村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2022年02月

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ウクライナ危機についてなにか書こうと思いましたが、事態が流動的なのでやめました。
代わりに政治家やコメンテーターの発言について書くことにします。

ウクライナ危機は日本にとっては“対岸の火事”なので、政治家やコメンテーターは適当なことが言えます。
とりわけウクライナ危機と日本の安全保障政策を関連させるときにでたらめな発言が出るようです。


自民党安保調査会長でもある小野寺五典元防衛相は2月20日、フジテレビ系「日曜報道 THE PRIME」に出演し、そのときの発言が『「日本もウクライナと同じことになる」と小野寺元防衛相』という記事に載っていましたが、その記事の最後の部分を引用します。

松山キャスター:
G7外相会合では「ロシアへの制裁を含む甚大なコストを招く」とのメッセージを発信した。実際に効果のある制裁は発信できるか。

小野寺元防衛相:
経済制裁といっても、クリミア侵攻の時には何もできなかった。簡単な選択肢はない。ウクライナはNATOに入れば守ってもらえる、だからNATOに入りたい。でも、それに対してNATOはいやいやと。ウクライナとしてはどうしようもない。本来、ゼレンスキー大統領は、自国は自分たちで守ると。それがあって初めて周りの応援がくる。日本も同じだ。この問題は必ず日本に影響する。基本的に自国は自国で守るというスタンスがなければ、(ウクライナと)同じようなことになってしまう。私は大変心配している。


日本とウクライナはまったく違います。
小野寺元防衛相は「日本には安保条約があり、日米には深い信頼の絆があるので、ウクライナみたいなことにはなりません。安心してください」と言うところです。

それから、「自国は自国で守るというスタンスがなければ、(ウクライナと)同じようなことになってしまう。私は大変心配している」と言っていますが、これは国民に対して言っているのでしょうか。
日本国民は鉄砲の撃ち方も知らないので、国民に言っても無意味です。
もし自衛隊に対して言っているのだとすれば、自衛隊員には国を守る気がないかもしれないということになり、自衛隊の存在価値が疑われます。
「国民の覚悟のことを言っているのだ」という意見があるかもしれませんが、そんな精神論で国は守れません。だから高い防衛費を払って自衛隊を保持しているのです。

安全保障の専門家が日米安保も自衛隊も信用できないと言っているのですから、ひどいものです。


橋下徹氏は矛盾したことを平気で言っているので驚きます。
「ウクライナ危機、日本として考えておきたいこと」という記事から引用します。

橋下徹氏(元大阪市長、弁護士):ウクライナ危機は遠い国のことのように感じるが、日本の問題に直結している。ロシアの武力行使を容認してロシアに利益を与えるようなことがあれば、そのことを中国はじっと見ている。自国の安全保障を他国に委ねることの愚かさ、危険性を痛切に感じる。ウクライナには旧ソ連の核兵器が集積されていた。旧ソ連から独立する際に各国から核兵器の放棄を迫られ、それと引き換えに米英露がウクライナに安全保障を提供する「ブタペスト合意」が1994年に結ばれた。その後、どうなっているか。大国はいい加減だ。ウクライナの安全は守られていない。やはり自国の安全、防衛は自分たちの力でやらないとならない。ウクライナに憲法9条があれば平和になるのか、そんなことはない。日本もいつの間にかウクライナと同じような状況になる。

木原誠二氏(内閣官房副長官):主権と領土の一体性はしっかり守らなければならない。我々の周辺の安全保障環境は非常に厳しい。ウクライナ問題は遠い国の話ではない。我が国の、我がこととして考えなければいけない。そのことは全く同感だ。日米同盟をさらに強固にして抑止力、対応力を上げていくことが非常に重要だ。年末に向けて安全保障の三つの文書を書き換えていく。自衛隊の予算も伸ばしている。自らの対応能力を上げていくことが非常に重要だと改めて感じている。 

橋下氏:集団的自衛権がどれだけ大切かを、集団的自衛権に反対する人たちもわかったと思う。ウクライナはNATO(北大西洋条約機構)の加盟国ではない。集団的自衛権は絶対に必要だ。

橋下氏は「やはり自国の安全、防衛は自分たちの力でやらないとならない」と言った舌の根も乾かないうちに、「集団的自衛権がどれだけ大切かを、集団的自衛権に反対する人たちもわかったと思う」「集団的自衛権は絶対に必要だ」と言いました。どう見ても矛盾しています。

それから、「ウクライナに憲法9条があれば平和になるのか、そんなことはない。日本もいつの間にかウクライナと同じような状況になる」というのもおかしな理屈です。
ウクライナは憲法9条がないのに危機を防げませんでした。ということは、論理的には、日本が憲法9条をなくすと同様の危機に見舞われる可能性があるということです。

木原誠二内閣官房副長官は「日米同盟をさらに強固にして抑止力、対応力を上げていくことが非常に重要だ」と言っていますが、日本は安倍政権、菅政権、岸田政権と一貫して「日米同盟の強化」や「日米の絆の深化」に努めてきました。
しかし、まだ強固にし足りないようです。どこまで強固にすればいいのでしょうか。
政府関係者や安全保障の専門家が「日米同盟はもう十分に強固になりました」とか「このところ日米の絆は深くなりすぎたので、これから少しアメリカと距離をとることにします」と言うのを聞いてみたいものです。

これらの人は、理由はなんでもいいので国民の危機感をあおりたいのです。
新型コロナ問題では、メディアや専門家は危機感をあおりすぎではないかと批判されましたが、安全保障問題でメディアや専門家が危機感をあおりすぎると批判されるのを見たことがありません。


以上のようなおかしな発言は、結局日米関係の問題からきています。
日本とアメリカは、主権国家同士の合理的な関係ではなくて、日本のアメリカに対する心理的依存関係になっています。
これは日本人に広く見られる心理ですが、とりわけ親米右翼に強く見られます。それでいて勇ましいことを言うので、矛盾が生じるのです。

