村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2022年04月

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今年は日本共産党結成100周年です。
ソ連東欧圏の崩壊とともに共産主義も思想として破綻したと見なされていますが、日本共産党はずっと「共産党」を名乗って、綱領には「科学的社会主義」が掲げられています。
「科学的社会主義」とはなんでしょうか。

志位和夫委員長は4月14日の記者会見で、ウクライナ侵略に反対することと「科学的社会主義」の関係について問われ、「マルクス、エンゲルスはその生涯を通じて、19世紀の二つの覇権主義――帝政ロシアの膨張主義およびイギリス資本主義の植民地主義に対してたたかいを続けてきた」とし、「日本共産党はマルクス、エンゲルスの立場を引き継ぐものだ」と述べました。
どうやら「科学的社会主義」はマルクス主義のことのようです(レーニンは排除されたようです)。
綱領には「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく(中略)民主主義革命である」とありますが、そのあと「日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる」として、「生産手段の社会化」をうたっています。

国民民主党や連合の芳野友子会長が野党共闘から共産党を排除するよう立憲民主党に要求しているのは、共産党がマルクス主義政党だからということでしょう。

しかし、社会主義経済や計画経済は、格差社会問題や地球環境問題の観点から世界的に見直されています。
単純な反共主義も時代遅れです。

とはいえ、ソ連東欧圏が政治的にも経済的にも行き詰まって崩壊したのは事実です。
マルクス主義はどこが間違っていたのでしょうか。
思想的な観点から解明したいと思います。


そもそもマルクス主義はなぜ「科学的社会主義」を名乗っているのでしょうか。
これにはダーウィンの進化論の影響があります。
ダーウィンとマルクスはほとんど同時代人です(ダーウィンは1809年生まれ、マルクスは1818年生まれ)。
マルクスは『種の起源』を読んで感銘を受け、『資本論』の第一巻をダーウィンに献本しています。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、共産制へと社会が進化するという唯物史観は進化論の影響でしょう。
革命家は体制側に立つキリスト教会とも戦わねばなりませんでしたが、聖書の創造説を否定する進化論の登場は革命家にとって強力な援軍になりました。
マルクス主義は「宗教はアヘンだ」としてキリスト教と全面対決しましたが、それを可能にしたのは進化論の援軍でした。

マルクス主義は進化論を土台にしたので「科学的社会主義」を名乗ったのです。

幸徳秋水は『平民主義』において、「社会主義が自由競争を禁止しようとするのは、進化論の生存競争の法則と矛盾するのではないか」という疑問に答える形で、進化論とマルクス主義の関係について次のように書いています。
ダーウィン氏の進化説は、千古不滅の真理である。けれども、彼はただ、生物自然の進化する根本の理由を説示するにとどまった。
だから、どうしてこれを人類社会に応用すればいいか、という問題になってくると、あの、いわゆるダーウィニアンの徒が、まちまちの議論にわかれ、なかにはひどい謬見におちこんでいる者がある。
そして、ダーウィンが生物自然の領域でなしとげたのと同じような創見を確立して、じかに人類社会の領域にもちこんで貢献したのが、近代社会主義の開祖マルクスである。
マルクスもまた、すべて従来の独断・迷信を排除し、人類社会の史的発展過程を研究して、社会進化の法則が、かならず社会主義に帰着しなくてはならない必然の筋道をあきらかにした。マルクスの『資本論』は、まことにダーウィンの『種原論』(『種の起原』)とならんで種子をおろした十九世紀の大作である。
だから、ダーウィンの進化説は、ほんとうにマルクスの資本論によって、はじめて大成されたものである。いったい、社会主義をさして進化説と矛盾する、というような論者は、まだ社会主義がわからないばかりでなく、また進化説もわからない者である。(幸徳秋水著『平民主義』中公クラシックス)

マルクス主義と進化論は一時期、このように幸福な関係にありました。
しかし、ダーウィンはジェントルマン階級の人間で、しかもイギリスでもっとも格式の高い社交クラブに属するような“最上級国民”でした。その階級的立場ゆえに、ダーウィンは進化論を人間に適用するときに間違いを犯したのです。
ダーウィンは『種の起源』の12年後に著した『人間の由来』で進化論から見た人間を論じ、そこにおいて社会ダーウィン主義と優生思想を肯定し、人種差別を助長する考えを示しました。これ以降、社会ダーウィン主義と優生思想が社会を席巻し、ナチスによるホロコーストの悲劇も生まれました。
現在でも進化論によって人間を論じると、人種差別、社会ダーウィン主義、優生思想を肯定する間違いを犯す者が少なくありません(たとえば橘玲や竹内久美子など)。

ともかく、ダーウィンが進化論の人間への適用を間違ったので、マルクス主義と進化論はたもとを分かちました。
今ではマルクス主義と進化論に密接な関係があったことはほとんど忘れられているので、なぜマルクス主義が「科学的社会主義」を名乗っているのかわからない人も多いかもしれません。


