村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2020年07月

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最近、優生思想に関する出来事が目につきます。

7月23日、ALSの女性患者に薬物を投与したとして2人の医師が逮捕されましたが、2人はツイッターや電子書籍で「高齢者や障害者は死んだほうがいい」と主張していました。
衆院選に立候補したこともある「れいわ新選組」の大西つねき氏は、自身のYouTubeチャンネルで「命、選別しないとだめだと思いますよ」「もちろん高齢の方から逝ってもらうしかないです」などと発言し、党から除籍されました。
7月26日は、4年前に津久井やまゆり園で19人が殺害された事件のあった日で、新聞などが事件を回顧する記事を載せましたが、死刑が確定した犯人は「意志疎通のできない重度の障害者は安楽死させるべきだ」という考えの持主でした。
そして、RADWIMPSのボーカル・野田洋次郎氏が7月16日、ツイッターに「大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる」と投稿して、批判されました。

こうした優生思想は、批判される一方で、つねに一定の賛同者が現れます。
とくに野田洋次郎氏のツイートには、人を殺せと主張しているのでないこともあって、「なにが問題かわからない」とか「ほめてるんだからいいだろう」という意見がけっこうあるようです。

このような賛同者が出るのは、批判する側が「これはナチスの優生思想と同じだ」という批判しかしないこともひとつの理由です。
こうした紋切り型の批判は、優生思想の賛同者に効果がないのはもちろん、優生思想について知らない人にも効果がありません。

紋切り型にならずに、それがなぜだめなのかをわからせるような批判をすることも必要です。
野田氏のツイートを材料にして、そうした批判をしてみたいと思います。


野田氏のツイートを改めて示しておきます。

野田ツイート

このツイートに批判が殺到すると、野田氏は「めちゃめちゃ真面目に返信してくださる人いますが冗談で言っています、あしからず」とツイートしましたが、「冗談」でごまかしたことがさらに批判を招きました。

なお、野田氏の所属するRADWIMPSは、アニメ「君の名は」の主題歌「前前前世」などで知られる人気バンドです。


おそらく野田氏は、「お化け遺伝子」という言葉を思いついて、その言葉をもとに(たいして深い考えもなしに)ツイートしたのでしょう。
しかし、「お化け遺伝子」とはずいぶんと失礼な言葉です。
「お化け遺伝子」を持った人間は「お化け」ということになるからです。

「お化け遺伝子」を「天才遺伝子」と言い換えても同じです。
藤井聡太棋聖が将棋が強くなったのは、遺伝子のせいだけではなく、本人の努力と、師匠や両親やさまざまな環境の影響があったからです。
藤井棋聖に対して「天才遺伝子を持っているからそんなに将棋が強いんですね」と言うのは失礼です。
というか、誰に対しても「あなたが成功したのは遺伝のおかげですね」というのは失礼です。

「配偶者は国が選定するべき」というのは、誰が考えてもむちゃな話です。「婚姻の自由」の侵害です。
これについては「なんで結婚相手を国に決められなきゃいけないんだ」という批判で十分でしょう。

それから、野田氏の説では、「お化け遺伝子」を持った人の子どもも親と同じ道に進むことになっているようです。
もし藤井棋聖が国家プロジェクトにより誰か一流女性棋士と結婚して、子どもをつくったとして、その子どもが棋士の道に進まなかったら、「君の誕生には国費が投入されてるんだぞ。自分勝手な人生を歩むことは許されん」という非難が浴びせられるでしょう。
つまり子どもの「職業選択の自由」も無視されているのです。

野田氏の“お化け遺伝子結婚国家プロジェクト”案は、本人の人権も子どもの人権も無視したトンデモ案です。
優生思想という言葉を持ち出さずとも十分に批判できます。

なお、スポーツや囲碁将棋のような実力の世界では、親が一流で子どもも一流というケースはひじょうにまれです。
世襲制が機能しているのは、むしろ政治や実業のような社会的文化的要素の強い世界です。


野田氏が「お化け遺伝子」というおかしなことを考えて、それに賛同する人もいるのは、マスコミが大谷翔平選手や藤井聡太棋聖のことをあまりにも持ち上げすぎて、「自分たちと違う特殊な人間」というイメージをつくりあげたからではないでしょうか。
マスコミは凶悪犯罪があったとき、犯人を猛烈に批判して、やはり「自分たちと違う特殊な人間」というイメージをつくるので、一般の人が平気で「死刑にしろ」などと言いますが、それとベクトルが逆なだけです。

野田氏の説については、スポーツや将棋は国家のためにすることなのかという批判ももちろんあります。


天才的な人や凶悪犯や重度の障害者や難病患者などもすべて自分と同じ人間です。
「自分たちと違う特殊な人間」というのは偏見です。
偏見がなければ優生思想もありません。

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新型コロナウイルスの感染者が急増し、「第二波」が到来したと言うしかない状況です。

そんな中、7月21日発売の月刊「WiLL」9月号(ワック出版)が「新型コロナ第二波はこない」と断言した記事を目玉にして、「壮大に予想を外した」と評判になっています。


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月刊誌なので書店に並んだときには状況が変わっていたということではなくて、編集部はこの内容に自信を持っているようです。
発売に合わせてYouTubeで配信された「WILL増刊号インターネット版」では、山根真デスクはこの記事が文芸春秋最新号の特集「第二波に備えよ」にケンカを売る内容であるとして、「自信あるんで、もうかかってこいって感じですよね」と語っています。

「新型コロナ第二波はこない」の執筆者として2人の名前があがっていますが、上久保靖彦京都大学大学院特定教授は、日本で新型コロナ感染症の死者が少ないのは日本人がすでに新型コロナに対する集団免疫を獲得しているからだという仮説を発表した人で、もう1人の小川榮太郎氏は、自称文芸評論家で、『約束の日 安倍晋三試論』という著書もある、安倍応援団の筆頭格の人です。

「WiLL」自体が安倍応援雑誌みたいなものですが、9月号の表紙を見ると、壮大に外しているのは「新型コロナ第二波はこない」だけではなくて、「日本のメディアが伝えない米大統領選はトランプ圧勝」も同じです。

このふたつの記事はつながっています。
トランプ大統領は、「ウイルスはすぐに消え去る」などと言って感染拡大を軽視してきました。「第二波はこない」と同じです。もしそれが正しければ「トランプ圧勝」も正しかったでしょう。
現実にはウイルスは猛威をふるい、トランプ大統領はバイデン候補に大きく水をあけられています。


