村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2021年04月

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3度目の緊急事態宣言が4月25日に発令されましたが、その効果に関係なく、5月11日に解除すると決まっています。
IOCのバッハ会長が17日に来日するのに合わせたのだと言われています。
バッハ会長に「コロナに打ち勝った日本」を見せたいのでしょうか。

バッハ会長が「東京五輪は中止だ」と言うとすべてが終わってしまいます。
そうでなくても、バッハ会長の来日は世界に報道されるので、日本が緊急事態宣言を解除していないと、それが世界に知られて、選手団の派遣を中止する国が次々と出てくるかもしれません。
そうならないように、菅義偉首相としても必死なのでしょう。

吉本新喜劇の定番ストーリーで、偉い人が視察にきたとき、不都合な事実を隠すためにみんなで口裏合わせをしたものの、それがうまくいかずにドタバタ劇が起こるというのがありますが、それを思い出します。


東京五輪の開催か中止かの判断は、最終的に誰がするのでしょうか。
菅首相は23日の記者会見における質疑応答の中で、3度にわたってIOCに決定権があるようなことを言いました。

 オリパラに向けては、足元の感染拡大を静めることに、まずは全力で取り組みます。IOC(国際オリンピック委員会)は東京大会を開催することを、これは既に決定しています。IOCとして。そのことは各国のオリンピック委員会とも確認しております。政府としては東京都、組織委員会、IOC、しっかり連携を取って、安全安心の大会にすることができるように対策をしっかり講じてまいりたいと思います。

   *

まず、東京オリンピックですけれども、これの開催はIOCが権限を持っております。IOCが東京大会を開催することを、既に世界のそれぞれのIOCの中で決めています。そして、安全安心の大会にするために、東京都、組織委員会、そして政府の中で、感染拡大を防ぐ中でオリンピック開催という形の中で、今、様々な対応を採らせていただいています。

   *

(記者)
 今のに関連してお伺いいたします。フリーランスの江川紹子と申します。よろしくお願いします。
 今、総理は、オリンピックについてはIOCが権限を持っているとおっしゃいました。しかし、IOCは日本国民の命や健康に責任を持っているものではありません。そういう観点で、しかも、さっき総理はスピーチで事態は全く予断を許さないとおっしゃいました。尾身会長からもリバウンドは必ず来るというようなお話もありました。そういう中で、何とかやりたいというのはすごく分かるのですけれども、もしかしたら、どのような状況になったら中止もやむを得ないというような判断基準のようなものは総理の中にあるのでしょうか。あるとすれば、それは何でしょうか。(中略)
(菅総理)
 まず、IOC、オリンピックですけれども、IOCがそれぞれの国のオリンピック委員会と協議した上で決定しています。当然、日本が誘致していましたから、それは日本も当然、東京都、組織委員会、その中に入るわけですけれども、そういう中で、開催する方向で今、動いています。それで、開催する中で、IOCと東京都、組織委員会、そして日本政府、そういう中で会合をして、例えば先ほど申し上げましたけれども、外国人の、いわゆる応援される観光客の方には遠慮してもらうことをまずは決めています。それぞれ選手団の中で何人とかそうしたことも一つ一つ、日本に入国する人数も精査しながら行っているということを承知しています。(後略)
https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0423kaiken.html

菅首相はまったく同じことを3度も繰り返しています。
要するにIOCが決めたことだから、自分には責任がないと言いたいのです。
歴代首相を振り返っても、これほど露骨に責任逃れをする首相は見たことがありません。


5月11日に緊急事態宣言を解除すれば、宣言の期間は17日間ということになり、これでは大した効果は見込めません。
解除後は宣言前と同じ状態になるわけですから、また感染は拡大します(変異ウイルスのために拡大のスピードは上がるかもしれません)。

菅政権にこういう認識はないようです。これまでもつねに甘い見通しを持って、宣言を早めに解除したり、GoToキャンペーンをやったりして、感染拡大を招いてきました。

ともかく、宣言を解除してから7月23日の東京五輪開会に向けて、感染者が増加していくのは確実です。
世界においても、一時は減少傾向でしたが、変異ウイルスのせいか、このところまた増加傾向にあります。