橋下氏の矛盾した主張は、実は「天は自ら助くる者を助く」と言いたかったのでしょう。「日本が国を守ることに一生懸命になればアメリカが助けてくれる」ということです。アメリカは日本にとって「天」なのです。


親米右翼の典型的な論理がジャーナリスト有本香氏が書いた『岸田首相の「適切な蛮勇」に期待 弱腰の米国、さらに増長する中国・ロシア 「ウクライナ侵攻」を止められるのは日本だけか』という記事に見られます。
ちなみに有本香氏は産経新聞などによく執筆しているネトウヨの典型のようなジャーナリストです。

最近の世論調査では、58%ものウクライナ人が、ロシアの侵攻に「自ら武器を取って戦う」と答えたという。民兵組織を合法化する法律も成立させた。強国ロシアにひるまないウクライナだが、頼みの米国と欧州にはウクライナ防衛のためロシアと戦う気がない。

ジョー・バイデン米大統領に至っては12月、「軍事力行使の選択肢はない」と発言する体たらくである。

わが日本の岸田文雄首相は、ウクライナ情勢についてこう述べている。

「重大な懸念をもって注視している。G7(先進7カ国)の枠組みなどを重視し、国際社会と連携して適切に対応していく」

ナザレンコ氏は言う。

「ロシアが国境に集めた13万もの部隊の中には、極東から移動した部隊が含まれます。日本は絶対に攻めてこないから容易に移せるのです」

仮にここで、岸田首相が「わが国は、地球上のいかなる『力による現状変更』も許さない」と宣言し、北海道での自衛隊と米軍との軍事演習にでも言及したら、ロシアはどう出るか。

ウクライナと中国、北朝鮮のつながりを懸念し、「ウクライナに騙されるな」という日本国内の親ロ派の声もあるが、所詮、他国はどこも腹黒い。日本がいま優先して警戒すべきは、弱腰の米国を見て中国とロシアがさらに増長することだ。その牽制(けんせい)のためにも、岸田首相の「適切な蛮勇」を期待する。ウクライナ危機を止めることができるのは日本だけかもしれないのだ。

「北海道での自衛隊と米軍との軍事演習にでも言及したら、ロシアはどう出るか」と言っていますが、ロシアはどうも出ないでしょう。日本が北海道でなにをしようがロシアにとって脅威でもなんでもないからです。
アメリカも欧州もウクライナのために戦う気がないときに、日本がなにかしたら、よほどのおせっかいか暇人かということになります。
なにか勇ましいことを言っただけのようです。

もっとも、その勇ましいことというのは、「軍事演習にでも言及」することです。「軍事演習」をするわけではないのです。
その軍事演習も「自衛隊と米軍との軍事演習」です。自衛隊単独ではないのです。
「弱腰の米国」と見なしながらその米国から離れられないとは、まさに心理的依存です。


「力による現状変更」という言葉も出てきます。
岸田首相も「主戦場は欧州諸国と言いながらも、力による現状変更を許せば、アジアにも影響が及ぶことを十分考えておかなければならない」と語っています。
つまりロシアの動きが許されれば、中国も真似をして台湾の武力統一をするかもしれないというわけです。
ウクライナと台湾を結びつけて論じる人はいっぱいいます。

しかし、こうした認識にも日米関係のゆがみが反映しています。
確かに「力による現状変更」は許されません。
アメリカはアフガニスタンとイラクにおいて「力による現状変更」をしました。
アメリカは好き勝手に「力による現状変更」をしても許されています。
ロシアはそれを見て真似したのです。
もしかすると中国も真似をするかもしれません。

アメリカが覇権主義国として好き勝手にふるまい、ロシアや中国がその真似をしようとしているのが現状です。
アメリカをそのままにしてロシアと中国だけを抑えようとしてもうまくいかないでしょう。

これについてはメディアの偏向もあります。
ウクライナ東部の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」をプーチン大統領は国家として承認しましたが、このふたつの「共和国」を「かいらい政権」と報じるメディアがあります。
しかし、アメリカがアフガニスタンでタリバン政権を倒してから打ち立てた政権を「かいらい政権」と称したメディアはありません。
メディアはまだ冷戦時代を引きずっています。

日本政府は同盟国であるアメリカの「力による現状変更」は許し、ロシアや中国の「力による現状変更」は許さないという方針かもしれませんが、そんな方針は世界の危機を深めるだけです。

ウクライナ危機は日本にとって“対岸の火事”ですが、その明かりは遠く日本の足元を照らしてくれました。

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2023年度発足予定の「子ども家庭庁」は、当初「子ども庁」という名前になるはずでした。
「子ども家庭庁」という名前に変わったことに失望の声が上がっています。
「家庭」という言葉が入るとなぜいけないのでしょうか。
実は「家庭」という言葉によいイメージを持つ人と悪いイメージを持つ人がいて、そこで意見が対立します。
問題を整理してみました。


基本的な事実として、殺人事件の約半分は親族間で起きています。

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平成30年版 警察白書より


2016年に摘発された殺人事件の55%が親族間だというデータもあります。
殺人事件総数はへっているのに、親族間の殺人事件はへらないので、比率は高くなってきています。

また、殺人事件を起こすのは男性が多く、殺人犯の男女比はほぼ四対一です。しかし、配偶者間の殺人に限ると、夫が妻を殺したケースと妻が夫を殺したケースの比率はほぼ三対二と、それほど差がなくなります。これはどうしてかというと、ドメスティック・バイオレンスの被害者は圧倒的に女性が多く、力の弱い女性がDV被害から逃れるには加害者を殺すしかないからではないかと考えられます。

