「そんなことしてるとお巡りさんに捕まるよ」などと親が子どもに言うことがよくあります。
子どもを脅すのはよくありませんし、日本人の“お上”意識もうかがえますが、警察は悪いやつをつかまえるものだという常識がありました。
しかし、最近はその常識が通用しないようです。
安倍晋三元首相銃撃事件は、明らかに警察の失態で、当然防がなければならない事件でした。
中村格警察庁長官が事件の責任をとって辞任しましたが、中村氏は安倍政権、菅政権のもとで出世して警察庁長官になった人で、自分を引き上げてくれた安倍元首相を守れなかったのですから皮肉なものです。
中村氏は民主党政権時代に仙谷由人官房長官の秘書官となり、政権交代ののちは菅義偉官房長官の秘書官となり、長く重用されました。現場経験が少ないために警備体制の不備に気づかなかったのではという声もあります。
中村氏といえば警視庁刑事部長時代に、伊藤詩織さんをレイプした容疑の山口敬之氏に逮捕状が発行されたとき、直前に逮捕を止めたことで有名です。山口氏は『総理』という安倍首相ヨイショ本を書き、連日のようにテレビ出演して安倍政権を擁護するコメントをしていました。そういう人間を逮捕しようとしたのですから、現場の捜査員もかなりの覚悟を持っていたと思われます。この逮捕を止めたことで中村氏は安倍首相に評価され、警察庁長官に出世したと見られています。
結果的に山口氏は民事訴訟において最高裁でレイプが認定されましたから、現場の捜査員の判断は正しかったわけで、逮捕を止めた中村氏の判断は責められるべきです。
上に媚びて部下の努力を踏みにじる人間が出世したことで、警察庁全体の士気が低下したということもあるはずです。
なお、安倍元首相が演説しているとき、背後の警備が手薄であったことが、銃撃を許した大きな原因でした。
札幌市で選挙応援演説中の安倍首相にヤジを飛ばした人を警官が取り囲み排除するという出来事があったように、警察は聴衆のヤジやプラカードを排除することに力を入れていて、その分背後の警備が手薄になったのではないでしょうか。
警察は、安倍首相のお友だちの山口氏を逮捕しなかっただけではありません。
モリカケ桜でも誰も逮捕しませんでした。
これは警察というより検察の領分がもしれませんが、たとえば森友問題で国有地の不当払い下げとか公文書改ざんとかで強制捜査して、誰かを逮捕していれば、安倍首相は辞任していたかもしれません。そうなれば、安倍氏の政界での立場もまったく変わっていて、山上徹也容疑者の銃撃の対象にはならなかった可能性があります。
警察は、統一教会についても、一時は霊感商法を取り締まっていましたが、あるときからぱったりと追及をやめました。もし警察が霊感商法からさらには高額献金問題まで手を広げて追及していれば、山上容疑者の家庭も崩壊することはなく、山上容疑者が誰かを殺そうなどと考えることもなかったでしょう。
つまり警察の失策、怠慢、政治家への忖度が積み重なった上に起きたのが安倍元首相銃撃事件です。
その中のひとつでも欠けていれば、安倍元首相の命が失われることはなかったはずです。
山上容疑者の銃撃事件をきっかけに世の中の論調が大きく変わりました。
それに、山上容疑者の境遇に同情する声が意外とあって、ネット上で「減刑」を求める署名運動が起きたり、映画の「ジョーカー」のように英雄視する声があったり、山上容疑者はイケメンだとしてファンになる“山上ガールズ”が出現しているというネット記事があったりしました。
こうした山上人気に対して有識者は「これではテロを肯定することになる。テロはいけないということを繰り返し言うべきだ」と主張しています。
「テロはいけない」というのは絶対的な真理のように主張されていますが、これは完全な思考停止です。状況によってはテロも正しくなります。
たとえば憲法が停止されたナチス独裁下のドイツで、ヒトラー暗殺の企てに対しても「テロはいけない」と言って止めなければならないのでしょうか。
あるいはよくあるアメリカ映画のストーリーで、主人公は町の有力者に商売を台無しにされ、家族をレイプされたり殺されたりするが、その有力者は保安官とつるんでいるので、我が物顔で町を歩き回っている。主人公は正義の怒りを爆発させて町の有力者と保安官を射殺する。観客は喝采を送るところですが、有識者はこれもいけないというのでしょうか。
「テロはいけない」ということが言えるのは、民主主義が機能していて、警察がちゃんと役割を果たしている場合だけです。
日本の警察は、それほどひどくありません。だいたい役割を果たしているといえます。
しかし、統一教会と安倍元首相には手を出さずに、好き放題にさせてきました(おそらくは政治家への忖度からです)。
そのいちばんの被害者が山上容疑者です。
映画なら山上容疑者の銃撃の瞬間に観客が喝采するところです。
山上容疑者に同情が集まるのは当然です。
それから日本の場合、マスコミが完全に警察と検察に従属しているという問題があります。
記者は警察と検察から情報をもらって記事を書くので、警察と検察を批判するようなことはほとんど書きません。
一般人を批判する記事も、民事訴訟を恐れるのか書きません。その一般人が犯罪をしている疑いが濃厚であってもです。
警察が逮捕か家宅捜索に動くと、各マスコミが一斉に記事にします。
警察や検察が政権に忖度して一体化しているのが今の問題です。
警察や検察と政権を分離するには、人事権の問題もありますが、警察や検察が国民を忖度するようになればいいわけです。
国民世論が「なぜあんな悪いやつを捕まえないのだ」と怒れば、警察や検察も政権ばかり忖度していられません。
そして、世論の形成にはマスコミの役割が重要です。
法律が善悪や正義を規定するのではありません。
法律は善悪や正義に基づいてつくられるのです。
善悪や正義の判断においては、警察や検察とマスコミ、ジャーナリズムは対等です。
警察や検察が善悪や正義にもとるとき、マスコミ、ジャーナリズムは自信を持ってきびしく批判するべきです。