ダーウィンが進化論の人間への適用を間違ったのは、あくまでダーウィンの間違いで、マルクス主義とは無関係です(ダーウィンの間違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」で詳しく述べています)。
それとは別に、マルクス主義そのものに間違いがあります。


マルクス主義など社会主義思想は、経済体制の変革を目指すものですが、その根底には「人間解放」ということがあります。
人間解放の思想の源流は、ジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』にあります。
『人間不平等起源論』の有名な一節を引用します。

ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と言うことを思いつき、それを信ずるほど単純な人たちを見いだした最初の人が、文明社会の真の創立者であった。

このときから人間社会の不平等が始まって、それ以前の自然状態では平等だったというわけです。
マルクス主義が人間社会の最初の状態を原始共産制と見なしたのと同じです。

ルソーは、土地に囲いをすることを思いついた賢い人間と、それを信じた愚かな人間との間で不平等が生じたとしています。しかし、そんな自分に損になることを単純に信じる人間はいません。実際は土地の囲いを巡って争いがあったはずです。そして、強者が弱者に対して自分の言い分を通したのです。
つまり自然状態でも生物学的な強者と弱者がいました。ただ、その差はわずかでした。しかし、その差をもとにした社会制度ができると、社会的な強者と弱者が生まれ、その差はしだいに拡大してきたというわけです。

ともかく、不平等や支配は個人と個人の関係から生じるので、社会から不平等や支配をなくそうとすれば、個人と個人の関係から正していかなければなりません。

ところが、マルクス主義が問題にしたのは、奴隷と市民、地主と小作人、資本家と労働者という、生産関係における階級支配でした。
資本主義社会では、労働者階級が資本家階級を打ち倒せば人間解放という目的は達成されると考えたのです。
これがマルクス主義の根本的な間違いでした。
労働者階級が資本家階級の支配から解放されたとしても、さまざまな支配のひとつから解放されたにすぎません。

たとえばソ連においては、女性が職場や軍隊にも進出し、男女平等に近づいたようでしたが、党や国家の上層部は男性ばかりで、家庭内の性別役割分業も昔とほとんどかわりませんでした。
つまり女性は男性支配から解放されていなかったのです(フェミニズムがそれを明らかにしました)。


さらに、もうひとつの問題があります。
それは知識階級支配という問題です。
複雑化した現代社会では知識階級の力が大きくなりました。
社会主義運動も、労働者が主体であるというよりも、実質的には知識人が主導して行われていました。
とりわけマルクスやエンゲルスの書く文章はむずかしいので、知識人でないとなかなか理解できません。そのため労働者は読書会や学習会で知識人から学びました。
マルクス主義は「科学的社会主義」という“真理”なので、知識人はより“真理”に近い人ということになりました。
つまりマルクス主義には“知識階級独裁”という罠が隠されていたのです(これを“プロレタリアート独裁”という言葉でごまかしていました)。

革命が成功してソ連が成立すると、党や国家の上層部は知識階級によって占められました。
これはどんな国家でも同じですが、マルクス主義では知識階級支配に対して無警戒なので、ソ連は独裁国家になり、党幹部や国家官僚は特権階級化しました。
これがマルクス主義のもたらした最大の問題です。


マルクス主義は労働者階級が解放されればすべての問題が解決すると考えたのですが、実際には男性が女性を支配しているという問題があり、さらに、知識階級が非知識階級を支配しているという問題もありました。

つまりルソーが想像したように、強者と弱者が出会ったときに支配が生じるので、支配はいたるところにあります。
しかし、今のところ人間解放の思想としては、マルクス主義など社会主義思想とフェミニズム思想しかありません。
このふたつでは不十分です。
いちばん肝心なことが抜けています。

人間が生まれて最初に体験する支配は、親からの支配です。
親は子どもに対して圧倒的な強者です。
親は自分の子どもを思い通りにしようと教育・しつけを行い、「やさしい子になってほしい」とか「たくましい子になってほしい」とか「医者にしたい」とか「ピアニストにしたい」とか考えますが、こうした考えはすべて子どもの人生を支配しようとするものです。
そうしたことがまかり通っているので、悲惨な幼児虐待も起こります。

親子関係は人間関係の原点なので、親子関係に支配があることを理解すれば、あらゆる人間関係の支配が理解できるようになります。
人間社会の不平等や支配を解決するには、親子関係の改善から始めなければなりません。


このようにマルクス主義は、人間解放の思想としては、階級支配しか視野になくて、性差別も子ども差別も無視していたので、まったく不十分でした。

日本共産党の綱領には、フェミニズムが取り入れられて「ジェンダー平等」がうたわれています。
しかし、「子どもの人権」や「子どもの主体性」という言葉はなく、子どもは「教育の対象」ととらえられています。
また、「民主集中制」という言葉もあって、ソ連の独裁政治に対する反省も不十分です。


あと、社会主義経済はうまく機能するのかという問題もあります。
これは大きな問題なので、簡単には答えられませんが、中国もベトナムも市場経済を取り入れることで経済発展をしています。
市場経済を前提に貧富の差の解消をはかるというのが正しい道ではないかと思います。