知人・友人関係の殺人も多く、殺人事件の多くは濃密な人間関係において起こります。

ところが、テレビのワイドショーが取り上げる殺人事件のほとんどは、通り魔殺人か強盗殺人、放火殺人など、赤の他人が被害者になるものです。
こうした事件の場合は、「なんの落ち度もない人間が殺された」という悲劇性が強調され、加害者への怒りの感情がかき立てられます。
もし親族殺人を取り上げたら、家庭内のどろどろした感情のもつれが出てくるので、視聴率が取れないということがあるのでしょう。
こうしたワイドショーばかり見ていると、殺人の半分は家庭内で起きているということがわからなくなります。

つまりマスコミは家庭内の憎しみや暴力などの不都合なことは取り上げないのです。
一方、家庭内の愛情のある話や美談は取り上げます。

NHKに「鶴瓶の家族に乾杯」という番組があって、番組ホームページには「ステキな家族を求めて日本中を巡る”ぶっつけ本番”の旅番組です」と書いてあります。
ほんとうに”ぶっつけ本番”であれば、DVの家庭とか、父親がギャンブル依存症で借金まみれの家庭とか、玄関開けるとゴミ屋敷とかあってもよさそうですが、そういうのはありません。

私はこのような偏った表現を「家庭愛情神話」と名づけています。
「原発安全神話」と同じで、家庭には愛情があって、家族はみな互いに愛し合っているものだという神話です。
神話に反する事実は否定されるか隠蔽されます。


たとえば1月15日に起きた東大前刺傷事件で逮捕された17歳の少年は、東大と医学部に異様にこだわっていたことから、親からそうとうなプレッシャーをかけられていたと想像されますが、そういうことを書いた記事は見かけません。
ただ、少年の母親は「佐藤ママ」に憧れていたという掲示板の書き込みがあったので検索してみると、『東大前刺傷事件17歳高2男子生徒の母親「佐藤ママに憧れて」』という記事があったので、そこから一部を引用します。

「長男が東海中学の受験に失敗して、憔悴したようすでした。」そう話すのは、男子生徒の母親とはママ友という女性。「(男子生徒名前)ママは、佐藤亮子ママに憧れていました。オンラインサロンにも入って子どもたちへの教育について、熱心にセミナーを聞いていましたよ。」(ママ友)

佐藤ママといえば、東大理Ⅲ(医学部)に自身の4人の兄弟を現役合格させた凄腕の教育ママ。中学受験をする子を持つ母親が知らない人はいないというほどの有名人です。

佐藤ママの子どもは4人とも偏差値72以上。「子どもに手伝いをさせるのは子どもに失礼」というほど家事をさせずに勉強に集中させる教育方法です。

「佐藤ママの出版してる本も全部買い集めて読んで、その教育方法を実践しているといっていた。」(ママ友)

佐藤ママの教育方法で、男子生徒が壊れて行ってしまったのか。

この記事が載っているニュースサイトは、元地方紙記者という人が個人でやっているサイトです。
少年の家庭の問題を書いているのはこの記事だけのようです。

メジャーなニュースサイトは逆に少年の家庭に問題はなかったという記事を書いています。
たとえば「デイリー新潮」の『「東大刺傷事件」犯行少年の素顔 母も困惑した「理III」への執着、学校行事での意外な一面』はヤフーニュースでも配信されました。


そんな少年に対して、母親は困惑を隠せなかったという。当時の様子をママ友の一人が明かす。

「彼のお父さんは地元の大学で職員をされていて、お母さんは専業主婦だったと思います。4人きょうだいの長男である彼は、中学校でも成績が抜群に良かった。マイペースな性格なので、お母さんも“うちの息子は変わってるんですよ”と話していました。両親は子どもの進学先にこだわりがないのに、彼は中学3年の頃から“絶対に東大に行きたい”“理IIIに合格したい”と口にするようになったそうです。お母さんは彼を応援しつつも“行きたいと言って行ける学校でもないと思いますけど……”とむしろ困惑した様子でした。深夜までブツブツとひとりごとを言いながら勉強し続けていたそうで、いつか体調を崩すんじゃないかと心配していました」


ここに描かれているのは、子ども思いの普通の母親です。
そうすると、少年が異様な犯行に走った理由が説明できません。
そこで、産経新聞は『「東大」「医学部」執着 刺傷事件の少年、自ら追い詰める』という記事で、少年は自ら追い詰めたのだという説明をしました。

少年は成績上位の理系クラスに所属。学校関係者は少年について「勉強熱心という印象だった」とし、少年を知る同校の生徒は「非常に真面目で、成績上位だった」と話す。少年自身も「勉強は趣味」「東大医学部を目指す」と公言し、自他ともに認める「勉強の虫」だった。

だが、約1年前から成績不振で悩んでいたとみられる。昨年9月の進路に関する三者面談で、担任の教師に対し「自分の目指すところに成績が追い付かない」などと話していた。

教師はそうした少年を励ましており、両親も「特別教育熱心なタイプではない」(関係者)という。少年は自らを追い詰めていった可能性がある。

少年一人が悪者にされてしまいました。
これが「家庭愛情神話」の怖いところです。
神話を守るために誰かが悪者にされるのです。
それはたいてい子どもです。


幼児虐待は増え続けています。
厚生労働省は昨年8月、令和2年度の児童相談所による児童虐待相談対応件数(速報値)を公表しましたが、それによると件数は20万5029件で、前年度より1万1249件(5.8%)増え、過去最多を更新しました。

統計上はこのように増え続けていますが、実際に増えているかは疑問です。
以前は幼児虐待というものがほとんど認識されていませんでした。それが報道などによりだんだんと認識されるようになり、それとともに通報される件数が増えてきただけとも考えられます。

昔は家庭でも学校でも子どもへの体罰は当たり前のことでした。子どもをたたくだけでなく、押し入れや納屋に閉じ込める、木に縛りつける、食事を与えない、「お前は橋の下で拾った子だ」などの暴言を浴びせることなどがよく行われていました。これらはすべて今では幼児虐待とされます。
ということは、昔は今よりも幼児虐待は広く行われていたと言えそうです。

