村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2022年08月

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「そんなことしてるとお巡りさんに捕まるよ」などと親が子どもに言うことがよくあります。
子どもを脅すのはよくありませんし、日本人の“お上”意識もうかがえますが、警察は悪いやつをつかまえるものだという常識がありました。
しかし、最近はその常識が通用しないようです。


安倍晋三元首相銃撃事件は、明らかに警察の失態で、当然防がなければならない事件でした。
中村格警察庁長官が事件の責任をとって辞任しましたが、中村氏は安倍政権、菅政権のもとで出世して警察庁長官になった人で、自分を引き上げてくれた安倍元首相を守れなかったのですから皮肉なものです。
中村氏は民主党政権時代に仙谷由人官房長官の秘書官となり、政権交代ののちは菅義偉官房長官の秘書官となり、長く重用されました。現場経験が少ないために警備体制の不備に気づかなかったのではという声もあります。

中村氏といえば警視庁刑事部長時代に、伊藤詩織さんをレイプした容疑の山口敬之氏に逮捕状が発行されたとき、直前に逮捕を止めたことで有名です。山口氏は『総理』という安倍首相ヨイショ本を書き、連日のようにテレビ出演して安倍政権を擁護するコメントをしていました。そういう人間を逮捕しようとしたのですから、現場の捜査員もかなりの覚悟を持っていたと思われます。この逮捕を止めたことで中村氏は安倍首相に評価され、警察庁長官に出世したと見られています。
結果的に山口氏は民事訴訟において最高裁でレイプが認定されましたから、現場の捜査員の判断は正しかったわけで、逮捕を止めた中村氏の判断は責められるべきです。

上に媚びて部下の努力を踏みにじる人間が出世したことで、警察庁全体の士気が低下したということもあるはずです。

なお、安倍元首相が演説しているとき、背後の警備が手薄であったことが、銃撃を許した大きな原因でした。
札幌市で選挙応援演説中の安倍首相にヤジを飛ばした人を警官が取り囲み排除するという出来事があったように、警察は聴衆のヤジやプラカードを排除することに力を入れていて、その分背後の警備が手薄になったのではないでしょうか。

警察は、安倍首相のお友だちの山口氏を逮捕しなかっただけではありません。
モリカケ桜でも誰も逮捕しませんでした。
これは警察というより検察の領分がもしれませんが、たとえば森友問題で国有地の不当払い下げとか公文書改ざんとかで強制捜査して、誰かを逮捕していれば、安倍首相は辞任していたかもしれません。そうなれば、安倍氏の政界での立場もまったく変わっていて、山上徹也容疑者の銃撃の対象にはならなかった可能性があります。

警察は、統一教会についても、一時は霊感商法を取り締まっていましたが、あるときからぱったりと追及をやめました。もし警察が霊感商法からさらには高額献金問題まで手を広げて追及していれば、山上容疑者の家庭も崩壊することはなく、山上容疑者が誰かを殺そうなどと考えることもなかったでしょう。

つまり警察の失策、怠慢、政治家への忖度が積み重なった上に起きたのが安倍元首相銃撃事件です。
その中のひとつでも欠けていれば、安倍元首相の命が失われることはなかったはずです。


山上容疑者の銃撃事件をきっかけに世の中の論調が大きく変わりました。
それに、山上容疑者の境遇に同情する声が意外とあって、ネット上で「減刑」を求める署名運動が起きたり、映画の「ジョーカー」のように英雄視する声があったり、山上容疑者はイケメンだとしてファンになる“山上ガールズ”が出現しているというネット記事があったりしました。

こうした山上人気に対して有識者は「これではテロを肯定することになる。テロはいけないということを繰り返し言うべきだ」と主張しています。

「テロはいけない」というのは絶対的な真理のように主張されていますが、これは完全な思考停止です。状況によってはテロも正しくなります。
たとえば憲法が停止されたナチス独裁下のドイツで、ヒトラー暗殺の企てに対しても「テロはいけない」と言って止めなければならないのでしょうか。
あるいはよくあるアメリカ映画のストーリーで、主人公は町の有力者に商売を台無しにされ、家族をレイプされたり殺されたりするが、その有力者は保安官とつるんでいるので、我が物顔で町を歩き回っている。主人公は正義の怒りを爆発させて町の有力者と保安官を射殺する。観客は喝采を送るところですが、有識者はこれもいけないというのでしょうか。