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映画監督の榊英雄氏、俳優の木下ほうか氏、映画プロデューサーの梅川治男氏による性加害報道が相次いで、映画界のセクハラ体質が問題になっているところに、園子温監督も女優に対してセクハラ・性行為強要を行ったと週刊誌が告発しました。
園監督は謝罪文を公表しましたが、「ご迷惑とお騒がせ」をしたことを謝罪しただけで、告発内容については「事実と異なる点が多く」と、むしろ否定しています。

私は園監督のかなりのファンです。園監督は多作ですが、私はメジャー作品の8割ぐらいは観ていますし、園監督の書いた本も3冊読んでいます。
私は映画界全体のことはよくわかりませんが、園監督のことなら多少はわかります。
園監督によるセクハラ・性行為強要はあったのでしょうか、なかったのでしょうか。


園監督は『獣でなぜ悪い』という本の中で、映画監督と女優の関係についてこのように書いています。
僕は映画を撮っている最中、俳優をまずひとりの人間として見て、その存在を尊重することが大切だと思っている。
そして、基本的に女優とは恋愛関係になっていると思う。自分の希望とは違うキャスティングをプロデューサーとかから無理矢理当てられたとしても、一生懸命努力してその俳優を好きになり、本当に好きになっているような気になることができる。しかし、クランクアップした瞬間に、その気持ちはスッと消えていく。
あるいは、実際に恋愛をしている女優をキャスティングする場合もあるが、その場合は撮影後もそれが続いていることもある。とにかくどういう形であれ、撮影中は恋愛状態にあり、それが本気か本気じゃないかわからなくなるくらい夢中になっている。

吉高由里子さんや満島ひかりさんは園監督の映画に出演することで女優として高く評価されるようになりましたが、この二人は園監督にとっても特別な存在だったようです。
いま思えば、吉高や満島との仕事はエキサイティングだった。普通の女優と監督の関係は指揮者とオーケストラ奏者だと思う。しかし、彼女ら二人と僕はバンドのようだった。バンドは、オーケストラと指揮者よりもっとお互いの距離が近い。僕らは映画づくりにおいてバンド仲間のような「共犯関係」にあったと思う。
彼女たちとの出会いに共通するのは、ある種の「隙」だ。何か油断があるほうがいい。共犯関係に陥るような出会いにはさり気なさが必要だ。

園監督の演技指導はかなりきびしいようです。
映画「紀子の食卓」で吉高さんと吹石一恵さんは姉妹の役で出ているのですが、園監督は吹石さんにはきびしく当たらなかったといいます。
一方で吉高に対しては厳しく、ファーストテイクから数えきれないほどやり直させた。その回数は、朝から日が暮れるまでのあいだに百回くらいに及んだ。それは吉高が相手役の男の子と教室で二人きりで話すシーンだったから、彼もまた同じ演技を繰り返すことになって気の毒だった。しかし当の吉高はといえば、人生最初の撮影現場だったこともあり、それが普通だと思ったらしく文句も言わずに何度もやった。
演技は最初のシーンの最初のカットがいちばん大事だから、僕はそこで役者をこれでもかと追い込む。追い込むことで、役者の「演技なんてこんなもん」という思い込みを消し、緊張感を生み出し、役者を自分自身と向き合わせて、いまもっている殻を自分自身で破らせ、その人だけがもっているカラーを生む。厳しいことを言えば吉高も泣くことがあったが、僕は何のケアもしなかった。そうしたケアは、僕以外の誰かがしてくれる。

「きびしい演技指導」と「パワハラ」は紙一重です。
そこに園監督の場合は「恋愛関係」が入ってくるわけですから、「セクハラ」とも紙一重です。

それに、園監督の映画の特徴は、エロスとバイオレンスに彩られていることです。
そうなると、園監督のセクハラ・性行為強要は限りなくありそうに思えます。

園監督自身はそれを性行為強要と認識していない可能性があります。
たとえば『けもの道を笑って歩け』という本によると、園監督は「東京ガガガ」というパフォーマンス集団を主宰していたころ一回だけ関係を持った女性から、5年ぐらいたってから電話があってファミレスに呼び出されます。その女性は「私は組長の娘だけど、あのときあなたは私をレイプしたよね?」と言います。外を見ると、黒い車がずらっと並んで、ヤクザがこちらをにらんでいます。
連れていかれた組事務所は、建物の出入口からエレベーター、最上階の扉まですべてオートロックで施錠され、絶対に逃げ出すことはできない。事務所に入ると、ジャラジャラ鳴っていた麻雀の音がピタッと止まった。「オメエか。娘をレイプしたのは?」と組長に凄まれて目線を落とすと、ギザギザのガラスの灰皿が置いてあった。小説でよく、走馬灯のように人生が駆け抜けるというけどまったくそうで、いろんなことが思い起こされて、死ぬんだと覚悟しました。
こんな時、「レイプはやってません!」と事実を主張しても、ただの間抜け。灰皿でボコボコにされるのがオチです。せめて死ぬ時は明るくさわやかにいこうと、大声で「ヤリました~!」と言うと、チューイングガムのぺちゃくちゃが一斉に止まった。唖然とした組長が娘を見ると、バツの悪い顔をしたのでハッとした。レイプではないと気づいたのです。長い沈黙の後、「駅まで送ってやれ」と組長が言って無罪放免になりました。腹を括るしかなかっただけですが、結果的に、人生最高の選択になっていました。

