村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2020年02月

安倍首相
新型コロナウイルス感染症対策本部 令和2年2月27日(首相官邸ホームページより)

2月26日ごろからスーパーや薬局の店頭にトイレットペーパーがなくなりました。
オイルショックのときにトイレットペーパーがなくなりましたが、そのときの記憶で、パニックになると条件反射でトイレットペーパーを買ってしまう人がいるのでしょうか。

今回はSNS上のデマが原因のようですが、そういうデマにひっかかるのはやはり不安心理があるからです。
どうして不安心理があるかというと、どう考えても安倍首相のせいです。

政府は2月25日、新型コロナウイルス対策本部の会合を開き、「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針 」を発表しました。
この基本方針には、緊急の対策などはなにもなく「イベント等の開催について、現時点で全国一律の自粛 要請を行うものではない」となっていました。
これまで安倍首相はウイルス対策について、閣僚に対して「先手先手の対応」を指示し、「きちっとやっている。世界保健機関(WHO)も評価している」と自画自賛して「やってる感」を演出してきましたから、その流れを受けたものです。

ところが、基本方針を出した翌日に安倍首相は、全国的なスポーツ・文化イベントの開催を自粛するよう要請しました。
一夜にして基本方針を反故にしたのです。
そして、その翌日に、全国の小中高の臨時休校を要請しました。

一国のリーダーにまったく定見がないことを見た人が不安になって、トイレットペーパー騒動が起きたのかと思われます。


とはいえ、小中高の一斉休校を思い切った決断であるとして支持する声もあります。
確かに思い切った決断ではありますが、実効性はあるでしょうか。

これを書いている時点で、新型コロナウイルス感染者が出ているのは23都道府県ですから、24県では一人も感染者が出ていないことになります。感染者の確認されていないところで一斉休校するのはほとんど無意味です。
それに、文部科学省は2月25日に通達を出し、感染した児童や生徒がいた場合は、臨時休校をすみやかに行い、さらに地域全体の感染を抑えるため感染者のいない学校も積極的に臨時休校することも考えられるとしました。
つまり各地域や各学校が自主的に休校できる体制を整えていたのです。
安倍首相の一斉休校要請がいっそう無意味であることがわかります。


感染拡大を防ぐ実効性のある対策は、多くの人が集まって濃厚接触する場面をつくらないようにすることです。
そのためにすでにイベントや会合の自粛要請がされています。
あと、人が濃厚接触する場面といえば、満員電車を初めとする通勤通学の人混みです。
通勤時の混雑緩和のために、時差出勤やテレワークが推奨されていますが、まだ十分とはいえません。
ですから、今するべきことは、通勤時の混雑緩和です。
単純化していうと、「満員電車をなくす」ことです。

北海道の鈴木直道知事は「緊急事態宣言」を出して、この週末の外出を控えるよう道民に呼びかけました。
しかし、週末だけ外出を控えても、週明けから通勤のために満員電車に乗るのでは、あまり意味がありません。
とはいえ、知事が企業に対して休業要請をするのはむりでしょう。

ここは安倍首相の出番です。
安倍首相がもし実効性のある対策をしたいのなら、大都市圏の企業に対して休業要請をするべきです。
一斉休業の必要はなく、地域の半分の企業が休むというような計画休業でいいわけです。
もっとも、それでも休業補償をどうするかという問題がありますし、経済にも大打撃です。


そこまでする必要があるのかというと、たぶんないでしょう。少なくともしばらく様子見でいいのではないかと思います。

ただ、安倍首相としてはどうしても東京オリンピックを開催したいはずで、そのためには5月中には終息宣言を出さねばならず、実効性のあることはなんでもやるというなら、企業に休業要請をするしかないと思います。

考えてみれば、小中高の一斉休校は大して経済的打撃にならないので、安倍首相としては「やってる感」を出すのに都合がよかったのでしょう。

国民のことより政権維持を優先させる安倍首相は、今や百害あって一利なしの存在です。

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日本政府の新型コロナウイルス対策を見ていると、世界のどこの国よりもだめな気がします。
どうしてこんなにだめなのでしょうか。

政府は2月25日、新型コロナウイルス対策本部を開き、対策の基本方針を決定しました。

「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針 」

この基本方針には具体策がなにもありません。
外出の自粛や時差出勤を呼びかけていますが、政府はその基準を示さず、判断は国民にゆだねています。

これはどういうことかというと、厚生労働省にまったく危機感がないのです。
そのことは「ゴジラのせき」発言からもうかがえます。

厚労省幹部「ゴジラのせき」 感染者受け入れ説明会での発言に住民は不快感
 クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の新型コロナウイルス感染者らを受け入れた愛知県岡崎市での住民説明会で、厚生労働省東海北陸厚生局の金井要局長が「ゴジラ」のような大きなせきをする人がいない限り感染しないとの発言をしていたことが分かった。加藤勝信厚労相は20日の衆院予算委員会で「住民が不安を抱えながら来ている説明会で全く不適切な対応。至らない発言だった。状況を把握した上で対応する」と陳謝した。
 国民民主党の大西健介氏は「住民の皆さんに失礼かつ、あまりに緊張感のない発言だ」と処分を求めた。加藤氏は処分には言及しなかった。大西氏によると、金井氏は説明会で「飛沫感染だ。直接触らないと感染しない。めちゃくちゃ離れてまで飛ばすほど大きなせきをする人はいない。ゴジラでもなければ」と発言。「最後はジョークです。笑っていただいてよろしいんですが」と付け加えた。「笑えない」と不快感を示す住民もいたという。
https://www.sanspo.com/geino/news/20200220/sot20022016500014-n1.html
 加藤勝信厚生労働相は25日の記者会見で、「ゴジラのせき」発言をした金井要局長を「厳重注意」したと明らかにしましたが、これは処分ともいえません。

「ゴジラのせき」発言はそれほどマスコミに取り上げられませんでしたが、むしろ今の事態を理解するキーワードではないかと思います。

この発言は、金井局長個人のものというより、厚生労働省全体の気分を表現したものでしょう。
新型コロナウイルスの感染力はきわめて低いというのが彼らの認識です。
さらに、感染しても高齢者や持病のある人以外はそれほど重症化せず、個人の免疫力で十分に治癒するという認識もあるでしょう。
厚労省全体がそういう認識だとすると、これまで厚労省のやってきたことが全部理解できます。


ダイヤモンド・プリンセス号内がレッドゾーン、グリーンゾーンの区分けができておらず、隔離がでたらめだということが岩田健太郎教授によって指摘されましたが、新型コロナウイルスの感染力が弱いという認識であれば、それでもいいわけです。
多くの乗客を下船させて、公共交通機関を使って帰宅していいという指示を出したのも、新型コロナウイルスの感染力を軽視しているからです。

ダイヤモンド・プリンセス号に乗り込んで作業していた厚労省職員が、ウイルス検査を受けずに職場復帰していたという事実も明らかになりました。なぜ検査しないかというと、「検査して陽性者が出ると業務に影響するから」という理由です。
こんなおかしな理由はないということで批判が高まり、結局、加藤厚労相は22日、作業に当たった41人を対象に検査を実施すると発表しました。
検査をしなかったのも、感染力が弱いという認識だからです。それに、職員は壮年で健康体ですから、肺炎が発症しても大したことはないという認識もあったでしょう。
検査して一人でも陽性者が出ると、その濃厚接触者も隔離しなければならないので、確かに業務に影響します。

