとっていたわけではなく、イラク政府と交渉するなどの途中だったのでしょう。
イラク国内では、アメリカ軍によるソレイマニ司令官殺害はイラクの主権の侵害だという声が上がっています。

ソレイマニ司令官殺害を山本五十六長官殺害になぞらえるのは不適切ですが、ソレイマニ司令官は国民的人気があって、それは山本長官に似ています。
ソレイマニ司令官の葬儀には数十万の人が集まって通りを埋め尽くしました。
スクリーンショット (11)

アメリカとイランの間に報復の連鎖が起こるかもしれません。

アメリカ政府関係者もまずいことをやったと思っているのでしょう。
そのためソレイマニ司令官殺害を正当化しようとして、いろいろ語っています。
アメリカ政府は2007年にソレイマニ司令官をテロリストと認定して経済金融制裁の対象にしてきましたが、今回アメリカ米国務省は「ガセム・ソレイマニは、イラクで米軍人少なくとも603人を殺害し、数千人に障害を負わせた責任がある」とツイートしました。
ペンス副大統領は「ソレイマニ司令官は2001年9月11日の米同時多発攻撃の実行犯を支援していた」とツイートしましたが、これについてはアメリカのメディアに「米同時多発攻撃に関する独立調査委員会の585ページにわたる報告書にソレイマニ司令官の名前はない」と反論されています。
そして、さらに山本長官の名前を持ち出したというわけです。
そうすると山本長官はテロリストだということになります。

日本人からしたら、山本長官がテロリストだとは考えもつかないことです。
しかし、山本長官は真珠湾攻撃の発案者であって、その実行責任者でもあります。
アメリカ人の感覚では真珠湾攻撃はテロと同じということかもしれません。
そして、アメリカ人にとっては当時の日本はテロ国家なので、戦後、国家の指導者を処刑したのも当然ということなのでしょう。
しかし、真珠湾攻撃はあくまで軍事行動で、しかも軍事施設を標的としたものなので、山本長官をテロリストと見るのは、やはり間違いです。



日本政府は、ソレイマニ司令官殺害に関してなんのコメントもしていません。
政府機関は正月休みですが、政治家は対応できるはずです。
安倍首相は1月4日、ゴルフをしていましたが、ゴルフ場で記者団に中東情勢について聞かれ、「今月、諸般の情勢が許せば中東を訪問する準備を進めたいと思っている」とだけ言って、ソレイマニ司令官殺害についてはなにも語りませんでした。
ありきたりですが、アメリカとイランの双方に自制を呼びかけるぐらいはするべきです。


イラクの議会は、イラク国内でソレイマニ司令官が殺害されたことに反発して5日、外国軍の撤退を求める決議を採択しました。するとトランプ大統領はイラクに対し「これまで米軍駐留に払った数十億ドルを返還しなければ、未曾有の経済制裁をする」とツイートしたということで、わけのわからない状況になっています。

こういう状況では安倍首相はますます発言することができないでしょう(安倍首相のメンタリティではできないという意味です。もちろん発言するべきです)。

そもそもは中東に米軍が存在していることが間違いです。
よく国際政治学者は「米軍が撤退すると力の空白が生じる」と言いますが、もともとその地域には各国の軍隊が存在していたのですから、「空白」にはなりません。米軍駐留によって「二重軍事力」の状態になっていたのが正常化されるだけです。

安倍首相に限らず多くの日本人はこういう根本問題について考えるのが苦手ですし、国際政治の世界で発言するのも苦手です。
とりあえずアメリカに対して「山本長官はテロリストではない」と発言することから始めるべきでしょう。
これは日本の名誉のためだけではなく、アメリカにソレイマニ司令官殺害がただの犯罪行為であることを自覚させ、世界平和に貢献することにつながります。

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明けましておめでとうございます。
今年もこのブログをよろしくお願いします。

今年の日本はどうなるかと考えてみましたが、あまりいい見通しがありません。
安倍長期政権が完全に行き詰まっているからです。
安倍首相自身はこの状況をどう考えているのでしょうか。
安倍首相の「年頭所感」を読んでみました。

安倍内閣総理大臣 令和2年 年頭所感
新年あけましておめでとうございます。

 いよいよ、東京オリンピック・パラリンピックの年が幕を開けました。

 1964年、10歳の時に見た東京五輪は、今も、私の瞼に焼き付いています。身体の大きな外国選手たちに全く引けをとらない日本人選手の大活躍は、子どもたちに、未来への希望を与えてくれました。

 「人間、夢があるからこそ成長できる。
      いつの時代も『夢見る力』が大切なんです。」

 東京五輪、重量挙げ金メダリスト、三宅義信選手の言葉です。

 半世紀を経て日本に再びやってくるオリンピック・パラリンピックも、子どもたちが未来に向かって、夢を見ることができる。わくわくするような、すばらしい大会にしたいと考えています。

 昨年、ほぼ200年ぶりの皇位継承が行われ、令和の新しい時代がスタートしました。オリンピック・パラリンピックを経て、5年後には、大阪・関西万博。

 未来への躍動感があふれている今こそ、新しい時代に向けた国づくりを力強く進める時です。

 3歳から5歳まで、全ての子どもたちの幼児教育が無償化されました。この春からは、真に必要な子どもたちの高等教育の無償化が始まります。未来を担う子どもたちの未来に、大胆に投資していきます。

 人生100年時代の到来は、大きなチャンスです。働き方改革を進め、女性も男性も、若者もお年寄りも、障害や難病のある方も、誰もが活躍できる一億総活躍社会をつくりあげていく。