園監督はこのエピソードを別の本にも書いていて、そこにははっきりと「僕はもちろんレイプなどしていなかった」と書いています。
私はこれを読んだときは、そのまま受け止めていましたが、よく考えるとおかしなところがあります。
完全な合意の上の性行為なら、5年もたってからこんな電話がかかってくるでしょうか。
実際は限りなくレイプに近かったのではないでしょうか。
組長の娘は、園監督が映画監督として売り出しているのをテレビなどで見て、レイプされたときの悔しさがよみがえり、仕返ししたくなったと考えると、一応腑に落ちます。

このように考えると、園監督のセクハラ・性行為強要疑惑は限りなく黒に近いと思えます。
もちろん断定はできませんが、黒という前提に立つと、ここは園監督がきちんと謝罪しなければなりません。
本人は納得いかない気持ちがあるかもしれませんが、組長に対して「ヤリました~」と言ったのと同じことです。映画監督生命を守るためにも謝罪するしかありません。


園監督が謝罪したとすれば、今度は世の中が園監督を許すか否かを問われることになります。
謝罪しても過去の罪は消えないという考えもありますし、そんな罪を犯した人間の映画なんか観たくないという人もいるでしょう。

私はというと、園監督の罪は許すべきだという考えです。園監督の映画のおもしろさは常識の枠を破ることにあるのですから、常識で裁いて、園監督の映画を排除するのはまったく愚かなことです。


先ほどの組長の娘に呼び出される話もそうですが、園監督はさまざまな常識外れの体験をしている人です。
たとえば園監督は17歳のときに家出して東京に出てきます。行くあてもなく駅前でギターを弾いていると、女性に声をかけられます。これは逆ナンパに違いないと思って、童貞を捨てるチャンスと女性をラブホテルに誘うと、女性もあっさりと了解していっしょにホテルに入ります。
そうすると、女性はこんなことを言います。
「実は旦那と喧嘩して家出してきて、田舎に帰ろうと思ってたんですが帰れない。あなたが拾ってくれたのもなにかの縁……」と言って、カバンから大きな植木バサミを取り出した。彼女は「これで一緒に死にましょう」と言う。
僕はあまりの展開になす術がなかった。殺される……もうこれまでかと思ったとき、彼女が、「二つの選択肢をあげる。ひとつはここで一緒に死ぬこと、もう一つは私の田舎に行って旦那になりすまして、私の母親と一緒に暮らすこと」と言った。つまり「sex or die」の二択だ。死にたくない……僕はもちろん田舎に一緒に行くことを選んだ。すると彼女は植木バサミをしまって、「じゃあ、セックスでもしますか?」と言ったが、僕はセックスなんかできる状態じゃなくなっていた。

園監督はタクシーで彼女の実家に連れていかれ、彼女の母親に「なんだかちょっと若いね」と怪しまれながら、しばらくいっしょに暮したということです。
このときの体験から、レンタル家族を題材にした「紀子の食卓」の発想が生まれました(先の組長の娘の話から、ヤクザの組長が自分の娘を主役にした映画を撮ろうとする「地獄でなぜ悪い」の発想が生まれます)。

園監督は途中で逃げ出すこともできたはずですが、わけのわからない状況に突っ込んでいくのが園監督の生き方です。

園監督は統一教会に入っていたこともあります。
五反田の駅前で「神を信じますか?」と声をかけられ、「信じたら飯が食えるのか?」と聞くと、「もちろん」と言うので、ついていきます。当時は貧乏だったので、ご飯にありつけるならなんでもよかったのです。教会に行くとご飯が食べられたので、教会に住むことになり、しばらく宗教理論の授業を受けたり、奉仕活動をしたりしていました。
「愛のむきだし」はオウム真理教をモデルにした映画ですが、統一教会での体験が下敷きになっています。

園監督がハリウッド進出を目指したときも、ハリウッド通の日本人と人脈をつくるより、渡米して直接人脈をつくったほうが早いだろうと判断して、2007年に実行します。20世紀フォックス、ソニー・ピクチャーズ、ディメンション・フィルムズなどを回って、偉い人に会わせてくれと警備員に頼んでいると、ハリウッド村は狭いので、へんな日本人がぐるぐる回っていると話題になり、20世紀フォックスの会長がおもしろがって会ってくれました。その後、ディメンション・フィルムズの社長、MTVの副会長、ソニー・ピクチャーズの人など、ありとあらゆる人に会ったそうです。
そして、園監督がハリウッドで初監督したニコラス・ケイジ主演の映画が2021年に公開されました。