しかし、それらの虐待行為は、「愛のムチ」とか「子どもを愛さない親はいない」という言葉によって、すべて愛の行為だとされていました。
つまり「家庭愛情神話」によって虐待は完全に隠蔽されていたのです。

最近、次第に幼児虐待が認識されるようになり、体罰はいけないことというコンセンサスもできました。
また、「毒親」という言葉も認知されてきました。
「家庭愛情神話」に風穴が開いたと言えます。

こうした状況を2月13日付朝日新聞の「(知は力なり)暴力の問題、知ることが生きる力に 公認心理師・臨床心理士、信田さよ子」という記事がうまく説明していたので、一部を引用します。


実は2000年代初めの虐待防止法・DV防止法の制定まで、公的には家族には暴力など存在しないと考えられていたのです。夫が妻に「手を上げ」たり、親が子に折檻するのは、される側に問題がある、なぜなら夫婦や親子は愛情で結ばれているのだからという認識が支配していたからです。
(中略)
日々、メディアをとおして、家族(中でも親)は愛情豊かなものとして伝えられます。それが「ふつうの家族」像を形成しています。DVや虐待の加害者像が特殊なもの、残虐なものと強調されてしまうと、ふつうの家族像は結果的に温存されてしまいます。親の借金返済のために働く息子(娘)がそれを虐待とは思わない、夫から蹴られて肋骨に何度もひびが入った妻がそれをDVとは認めない。そんな場面に何度も出会ってきました。それどころか「自分のほうに問題があった」「そうさせたのは自分だ」と自責感すら抱いているのです。被害者有責論(されるほうに問題があるという認識)は、家族の暴力では根深いものがあり、世間の常識もそれに加担しています。


「家庭愛情神話」がこのように強固に、広範囲に存在したのには、国策もありました。

1898年に施行された明治民法では、親権者は「監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる」とあり、親に懲戒権を認めていました。これが幼児虐待の口実になってきました(法制審議会は近く懲戒権を削除する答申を出す見込みです)。
そして、国定教科書には乃木希典大将の少年時代のエピソードとして、乃木少年が「寒い」と不平を口にすると父親が「よし。寒いなら暖かくなるようにしてやる」と言って少年を井戸端に連れていき冷水を浴びせたとか、乃木少年がニンジンを嫌いだと言うと母親が三食すべてにニンジンを出して好き嫌いを矯正したといったことが書かれていました(教科書にはニンジンとは特定されていませんでしたが)。両親がきびしく育てたためにひ弱だった乃木少年が立派な武人になったということで、国がこのような虐待ともいえる教育を推奨していたのです。

自民党はこうした国策を継承する政党です。
ずっと懲戒権の削除に反対してきましたし、親殺しを特別に重罪とする刑法の尊属殺人の規定が最高裁によって違憲とされても削除や改正に抵抗し、22年間も違憲のまま放置しました。
これらの法改正は日本人の家族観に悪影響があるというのが自民党の考えです。
これは夫婦別姓に反対する論理とも同じです。
自民党の古い家族観は「家庭愛情神話」によって支えられています。


「家庭愛情神話」をはぎ取ると、愛情に満ちた家庭は少なく、暴力、支配、差別に満ちた家庭が多いという現実が見えてきます。
こうした家庭で苦しむのは弱者である子どもと女性です。

現在は「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力がせめぎ合っている状況です。
映画、小説の世界では「家庭愛情神話」はすっかり崩壊し、親から虐待された過去を持つ人物とか複雑な事情の家族などが描かれるのが当たり前になっています。
しかし、政治の世界ではまだ「家庭愛情神話」を守ろうとする勢力が強くて、そうした勢力が「子ども庁」の名前を「子ども家庭庁」に変更しました。
「家庭」の文字が入ることで「子ども」の主体性や人権が消えてしまいます。
「家庭」の文字に暴力、支配、差別を感じる人もいます。
そうしたことで「子ども家庭庁」か「子ども庁」かが問題になっているのです。


なお、「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力がせめぎ合っているのは日本だけのことではありません。
アメリカでは1990年代、自分は子ども時代に親から虐待されていたとして成人してから慰謝料を求めて親を裁判に訴えるケースが多発しましたが、親を支援するための財団がつくられ、親に虐待されたという記憶はセラピストによってつくられた虚偽記憶であるという“理論”で対抗し、心理学上の面倒な議論が行われ、結果的に裁判では親の側、つまり「家庭愛情神話」を守ろうという勢力が勝利しました(詳しくはウィキペディアの「過誤記憶」で)。


「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力のせめぎ合いは、思想の戦いでもあります。
フェミニズムはどうしても「男対女」という軸でとらえますが、これは「おとな対子ども」という軸でとらえたほうがうまくいきます。
私は倫理学、生物学、歴史学、文化人類学などとの関連で考察したことを「道徳観のコペルニクス的転回」に書いています。

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石原慎太郎氏が2月1日に亡くなりました。89歳でした。

いつも不思議なほど国民的人気に包まれている人でした。

1955年に大学在学中に『太陽の季節』で芥川賞を受賞し、これがたいへんな話題となりました。芥川賞はそれまでは地味な文学賞でしたが、石原氏以降、受賞発表が大きくマスコミに取り上げられるようになったとされます。

1968年には自民党公認で参院選全国区に立候補し、史上最高の301万票を得て当選しました。
私はなぜ石原氏がこんなに人気があるのか不思議でなりませんでしたが、ただ、石原氏は選挙運動中、胸に日の丸のワッペンをつけた白のブレザーという、オリンピックの日本選手団を思わせる服装で通しました。右翼といえば軍服か和服というイメージがある中で、斬新なイメージではありました。