現在、コロナ下においても東京五輪は開催される予定ですが、これを運動会にたとえると、「少雨決行」ということです。
せっかく運動会の準備をしてきたのですし、運動会を見るのを楽しみにしている人もたくさんいるので、国民も「少雨決行」はしかたがないと思っています。
しかし、大雨になれば話は別です。
大雨になれば、責任者が運動会の当日の朝、できれば前日に中止の決定をして、関係者全員に連絡をしなければなりません。

ただ、この判断がむずかしい。
中止にすれば、「この程度の雨ならできたじゃないか」と言われることがありますし、決行すれば、「なんで中止にしなかったんだ」と言われることもあります。

東京五輪の「コロナ下決行」を判断するのは、運動会の「雨天決行」を判断するよりもはるかにむずかしく、しかも責任が重大です。

この判断をするのは当然菅首相と思われますが、菅首相は記者会見の言葉からもわかるように、徹底的に責任逃れをしています。
中止の判断をするべき状況になってもなにもしない可能性があります。

ポジション的には橋本聖子五輪組織委会長が判断してもよさそうですが、そんな責任を負える人間とは思えません。

小池百合子都知事は、スタンドプレーの好きな人ですから、大胆に中止を言い出す可能性があります。
しかし、都知事のしがらみも大きいでしょうから、あまり期待はできません。

二階俊博自民党幹事長は、東京五輪について「これ以上とても無理だということだったらスパッとやめなきゃいけない」と発言して注目を集めましたが、なにを考えているのかわかりません。

結局、誰もなにも判断できないまま、土砂降りの中、五輪開催へ向けて突き進んでいくということも考えられます。

太平洋戦争末期、なかなかポツダム宣言受諾の判断ができず、本土決戦へ向かって突き進んでいった状況とそっくりです。


中止の決断をするのは、外国選手団が日本に到着する前でければならないでしょう。
そのときまでに誰が最終判断をすると決めておかなければなりません。

東京五輪の1年延期を決めたのは安倍首相(当時)でした。
去年の3月、安倍首相はバッハ会長に電話して、五輪開催を1年程度延期することを提案して同意をとりつけ、記者に発表し、その後、組織委とIOCが共同声明を発表するという手順でした。
五輪開催か否かという重要問題を判断するのはやはり首相です。

野党、マスコミ、国民は、五輪開催の責任は首相にあるのだということを菅首相に認識させなければなりません。

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YouTuberの「少年革命家ゆたぼん」(12歳)さんが自身のYouTubeチャンネルで「いよいよ今年度から中学生になんねんな。でも俺は、中学校に行く気はありませーん!」と不登校を宣言。義務教育については「教育は学校に行くことだけじゃないから。おれみたいにホームスクーリングとかフリースクールでもええねん」と主張しました。
これがきっかけで、「なんのために学校へ行くのか」という議論が巻き起こっています。

格闘家でYouTuberのシバター氏は、「ゆたぼん君に学校の良さを伝えたい」のタイトルで動画をアップし、「学校に行くとほんとうの友だちができる。仕事が縁で知り合った人間は多少なりとも利己的な部分があるが、子どものときにできた友だちは、2人に経済的な格差ができても、その関係は変わらない」と主張しました。
これに対してゆたぼんさんは、動画の中で「パパとかシバターさんの中学時代はネットもスマホもなく、友だちを作る場所が、たぶん学校しかなかったから、そんなことを言ってるんやと思う」「中には、学校に行ったけど友だちが一人もできひんかったって人もおるわけやん」などと反論しました。

2ちゃんねるの創始者である「ひろゆき」こと西村博之氏はツイッターで、ゆたぼんさんの親を批判し、「子供を学校に通わせないで、身の回りの出来事を学ぶことで生きる力を云々という頭の悪い親がいますが、身の回り生活からどうやって虚数の概念を学べるのか聞いてみたいです」「『虚数なんて知る必要がない』と考える人は知識が足りない」と主張しました。
ゆたぼんさんの父親はひろゆき氏に反論して、ツイッター上でバトルを繰り広げました。