普通の人なら尻込みするようなことでも突き進んでいくのが園監督流です。

合法・非合法という区分も園監督にとっては意味がないようです。
「東京ガガガ」というパフォーマンス集団で「ガガガ」と叫びながら道路を練り歩いていると、どんどん人数が増えて2000人ぐらいになりますが、デモの届けもなしにやっているので、毎回逮捕者が出ます。
また、渋谷のスクランブル交差点を占拠して、鍋を囲んで一家団欒をするというドリフターズのようなコントもしますが、これなど完全に道交法違反でしょう。

園監督の実質的にメジャーデビュー作となった「自殺クラブ」には、新宿駅などのホームで女子高生二、三十人が並んで手をつなぎ、一斉に電車に飛び込むというシーンがありますが、これはJRの許可なしにゲリラ的に撮影されました(実際には飛び込んでいません)。
今なら撮影手法が非難されて、映画の公開もできないかもしれません。

世の中が常識とか法律にとらわれていたら、園子温という才能は世に出ていなかったかもしれません。


もちろん性暴力はいけないことです。
園監督の作品はエロスとバイオレンスが特徴で、性暴力の場面も少なくありませんが、ベクトルは性暴力を否定する方向です。

映画界から性暴力を追放するのは正しいことですが、間違って映画から性暴力を追放するようなことはしないでもらいたいものです。


【追記】
私は園監督を高く評価しているのですが、評価する理由をはっきり書かなかったため、園監督の性暴力に寛容な印象を与える文章になったかもしれません。そこで、少し書き加えておきます。

園監督の父親は東大受験に失敗して外語大に行った人で、学歴コンプレックスを持っていて、園監督が幼いころから「お前は東大に行って、将来は官僚になるんだ」と言い聞かせ、口を開けば「勉強しなさい」と言っていたそうです。四角四面の堅物で、他人のことなど眼中になく、自分のことばかりしゃべっているような人です。
母親は、父親が黒と言えばなんでも黒、白と言えばなんでも白という人で、園監督にとっては存在しないも同然でした。父親からは「この子がだめなのはお前の血のせいだ」と繰り返し言われ、また祖父からは何度も殴られていました。しかし、実家の親戚などとお酒を飲んでいるときはよくしゃべり、別人のようだったというので、園家では自分を殺していたのでしょう。
園監督は家でも学校でも怒られてばかりだったので、通学路を歩いているときがいちばん楽しかったといいます。小学校では新聞部と放送部に所属して、新聞づくりや映像づくりをしていて、もしそれができなかったら自殺していたかもしれないということです。

このように自分の家族の問題を赤裸々に語れるのが園監督の特別なところです。
最近は家族の問題を描く映画がふえていますが、まだまだきれいごとの感じがします。しかし、園監督が描く家族は、負の側面まで深く掘り下げています。それは園監督自身の家族の問題とつながっているからでしょう。
園監督と女優の関係に不適切なところがあったとすれば、それは園監督の家族に負の側面があったことの反映でもあるでしょう。これを機に、それは克服してもらわねばなりませんが、園監督は2011年に神楽坂恵さんと結婚しているので、もはや過去のことである可能性もあります。

ともかく、園監督には家族の負の側面を描く映画作家として今後も活躍してほしいと願っています。(4月17日22時20分)


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戦争考古学という分野があります。
発掘された遺跡や人骨、道具などから古代の戦争について研究する学問で、書籍としては松木武彦著『人はなぜ戦うのか――考古学から見た戦争』や佐原真著『戦争の考古学(佐原真の仕事4)』などがあります。

戦争考古学によると、人類が戦争と呼べるような規模の戦いをするようになったのは農耕社会になってからです。
なぜ農耕社会で戦争が行われるようになったかというと、人口が増えて不作のときの飢餓が深刻化したとか、土地争い、水争いが行われるようになったとか、社会が組織化されたとかの理由も挙げられますが、いちばんの理由は食糧の備蓄が増えたことです。
狩猟採集社会では、食糧の備蓄はせいぜい数日分か十数日分だったでしょうが、農耕社会では収穫期には大量の食糧が蓄えられます。一日戦うだけで半年分の労働の成果をごっそりと奪うことができれば、危険を冒しても戦おうという判断があっても不思議ではありません。
そのため外敵に備える環濠集落がつくられるようになります。
そして、武器が進歩し、砦などがつくられ、戦争の規模も大きくなります。
つまり文明と戦争はともに発達してきました。

よく人類が戦争をするのは闘争本能があるからだと言いますが、それは間違いだということになります。
動物行動学者のコンラート・ローレンツも『ソロモンの指輪』において、同じ種の動物同士は争っても殺すところまではいかないと述べています。
つまり同じ種同士ではむしろ殺さない本能があるのです。


戦争は文明の産物だ――ということで私は自分の思想を組み立てていたのですが、そこにスティーブン・ピンカー著『暴力の人類史』という本が2015年に出版されました。
これが戦争考古学の知見とはまったく逆だったので、驚きました。