「第二波はこない」はトランプ大統領の言いそうなことです。
「バイデンはボケてるョ!」という記事もありますが、これもトランプ大統領の言いそうなことです。

「WiLL」のバックナンバーを見てみると、安倍応援記事ばかりでなく、トランプ応援記事と、トランプ大統領の言い分と同じような記事が多く目につきます。

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「新型コロナウイルスは中国の陰謀だ」と「人種差別反対運動は反トランプの陰謀だ」という記事がやたら目につきます。「ディープステート」という言葉も出てきます。まるでアメリカ保守派の雑誌みたいです。

トランプ大統領は「中国ウイルス」という言葉を使って中国に責任転嫁する一方で、「ウイルスはすぐに消え去る」とも言ってきて、7月4日の独立記念日の演説では、新型コロナウイルスの症例の「99%は無害」と言いました。
ですから、「WiLL」にウイルス中国陰謀説とともに「第二波はこない」という記事が載るのも不思議ではありません。



「第二波はこない」という記事は、おかしな雑誌が予想を外したというだけのことではすまないかもしれません。
というのは、執筆者の一人の小川榮太郎氏は安倍首相にきわめて近い人物で、それなりの影響力があるかもしれないからです。

小川氏はFacebookにこんなことを書いています。

小川栄太郎


上久保靖彦教授の日本人集団免疫仮説に基づく「第二波はこない」説を自民党や担当大臣にレクチャーしているのです(担当大臣というのは常識的には西村康稔新型コロナ担当大臣のことでしょう)。

安倍政権は唐突に「Go Toトラベル」を前倒しして実施すると発表し、明らかに第二波が襲来していると思われる中でも強行して世の中を混乱させていますが、その判断にはこのことも影響していたのかもしれません。


トランプ大統領の妄想が日本の保守派に浸透し、それが安倍政権を動かしているかもしれないということです。
“中国ウイルス”ならぬ“トランプウイルス”の脅威です。

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7月22日、新型コロナウイルスの新規感染者数が795人になり、過去最多を記録しました。
安倍首相は官邸で記者から「Go Toトラベル」が始まったことについて聞かれ、「国民の皆様のご協力をいただきながら、慎重に経済活動再開を目指していく方針に変わりはありません」と答えました。

こういう答えを聞くと、いらっとします。
本来なら「この程度の感染者数では経済活動再開の方針を変える必要はないと思います」みたいなことを言うべきです。
もっとも、そうすると「では、どの程度なら方針を見直すんですか」と聞かれて、安倍首相に定見のないことがバレてしまいますが。

「感染防止と経済活動の両立」と言葉でいうのは簡単ですが、「感染防止」と「経済活動」という異質のものを天秤にかけて計るには、高度な判断力が必要です。

安倍首相は非常事態宣言を解除するときに「日本モデルの力を示した」と自慢げに言いました。
麻生財務相は「民度が違う」と言いました。

「日本モデル」も「民度が違う」も、つまるところ「日本スゴイ」ということです。
こういうことを言うと国民の喝采が得られると思っているのでしょうが、科学的に感染防止に取り組もうという意欲が感じられません。


安倍首相と麻生財務相に続く政権のキーマンである菅官房長官は、このところ存在感がありませんでしたが、「Go Toトラベル」の前倒しが決まってから、注目される発言をするようになりました。

7月11日、北海道で講演した菅長官は、最近の感染拡大について「この問題は圧倒的に『東京問題』と言っても過言ではない」と語り、「これは国の問題」と反論する小池都知事とやり合いました。

この「東京問題」という発言は、感染を小さく見せかけたいために言っただけかなと思いましたが、その後、「感染の根源」という言葉を使いました。

感染急増「夜の街」対策強化へ…菅氏「根源を一つ一つつぶしていく」
 政府は、新型コロナウイルスの感染者が多数出ているホストクラブなどへの対策を強化する。全国の警察が風俗営業法に基づき、各地の「夜の街」に積極的な立ち入り調査を行い、感染防止策を含む営業実態を確認する方針だ。

 菅官房長官は19日のフジテレビの番組で、接待を伴う店としてホストクラブやキャバクラを挙げ、「どこに新型コロナの根源みたいなものがあるか分かってきたから、警察が足を踏み入れ、根源を一つ一つつぶしていく」と述べた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/32b8202aa328b5f71cbaf2a487eafe8c4f66ce01


「感染の根源」という言葉に驚きました。
感染に「根源」などあるはずがなく、すべては感染の「通過点」です。

「感染の根源」は単なる思いつきの言葉ではなく、菅長官は20日午前の記者会見でも語っています。


記者 コロナウイルスが蔓延している場所は限られているとおっしゃいましたけども、これは意味としては、蔓延するきっかけになった店舗が夜の街全体ではなくて、少ないところに限られているという意味なのか、市中に感染してないという意味なのか、どうなんでしょうか。
菅長官 夜の街の感染がきわめて大きいことは、たとえば東京都の検査でも明らかになってきているんじゃないでしょうか。明らかにホストクラブとかキャバクラ、そうしたところが根源になっているということは、今日までの検査の中で明らかになってきているというふうに思っています。そうしたところに風営法等を初めとする各法の義務を徹底させるということはだいじじゃないでしょうか。

小池都知事は「夜の街」という言葉をよく使いますが、これはパチンコ屋とともに差別的に見られる水商売を悪者にする一方、経済活動に直結する職場と通勤電車から国民の視線をそらせようという作戦でしょう。
ところが、菅長官はそれを真に受けたのか、ホストクラブやキャバクラを「感染の根源」と見なして、これから警察の立ち入り調査などで「根源を一つ一つつぶしていく」ということです。

これだけ市中感染が広がっている中で、今さらホストクラブやキャバクラを規制したところで、大した意味はありません。
菅官房長官は感染のメカニズムがなにもわかっていないようです。

トランプ大統領はアメリカの感染拡大を中国やWHOのせいにして攻撃していますが、菅長官も同じ発想をする人かもしれません。
菅長官は2月、3月ごろのマスク不足の対策を担っていて、マスク不足は転売ヤーのせいであるとして政令改正でマスク転売を禁止しましたが、効果はありませんでした。マスク不足はマスクの絶対数が不足しているからで、転売ヤーのせいではなかったからです。

