村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2021年07月

開会式
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会公式サイトより

7月23日、東京オリンピックの開会式が行われましたが、「意味不明」「史上最低」などさんざんな評判です。

コロナのせいで人が密になる演出はできないという制約はありましたが、だったらその分、ドローンの編隊飛行や花火をもっと派手にすることはできたはずです(しなかったのはやはり“中抜き”のせい?)。

演出の中心人物が何度も変わったために統一感がなくなったということもあるかもしれません。
たとえば「君が代」と国旗掲揚のあとで「イマジン」があるのは、どう考えても矛盾しています(「イマジン」には「想像してごらん、国などないと」という歌詞があります)。

しかし、開会式がだめな根本的な理由は、制作チームの“思想”にあります。
この思想というのは、おそらく「渡辺直美ブタ演出」で辞任した佐々木宏氏、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」で解任された小林賢太郎氏の思想であり、さらには安倍晋三前首相、森喜朗前組織委会長、菅義偉首相の思想でもあるでしょう。


開会式の最初に、ランニングマシンでトレーニングする女性が出てきます。さらにマシンで自転車こぎをする女性、ボートこぎをする男性が離れた場所に出て、プロジェクションマッピングで季節の変化が表現され、赤いロープを使ったパフォーマンスがあります。
これだけ見ていると、まったく理解できませんが、NHKのナレーションによると、「コロナ禍のアスリートたちの心の内を表現しているといいます。不安やあせり、悲しみ、葛藤、選手たちに襲いかかる、乗り越えるべきハードルを表しています」ということです。
そして、ランニングマシンからおりてしばらく悩んでいた女性が立ち上がり、再び走り出すと、「壁に直面しても何度も立ち上がり、挑み続けるアスリートの姿は人々の心を動かし、結びつけてきました。希望を持って前を向けば、離れていても心はつながることができる。そんなメッセージが込められています」というナレーションがあります。


コロナ禍で世界はたいへんなことになり、東京五輪も1年延期になったのですから、開会式の冒頭でコロナ禍に触れるのは当然のことです。
ところが、「コロナ禍におけるアスリートの苦悩」に焦点を当てたのが間違いです。
苦悩といえば、たとえば「飲食店店主の苦悩」が深刻です。もちろん肉親をコロナで亡くした人もたくさんいます。それらに比べたら「アスリートの苦悩」は小さなものです。そのため誰にも共感されず、「意味不明」になってしまったのです。

パンデミックによる世界の感染者数は約1億9000万人、死亡者数は約400万人です。開会式で表現するべきは、この悲惨な状況と、医療従事者の苦悩です。
400万人の死者をどう表現すればいいかというと、小林賢太郎氏は「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」のために紙を切り抜いた人形を大量につくったそうですが、皮肉なことにその手法が役に立つかもしれません。
肉親を亡くした人々の悲しみ、コロナと戦う医療従事者の苦悩を、ダンスやパフォーマンスやプロジェクションマッピングで表現することは、クリエーターとして大いにやりがいのある仕事です。
その表現がうまくできれば、世界の人々は開会式に引きつけられたでしょう。

アスリートの立場はどうなるのかというと、パンデミックの中でアスリートの出番はありません。医療従事者やワクチン開発者や、ロックダウンや自粛生活に協力する人たちのがんばりで、コロナに打ち勝つ希望の光が見えたときが、アスリートの出番です。
そうすると、開会式のどこかでアスリート代表が世界の人に向かって、オリンピックを開催できることへの感謝を述べることがあってもいいはずです(本来はバッハ会長が言うべきですが、言いそうもないので)。

スポーツは人々に夢や希望を与えるということがよく言われますが、よく考えると、夢や希望がある世の中でスポーツが楽しまれるので、スポーツに世の中を変える力を期待するのは違うのではないでしょうか。


ともかく、冒頭の部分は15分ほどですが、ここで失敗して、見ている人は誰もがうんざりしました。
差別的ブタ演出の佐々木宏氏やホロコーストギャグの小林賢太郎氏には、パンデミックに苦しむ世界の人たちへの思いがなかったのでしょうか。
あるいは、「人類がコロナに打ち勝った証」などと言う安倍前首相や菅首相に影響されすぎたのでしょうか。