『暴力の人類史』によると、先史時代から戦争、殺人、レイプなどの暴力は行われていて、古代遺跡から見つかる暴力による死と見なせるものの割合は15%、今も狩猟採集生活をする部族における暴力死の割合は14%だということです。そして、文明が進むとともに暴力死はへってきて、二度の世界大戦があった20世紀でも暴力死は3%です。つまり文明の進歩によって戦争などの暴力は克服されてきたというのです。

日本の戦争考古学は縄文時代や弥生時代を対象にしているので、日本の古代史だけ人類史からかけ離れているのかと思いましたが、そんなことがあるはずありません。
『暴力の人類史』はインチキ本かとも思いましたが、ピンカーは認知心理学者として高く評価され、“知の巨人”とも言われている人です。それに『暴力の人類史』は上下巻で合計1400ページもあり、膨大なデータが盛り込まれています。
私はとりあえず『暴力の人類史』に疑問符をつけたままにしておくことにしました。


そうしたところルトガー・ブレグマン著『希望の歴史』が2021年に出版され、疑問が氷解しました。

ブレグマンは西洋にはふたつの思想潮流があると言います。ひとつはジャン=ジャック・ルソーに代表される、自然状態の人間は互いに助け合って仲良く暮らしていたという性善説です。もうひとつは、トマス・ホッブスに代表される、自然状態の人間は「万人の万人に対する闘争」をしていたという性悪説です。
そして、西洋ではホッブス流の性悪説が優勢だというのです。
実証的な研究も性悪説のバイアスがかかり、マスコミはそうした性悪説的学説をもてはやします。
たとえば古代人は残忍で、互いに殺し合いをしていたという説を学者が発表すると、マスコミはそれに飛びつきますが、古代人は平和に暮らしていたという説を発表すると、マスコミは無視します。
ですから、考古学の研究にもバイアスがかかっているのです。

ブレグマンは『暴力の人類史』におけるデータを具体的に検証し、バイアスがかかっていることや、専門家がピンカーの説を否定していることなどを次々と明らかにしました。
やはり『暴力の人類史』はトンデモ本の類でした。

結論としては、日本の戦争考古学が正しかったのです。
日本人には性悪説のバイアスがなかったのがよかったようです。


狩猟採集社会にはほぼ戦争はなかったのですが、農耕社会では戦争が始まり、文明が進むとともに戦争の規模も拡大してきました。
もちろん武器の進歩ということもありますが、農耕社会の初期段階ではせいぜい穀物しか奪うものがなかったのに、文明が進むと金銀財宝など奪うものの価値が増大したということもあります。

そして、私の考えですが、「奴隷制」の発明も大きかったでしょう。
戦争に勝って奴隷を獲得すると、奴隷が利益を生んでくれます。
古代ギリシャ・ローマでは、市民よりも奴隷の数のほうが上回っていました。

「植民地」の発明も同様です。
植民地を獲得すると大きな利益が得られるので、植民地獲得の戦争が激化しました。

宗教が理由の戦争も一部にありますが、戦争は基本的に土地、財産、奴隷、植民地、賠償金などの利益を得るために行われるものです。

クラウゼヴィッツは『戦争論』において、「戦争は別の手段による政治の継続である」と述べましたが、では、政治の目的はなにかということは述べていません。
人間が利益のために戦争をするということは軍人として認めたくなかったのかもしれません。


戦争に負けると、殺されたり奴隷にされたりするので、誰もが否応なしに戦争に備え、戦争に強くならなければなりません。
そうして人類の歴史は戦争の歴史でもあったわけですが、一方で人間には人間を殺さないという本能があります。
つまり戦争というのは本能に反した行為です。


デーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』によると、米陸軍公認の戦史家として従軍していたサミュエル・マーシャル大佐は、太平洋のマキン島の戦いに参加し、日本軍の夜襲を受けて苦戦した米軍を目撃します。マーシャルは翌日に兵士全員を集めて、グループに分け、上官の批判も含めて自由に話すことを求めました。すると、昨晩ほとんどの兵士は一度も発砲していなかったという事実が明らかになります。
マーシャルはその後、太平洋戦線とヨーロッパ戦線で兵士たちのグループ・インタビューを繰り返し、戦場で銃を撃ったことのある兵士は15~25%しかいないと結論づけます。
マーシャルは1946年の著書において「平均的で健全な個人は人を殺すことに抵抗があり、自分の意志で人を殺そうとしない」と述べました。
米軍はこの研究成果を取り入れて、射撃訓練の標的を人型にするなどの対策を行い、兵士の発砲率を上げたとされます。

ところが、マーシャルが亡くなると、いくつかのマスコミが「マーシャルの書籍に虚偽の疑い」とか「兵士へのグループ・インタビューは一度も行われていない」などと攻撃しました。

これについてもブレグマンが『希望の歴史』で反論を述べています。
グループ・インタビューは実際に行われて、マーシャルはライフル銃を撃ったかどうかを兵士たちにたずねていました。
マーシャルの説は性善説なので、攻撃されたのです。