「テロはいけない」ということが言えるのは、民主主義が機能していて、警察がちゃんと役割を果たしている場合だけです。

日本の警察は、それほどひどくありません。だいたい役割を果たしているといえます。
しかし、統一教会と安倍元首相には手を出さずに、好き放題にさせてきました(おそらくは政治家への忖度からです)。
そのいちばんの被害者が山上容疑者です。
映画なら山上容疑者の銃撃の瞬間に観客が喝采するところです。
山上容疑者に同情が集まるのは当然です。


それから日本の場合、マスコミが完全に警察と検察に従属しているという問題があります。
記者は警察と検察から情報をもらって記事を書くので、警察と検察を批判するようなことはほとんど書きません。
一般人を批判する記事も、民事訴訟を恐れるのか書きません。その一般人が犯罪をしている疑いが濃厚であってもです。
警察が逮捕か家宅捜索に動くと、各マスコミが一斉に記事にします。


警察や検察が政権に忖度して一体化しているのが今の問題です。
警察や検察と政権を分離するには、人事権の問題もありますが、警察や検察が国民を忖度するようになればいいわけです。
国民世論が「なぜあんな悪いやつを捕まえないのだ」と怒れば、警察や検察も政権ばかり忖度していられません。
そして、世論の形成にはマスコミの役割が重要です。


法律が善悪や正義を規定するのではありません。
法律は善悪や正義に基づいてつくられるのです。
善悪や正義の判断においては、警察や検察とマスコミ、ジャーナリズムは対等です。
警察や検察が善悪や正義にもとるとき、マスコミ、ジャーナリズムは自信を持ってきびしく批判するべきです。

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FBIは8月6日、トランプ前大統領の別荘をスパイ防止法違反の疑いで家宅捜索し、国家機密文書を押収しました。
普通はFBIから捜査されるだけでその人物はイメージダウンするものですが、トランプ氏は別です。トランプ信者たちは逆にFBIへの憎悪を高めているようです。

アメリカ大統領選挙では、候補者は納税記録を自発的に公表する慣例がありますが、トランプ氏は公表しませんでした(今にいたるも公表していません)。アメリカ人は税金の不正にはきびしいといわれますが、トランプ氏の場合は、このことがほとんどマイナスになりませんでした。
また、トランプ氏は明らかな嘘を数限りなくつきました。ワシントン・ポストによると、大統領在任中の4年間に3万573回の虚偽や誤解を与える主張をしていたそうです。
しかし、いくら嘘をついてもほとんど問題にされませんし、「選挙は盗まれた」という嘘は多くのトランプ支持者が信じました。

どうしてこのようなことが起こるのかというと、トランプ氏の特異なキャラクターに魅せられる人が多いからです。
特異なキャラクターというのは、一言でいえば「カリスマ性」です。
トランプ氏はカリスマ政治家です。

ところが、「トランプ氏はカリスマだ」ということはあまり言われません。
反トランプ派はトランプ氏を愚劣な人間と見なしているので、カリスマとは認めませんし、トランプ派は、自分は理性的な判断でトランプ氏を支持していると思いたいので、やはりカリスマとは認めないのです。
しかし、今やトランプ氏は共和党をほとんど支配し、次期大統領選に立候補するのが確実であり、超法規的存在となっていることを見れば、カリスマであることは明らかです。


トランプ氏のカリスマ性に魅了される人は日本にもいます。
日本で反ワクチンデモを行っている「神真都(やまと)Q」という団体は、トランプ氏を支持するアメリカの陰謀論集団「Qアノン」の日本支部を自称し、地方に土地や建物を購入して共同生活のコミューンをつくる「エデン計画」を進めていて、そこにトランプ氏の銅像を建てるプランもあったということです(『Qアノン支部を自称する「神真都Q」 ワクチン会場“襲撃”で13人逮捕後、離脱者が続出(藤倉善郎)』という記事による)。

