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経済学は自己の利益の最大化を目指す「合理的経済人」という人間観を土台にした学問だとされます。
私はそのことを知ったとき、「『人はパンのみにて生くるにあらず』というのに、パンのことだけか」と思ったのを覚えています。
パン以外の、幸福とか生きがいとかは眼中にないのかと思いましたし、なによりも利益追求は人間性の一部でしかないだろうと思いました。

このことには経済学者も引け目を感じているようで、利益以外の面、具体的には倫理や道徳をなんとかして経済学と結びつけようとしてきました。
その代表的なものがマックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。プロテスタントの禁欲的精神が勤勉や貯蓄となって資本主義の発展につながったという逆説的なことを述べた本で、まさに経済と倫理を直結させています。

渋沢栄一は『論語と算盤』という本を書いていて、新一万円札の顔になるということから、改めて注目されています。『論語』の精神を経営に生かすということを述べているので経営学の本というべきですが、「道徳と経済の合一説」ということも主張しています。

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの『経済学と倫理学』という本も、タイトルそのままに経済学と倫理学の関連を論じています。

しかし、このような経済学に倫理学を結びつけようとする試みはうまくいっていません。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にしても、プロテスタントの国でなくても経済発展する国はいくらでもあることがわかって、最近はあまり評価されていません。


そこで、最近注目されているのがアダム・スミスです。
アダム・スミスは最初に『道徳感情論』という倫理学の本を書いて高く評価され、その次に『国富論』という経済学の本を書きました。
今ではアダム・スミスといえば『国富論』で知られ、“経済学の父”とされますが、『道徳感情論』のほうはすっかり忘れられています。

スミスは生涯にこの二冊しか本を書いていません。どちらの本もスミスは死ぬまでに何度も改訂していました。
スミスの中で経済学と倫理学は結合していたはずです。





スミスは『道徳感情論』で、道徳の根拠として人間の感情を挙げました。
人間には他者に共感する性質があり、他者の喜び、悲しみ、怒りなどの感情を自分のことのように感じることができるといいます。しかし、人間はすべての感情に共感するわけではありません。ささいなことで激しく怒っている人を見れば、共感することはありません。つまり他人の感情に是か非かという評価を下しています。
ということは、自分もまた他人から評価されているわけです。人間は誰でも他人からよく評価されたいので、そのようにふるまおうとします。しかし、こちらの人によく評価されると、あちらの人から悪く評価されるということもあります。そのような経験を積むうちに、自分と他人を公平に判断する裁判官のような第三者を胸中につくることができるとスミスは言います。この「公平な観察者」によって人間は公平な判断が下せるというわけです。
つまり人間は公平な判断ができ、それによって公平な法律をつくり、秩序ある社会をつくってきたということです。


スミスの思想はイギリス経験論に分類されます。
スミスと同じスコットランド出身のデイヴィッド・ヒュームは、人間の本性(human nature)に道徳の根拠があるとしました。
スミスはより具体的に人間の感情(sentiments)に道徳の根拠があるとし、しかもかなり論理的に説明したので、これが世の中から評価されました(この説はチャールズ・ダーウィンにも影響を与えました。感情は人間と動物に共通しているので、進化論にとって好都合だったからです)。



スミスは次に『国富論』を書きましたが、このときもまったく同じ人間観でした。つまり公平な判断ができる人間を前提としています。
同じ人間観なのに、『国富論』は歴史的名著となり、『道徳感情論』はほとんど忘れられてしまったのはどうしてでしょうか。

まずひとつ言えることは、「公平な人間」観は間違っていたということです。
たとえば日本は韓国と竹島の領有権を巡って争い、中国とは尖閣諸島の領有権を巡って争っています。これらにおいて、日本人はつねに日本に有利な主張をし、韓国人も中国人も自国に有利な主張をしています。誰も「公平な判断」はしません。
人類は数えきれないほど戦争をしてきましたし、愛し合って結婚した夫婦も数えきれないほど夫婦喧嘩をします。「公平な判断」ができないからです。