『希望の歴史』は戦場におけるさまざまなデータも挙げています。
第二次世界大戦の退役軍人への聞き取り調査によると、半数以上が敵を一人も殺していないということです。殺された敵の大半は、ごく少数の兵士が何人も殺したことによるものです。
アメリカ空軍でも、敵機撃墜のおよそ40%は、パイロットの1%未満によるものでした。

こうした発見に後押しされて、過去の戦争についても再調査されました。
南北戦争のゲティスバーグの戦いにおいて、のちに戦場から回収された2万7547丁のマスケット銃を調べると、約1万2000丁の銃には複数個の弾が装填され、およそ半分には弾が3個以上装填されていました。中には23発も装填された銃までありました。
要するに兵士は敵に向かって撃ちたくなかったので、装填する動作を繰り返していたのです(先込め式の銃なので装填にかなり時間がかかる)。

敵を銃撃することよりさらにむずかしいのは人を刺し殺すことです。ワーテルローの戦い(1815年)とソンムの戦い(1916年)で負傷した兵士のうち、銃剣による負傷者は1%以下でした。

では、戦争で死んだ多数の兵士はどのようにして死んだのでしょうか。
第二次世界大戦で死んだイギリス人兵士の法医学的な検査による死因はこのようになっていました。

迫撃砲、手榴弾、空爆、砲弾 75%
銃弾、対戦車地雷原 10%
地雷、ブービートラップ(罠)  10%
爆風、圧死 2%
化学攻撃 2%

要するに砲爆撃、地雷のように、死を直接目撃しなくていい方法でほとんどの兵士は殺されているのです。
戦争映画では敵味方が銃撃し合いますが、そういう場面で死ぬ兵士はきわめて少ないことになります。


戦争は本能に反する行為ですが、勝つと大きな利益が得られるので、これまで行われてきました。
しかし、第二次世界大戦後は、戦争によって領土、植民地、賠償金を得ることができなくなりました。
高度産業社会になって戦争による貿易や投資の中断がもたらす不利益も大きくなっています。
そうすると、戦争をする意味がほとんどありません(例外はイスラエルです。戦争に国の存亡がかかっていますし、戦争で領土も広げています)。

イラク戦争のとき、この戦争はアメリカにとってなんの利益があるのかという議論があり、イラクの原油を売れば戦費はまかなえるだろうなどと言われていました。しかし、そんなことはありませんでした。もし原油を売った利益をアメリカが持っていったら、イラク国民は怒ったに決まっています。

アメリカは戦争がもうからない時代になったことを理解していなかったのです。
ウクライナに侵攻したロシアも同じです。
ロシアの思惑通りに戦争に勝利して、かいらい政権を樹立できたとしても、ロシアに利益はないでしょう。

人類は利益のために本能に反する戦争をしてきたということを理解すれば、戦争を克服する道も見えてくるはずです。

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ロシア・ウクライナ戦争は、ロシアの侵略から始まったので、ロシアが悪いことは明白です。
しかし、無から有が生じないように、無から悪も生じません。
ロシアが悪くなったのにはそれなりの理由があります。

バイデン大統領は3月26日、訪問先のポーランドで演説し、プーチン大統領について「この男が権力の座にとどまり続けてはいけない」と言いました。
これがアメリカはロシアの体制転換を狙っているのではないかと問題になりました。
その後、バイデン大統領自身が「道徳上の憤りを表現しただけで、政策を意味するのではない」と釈明しましたが、発言は取り消しませんでした。

この発言が問題なのは、ロシアとウクライナが停戦交渉をしているさ中の発言だということです。
バイデン大統領はほかにもプーチン大統領のことを「虐殺者」「人殺しの独裁者」「生粋の悪党」とも言っています。
停戦交渉を妨害しようとしているとしか思えません。

バイデン大統領は早い段階でウクライナ戦争に武力介入をしないと言明して、「腰が引けている」などと批判されています。しかし、自分は手を出さない代わりに、火に油を注ぐようなことを言い続けています。


バイデン大統領に限らずアメリカは一貫して「ロシア敵視政策」をとってきました。
冷戦が終わったとき、ロシアは「普通の資本主義国」になりました。ですから、NATOにもEUにも入れていいはずです。
しかし、結局、ロシアはNATOに入りませんでした。
NATO側が門戸を閉ざしたのか、ロシア側に入る意志がなかったのかはむずかしい問題です。どちらも相手に非があったと主張するからです。
しかし、当時のロシアは資本主義も民主主義も未熟で、極貧状態の国でした。西側はどのようにでもロシアを導くことができたはずです。
今日の事態になったのは、西側とりわけアメリカに大きな責任があります。


そもそも冷戦が始まったことについても、オリバー・ストーン監督は『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』において、アメリカとソ連は大戦中に深い絆で結ばれていたので対立する必要はなかった、冷戦はアメリカが望んだものだ、と述べています。
大戦直後は、ほぼ戦禍のなかったアメリカは超大国の足場を固める一方、ソ連は甚大な戦争被害を受けていたので、主導権はアメリカの側にありました。