しかし、石原氏は自民党内で重きをなすことはできませんでした。総裁選に立候補したのは一度だけですし、石原派と称するものがあったときも、小派閥でした。

結局、作家と政治家という“二足のわらじ”をはいたために、両方中途半端になったのではないでしょうか(“二足のわらじ”という言葉は、もともとは博徒が捕吏を兼ねたことを言い、身分の低さや生業と結びついた言葉なので、石原氏にはふさわしくないかもしれませんが)。
そのため、石原氏の足跡を振り返ると、暴言や差別発言ばかりが目立ちます。


とはいえ、石原氏にはいくつもベストセラーがあります。
その中で石原氏の思想の表現としてもっとも重要と思われるのが、1969年出版の『スパルタ教育』と1989年出版の『「NO」と言える日本』(盛田昭夫との共著)です。
前者は70万部、後者は125万部のベストセラーで、どちらも世間を大いに騒がせましたが、石原氏の追悼記事が多数出る中で、まったくといっていいほど無視されています。

『スパルタ教育』が無視されているのはわからないではありません。現在では絶版になっているからです。体罰を肯定する内容がさすがにまずいと判断されたのでしょう。

どんな内容かを少しだけ紹介しておきます。
2ページずつ100項目という読みやすい体裁になっていて、それぞれの見出しが煽情的です。

たとえば暴力を肯定するものはこんな具合です。

20.不具者を指さしたら、なぐれ
31.暴力の尊厳を教えよ
34.いじめっ子に育てよ
54.父に対するウラミを持たせろ
60.子どもに、戦争は悪いことだと教えるな

古い性別役割分業もあります。

11、父親は、子どものまえでも母親を叱ること
42.男の子に家事に参加させて、小さい人間にするな

反道徳的なこともあります。

27.犯罪は、許せないが、仕方のないことだということを教えよ
39.子どもに酒を禁じるな
46.子どもの不良性の芽をつむな 
75.よその子にケガをさせても、親があやまりにいくな
81.先生をむやみに敬わせるな

一貫した論理が見えません。

社会規範を教えるためにしつけは必要であり、そのときに暴力を使って刷り込むことも必要だというのが石原氏の考えです。
その一方で、不良性や暴力性を含む子どもの個性を尊重せよとも言っています。このような個性は創造性につながり、社会を進歩させるものだというのです。
しかし、どんなときに社会規範を教え、どんなときに子どもの個性を尊重するのかがわかりません。
結局、親が恣意的に判断することになります。その結果、子どもを虐待して逮捕されると「しつけのためにやった」と弁解する親が生み出されることになりました。
また、こうした倫理の問題を突き詰めて考えないことが、石原氏の作家としての限界になっていたと思われます。

石原氏は、「戦後日本から社会規範が失われたことを憂う国士」の顔と、「人間の暴力性や犯罪性を肯定する文学者」の顔と、両面宿儺のようにふたつの顔を持つ人間として生きてきました。
数々の暴言や放言もそこから生まれました。
「政治家としてなら許されないが、文学者としてなら許される」という社会常識の狭間を利用したのです。


石原氏は、体罰により複数の生徒を死亡させた戸塚ヨットスクール事件が1983年に表面化すると、ヨットスクールの支援者として活動を始め、多数の文化人を集めて戸塚宏校長らの減刑嘆願書を提出しました。
そのとき名を連ねた文化人は、いわゆるタカ派の人ばかりでした。
私はそれを見て、子育てと国際政治がつながっていることを改めて認識しました。
子育てで暴力を肯定する人は、国際政治でも戦争という暴力を肯定するのです。
ということは、叱らない子育てを実践することはなによりの平和活動だということでもあります。

石原氏はその後も戸塚ヨットスクールの支援を続けていました。「戸塚ヨットスクールを支援する会」のホームページを見ると、ずっと会長を務めていたことがわかります。
『スパルタ教育』は絶版になっても、石原氏の体罰肯定の思想は変わらなかったようです。







『「NO」と言える日本』も重要な本なのに、ほとんどなかったことにされています。

この本は石原氏とソニーの盛田氏のエッセイを交互に収録するという体裁になっています。
目次を見ると、手っ取り早く内容がわかるでしょう。

目次
現代日本人の意識改革こそが必要だ
Ten minutes先しか見ないアメリカは衰退する
日本叩きの根底には人種偏見がある
日本を叩くと票になる
アメリカこそアン・フェアだ
日本への物真似批判は当たらない
アメリカは人権保護の国か
「NO」と言える日本になれ
日本はアメリカの恫喝に屈するな
日本とアメリカは「逃れられない相互依存」だ
日本はアジアと共に生きよ

この本が出版された1989年は、ニューヨークのロックフェラーセンターを三菱地所が買収した年でもあり、日本のバブル景気が最高潮に達したころでした。
その経済力を背景に日本の政界と経済界の大物が日本の対米自立を訴えたわけです。

ウィキペディアによると、日本で出版された直後からアメリカ議会で英訳付きのコピーが出回って回覧されたということです。
そして、私の記憶によると、アメリカ議会の外交委員会でこの本のことが取り上げられました。そうすると、日本のマスコミの態度ががらりと変わって、石原氏と盛田氏に批判的になりました。
盛田氏が外国から成田空港に着いたとき、まるでスキャンダルを起こした芸能人に対するようにマスコミが取り囲んでマイクを突きつけたのを覚えています。

『「NO」と言える日本』には煽情的なところもありますが、日本は対米自立するべきという主張は真っ当なものです。
ところが、この本がバッシングされてから日本の論調は変わりました。

盛田氏はビジネスに影響することから、この本と距離を取りました。
石原氏はその後も、1990年に『それでも「NO」と言える日本』(渡部昇一・小川和久との共著)、1991年に『 断固「NO」と言える日本』(江藤淳との共著)を出しましたが、日本全体の空気、とりわけ右翼論壇の空気が変わりました。