ダイヤモンド・プリンセス号に乗り込んだ医師や看護師については、検査せずに職場復帰するという方針のままです。これも感染力や肺炎の症状を軽く見ているからでしょう。

検査しないのは、国内での感染者の数を少なく見せかけるためだという説もあります。確かにそういう面もあるかもしれませんが、厚労省職員の検査もしないというのは、やはり新型コロナウイルスを軽視しているからでしょう。

また、中国から国立感染症研究所に対して1万2500人分のPCR検査キットが無償提供され、性能的にも問題ないと同研究所から厚労省に報告されているのに、いまだに活用されていません。加藤厚労相は25日の答弁で「もともとある供給力と調整していきたい」などと意味不明のことを言っています。
https://lite-ra.com/2020/02/post-5276_2.html



こうしたおかしな対応について、私は「新型コロナウイルスより怖い“嘘ウイルス”」という記事を書いて、安倍政権は「ダイヤモンド・プリンセス号の隔離はうまくいった」という“大本営発表”をしたために、自分のついた嘘を信じ込んでしまったのではないかという考えを述べました。
この考えは、事態が政治主導で動いているという前提でした。
しかし、現場を動かしているのは厚労省です。
今の事態は政治家と官僚の合作と見るべきでしょう。

厚労省の官僚は専門家集団としてのドグマにとらわれて、新型コロナウイルスの脅威が認識できていないのでしょう。
ここで思い出されるのが、東日本大震災における原発事故です。あのとき経産省、原子力安全・保安院、東京電力は“原発安全神話”に縛られていて、まったくまともな対応ができませんでした。
今の厚労省の官僚は“感染症安全神話”に縛られているのです。

なお、原発事故のときの菅直人首相は、原子力安全・保安院や東京電力がまったく無能なことをすぐに見抜き、個人的なつてで専門家の意見を聞いて、独自の判断で対応しました。もしこれが民主党政権でなく自民党政権だったとしたら、経産省、原子力安全・保安院、東京電力は自民党が育てた組織ですから、彼らの判断を疑うことができなくて、悲惨な結果を招いていたのではないかと私は思っています。

今、安倍政権は“感染症安全神話”に縛られた厚労省の判断を疑うことなく、それに丸乗っかりしています。
安倍政権がまともな新型コロナウイルス対策を出せないのは当然です。

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ダイヤモンド・プリンセス号の乗客乗員から多数の新型コロナウイルス感染者が出たのは驚きでしたが、14日間たったということで、陰性の判定が出た乗客がどんどん下船して国内に散っていたのはさらに驚きでした。

肺炎はもともと恐ろしい病気で、日本では2018年に9万4千人余りが肺炎で死亡しています。そこに新型コロナウイルスで死亡する人が新たに加わっても、それほど恐れることはないということを、少し前に「新型肺炎で日本人はみな視野狭窄に」という記事に書きました。
その考えは基本的に変わりませんが、日本政府の対応のまずさは想定外でした。


ダイヤモンド・プリンセス号内で感染がどんどん広がっていくのを見て、私は各船室が空調のダクトでつながっているのではないかと考えたりしました。そんなことでもなければ説明がつきません。
そうしたところ、感染症の専門家である岩田健太郎神戸大学教授がダイヤモンド・プリンセス号の船内に入って、その実態をYouTubeに動画で投稿し、「エボラのときのアフリカやSARSのときの中国よりひどい」「グリーン(ゾーン)もレッド(ゾーン)もグチャグチャになっていて、どこが危なくてどこが危なくないのかまったく区別かつかない」「検疫所の方と一緒に歩いていて、ヒュッと患者さんとすれ違ったりするわけです。『あ!いま、患者さんとすれ違っちゃう!』と、笑顔で検疫所の職員が言っている」「訊いたら、そもそも常駐してるプロの感染対策の専門家が一人もいない」などと語り、やっと納得がいきました。


問題は、このあとです。
政府は対策の不備を認めて、改善に努めるという方向に行くのではなく、岩田教授の主張を否定する方向に行きました。
橋本岳厚労副大臣は、岩田教授がグリーンゾーンとレッドゾーンが区別されていないと言ったのを否定するために、「不潔コース」と「清潔コース」という表示のある船内写真をツイッターに投稿し(すぐに削除)、菅官房長官は「船内管理は専門家が常駐し、ゾーニング(区画設定)も行っていた。隔離は有効に行われた」と、やはり岩田教授の主張を否定しました。

これまで安倍政権は、モリカケ問題でも桜を見る会問題でも、徹底して嘘をつき通すという作戦でやってきました。
それが成功体験になって、ますます嘘や印象操作に力を入れるようになっています。
ダイヤモンド・プリンセス号の問題でも嘘をつき通すという作戦に出ました。
そうして嘘をついているうちに、自分で嘘をほんとうのことと思ってしまったようです。


こういうことはときどきあります。大本営発表を軍部が信じてしまうこともありました。
1944年10月、いわゆる台湾沖航空戦において大本営は敵空母11隻撃沈、敵戦艦2隻撃沈などの“大戦果”を発表し、国民は歓喜にわき返りました。これはまるっきりの嘘ではなく、未熟な飛行士が悪天候下で戦果を過大評価して報告し、それを単純に足し算して、海軍自身が事実と思い込んだのです。ただ、数日後に無傷の敵艦隊が発見されて、間違いとわかりました。しかし、海軍はそのことを陸軍に知らせず、そのため陸軍は勝利のチャンスととらえて、フィリピンのルソン島に陣地を築いて米軍を待ち構える作戦から、軍をレイテ島に移して米軍の上陸を迎え撃つ作戦に転じましたが、移動中の船が米軍に沈められ、助かった兵士も装備も兵器もない状態で、まともに戦うこともできずに大敗を喫しました。


ともかく、安倍政権は、ダイヤモンド・プリンセス号内ではゾーニングができて正しい隔離がされていたという“大本営発表”をしたために、それに合わせて乗客を下船させました。
チャーター機で乗客を帰国させたアメリカ、オーストラリア、カナダ、イスラエル、香港などでは、帰国してから2週間の隔離期間を設けていて、対応がまったく違います。
現にアメリカ、カナダ、オーストラリア、イスラエルなどの帰国した乗客の中から陽性反応を示す人が出ています。
日本でも、19日に下船して栃木県の自宅に戻った60代女性が発熱し陽性と判定されたという報道がありました。
安倍政権は、自分がついた嘘にだまされて感染を拡大させているのです。

なお、ダイヤモンド・プリンセス号にはこれまで90人を越える厚生労働省の職員が入って作業してきて、その中から4人の感染者が出ています。しかし、それ以外の者はウイルスの検査をせずに職場復帰しているそうです。
これも感染拡大につながります。