もっとさかのぼって、アメリカにおいて白人が先住民族、いわゆるインディアンを大量虐殺したのは、インディアンが悪かったのか、白人が悪かったのか、どちらでしょうか。

西部劇といってもいろいろありますが、より昔のものでは、インディアンは奇声を上げながら白人を襲ってくるだけの存在として描かれていました。
また、インディアンは白人を捕らえると頭の皮を剥ぐとされていました。
「頭の皮を剥ぐ」というのがインディアンの残忍さの象徴だったわけです。
しかし、そもそも「頭の皮を剥ぐ」というのは、インディアンを殺すと賞金が出たので、その証拠とするために白人が始めたもので、インディアンはそれをまねたのでした。

なお、アメリカ合衆国では白人はインディアンを殺しながら土地を奪っていきましたが、カナダではインディアンの殺戮というのはほとんどありませんでした。


アメリカは犯罪大国でもあります。
先進国では概して犯罪は減少傾向にあるものですが、アメリカは別で、1970年に35万人ほどだった受刑者は、80年には50万人、90年には117万人、2000年には200万人という恐ろしいスピードで増え続け、14年には230万人を突破しました。

なぜこんなことになるのかということを、Netflix製作の「13th -憲法修正第13条-」というドキュメンタリー映画が明快に説明していました。

この映画はYouTubeで無料で公開されています。



映画の内容を簡単に紹介すると、アメリカには“刑務所ビジネス”というものがあるのです(もっと詳しいことは「なぜアメリカは犯罪大国になったのか」に書いています)。
奴隷解放後のアメリカでは、奴隷に代わる労働力が必要でした。金を払って人を雇うのでは利益が出ないので、受刑者の労働力が利用されました。徘徊や放浪といった微罪で黒人を逮捕して刑務所送りにし、受刑者を働かせたのです。実質的な奴隷制の継続です。警官が黒人を見ると職質したり逮捕したりするのは、このとき以来の“伝統”です。
1980年代以降、刑務所や移民収容施設が民営化され、“刑務所ビジネス”のために犯罪が量産されるようになりました。

警官が黒人を殺す事件が起きると、人種差別だとして「Black Lives Matter」のような運動が盛り上がりますが、一方で、「警官に抵抗した黒人が悪い」という声も上がります。
警官が悪いのか、黒人が悪いのか、どちらでしょうか。


アメリカはまた麻薬大国でもあります。
麻薬の消費者がいるので、麻薬を提供する麻薬犯罪組織が生まれます。
メキシコ、コロンビアなどは麻薬犯罪組織が国家を支配するような巨大な存在になっています。
アメリカは麻薬犯罪組織を取り締まるようにメキシコ政府やコロンビア政府に圧力を加えていますが、ある意味では、アメリカが麻薬犯罪組織をつくっているともいえます。
麻薬を消費する者が悪いのか、麻薬を供給する犯罪組織が悪いのか、どちらでしょうか。


二人が争っているとき、双方の言い分を聞いても、どちらが悪いかわからないことがあります。
たとえば関係がこじれてしまった夫婦の場合を考えればわかります。

しかし、親子の場合は容易に判断できます。
親が子どもを叱っている場合、その言い分を聞くと、いろいろ言うでしょう。「この子は親の言うことを聞かない」とか「嘘をついた」とか「物を壊した」とか「食べ物を粗末にした」とか「行儀が悪い」とか。
子どもの言い分は聞くまでもありません。
自分の子どもを悪く言う親が悪いのです。
「悪い子ども」というのはいません。「悪い赤ん坊」がいないのと同じです。

白人が悪いのか、インディアンが悪いのかも同じです。
白人が悪いのか、黒人が悪いのかも同じです。

力のある者、支配的な立場にある者が「悪」を生み出しているのです。


「悪い子ども」はいませんが、親がいつも理不尽な叱り方をしていると、子どもの性格がひねくれて、ほんとうに「悪い人間」になることがあります。
アメリカや西側がロシア敵視政策を続けているうちに、プーチン政権が独裁化したという面があります。

どんな国でも外国の脅威を感じると、体制を強化するために国民を統制しようとし、独裁制に傾斜します。
その典型が北朝鮮です。異様な独裁制国家が三代にわたって続いているのは、朝鮮戦争が休戦状態で、アメリカ軍と韓国軍と対峙するという緊張状態にずっと置かれているからです。
キューバも同じようなもので、かつてCIAの支援を受けた亡命キューバ人の部隊に軍事侵攻されたことがあり、そのあともアメリカによってずっと強力な経済制裁を受けています。その結果、共産党の一党独裁体制がずっと続き、フィデル・カストロから弟のラウル・カストロへと継承されました(今はミゲル・ディアス=カネルが国家元首)。


現在、バイデン大統領は「民主主義国対権威主義国」という図式を描いて中国とロシアを敵視する政策を進めています。
これは中国の習近平体制をますます独裁化させるだけです。

相手を敵視すると、相手もこちらを敵視します。

世界が平和にならない最大の責任はアメリカにあります。

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