冒頭の部分が失敗したので、全体が意味不明と評されていますが、よく見ると、制作チームがなにを目指したかはわかります。
それは「ニッポンすごい」です。

冒頭の15分が終わると、天皇陛下とバッハ会長の入場があり、国旗の入場、MISIAさんによる「君が代」独唱があります。これなどいかにも安倍前首相好みの展開です。

森山未來さんのパフォーマンスとか劇団ひとりさんのコメディとか、意味不明のものが多いのですが、意味のわかるものもあります。それは「ニッポンすごい」を表現しようとしたものです。
日本は“木の文化”だということからか大工の棟梁のパフォーマンスと木遣り唄があります。
50のピクトグラムを表現するパントマイムもあって、これは好評でしたが、ピクトグラムは日本発祥のものです。
歌舞伎の市川海老蔵さんも登場します。
各国選手の入場行進は、ドラクエなどの日本のゲーム音楽をバックにしています。

デヴィ夫人はこうしたことから、開会式を「日本文化の押し売り」と評しました。
制作チームは「ニッポンすごい」を表現しようとしたのですが、日本文化はたいしてすごくないので、「押し売り」と思われてしまったのです。

「ニッポンすごい」が通用するのは日本国内だけです。
それを世界に発信しようとした制作チームが間違っています。
また、それを発信することに注力したために、「復興」の要素が消えてしまいました。


1998年の長野冬季オリンピックの開会式も、「ニッポンすごい」を表現しようとして大失敗しました。
総合演出の浅利慶太氏は大相撲の土俵入りと長野県諏訪地方の祭りである御柱祭をスタジアムで実演させたのですが、ビジュアルだけではなにも伝わらず、ただ退屈なだけのものになりました。

もっとも、北京五輪は「中国すごい」を表現し、ロンドン五輪は「イギリスすごい」を表現して、大成功しました。
これは実際に中国やイギリスが世界史の中ですごかったからです。

ブラジルは中国やイギリスの真似をしてもだめだと理解して、リオ五輪はブラジルの歴史を紹介する一方で、アマゾンの熱帯雨林が地球環境にいかに貢献しているかというグローバルな視点を入れて、それなりに成功しました。


そこで今回の東京五輪ですが、長野冬季五輪からも学ばず、北京、ロンドン、リオという流れからも学ばず、グローバルな視点がないまま「ニッポンすごい」を目指して、失敗したわけです。
これは安倍前首相らの右翼思想の敗北でもあります。



ところで、今回は「君が代」独唱とともに国旗掲揚が行われましたが、夜中に国旗掲揚をするというのは世界の常識にありません。
日本の伝統的右翼はともかく、最近の右翼は国旗についての常識もないようで、幸い今のところはっきりとは指摘されていませんが、ひそかに世界からバカにされているのではないでしょうか。


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IOC公式サイトより

IOCのトーマス・バッハ会長は7月13日、橋本聖子東京五輪組織委会長を表敬訪問した際、あいさつの中で、「ジャパニーズ・ピープル」と言うべきところを「チャイニーズ・ピープル」と言い間違えました。
すぐさま言い直したものの、バッハ会長の中では日本人と中国人の区別などどうでもいいことのようです。

バッハ会長はまた、14日に菅義偉首相と面会した際、「新型コロナウイルスの感染状況が改善すれば、有観客も検討してほしい」と要請していたということです。
菅首相が無観客と決めた直後に「有観客も検討してほしい」と申し入れるとは、菅首相に対する侮辱です(それにしても、菅首相は「私は主催者ではない」と言っていたのに、無観客の決定はバッハ会長に諮らずに決めたわけで、だったら五輪中止の決定も独断でできたはずです)。

私はバッハ会長の言葉のはしばしに日本人に対する差別を感じてしまいます。
たとえばバッハ会長は13日の共同通信のインタビューにおいて、新型コロナウイルス感染拡大の懸念が強いことについて、「日本国民が恐れる必要はない。五輪関係者と日本人を明確に隔離する措置を講じており、大会の安全性に全幅の信頼を寄せていい」と述べたということですが、「日本国民が恐れる必要はない」とか「全幅の信頼を寄せていい」という言い方は、日本人の判断力を幼児並みと見なしているかのようです。
こういう感覚でかつての白人は植民地経営をしていたのかと思います。