感染拡大が防げないと、東京オリンピック中止が現実味を帯びてきます。安倍政権はそれだけは阻止したいようです。
しかし、感染拡大防止のために適切な手を打つという方向には行かず、印象操作ないしは自己満足のほうに行っています。

新型肺炎対応「WHOも評価」 安倍首相
 安倍晋三首相は21日夜、自民党の稲田朋美幹事長代行、山口泰明組織運動本部長らと東京都内の中国料理店で会食した。
 新型コロナウイルスの感染拡大への対応に関し、首相は「きちっとやっている。世界保健機関(WHO)も評価している」と強調した。会食後、山口氏が記者団に明らかにした。 
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200221-00000166-jij-pol
今「きちっとやっている」という認識ですから、これ以上のことをやろうとしないのは当然です。
菅官房長官も同じです。

官房長官 東京五輪パラ「準備を着実に進めたい」 
菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、東京オリンピック・パラリンピックについて「IOC=国際オリンピック委員会からは『新型コロナウイルス感染症に関して日本は適切に対応しているという信頼感を抱いている』という評価をもらっている。政府としても、IOC、組織委員会、東京都との間で緊密に連携を取りながら、アスリートにとって安心安全な大会となるよう準備を着実に進めていきたい」と述べました。
(後略)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200221/k10012295041000.html
人間はひとつ嘘をつくと、それと辻褄を合わせるためにさらに嘘をつかねばならなくなります。安倍政権はあまりにもたくさんの嘘をついたために、安倍首相や菅官房長官の頭のキャパシティは嘘を維持することでいっぱいになってしまって、新型コロナウイルス対策について考えることができなくなっているのかもしれません。


厚生労働省は20日に、イベントの開催について「現時点で政府として一律の自粛要請を行うものではありません」という発表をしました。
もしイベント開催の自粛要請をすると、最大のイベントである東京オリンピックも自粛しなければならなくなることを恐れたのでしょう。
しかし、イベントを自粛しないと感染が拡大し、結果的にオリンピック開催が不可能になりかねません。
つまりここでも感染拡大を推進するようなことをやっています。

真の脅威は、新型コロナウイルスよりも嘘と印象操作ばかりの安倍政権です。

ピンクシャツデー


2月26日はピンクシャツデーです。

ピンクシャツデーというのは、ピンクのシャツやピンク色のものを身につけることで「いじめ反対」の意思表示をする日で、毎年2月の最終水曜日に行われます。
カナダから始まり、今は世界数十か国に広がっているそうです。

ある実際の出来事がきっかけとなってこの運動は始まりました。どんな出来事だったのか、「日本ピンクシャツデー公式サイト」から引用します。


舞台は2007年、カナダ・ノバスコシア州のハイスクールです。9年生(中学3年生)の男子生徒がピンク色のポロシャツを着て登校したことをきっかけに、ホモセクシャルだとからかわれ暴行を受け、たえきれずに帰宅してしまいました。その出来事を聞いた上級生のデイヴィッド氏とトラヴィス氏。12年生(高校3年生)の彼らにとっては、その学校で過ごす最後の年でした。

「いじめなんて、もう、うんざりだ!」「アクションを起こそう!」

そう思ったふたりは、その日の放課後、ディスカウントストアへ行き75枚(∗)のピンク色のシャツやタンクトップを買いこみました。そしてその夜、学校のBBS掲示板やメール等を通じてクラスメートたちに呼びかけました。

「明日、一緒に学校でピンクシャツを着よう」と。

翌朝、ふたりはピンク色のシャツやタンクトップを入れたビニール袋を手に登校しました。学校について校門で配りはじめようとしたふたりの目に映った光景・・・

それはピンクシャツを着た生徒たちが次々と登校してくる姿でした。ピンクシャツが用意できなかった生徒たちは、リストバンドやリボンなど、ピンク色の小物を身につけて登校してきました。頭から爪先まで、全身にピンク色をまとった生徒もいました。

ふたりの意思は一夜のうちに広まっていたのです。

ふたりが呼びかけた人数より遥か多く、数百人もの生徒たちがピンクシャツやピンク色のものを身につけ登校してきたことで、その日、学校中がピンク色に染まりました。いじめられた生徒は、ピンク色を身につけた生徒たちであふれる学校の様子を見て、肩の荷がおりたような安堵の表情を浮かべていたそうです。以来、その学校でいじめを聞くことはなくなりました。

このことが地元メディアで取り上げられると、またたくまにカナダ全土に広がり、さらに世界に広がったというわけです。

いい話です。ちょっと感動的です。

しかし、疑問も感じます。
ピンク色のポロシャツを着た男子生徒をいじめた生徒たちはどうなったのでしょうか。なにも書いてありません。
いじめっ子へのケアがなければ、いじめ防止は成功しないのではないかと思います(あるいは罰するとか排除するとかいう考え方もあるでしょう)。

それから思ったのは、学校でのいじめは日本だけでなく世界的な問題なのだなということです。
ということは、教育制度や学校制度と深く結びついているわけです。
ピンクシャツデーのようなことで防止できるとは思えません。


日本で学校のいじめが問題になるとよく「いじめは社会のどこにでもある」という声が出ます。
確かにいじめは社会のどこにでもあるでしょうが、学校のいじめと社会のいじめでは件数や深刻さがまったく違います。

学校でのいじめ件数は調査されてわかりますが(2018年度の小中高のいじめ件数は約54万件)、社会でのいじめ件数は調査しようがないので、比較はできません。
しかし、学校を卒業して何年もたっているのにいまだにいじめられたことがトラウマになっているとか、同窓会に行くと昔のいじめっ子と会うので行きたくないとかいう人がよくいます。こういう人は、社会ではいじめにあっていないでしょう。
テレビで若いタレントが自分のことを語るとき、学校でいじめにあっていたと語る人もひじょうに多いです。芸能人になるぐらいだから個性的な人が多いということを割り引いても、今の学校にいかにいじめが蔓延しているかがわかります。
つまり学校といじめは切っても切り離せないのです。

これはもう、学校の構造的な問題と見るしかありません。
日本では6歳の子と7歳の子を同じ教室に入れて教えますが、この年での1年の違いは大きく、ここからすでにむりがあります。
また、椅子にじっと座って先生の話を聞くというのも、小さい子どもにとっては拷問みたいなものです。
子どもには好奇心があり、学びたい意欲がありますが、学校はおとなの都合で教えるので、お腹の空いていない子どもにむりやり食べさせるような教え方をしています。
学ぶというのは本来楽しいことですが、学校での勉強は苦行です。

学校教育が子どもにとってはいじめみたいなものなので、子ども同士がいじめをするのは当然です。
学校制度はどの国も同じようなものなので、世界中の学校でいじめが発生することになります。

いじめは子どもの問題ではなく学校の問題ととらえなければなりません。
いじめ防止をしたいなら、「子どもが楽しく通える学校」をつくるしかありません。
それ以外のやり方はすべて対症療法です。

ピンクシャツデーは、対症療法の効果すらなさそうです。
ピンクシャツデーに参加する人は善意からでしょうが、自己満足と言われてもしかたありません。
ピンクシャツデーをするなら、単なるデモンストレーションに終わらせるのではなく、いじめの根本原因を考える日にするべきです。