「神真都Q」もカルトというべきでしょう。
トランプ氏というカリスマを勝手に崇拝するカルトです。

アメリカの「Qアノン」も、「アメリカは悪魔崇拝主義者と幼児性愛者の集団であるディープ・ステートに支配されており、トランプ氏はディープ・ステートと戦う英雄である」という基本認識なので、トランプ氏を崇拝するカルトといえます。

2020年末、トランプ氏が「選挙は盗まれた」と主張していたころ、日本でも同じ主張をする人たちがいて(ヤフコメに異常に多かった)、トランプ支持デモまでしていました。

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2021年1月17日の福岡のデモに登場した“トランプみこし”(「水木しげるZZ」のツイートより)

彼らは、ドイツで投票機のサーバー押収をめぐって米軍特殊部隊とCIAが銃撃戦を演じて5人死亡したとか、オバマ前大統領が逮捕されたといったデマを互いに言い合って盛り上がっていました。
彼らはどこからこうしたデマ情報を得ているのかと調べると、主に統一教会系「ワシントン・タイムズ」と法輪功系「大紀元(EPOC TIMES)」からであるようです。
法輪功は中国のカルトで、中国を追い出されてアメリカを活動拠点にしています。
また、日本のトランプ支持デモには幸福の科学の人たちも入っていたようです。

つまりトランプ氏のもとには、磁石に引きつけられるようにさまざまなカルトが集まっているのです。
また、カルトとはいいませんが、トランプ氏を支持する中心勢力はキリスト教福音派です。


安倍元首相もトランプ氏ほどではありませんが、カリスマ性がありました。長期にわたって人気を維持し、モリカケ桜のスキャンダルも嘘をつき通してごまかしました。首相辞任後にまた復活しそうなところも似ていました。
そして、安倍元首相のもとには統一教会、日本会議というカルトが集まっていました。


安倍氏の支持者はトランプ氏の支持者でもありました。
2019年5月、トランプ大統領が国賓として来日したとき、大相撲を観戦して退席する際、近くの升席にいた作家の門田隆将氏、評論家の金美齢氏、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と握手するシーンがテレビに映し出され、安倍首相のお友だちだから優遇してもらったと批判されました。それに対して門田氏はブログで、升席は自費で確保したもので、お世話になっている金美齢氏と櫻井よしこ氏を招待しただけだ。トランプ氏が退席する際、思わず「Mr.President!」と声をかけたら、トランプ氏が近づいてきて握手してくれたのだと反論しました。
しかし、SPのついている大統領が一般人と握手するはずがなく、あらかじめ話がついていたに決まっています。
日本の保守派文化人はそこまでしてトランプ氏と握手したかったのです。まるでアイドルと握手したいファンみたいです。



さて、現在日本の政界は、統一教会と自民党との関係が大きな問題となっています。
統一教会は文鮮明・韓鶴子夫妻をカリスマとするカルトです(文鮮明は2012年死亡)。

カリスマとカルトというジグソーパズルのピースがかなりそろいました。これでどういう絵が描けるでしょうか。

トランプ氏や安倍氏やさまざまなカルトの政治思想は共通しています。
家父長制の家族制度を維持することを根幹として、人種差別、LGBTQ差別、移民排斥、タカ派の外交軍事政策、低福祉政策、環境問題軽視などです(アメリカの中絶禁止、日本の夫婦別姓反対など国による違いも少しあります)。
それに、カリスマ性というのは人間的なものなので、国境を超えて人を引きつけます。
ですから、日本の保守派がトランプ氏を崇拝するということも普通に起こります。

そのように考えると、自民党の統一教会に対する態度が理解できます。
自民党の安倍派などの保守派は、統一教会と思想が同じです。
さらに、長年のつきあいで韓鶴子総裁にカリスマ性を感じて、「真のお母さま」「マザームーン」という認識の議員もいるようです。
そうなると、統一教会との関係を清算しますと言わないのは当然です。

保守派の論客も同じです。
統一教会を擁護する人はさすがにいませんが、統一教会への批判をそらすために、「信教の自由」とか「カルトの定義」とか「山上容疑者の思うつぼ」とかさまざまな理屈を駆使しています。