バッハ会長の発言をさかのぼると、4月21日の記者会見で、東京都に緊急事態宣言が発令される見通しとなったことについて「東京五輪とは関係がない」と言って、日本人の神経を逆なでしました。
また、4月28日の五者協議の冒頭あいさつでは「粘り強さ、逆境にあってへこたれない精神を日本国民は示しています。逆境を乗り越えてきたことは歴史を通して証明されている。五輪も厳しい状況でも乗り越えることが可能になってくる」と語り、「日本人に苦難を押しつけるのか」と反発を買いました。


ただ、このような発言を批判するメディアもあれば批判しないメディアもあって、その色分けがはっきりしています。
たとえばバッハ会長が「ジャパニーズ・ピープル」と言うところを「チャイニーズ・ピープル」と言い間違えたというニュースを報じているのは、ほとんどがスポーツ新聞とテレビ局とネットのニュースサイトです。
いわゆる全国紙でこのニュースを報じたのは、私の見た範囲では東京新聞だけです。

また、バッハ会長が宿泊するのはホテル「オークラ東京」の1泊300万円のスイートルームだと言われますが、こういうことを書くのは週刊誌ばかりです。
もっとも、よく読むと、オークラ東京でいちばん高い部屋は300万円なので、バッハ会長はそこに泊まっているに違いないという推測の記事です。さすがに全国紙は書けないでしょう。

とはいえ、“ぼったくり男爵”に対する国民の反発は強いので、週刊誌、スポーツ新聞、ニュースサイトなどは、バッハ会長の言葉尻をとらえては批判的な記事を書いています。
ですから、完全にメディアが二分されている格好です。

どうして二分されているかというと、読売、朝日、毎日、日経、産経、北海道新聞が東京五輪のスポンサーになっていて、テレビ局はどこも五輪中継をするからです。
バッハ会長を批判するのは、そうしたメジャーなメディア以外のところばかりです。


しかし、日本のメディアが二分されているのは、そういう表面的な利権の問題だけではなく、もっと深い、日本の構造的な問題もあります。

明治維新以来、日本は欧米を真似て国づくりをしてきたので、明治政府の中枢にいたのはほとんどが洋行帰りです。
福沢諭吉、渋沢栄一、森鴎外、夏目漱石なども洋行帰りです。
その後、西洋の学問を学んだ帝国大学出身者が国の中枢を占めました。
つまり日本の支配層は、西洋の学問や価値観を学んだ者ばかりです。
日本は植民地にはなりませんでしたが、支配層が宗主国になり、庶民を植民地支配したようなものです。
武力によらない、文化による植民地化です。

フランスによって植民地化されたベトナムにおいては、一部のベトナム人は仏教からキリスト教に改宗し、フランスに留学するなどして、フランスの手先になって植民地支配に貢献しました。
フランスがベトナムから手を引くと、こうしたベトナム人が南ベトナムを建国しましたが、これは植民地支配の継続のようなものです。南ベトナムにおいては、支配層がキリスト教徒、被支配層が仏教徒というわかりやすい構図があり、独裁政権に対して仏教の僧侶が焼身自殺をするなどの抵抗運動をしました。

日本では、宗教による色分けはありませんが、支配層と被支配層の関係は南ベトナムのようなものです。
支配層の知識人は、「欧米人は自立しているが、日本人は自立していない」とか「日本人は集団主義で無責任だ」などと言って、欧米の価値観を後ろ盾に日本人の上に君臨してきました。
いわば日本人が日本人を差別してきたのです。
こういう知識人は、バッハ会長が日本人を見下したような発言をしても、まったく気にならないでしょう。
新聞社の論説委員などはほとんどそういう人ではないかと思われます。


欧米人と同じ立場から日本人差別をする日本人はよく見かけます。
たとえば、サッカーのフランス代表、ウスマン・デンベレ選手とアントワーヌ・グリーズマン選手が来日した際、ホテルの日本人スタッフを嘲笑する動画をアップし、日本人差別だと問題になったとき、2ちゃんねる創始者の「ひろゆき」こと西村博之氏が「悪口ではあるが差別の意図はない」と二選手を擁護して批判されました。
ひろゆき氏はフランス在住です。ツイッターで「フランス在住外国人のおいらは来週からファイザーかモデルナのワクチンが打てるようになります」と述べた上で、「希望者が全員ワクチンを打って、経済再開する欧米」「ワクチンが無いので、緊急事態宣言を続ける日本」「どちらの政府が良くやってますか?」と述べたこともあります。
日本人に対して上から目線です。