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アメリカの民主党の大統領予備選挙で、ウォール街への課税や公立大学の無償化などを掲げるバーニー・サンダース候補が善戦しています。
アメリカのアカデミー賞では、韓国の格差社会を描いた「パラサイト 半地下の家族」が作品賞を受賞し、ニューヨークを模したゴッサムシティの格差社会を描いた「ジョーカー」も過去最多の16部門でノミネートされ、主演男優賞などを受賞しました。
どうやらアメリカでは格差社会問題が大きなトレンドになっているようです。

格差社会問題とはなんでしょうか。


昔、社会主義思想にまだ力があったころは、よく「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」と言ったものです。
この言葉は、新約聖書のマタイによる福音書に「持っている者は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない者は、持っているものまで取り上げられるであろう」と書かれていることからきているので、「マタイの法則」とも呼ばれます。
しかし、この言葉は誇張だったようです。

トマ・ピケティは2013年に著した「21世紀の資本」において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。つまり、「富める者はますます富み、貧しき者は少ししか富まない」というのが正しいということです。
この法則が成立すると、大規模な戦争や革命がない限り、富める者と貧しき者との差はどこまでも拡大していくことになります(ですから、「貧しき者はますます貧しくなる」は実感としては正しいかもしれません)。

この法則のもとでは、親から多くの資産を受け継ぐ者は少なく受け継ぐ者よりも豊かになるので、生まれによって社会階層が決まる傾向が強まり、階級社会化が進むことになります。

「21世紀の資本」は世界的なベストセラーになり、とくに否定や反論はされていません。
「資本収益率>経済成長率」の法則は、格差社会の実態を可視化しました。
最近、格差社会問題が注目されるようになったひとつの原因です。


多くの人は、格差がどんどん拡大していくことは好ましくないと思うでしょう。
ピケティも富裕層への課税強化を国際的に連携して行うべきだと提言しています。

しかし、格差社会を肯定したい人もいます。
これまで格差社会を肯定したい人は、「貧富の差は能力の差である」という説に依拠してきました。「能力のある者が多くの収入を得るのは当然だ」という主張には、それなりの説得力があります。しかし、人間の能力というのは基本的に一定なので、貧富の差が年々拡大していくことは、能力の差によっては説明できません。

そこで最近は、「貧富の差は努力の差である」という説が採用されています。「努力した者が多くの収入を得るのは当然だ」ということです。裏を返せば、「貧困層は努力しない者だ」ということです。
努力やそれに類する概念は、誰もが日常会話の中で、「お前は努力が足りない」とか「もっとがんばれ」とか「やる気を出せ」というように使っているので、「貧富の差は努力の差である」という説は、賛成反対は別にして、誰でも理解できます。そのため、「貧富の差は努力の差である」という説は、世の中に一定の広がりを見せています。とりわけ福祉制度を攻撃する際に、「怠け者に税金を使うな」という形でこの説が利用されています。

この説によれば、世の中には努力する人間と努力しない人間がいることになります。
その違いはどこからくるのかというと、「自由意志」によるとされます。

自由意志とはなんでしょうか。
自由意志のひとつの意味は、「人為による強制・支配・拘束を受けない状況での意志決定のあり方」をいいますが、このことは問題ではありません。
もうひとつの意味は、「自然法則や自然界の因果律の影響を受けない状況での意志決定のあり方」をいい、このような意志決定が可能かどうかについては、昔から哲学上の問題として議論されてきました。

ですから、「お前が貧乏なのは努力しないせいだ」とか「怠け者に税金を使うな」と主張する人に反論しようとすると、哲学論議をしなければなりません。
しかし、哲学論議というのは、いくらやっても結論が出ないので、余裕のある人が暇つぶしでするものです。格差社会をどうするかという切実な問題に直面しているときにやっていられません。

そのため、「お前が貧乏なのは努力しないからだ」とか「怠け者に税金を使うな」という主張に対しては誰も正面から反論せず、その主張が通った格好になります。
その結果、自由意志を前提とした主張が世の中を支配しています。

たとえば、「アメリカンドリーム」というのは、恵まれない環境にいる人間でも努力すれば夢がかなえられるというものです。したがって、いつまでも貧しい人間は、努力しない者だということになります。

竹中平蔵教授は、貧乏になるのも自由意志だと主張しました。

私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。
以前、BS朝日のテレビ番組に出演して、堺屋太一さんや鳥越俊太郎さんと一緒に、「もっと若い人たちにリスクを取ってほしい」という話をしたら、若者から文句が出てきたので、そのときにも「君たちには貧しくなる自由がある」という話をした。
https://toyokeizai.net/articles/-/11927?page=2

経済学は経済人や合理的経済人という人間観をもとにした学問なので、みずから貧しくなる人間というのは想定されません。経済学者とは思えない発言です。
しかし、こんな暴論でも、議論して言い負かすことはむずかしいので、なんとなく通ってしまいます。

ちなみに「自己責任」というのも、自由意志を前提としています。最善の判断をすることができたのに、悪い判断をして悪い結果を招いたのだから、その結果は全部自分で負えということです。

刑事司法の世界も自由意志を前提としています。
「犯意」は基本的に自由意志と見なされ、自由意志によらない部分については情状酌量が認められますが、その部分はわずかです。中世の人は、水たまりや汚物などからボウフラやウジ虫が文字通り“わく”と信じていたといいますが、犯意も外部と無関係にその人間の心の中から“わく”とされるので、それと同じです。刑事司法の世界はいまだに中世段階です。
脳科学の進歩により、凶悪犯の脳に異常があることが多いという事実がどんどん明らかになっていますが(たえばジョナサン・H. ピンカス著「脳が殺す―連続殺人犯:前頭葉の“秘密” 」など)、そうした科学の成果が裁判に取り入られることはありません。

ちなみに昔の社会主義者は、社会の矛盾が犯罪を生むので、貧困をなくし福祉を充実させれば犯罪をへらすことができると考えていました。

マルクス主義は唯物論ですから、人間の意志決定は脳という物質の働きによるとされ、社会も自然法則に従って変化するとされます。当然、自由意志などは認めません。「存在が意識を規定する」という言葉が端的にそれを表現しています。


仏教思想も、人間を自然法則に従う存在と見なします。
仏教思想の核心は次の三行で表現されます。

諸行無常
諸法無我
涅槃寂静

これを私なりに現代語にすると、次のようになります。

すべてのものは変化する。
変化の法則を人間が左右することはできない(人間もまた法則に従い変化する)。
そのことを理解すれば静かな安らぎの境地に至れる。

こんな理解で静かな安らぎの境地に至れるとは思えないので、この理解は浅すぎるのでしょう。あくまで自然法則と人間の関係について私なりに解釈したということです。


このような議論はすべて哲学上のものです。
すでに述べたように、これはいくら議論しても結論が出ません。
ですから、ここは“科学”の観点を導入する必要があります。

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人間を科学の視点で見ることは、ダーウィンが進化論を発表したときから始まりました。これは「ダーウィン革命」とか「第二の科学革命」と言われます。