日本の保守派が韓国の教団を擁護するのはおかしな感じがしますが、統一教会は日本でもアメリカでも、さらには国連でも運動をしているので、国際共産主義運動ならぬ「国際保守主義運動」みたいになっています。

それに対して統一教会を批判するのはリベラルな人が多いはずですが、「日本人の献金を吸い上げて韓国に持っていっているのはけしからん」とナショナリスティックな主張をしています。
保守派は韓国の教団を擁護し、リベラルはナショナリスティックな主張をすると、妙なねじれ現象が起きています。

とはいえ、保守派の本質は国家主義ですし、嫌韓が最大の主張ですから、統一教会に対する態度は明らかな矛盾です。
統一教会の問題は、追及すればするほど保守派の矛盾が露呈します。


保守派は統一教会との関係を切るしかありませんが、おそらくそう簡単には切れないでしょう。
統一教会との関係を切ったところで、日本会議に連なる宗教団体もありますし、とりわけ靖国神社もあります。自民党右派はこれらと思想でつながっているので、離れられません。
アメリカの共和党が福音派などの宗教右派と離れられないのと同じです。


そういうことを考えると、これからも政治と宗教の問題は続いていくでしょう。
そして、この問題の最終的解決は政治と宗教を切り離すことしかありません。
宗教は不合理で超現実的なものですが、政治は合理的で現実的なものでなければならないからです。

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私が昔出版した小説がこのたび4冊同時に電子書籍になりました。
アマゾンのサイトを紹介します。












私は最近小説を書いていないので、小説家と名乗るのもためらいますが、一時期は、自分で言うのもなんですが将来を嘱望された小説家だったのです。


『恐怖の日常』は、私の最初の短編集で、オーソドックスなホラーばかりを集めました。ホラーファンなら誰にでも勧められます。

『不潔革命』は、ホラー以外の短編を集めたもので、だいたいはSFですが、ジャンル分けのしにくいものもあります。
表題作は、不潔であることがトレンディでかっこいいとされるようになった世の中を描いています。「性教育の時間」は、子どもに性教育をするのが当たり前になったときの教室の様子を描いています。「最後の戦争」は、人類が戦争のバカバカしさに目覚めて戦争が起こらなくなった未来社会を描きました。このように既成の価値観をひっくり返すのが私の得意とするところです。

『愛の衝撃』は、第二のホラー短編集です。自分の中で力を出しきれていない感じがあり、『恐怖の日常』のようには自信を持って勧められないのが残念です。

なぜ力を出しきれていないのかというと、『フェミニズムの帝国』出版のときのいきさつがあったからです。



『フェミニズムの帝国』は私の最初の、そして唯一の長編小説です。
それまで雑誌にぽつりぽつりと短編を発表していた私が満を持して書き上げたものです。

当時、マルクス主義が思想として力を失い、現代思想にもあまり可能性が感じられなかった中、唯一勢いのあった思想がフェミニズムでした。私は男性ながらけっこうフェミニズムの本を読んでいました。
そうしたとき、ある理由で女性が男性よりも強くなるというアイデアを思いつきました。最初はこれで一本短編が書けるなと思いましたが、強くなった女性が男性を支配する社会全体を描くとおもしろいと考え、長編を構想しました。
大林信彦監督の「転校生」(原作・山中恒)は、個人の男と女が入れ替わる物語ですが、私の構想は、社会全体で男と女の役割が入れ替わるというものです。それには社会の構造や価値観を全部つくらねばなりませんが、そのときにフェミニズム理論、ジェンダー論が役に立ちました。

物語は、近未来の女性優位社会において、男性はおしとやかで従順であることが求められ、女性によって痴漢被害にあったりレイプされたりしているのですが、ほとんどの人はそれを当然のこととして受け入れています。主人公の平凡な男性は、過激な男性解放運動に巻き込まれ、この世界の成り立ちの秘密を探っていくというものです。読者は、女性優位社会のおかしな価値観を笑っているうちに、では、今の男性優位社会の価値観はおかしくないのかと考えざるをえないという仕組みになっています。

ほとんどの男はフェミニズムに反感を持っていますが、私はそういう男でも読める小説を目指しました。おもしろおかしく読んでいくうちに、むずかしいフェミニズム理論がおのずと理解できるというお得な小説です。