ともかく、「感染の根源」などという言葉を使う人にまともな感染対策ができるとは思えません。

西村コロナ担当相も加藤厚労相も、記者会見や国会でしゃべっているところを見ていると、感染のことがよくわかっていないのではないかという気がします。


政府の「感染防止と経済活動の両立をはかる」という方針はいいのですが、「感染防止」と「経済活動」を天秤にかけて計れる人間が誰もいないので、政府はエンジンの壊れた船のように、利権と世論の風に吹かれて漂流しているだけです。

今の政府首脳が学習して向上するということは考えられないので、国民としては、せいぜい正しい方向の風を吹かせるしかありません。

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「Go To トラベル キャンペーン」の問題点について書こうと思いましたが、問題点が多すぎて、なにから書いていいのかわかりません。
いろいろ考えて、ようやく問題点を整理しました。

国土交通省は4月の一次補正予算に約1.7兆円の予算額の「Go Toキャンペーン」事業を盛り込みました。この事業には「Go To Travel キャンペーン」「Go To Eat キャンペーン」「Go To Event キャンペーン」「Go To 商店街 キャンペーン」などがあって、コロナ収束後に観光業などの地方経済を回復させることが目的です。

この事業が発表されたのは、緊急事態宣言が発出される前です。
そんなときからコロナ収束後の計画を立てていたとは、長期的視野がすごいのか、危機感がなさすぎるのか、どちらにしても感心します。

この少し前には、自民党の農林部会や水産部会が和牛や魚の消費喚起をするために「お肉券」や「お魚券」を計画しましたが、これは反対の声が強くて、立ち消えになりました。
「Go Toキャンペーン」も基本的に同じようなもので、特定の業界を税金で救済するものです。

ここに問題がありますが、ただ、特定業界を税金で救済することが必ずしも悪いわけではなく、やり方次第です。

キャンペーン
https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001339698.pdf

これらのキャンペーンは、4月7日の閣議決定で「感染症の拡大が収束した後」に実施するとされました。

キャンペーンの目玉である「Go Toトラベル」は、旅行代金の半額(うち3割は旅行先で使えるクーポン)を政府が負担するというものです。こんなに得なら、これ目当てに旅行にいく人がいっぱい出るでしょう。

「Go To トラベル」は8月初めから実施する予定でした。
この時期も問題ではありましたが、7月10日の記者会見で赤羽国交相が7月22日から前倒しして実施すると発表して、急に問題が大きくなりました。
そのとき感染者が明らかに増加傾向にあったからです。


この決定を主導したのは菅官房長官のようです。
菅長官は感染者の急増について、「この問題は圧倒的に『東京問題』と言っても過言ではない」と言って、問題を軽視しましたが、小池都知事は「これは国の問題」と反論、さらに「Go Toトラベル」について「冷房と暖房と両方かけている」と批判しました。

結局、菅長官も国民の反対の声に押されて方針転換しましたが、東京発着をキャンペーンの対象から除外するという中途半端な対応でした。
東京だけ除外したのは、菅長官の小池都知事に対する感情からかもしれません。

「東京だけ除外」にしたために、さまざまな問題が生じました。東京都民でないことを証明する書類が必要になるとか、東京ディズニーランドとスカイツリーに行くツアーはどうするのかといった問題があり、赤羽国交相はキャンセル料は補償しないと言っていたのに自民党の岸田政調会長がキャンセル料補償を検討していると言ったり、赤羽国交相が高齢者と若者の団体旅行は除外すると言ったり、わけのわからないことになっています。

こうしたいきさつを見ると、「Go Toトラベル」自体の問題よりも、突然実施を前倒しし、ゴリ押しし、東京だけ除外という半端な対応をしたことによる問題がほとんどであることがわかります。
当初の閣議決定通り「感染症の拡大が収束した後」に実施すれば、なにも問題はなかったでしょう。


ただ、ほんとうに感染が収束すればキャンペーンなどしなくてもみんな旅行するようになるはずです。そうすれば、キャンペーンなど必要ないということになります。

そう考えると、旅行代金の半額を政府が負担するというこの「Go Toトラベル」は、感染の危険性がある中でも人を旅行させようと設計されたキャンペーンであると考えられます。
つまり「感染症の拡大が収束した後」に実施するという閣議決定が、キャンペーンの趣旨に反するのです。
感染がいっこうに収まらず、誰も観光旅行をしないような今こそ、観光業界救済のためにキャンペーンを発動するというのは、このキャンペーンの本来の姿です。

そう考えると、今の時期に実施を前倒しし、ゴリ押しした政府の態度は一貫しています。
東京を除外したところは少しぶれましたが、これは東京都に対するいやがらせでしょう。

つまり政府の方針は、「多少の感染リスクがあっても経済を回していこう」ということです。
これは前から一貫していて、政府が緊急事態宣言を出したのも、小池都知事や医師会やマスコミにせっつかれて、いやいや出したという感じでした。
今、感染者数は緊急事態宣言当時の水準に近づいていますが、政府が緊急事態宣言を出すような気配はまったくありません。

問題は、そうした政府の方針を誰も説明しないことです。
安倍首相か菅官房長官が「多少の感染リスクはあっても経済回復を優先するべきであるという観点から、『Go Toトラベル』を実施することにした」と国民に向かって説明すれば、もちろん反論があるでしょうが、論点が明確になります。
感染防止優先か経済回復優先か――という国民的議論が起こって、そのうちコンセンサスが成立するでしょう。
これまでの日本人は新型コロナを恐れすぎていたので、少し経済優先にシフトするのが適正かと思います。

そういう説明能力のある政治家が一人もいないのが日本の不幸です。

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世の中の変わる速度よりも教育の変わる速度は遅い――というのは私が考えた法則ですが、十分に成立すると思います。
したがって、教育の世界はどんどん世の中から取り残されていきます。

都立高校の83%に頭髪に関する規則があり、そのうちの約10%の高校には「ツーブロックを禁止する」という旨が明記されているそうです。
共産党の池川友一都議が都議会で、なぜツーブロック禁止なのかと質問したところ、藤田裕司教育長は「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます」と回答し、池川都議がツイッターにその質疑の動画を投稿したところ、「意味不明の理由だ」などと反響を呼んで、ネットニュースになりました(その代表的なニュースはこちら)。

私はツーブロックという言葉を初めて知って、調べてみると、「ああ、あれか」と納得しました。よく見る髪型です。私の中では“部分刈り上げ”と認識していました。
オシャレに敏感な若い人がする髪型――ということは言えるかもしれません。