ダーウィン革命がどのようなものであったかは、次の文章がわかりやすく示しています。


ダーウィニズムはたんに神を殺害しただけではなく、「神の死」以後の西欧の新しい価値観を再創造するうえでも、これまたけっして小さくない役割を果たすことになる。
すなわち十九世紀後半の西欧の歴史観、世界(自然)観、人間観、道徳観は、そのすべてがいったんキリスト教的基盤をうしなったのちに、進化論的基盤のうえにおきなおされるのである。終末論的歴史観から進化主義的歴史観へ、超自然的世界観から自然主義的世界観へ、アダムに由来する人間というキリスト教的人間観から類人猿に由来する人間という進化論的人間観へ、キリスト教道徳から進化論的道徳へ――ふつう「ダーウィン革命」と呼ばれる思想的革命は、そのような意味において十九世紀末にニーチェが告知した「あらゆる価値の価値転換」の重要な一部分と見なされなければならないであろう。(丹治愛著「神を殺した男」)

ダーウィン自身はまったく革命的な人間ではありませんでした。宗教に関しても、若いころは神学校に進んで将来は牧師になろうと思ったくらいで、普通程度の信仰心を持っていました。しかし、進化論を思いついたことで唯物論へと向かうことになります。

このような、彼が言うところの「心的暴動」は、自然界に霊的または神的な力は存在せず、ただ物質があるのみとする哲学的教養である物質主義の道へ、彼を導いていった。もしもすべてのものの創造を否定するならば、人間はどこに位置し、救済の望みはどこへ行くのだろう? われわれの思考は、単に脳の分泌物ではないか、と彼は断言した。「ああ、なんという物質主義者!」と彼は叫んだ、半ば自分自身の大胆さに感激しながら。(ジャネット・ブラウン著「ダーウィンの『種の起源』」)


ダーウィンが「種の起源」を発表すると、古い体制と古い価値観を打ち壊そうとしていた革命家はこぞって歓迎しました。

カール・マルクスはダーウィンとほぼ同時代人です(ダーウィンは1809年生まれ、マルクスは1818年生まれ)。マルクスは「種の起源」を読んで感銘を受け、「資本論」の第一巻をダーウィンに献本しています。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、共産制へと社会が進化していくという唯物史観は、明らかに進化論の影響でしょう。
無政府主義者のピョートル・クロポトキン(1842年生まれ)はダーウィンの進化論の強い影響を受けましたが、進化論が生存闘争の原理を強調することに疑問を抱き、相互扶助の原理の重要性を説いて、「相互扶助論」を著しました。
日本でも、無政府主義者の大杉栄は、「種の起源」の翻訳をしています。

社会主義者の幸徳秋水は、「生存競争と社会主義」という文章で、このように述べています。
ダーウィン氏の生物進化の学説が、ひとたび発表されて、旧来の科学とたたかい、哲学とたたかい、宗教とたたかいはじめると、向かうところをなぎたおし、すべての独断をうちこわし、もろもろの迷信をうちやぶるありさまは、くさった木をくだき、かれた木をひきさくようないきおいで、世界の思想・学術は、そのために面目を一新した。
 いまや、生命進化の法則は、人間の知能のおよぶかぎりにおいて、うたがうことのできない一大真理として、なにの学、なにの説、なにの研究、なにの弁証であることに関係なく、あらゆる学問の領域にわたって、すべてがこれを基礎・根底にしなくてはならないようになってきた。
 そして、われわれ社会主義者もまた、心からよろこんで、ダーウィンの一信者であることを明示せずにはおられないのである。(幸徳秋水「生存競争と社会主義」)
革命思想とダーウィンの進化論はほとんど一体のものとして理解されていました。少なくとも革命家の側はそう思っていました。

もっとも、それは体制側も同じでした。進化論の社会への影響力はきわめて大きかったので、体制側も進化論を利用しようとしました。いわば革命側と体制側が進化論を巡って綱引きをしたわけです。

そして、ダーウィンは体制側を選択しました。
それはダーウィンの出身階級からすれば当然のことではありました。

ダーウィンは裕福な医者の家系に生まれ、父方の祖父は詩人で、初期の進化論者でもあり、母方の祖父は大手陶磁器製造会社ウエッジウッドの創業者でした。五年間のビーグル号の航海中、ダーウィンは無給でしたが、父親が経済的援助をしてくれました。ビーグル号の航海を終えたダーウィンはロンドンに住みましたが、松永俊男著「チャールズ・ダーウィンの生涯」はその生活をこのように描いています。


独身の若者ダーウィンが、研究と学会活動だけで満足しているはずがない。イギリスのジェントルマンの生活に欠かせないのがクラブである。その一つ、アシニアム・クラブは、現在でも当時のまま、クラブの建物が並ぶペル・メル街の一角にある。イギリスの最も格式の高いクラブで、各界のトップクラスの人々が会員に選出される。ダーウィンは立候補もしていなかったのに、一八三八年六月二一日に会員に選出された。これはダーウィン本人にとっても驚くべきことだった。独身時代は殺風景な住居からのがれて息抜きする場所だったが、結婚後も利用し、政治家や実業家たちとも親しく交際した。クラブの雑誌や図書は科学以外の分野に知見を広げるのに役立った。


ジェントルマンの生活に欠かせないことの一つが夜会だったが、ダーウィンはライエル邸の夜会のほか、有名なバベジの夜会の常連でもあった。バベジはケンブリッジの数学教授だったが、講義をせず、ロンドンに住んだままであった。土曜に開かれるバベジ邸の夜会は、学者だけでなく、各界の著名人が呼ばれ、女性も参加していた。


研究の息抜きには、航海中のミルトン『失楽園』に代わって、コールリッジとワーズワースの詩を愛読していた。兄エラズマスと近くのパブでおしゃべりするのも楽しかった。独身二九歳のダーウィンは、世界都市ロンドンで、研究、学会活動、そして余暇に充実した生活を送っていた。(松永俊男著「チャールズ・ダーウィンの生涯」)


当時のイギリスは、十八世紀後半からの産業革命でいち早く工業化を達成し、多くの植民地を獲得して、経済的繁栄を誇っていましたが、国内では矛盾も拡大し、長時間労働、児童労働、農村から都市への人口流入による住環境の悪化、社会保障の欠如などで民衆の不満は高まっていました。1832年に第一回選挙法改正が行われ、産業資本家が選挙権を得ましたが、労働者には選挙権は与えられなかったので、選挙権を求めるチャーチスト運動が起き、暴動によって死者が出ることもありました。
ダーウィンとマルクスは同時期にイギリスに住んでいたことがありますが、ダーウィンの見ていたイギリスと、マルクスの見ていたイギリスはまったく違ったかもしれません。

それに加えて、ダーウィンは人種差別主義者であり、「優生学」という言葉をつくったフランシス・ゴルトンはダーウィンの従兄弟で、思想的にも互いに影響し合っていました(ダーウィンの人種差別思想と優生思想については、このブログで「優生学の起源」として書いたことがあります)。