『フェミニズムの帝国』が出版されたのは1988年です。その2年前に男女雇用機会均等法が施行され、それまで女性会社員は“職場の花”などと言われ、結婚すれば退職するのが当たり前でしたが、そうした慣習が否定されて、人々は価値観の激変にとまどっているときでした。
そうした中に『フェミニズムの帝国』を出版すれば話題になるのは確実で、私はこれをベストセラーにして世の中の価値観を変えてやろうという意気込みでした。

ところが、担当編集者(男性)はこの小説のことをまったく理解していませんでした。『家畜人ヤプー』みたいなマゾヒズムの小説と理解して、世紀末の退廃的な絵を表紙にした異端文学として出版したのです。
このいきさつについてはこのブログでも書いたことがありますし、今回の『フェミニズムの帝国』の「電子版あとがき」にも書きましたので、省略します。


ともかく、編集者にまったく理解してもらえなかったことがトラウマとなり、「私の書くことは理解されない」という思いが脳に深く刻み込まれて、執筆の妨げになり、だんだんと小説が書けなくなり、今にいたっています。


私はいくつかベストセラー小説を書き、ひとかどの作家として認められたら、次にマルクス主義もフェミニズムも超えた「究極の思想」の本を書くつもりでした。
しかし、「私の書くことは理解されない」という思いがあったのでは、小説よりもさらに思想の本は書けません。
そうして30年余りがたちました。
さすがにトラウマも癒えてきて、なんとか「究極の思想」の核心部分はすでに書き上げました。

「道徳観のコペルニクス的転回」というブログをお読みください。

今の知の枠組みを根底からくつがえす思想であることを理解してくれる出版社があれば出版したいと思います。


今回4冊が電子書籍化されましたが、2015年に KADOKAWA より電子書籍化された『夢魔の通り道』というホラー短編集もあるので、お知らせしておきます。




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統一教会と自民党のずぶずぶの関係に対して国民の怒りの声がわき上がっていますが、この問題を追及するメディアと追及しないメディアとがはっきり分かれています。

テレビでは、日本テレビとTBSが熱心に追及していますが、NHK、フジテレビ、テレビ朝日はまったくといっていいほど統一教会問題を取り上げません。
週刊誌はどこも熱心に追及していますが、新聞はどこも不熱心です。

どうしてこういう違いが出るのかというと、安倍長期政権の呪縛にいまだにとらわれたメディアがある一方、呪縛から逃れたメディアが出てきたからです。


第二次安倍政権は、長く続くうちに政権を安定させるシステムを構築しました。
早い話がマスコミと警察、検察をコントロールできる体制をつくったのです。

テレビ局は、放送法に「政治的に公平であること」という規定があるので、もともと政府がコントロールしやすく、菅義偉前首相や高市早苗自民党政調会長がテレビ局を脅すのを得意としていたので、ほぼ政権批判を封じ込めました。
新聞は、もとからたいした政権批判はしていませんでしたが、2019年10月の消費税増税のときに新聞業界は軽減税率適用の恩恵を受けたので、さらに政権批判ができなくなりました。政権はいつでも「軽減税率の適用をやめるぞ」と脅すことができるからです。
新聞は論説などで政権批判はしますが、政権の痛いところはつきません。
政権の痛いところをつけるのは、「週刊文春」と「しんぶん赤旗」ぐらいです。

そして、安倍政権は警察と検察もコントロールすることに成功しました。
伊藤詩織さんをレイプした山口敬之氏に逮捕状が発行されたとき、警視庁の中村格刑事部長が逮捕直前に逮捕をやめさせたのが典型的な例です。山口氏は『総理』という安倍ヨイショ本を書いて安倍首相とべったりでした。この経緯は週刊誌が書きましたが、中村刑事部長は出世して、現在は警察庁長官です。つまり安倍政権は政権の言いなりになる警察官僚を引き立ててきたのです。
モリカケ桜では警察も検察も動きませんでした(籠池夫妻だけが逮捕、起訴されました)。
ですから、安倍首相は野党からいくら追及されても、見え見えの嘘をつき続けることで逃げきれたのです(野党も世論を喚起するような追及ができなかったという問題があります)。