ツーブロックが禁止される理由は、要するにオシャレだからです。
昔から日本の学校は生徒のオシャレを目の敵にしてきました。

私が小中学生のころ、「華美な服装はいけない」ということを耳にタコができるほど聞かされました。
「華美」を文字通りに解釈すれば「華やかで美しいこと」ですから、むしろいい意味です。ですから私は頭の中で「過美」と変換していました。

中学で江戸時代の三大改革を学び、贅沢禁止令が繰り返し出されたことを知ると、「華美な服装はいけない」というのは江戸時代の改革を真似ているのかと思いました。
封建時代の道徳が学校の中に生き残っているのだと思ったのです。
根拠はありませんが、そうとでも考えなければ説明がつきません。

ついでに言えば、戦時中も「ぜいたくは敵だ」とか「パーマネントはやめましょう」というスローガンがありました。
学校は「ロストワールド」みたいに昔のものが生き残っているところです。


最近はさすがに見なくなりましたが、少し前まで坊主頭と詰襟の学生服を強制する学校が多くありました。
もちろんこれは軍国教育の名残りです。戦後は平和教育に転換したといっても、中身はなかなか変わりません(セーラー服も水兵の服です)。
校庭に生徒を整列させて、気をつけ、休め、前にならえなどをさせるのも軍国教育の名残りです。こんなことは社会に出たらなんの役にも立ちません(自衛隊や警察に就職すれば別ですが)。

校則に頭髪と服装に関する規制が多いのも、軍国教育の名残りと考えられます。

運動部で練習中に水飲みを禁止することが長らく行われてきたのも、軍隊で水の補給が少なくても対応できる体にするためです。
戦後にはもちろん意味がなく、科学的に水分補給がたいせつだということが言われるようになっても、なかなか改まりませんでした。

教科書の内容は時代に合わせて変わりますが、学校文化はなかなか変わりません。

オシャレ禁止には保護者の支持もあります。
子どもが華美な服装などのオシャレをすると金がかかり、親の負担になるからです。


ブラック校則などの学校文化がなかなか変わらないのは、インプリンティングとトラウマで説明できます。
幼児期に体験したことは強い思い込みとなって、なかなか訂正できません。つまりインプリンティングです。
そして、その体験に苦痛が伴うとトラウマとなり、トラウマは記憶の中に封印されるので、やはりなかなか訂正できません。

ブラック校則に従わされた生徒が教師になると、また同じようなブラック校則をつくって生徒を従わせます。いわば「ブラック校則の連鎖」です。
親から虐待された子どもが親になると自分の子どもを虐待するという「虐待の連鎖」と同じことです。


学校文化がこのように時代遅れであることは、学校内だけの問題ではなく、社会にも影響します
たとえば、ツーブロック禁止の校則について杉村太蔵氏はテレビでこのように語りました。

 「校則って確かに、大人から見ても『なんだこれ』っていうの結構ありますよ。僕は北海道出身で、マフラーの巻き方の校則もありました」と自身の経験を振り返り「校則はなぜ存在するのかというと、子供たちがルールを守る練習。世の中に出たときに『これ変なルールだな』と思うことがありながらも、ルールである以上それを守らなければいけない。それを守る訓練というのもどこか教育的にあるのかなと理解しています。世の中の法律でも納得できないものって結構あると思いますから」とあくまで教育に必要なものであると強調。

 「生徒が納得できないと」という意見に対しては「僕はそこが訓練だと思っている。世の中に出たときに、全てにおいて納得できないこともあるでしょう。納得できないことも受け入れるという訓練が未成年のときに必要なんじゃないかなと思う。こういう意味不明な校則もあっていいんじゃないかな」と持論を展開した。


杉村太蔵氏といえば、26歳で衆議院議員になり、「早く料亭に行ってみたい」などの型破りな発言で注目されただけに、柔軟な考えの持主かと思いましたが、こと校則に関しては完全に硬直した考えです。

この杉村氏の意見に対してはネットで批判の声が上がりました。

「不条理なルールに従い続ける社会ではなく、不条理なルールに声を上げて変える社会にしなければ」
「『ルールを守る練習』が必要なら、『ルールを変える練習』も必要。ルール従うだけでは、考える人は育たない」
「そんな無意味な練習は必要ない。子どもたちに納得出来る説明をするのが大人の仕事」

とはいえ、杉村氏のような考えの人は日本にたくさんいるでしょう。
こういう人は、自分自身の考えが硬直しているだけでなく、若い人の新しい考えも否定するので、社会の進歩を妨げます。

最近、日本から斬新で創造的な製品が生まれなくなって、日本経済がすっかり停滞してしまったのは、少子高齢化のせいだけではなく、ブラック校則などが蔓延する学校文化の影響が大きいのではないでしょうか。


ブラック校則をなくすには、当然ですが、校則づくりに生徒も参加することです。
そうすれば今の時代に合った校則になります。

そもそも自分たちが守るルールを自分たちでつくるのは民主主義の基本です。

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最近、違法アップロードをしないように訴えるテレビ広告が盛んに放映されています。
私はてっきり、法律が改正されたので、それを告知する広告をやっているのかと思いましたが、法律改正とは関係ないようです。

この広告は、日本民間放送連盟が放送番組の違法配信撲滅キャンペーンとして始めた「違法だよ!あげるくん」というシリーズです。
「あげるくん」「タメヨちゃん」に犬のお巡りさん(?)の「トメ吉」というキャラクターが出てきます。
昭和っぽい雰囲気に、アニメのキャラクターがかわいくて、全体的な印象はいいのですが、実は大いに問題なところがあります。




「トメ吉」は、見た目はかわいいのに、声が太くて、脅かすように「つかまるよ、マジで」などと言うのが不愉快だという意見があります。
確かに不愉快ですが、それは声や言い方だけの問題ではありません。

この広告にはいろいろなバージョンがありますが、代表的なものを書き起こしてみます。

「あげるくん、遊ばないの?」
「昨日の番組をネットにあげてから」
「またか」
「暇か」
「見られなかった人のためにあげているんだよ」
「違法」
「えっ?」
「それ、無断アップロードっていって違法だから」
「はいはい、わかりました」
「つかまるよ、マジで」

あげるくんは「見られなかった人のためにあげているんだよ」と言って、自分はいいことをしているんだと主張しますが、トメ吉はそれが悪いことだという説明をせずに、「違法だから」「つかまるよ、マジで」と言うだけです。