ダーウィンは「種の起源」の12年後に「人間の由来」を著し、進化論から見た人間について論じました。
本来ならそこで、階級対立や奴隷制や人種差別や戦争などが生存闘争の一環としてとらえられるはずでした。しかし、ダーウィンはそうした人間社会の負の面にはまったくといっていいほど言及せず、人間社会を協調的な社会としてとらえたのです。
動物は生存闘争をする一方で、子どもの世話をしたり、仲間を助けたりという利他行動もしますから、ダーウィンの人間観や社会観もそれなりに進化論的に見えました。
しかし、生物は生存闘争によって進化すると主張しながら、人間については利他性や協調性のことばかり述べるのは、やはり矛盾しています。

ダーウィンは体制側の人間として、“体制翼賛”をし、みずからダーウィン革命の幕引きをしたのです。

その結果、進化論を根拠に強者の支配を正当化する社会ダーウィン主義と、やはり進化論を根拠に弱者の排除を正当化する優生思想が社会の支配的な思想になっていきました。一方、マルクス主義は科学的社会主義を標榜しましたが、進化論と切り離されることでしだいに力を失い、ソ連・東欧圏の崩壊によって完全に破産した思想と見なされるにいたりました。

現在、進化論を根拠にして社会のあり方を論じるのは「自然主義の誤謬」であるとして批判されるので、社会思想と進化論が結びつけられることはめったにありませんが、言語化されない底流では結びついています。新自由主義も社会ダーウィン主義の流れをくむものです。優生思想もことあるごとに表面化します。


ダーウィンが体制側を選択したために、ダーウィン革命は失速し、挫折しました。
現代のわれわれは、ダーウィン革命と言われてもピンとこないのではないでしょうか。人間は神によって創造されたと信じていた人にとっては進化論は革命的だったかもしれませんが、それ以外の人にとっては人間観が変わることはなく、別段革命的ではありません。

ダーウィン革命が挫折して、科学的人間観が確立されなかったので、人間の心にはボウフラのように自由意志がわくとされます。
人間が貧乏になるのも自由意志のせいだという理屈で、支配層はさらに利益を追求して、われわれは格差社会の問題に直面しているというわけです。

したがって、格差社会問題を解決するには、挫折したダーウィン革命を救出し、革命を完遂させ、科学的人間観、科学的社会観の確立を目指さなければなりません。
人間が互いに生存闘争をする中で、強者が弱者を支配して奴隷制、階級社会、人種差別、性差別などが生みだされたというのが科学的人間観、科学的社会観です。


なお、生物学界はダーウィンの間違いを意識的に隠ぺいしているかのようです。
ダーウィンの著作はむずかしいし、時代遅れでもあるので、進化論を学ぼうとする人は、進化論の解説書を読むことになります。そうすると、そこにはダーウィンがいかに家族思いの人格者であったかということが必ず書かれています。人種差別主義者であったことも書かれていますが、それを打ち消すように奴隷制廃止論者であったことも必ず書かれています。相対性理論や古典力学の解説書を読んでも、アインシュタインやニュートンの人柄についてはそれほど書かれていません。科学の理論と、それを発見した人の人格とは関係ないからです(ニュートンはかなり偏屈な人だったようですが、だからといってニュートン力学の値打ちが下がることはありません)。

ダーウィンの人格のよい面ばかり書くのは、ダーウィンの失敗を隠ぺいする意図ではないかと疑われます。
もしダーウィンの人格を書くなら、その出身階級のことと人種差別のことをもっと書くべきです。そうすれば、ダーウィンの失敗が見えてくるでしょう。

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食事におけるマナーはたいせつです。
スープを音を立ててすすったり、ナイフやフォークを必要以上にカチャカチャさせたりするのは、周りの人を不快にさせます。

では、箸の持ち方がおかしいというのはどうでしょうか。
音を立てたり唾を飛ばしたりするのと違って、どんな箸の持ち方をしても人の迷惑になることはありません。
箸の持ち方がおかしいと食べにくいということはあるでしょうが、それは本人の問題です。

ところが、世の中には「お箸の持ち方がおかしい」と言ってクレームをつける人がかなりいます。


不登校のYouTuber、“少年革命家ゆたぼん”の父親が、ゆたぼんがお寿司を食べる写真をツイートしたところ、「お箸の持ち方がおかしい」というクレームが殺到したそうです。

ゆたぽん
ゆたぽん2
中村幸也@ゆたぼんのパパ」のツイートより



ゆたぼんさんが批判されているのを見て、ダルビッシュ有選手が「ゆたぼんさんのお箸の持ち方どうこうってあんなん俺からしたら上手く持ててるからな」とツイートして、自分の箸の持ち方の動画を投稿しました。

ダルビッシュ有
https://twitter.com/faridyu/status/1224426899981520896

ダルビッシュ選手は前に箸の持ち方でバッシングされたことがあり、それ以来、この問題にはこだわりがあるようです。ツイッターのプロフィールには「箸が箸であればどんな使われ方をされても愛せ。そして箸を使う人すべてを愛せ」という言葉を書いています。


私が思うに、「機能的で、見た目にも美しい箸の持ち方」というのはあるでしょうし、それを目指すのはいいことです。しかし、我流の持ち方をしたからといって非難される筋合いはありません。
ダルビッシュ選手も、「鉛筆の持ち方が変だからといって叩かれないし、歩き方や走り方が変だからといって叩かれない。なぜお箸の持ち方だけ叩かれるのか」という主旨の主張をしています。

問題は、へんな箸の持ち方をする人にあるのではなく、箸の持ち方が悪いと非難する人のほうにあります。
それは、「発言小町」に投稿された次の悩みを読めばわかるはずです。

箸の持ち方を直してほしい
こぶた  2013年7月31日 21:46
33歳会社員です。
お付き合いしている彼に箸の持ち方を直してほしいのですが
何と言うのがよいでしょうか。
付き合い始めくらいに、直してほしいと一度言ったことがあります。
彼は自分でもおかしな持ち方をしているのは自覚していて、
「上司と一緒の時やきちんとした席では直しているから大丈夫」みたいな言い訳をされました。それ以来は気なりつつ口に出していません。
その前にお付き合いした彼もきちんと箸を持てない人で指摘をすると、誰にも迷惑をかけていないし、誰がそんなルールを決めたんだ?という風に逆切れ気味に言い返されたこともあり、直してほしいけど何と言えば気持ちよく直してくれるのか悩んでいます。
私としては、マナーとして当然と思っており、できないことは恥ずかしく思います。また、それをどうでもいいと思っている人は根本的な所で価値観が合わないかもとすら思います。
皆さんなら、パートナーの箸の持ち方がおかしい時はどうしますか?
https://komachi.yomiuri.co.jp/t/2013/0731/608705.htm

この悩み相談に対して、「別れればよい」という回答が多数です。
こうした回答は無責任です。

稼ぎのない男、暴力をふるう男、自分勝手な男、浮気をする男などとは別れたほうが賢明です。
しかし、「箸の持ち方が悪い男」と別れるのは愚かです。そんなことは欠点のうちに入りません。男選びの基準が間違っています。
箸の持ち方を異常に気にするこの女性に問題があるのは明らかです。