独裁政権は必ずマスコミ、警察、検察、裁判所をコントロールしています。プーチン政権や習近平政権を見ればわかります。
安倍政権も独裁政権と同じシステムを構築したわけです。
ほんとうの独裁政権は、政敵を逮捕、投獄しますが、安倍政権はそこまでやらないので、ソフト独裁システムというところです。

このソフト独裁システムはきわめて有効だったので、安倍政権はどこまでも続きそうでしたが、コロナウイルスと安倍首相の大腸には有効でなかったので、安倍政権は崩壊しました。


安倍政権から菅政権に代わっても、政権がマスコミ、警察、検察をコントロールするシステムはそのままでした。安倍政権下で菅官房長官と安倍首相は一心同体でしたから、当然です。

菅政権は日本学術会議の6人の会員を任命拒否し、問題となりましたが、この6人は政権批判をしていた人たちです。人事権を行使することで政権批判の学者を黙らせようとしたわけです。ただ、このやり方は官僚には有効ですが、学者にはあまり効かないので、こじれました。



問題は、岸田政権になってどう変わったかです。
岸田首相はリベラルですから、独裁政権みたいなことはしたくないかもしれません。
しかし、マスコミ、警察、検察をコントロールするシステムがあるなら、そのまま使いたいと思っても不思議ではありません。
今のところ岸田首相がどうするつものなのか、よくわからないという状況です。

それに、安倍政権がつくり上げた独裁システムは、安倍元首相が亡くなった今も機能するのかという問題があります。
安倍元首相は首相の座を去るとすぐに元気を取り戻し、その発言は影響力を持ちました。いずれ第三次安倍政権ができるかもしれないという空気もありました。そういう状況では独裁システムは機能していたでしょう。
しかし、安倍元首相が亡くなると、カリスマ性も求心力もなくなりました。
官僚に対しては慣例にない左遷人事を行って恐怖支配をし、マスコミに対しては報復をにおわせて恫喝をするということが独裁システムの基本ですが、それを行える非情な人間がいるのかという問題があります(菅前首相は行えますが、カリスマ性がありません)。

ですから、今は独裁システムが機能しているのか機能していないのかわからなくて、みんな手探りしている状況です。


日本テレビの「ミヤネ屋」は大阪の読売テレビが制作していて、TBSの「ゴゴスマ」は名古屋のCBCテレビが制作しています。政権の圧力がかかりにくいということがあるかもしれません。
「モーニングショー」はテレビ朝日の制作です。最初のころは積極的に統一教会問題を取り上げていましたが、あるときに政権から圧力がかかって、それからまったく取り上げなくなったと言われています。
日本テレビとTBSは、「ミヤネ屋」と「ゴゴスマ」を先頭に押し立てて、今ではニュース番組全般で統一教会問題を積極的に取り上げています。
独裁システムに確実にほころびが見えてきました。


この背景にはネットの論調の変化もあると思われます。
これまではネットではネトウヨがかなりの力を持っていました。
ところが、統一教会は「韓国はアダム国、日本はエバ国」などというとんでもない反日教義を有する韓国の宗教なのに、ネトウヨは統一教会をまったく批判しません。これによってネトウヨは愛国者でないことがバレバレになって、その主張にまったく力がなくなりました。
安倍元首相殺害以降、ネトウヨが存在感を示したのは、朝日新聞が国葬批判の川柳を多数掲載したことに抗議したときくらいです。
ネトウヨに限らず産経新聞や右翼雑誌に寄稿しているような保守論客も統一教会批判をほとんどしていないので、信用を失っています。
日本テレビとTBSが統一教会問題を積極的に取り上げているのも、ネットの後押しがあるからでしょう。


今後、安倍政権時代に築かれた独裁システムがどうなるかが最重要問題です。
岸田首相がカギを握っていますが、今のところ態度がはっきりしません。おそらく統一教会問題が騒がれることで清和会(安倍派)が弱体化することを期待して、静観しているのでしょう。
中村格警察庁長官は、安倍元首相殺害事件を防げなかった責任をとって辞任する見通しと報じられています。
岸田首相が独裁システムを使う気がなければ、独裁システムは解体され、日本の政治は正常化されます。
岸田首相を動かすようなネットの世論が必要です。