虚数の概念を学ぶことにどれだけの価値があるのかというのはむずかしい問題ですが、いずれにせよ、学校に行かなければ虚数を学べないということはないはずです。

昔は学校に行かないと学ぶ機会はまずありませんでした。
発明王のエジソンは学校をやめたあと、教師の経験のあった母親から学びましたが、これは例外です。

しかし、今はインターネットがありますし、フリースクールなどの代替学校もあります。

最近は不登校の子どもが増えているので、文科省も「不登校は誰にも起こりうる」という認識に立ち、代替学校へ通ったことを「出席扱い」とするなどの対応を進めています。



どこでも学べるようになると、「なんのために学校へ行くのか」という問いに対しては、シバター氏のように「学校に行くと友だちができる」といったことしか言えなくなります。

あと、「集団(団体)生活に慣れるため」という理由もよく挙げられます。
しかし、これはおとなの論理です。
「集団生活に慣れたい」と思っている子どもはいないので、子どもを説得するためには使えません。


しかし、考えてみれば、学校はほとんどタダで幅広い教科を教えてくれるのですから、これほどありがたいところはありません。
それでも不登校の子どもが増えるのはなぜでしょうか。
それは、学校教育の目的が根本的に間違っているからです。


学校教育について理解するために、江戸時代の寺子屋と比較してみます。

寺子屋の目的は「読み書き算盤」を教えることです。
読み書き算盤は子どもが生きていく上で必要なことですから、親は月謝を払い、子どもも納得して寺子屋に通いました。
一斉入学ではないので、指導はすべて個別指導です(商人の子、職人の子、百姓の子によって教材も違いました)。
先生がきびしく子どもを指導するということもありません。そんなことをすれば子どもはほかの寺子屋に行ってしまいます。
子どもにとって寺子屋の先生は生涯唯一の師匠なので、その絆は深く、先生が亡くなるとかつての生徒たちがお金を出し合って筆子塚というお墓をつくることがよくありました。寺子屋の記録というのはほとんどないので、今に残る筆子塚を調べて、昔の寺子屋の数が推定されました。
つまり寺子屋の教育は「子どものため」でした。

明治5年、学制が公布され、学校制度が始まりました。
「学制序文」の冒頭はこう記されています。



人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ


「人々が立身し、生計の道を立て、業を盛んにして、よい人生を送る」ということを目標に掲げ、そのためには学問をするしかなく、そのために学校を設けるのだと言っています。

これは福沢諭吉の『学問のすすめ』と基本的に同じ考え方です。
このときの学制はフランス式で、個人主義、実学主義でした。
つまり学校に行って勉強すれば、社会的地位が高く豊かな生活ができるようになるということで、学校教育は寺子屋と同じで「子どものため」でした。

しかし、帝国憲法と教育勅語によって、教育の目的はがらりと変わります。

教育勅語(文部省による現代語訳)にはこう書かれています。



汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。


「公共の利益」や「世のため」や「皇室国家の為」がうたわれ、「一身を捧げ」ることまで求められています。
つまり学校教育の目的は「富国強兵」になったのです。



敗戦により、国のあり方は大きく変わりました。
その中で教育基本法が1947年に制定され、2006年に改定されました。
教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。




(教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


「人格の完成」というよくわからない言葉が入っています。
「人間は死ぬまで修養である」というのが日本人の考え方です。
しかし、「人格の完成」というのは、どこかに行き止まりがあるわけです。プラトンの「イデア」か、アリストテレスやカントの「最高善」から持ってきたのでしょうか。
いずれにせよ、「人格の完成を目指したい」という子どもなどいないので、子どもにとってはよけいなものです。

意味不明な「人格の完成」という言葉を無視すると、ここには「国家及び社会の形成者」と「心身ともに健康な国民」の育成がうたわれていて、子どもを社会や国家に役立つ人間にしようとしていることがわかります。
「平和」や「民主」という言葉で飾られていますが、その実態は国家主義のままなのです。
左翼やリベラルがここを批判しないのは不思議です。

