S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像
S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像


バンクシーの「退化した議会」という絵画が13億円で落札されたというニュースがありました。
イギリス議会とおぼしいところに人間の議員ではなくチンパンジーがずらりといるという絵画です。
政治風刺の意図がわかりやすすぎてどうかという気もしますが、チンパンジーの姿がリアルでおもしろいので、高額で落札されたのは納得です。

その絵をこのブログに張るわけにはいかないので、代わりにバンクシーのストリートアートの写真を張っておきました。
「退化した議会」を見たい人は次で見てください。

バンクシー 退化した議会の画像

この絵を見て、不愉快に思う人もいるでしょう。バンクシーは政治や社会を批判する意図で芸術活動をしているので、当然です。
しかし、「バンクシーの絵は不愉快だから公開するな」と主張する人がいても、そんな人を相手にする必要がないのも当然です。


ピカソというと、「あんな絵のどこがいいかわからない」という人がいます。
今はピカソの評価が定着したので、そういう人は少なくなりましたが、昔はいっぱいいました。
抽象画についても、「わからない」という人がいっぱいいます。

「わからない」という人をわからせようと説得するのは無意味です。
芸術は、理屈で理解するものではないからです。

「ピカソの絵はわけがわからんから、ピカソの展覧会なんかやめろ」と主張する人はまずいないでしょうが、「バンクシーの『退化した議会』は英国議会への冒涜だから、公開するな」と主張する人は、もしかしているかもしれません。
そんな人を説得しようとするのもむだというものです。


展示中止になっていた「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が10月8日にも再開されそうですが、それについて「コールセンター」がつくられるそうです。

【あいちトリエンナーレ】アーティストの「コールセンター」が誕生。電凸抗議を作家が直接聞く。

コールセンターをつくる高山明氏は、演劇とパフォーマンスのアーチストなので、コールセンター自体がアーチストとしての活動になるのかもしれませんが、基本的にこういうことで話し合っても無意味ではないかと思います。

「表現の不自由展」に文句をつけてきた人は、芸術に意見が言いたいということではなく、単に政治的主張をぶつけてきただけでしょう。
これに対応すると政治論議になってしまいます。
また、芸術作品として、「作者の意図はこうです」などと説明しても説得できないでしょうし、鑑賞の自由を制限して、芸術のあり方に反します。


そんなむだなことをしなくてもいいように、「表現の自由」があります。「表現の自由」を盾にすれば、議論する必要はありません。

そもそも「表現の不自由展」開催に反対する人の論理はあまりにもお粗末です。

たとえば、ヤフーニュースにも載った『「表現の不自由展」は税金を使った“日本ヘイト” 「昭和天皇の写真が焼かれる動画に国民は傷付いた」竹田恒泰氏が緊急寄稿』という記事で、竹田氏は「国民は傷ついた」と言いますが、国民の心はひとつではありませんし、見て傷つくような人は展覧会に行きません。
竹田氏は「昭和天皇の写真が焼かれる動画は『日本ヘイト』だ」とも言っていますが、勝手な決めつけです。それに、「ヘイト」という言葉を「ヘイトスピーチ」と混同させる形で使うのも不適切です。

「あいちトリエンナーレ2019」に国の補助金が出ていることから、「公金をもらう以上制限を受けるのは当然だ」という意見もありますが、公金というのは恩恵として下されるものではありません。文化芸術基本法と文化芸術推進基本計画には、「文化芸術の多様な価値」を発展させ、「文化芸術立国」を目指すことがうたわれていて、それを実現するための補助金です。自由な環境がないと文化芸術は発展しません。

「表現の不自由展」開催に反対する人は、政治を芸術の上に置いている人です。
政治が芸術を支配すると、社会主義リアリズムやプロレタリア文学やナチスの退廃芸術批判や日本の戦意高揚芸術のように、ろくなことになりません。

政治を芸術の上に置いている人も、広い意味で「芸術のわからない人」です。

私もすべての芸術がわかるわけではありませんが、自分のわからないものを否定したり公開するなと主張したりはしません。

バンクシーの「退化した議会」を見て「これは英国議会への冒涜だ」という人や、ピカソの「泣く女」を見て「こんなものは芸術ではない」という人や、「『表現の不自由展』は日本ヘイトだ」という人の声が世の中を支配するようになると、芸術の進歩もなくなるので、そんな声は無視するしかありません。