ゆたぼんさんやダルビッシュ選手の箸の持ち方をたたく人は、この女性と同じ精神構造と思われます。

どうしてこのような精神構造になってしまったのか、それもこの女性の次の書き込みから推測できます。

こぶた  2013年8月7日 21:30
私が持ち方を直してほしいと彼に言おうと思ったきっかけは、
お正月には両親に彼を紹介しようと思ったからです。
(遠方で年に一度しか帰省しません。)
私の価値観ができあがったように、当然両親は箸の持ち方を見る人です。
口には出さないでしょうか、内心よく思わないでしょう。
その前に直してほしかったのです。
https://komachi.yomiuri.co.jp/t/2013/0731/608705.htm?o=2&g=04&rj=1

基本的に子どもの箸の持ち方は親がしつけます。子どもは当然、箸がうまく使えません。そのときに強引なしつけ方をすると、それが子どものトラウマになります。この女性とか、ゆたぼんやダルビッシュ選手をたたいている人たちは、そうしたトラウマがあるのでしょう。

幼児虐待で逮捕された親はたいてい「しつけのためにやった」と言います。
こういう親は決して特別ではなくて、虐待の程度の軽い親はいっぱいいて、軽いトラウマを受けた子どももいっぱいいて、そうした子どもがおとなになると、ゆたぼんさんやダルビッシュ選手の箸の持ち方をたたくようになります。
こういう人は、自分のしつけのされ方を振り返るといいと思います。

食事のマナーはたいせつです。
箸の持ち方のような細かいことにこだわらず、楽しく食事することが最大のマナーです。

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このところニュースは新型肺炎のことばかりです。
新型肺炎が怖いからといって、いくらなんでも騒ぎすぎです。
マスコミは視聴率や閲覧数や販売数を稼ぐために、人々の恐怖を必要以上にあおっているのではないでしょうか。

最近は少し反省したのか、「正しく怖がる」ということを言うようになりましたが、正しく怖がるには正しい知識が必要なので、人々はさらにマスコミに頼るという仕組みになっています。

新型肺炎のことばかり考えるというのが、すでに視野狭窄に陥っています。
ここは視点を引いて、広い視野で見なければなりません。


私は医学の専門家でもなんでもありませんが、肉親を肺炎で失ったことがあるので、肺炎の怖さは知っているつもりです。
新型肺炎がなくても、従来型の肺炎が十分に怖いのです。

2018年の統計で、肺炎は日本人の死因の第5位です。
死因割合


第7位に誤嚥性肺炎もあります。
誤嚥性肺炎というのは、老化や脳の障害などで嚥下がうまくいかなくて食べ物などが気道に入ったことが原因で起こる肺炎です。感染症とはいえないので、ここでは除外します。

我が国における肺炎による年間死亡者数は、
9万4654人
です。
肺炎がいかに怖い病気かわかります。

一方、私がこれを書いている時点で、中国における新型肺炎による死亡者数はまだ千人に達していません。
日本国内における死亡者数はゼロです。

旧型肺炎に目を背けて、新型肺炎ばかり恐れているのがばからしくなるでしょう(「旧型肺炎」というのは私の造語です)。

旧型肺炎の原因でもっとも多いのは、肺炎球菌の感染によるものです。
そのため、65歳以上には肺炎球菌ワクチンの接種が推奨され、自治体によっては費用の補助をしています。

ほかにも原因はいろいろあり、新型肺炎はいずれ下の表に「新型コロナウイルス」という項目として付け加えられることになるはずです。
その数字がどれくらいになるのかまだわかりませんが、要するに新型肺炎の位置づけはそういうことです。
肺炎の原因
https://www.haien-yobou.jp/pneumococcal_infection.xhtml




現在、アメリカではインフルエンザが猛威をふるっていて、これも新型肺炎の比ではありません。

米でインフルエンザ猛威 死者数1万人超え
【ニューヨーク=野村優子】米国でインフルエンザが猛威を振るっている。米疾病対策センター(CDC)によると2019~20年のインフルエンザシーズンは患者数が1900万人、死者数は1万人を超えた。世界で新型コロナウイルスの感染拡大が懸念されるなか、米国ではインフルエンザが大きな脅威となっている。

CDCの最新データによると、1月25日までの1週間でインフルエンザ患者数は400万人増え、累計1900万人に達した。うち18万人が入院している。特に子どもの症状が深刻化するケースが多く、小児の死亡者数も過去にないペースで増えているという。

米国立アレルギー・感染症研究所(NIAID)は、19~20年のインフルエンザ流行が過去10年で最悪規模になると予測している。インフルエンザの流行が深刻だった17~18年の感染者数は4500万人、死者数は6万1000人だった。インフルエンザのシーズンは例年10月ごろに始まり2月にピークを迎え、5月ごろまで続く。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55312830W0A200C2000000/

これも死亡者数が新型肺炎どころではありません。

日本のインフルエンザの死亡者数はどうかというと、年によって大きく変動し、インフルエンザから肺炎を発症して死亡した場合は肺炎としてカウントされるなどの事情もあって、数えるのは容易ではありませんが、ここ数年は二、三千人というところです。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/1955.html

アメリカ人が日本に入国すると、日本にインフルエンザを広める可能性が大です。中国人の入国制限よりもアメリカ人の入国制限のほうが必要かもしれません。


もともと旧型肺炎が恐ろしい病気なので、新型肺炎が加わったからといって、それほど変化はありません。
ただ、新しいものには未知の要素があるので、恐怖心が強くなるのは当然です。
だからこそ広い視野と冷静な判断力が求められます。
ところがマスコミは、同じコロナウイルスということもあって新型肺炎とSARS(重症急性呼吸器症候群)との比較はよくしますが、旧型肺炎やインフルエンザとの比較はほとんどしません。

旧型肺炎とインフルエンザの死亡者数を知るだけでも、新型肺炎について冷静な見方ができるようになるのではないでしょうか。

植松聖
移送中の植松聖被告

植松聖被告が障害者19人を殺害したやまゆり園事件の裁判員裁判が進行中です。
マスコミは植松被告の言い分を「身勝手な主張」と切り捨てていますが、そう単純なものではありません。植松被告は「国のため、社会のため」ということを主張しているからです。

1月24日の公判では、こんなことを述べていました。

弁護人から「意思疎通が出来ない方にも親や兄弟がいる。家族のことを、どう考える?」と聞かれると、植松被告は「子どもが重度障害を持っていても、守りたい気持ちは分かるが、受け入れることは出来ない」と主張。その上で「自分のお金と時間で面倒を見ることが出来ないから。お金を国から支給されているからです。お金と時間がかかる以上は、愛して守ってはいけないと思います」と声を大にした。

植松被告は、弁護人から「安楽死で世の中はどうなる?」と聞かれると「生き生きと暮らすじゃなく、働ける社会になると思います」と主張。働くことが重要かと聞かれると「そうです。仕事をしないから動けなくなってしまう。ボケてしまうんだと思います」と答えた。若い人で仕事をしていない人もいるが? と聞かれると「働けない人を守るから、働けない人が生まれると思う。支給されたお金で生活するのは間違っていると思う。日本は借金だらけ。(障がい者を殺せば)借金を減らすことは出来ると思います」などと主張。国が障がい者に支給する手当が、国の財政を圧迫しているという趣旨の持論を展開し、自己正当化した。
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202001240000212.html