教育基本法を制定するとき、寺子屋や福沢諭吉の時代にまで戻らなければなりませんでした。
たとえば、次のようにあるべきです。

(教育の目的)
第一条 教育は、子どもの現在と将来の幸せを期して行われなければならない。

子どもは一人一人能力も性格も違いますから、必然的に個別指導にならざるをえません(一斉授業というのは教える側の都合だけで行われています)。
そういう学校なら、ゆたぼんさんも登校拒否をしなくてもすんだかもしれません。

現在の教育を巡る混乱は、「国家社会のための教育」か「子どものための教育」かという視点で見ると明快になります。
理不尽な校則による人権侵害が平気で行われているのも、子どものための教育ではないからです。
教師は、自分は子どものために働いているのか、国家の手先になって子どもを隷属化させるために働いているのか、考え直さなければなりません。


子どもが不登校になると、親や世の中はなんとかして子どもを学校に行かせようとします。
しかし、これは服が体に合わないとき、体を服に合わせようとするのと同じです。
子どもの人間性や能力や性格は生まれ持ったものなので、変えることはできません。
学校を変えて子どもに合わせるのが正しいやり方です。

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白血病で長期療養していた競泳の池江璃花子選手が東京五輪代表選手に内定し、“奇跡の復活”としてもてはやされています。

池江選手は2019年2月、白血病と診断され、造血幹細胞移植を受けるなどの闘病生活を送りました。
そして、2020年8月、東京都特別水泳大会に出場して選手活動を再開しましたが、体が細くなって、前よりかなり筋肉が落ちているのが見た目にもわかりました。
しかし、4月4日、日本選手権の女子100メートルバタフライで優勝し、400メートルメドレーリレーの東京五輪代表入りを決め、さらに8日には女子100メートル自由形でも優勝し、400メートルリレーでも代表入りを決めました。
“奇跡の復活”と言われたのは当然です。

とくに4日の池江選手の涙のインタビューに心を動かされた人が多かったようです。


そして、そうした感動を利用しようという人もいます。
池江選手の復活劇を東京五輪開催に結びつけて、「東京五輪を中止しろと言っている人は池江選手の前でも言えるのか」と主張しているのです。
こうして五輪開催反対の声を封じようというのです。

池江選手は、東京五輪が中止になったら、せっかく手に入れた五輪の切符が無意味になって、がっかりするでしょう。
しかし、五輪大会は誰か個人のために開催するものではありません。
「中止になるはずだったのを池江選手のために開催した」ということになると、池江選手にたいへんな責任がかかってきます。

どんな感染対策をしても、開催すれば開催しないよりも確実に新型コロナ感染者が増えます。そうすると、感染者が増えたのは池江選手のせいだとして批判する人も出てくるでしょう。
いずれにせよ、五輪開催という重大事を個人と結びつけてはいけません。


それから、池江選手の努力や精神力に感動したという人がいるのですが、こういう人にも困ったものです。
私は池江選手の復活をすごいと思いましたが、なにをすごいと思ったかというと「体の回復」です。

白血病は大病ですから、治ったといっても、体が百パーセントもとに戻ることはないか、戻ってもかなり時間がかかるのではないかと思っていました。
今はまだ百パーセントもとに戻ったかどうかわかりませんが、それに近いところまで戻ったわけで、そのことがなによりの驚きです。
これは医学のおかげで、それに加えて池江選手の身体能力がもともと高かったからです。

それから、衰えていた体をもとに戻すのに適切なトレーニングが行われたに違いなく、そのことにも感心しました。
もちろんそれは本人とコーチの力によるのですが、これも努力や精神力ではなく技術の問題です。

つまり池江選手の“奇跡の復活”は、本人の生まれ持った身体能力と医学と科学的トレーニングのおかけで、努力や精神力のおかげではありません。
ここは重要なところです。

身体の問題を精神で解決できるというのは「精神主義」です。
日本では軍国主義の時代に精神主義が広がり、いまだに残っています。

スポーツの世界では、優れた能力を持ったアスリートが病気や体の故障で無念の思いで競技の世界を去っていくということが山ほどあり、精神主義の無意味なことがわかります。


ところが、世の中には精神主義がはびこっているので、ものごとを身体の問題ではなく精神の問題ととらえがちです。
池江選手自身もインタビューで「努力は必ず報われるんだなと思いました」と語ったために、ややこしいことになりました(もちろん努力しても必ず報われるとは限りません)。