デヴィ夫人も「IOCバッハ会長に失礼な事をするのは日本人の恥」とツイートしています。

爆笑問題の太田光氏は、バッハ会長を擁護したあと、スポニチの記事によると、複雑な心境を述べています。
 「日本は植民地じゃねえぞって言うけど、それこそ植民地根性と言うか、被害者根性。我々は欧米人には敵わないんじゃないかってそういう意識があったけど、そういうことをやってると、若い子たちもそういうことを言い出しちゃうのは受け継ぎたくないなと言う気が凄くするんだけど」と力説。「何で菅さんは黙っているんだよ。あれは『だんまり男爵』だよ」と憤った。
https://news.yahoo.co.jp/articles/501c107a9ffd771935bb427fab6d6cd124d9269e


18日夜には赤坂の迎賓館でバッハ会長の歓迎バーティが行われ、菅義偉首相、小池百合子都知事、橋本聖子組織委会長、森喜朗組織委前会長など40人ほどが参加したということです。飲食を伴わない形式だそうですが、国民は自粛生活をしているのにけしからんという声が上がっています。

このパーティがホテルの宴会場でなく赤坂の迎賓館で行われたというのが象徴的です。鹿鳴館時代みたいです。

バッハ会長は“ぼったくり男爵”と言われますが、バッハ会長を巡る議論の中で、日本人の中にもいっしょになってぼったくる人の存在があぶり出されました。
さらに、利権とは関係なく、「日本人を差別する日本人」の存在もあぶり出されたのではないでしょうか。

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西村やすとしオフィシャルサイトより

東京五輪開催目前にして菅政権の迷走ぶりがきわだっています。
東京都はまん延防止等重点措置の継続かと思ったら緊急事態宣言になり、五輪は有観客になるのかと思ったら無観客になり、その挙句に出てきたのが、酒類提供をやめない飲食店に対して「金融機関からも働きかけてもらう」という西村康稔経済再生担当相の発言です。
この発言は大批判されましたが、決して西村大臣の思いつきではありません。むしろ菅政権の重要政策です。

西村大臣は7月8日の記者会見で、酒類提供停止の要請に応じない店舗の情報を金融機関に提供し、金融機関から働きかけてもらうと述べました。
店舗に働きかけるのは行政の仕事です。金融機関にさせる法的根拠がありませんし、金融機関を使って店舗に圧力をかけようという発想は卑劣です(独占禁止法が禁じる「優越的地位の濫用」に当るとも指摘されています)。

この発言が批判されても西村大臣は翌9日午前の記者会見で、「真面目に取り組んでいる事業者との不公平感の解消のためだ」と釈明して、発言は撤回しませんでした。
加藤勝信官房長官も9日午前の記者会見で、西村発言について「金融機関に感染防止策の徹底を呼び掛けていただきたいという趣旨だ」と説明し、発言に問題はないとしていました。

しかし、批判がやまないために、加藤官房長官は9日午後の記者会見で「金融機関などへの働きかけは行わないことにしたと西村担当相から連絡を受けた」と述べて、西村発言は事実上撤回されました。


しかし、西村大臣がやろうとしたのは、金融機関を通じての働きかけだけではありません。
西村大臣は8日の記者会見で、酒類卸業者に対して、酒類提供停止の要請に応じない店舗とは取引を停止するよう要請したと述べました。
つまり酒類提供停止の要請に応じない店舗には、酒類卸業者と金融機関の両方から圧力を加えようとしていたのです。

酒類卸業者への要請は、国税庁からの文書として8日付ですでに出されていて、「酒類販売業者におかれては、飲食店が要請に応じていないことを把握した場合には、当該飲食店との酒類の取引を停止するようお願いします」と書かれています。

2021-07-11
ANNnewsより

酒類卸業者は国税庁の免許が必要な業種ですから、国税庁からの要請は相当な圧力になります。
ただ、これは独禁法違反のような問題はなく、すでに文書化されていたためか、いまだに撤回されていません。

東京都はまん延防止等重点措置から緊急事態宣言に変わりましたが、中身はほとんど変わらず、唯一変わったのが、飲食店の酒類提供が午後7時まで許されていたのが全面禁止になったことです。
ですから、飲食店が禁止の要請に従わず従来通り酒類提供を続ければ、緊急事態宣言の効果はないことになり、感染者の増加も変わらないことになります。
そうするとオリンピック期間中、毎日新規感染者数の増加がニュースになり、オリンピックムードに水を差すことは必定です。