人間は利己的です。しばしば公平の基準を越えて不当に利己的にふるまい、争いを引き起こします。
スミスは人間性を買いかぶりました。
もっとも、それはスミスだけではありません。西洋の倫理学はすべてそうです。
プラトンは「善のイデア」ということをいい、アリストテレスは「最高善」ということをいい、ソクラテスは「徳」をいいました。カントも「最高善」といっています。
人間は努力して「最高善」を目指すべきであるというのが倫理学の基本です。
しかし今、倫理学は見向きもされない学問です。図書館や大型書店の倫理学の棚の前にはいつも人けがありません。
ですから、『道徳感情論』が忘れられてしまったのは当然です。

むしろ問題は、間違った人間観をもとにしている『国富論』がなぜ成功したかです。
これは対象を経済活動に限定したことに理由があります。

人間は不当に利己的にふるまう傾向があるといっても、公平の客観的な基準がある場合は別です。不公平なふるまいをすれば周りから非難されます。
経済活動はだいたい客観的な基準に基づいて行われます。物々交換の時代にも、物の個数や重さを互いに確認して取引したはずです。貨幣ができてからは、物だけでなくサービスの価値も客観化できるようになりました。
そして、株式市場や競り市のような公開の場で取引が行われれば、公平にふるまわざるをえません。

スミスは、人間が公平にふるまうので「見えざる手」がうまく機能すると考えていました。
しかし、株式市場のような場でも、人間は隙あらばインサイダー取引や不正な相場操縦行為をしようとしますし、あらゆる経済活動の場で詐欺や不正が行われる可能性があります。
そのため警察、証券取引等監視委員会、国民生活センターなどの「見える手」がつねに不正を排除することで経済を回しているのが現実です。

スミスの説は「夜警国家論」ともいわれます。
しかし、現実には社会にはさまざまな問題が生じて、警察だけでなく行政も肥大化しています。人間は公平でないからです。

ただ、ルールが決まっていて、衆人環視のもとで経済活動が行われれば、人間は公平にふるまいます。
そして、公平な市場において価格が決定されれば、価格メカニズムにより商品、資本、労働、土地が適切に配置されます。
この価格メカニズムについての理論がすばらしかったので、人間観が間違っていたにも関わらず『国富論』は高く評価されたのです。


ただ、スミスの「公平な人間」観は間違いだと言い切ってしまうのも違うかもしれません。
前回の「『性善説対性悪説』を終わらせる」という記事に書いたことですが、人間には善人の面と悪人の面の両面があります。
人間は血縁者と親しい人間には利他行動をします。したがって、共同体の中では公平な人間としてふるまうといえます。
ですから、親密な人間を相手にして単価の安い商品を扱うなら、性善説を前提としたビジネスが可能です。
しかし、今の資本主義社会では、ビジネスで扱う金額が大きく、広範囲な人間を取引相手とするので、不正をする可能性がきわめて高くなります。
人間を公平にふるまわせるには監視と罰則が必要です。


これまでのことをまとめます。
従来の倫理学はまったく価値のないものです(私は「天動説的倫理学」と呼んでいます)。
スミスの『道徳感情論』もそれと同じで、「公平な人間」というありえない人間観を提起したので、今ではほとんど忘れ去られました。
『国富論』も同じ人間観ですが、経済活動は監視しやすいために人間観の間違いはあまり問題にならず、価格メカニズムに関する経済理論が優れていたために歴史的名著となりました。

なお、経済学と倫理学を結びつけようという試みがすべてうまくいかないのは、倫理学が根本的に間違っているからです。
これまで経済学が人文・社会科学の中で比較的成功した学問であったのは、倫理学を完全に切り離していたからです。
経済学と倫理学を結合したければ、倫理学を根本的に変革しなければなりません。