マスコミは、この復活劇を感動話にするために、よりいっそう池江選手の精神面に注目します。
そのため、白血病はどんな病気で、どのように治癒するのかとか、体力の回復のためにどんなトレーニングをしたのかといった価値のある情報がまったく伝わってきません。


精神主義と似ていますが、道徳の問題としてとらえる人もいます。
「東スポ」によると、5日朝のフジテレビ系ワイドショー「めざまし8」でコメンテーターの橋下徹氏は、この話をぜひ道徳の教科書に載せてほしいと主張したそうです。
 ショッキングな白血病告白から2年2か月、これほど早い五輪代表復帰と、直後の涙のインタビューは日本中、いや世界中を感動の渦に叩き込んだ。

 この大偉業にコメンテーターの橋下氏も興奮。「ぜひ道徳の教科書に、絶対に載せてほしい! このストーリーは子供たちに伝えたいし、家庭内の食事中にもこの話をしてほしい」と熱弁した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/553ac35d88a1482693ee958ba63cee5b9e1d29a6

私の考えでは、もしこの話を教科書に載せるなら、道徳ではなく保健体育の教科書です。
白血病の知識と、リハビリテーションやトレーニングの方法を学ぶ材料になります。
道徳の教科書に載せたら、子どもたちは白血病は努力で克服できるのかと誤解しかねません。


自民党は道徳教育を強化しているので、ほんとうにそんな道徳の教科書ができるかもしれないなと思っていたら、現実はその先を行っていました。

朝日新聞が「福島で被災の雑種が災害救助犬に 挑戦11回、葛藤の末」という記事で、「じゃがいも」という犬が災害救助犬になったという話が小学校の教科書に載ったと書いています。
この記事の冒頭だけ引用します。

 福島第一原発事故で全村避難した福島県飯舘村の住民から引き取られ、災害救助犬になった雑種犬がいる。認定試験に何度落ちても挑戦し、11回目でようやく合格した。頑張るその姿は、小学校の道徳の教科書に採用された。救助犬としての期間は残りわずかだが、いつでも出動できるように訓練を重ねる。

試験に10回落ち、11回目で合格したことを記事は「頑張る」と表現していますが、犬がみずから試験を受けたわけではなく、犬の世話をしているNPO法人「日本動物介護センター」の人が受けさせたわけです。
この話から子どもに「諦めない心」を学ばせようというのはむりがあります。
そんなことより災害救助のノウハウを教えたほうがよほど有益です。


災害救助犬をつくるには、素質のある犬を選び、適切な訓練をしなければなりません。犬の「頑張り」は関係ありません。
池江選手の復活も、本人の身体能力と医学の力と適切なトレーニングがあってこそです。それがなければ、いくら池江選手ががんばってもどうにもなりません。

精神主義的な感動話ばかりの報道はいい加減にしてほしいものです。

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広島、長崎の被爆者の体験談を読むと、瀕死の重傷者から「水を飲ませてくれ」と訴えられたが、「重傷者に水を飲ませると死ぬ」と言われていたので飲ませなかったという話がよく出てきます。
同様の話は各地の空襲被災者や戦場での兵士の体験談にもあります(ただ、被爆者の体験談にひじょうに多いので、火傷と喉の渇きは関連しているのかもしれません)。

しかし、そうした体験をした人はたいてい、死ぬ間際の人の最後の訴えを聞き入れなかったことをずっと悔やみ続けています。


私はこうした話を読んだり聞いたりするたびに、「重傷者に水を飲ませると死ぬ」というのを疑問に思ってきました。
というのは、進化論的にありえないと思うからです。

もしけがをした動物が水を飲むと死ぬ確率が高くなるなら、「けがしたときに水を欲する性質」を持った個体は死ぬ確率が高く、その性質は淘汰されて消えていきます。
「けがしたときに水を欲する性質」が広く人類に存在するなら、それは生存に有利な性質だからと推測できます。