現在、酒類提供は午後7時までという要請を無視して営業を続ける飲食店が増えています。こういう店には緊急事態宣言もあまり効果がないでしょう。緊急事態宣言下でも要請を無視する店は増えてくるかもしれません。
どうして飲食店に酒類提供をやめさせるかということは政府内で議論されたはずです。
そうして出てきたのが、飲食店に卸業者と金融機関のふたつのルートから圧力をかけるという方法です。
裏から手を回すというヤクザみたいな手口で、しかも効果にも疑問がありますが、なんとか飲食店に言うことを聞かせたいという必死さは感じられます。

緊急事態宣言と、飲食店にふたつのルートから圧力をかけるという政策は、一体のものとして実施されました。
当然、菅首相がこの政策を知らないはずありません。
いや、むしろ菅首相の発案ではないかと思われます。
菅首相の得意のやり方だからです。


菅政権は4月ごろからワクチン接種を強力にプッシュし、7月末までに高齢者への接種を完了させるように各自治体に圧力をかけました。
このとき、普通は厚労省が動きそうなものですが、総務省からも働きかけがありました。

群馬県太田市の清水聖義市長のところには総務省の地方交付税課長から電話があり、市長は地方交付税増額の話でもあるのかと期待したら、7月末までにワクチン接種を完了させるようにという話だったということです。市長はこのことを市の広報誌に書いたので、広く知られるところとなりました。

厚労省から言われるより、地方交付税を差配する総務省から言われたほうが、自治体としては重く受け止めざるをえません。
中日新聞の『「7月完了」政権ごり押し 高齢者ワクチン接種、市区町村86%「可能」』という記事によると、これが太田市だけでないことがわかります。
「妙な電話が来ている」。四月二十八日の千葉県内の会合。ワクチン行政を担う厚生労働省ではなく総務省から、首長を指名し、接種完了の前倒しを求めてくることが話題になった。同じ時期、宮城県の自治体職員は「完了が八月以降のところが狙い撃ちされている」と取材に話した。中国地方の県関係者は電話口で「厚労省でなく、うちが動いている意味合いは分かりますね」と言われた。
 関東地方の市長の元にも、総務省の複数の職員から電話が来た。最初、体よく断ると、次には局長から「自治体はわれわれのパートナーだと思っています」と前倒しへの同調を求められた。首長は「まずワクチンを供給して」と、やり返した。

総務省を使って自治体に働きかけるというやり方が、金融機関や酒類卸業者を使って飲食店に働きかけるやり方と同じです。

人の弱みをつく巧妙なやり方ですが、言い換えれば陰湿なやり方です。
こんなことをしていれば、日本全体がモラルのない国になります。


そもそも菅政権の目玉政策であった携帯料金値下げも、総務省が携帯会社に圧力をかけて値下げさせるというものでした。
総務省にも政府にも携帯会社に値下げさせる権限はありません。
携帯料金が不当に高いのであれば、料金表示をわかりやすくするなどして公正な競争を促進する以外に方法はなく、政府が携帯会社に値下げを迫るのは違法行為か、少なくとも不当な圧力です。
こんなやり方をしたのでは、日本の携帯業界は価格決定権が会社ではなく政府にあるということになって、新規参入してくる業者がなくなり、業界の衰退を招きます。

ところが、このやり方がマスコミからも有識者からもほとんど批判されませんでした。
そのため菅首相は勘違いして、やり方をエスカレートさせて、今回の金融機関と酒類卸業者を使って飲食店に不当な圧力をかけるということにいたったのではないかと思われます。


いずれにせよ、飲食店に酒類提供をやめさせることは重要な問題であり、菅首相が関与していないはずはありません。
ところが、菅首相は9日朝、記者から「優越的地位の濫用につながらないか」と問われた際、「西村大臣というのは、そうした主旨での発言というのは絶対にしないと私は思っている」と答えましたが、今のところ菅首相のこの件に関する発言はこれだけです。

西村大臣は各方面からの猛批判にさらされ、辞任、更迭、議員辞職を求める声も上がっています。
しかし、この批判は的外れです。
政治家の失言の場合は、このように個人が批判されますが、今回は政府の政策の問題なので、批判されるのは西村大臣ではなく政府です(西村大臣は記者会見で発表する役回りだっただけです)。
もちろん政府の最終責任は首相にあります。
西村大臣の後ろに隠れている菅首相こそ批判されるべきです。