 全ての世代が安心できる社会保障制度へと改革を進め、最大の課題である少子高齢化に真正面から挑戦していきます。

 我が国の美しい海、領土、領空は、しっかりと守り抜いていく。従来の発想に捉われることなく、安全保障政策の不断の見直しを進めます。激動する国際情勢の荒波に立ち向かい、地球儀を俯瞰しながら、新しい日本外交の地平を切り拓いてまいります。

 未来をしっかりと見据えながら、この国のかたちに関わる大きな改革を進めていく。その先にあるのが、憲法改正です。令和2年の年頭に当たり、新しい時代の国づくりへの決意を新たにしています。

 安倍内閣に対する国民の皆様の一層の御理解と御協力をお願いいたします。本年が、皆様一人ひとりにとって、実り多き、すばらしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

令和二年一月一日
内閣総理大臣 安倍 晋三
https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0101nentou.html

全編が“ポエム”になっています。
ポエムというと小泉進次郎環境相が有名ですが、安倍首相はそれ以上かもしれません。
要するに中身がないので、言葉で飾るしかないのです。
「対米従属」を「日米は完全に一致」と言い換えたり、モリカケ問題や桜を見る会問題で嘘をついたりしているうちに、言葉で飾る能力が発達したようです。

なにかをやろうという意欲が感じられません。改憲に言及していますが、言葉だけです。
まったく空っぽでは具合が悪いので、東京オリンピック・パラリンピックを前面に打ち出して、格好をつけています。
日本政府があまり前面に出るとスポーツの政治利用になりますが、安倍首相はリオデジャネイロ・オリンピックの閉会式にもスーパーマリオの格好をしてサプライズ登場したくらいですから、当時から利用する気満々でした。


事実の誤認もあります。
安倍首相は1964年の東京オリンピックについて、「身体の大きな外国選手たちに全く引けをとらない日本人選手の大活躍」と言いましたが、そんなわけはありません。日本人選手が活躍したのは、ほとんどが体重別階級のある種目です。

1964年の東京オリンピックで日本人選手が活躍した種目は、体操、レスリング、柔道、ウエイトリフティング、バレーボールといったところです。
レスリング、柔道、ウエイトリフティングはもちろん体重別です。体操は体重別ではありませんが、相対して戦うわけではないので、身体の大きさはほとんど関係ない種目です。
そうすると、身体の大きな外国人選手に引けをとらずによく戦ったと言えるのはバレーボールだけです。
バレーボール以外の球技はまったくだめでしたし、陸上、水泳は各銅メダル一個でした。

逆に、柔道無差別級で日本人選手がオランダのアントン・ヘーシンク選手に敗れるというショックな出来事がありました。
当時、日本人の身体は今よりかなり小さくて、それは日本人のコンプレックスでしたが、「柔よく剛を制す」「相手の力を利用して勝つ」という柔道は日本人にとって精神的なよりどころでした。それが体の大きな外人選手に日本人選手が負けたので、日本人はみなパニック状態になるほどのショックを受けました。

ですから、安倍首相が「身体の大きな外国選手たちに全く引けをとらない日本人選手の大活躍は、子どもたちに、未来への希望を与えてくれました」と言ったのは、事実に反します。
ただ、バレーボール、とくに女子バレーは例外でした。安倍首相は女子バレーのことを言っているのかもしれません。

金メダルを取った女子バレーチームを率いた大松博文監督は、猛烈なスパルタ式指導で、体の小さかった日本人選手のチームを世界一にしました。大松監督は大人気になり、著書はベストセラーになって映画化もされました。のちには自民党の参議院議員にもなっています。
大松監督のスパルタ式指導、根性主義、精神主義は、日本のスポーツ界にひとつの流れをつくりました。
しかし、「身体の小ささを精神主義で補う」というやり方がうまくいくのは一時的現象です。日本のバレーボール界も結局長身の選手をそろえています。

大松監督は大河ドラマの「いだてん」にも登場しました。安倍首相(かスピーチライター)はそれを見て、年頭所感に取り入れたのでしょう。
しかし、大松監督のやり方は完全なパワハラで、今の時代にはまったく合いません。
やはりスポーツは精神主義ではなく合理主義でなければなりません。


精神主義にも存在理由はあります。昔、日本軍がアメリカ軍に対したとき、力の差を補うために精神主義を用いるしかありませんでした。それが戦後も惰性となって続き、とくにスポーツ界に生き残りました(大松監督はインパール作戦の生き残りでもあります)。
そして、安倍首相の頭の中にも生き残っているようです。

安倍首相のポエムは、内容のなさをごまかすためと、あと戦前的な精神主義からもきていると思われます。



安倍首相のポエムだけでは後味が悪いので、最後に天皇陛下の年頭の「ご感想」を張っておきます。

天皇陛下のご感想(新年に当たり)
令和2年 
上皇陛下の御退位を受け,昨年5月に即位して以来,国民の幸せを願いながら日々の務めを果たし,今日まで過ごしてきました。即位関係の諸行事を無事に終えることができ,安堵するとともに,国内外の多くの方々とお会いし,折々に温かい祝福を頂く機会も多かったこの1年は,私にとっても皇后にとっても誠に感慨深いものでした。
その一方で,昨年も台風や大雨により,多くの尊い命が失われたことに心が痛みます。寒さも厳しい折,住まいを失い,いまだ御苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じております。本年は、災害がない1年となることを祈ります。
新しい年が,日本と世界の人々にとって幸せな年となることを心より願いつつ,務めを果たしていきたいと考えています。
https://www.kunaicho.go.jp/page/gokanso/show/3

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