ほかのバージョンもすべて同じです。

「ドラマを録ってネットにあげるのは違法って言ったよね」
「でも、みんなのために僕は法を犯すのでーす」
「10年以下の懲役または1000万円以下の罰金、もしくは両方」
「バレなきゃいいんじゃない」
「バレるから。それがネットだから」
  *
「昨日のドラマ、みんなのためにアップしてあげよう」
「違法」
「えっ?」
「つかまるよ、マジで」
  *
「この番組、最高。SNSで拡散だな」
「それ、無断アップロードっていうんだよ」
「みんなが喜ぶんだよ」
「つかまるよ、マジで」

どれもみんなのためにやっている行為が「違法」として否定されます。
これでは道徳的な行為を法律が否定していることになります。
おとななら著作権法の趣旨を理解しているので、自分の頭の中で補いをつけることができますが、子どもがこの広告を見たら、理不尽な法律があるなと思うでしょう。
いや、この世界はみんなのためになることをすればつかまってしまう理不尽な世界だと思うかもしれません。

おとなが見ても、なんの説明もせずに「違法」だの「つかまるよ、マジで」だのと言われるのは不愉快です。
子どものころ、頭ごなしに説教されたことが思い出されます。

「有害CMだ」という声が高まっても不思議ではありません。


不愉快でない広告にするには、違法アップロードがなぜいけないかを説明することです。
「みんなのためにアップしてあげよう」という主張に対しては、「みんなのためっていうけど、番組のつくり手のことは考えてないよね」とか「それは将来の有料配信の利益を奪うことになるよ」とか言ってから、「つかまるよ、マジで」と言えばいいのです。

この広告のつくり手は、国民など頭ごなしに言ってやればいいのだと思っているのでしょうか。

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7月10日、都内の新型コロナウイルスの感染者は243人と過去最高を記録しました。
全国でも430人で、過去最高だった4月11日の720人に迫っています。
しかし、新たな休業要請などは行われず、東京アラートなどもどこかに消えてしまいました。
逆に政府は、8月中に開始する予定だった「Go Toキャンペーン」を前倒しして7月22日から開始すると発表しました。

経済を回復させるために消費を喚起したいという狙いはわかりますが、いろいろな消費喚起のやり方がある中で、なぜ旅行や観光の振興を優先するのでしょうか。
人が動けば(とくに東京から動けば)、感染が拡大します。

感染の恐れがなくなれば、キャンペーンなどしなくてもみんな旅行するようになります。
キャンペーンの費用を休業補償に回して、感染を抑えることを優先させたほうがいいと思うのですが。

小池都知事は都内での感染拡大を受けて7月4日、都民に不要不急の都外への移動自粛を要請しましたが、西村経済再生担当相は7日の記者会見で、政府としては移動の自粛は求めない考えを示し、菅官房長官も一律に県をまたいだ移動を自粛すべきとは考えていないと述べました。
政府と都が一致していないと問題になりましたが、西村経済再生担当相は8日の衆院内閣委員会で「小池都知事と考えは一致している」と述べたので、小池都知事が政府の方針に合わせたのでしょう。

政府は旅行や移動の推進だけでなく、イベント開催も推進します。

イベント観客5000人容認…政府、8月以降は人数制限の撤廃想定
 政府は10日、新型コロナウイルス対策で行ってきたイベント開催制限を緩和し、5000人の観客入場を認めた。22日から始める旅行などの需要喚起策「Go To キャンペーン」と合わせ、社会経済活動の再開をさらに進める方針だ。

 今回の緩和では、コンサートやプロスポーツなどは屋内、屋外とも入場者数が5000人以内、もしくは収容人数の50%以内のいずれか厳しい方の条件で開催できるようになった。政府は、おおむね3週間ごとに緩和を行っており、8月以降は5000人の人数制限の撤廃を想定している。

 菅官房長官は10日の記者会見で、東京都内などで感染者が増えていることに関し、「感染リスクをコントロールしながら、段階的に社会経済活動のレベルを引き上げていくことを基本的な考え方としている」と述べ、制限の緩和方針を維持する考えを示した。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200710-OYT1T50281/amp/

感染拡大などおかまいなしに、「緩和ありき」でスケジュール通りに進めています。

政府のこうした方針は、西村経済再生担当相が6月24日、専門家会議を廃止すると表明したときには決まっていたのでしょう。
この廃止表明は唐突な感じで、混乱が生じましたが、もちろん西村経済再生担当相の思いつきなんかではなく、政府の方針によるものです。
専門家会議の後継組織として発足した新型コロナウイルス感染症対策分科会には複数の経済専門家が入りました。
つまり政府の方針は「感染防止から経済回復」へと転換したのです。

いや、これは正確な表現ではありません。
政府が感染症の専門家と経済の専門家の両方の意見を聞いて、経済を重視するというのなら、通常の意志決定です。
政府がやったのは、感染症の専門家と経済の専門家をいっしょにして、感染症の専門家の意見をわからなくすることです。
なにかよくない意図が感じられます。

「Go Toキャンペーン」の前倒しを見て、世の中には、政府はわざと感染を拡大させようとしているのではないかという声まであります。
常識的にはそんなことはないと思うでしょうが、絶対にないとは言えません。
政府が意図的に感染拡大をする理由を考えてみました。


国別の感染レベルを見てみます。

人口当たり感染者数
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-chart-list/

アメリカは日本の重要な同盟国であるのに、感染レベルが極端に違います。

アメリカ「日本はどうしてそんなに感染者が少ないんだ」
日本「民度が違うからです」
アメリカ「…………」
日本「おわかりですか」
アメリカ「いずれにせよ、こんなに感染レベルが違うのはよくない。なんとかしろ」
日本「わかりました。日本の民度をアメリカに合わせます」

こんなやり取りがあったかどうかわかりませんが(あるわけないですが)、アメリカに要請されたか、日本が配慮したということはありえます。

ちょうどこんなニュースもありました。

沖縄の米軍でコロナ大規模感染を確認 複数施設で60人超との情報【7月11日】 
 沖縄県内の米軍基地で11日までに60人超が新型コロナウイルスに感染したことが確認された。複数の関係者が明らかにした。うち38人は普天間飛行場で確認されているという。基地内で「クラスター(集団感染)」が発生しているとみられる。

 6月と7月に県内中部で大規模なバーべーキューパーティーが開かれ、米軍関係者や日本人も参加していた。イベントに参加していた米軍関係者らは隔離されているとの情報もある。【琉球新報電子版】
https://news.yahoo.co.jp/articles/9bef581a3f9a3a279e1d026ee1984367b6080905
あまり日米の感染レベルが違うと、自衛隊と米軍の連携にも支障が出ます。
それに、安倍首相は8月下旬にもアメリカで開催されるG7サミットに行かねばなりません。