自分が犯罪者になっても国の財政を救おうとは、まさに“滅私奉公”で、愛国者の鑑です。

2月5日の公判では、植松被告は障害者を殺したのは「社会の役に立つと思ったから」と主張しました。

「やまゆり園」植松被告「趣味は大麻です」繰り返す
45人が殺傷された「津久井やまゆり園」事件の裁判員裁判第10回公判が5日、横浜地裁(青沼潔裁判長)で開かれ、遺族らが元職員の植松聖被告(30)に対する被告人質問を行った。

姉(当時60)を殺害された男性が「なぜ殺さなければならなかったのか」と尋ねると、植松被告は「社会の役に立つと思ったから」と答えた。植松被告は「ご遺族の方とこうして話すのは心苦しい」と述べ、謝罪も口にしたが、「重度障害者を育てるのは間違い」と言い切り、「趣味は大麻です」と2回繰り返した。

長男一矢さん(46)が重傷を負った尾野剛志さん(76)が「家族は悩みながら、小さな喜びを感じて生活している。あなたはそれを奪った」と謝罪の言葉を求めると、ひときわ大きな声で「誠に申し訳ありませんでした」と答えた。尾野さんが「今、幸せですか」と問うと、「幸せではありません。いや、どうだろう」と首元に触れた。

被害者参加制度に基づくこの日の質問は、被害者からの直接の問いかけに植松被告がどう答えるか注目されていた。尾野さんは生い立ちから探るために、。初公判で指をかんだ意味に関する質問も制止されたという。質問を終えて法廷を出た尾野さんは「残念です」と話した。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200205-02050870-nksports-soci

植松被告は「国のため、社会のため」という大義名分を押し出して、殺人を正当化しています。

人の命よりも国家を上位に置くのは、よくある考え方です。特攻隊でなくても、若者が兵隊になって戦争に行くこと自体、命より上に国家を置いていることになります。
「障害者は殺していい」というところに着目すると、植松被告の考え方は優生思想になりますが、「国のため」というところに着目すると、ナショナリズムや右翼思想になります。
植松被告は2016年2月、衆院議長公邸を訪れて「障害者が安楽死できる世界を」という手紙を渡しました。自分のやろうとすることは「国のため」なので、理解してもらえると思ったようです。


右翼政治家の石原慎太郎氏も植松被告と同じような考えの持ち主です。
石原氏が都知事になった1999年、重度障害者が治療を受けている病院を視察したとき問題発言をし、さらにやまゆり園事件にも言及しました。

 重度障害者たちが治療を受けている病院を視察した石原氏は、会見にて「ああいう人ってのは、人格があるのかね」と語ったのだ。その後も「絶対よくならない、自分が誰だかわからない、人間として生まれてきたけれど、ああいう障害で、ああいう状況になって」「ああいう問題って、安楽死につながるんじゃないかという気がする」などと発言した。
 ちなみに昨年7月、神奈川県相模原市の知的障害者施設で19人が死亡し、20人が重傷を負った殺傷事件ついても石原氏は言及しており、「文學界」(文藝春秋/16年10月号)の対談で「あれは僕、ある意味で分かるんですよ」と心境を吐露してみせた。
https://biz-journal.jp/2017/03/post_18396.html

優生思想とナショナリズム、右翼思想は表裏一体であることがわかります。

ネトウヨが跋扈するような右翼的な世相と、人権を軽視する風潮がこの事件を生んだともいえます。


ところで、植松被告がこうした犯行に及んだのは、親から人としての愛を受けられなかったからだというのが私の考えです。
『「やまゆり園」植松被告「趣味は大麻です」繰り返す』という記事で、被害者側は『被告と両親に関する質問を用意したが、「事件と関係ない」と弁護側に止められた』ということです。
弁護側に止められたということは、裁判長もそれを認めたのでしょう。
日本の司法はいつまで親子関係をブラックボックスに入れておくのでしょうか。

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オリンピックが近づくにつれてゆううつな気分になります。
マスコミがオリンピックを盛り上げるために「感動」を演出し、「感動」を押しつけてくると思うからです。

「感動をもらう」という言葉があります。
「感動をありがとう」とも言います。
どうやら感動というのは、人からもらったり、人にあげたりできるもののようです。

私が小説のいちばんいい読者であった高校生のころ、1冊の本を必死で選んで買い、たいてい一晩で読み、深く感動するとその小説の世界にはまり込んで、なかなか現実の世界に戻ってこれないほどでした。
ほかの人も同じ小説を読んで感動したとしても、私の感動とは質も深さもまったく違うと思っていました。
私の感動は私の心からわき上がってくるもので、人の心にわき上がってくるものと同じであるはずがありません。

ところが、今は感動は人からもらえるものとされています。各人の心から切り離されているようです。
感動だけではなく、「勇気をもらう」とか「元気をもらう」という言い方もよくされます。
こういうことはスポーツ関係から始まった気がしていましたが、ネットで調べると、1998年の長野オリンピックからで、シドニーオリンピック、日韓ワールドカップで広がったという説がありました。
この説が正しいかどうかわかりませんが、スポーツの世界から始まったのは間違いないでしょう。

それから、焼肉の牛角が「感動」という言葉を使っていて、それも感動という言葉の意味の変化を感じさせました。
ただ、牛角は「感動創造」ということを言っていて、多少感動に対するリスペクトがあったかもしれません。
しかし、そのあと居酒屋チェーンなどでも「感動」という言葉を普通に使うことがふえていきました。

感動は各人の心から切り離されてやり取りできるものになり、しかも居酒屋の料理にも使われるような安っぽいものになったわけです。

こうした傾向、つまり「感動をもらった」という表現が横行することに違和感や嫌悪感を表明する人がかなりいます。
私自身もそうでした。
しかし、時代が変われば感動の意味が変わってくるのは当然だと今は考え直しました。


まず、小説や映画の感動は、その人の価値観によって変わってきます。しかし、スポーツの感動は身体的、感覚的なものなので、価値観はほとんど関係ありません。
それに、スタジアムでは観客が一体となりますから、自分の感動もほかの観客の感動も同じという意識になって当然です。

それに、昔は同じ小説を読んだ人と出会って語らう機会はめったにありませんでした。
しかし、今はネットに小説や映画のレビューがいっぱい投稿されており、SNSでも感想のやり取りがされているので、自分の感動は自分独自のものではないと気づきやすくなりました。
私も、高校生のころは孤独な読書家でしたが、やがて同好の人たちと交流を持つようになり、自分と同じ読書傾向の人がいると、それだけで深くわかりあえた気がしたものです。

今の時代、「自分の感動は自分だけのもの」という意識がなくなって当然です。
そして、感動は互換性のあるものとしてやり取りされるようになったのです。

「感動をもらった」という言葉に文句をつけるのは時代遅れの感覚だというのが私の考えです。


ただ、感動は安っぽくなり、商業主義やマスコミが利用しやすいものになりました。
個人が「感動をもらった」と言っている分にはいいのですが、マスコミが「感動」という言葉を使うときには、心がともなっていない可能性が大です。
そういう中身のない「感動」の押し付けはやめてほしいものです。

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