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安倍晋三インスタグラムより

安倍晋三前首相は発売中の月刊誌「Hanada」で、東京五輪について「反日的な人たちが今回の開催に強く反対している」と述べて、物議をかもしています。

安倍前首相は、なんでも物事を反対に言う天才です。
IOCの会長や委員たちは「大会が可能になるのは日本人のユニークな粘り強さという精神、逆境に耐え抜く能力をもっているからだ」とか「かりに菅首相が大会中止を求めたとしても、それはあくまで個人的な意見にすぎない」とか「アルマゲドンにでも見舞われない限り、東京五輪は計画通りに開催される」のように、日本人を見下した暴言を吐き続けてきました。
それに反論ひとつせず、従い続けてきた開催賛成派こそ反日的です。


振り返ってみれば、五輪誘致活動のときに「復興五輪」と言ったのも安倍前首相です。

「復興五輪」とはなにかというと、復興庁のサイトを見ると、
「復興しつつある被災地の姿を世界に伝える」
「被災地の魅力を国内外の方々に知っていただく」
「競技開催や聖火リレーなどを身近に感じていただいて被災地の方々を勇気づける」
と書かれていますが、どれも精神論レベルで、具体的に被災地のためになることはありません。
被災地のためを考えるなら、たとえば「五輪の入場料収入の半分を復興費用に回します」などと宣言すればいいのです。そうすれば、被災地のためにも五輪を盛り上げようという機運が高まったでしょう。

「復興五輪」の理念のために、選手村では福島県産食材が提供されることになっていますが、これを韓国や中国のメディアが批判しています。
韓国や中国の批判はともかくとして、福島県産食材を使うことが各国選手団に歓迎されるかというと、そんなことはなく、中には不快に思う人もいるはずです。
これは「おもてなし」の精神にも反します。日本人の自己満足としか思われないでしょう。
安倍前首相は五輪誘致のために被災地を利用しただけです。


安倍前首相は昨年3月、IOCのバッハ会長と電話会談して五輪の1年延期を決めたとき、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として完全な形で東京大会を開催したい」と語りました。
感染症に打ち勝った証を東京五輪に求めるのは根本的な間違いです。証を求めたいなら、PCR検査などに頼るしかありません。広範囲にPCR検査をしてほとんど陰性であれば証となります。

安倍前首相の発想は、「病気が全快した証があれば試合に出場する」というのではなく、「試合に出場すれば病気が全快した証になる」というもので、論理が逆です。
この論理では病気の悪化を招きかねません。

安倍首相の論理は、精神を肉体の上に置く精神主義です。
精神主義でコロナと戦おうというのは間違っていて、実際、安倍前首相はコロナとの戦いに敗れて退陣しました。

安倍前首相は退陣しましたが、その論理は今も菅首相に受け継がれています。
麻生財務相は東京五輪を「呪われたオリンピック」と言いましたが、東京五輪を呪ったのは安倍前首相の精神主義で、その呪いは今も続いています。


菅首相は7月4日にラジオ番組に出演して、「世界全体がコロナ禍という困難に直面しているからこそ、人類の努力や英知を結集して乗り越えられるということを世界に発信したい」と述べました。
安倍前首相の論理と同じです。
五輪を開催して、そのために感染が大きく拡大すれば、日本人の愚かさを世界に発信することになってしまいます。

菅首相は安倍前首相の論理を乗り越えて、合理的に考えないといけません。
本来なら東京五輪を再延期して、「人類がコロナ禍を乗り越えた暁に東京五輪を開催して、人類みんなでスポーツの祭典を楽しみたい」と言いたいところです。
それができないなら、中止にするか、コロナ禍でもむりをして開催するかということになります。菅首相の考えは後者でしょう。

だったら菅首相は「日本は世界に対して五輪開催の責務を果たさなければならない。そのため感染が拡大するかもしれないが、国民には我慢をお願いしたい」と言うべきです。
そうすれば、賛同する国民もいるでしょう。
少なくとも非論理的な不快感がなくなって、すっきりするのは間違いありません。

もっとも、日本の政治はそういう論理的な世界から、はるか遠いところにきてしまったようです。

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