いや、日米間のことだけではありません。
来年東京オリンピックが開催されれば、世界各国の選手団と観光客がやってきます。
日本だけ感染レベルが低いと、感染レベルの高い外国の選手団や観光客を受け入れるべきでないという声が高まります。
つまり日本の感染レベルが低いと、オリンピック開催の妨げになるので、今から感染をふやして、それに慣れておくのは賢明なやり方です。

いずれにしても、現在のように各国で極端に感染レベルが違うと、国際交流がうまくいきません。
いずれWHOかどこかが音頭をとって、感染レベルの国際標準がつくられるかもしれません。
そうすると、今むやみに感染を抑え込んでもむだになってしまいます。


今、新型コロナによる日本の死者は1000人程度です。
肺炎の死者は毎年9万人余りですから、冷静に考えると、新型コロナはぜんぜん大した病気ではありません。
アメリカみたいに感染が拡大するのは困りますが、これからは「国際標準」ということを意識していいかもしれません。

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幼児虐待の原因のひとつに、家庭が密室化していることが挙げられます。
大家族や地域社会の中で子どもが見守られていれば、虐待はそんなに起こりません。
ですから、各人が近所の子どもの様子を気にかけて、声かけしたりするのもたいせつです。

しかし、「子育ては親の専権事項」とでもいうのか、外部の口出しを嫌う親も多いようです。
確かに無責任な口出しは困りますが、口出しを拒否する親も問題です。

次はたまたま見かけた記事で、子育てへの他人の口出しを親が拒否するのですが、親の理屈がそうとうへんです。にもかかわらず、親に賛同する声が多いというので首をかしげてしまいます。


スーパーで「お菓子欲しい」とごねる息子すると知らないオジさんから『衝撃の言葉が』ネット民「素晴らしい考えと返し」
Twitterでこんなツイートが話題です。

「スーパーでお菓子欲しいとごねる3歳息子をたしなめてたら、知らんおっちゃんから「お菓子の一つくらい買ったらすぐ終わるだろうに」と言われ、買った方が楽なことくらい百も承知じゃクソが!!の代わりに「約束の練習中なんです、うるさくしてすみません」と笑顔で返したので5億ほしい。」

すんなりと子どもの言うことを聞けば静かになるとはわかっていても、甘やかしてばかりでは子どものためになりませんよね。なかなか難しい場面です。投稿者さんは「約束の練習中なんです、うるさくしてすみません」と笑顔で返したそうです。


他のユーザーからは↓
・素晴らしい考えと返しと子育てですね
・働いてる側はわかってますよ。お母さん達、頑張ってる!
・約束の練習!良い響き!頂きます。

世のお母さん達は頑張っています、見かけた場合は優しく見守りましょう!
いまトピが伝えています。


「いまトピ」のもっと詳しい記事はこちらで読めます。

母親の事情もわからないのに口出ししてくるおっちゃんも問題ですが、母親が「約束の練習中なんです」と返した言葉は、明らかに嘘でしょう。嘘を言ってはいけません。

しかも、「約束の練習中」という言葉もへんです。
「約束」は国語辞典によると「当事者間で取り決めること」などとなっています。基本的に対等の関係でなされるものでしょう。
子どもと親の間の約束があるとすれば、「今お菓子をがまんすれば、あとでオモチャを買ってあげるね」といったものです。
しかし、現実には親が子どもより優位の関係にあるので、親が一方的に子どもに約束をさせていることが多いでしょう。こういうのは命令と同じです。
この母親が言う「約束の練習中」は、「親の命令に従う練習中」という意味です。

この母親は自分なりのルールをつくっているのでしょう。
しかし、子どもが守るルールを親がつくると一方的になり、ブラック校則ならぬ“ブラック家則”になりがちです(「家則」という言葉はないようです。「家法」ならあります)。

ちゃんとしたルールがあるなら、嘘をつく必要はなく、たとえば「さっきからお菓子を食べすぎていて、ご飯が食べられなくなりますから」とか「この子はアレルギーなので」とか言えるはずです。

ともかく、世の中にはこういう母親もいるとして、問題はツイッター上で、「そんな嘘をつくのはよくない」という意見はほとんどなくて、「うまい言い方ですね。真似します」みたいな意見ばかりだったことです。
こんな親が多くては、「地域で子育て」などとうていむりですし、家庭の密室化が進んで、幼児虐待がますます増加しそうです。



こうした問題が生じるのは、子育てのあり方が過渡期にあるせいかもしれません。
これまでは、子どもを甘やかすのはよくない、きびしく育てるべきだという考え方が主流でした。
しかし最近は、体罰がいけないのはもちろん、叱るよりもほめることが推奨され、子どもが幼いうちは十分に親に甘えさせるべきだという考え方が強まっています。

この母親は、子どもは甘やかすべきではないという古い考えですが、自分の考えに自信が持てなくなって、「約束の練習中」などという言葉でごまかしたのかもしれません(反対に、子どもを叱らない子育てをしている親が世間の目の前に肩身の狭い思いをしている場合もあるでしょう)。

子どもにはきびしくするべきだという考え方は、「子どもを甘やかすと子どもは限りなくわがままになって、最終的にわがままなモンスターになる」という考え方に基づいています。
しかし、この考え方は間違いです。それは動物の子育ての様子を見ればわかります。
動物の親は、子どもに食べさせることと子どもの安全に気を配るだけで、あとはすべて子どもの自由にさせています。それでも子どもはモンスターにならず、普通に育ちます。人間も同じはずです。

親が自分の子どもを信じられないというのは人間特有の不幸です。
そういう親は、動物の子育ての映像などを見て学ぶのがいいと思います。

子どもを自由にさせていると、スーパーなどで子どもが周りの人に迷惑をかけて、文句を言われることもあるでしょう。
そんなときは子どもを守るのが親の役割です。
子どものすることはすべて子どもの発達に必要なことです。

親と子がよい関係である社会は、平和で健全な社会です。

なぜ子育て中の親が肩身の狭い思いをして嘘をついたりしなければいけないのか、考え直してみてはどうでしょうか。

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日本では新型コロナウイルスの新規感染者数が7月3日、4日と200人を越え、第2波の到来が懸念されていますが、アメリカではこのところ連日、新規感染者数が5万人を越えています。
アメリカと日本の人口の違いを考慮しても、アメリカは日本の100倍も感染者が出ていることになります。
ヨーロッパではある程度抑え込みに成功していますが、アメリカではむしろ増加ペースが高まっています。