もともと石原氏や中曾根康弘氏のような改憲派は、対米自立や自主独立が目標で、そのためには軍隊や核武装が必要だということで改憲を主張していたのですが、そんな主張は潮が引くように消えていきました。
右翼は親米一色になりました。改憲にしても、アメリカは自衛隊の海外派遣を求めていたので、その要求に応えるための改憲になりました。

その後、反米右翼の立場に立つ主な人物は西部邁氏ぐらいでしたが、すでに亡くなりました。
小林よしのり氏は途中から反米路線に転じましたが、そのとたんに右翼論壇から干されました。
右翼団体の中で反米路線なのは一水会ぐらいではないでしょうか。

なお「反米」というのは便宜的な呼び方で、実態は「自主独立」というべきものです。

最近の右翼は親米を通り越して売国になっています。アメリカファーストを主張するトランプ前大統領を崇拝して、「選挙は盗まれた」というデマを盲信したりします。

日本が辺野古に米軍基地建設を強行し、アメリカから高価な兵器を買い、日米地位協定にまったく手をつけられない国になったのも、『「NO」と言える日本』がバッシングされたときが転換点だったのだと思います。


石原氏自身は『「NO」と言える日本』を書いたときからほとんど考えは変わっていないようです。
「石原慎太郎公式サイト」の「理念・思想」のページには次の文章が掲げられています。

いつの間にか日本は、国家としての意思表示を欠き、世界中のどこからも疎んぜられる「商人国家」に成り下がってしまった。アメリカの思惑の通りに。いや、表向きは頭を垂れつつも、実利だけはしっかりと確保する商人としてのしたたかさがあればまだいいのですが。しかし円高円安の通貨の問題一つとっても、いつも相手のいい成りに要らざる大損を強いられてきた。まるで、鵜飼の手に操られる鵜のようなものだ。『亡国の徒に問う』(文藝春秋)


私がアジアとの付き合いを主張し、アメリカにもはっきりものをいうべきだというと、日本国内ですぐにあいつは反米だという声が上がる。私にはこの反米という括り方がきわめて幼稚で卑屈な言い方だとしか思えない。つまり戦後五十年を考えれば、日本にとってアメリカは一種の宗主国だった。

日本が経済的にも成長して、なんとかアメリカと冷静につきあわなくてはならないときに、それを反米というラベルで論じようというのは、かつて自信喪失をしたときの認識をそのまま引き継いでいるとしかいいようがない。そういう言葉をつかう人は、じつに情けない日本人だと思う。『亡国の徒に問う』(文藝春秋)

石原氏というと、中国を「シナ」と呼び、尖閣諸島上陸を企てたり、都知事のときに尖閣諸島購入を計画したりということがクローズアップされて、反中国の政治家というイメージがありますが、実際には反米の主張もしているのに、そのほうはまったく無視されているのです。


石原氏にとっては、体罰肯定の主張は封印され(これは当然のことですが)、改憲もできず、対米自立も果たされず、経済は衰退し、日本人の精神は堕落する一方だと見えていたでしょう。
つまり思想的にはすべて未完か挫折でした。
ただ、個人的にはやりたいことをやって、好きなように暴言と放言をして、いい人生だったに違いありません。

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安倍晋三氏が政権から遠ざかって世の中が落ち着いてきたと思ったら、代わりに維新の会がのさばってきました。
もっとも、維新の会をのさばらせたのは立憲民主党です。
いったいどちらの罪が大きいのでしょうか。


きっかけは菅直人元首相が1月21日、橋下徹氏に関して述べたツイートです。

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これに対して橋下氏は、「弁舌の巧みさはお褒めの言葉と受け取っておく」としたあと、「ヒトラーへ重ね合わす批判は国際的には御法度」として菅元首相を批判しました。

これを受けて、日本維新の会の副代表である吉村洋文大阪府知事も「とんでもない発言」「国際法上あり得ない。どういう人権感覚をお持ちなのか」と菅元首相を批判。

日本維新の会の藤田文武幹事長は26日午前、立憲民主党本部を訪れて抗議文を手渡し、菅元首相の投稿の撤回と謝罪を要求しました。

さらに、産経新聞の「<独自>維新の抗議文判明 菅直人元首相のヒトラー投稿」という記事によると、『維新幹部は産経新聞の取材に「立民が逃げ回るならば党本部に乗り込む。維新を怒らせたらどうなるか徹底的に思い知らせる」と語った』ということです。


橋下氏の「ヒトラーへ重ね合わす批判は国際的には御法度」という主張はまったくでたらめです。
国際的にご法度なのは、ヒトラーを賛美したり肯定したりすることです。ヒトラーを批判したり、ヒトラーもどきの政治家を批判したりするのがご法度なわけがありません。
ちなみに2013年に麻生太郎副総理が「憲法はある日気づいたらワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね」と発言しましたが、これはナチスを肯定しているので、まさに国際的にご法度の発言です。

橋下氏がヒトラーに重ね合わせて批判されたとき、「私はヒトラーとはまったく違う。いっしょにするな」と言って反論するのはありです。
ところが、橋下氏は「ヒトラーを重ね合わせた個人批判は一律禁止」だと主張しました。
こんな主張が通ったら、ヒトラーと同じような政治家が出てきたとき、「彼はヒトラーみたいだ」と言って批判するのも禁止されることになります。
橋下氏の主張は、日本でヒトラーのような政治家が登場する地ならしをしているようなものです。

したがって、菅元首相や立憲民主党はきちんと反論し、こんな主張はつぶさなければなりません。


菅元首相は投稿の撤回と謝罪は拒否し、ツイッターで維新批判を繰り広げていますが、ヒトラー問題ではこれという反論はしていないようです。
立憲民主党の泉健太代表はインターネットテレビの番組に出演した際、ヒトラーを持ち出して個人を批判することについて、「警鐘を鳴らすということはあり得る」「一律だめとはならない」と述べましたが、いかにも弱い表現です。
「橋下氏の主張は間違っている。撤回するべきだ」ぐらい言わなければなりません。