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近ごろの若い人は元気がなく、人づきあいに消極的です。
もっとも、これは今に始まったことではありません。

1970年代半ば、私の実家では庭の一角にアパートを建て、アパート経営を始めました。すぐ近くに予備校があったので、予備校生(浪人生)専用のアパートにして、必ず一年で出ていってもらうことにしました。何年も居座る人がいてはアパートの雰囲気が悪くなると考えたからです。
つまり一年ごとに入居者(たいてい18,9歳)がすべて入れ替わるのです。
そのころ私は実家を出ていましたが、母親が「一年ごとに子どもたちが目に見えておとなしくなっていく」と言ったのが気になりました。
最初のころの入居者は、互いの部屋を行き来して友だちづきあいをし、ひとつの部屋に集まって話し込んだりして、騒がしかったが、年々みんなおとなしくなって、互いに交流せず、ずっと自分の部屋にこもるようになったというのです。

その変化が一年ごとにはっきり見えるというのが驚きでした。そんなにはっきりと変化していけば、十年、二十年たてば大きな変化になるはずです。


私は三十代半ば、日本ファンタジー大会(昔は日本SF大会以外にそういうのがあった)に出たのがきっかけで、SFやファンタジーのファンとつきあうようになり、あるとき食事会だか飲み会だかが行われました。私は酒を飲んだらみんな激しい文学論を戦わせるのだろうなと想像していたら、みんなあまり酒を飲みませんし、激しい議論もしないので、拍子抜けしました。
メンバーは平均的に私より十歳ぐらい若い感じでした。私は学生時代も会社員時代ももっぱら同年代とつきあっていたので、若い世代と飲み会をするのは初めてでした。“若者の酒離れ”は当時から言われていましたが、熱い議論をしないということに世代の差を痛感しました。

それから三十年余りたちました。若い世代はさらにおとなしくなり、人づきあいに消極的な傾向も強まっています。

「若い世代は元気がなく、人づきあいに消極的」というのは私個人の感想なので、客観的なデータで示したいところですが、これが意外とむずかしいことです。
暴走族の数がへり続け、今ではほとんど絶滅危惧種になっているというのが象徴的かもしれません。
博報堂生活総研が1998年から毎年実施している「生活定点」という調査があって、その中から「友人は多ければ多いほどよいと思う」と回答した人の割合の推移がグラフで見られます。
このグラフは、友人の数がへっていることを反映していそうです。

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6月に発表された2022年版の「男女共同参画白書」によると、20代男性のおよそ7割、女性のおよそ5割が「配偶者・恋人はいない」と回答し、「これまでデートした人数」を聞いた回答では20代独身男性のおよそ4割が「0人」と答え、“若者の恋愛離れ”として話題になりました。
これが話題になるということは、多くの人が「今の若者は人づきあいに消極的」という印象を持っていて、先行きを案じているからでしょう。


いつの時代も、生まれてくる赤ん坊は同じです。
「若い世代は前の世代よりも元気がなく、人づきあいに消極的」ということがもしあるならば、それは環境の変化にによって説明できなければなりません。

私たちの世代は、親が戦争を経験していて粗暴で、時代も戦後の混乱を引きずっていました。
ベビーブーマー世代でもあり、同世代での競争が激しく、狭い教室に多数が押し込められるというストレスもありました。この世代は、ベトナム戦争があったこともあって、世界的に“若者の反乱”を起こしました。
つまりベビーブーマー世代が元気(乱暴?)だったのには理由があります。

世の中が落ち着いてくると、若い世代も落ち着いてくるのは当然です。
「若い世代は元気がない」というのは、前の世代が過剰に元気だったのが正常化してきただけともいえます。
ただ、最近は元気のなさが行き過ぎて、人づきあいに関しても消極的が行き過ぎて、コミュニケーション障害という言葉が使われるようになっています。

もっとも、これも時代の大きな変化がもたらしたものです。
たとえば少子化が進んで一人っ子が多くなり、子どもの遊び場も少なくなったので、若い世代のコミュニケーション能力が発達しないのは当然です。
インターネットの普及、コンビニ、スーパーマーケット、ファストフード店など会話の少ない店舗が増えたことなど、さまざまな要素も関係しているはずです。
ですから、そう簡単に改善できることではありません。