国別感染者グラフ
https://www.anzen.mofa.go.jp/covid19/country_count.html

ブラジルは、ボルソナロ大統領が新型コロナウイルス感染症を「ちょっとした風邪」と呼び、経済活動を止めないという方針なので(州政府は独自に対応)、感染拡大もやむをえないのかなと思いますが、アメリカは一応対策をとっていながらこの数字です。

新型コロナウイルスの感染については地域差がひじょうに大きくて、その理由はまだよくわかっていませんが、私はとりあえず文化的社会的な側面について、なぜアメリカで感染がこれほど拡大するのかについて考えてみたいと思います。


手掛かりはマスクです。

日本から見て不思議に思うのは、欧米人はマスクを着けることに妙な心理的抵抗があるらしいことです。
私は最初、マスクを着けるのはアジア人というイメージがあるので、欧米人はアジア人への差別意識からマスクを着けないのかと思いました(欧米では握手をしなくなっているので、代わりにおじぎをすればいいと思うのですが、やっていません。これも差別意識かもしれません)。

しかし、ヨーロッパではマスクを着けるのが今では普通に行われるようになっています。
問題はアメリカです。アメリカではトランプ大統領を初め今でもマスクを着けない人が多くいます。


なぜアメリカ人はマスクを嫌うのでしょうか。
西部劇などの銀行ギャングはスカーフで顔を隠すので、顔を隠すのは悪人のイメージだからだという説があります。しかし、悪いことをするときに顔を隠すのはアメリカ人に限りません。
テレビである心理学者が、アジア人は相手の目を見て心理を読むが、欧米人は口元を見て心理を読むのだと言っていました。だから、サングラスは欧米で普及しても日本ではあまり普及しないのだということです。
テレビ朝日系「大下容子ワイド!スクランブル」では、アメリカでは正義のヒーローは目を隠しても口は隠さないのだと言って、例としてキャプテンアメリカやバットマンやロボコップを挙げていました。
これらは話としてはおもしろいのですが、理由としては弱い気がします。

もっと単純に、マスクをするのは弱いイメージだからだという説が有力だと思います。

ウイルスから自分を守るためにマスクをするのだとすると、マスクをつける人間はウイルスを恐れる弱い人間だということになります。
トランプ大統領は、ディールを得意としていますが、つねに強さを誇示して相手を圧倒するというやり方です。少しでも弱みを見せるとディールは不利になるので、自分のマスク姿は見せたくないでしょう。

強さを誇示するやり方は、男性性と結びつけて、マチズモとか男性優位主義と言うのが一般的です。
しかし、最近は強さを誇示することは男性に限るものではないので、マチズモという言葉は当てはまらない気がします。
とりあえず「強さを誇示する文化」とでも呼んでおきます。

アメリカは独立戦争以来、強さを誇示しながら発展してきました。先住民の土地を奪うときも、黒人奴隷を使役するときも、強さを誇示すると有利に運びます。西部では男は腰に銃をぶら下げるのが普通でした。
ですから、強さを誇示するのはアメリカの伝統文化です。
アメリカの保守派はこうした伝統文化を重んじ、銃規制に反対しますし、マスク着用にも反対です。

トランプ大統領の演説会に集まる人たちはほとんどマスクをしていません。
一方、「Black Lives Matter」を掲げてデモをする人たちはほとんどマスクをしています。
保守派とリベラルの違いがマスクに表れています。

マスクをしないような人は、手洗いやソシアルディスタンスもきちんとしないでしょう。
トランプ支持の保守派は人口の4割程度います。イタリアやスペインで爆発的に感染が広がったころの生活習慣を持った人が今もアメリカに4割程度いるため、アメリカで感染が広がり続けているのだと思われます。


トランプ大統領は感染が始まった初期の段階から、「ウイルスは暖かくなれば消え去る」と楽観論を述べ、感染が拡大してくると、「アメリカがほかの国より検査を多く行っているためで、名誉の印だ」と言い、5月8日には「新型コロナウイルスはワクチンがなくても消滅する」とまったく根拠のないことを言いました。

7月2日には、2日連続で感染者が5万人を越えましたが、トランプ大統領は記者会見で「我々はこの病気を理解している。すぐに収束できる」と楽観論を語り、ペンス副大統領も「個々の局所的なものだ」と言いました。
普通なら感染が拡大すると、「事態は深刻だ。国民はいっそう感染防止に努めてもらいたい」と国民の危機意識に訴えかけるところですが、まったく逆のことをやっています。

ちなみに日本では、マスコミが感染の初期の段階で危機感をあおりすぎて、今でもまだ恐れすぎの傾向があるかもしれません。アメリカの100分の1程度の感染で騒いでいます。


トランプ大統領は国民をウイルスから守らねばならないのですが、「守る」というのは弱い人間のすることだと思っているので、できません。その代わりにもっぱら「攻撃」をします。
トランプ大統領は国内で感染が拡大すると、中国とWHOに責任があると言ってひたすら「攻撃」しました。
また、感染のごく初期の段階でいち早く中国とヨーロッパからの入国を禁止しましたが、これもトランプ大統領においては「攻撃」だったからでしょう。

4月23日には、家庭用漂白剤が新型コロナウイルスの消毒にも有効だという研究発表を受けて、トランプ大統領は「(新型ウイルスを)1分でやっつける消毒剤もあるだろう。1分だ。そういうのをやる方法はあるかな? 体内への注射とか」と語り、消毒剤を注射してもいいのかという電話相談が急増するという騒ぎになりました。
5月18日には、新型コロナウイルスの感染予防のため抗マラリア薬「ヒドロキシクロロキン」を毎日服用していると言いました。この薬は新型コロナウイルス治療薬としては未承認であり、さらに深刻な副作用のリスクが指摘されたことから、20日には服用をやめると表明しました。
まったくのでたらめをやっているようですが、トランプ大統領においては、消毒剤や治療薬はウイルスに対する「攻撃」なのでしょう。


現在、「Black Lives Matter」を掲げるデモや、アメリカの歴史上の偉人の像を撤去する運動が盛り上がっています。
日本から見ていると、なにも新型コロナの感染が拡大する真っ最中にしなくてもいいのにと思えますが、アメリカでは、感染拡大を防げないトランプ大統領ら保守派の権威が失墜し、今まで抑え込まれてきたマイノリティやリベラルが力を解き放っている状況なのでしょう。
そういう意味で、新型コロナウイルスはアメリカ社会を根底から揺り動かしているのかもしれません。