今回の橋下・維新側と菅・立民側のやり取りを見ていると、圧倒的に橋下・維新側が攻めて、菅・立民側は防戦一方という感じです。

維新のやり方は、ヤクザかヤンキーが大声で相手を恫喝するみたいなもので、立民側は相手の大声にびびって、言うべきことが言えなくなっているようです。
テレビのコメンテーターなども、維新の大声にびびるのか、橋下氏の「ヒトラーを重ね合わせた個人批判は一律禁止」を肯定するようなコメントをしています。


日本の劣化とも見えますが、もともと政治とはこういうものです。
政治は言葉を武器にした戦いです。

インターネットの登場で、その戦い方が変わりました。
掲示板やSNSで短い言葉のやり取りで議論するので、大きな思想や理念を戦わせるのではなく、その場その場で相手を論破するというやり方になりました。
このやり方が巧みだったのがトランプ前大統領です。政敵を罵倒する能力だけでアメリカ大統領にまでのぼり詰めました。
日本では、ネトウヨという言葉があるように、左翼よりも右翼のほうがインターネットでの議論に熱心で、その分議論もたくみです。

維新は喧嘩慣れしたヤンキーみたいです。論理はむちゃくちゃですが、相手を威圧しています。

立憲民主党の人たちの議論の下手さはあきれるばかりです。
しかし、同じリベラルでも、れいわ新選組は議論がひじょうにたくみです。
この違いは、インターネットでの議論に慣れているかどうかの違いでしょう。

最近「論破王」の異名をとるひろゆき(西村博之)氏は、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の創始者ですから、おそらく最初のころから2ちゃんねるに書き込んで議論していたのでしょう。その圧倒的経験で論破王になりました。


実は私も2ちゃんねるによく書き込んでいた時期があります。
私は自分の思想の「道徳観のコペルニクス的転回」を世に問うとき、反対する人もいるだろうから、論争の技術を磨き、誹謗中傷されることにも慣れておこうと思ったのです。
いちばん激しく論争するのは右翼対左翼ですから、右翼対左翼の論争が常時行われていて、あまり大規模でない「板」を選んで、私が左翼に加勢することで論調を転換できるか試してみました。
2004年にイラク日本人人質事件があり、人質たちの「自作自演」だという書き込みがあふれた2ちゃんねるが世の中から注目されました。そのころから数年間、わりと熱心に書き込んでいました。

今回、その「板」をちょっとのぞいてみると、ものすごく劣化していて、まともな議論が行われている雰囲気はありません。昔はもうちょっと人間的なやりとりもありました。今では「2ちゃんねるによく書き込んでいた」などと言うと、恥ずかしいだけかもしれません。

最初は「名無し」で書き込んで議論し、やがて慣れてきて「コテハン(固定ハンドルネーム)」を使って積極的に論戦を挑むようになると、百戦百勝しました。
その中で培った論戦のノウハウを紹介しましょう。


大きなテーマを選ばない
議論に勝ちたいなら、大きなテーマを選んではいけません。これは当たり前のことです。性善説か性悪説かみたいなことはいくら議論しても決着しません。小さなテーマ、狭い分野、具体的なことほど逃げ道がないので、相手を追い詰めることができます。

攻撃する。守る立場にならない。
「攻撃は最大の防御」というのは論戦でも同じです。このことはわかっていても、人はつい自分の主張したいことを主張してしまいます。そうすると、「考えが甘い」とか「こういう場合はどうするのか」と攻撃されて、守りの立場になってしまいます。守りの立場である限り、勝利はありません。「差別はよくない」と言うのではなく、「それはヘイトスピーチだ」とか「人を傷つけて平気なのか」というように攻撃します。

特定の個人を攻撃する
いくら正しいことを主張しても論破したことにはなりません。論破するというのは、特定個人に間違いを認めさせることです。実際には間違いを認める相手はほとんどいなくて、沈黙するだけです。そのとき「あいつは逃亡した」と言って、反論がないことを確かめてから、勝利宣言します。これが実際の論破ということです。
多数から攻撃されて守りの立場になったときも、攻撃してくる人間を見極めて、いちばん勢いのある個人を名指しして(匿名でもIDを指定します)、その個人を攻撃します。
健全な常識からすると個人攻撃はよくないとされますが、間違った考えをする連中の代表を言い負かせば世の中はよくなると考えればいいのです。

論理の矛盾または主張の根拠を追及する
攻撃するときは焦点を絞らないといけません。相手の主張に矛盾があるというのはいちばん攻撃しやすい標的です。それから、相手の主張のソース(情報源)を問い、根拠のない主張であったり、あやしい根拠の主張である場合は、その主張を否定します。
この目標設定が正しければ、論争は必ず勝てます。つまり論争というのは、始まった瞬間に勝敗が決まっているのです。
議論しているうちに、自分の主張したいよけいなことを言ったり、相手に挑発されてよけいなことを言ったりして、議論が目標からそれていくこともしばしばありますが、そのつど最初の目標を思い出して軌道修正します。ボクシングで相手をコーナーに追い詰める感覚です。

相手の言いすぎを追及する
議論していると、相手が言いすぎて、間違った主張をすることがあります。そういうときは、目標を変更して、そちらを追及するのもありです。
自分も言いすぎることがありますが、そういうときはすぐに修正します。そうすれば問題はありません。ところが、たいていの人は言いすぎを正当化しようとしてドツボにはまります。

