大阪府で成立した国旗国歌条例(こんな名前ではありませんが、めんどくさいので)をきっかけに、国旗国歌問題を論じてきましたが、ほんとはこういうことはあまりしたくありません。というのは、これは宗教問題でもあるからです。
 
たとえば官邸で記者会見があるとき、入室した官房長官はまず国旗におじぎをします。東京都の入学式・卒業式では、壇上に演者が現れると、まず正面に張られた国旗におじぎをします。こうした習慣の意味を海外の人にどう説明すればいいのでしょうか。いちばん手っ取り早いのは、これは「国旗崇拝教」の儀式です、ということです。
 
しかし、これは正しくありません。実は官房長官にしても、入学式・卒業式で壇上に立つ人にしても、おそらく国旗を崇拝してはいないからです。
では、どう説明すればいいのでしょう。おそらくこういうふうにいうしかないと思います。
「日本では『国旗崇拝させ教』が猛威をふるっていて、彼らの決めた儀式に従わないと攻撃されるのです」
こういえば、日本にもイスラム原理主義みたいなものがあるのかと納得してくれるかもしれません。
 
「国旗崇拝させ教」という宗教の存在は一般には認知されていませんが、日本人は神社に参拝し、仏教による葬式をあげながら自分は無宗教であると考える国民ですから、当然ではあります。
 
「国旗崇拝させ教」によって国旗崇拝の儀式を強制される人たちは、その当然の結果として、国旗嫌いになっていきます。昔、国民の祝日は旗日ともいわれるぐらいで、多くの家が国旗を掲げました。しかし、今では祝日に町を歩いてもまず国旗を見かけることはありません。逆に交番に国旗が掲げられているのを見て、今日は祝日だったのかと気づくぐらいです。また、昔はオリンピックで日の丸が揚がるのを見ると日本人としての誇りを感じるという声がよく聞かれましたが、今そういう声は聞かれません。
 
そもそも、「国旗崇拝させ教」の信徒(教祖?)である橋下徹知事や石原慎太郎知事、産経新聞や読売新聞の記者や論説委員は、素朴に国旗を崇拝するような心の持ち主とは思えません。
では、「国旗崇拝させ教」の目的とはなんでしょうか。それは、国旗崇拝を強制するといういやがらせそのものにあるのではないかと思われます。
世の中には、人の幸せを願うのではなく、人を不幸にすることで少しでも自分が浮かびあがろうとする人がいます。そういう人に支持されるのが「国旗崇拝させ教」です。