トランプ大統領は7月1日、FOXビジネスのインタビューで「マスクには大賛成だ」と述べ、公的な場で自分がマスクを着用することには「なんの問題もない」として、方針転換したようです。
しかし、7月4日の独立記念日の祝典で花火大会と大規模な集会を開催し、トランプ大統領が演説したとき、大統領はもちろん集会に参加した数千人はほとんどマスクをつけていませんでした。

現在、アメリカでは保守派対ウイルスの戦いが行われていて、その成り行き次第で、保守派対リベラルの力関係も、大統領選挙の結果も決まるのではないかと思われます。

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読書感想文は必要か――という国語教師らしい人物の問いかけをきっかけに、ツイッター上で必要派と不要派が議論を繰り広げたそうです。

この問いは、学校は必要か、教育は必要かという大きな問いにつながっているので、簡単には答えられませんが、読書感想文のあり方を改革するという答えなら簡単に示せます。

とりあえずどういう議論があったかの記事を示しておきます。


「読書感想文は必要か?」国語教師の問いかけが議論呼ぶ…「強制がよくない」「自分の意見を持つ訓練になる」 
読書感想文は必要か——国語の教員だという人物からの問いかけを発端にTwitterで議論が交わされている。

学生時代、夏休みの宿題やコンクールへの応募のために提出が求められた読書感想文。その必要性に疑問を投げかけている投稿者は、本来、読書は「知りたいから」「自分が好きだから」読むもので、強制されるものではないとしている。そして、感想文を書かされることで「読書が憂鬱になる」「日本人の読書嫌いと作文嫌いを助長している」と語っている。さらに、「原稿用紙はこう使いなさい」「作文はこう書きなさい」という形式的指導のせいで「メッチャ堅苦しい、つまらないものになっている」とも述べている。

この投稿がきっかけとなり、読書感想文は不要か必要かの議論に。読書感想文が嫌いになった子どもの頃の体験や、大人になってどう役立つのかの解説など、様々な意見が寄せられていている。

■不要派

「頑張って書いた読書感想文を授業参観の日に『ただのあらすじで感想文になってない』と担任に言われてから文章書くのが暫く嫌いになりました」

「そもそも読ませる相手が明確になってないから、小中学生にとっては超絶難しい作文」

「強制でやらせるものではないですね。本嫌いの一因になっている」

■必要派

「読んだだけで終わりになることの方が勿体無い。読んで、様々な角度から感想を考えてみることで逆に楽しみ方が増える」

「自分の意見を持つ訓練になるから必ず将来に役立ちます」

「自分の気持ちを明確に理解し他者へ可能な限り正確に伝えるという、人間として大事なコミュニケーション能力を鍛える大事なもの」

「医師として思うのは、『問題点を集約せよ』『それに対しどう思ったか』の能力は大変重要で、出来ない人間の相手は困難を極めます。重要」


議論は、「不要」「必要」に留まらず展開。「内容を誉めなきゃいけないようで大嫌いでしたが、あるとき酷評したら愉しかった」「ちゃんと授業として少なくとも1時間は『読書感想文の書き方』を指導して欲しい」「教師の指導力と人員を割けるかの問題」といったコメントも寄せられている。
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0629/blnews_200629_9132066413.html


読書感想文を書くことには当然意味があって、とりあえず一冊の本を読んでなにがしかの知識が得られますし、感想文を書くことで文章力も鍛えられます。
教師もそれを狙って読書感想文を書かせるのでしょう。

しかし、「感想」を書くことに意味があるのかというと、これがよくわかりません。
普通の人はありきたりの「感想」しか書けません。当然、教師にいい評価をされるとは思えません。それがわかっているので、読書感想文を書くのがいやになるのです。

そこで、改革案を考えました。
「感想抜きの読書感想文」にすればいいのです。


一冊の本を読んで、その内容を要約した文章を、たとえば原稿用紙三枚で書きなさいといった課題にします。小説であれば、そのあらすじを書きます。
その本を読んでいない人に、どういう内容の本であるかを理解させる文章を目指します。

内容を要約するには、その内容をよく理解しなければいけないので、自然と読解力が鍛えられます。
もちろん文章力も鍛えられます。
頭の筋トレみたいなものです。
10冊ぐらい書けば、かなり鍛えられるでしょう。

読解力と文章力が鍛えられたら、国語教育の目的はほとんど達成できたも同然です。


現在の国語教育は「文学」に寄りすぎていると思います。
作文教育は、「枕草子」や「徒然草」みたいな文章を書くことが理想になっているのではないでしょうか。
読書感想文で「感想」を書かせるのも、それに近いものがあると思います。

しかし、子どもが書いた「感想」を教師は評価できるでしょうか。
「こんな普通の感想じゃだめだ。もっと独自の考え方を示しなさい」と言われても、子どもは対処しようがありませんし、傷つくだけです。

「文学」を教えるのは、教師の個人的な力量に依存する要素が大きいので、全国一律にすることではないと思います。
学校では「文学についての知識」だけ教えればよく、これならテストで評価できます。



とはいえ、当面読書感想文を書かせるという今のやり方が続いていくことになりますから、それにどう対処するかを考えなければなりません。

読書感想文を評価するのは担任の教師だとします。
その場合、「担任の教師に評価される感想文」を目標にします。
そのためには、担任の教師の趣味嗜好、思想傾向を知り、それに合わせて書かなければなりません。
これはむずかしいことですが、このスキルは必ず役に立ちます。
「読者を念頭に置いて、読者に理解される文章を書く」というのは文章の基本だからです。
これは「国語の成績を上げる」ということに直結するので、モチベーションアップにもなります。


今回、「読書感想文の書き方」で検索してみると、いろいろなアドバイスがありますが、「教師に合わせて書く」というアドバイスは見当たりません。
教師目線で子どもにアドバイスするものばかりです。

「その本のどこに心を動かされたかを書こう」というアドバイスがあって、教師はこういうことを求めているのだなと思いました。
しかし、こうした内面を表現するには教師と子どもに信頼関係がなければいけません。
たいていそういう信頼関係はないので、子どもは困惑するばかりです(そもそもなぜ教師は子どもの内面をのぞきたがるのかという問題もあります)。

教師も子どもも、読書感想文を読解力と文章力を鍛えるための手段ととらえると、すっきりします。

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