論争に慣れる
最初のうちは、相手から攻撃されると、冷静さを失って、思考力が働かなくなります。また、相手を強く攻撃すると、想定外のカウンターパンチを食らうのではないかと不安になって、なかなか強く攻撃できません。しかし、論争に慣れれば、冷静に思考できるようになります。勝てそうだと思うときだけ論争を挑めば、百戦百勝できます。


このような議論は、思想の戦いではなく、論理力の戦いです。
正しいほうが勝つのではなく、論理力の強いほうが勝つのです。
裁判所が支払いを命じた賠償金を平気で踏み倒すひろゆき氏が論破王になっているのを見てもわかります。
釈然としない人のためには「正しき者は強くあれ」という言葉を贈っておきます。



このような私の経験から菅元首相と橋下氏の論争を見ると、橋下氏はさすがに論争の仕掛けがうまいなと思います。

発端となった菅氏のツイートを見ると、橋下氏のことも維新のこともまったく批判していません。それでいて「ヒットラー」という言葉が出てきます。論理が矛盾しているといえます。橋下氏はそこを突きました。

菅氏としては、このツイートを正当化するのは容易ではありません。「橋下氏はヒトラーのようだから言ったのだ」と主張しようとしても、橋下氏の過去の言動にヒトラー的なものはそれほどありませんし、現在は政治家でもありません。維新の会には優生思想的な発言をする議員や候補者が何人もいましたから「維新の会はナチス的だ」という主張はできなくもありませんが、維新の会と橋下氏は別です。
ですから、「弁舌の巧みさがヒトラーを思い起こすと言っただけで、それ以上の意味はない」と弁解するか、「ヒトラーという言葉を使ったのは適切ではなかった」と謝るぐらいでしょう。
不利な状況では戦わないこともたいせつです。

ところが、橋下氏は「ヒトラーを重ね合わせた個人批判は一律禁止」だと主張しました。調子に乗って言いすぎたのです。
ここは反転攻勢に出て、「じゃあヒトラーみたいな政治家が出てきても、『彼はヒトラーみたいだ』と言って批判してはいけないのか」と言って、発言撤回に追い込みたいところです。

また、テレビコメンテーターとして活躍する橋下氏は日本維新の会とは無関係ということになっています(大阪維新の会の法律顧問という肩書はありますが)。
ところが、橋下氏が侮辱されたとして日本維新の会は立憲民主党に抗議文を提出しました。
橋下氏が「政党間のバトルは私人として関知しないので好きなようにやってくれたらいいが、俺を巻き込まんでくれ」とツイートすると、日本維新の会の足立康史議員は「私の衆院予算委で使ったパネルでは、意識して橋下氏の名前を消しましたが、抗議文では消し忘れました。失礼しました。橋下氏はマスコミ人。有権者が維新と重ね合わせて見ないよう、私たちも改めて注意しなければなりません」とツイートしました。
抗議文の提出者は馬場伸幸共同代表となっていますが、文章を書いたのは足立康史議員だったようです。

「抗議文では名前を消し忘れた」とはひどい話です。立憲民主党は「書き直して再提出してください」と要求するべきです。
しかし、書き直すことができるでしょうか。抗議の出発点は橋下氏がヒトラーにたとえられたということにあるからです。
ちなみに抗議文の全文はこうなっています。

令和4年1月26日
立憲民主党
代表 泉 健太 様
日本維新の会
共同代表 馬場 伸幸

抗議文

さる1月21日、貴党の菅直人最高顧問が自身のツイッターに、わが党に関して、創設者の橋下徹元大阪府知事の名を挙げ「弁舌は極めて歯切れが良く、直接話を聞くと非常に魅力的」「主張は別として弁舌の巧みさでは第1次大戦後の混乱するドイツで政権を取った当時のヒットラーを思い起こす」などと投稿した。

世界を第二次世界大戦に巻き込み、ユダヤ人虐殺など非道の限りを尽くしたナチスドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーを、民間人の橋下氏および公党たる日本維新の会を重ね合わせた発言であり、看過できない。いったい、どのような人権感覚を持っているのか。怒りを覚えるとともに、断固抗議する。

菅氏の投稿は、言うまでもなく、まったく事実に基づかない妄言であり、誹謗中傷を超えた侮辱と断じざるを得ない。
国会議員としてはもとより、人として到底許されるものではない。

ましてや菅氏は民主党政権下で内閣総理大臣を務め、なおも野党第一党の重責を担う大幹部である。
その発言の重大性を真摯に受け止めるべきであり、これを放置するのであれば貴党の責任も問われると考える。

貴党ならびに菅氏に対し、今月末日までに当該投稿(発言)を撤回し、謝罪するよう強く求める。
以上
https://torachannel.work/archives/13149341.html

「維新の会と橋下氏は無関係」としながら、「橋下氏が侮辱されたので維新の会が抗議する」というのは明らかに矛盾ですから、ここはいくらでも追及できます。
「この抗議文を出すことを橋下氏は了解しているのか」とか「この抗議文に対する回答は橋下氏に知らせるのか」と具体的に質問するのがコツです。
「人権」という言葉も出てきます。「誰の人権ですか」と聞きたいところです。「橋下氏の人権です」と答えるはずです。「維新の会のメンバーの人権です」などとごまかせば、「具体的に誰ですか」とさらに質問します。

「発言を撤回しろ」という要求もあります。
もしかすると菅氏の発言は橋下氏への名誉棄損になるかもしれませんが、それは橋下氏が対処するべき問題で、維新が口出しすることではありません。
「この抗議文は、理由なく発言を撤回するよう求めている。これは言論の自由の否定だ」と言って、抗議文の撤回と謝罪を要求することができます。
維新の会が要求に応じなくても、ネチネチと追及すれば自然と優位に立てます。


こういう低レベルの争いをしていていいのかと思われるでしょう。
確かにその通りです。
根本的な原理の転換をしなければなりませんが、それについては「すべての思想を解体する究極の思想」を参照してください。

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