たとえば、火傷した人は体温が高くなっているので、水を飲むのは体を冷やすことにもなります。
出血している人は、水を飲んで血液を薄めることで、流出する血液成分を少なくすることができます。
あるいは、出血で体の体積が急に縮小して体のバランスが崩れるので、水を飲むことでバランスを回復するということもあるかもしれません。

水を飲むマイナスも考えられます。
たとえば、胃腸が傷を負っているとき、水を飲むと胃腸が反応して動くので傷が拡大するということはありそうです。
しかし、考えられるマイナスはそれぐらいではないでしょうか。

生死の瀬戸際で強い生理的欲求が起こったら、それは生存に必要なことに違いなく、その欲求を満たすと死んでしまうというのはとうていありえないことに思えます。


私の考えに医学的根拠はありませんが、「重傷者に水を飲ませると死ぬ」ということにもまったく医学的根拠はありません。
俗説というべきものです。
よくコントで、冬山で遭難したときに「眠るんじゃない。眠ると死ぬぞ」と言うのがありますが、それと同じです。


そうしたところ「KESARI/ケサリ 21人の勇者たち」というインド映画を観ていたら、戦場の負傷者がみな水を欲するということが出てきたのですが、そのとらえ方が日本とまったく違っていたので驚きました。




1897年、インド北部のサラガリ砦で21人のシク教徒の守備兵が1万人のアフガニスタンの部族の軍勢と戦ったという史実に基づく映画で、インドでは大ヒットしたそうです。
ジャンプしながら銃を撃つ過剰なアクションや、一か所だけですが歌と踊りのシーンもあり、お決まりの英雄的な戦いを描いていますが、インド映画らしい勢いがあって、154分が苦にならずに観られました。


砦にパシュトゥン人の料理係がいて、砦が包囲されていざ戦いになるというとき、彼は自分も銃を持って戦いたいと指揮官に申し出ます。
すると指揮官は、お前は銃を持つのではなく敵兵も含めて負傷兵に水を飲ませる役目をしろと言います。
「救助ではなく敵を倒したい」と料理係が言うと、指揮官は「倒れた兵は喉の乾いた人間だ。アナンドプル・サーヒブの戦いでムガルの負傷兵にシクの偉人は水をやった」と言います。「敵に塩を贈る」みたいな話がインドにもあったようです。
そして、「水を飲ませれば敵意が消える」と言うのですが、実際に倒れた敵兵に水を飲ませたとき、敵意が消えたか否かは物語のひとつのポイントです。
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インドでも戦場で倒れた兵は水をほしがるという認識があるようですし、アフガニスタンでも同じ認識がありそうです。
そして、倒れた兵に水を与えることは救助活動と認識されています。

ここは日本とまったく違います。
どう考えても、インドのほうがまともで、日本のほうが異常です。


どうして日本で「重傷者に水を飲ませると死ぬので飲ませてはいけない」という認識が生まれたかというと、おそらく日本軍がその認識を広めたからでしょう。

昔、学校の運動部では「練習中は水を飲んではいけない」というルールがあり、炎天下で水を飲まずに何時間も練習するという無茶が行われていましたが、こうした習慣は、日本軍で少ない補給に耐えるために水飲みを制限する訓練が行われていて、それが学校運動部にも広がってできたのです。

日本軍では喉の渇きをがまんするというのが常態化していたので、負傷者が水をほしがってもがまんさせることにあまり抵抗はなかったでしょう。
さらに、助からない人間に水を飲ませるのはむだなので飲ませるなということにもなったでしょう。
その際、「水を飲ませると死ぬから飲ませるな」という理由づけが行われたということはじゅうぶんに考えられます。
そして、そうした日本軍の考え方が一般社会にも伝わって、原爆投下のとき瀕死の人の訴えを無視するということが行われたのではないでしょうか。

「重傷者に水を飲ませると死ぬ」という医学的根拠のまったくないことが広く信じられた理由としては、こうしたこと以外には考えられません。


救急救命法について調べても、「水を飲ますな」ということは出てきません。
戦時中に信じられていた「重傷者に水を飲ませると死ぬ」というのは、日本軍から広まったデマや迷信のたぐいだと断定してもよさそうです。

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