ただ、子育ての間違いに原因のあることもあります。それはすぐにでも改善できます。


近ごろは赤ん坊の泣き声がうるさいとか、幼稚園の子どもの声が近所迷惑だとか、公園で子どもの遊ぶ声がうるさいといった苦情が多いので、子どもはつねに親や保育士や教師などから「静かにしなさい」とか「おとなしくしなさい」とか「行儀よくしなさい」などと言われています。そんな育てられ方をしたら、おとなしい子、つまり元気のない子になるのは当然です。
だいたい赤ん坊が泣いたり子どもが騒いだりするのは自然なことです。
「公共の場で子どもが騒ぐのはよくない」と言う人がいますが、公共の場というのは子どもも年寄りもいられる場です。子どもが騒いだときに排除していいのは、公共の場ではなくプライベートな場です。

昔は「子どもは元気がいちばん」と言ったものですが、最近は聞きません。
子どもが元気であれば、なにも問題はありません。元気でないなら、体調が悪いか、いじめなどの悩みがあるかですから、そのときに対処すればいいのです。

なお、「おとなしい」というのは、漢字で「大人しい」と書くように、大人のようであることを意味します。子どもに「おとなしくしなさい」と言うのは、子どもの正常な発達を妨げる行為です。


コミュ障が増えるのも、子育ての間違いに原因がある場合があります。

たとえば次の記事がわかりやすい例です。
ママ友の子が”大暴れ”!?ママ友に連絡すると→「衝撃の返信」に絶句!その後現れた姿に激怒した…
皆さんの周りに、ちょっと厄介なママ友さんはいませんか? ママ友付き合いは必要不可欠なので大変ですよね…。 今回は、そんな皆さんから集めたママ友エピソードをご紹介します。
(中略)

子どもが幼稚園児の頃、同じ幼稚園に通う、やんちゃで有名な兄弟が公園に遊びに来ていました。 兄弟げんか始まると、だんだんエスカレートして他の子の自転車やおもちゃを投げつけ合ってけんかするなど手に負えなくなってきました。 兄弟のママに電話をして状況を伝え、公園に来て欲しいと話したところ「いつものことだから放っておいて」と言われて絶句。 周囲の子も巻き込まれてしまいそうで危なかったので、その場にいたママ達で何とか収めました。 兄弟のママは、けんかが収まってしばらくしてからのんびり登場し、こちらへの謝罪やお礼も一切なく「何てことなかったじゃない」という表情ですぐ家に帰ってしまいました。 (54歳/主婦)

こんなママ友だと距離を取って接したいですよね…。 狭いコミュニティだからこそ、付き合う人は選びたいと思えるママ友体験談でした。 ※こちらは実際に募集したエピソードをもとに記事化しています。
https://trilltrill.jp/articles/2733049

昔から「子どもの喧嘩に親が出る」という言葉があって、子どもの喧嘩に親が出るのは愚かな行為とされています。
しかし、最近この言葉は死語と化しているようです。この記事も、子どもの喧嘩に親が出るのを当たり前のことと見なしています。

子どもが喧嘩するのは自然なことです。というか、夫婦喧嘩や戦争があるように、おとなになっても喧嘩をします。ですから、たいせつなのは喧嘩に対処する能力を身につけることです。
親が喧嘩に介入しては、その能力が身につきません。

親は子どもの喧嘩をずっと見ていて、ケガをしそうになったときだけ介入すればいいのです。
このやんちゃな兄弟も、放っておけばいずれ喧嘩はやめます(よく喧嘩しているようなので、家庭にストレスの原因があるのかもしれません)。

何度も喧嘩をすれば、「ここまでやると相手は怒り出す」という加減がわかってきますし、どんな喧嘩でも収まるということもわかります。
しかし、今は公園の遊び場や保育園などでおとなが喧嘩を止めているので、子どもはあまり喧嘩の経験がありません。人と深くつきあうと喧嘩になる可能性も増えるので、喧嘩を回避するために表面的なつきあいをする傾向が強まったのではないでしょうか。

若者のコミュ障は、おとなや社会がつくりだしたものです。

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